幸田露伴「渋沢栄一伝」異聞
(2021年2月15日)
したたかなはずの資本主義だが、誰の目にもその行き詰まりが見えてきている。環境問題、エネルギー問題、貧困・格差…。とりわけ、新自由主義という資本主義の原初形態の矛盾が明らかとなり、グローバル化が事態の混乱を拡大している。
その反映だろうか、ノスタルジックに「日本資本主義の父」が持ち上げられている。この「父」は、福沢諭吉に代わって間もなく1万円札の図柄になるという。そして、昨日(2月14日)が第1回だったNHK大河ドラマ「青天を衝け」の視聴率も上々の滑り出しだという。
何ともバカバカしい限りではないか。「資本主義の父」とは、搾取と収奪の生みの親であり育ての親であるということなのだ。この「父」は、カネが支配する世の中を作りあげて自らも富を蓄積することに成功した。多くの人を搾取し収奪しての富の蓄積である。搾取され収奪された側が、「資本主義の父」の成功談に喝采を送っているのだ。
資本主義社会は、天皇親政の時代や、封建的身分制社会よりはずっとマシではある。だが、社会の一方に少数の富める者を作り、他方に多数の貧困者を作る宿命をもっている。「資本主義の父」とは本来唾棄すべき存在で、尊敬や敬愛の対象たり得ない。
仮に渋沢栄一に尊敬に値する事蹟があるとすれば、「資本主義の父」としてではなく、「資本抑制主義の父」「資本主義万能論を掣肘した論者」「野放図な資本主義否定論者の嚆矢」「資本主義原則の修正実践者」としてでしかない。彼が、そう言われるにふさわしいかは別として。
この点を意識してか、NHKは、渋沢について「資本主義の父」と呼ぶことを慎重に避けているようだ。番組の公式サイトではこう言っている。
幕末から明治を駆け抜けた実業家・渋沢栄一。豪農に生まれた栄一は、幕末の動乱期に尊王攘夷思想に傾倒する。しかし、最後の将軍・徳川慶喜との出会いで人生が転換。やがて日本の近代化に向けて奔走していく…。
「実業家」「日本の近代化」という用語の選択は無難なところ。
幸田露伴の筆になる「渋沢栄一伝」(岩波文庫)に目を通した。下記のとおり、岩波の帯の文句がこの上なく大仰であることに白ける。
「日本資本主義の父」と呼ばれる渋沢栄一の伝記を、文豪が手掛けた。士は士を知る。本書は,類書中,出色独自の評伝。激動の幕末・近代を一心不乱に生きた一人の青年は、「その人即ち時代その者」であった。枯淡洗練された名文は,含蓄味豊かな解釈を織り込んで、人間・渋沢栄一を活写する。露伴史伝文学の名品(解説=山田俊治)
渋沢の死が1931年で、その後に執筆依頼があり露伴の脱稿は1939年となった。渋沢の顕彰会からの依頼で引き受けた伝記である。稿料の額についての記載はないが、文豪・幸田露伴たるもの、こんな伝記を書くべきではなかった。今ころは、泉下で後悔しているに違いない。
執筆の動機からも、対象を客観視しての叙述ではない。ヨイショの資料を集めてもう一段のヨイショを重ねた決定版。執筆の時期が日中戦争のさなか、太平洋戦争開戦も間近のころ。ヨイショの方向は、尊皇の一点。資本主義の権化に徹した渋沢像がまだマシだったのではないか。下記の記述が、資本主義の権化ではないとする渋沢像の描出である。
商人は古より存在した。しかしそれは単に有無を貿遷し、輜銖(ししゅ・物事の微細なこと)を計較して、財を生じ富を成すを念とせるもののみであって、栄一の如くに国家民庶の福利を増進せんことを念として、商業界に立ったものは栄一以前にはほとんど無い。金融業者も古より存在した。しかしそれも単に母を以て子を招び、資を放って利を収むるを主となせるもののみであって、栄一の如く一般社会の栄衛を豊かに健やかならしめんことを願とせるものは栄一以前にはほとんど無い。各種の工業に従事したり事功を立てたりしたものも古より存在した。しかしこれまた多くは自家一個の為に業を為し功を挙ぐるを念として、栄一の以前には其業の普及、その功の広被を念としたものは少い。
栄一以前の世界は封建の世界であった。時代は封建時代であった。従って社会の制度も経済も工業も、社会事象の全般もまた封建的であった。従って人間の精神もまた封建的であった。大処高処より観れば封建的にはおのずから封建的の美が有り利かあって、何も封建的のものが尽く皆宜しくないということは無いが、しかし日月運行、四時遷移の道理で、長い間封建的であった我邦は封建的で有り得ない時勢に到達した。世界諸国は我邦よりも少し早く非封建的になった。我邦における封建の功果は既に毒爛して、その弊は漸くに人をして倦厭を感ぜしむるに至った。この時に当って非封建的の波は外国より封建的の我国の磯にも浜にも打寄せて来た。我国は震憾させられた。そして漸くにして起って来たものは尊皇攘夷の運動であった。尊皇は勿論我が国体の明顕に本づき、攘夷は勿論我が国民の忠勇に発したのであった。あるいは不純なる動機を交えたものも有る疑も無きにあらずといえども、それは些細のことで、大体において尊皇攘夷の運動は誠心実意に出で、その勢は一世に澎湃するに至って、遂に武家政治は滅び、王政維新の世は現わるるに及んだ。
上記は、切れ目のない文章を二段に分けてみたもの。前段は、私利を貪らぬ実業家としての渋沢に対するヨイショ。後段は、尊皇攘夷運動によって王政維新の世が到来したことの積極評価。露伴の頭の中では、この二つが結びついていたのであろう。
露伴は、戦後まで永らえて、47年に没している。もしかしたら、価値観の転換後は下記のように改作したいと思ったのではないだろうか。
世界諸国は我邦よりも少し早く民主主義的になった。我邦における天皇制の功果は既に毒爛して、その弊は漸くに人をして倦厭を感ぜしむるに至った。この時に当って民主主義の波は外国より天皇制の我国の磯にも浜にも打寄せて来た。我国は震憾させられた。そして漸くにして起って来たものは人民の民主主義を実現せんとする一大運動であった。天皇は勿論我が守旧勢力の傀儡にして、国体は勿論我が一億国民に対する思想統制の手段であり、全ては国民欺罔と抑圧の意図に発したのものであった。敗戦を機とした、民主主義を求むる人民の運動の勢は一世に澎湃するに至って、遂に天皇制は瓦解し、人権尊重と民主主義の「日本国憲法」の世は現わるるに及んだ。