(2021年10月11日)
「南日本新聞」は鹿児島県の地方紙。発行部数は25万部を超えるそうだ。九州の地方紙としては西日本新聞に次ぐ規模だという。そのデジタル版の昨日(10月10 日)11:03の記事を知人から紹介された。おそらくは、本日の朝刊記事になっているのだろう。
https://373news.com/_news/photo.php?storyid=144583&mediaid=1&topicid=299&page=1
タイトルが長文である。「教室で直された兵隊さんへの手紙。『元気にお帰りを』が『立派な死に方を』に。国民を死へ誘導した教育。今思えば『洗脳』としか言いようがない〈証言 語り継ぐ戦争〉」というもの。
内容は、87才女性の戦時の学校生活を回想した貴重な証言。「兵隊さんに、立派な死に方を」といえば靖国問題だ。教育や靖国や戦争に関心を持つ者にとっては見過ごせない記事。このような戦争体験を語り継ぐ努力をしている地方紙に敬意を表したい。
証言者は、霧島市隼人町の小野郁子さん(87)。「戦争中の学校教育を『死ぬための教育だった』と振り返る」と記事にある。
最初に、今年戦後76年目の夏に詠んだという、この人の2句が紹介されている。
「少年の日の夢何処(いずこ)敗戦忌」
「死のみちを説きし学舎(まなびや)敗戦忌」
「死のみちを説きし学舎」という言い回しに、ドキリとさせられる。
以下、記事の引用である。
「43年4月、家族で(鹿児島県内)牧園町の安楽に引っ越した。中津川国民学校に転校。4年生だった。
44年からは町内の全ての国民学校に軍隊が配置され、教室が宿舎になった。中津川には北海道部隊と運搬用の馬、「農兵隊」という小学校を卒業したくらいの少年の一団がやって来た。九州に敵が上陸する時に備えた戦力の位置づけだった、と戦後になって聞いた。
当時、私たちの一日は次のように始まった。ご真影と教育勅語を安置する奉安殿前に整列。まず皇居の方角に、次に奉安殿に向かって最敬礼。その後、校長先生が「靖国神社に祭られるような死に方をしよう」といった話をした。似たような言葉を、日に3度は聞いた。
授業らしい授業はほとんど無くなっていたが、教室でみんなと戦地の兵隊さんに手紙を書いた日のことをよく覚えている。
「国のためにいっしょうけんめい戦って、元気でお帰りください」という文を「天皇陛下のために勇ましく戦って、靖国神社に祭られるようなりっぱな死にかたをしてください。会いに行きます」と書き直すよう指導された。どんな死に方か分からなかったが、言われるがまま書き直した。今思えば「洗脳」としか言いようがない。
国民を死へと誘導した教育の中心に、靖国神社があったのは事実だ。平和の実現のために選ばれたはずの政治家が靖国神社に参拝する姿を見ると、「もっと歴史を知ってほしい」と憤りを感じる。
授業の代わりに割り当てられていたのが、食料増産のための開墾や、戦死者や出征の留守宅の奉仕作業だった。真夏のアワ畑の雑草取りのきつさは言葉にできない。
農作業中に敵のグラマンに襲われたことが記憶するだけで3回ある。44年の夏が最初だった。犬飼滝の上にある和気神社右手の学校実習地で、サツマイモ畑の草取りをしていた。午前10時ごろ、見張り役の児童が「敵機襲来」と叫んだ。顔を上げると、犬飼滝の東の空にグラマン1機が見えた。
機銃掃射が繰り返され、私は畑の脇の小さな杉の根元に頭を突っ込んで、ただただ震えていた。近くの旧国道を通り掛かった女性が即死し、はらわたが飛び散った。その道は、後に高校の通学路に。血の跡が残るシラス土手の脇を通るたび胸が痛くなった。
軍歌を歌わなくてよくなり、自由に好きな絵が描けるようになった時、改めて戦争が終わったと実感した。」
特殊な立場にある人の特殊な体験ではない。おそらくは、当時日本中の国民学校の学校生活がこうだったのだろう。「死のみちを説きし学舎」だったのだ。
「生きろ」「生きぬけ」「生きて帰れ」という呼びかけは、人間としての真っ当な気持の発露である。が、10才の国民学校4年生に教えられたことは、「国家のために死ね」「天皇のために勇ましく戦って、靖国神社に祭られるようなりっぱな死にかたを」という、「死のみち」であった。
国民を死へと誘導した教育の中心に、天皇があり靖国神社があった。恐るべきことに、「今思えば「洗脳」としか言いようがない教育」が半ば以上は成功していた。「天皇のために死ぬことが立派なことだ」と本気で思っていた国民が少なからずいたのだ。天皇も靖国も、敗戦とともに本来はなくなって当然の存在だったが、生き延びた。そして、さらに恐るべきことは、あの深刻な洗脳の後遺症が、いまだに完全には払拭されていないことなのだ。
(2021年9月6日)
本日、衆議院議員会館の一室を借りての「西暦表記を求める会」世話人会。私も、この会の世話人の一人として、リアルに出席。肩の凝る会議ではない。半分は雑談が楽しい。
「西暦表記を求める会」は小さな市民団体だが、「変えるのは私たち! 全ての公文書に西暦表記を入れさせましょう」と、意気は高い。その会の趣旨とや活動については、下記のURLを開いてご覧いただきたい。
https://seirekiheiyo.blogspot.com/
本日の議題は、生保会社に対するアンケート調査の件。
国内には42社の生保会社があるという。その全社と、幾つかの共済事業体を対象に、西暦と元号との使用状況についてアンケートをしようということなのだ。そのきっかけが、下記のとおり会のホームページに掲載されている。《長期契約になることもある生命保険》というのが、ミソなのだ。将来の長期期間を元号では表記できないじゃないか、との含意がある。
「元号」は原理として「未来の年」を表示できません。
ところが、人生の全期にわたる長期契約になることもある生命保険において、元号のみの表記をいまだ続けている会社もあります。
日本生命保険相互会社の保険契約をお持ちの方から、契約者(相互会社という仕組みでは社員でもあるそうです)として、契約情報は元号表記でなく、西暦にして欲しいと要請したところ、順次西暦化していくとの回答が直ちにきました、という情報をいただきましたので、紹介します。
生命保険会社では年に1回、契約者に対して、契約内容や請求漏れがないか契約者情報の変更がないか、などの確認を行っています。2021年現在、日本生命保険相互会社の場合、契約確認書類の年表記は元号のみでした。(被保険者の生年月日・契約日・確認書類作成日がすべて元号表記)
そして、以下が連絡フォームから送付した要請文だそうです。
契約内容の確認を致しましたが、契約者の生年月日、保険の契約年月日などすべて元号表示のみになっていますが、なぜですか。
何年前の契約か、何年経過したか、何年後終了する契約か、どう考えてみても西暦でなければいちいち換算しなくてはならず、なぜあえてわかりにくい表示を御社がしているのか、理由を教えてください。
どうか、顧客満足の立場に立つのであれば、西暦表記に変更してください。よろしくお願いします。
以下が、それに対する回答文だったそうです。
いつも格別のお引立てをいただき厚くお礼申しあげます。
当社ホームページからお問合せいただきました件につきまして、
以下のとおりご回答申しあげます。
このたびは、契約内容の画面の年号表記につきまして、
ご不便をおかけいたしまして申し訳ございません。
当社といたしましては、将来的には西暦表記でご案内する予定でございます。
※順次変更していく予定でございます。
すぐにご案内できず申し訳ございませんが、何卒ご了承ください。
今後ともご愛顧のほどよろしくお願い申しあげます。
いずれ、システム改修の時にでも、西暦にするから、それまで待てや、という風に読めなくもない、やる気の無い印象も受けてしまいましたが、それぞれの会社の顧客に対する思想が良く現れる事柄だと思いますので、今後も注視していきます。
この日本生命の件をきっかけにして、本日の会議では、アンケートの文案を検討し確定した。併せて、この生保各社に対するアンケートの意義について意見が交わされた。
・大事なのは、西暦表記が人々の予想を超えて広がっているのを示すことだ。
・生保業界だけでなく、銀行でも鉄道でも食品流通でも、民間には着実に西暦表記が主流となっている。
・そして、民間の潮流を官庁の公文書にまで押し及ぼすこと。
・どう考えてもビジネスには元号表記は不合理で高コストではないか。
・それでも、一部企業では元号表記を継続している理由を知りたい。
・おそらくは、「企業合理性の要請」と、「顧客の意識状況」とのズレの中で揺れているのだろうが、やがては「企業合理性」に収束することになるのだろう。
誰が考えても、元号は不合理だ。まずは連続性に欠ける。将来を表記することができない。元号は煩瑣で面倒。一人の人間の死という偶然で連続性が断たれる。いつ変わるのか予想ができない。元号では国外に通じない。元号では一貫した過去の記述もできない。元号は、紀年の手段としては欠陥品なのだ。この不便な欠陥品が国民に押し付けられている。ひとえに天皇制という不合理とセットになってのこと。
国民に元号使用を事実上強制しているのが、自民党政権である。自民党政権とは、一面民族の歴史を重んじるという保守層に支えられている。元号使用に馴染み、元号を民族の文化として受容する勢力。しかし、もう一面、自民党政権は大資本を中心とする財界に支えられてもいる。企業ともビジネス界とも言い換えることができよう。
合理性を追求する企業は元号使用を望まない。元号使用を妥協せざるを得ないときには、これを高いコストの負担ととらえる。元号を駆逐して、西暦使用を求めるに当たっては、保守政権を支えている半分の勢力が味方なのだ。企業に対する西暦使用のアンケート結果は、そのことを示すに違いない。
(2021年7月24日)
パンデミック下の東京オリンピックの開会強行は、1941年12月8日の開戦に似ているのではないか。あの日醒めた眼をもっていた国民の気持を擬似体験している印象がある。国家というものは、ホントにやっちゃうんだ。ブレーキ効かずに突っ込んじゃう。反対しても止められない。いったい何が、本当に国家というものを動かしているのだろうか。
昨日(7月23日)は、違和感だらけ。まずは、ブルーインパルスの演技に大きな違和感がある。あれは、戦闘機だ。戦争を想定して有事に人殺しを目的とする兵器ではないか。オリンピックが平和の祭典とすればその対極にあるもの。本来、人前に出せるものではない。
ブルーインパルス飛行を見物に集まる人に、さらなる違和感。「感動した」などと口にする感性を疑う。「オリンピック開催を強行すれば空気は変わる」と、愚かな為政者にうそぶかせる国民も確かにいるのだ。それが、この国の現状を支える主権者の一面なのだ。決して、多数派だとは思わないが。
「日の丸」掲げて「君が代」歌っての開会式に違和感。私は、開会式など観てはいないが、ナショナリズム涵養の舞台となったようだ。これからは、各国対抗のメダル獲得競争が展開される。これがオリンピックやりたい連中の狙いの本音。オリンピックやらせたくない派の反対理由でもある。
本日の毎日新聞「余録」の書き出しが、「表彰式における国旗と国歌をやめてはどうか」。1964年東京五輪開幕日の毎日社説の一節であるという。こうなれば、私の違和感も、払拭されることになる。しかし、各紙、今やそんな社説を書く雰囲気ではない。
余録は、こう続けている。「元々、国家の枠を超えて国際主義を体現しようとしたのがオリンピック運動の原点だ。68年メキシコ五輪時のIOC総会では廃止に賛成が34票で反対の22票を上回ったが、採択に必要な3分の2に届かず、否決された▲その後、旧ソ連など共産圏が反対の姿勢を強めたこともあり、廃止論は姿を消す。むしろ五輪を国威発揚に結びつけることを当然と考える国が増えた。ナショナリズムの容認が五輪の商業主義や巨大イベント化を支えてきたともいえる」
さらなる違和感が、菅義偉・小池百合子の天皇に対する態度を非礼と非難する一部の論調である。天皇が開会宣言のために起立しているのに、菅・小池が直ちに起立せず遅れての起立を「不敬」とする復古主義者からの攻撃に、国際的なマナーに反するという鼻持ちならない「国際派」からの批判が重なる。そのどれもが、天皇に権威をもたせることを自分の利益と考える連中の、とるに足りないたわ言。
オリンピック憲章の大部分は、常識的な文言を連ねたものだ。たとえば、次の一節。「このオリンピック憲章の定める権利および自由は人種、肌の色、性別、性的指向、言語、宗教、政治的またはその他の意見、国あるいは社会的な出身、財産、出自やその他の身分などの理由による、いかなる種類の差別も受けることなく、確実に享受されなければならない。」
天皇とは、この憲章の一節における「社会的な出身、出自やその他の身分などの理由による、差別」の典型であり、身分差別の象徴にほかならない。貴あるからこその賤である。天皇の存在が日本の差別を支えている。「いかなる種類の差別も受けることなく、確実に享受されなければならない」とするオリンピック開会式の場で、身分差別の象徴である天皇への敬意を当然としてはならない。差別の象徴である天皇への敬意が足りないと非難される筋合いはない。
開会式のニュースで少し心和んだのは、「オリンピックはいらない」「東京五輪を中止せよ」「オリンピックより国民の命を大切に」などのデモの声が、競技場内にも届いたという。開会式の場は、別世界ではないのだ。
何よりも気になることは、今朝の各紙を見ると、緊急事態宣言下の東京であることが忘れられたような雰囲気であること。昨日の東京の人出は多かったようだ。オリンピック開会の強行は、反対論者が予想したとおりとなった。しかし、そのことによる感染拡大への影響の有無は、2週間ほども先にならないと分からない。
1941年12月8日の開戦は、多くの人の人命を奪い国を滅ぼした。2021年7月23日が、これと並ぶ禍々しい日とならないことを願うばかり。
(2021年2月26日)
1936年2月26日、東京は雪であったという。降雪を衝いて陸軍青年将校のクーデターが決行された。反乱軍は、首相官邸を襲撃し「君側の奸」とされた政府要人を殺害したが、陸軍上層部の同調を得られなかった。海軍は一貫して叛乱鎮圧に動いた。結局、クーデターは失敗し首謀者の主たる者は銃殺、その他多数が厳罰に処せられた。
歴史の展開はこれで終わらない。この皇道派クーデターを押さえ込んだ統制派の「カウンター・クーデター」を担った統制派の手によって、軍部独裁への道が切り開かれていく。これが「2・26事件」である。
「2・26事件」とは何か。大江志乃夫の簡明な記述を引用しておきたい。
「いわゆる皇道派に属する青年将校が部隊をひきいて反乱を起こした「政治的非常事変勃発」である。反乱軍は、首相官邸に岡田啓介首相を襲撃(岡田首相は官邸内にかくれ、翌日脱出)、内大臣斎藤実、大蔵大臣高橋是清、教育総監陸軍大将渡辺錠太郎を殺害し、侍従長鈴本貫太郎に重傷を負わせ、警視庁、陸軍省を含む地区一帯を占領した。反乱将校らは、「国体の擁護開顕」を要求して新内閣樹立などをめぐり、陸軍上層部と折衝をかさねたが、この間、2月27日に行政戒厳が宣告され、出動部隊、占拠部隊、反抗部隊、反乱軍などと呼び名が変化したすえ、反乱鎮圧の奉勅命令が発せられるに及んで、2月29日、下士官兵の大部分が原隊に復帰し、将校ら幹部は逮捕され、反乱は終息した。事件の処理のために、軍法会議法における特設の臨時軍法会議である東京陸軍軍法会議が設置され、事件関係者を管轄することになった。判決の結果、民間人北一輝、西田税を含む死刑19人(ほかに野中、河野寿両大尉が自決)以下、禁銅刑多数という大量の重刑者を出した。「決定的の処断は事件一段落の後」という、走狗の役割を演じさせられたものへの、予定どおりの過酷な処刑であった。」
「実際に起こった二・二六事件は、『国家改造法案大綱』(北一輝)の実現をめざすクーデターが『政治的非常事変勃発に処する対策要綱』(統制派)にもとづくカウンター・クーデターに敗北し、カウンター・クーデター側の手によって軍部独裁への道が切り開かれるという筋書をたどった。」
北一輝『日本改造法案大綱』の冒頭に、「天皇は全日本国民と共に国家改造の根基を定めんが為に、天皇大権の発動によりて3年間憲法を停止し両院を解散し、全国に戒厳令を布く」とある。当時の欽定憲法でさえ、軍部にはなくもがなの邪魔な存在だった。この邪魔な憲法を押さえ込む道具として、「天皇大権」が想定されていた。
軍隊は恐ろしい。独善的な正義感に駆られた軍隊はなお恐ろしい。傀儡である天皇を手中に、これを使いこなした旧軍は格別に恐ろしい。
軍事組織は常に民主主義の危険物である。軍隊のない国として知られるコスタリカを思い出す。彼の国では、国防への寄与という軍のメリットと、民主主義に対する脅威としての軍のデメリットを衡量した結果として、軍隊をなくする決断をしたという。軍を維持する費用を、教育や環境保全や、新しい産業に注ぎ込んで、国は繁栄しているというではないか。
かつてのチリ・クーデーが衝撃的だった。1970年代初め、南米各国はアメリカの軛から脱して民主化の道を歩み始めていた。中でも、チリが希望の星だった。アジェンデ大統領が率いる人民連合政権は、世界で初めて自由選挙によって合法的に選出された社会主義政権と称されていた。それが、ピノチェットが指揮する軍部の攻撃で崩壊した。ピノチェットの背後には、米国や多国籍企業の影があった。憎むべき軍隊であり、憎むべきクーデターである。
今、ミャンマーの事態が軍事組織の危険性を証明している。民主化を求める勢力が選挙で大勝すると、これを看過できないとして、軍部が政権を転覆する。国民の税金が育てた軍が、国民を弾圧しているのだ。
そして本日、旧ソ連構成国アルメニアでクーデターのニュースである。
アルメニアの軍参謀総長らは25日、パシニャン首相の辞任を求める声明を出した。
パシニャン氏は「クーデターの試み」と反発し、参謀総長を解任。辞任を拒否して支持者に団結を呼び掛けた。AFP通信によると、パシニャン氏の支持者は約2万人が集結という。
世界の至る所で、繰り返し、軍事組織が民主主義を蹂躙している。2月26日、日本人にとっての軍隊の持つ恐ろしさを確認すべき日である。
(2021年2月25日)
昨日(2月24日)の最高裁大法廷判決。「那覇市・孔子廟事件」で、政教分離に関するやや厳格な判断が積み上げられた。
那覇市の公園の一角に「孔子廟」がある。市は、相当の使用料月額48万円の全額を免除していた。判決は、この那覇市の無償提供を「違憲」と判断したもの。最高裁による政教分離の「厳格な」判断として評価し、歓迎したい。
もっとも、この住民訴訟の原告となったのは、那覇の「右翼オバサン」である。弁護団も明白な右寄り人脈。本来、政教分離規定はリベラル・人権派、ないしは天皇制に弾圧された宗教者にとっての金科玉条。右翼が政教分離の旗を掲げての訴訟には、大きな違和感を禁じえない。どのような思惑で提訴に至ったのか理解し難いところは残る。それでも、誰が原告であろうとも、政教分離の「厳格な」判断を歓迎すべきことに変わりはない。
政教分離とは何か。今朝の毎日新聞社説は、こう言う。
「憲法の政教分離の規定は、戦前に国家と神道が結びついて軍国主義に利用され、戦争に突き進んだ反省に基づいて設けられた。」
沖縄タイムス社説はもう少し踏み込んで、説明している。
「かつて(日本は)国家神道を精神的支柱にして戦争への道を突き進んだ。政教分離の原則は、多大な犠牲をもたらした戦前の深い反省に立脚し、つくられたのだ。」
政教分離の「政」とは国家、あるいは公権力を指す。「教」とは宗教のこと。国家と宗教は、互いに利用しようと相寄る衝動を内在するが、癒着させてはならない。厳格に高く厚い壁で分離されなくてはならない。
この原則を日本国憲法に書き込んだのは、戦前に《国家と神道》が結びついて《国家神道》たるものが形成され、これが軍国主義の精神的支柱になって、日本を破滅に追い込んだ悲惨な歴史を経験したからである。国家神道の復活を許してはならない。これが、政教分離の本旨である。
《国家神道》とは、今の世にややイメージしにくい言葉となっている。平たく、『天皇教』と表現した方が分かり易い。天皇の祖先を神として崇拝し、当代の天皇を現人神とも祖先神の祭司ともするのが、明治以来の新興宗教・天皇教である。
天皇の祖先を神と崇め、その神のご託宣によって、この日本を天皇が統治する正当性の根拠とする荒唐無稽の政治的宗教。睦仁・嘉仁・裕仁と3代続いた教祖は、教祖であるだけでなく、統治権の総覧者とも大元帥ともされた。
この天皇教が、臣民たちに「事あるときは誰も皆 命を捨てよ 君のため」と教えた。天皇のために戦え、天皇のために死ね、と大真面目で教えたのだ。直接教えたのは、学校の教師だった。教場こそが、天皇教の布教所であった。目も眩むような、一億総マインドコントロール、それこそが国家神道であり、その反省が政教分離である。
もちろん、戦前の体制に対する徹底した反省のありかたとしては、天皇制の廃絶が最もふさわしい。しかし、戦後改革の不徹底さが日本国憲法における象徴天皇制となった。この象徴天皇を、再び危険な神なる天皇に先祖がえりさせないための歯止めの装置が政教分離なのだ。
だから、リベラルの陣営は厳格な政教分離の解釈を求め、歴史修正主義派は緩やかな政教分離の解釈を求めるということになる。靖国神社公式参拝・玉串料訴訟、即位の礼・大嘗祭訴訟、護国神社訴訟、地鎮祭訴訟、忠魂碑訴訟等々は、そのような立場からの訴訟であった。
もっとも、憲法の政教分離に関する憲法規定は、神道だけでなく宗教一般と国家との癒着を禁じた。そこで、仏教やキリスト教との関係でも、政教分離問題は生じうる。今回の判決も、神道に限らず儒教でも宗教性が認められれば、憲法に抵触しうることを確認したものとなっている。儒教と自治体の関係を問う訴訟は、二の丸、三の丸での闘いである。しかし、その結果は本丸としての神道と国家との関係に影響を及ぼさずにはおかない。今回の判決、リベラル派としては、喜んでよい。
本日の産経社説(「主張」)が、この点に言及していて興味深い。
表題が「那覇の孔子廟判決 『違憲』の独り歩き避けよ」というもの。右派の産経にとって、好もしからぬ判決であり、その影響を限定しようという「主張」なのだ。
同社説の立場は、はっきりしている。靖国神社公式参拝や玉串料・真榊奉納などを違憲と判断されては困るのだ。何とか、限定的に解釈しなければならない。
「違憲」が独り歩きしては困る。今回の判決を盾に、社寺の伝統行事などにまで目くじらを立てるような「政教分離」の過熱化は避けたい。
孔子廟は全国にあるが、湯島聖堂(東京)や足利学校(栃木)のように国や自治体が所有する歴史的施設もあり、設立経緯などが異なる。今回の違憲判決の影響は限定的とみるのが妥当だろう。
政教分離規定の厳格な適用は好ましくない。たとえば、地域社会に伝わる文化、行事は伝統的な宗教と密接な関係にある。
北海道砂川市の「空知太(そらちぶと)神社訴訟」で最高裁は、市有地を神社に無償提供したことを違憲とした。だが、このとき合憲とした裁判官の反対意見が「神社は地域住民の生活の一部になっている」などと指摘し、違憲とした多数意見について「日本人の一般の感覚に反している」と述べていたのはうなずける。
首相ら公人の靖国神社参拝や真榊(まさかき)奉納に「政教分離」を持ち出す愚も避けるべきだ。
産経の当惑している様子が伝わってくる。しかし、判例というものは、独り歩きをするものである。独り歩きを止めようとて、止められるものではない。その意味で、大法廷の厳格な政教分離解釈は、リベラル陣営にとっての財産なのだ。
(2021年2月23日)
本日は、まだ国民の意識に定着してはいないが、天皇(徳仁)の誕生日である。祝日法第2条には、「天皇誕生日 二月二十三日 天皇の誕生日を祝う。」と意味不明の文章がある。分明ではないが、少なくとも「天皇の誕生日を祝え」「祝わねばならない」「祝うものとする」「祝うべき日」などと、国民に祝意を強制する文意ではない。
もちろん私は、天皇(徳仁)との面識はないし、この人の一族郎党とも何の交誼もない。本日が、格別にめでたいとも、祝うべき日であるとも思えない。天皇とその係累には、いささかの怨みこそあれ、その誕生日を祝う振りをする恩義も義理もない。
むしろ、主権者の一人として、「天皇誕生日」の正しい過ごし方は、社会の同調圧力に屈することなく、「天皇」や「天皇制」の過去の罪科をしっかりと見極め、その罪科が現在に通じていることを再確認することであろう。
そのような、本日の「正しい過ごし方」として、コロナ禍のさなかではあるが、「wamセミナー 天皇制を考える(3)」に出席した。「wam」とは、安倍晋三によって番組改竄されたNHK放映「女性国際戦犯法廷」の後継団体、アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」のこと。この「戦犯法廷」では、「ヒロヒト有罪」の判決が言い渡されたが、放映はされなかった。当然に天皇制にも安倍晋三にも怨みは大きい。その「wam」のホームページの中に、次の印象的な言葉がある。
日本の近代は侵略と戦争の歴史でした。天皇は、軍の最高責任者・大元帥でしたが、敗戦後の極東国際軍事裁判(東京裁判)では免責されました。天皇の侵略・戦争責任を批判する声は、戦中は「大逆罪」「不敬罪」などで処罰され、戦後も暴力の対象となって不可視化されてきました。この小さな抗う民衆の声を伝えることからその忘却を問います。
「wamセミナー 天皇制を考える」連続セミナーの趣旨は、以下のように語られている。
「女性国際戦犯法廷」(2000年、東京)から20年の節目にあたって、天皇の戦争責任・植民地支配責任を問い続けるwamは、天皇由来の「祝日」のうち4日間を「祝わない」ために開館し、天皇制を維持してきた私たちの責任を見つめなおし、議論する場を作っていくことにしました。
天皇由来の4祝日とは、以下のものである。
文化の日 11月3日 明治天皇(睦仁)の誕生日
建国記念の日 2月11日 初代・神武の即位の日
天皇誕生日 2月23日 現天皇(徳仁)の誕生日
昭和の日 4月29日 昭和天皇(裕仁)の誕生日
「wamセミナー 天皇制を考える(1)」は、2020年11月3日。講師は池田浩士さんで、テーマは「叙勲・お言葉・思いやり・・・天皇と「国民」を結ぶもの―『明治節』に考える―」
社会や文化、様々な視点から天皇制を研究してきた池田浩士さんをお招きし、明治憲法と戦後憲法とを貫く「象徴天皇制」に焦点を合わせて、天皇制国家の支配制度と「国民」のありかたを再考します。
同(2)は、石川逸子さん。
桜の国の悲しみ、菊の国への抗い―「紀元節」に伝えておきたいこと
石川逸子さんは2008年、明治天皇の父・孝明天皇に亡霊として語らせる『オサヒト覚え書き―亡霊が語る明治維新の影』という大著を上梓、2019年には台湾・朝鮮・琉球への追跡編も出版されています。日本の近代と天皇制を問い続ける石川逸子さんからお話を聞きます。
そして、本日が、歌人内野光子さんの「『歌会始』が強化する天皇制―序列化される文芸・文化」という講演。
「歌会始(うたかいはじめ)」とは、年始に皇居で開催される歌会(集まった人びとが共通の題で短歌を詠む会)で、あらかじめ天皇が出した題にそって「一般市民」が歌を送り、秀でた作品を詠んだ人びとが皇居に招かれる「儀礼」です。毎年テレビでも中継され、2万ほどの「詠進」(一般からの応募)された短歌から選ばれた10首、短歌を詠むために選ばれた「召人」の歌、短歌の「選者」に選ばれた歌人の歌、天皇皇后をはじめ皇族の歌が詠まれます。
内野さんの天皇制批判の立場は揺るぎがない。天皇制とは本質的に国民の自覚に敵対し、個人の思考を停止させるものという。その天皇と国民をつなぐものとしての短歌として、明治天皇(睦仁)、昭和天皇(裕仁)、平成時の天皇(明仁)・皇后(美智子)、現天皇(徳仁)らの短歌を85首抜き出し、そのいくつかを解説された。
印象に残るのは、明仁・美智子夫妻の11回の沖縄行で詠んだ歌。父親(裕仁)の沖縄に対する負の遺産を清算することに懸命になった夫妻の姿勢が窺える。そして、その試みはある程度の成功を納めたと評することができるだろう。実は、何の解決もないままの県民の慰撫。天皇制の、そして歌の作用の典型例と言えるのではないか。
内野さんの講演の主題は、象徴天皇制の「国民」への浸透の場としての「歌会始」の解説と批判である。
1947年に始まった「歌会始」は、当初応募歌数数千から1万程度と低迷していたが、1959年の「ミッチーブーム」を機に応募歌数が激増した。1964年には4万7000首にも達している。その後は、ほぼ2万首で推移しているが、選者の幅を拡げ、毎年10名の入選者に中高生を入れるなどの工夫を重ねてきている。
戦後の現代歌壇が持っていた、天皇制への拒絶の姿勢や雰囲気は、いつの間にか懐柔されて、現代歌壇全体が天皇制を受容している。「歌会始」の選者になることに、歌人の抵抗がなくなったどころか、選者になることを切っ掛けに、褒賞を授与され、芸術院会員となり、文化功労者となり、叙勲を受けている。
かつて、「歌会始」を痛烈に批判していた「前衛歌人」が歌会始の選者になっている。あるいは「歌会始」の選者が「赤旗」歌壇の選者を兼ねている例さえもある。
天皇制の陥穽におちいる「リベラル」派の例は短歌界に限らない。金子兜太、金子勝、内田樹、白井聡、落合惠子、石牟礼道子、長谷部恭男、木村草太、加藤陽子、原武史等々、程度の差こそあれ、「平和を求める天皇」「護憲の天皇」を容認する人々が多数いることに驚かざるをえない。
講演後に質疑応答があり、最後に「ではこれからどうすべきなのか」という問があった。これに、内野さんはこのような趣旨の回答をしている。
天皇制に関して昔とすこしも意見が変わらない私は、歌壇において、「非寛容」だとか「視野狭窄」だとさえ言われるようになっています。でも、自分の頭で考えた、自分の意見を語り続けることが大切なことだと考えています。それ以外の選択肢はありません。
この言葉を聞けたことだけで、本日は「天皇誕生日」にふさわしい有意義な日であったと思う。
(2021年2月19日)
S君、長くお目にかからないが、久しぶりにご意見のメールをいただくと50年前の修習生時代を思い出す。真っ直ぐな問題提起の仕方に、つくづくと、人は変わらないものと思う。
弁護士生活50年を記念する出版にともなう集会をどう持つか。私は、「戦後75年の司法を俯瞰する」ものとしようと提案した。「われわれが経験したのは、この50年の司法だが、その出発点を見据えるには、戦後からの分析というスパンが必要ではないか」という趣旨だ。
それに対して、貴君から、「澤藤意見では、出発点を見据えるには戦後からの分析というスパンが必要と述べているが、本質的な点を明らかにするためには、天皇制下の司法の分析と『戦前』(特に昭和)からのスパンが必要と思う。」「裁判官の意識・考え方は旧憲法のままだと感じている。」と、ご意見をいただいた。これは、貴君の受任事件を通じての切実な見解ということがよく分かる。
「戦前の裁判官の意識(考え方)がそのまま引き継がれているものとして、公権力の行使による加害に対しては責任を負わないとする『国家無答責論』(判例法理)が問題」「戦後補償訴訟では、裁判所は、反人道的不法行為事実を認定しながら、国家無答責論を無批判に適用して重大な基本的人権の蹂躙行為を免罪した」「私は、担当裁判官の公権力の行使による加害行為を安易に免罪するという考え方が、他の事件を判断する場合でも、権力や強者の責任を免除する方向に繋がっていることを強く感じる」
なるほど。事件を通じての、皮膚感覚の裁判所論は、痛いほどよく分かる。「本質的な点を明らかにするためには、天皇制下の司法の分析と「戦前」(特に昭和)からのスパンが必要と思う。」とのご意見には、私も異論がない。
私たちの修習生時代に長官だった「石田和外」などは、戦前の「天皇の裁判官」の精神構造を、そのまま戦後に引き継いだ裁判官群の代表だった。大日本帝国憲法に馴染んだ戦前の裁判官が、パージのないことを奇貨として、そのまま戦後の日本国憲法下の裁判官になりおおせたことを記憶に留めておかなくてはならない。
とは言え、天皇制下の司法がどう現在に引き継がれているかについての認識には、多少の齟齬があるようだ。あれから50年。70年代以後現在につながる司法のありかたを、「その本質において戦前と同じ」という切り口で評することが有効だろうか、疑問なしとしない。
天皇制下の司法は、イデオロギー的には「天皇の裁判所」であり、「天皇の裁判官」が担った。組織的にも司法省に従属した裁判所であった。違憲立法審査権はなく、国家は悪をなさずの思想のもと、国家賠償は認められず、国家無答責は言わずもがなの大原則であった。
戦後の新憲法は、戦前の司法を清算し、人権の砦として新たな出発をしたはず。私は、ここが出発点と思っている。戦後75年、憲法が想定する司法はできていない。これを、戦前を引き摺っているからと捉えるべきだろうか。
修習生時代から、「所詮司法といえども権力の一部」「司法の独立なんぞは幻想に過ぎない」というシニカルな意見はあり、私は「権力機構の一部としての司法の独自性を理解しない極論」「人権や民主主義擁護の運動に有害」と反発してきた。
言うまでもなく、法には、国民支配の道具としての側面と、権力抑制の側面とがある。司法にも、権力機構としての国民支配の道具として作用する一面と、権力を抑制して人権を擁護する側面とがある。
私たちは、その後者を大切なものとし、国民の人権意識や民主主義の発展とともに、「人権の砦」としての裁判所の実現は可能と考えて、「司法の独立」というスローガンを掲げてきた。
しかし、それは残念ながら、現在のところは見果てぬ夢に過ぎない。権力機構の一部としての司法がまかり通っているのが現実だ。問題は、その憲法との乖離という現実が司法だけのことではないということ。保守政党が支配する立法府にも、粗暴に権力を振るう行政府にも、さらには自治体にも社会全体の法意識にも当てはまることではないか。
「所詮司法といえども権力の一部」という論を、シニカルにではなく、もう一度捉え直す必要もあるのではないか。日本の社会全体に人権や民主主義が根付かぬ限りは、司法だけが憲法の想定する理念を実現することは現実には困難ではないだろうか。
とはいえ、そのことが司法に関する独自の運動を否定することにはならない。権力機構の中で司法部には、独自の役割や機能をもっているはず。
「憲法の砦としての司法」「司法の民主化」「司法の独立」「裁判官の独立」「司法官僚の現場裁判官操作を許すな」というスローガンの有効性は揺るがないと思う。
少し長くなった。その後のことは、次のメールにしよう。
(2021年2月15日)
したたかなはずの資本主義だが、誰の目にもその行き詰まりが見えてきている。環境問題、エネルギー問題、貧困・格差…。とりわけ、新自由主義という資本主義の原初形態の矛盾が明らかとなり、グローバル化が事態の混乱を拡大している。
その反映だろうか、ノスタルジックに「日本資本主義の父」が持ち上げられている。この「父」は、福沢諭吉に代わって間もなく1万円札の図柄になるという。そして、昨日(2月14日)が第1回だったNHK大河ドラマ「青天を衝け」の視聴率も上々の滑り出しだという。
何ともバカバカしい限りではないか。「資本主義の父」とは、搾取と収奪の生みの親であり育ての親であるということなのだ。この「父」は、カネが支配する世の中を作りあげて自らも富を蓄積することに成功した。多くの人を搾取し収奪しての富の蓄積である。搾取され収奪された側が、「資本主義の父」の成功談に喝采を送っているのだ。
資本主義社会は、天皇親政の時代や、封建的身分制社会よりはずっとマシではある。だが、社会の一方に少数の富める者を作り、他方に多数の貧困者を作る宿命をもっている。「資本主義の父」とは本来唾棄すべき存在で、尊敬や敬愛の対象たり得ない。
仮に渋沢栄一に尊敬に値する事蹟があるとすれば、「資本主義の父」としてではなく、「資本抑制主義の父」「資本主義万能論を掣肘した論者」「野放図な資本主義否定論者の嚆矢」「資本主義原則の修正実践者」としてでしかない。彼が、そう言われるにふさわしいかは別として。
この点を意識してか、NHKは、渋沢について「資本主義の父」と呼ぶことを慎重に避けているようだ。番組の公式サイトではこう言っている。
幕末から明治を駆け抜けた実業家・渋沢栄一。豪農に生まれた栄一は、幕末の動乱期に尊王攘夷思想に傾倒する。しかし、最後の将軍・徳川慶喜との出会いで人生が転換。やがて日本の近代化に向けて奔走していく…。
「実業家」「日本の近代化」という用語の選択は無難なところ。
幸田露伴の筆になる「渋沢栄一伝」(岩波文庫)に目を通した。下記のとおり、岩波の帯の文句がこの上なく大仰であることに白ける。
「日本資本主義の父」と呼ばれる渋沢栄一の伝記を、文豪が手掛けた。士は士を知る。本書は,類書中,出色独自の評伝。激動の幕末・近代を一心不乱に生きた一人の青年は、「その人即ち時代その者」であった。枯淡洗練された名文は,含蓄味豊かな解釈を織り込んで、人間・渋沢栄一を活写する。露伴史伝文学の名品(解説=山田俊治)
渋沢の死が1931年で、その後に執筆依頼があり露伴の脱稿は1939年となった。渋沢の顕彰会からの依頼で引き受けた伝記である。稿料の額についての記載はないが、文豪・幸田露伴たるもの、こんな伝記を書くべきではなかった。今ころは、泉下で後悔しているに違いない。
執筆の動機からも、対象を客観視しての叙述ではない。ヨイショの資料を集めてもう一段のヨイショを重ねた決定版。執筆の時期が日中戦争のさなか、太平洋戦争開戦も間近のころ。ヨイショの方向は、尊皇の一点。資本主義の権化に徹した渋沢像がまだマシだったのではないか。下記の記述が、資本主義の権化ではないとする渋沢像の描出である。
商人は古より存在した。しかしそれは単に有無を貿遷し、輜銖(ししゅ・物事の微細なこと)を計較して、財を生じ富を成すを念とせるもののみであって、栄一の如くに国家民庶の福利を増進せんことを念として、商業界に立ったものは栄一以前にはほとんど無い。金融業者も古より存在した。しかしそれも単に母を以て子を招び、資を放って利を収むるを主となせるもののみであって、栄一の如く一般社会の栄衛を豊かに健やかならしめんことを願とせるものは栄一以前にはほとんど無い。各種の工業に従事したり事功を立てたりしたものも古より存在した。しかしこれまた多くは自家一個の為に業を為し功を挙ぐるを念として、栄一の以前には其業の普及、その功の広被を念としたものは少い。
栄一以前の世界は封建の世界であった。時代は封建時代であった。従って社会の制度も経済も工業も、社会事象の全般もまた封建的であった。従って人間の精神もまた封建的であった。大処高処より観れば封建的にはおのずから封建的の美が有り利かあって、何も封建的のものが尽く皆宜しくないということは無いが、しかし日月運行、四時遷移の道理で、長い間封建的であった我邦は封建的で有り得ない時勢に到達した。世界諸国は我邦よりも少し早く非封建的になった。我邦における封建の功果は既に毒爛して、その弊は漸くに人をして倦厭を感ぜしむるに至った。この時に当って非封建的の波は外国より封建的の我国の磯にも浜にも打寄せて来た。我国は震憾させられた。そして漸くにして起って来たものは尊皇攘夷の運動であった。尊皇は勿論我が国体の明顕に本づき、攘夷は勿論我が国民の忠勇に発したのであった。あるいは不純なる動機を交えたものも有る疑も無きにあらずといえども、それは些細のことで、大体において尊皇攘夷の運動は誠心実意に出で、その勢は一世に澎湃するに至って、遂に武家政治は滅び、王政維新の世は現わるるに及んだ。
上記は、切れ目のない文章を二段に分けてみたもの。前段は、私利を貪らぬ実業家としての渋沢に対するヨイショ。後段は、尊皇攘夷運動によって王政維新の世が到来したことの積極評価。露伴の頭の中では、この二つが結びついていたのであろう。
露伴は、戦後まで永らえて、47年に没している。もしかしたら、価値観の転換後は下記のように改作したいと思ったのではないだろうか。
世界諸国は我邦よりも少し早く民主主義的になった。我邦における天皇制の功果は既に毒爛して、その弊は漸くに人をして倦厭を感ぜしむるに至った。この時に当って民主主義の波は外国より天皇制の我国の磯にも浜にも打寄せて来た。我国は震憾させられた。そして漸くにして起って来たものは人民の民主主義を実現せんとする一大運動であった。天皇は勿論我が守旧勢力の傀儡にして、国体は勿論我が一億国民に対する思想統制の手段であり、全ては国民欺罔と抑圧の意図に発したのものであった。敗戦を機とした、民主主義を求むる人民の運動の勢は一世に澎湃するに至って、遂に天皇制は瓦解し、人権尊重と民主主義の「日本国憲法」の世は現わるるに及んだ。
(2021年2月11日)
光の春のううらかな日和。ときおり吹く風にも冷たさはない。空は青く、梅が開き、寒桜も目にこころよい。ところが、えっ交番に「日の丸」? 警察署にも消防署にも「日の丸」である。あの、右翼や暴力団とお似合いの、白地に赤い丸の旗。都バスにも「日の丸」の小旗が何とも不粋。さすがに民家に「日の丸」は一本も見なかったが、上野の料亭「伊豆栄・本店」には、この不快なデザインの旗が掲げられていた。
本日は、「建国記念の日」とされている日。祝日法では、「建国をしのび、国を愛する心を養う」べき日という位置づけ。しかし、私には「建国をしのぶ」気持も、「国を愛する心」も持ち合わせていない。愛国心の押し売りはまっぴらご免だし、愛国心を安売りする人物は軽蔑に値すると信じて疑わない。だから、本日を祝うべき日とする気分はさらさらにない。
時折、「浅薄な愛国心」を排撃して、「真の愛国者の言動ではない」などと批判する言説にお目にかかる。が、私は、「真」でも「偽」でも、愛国や愛国心を価値あるものとは認めない。実は、「真の愛国心」「本当の愛国者」ほど厄介なものはないのだ。
もちろん必要悪としての「国家」の存在は容認せざるを得ない。しかし、その国家は愛すべき対象ではなく、厳格に管理すべき警戒の対象と考えなければならない。
組織としての国家ではなく、国家を形成する「国民」もまた、個人にとって愛すべき対象ではない。個人は、常に「国家を形成する集団としての国民」の圧力との対峙を余儀なくされ、ときにはその強大な同調圧力と闘わねばならない。「愛国心とは日本の国民を愛すること」なら、愛国心は、個人の主体性を奪う邪悪なものにほかならない。
愛国心とは我が国の風土や歴史や伝統を愛すること、とも説かれる。そのような心情をもっている人、もちたい人がいることは当然だろう。そのパーセンテージがどうであっても、さしたる問題ではない。問題は、価値的に「愛国」「愛国心」が説かれることだ。
「愛国心」を美徳とするイデオロギーが諸悪の根源である。美徳であるからとして「愛国心強制」を当然とする圧力が、個人の人格の尊厳を侵し、思想・良心の自由を侵害する。このような、愛国心をダシにした強権の発動は、実は他の奸悪な意図をもってのことである。
ところで、周知のとおり、本日2月11日は旧紀元節。天皇制イデオロギーによって、何の根拠もなく初代天皇の就位があったとされた日。日本書紀における〈辛酉年春正月庚辰朔,天皇即帝位於橿原宮〉という記述だけに基づいて、2700年以前もの太古に、天皇の治世が始まり、これが万世一系連綿と続いているという神話の小道具の一つとされた。
強行された事実上の紀元節復活のこの日、つまりは天皇制始まりの日との象徴的な意味をもつこの日が、「建国をしのび」だけでなく、「国を愛する心を養う」とされていることに注目せざるを得ない。つまり、愛国心が、天皇制国家と連動しているのだ。
明治の初めに小川為治『開化問答』という書物が刊行されている。その中に、旧平という名で庶民の立場から、紀元節や「日の丸」についての率直な見解が示されていて、興味深い。
「改暦以来は五節句・盆などという大切なる物日を廃し、天長節・紀元節などというわけもわからぬ日を祝う事でござる。4月8日はお釈迦さまの誕生日、盆の16日は地獄のふたの開く日というは、犬打つ童も知りております。紀元節や天長節の由来は、この旧平のごとき牛鍋を食う老爺というも知りません。かかる世間の人の心にもなき日を祝せんとて、政府より強いて赤丸を売る看板のごとき幟や提灯を出さするは、なおなお聞こえぬ理屈でござる。元来、祝日は世間の人の祝う料簡が寄り合いて祝う日なれば、世間の人の祝う料簡もなき日を強いて祝わしむるは最も無理なる事と心得ます。」(梅田正己・「明治維新の歴史」より)
ここに、「赤丸を売る看板のごとき幟」とあるは、「日の丸」のことである。こんなものの強制は「なおなお聞こえぬ理屈」と、理不尽を述べている。
それだけでなく。「紀元節や天長節」について、「元来、祝日は世間の人の祝う料簡が寄り合いて祝う日なれば、世間の人の祝う料簡もなき日を強いて祝わしむるは最も無理なる事と心得ます」とは、まことに至言である。
「天皇制と関連付けられた愛国心」ほど、恐ろしいものはない。今日「建国記念の日」は、そのことをじっくりと考えるべき日である。
(2021年2月8日)
私が、モリ・ヨシロウ。東京五倫の組織委員会会長だ。えっ? 「五倫」とはなんだって? 大切な五倫を知らんのか? それは、少し無知。
教育勅語は知ってるだろう。それさえ知っておればよい。神の国の天皇である明治大帝が、日本の臣民に賜った永遠不滅にして普遍的な、有難くも貴い教訓だ。どうして有難いかって? つまらぬ質問をするんじゃない。天皇の教えだから、有難くて貴いに決まっている。
勅語自身が、「この道は実に我が皇祖皇宗の遺訓にして、子孫臣民のともに遵守すべきところ。これを古今に通じて誤らず、これを内外に施して悖らず」と、こう語っている。つまり、勅語に書いてあることは絶対に間違いがない。時代を超え、国を超えて、普遍的な真理ということだ。
その真理を文字にした勅語の中に、こういう有難い一節がある。
「なんじ臣民、父母に孝に、兄弟に友に、夫婦相和し、朋友相信じ、…一旦緩急あれば義勇公に奉…ずべし」。これが、五倫だ。
元号もそうだが、悔しいけれどもこの辺りは全て漢籍からの借り物だ。もともとの五倫は『孟子』に由来する。
「君臣の義,父子の親,夫婦の別,長幼の序,朋友の信」この五つが、儒教で説かれる、それぞれの立場での処世の徳目。
問題は、「夫婦の別」だ。「別」とは、「夫には外における夫のつとめ、妻には内における妻のつとめがあって、それぞれその本分を乱さないこと。」(『新釈漢文大系』)と説かれる。勅語では「夫婦別あり」を、少しやんわりと「夫婦相和し」としているが、同じことだ。当時もそう教えられている。
さらに、「礼記」には、人の踏み行なうべき道として、五倫を敷衍した十箇条の「十義」というものがある。「父の慈、子の孝、兄の良、弟の悌、夫の義、婦の聴、長の恵、幼の順、君の仁、臣の忠」だ。婦人の徳としての「聴」とは、「夫の言うことをよく聴いてしたがう」こととされる。
「婦」とは、妻でもあり女性でもある。夫に、あるいは男性に従順であることこそが、永遠不滅にして普遍的な女性の美徳なのだ。それを男尊女卑というなら、我が国の歴史や習俗はまさしく、男尊女卑だ。それで何の不都合があろうか。
だから、もうよくお分かりだろう。会議では女性は、もっぱら「聴」に徹しておくべきなのだ。発言や質問を控えて、決まったことには素直に従う。これが、万古不易の婦徳ではないか。
えっ、キミたち、なんとなく不満そうな表情じゃないか。これが封建道徳の押しつけであるとでも思っているのかね。だとすれば、戦後教育嘆かわしや、というほかはない。
もしかして、キミたち。「『教育勅語』は全てが間違っている」なんて、思っているんじゃないだろうね。そうだとしたら、それこそがたいへんな間違いだ。神の国の陛下の言に間違いがあろうはずはないじゃないか。
だから私は、首相在任中に教育改革を説いて、教育勅語の一部復活を提案したんだ。この国が天皇の国であり神の国なんだから、教育勅語の復活は当然だろう。これに反対する偏向した一部の国民やマスコミの気が知れない。
オリンピックは世界の祭典だが、開催地は我が国の東京だ。わが国固有の歴史や伝統や風習を主張することを遠慮してはならない。何よりも神と天皇が宣らせたもうた男女の別については、人倫の大本として世界に発信しなければならない。キミたちも、天皇と神の国の「東京五倫」であることを、よく弁えていただきたい。