(2022年5月10日)
ご近所にお住まいの皆様、ご通行中の皆様。しばらく、お耳を拝借いたします。こちらは「本郷・湯島九条の会」です。私たちは、日本国憲法の徹底した平和主義をこよなく大切なものと考え、長く「九条守れ」の活動を続けてまいりました。
そして今、ロシアがウクライナに軍事侵攻を開始したという深刻な事態の中で、常にも増して、今こそ「九条を守れ」「九条による平和を」と、声を挙げなければならないと決意を固めています。
皆さん、戦争とはいったいなんでしょうか。それは、大量の殺人行為です。大規模な強盗です。放火でもあり、建造物損壊でもあります。これ以上なく多くの人に不幸をもたらす野蛮な犯罪と言わねばなりません。歴史上、権力を手にした多くの為政者が、罪のない多くの人の不幸を無視して、より大きな権力と富を求めて戦争を繰り返してきました。しかし同時に、文明は何とかして戦争を止めさせたいと願い続け考えつづけてもきました。
そして、19世紀から20世紀にかけて、人類は戦争を違法なものと確認する営みを継続してきました。最初は捕虜に対する非人道的な行為や残虐な武器の使用を禁じ、やがて侵略戦争を違法とし、第二次大戦のあとには国連憲章が、例外を残しながらも戦争一般を違法なものとして禁止しました。
その流れをさらに一歩進めて、日本国憲法九条は、例外のない全ての戦争を放棄し、その保障として戦力の不保持を宣言しました。人類の叡智の貴重な到達点と言わねばなりません。
ウクライナに侵略した現在のロシアは、軍国主義・侵略主義をひた走った戦前の日本の姿です。日本は、侵略戦争を繰り返す中で、台湾・朝鮮を自国の領土とし、さらには満州を占領し、国際連盟で孤立しました。それでも中国にまで侵略の手を伸ばして泥沼に陥いり、世界から経済制裁を受けて行き詰まるや、米・英・蘭にも戦争を仕掛け…、そして壊滅的な敗戦を迎えました。
それが内外にどんな悲惨な災禍をもたらしたか、ご存じのとおりです。これを身に沁みた日本国民は、平和憲法を制定し、二度と戦争はしない、いかなる名目でも戦争は絶対にしないこと、そしてその保障として戦力を持たないことを憲法に明記したのです。これは、日本が世界に向かってした誓約にほかなりません。
しかし、今、ことさらに「九条は無力だ」「敵基地攻撃能力が大切だ」「非核三原則を見直そう」と、声高に語る人がいます。予てから、戦争の準備が必要だと発言していた人たちです。火事場泥棒同然にこの機会に乗じた、「防衛力を増強しよう」「軍事予算を増やそう」などという煽動に乗せられてはなりません。ましてや、「九条改憲」「核共有」などもってのほか、危険極まりないといわねばなりません。
憲法9条本来の理念は、他国を武力によって威嚇する防衛思想を放棄し、国際的な信頼関係を醸成することによって、平和を築き戦争を予防しようということです。単に戦争を予防するだけでなく、信頼と協調で結ばれた平和な世界を創ろうということにほかなりません。本来、日本はそのような外交努力に邁進すべきなのです。
そのとき、なによりも大切なものは、信頼の獲得です。強大な武力を持つ国ではなく、戦争を放棄し戦力を持たない平和主義に徹した国であればこそ、世界のどの国からも、誰からも信頼してもらえます。その信頼に基づいた平和外交が可能となるのです。
戦争の原因となる相互不信の原因や、国際的な格差や飢餓や、搾取や不平等を解きほぐし信頼関係を構築するには、九条というソフトパワーは、強力なツールであり権威の源泉というべきです。
残念ながら今、日本は世界有数の軍事力を持ち、アメリカとの軍事同盟に縛られている現状で、九条はその力を十分に発揮してはいません。それでも、九条は、少なくとも専守防衛に徹することの歯止めとしての役割を果たしています。この歯止めがはずれた場合の恐るべき事態を防止しなければなりません。
これ以上、自衛隊を強化し、防衛予算を増やし、米軍の基地を増強し、さらには核共有までの議論を始めるとなれば、日本は、平和を望む諸国と人々に対する、国際的な信頼と権威をさらに失墜し、却って危険を招くことになるでしょう。
そうならないように、火事場泥棒に警戒を怠らず、ともに「今こそ九条を守れ」と声を挙げていただくよう、お願いいたします。日本と世界の平和のために。
(2022年5月2日)
プーチン・ロシアのウクライナ軍事侵攻という深刻な事態のさなかに、明日75回目の憲法記念日を迎える。好機到来とばかりに、改憲派が日本国憲法の平和主義を侵攻している。とりわけ、維新がその尖兵の役割を担っている。これこそ「火事場泥棒」以外のなにものでもない。この火事場における泥棒の被害には十分な警戒を要する。
歴史を顧みたい。我が国近代にも反戦・平和の思想は脈々と息づいている。日露戦争開戦時における反戦・平和の言論には、今学ぶべきところが多々あると思う。とりわけ、平民新聞に拠った幸徳秋水の言説に耳を傾けたい。
日露の開戦は、1904〔明治37〕年2月の上旬である。その直前の同年1月17日付「平民新聞」第10号に、幸徳秋水の「吾人は飽くまで戦争を非認す」という論説が掲載されている。その中に下記の有名な一節がある。
「吾人は飽くまで戦争を非認す、之を道徳に見て恐る可きの罪悪也、之を政治に見て恐る可きの害毒也、之を経済に見て恐る可きの損失也、社会の正義は之が為めに破壊され、万民の利福は之が為に蹂躙せらる。吾人は飽くまで戦争を非認し、之が防止を絶叫せざる可からず。」
日本中が憎むべきロシアに開戦を叫ぶときに、敢えて戦争違法の本質を語り、「吾人は飽くまで戦争を非認し、之が防止を絶叫せざる可からず」という姿勢を宣言したのだ。
開戦後には、さらに悲痛な論陣となっている。
「戦争は遂に来れり。平和の撹乱は来れり。罪悪の横行は来れり。日本の政府は日く、其責露国政府に在りと。露国の政府は日く、其責日本政府に在りと。是に由て之を観る。両国政府も亦戦争の忌むべき平和の重んずべきを知る者の如し。少なくとも平和撹乱の責任を免れんことを欲する者の如し。」
「吾人平民は飽くまで戦争を非認せざる可らず。速に平和の恢復を祈らざる可らず。之が為めには、言論に文章に、有ゆる平和適法の手段運動に出でざる可らず。故に吾人は戦争既に来るの今日以後と雖も、吾人の口有り、吾人の筆有り紙有る限りは、戦争反対を絶叫すべし。而して露国に於ける吾同胞平民も必ずや亦同一の態度方法に出ると信ず。否英米独仏の平民、殊に吾人の同志は益々競ふて吾人の事業を援助すべきを信ずる也」
ここでも、「言論に文章に、有ゆる平和適法の手段運動に出でざる可らず。吾人の口有り、吾人の筆有り紙有る限りは、戦争反対を絶叫すべし」と咆哮している。立派なものだ。その姿勢を学ばなければならない。いま、幸徳秋水ありせば、「戦争反対」に続けて、「改憲反対」「9条を守れ」と絶叫するであろう。
幸いなことに、憲法改悪反対の世論は、ウクライナ侵攻後もけっして脆弱化していない。昨日発表となった共同通信の世論調査が「改憲機運は『高まっていない』とする回答が70%」というもので、護憲派に勇気を与えるものとなっている。
下記は、その共同の世論調査を報じる産経の記事(全文)である。
「9条改正、賛否拮抗 施行75年の共同世論調査
共同通信社は1日、憲法施行75年となる3日を前に郵送方式で実施した世論調査結果をまとめた。9条改正の必要性は「ある」50%、「ない」48%と賛否が拮抗した。昨年の同時期の調査で9条改正は、必要51%、不要45%だった。
岸田文雄首相が自民党総裁任期中に目指す改憲の機運は、国民の間で「高まっていない」が「どちらかといえば」を含め計70%に上った。「高まっている」は「どちらかといえば」を含め計29%。大規模災害や感染症の爆発的蔓延時の緊急事態条項として国会議員任期を延長できるようにする改憲は賛成76%、反対23%だった。
調査では、改憲機運に関し国会で改憲論議を「急ぐ必要がある」は50%で、「必要はない」49%と二分した。改憲問題に「関心がある」「ある程度関心がある」は計69%だった。
調査はロシアのウクライナ侵攻後の3?4月、全国の18歳以上の男女3000人を対象に実施した。」
自信をもって、私も声を上げ続けよう。「戦争反対」「改憲反対」「9条守れ」と。そう、私に口があり、ペンがあり紙があり、そしてパソコンがある限りは。この声は、必ずや世界の理性ある人々に通じるに違いないのだから。
(2022年4月30日)
4月25日の那覇市臨時市議会。「本土復帰50年に際し、市民・県民の生命を守る任務遂行に対する感謝決議案」なるものが上程され、採決の結果賛成多数で可決となった。このタイトルには感謝の宛先についての記載はなく、決議の手交や郵送は行わないというが、自衛隊に感謝する内容である。自衛隊への「感謝決議」は県議会を含め、沖縄県内の市町村議会では初めてのことと報じられている。自民党議員が提案し、これに共産党が賛成にまわったことが、大きな話題となっている。
提案理由は以下のとおりである。
「本年で本土復帰 50 周年を迎えるにあたり、関係機関が行った緊急患者等の災害派遣で市民県民の多くの命が救われた。
よって本市議会は、関係機関に対し感謝の意を表すためこの案を提出する。」
採択された決議の全文を引用しておきたい。
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「戦後 27 年の米国統治を経て沖縄県が本土復帰をして、本年は 50 年の節目を迎える。
多くの離島を抱える島しょ県の沖縄は、これまで「島チャビ(離島苦)」に挑戦しながら振興発展の歩みを進めてきた。復帰とともに配備された自衛隊は、本来任務ではなかった緊急患者空輸を昭和 47 年、粟国島を皮切りに開始し、本市消防局や医療機関と連携しながら、本年 4 月 6 日に南大東島の緊急患者空輸をもって搬送数が総計 1 万件を超えるに至った。
その他にも災害派遣として市内外における不発弾処理や、行方不明漁船等の捜索など市民・県民の生命を守る活動を継続して行っている。
また、海上保安庁も同様に本土復帰以来、3 千百件余の離島患者空輸や漁船等からの救助をおこなっているほか、ドクターヘリも同様な任務を行い、この復帰 50年には様々な行政機関や医療機関などの連携と協力があり市民・県民の生命と財産が守られてきた。
よって本議会は本土復帰 50 年に際し、関係機関並びに関係各位における市民・県民の生命を守る任務遂行に対して、深甚なる敬意と感謝の意を表するものである。
令和 4 年(2022 年)4 月 25 日
那 覇 市 議 会
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市議会の定数は40。欠員が2で、採決に加わらない議長を除くと、決議の投票権者数は37。そのうち15名が退席して表決に加わらず、有効投票数は22となった。無所属の2人が反対にまわり、採決結果は賛成20、反対2。この賛成票20の中に、共産党の5票がある。
地元紙報道の見出しは、【自民・共産が賛成 那覇市議会 感謝決議 自衛隊 緊急搬送】(琉球新報)、【自衛隊に感謝決議 那覇市議会で県内初 離島患者の搬送1万件で】【自衛隊への感謝決議 「党派を超えて可決され喜ばしい」と岸防衛相 那覇市議会で共産も賛成】(沖縄タイムス)など。
採決時退席したのは、立憲民主・社大、公明、ニライ会派など。ときは、ウクライナ侵攻のさなか。ところは、参院選・知事選を間近にした沖縄の県庁所在地である。影響は大きい。なんとも、分かりにくいことが起きるものだ。
琉球新報社説の一節は次のように述べている。「共産党は決議が民生に限った内容だとして賛成した。これまでの自衛隊に対する党の立場とどのように整合を図ったのかは分かりづらい」。私も同様の感想を持つ。
今、「自衛隊に感謝を」「自衛隊を侮辱するな」「国土の防衛という崇高な任務に敬意を」という、意識的な世論づくりが進行している。当然のことながら、9条改憲の地ならしである。その策動に乗せられてはならない。にもかかわらず、9条改憲反対の中心勢力である共産党が、「自衛隊感謝決議に賛成」とは、いったいどうしたことか。
アジア太平洋戦争での唯一の地上戦において、日本軍の被害を経験した沖縄ではないか。住民がガマから追い出され、あるいは集団自決を強要され、「軍隊は住民を守らない」と骨身に沁みた沖縄県民ではないか。その地での自衛隊感謝決議自体が信じがたい。
「離党の患者搬送や、災害派遣や、あるいは不発弾処理や、行方不明漁船等の捜索等々の市民・県民の生命を守る活動に限っての感謝」だから問題ないと言ってはならない。自衛隊の『本質』『本務』は、紛れもなく軍事力の行使にあって、民生にはない。自衛隊の『非本質』的部門における『非本務』活動をもって、自衛隊の存在を肯定評価してはならない。
本来、必要な民生活動を自衛隊に任せていてはならない。それぞれの専門活動機関を創設し、専門性の高い活動を目指すべきである。離党の患者救援や災害派遣は、その用途に特化した機材や装備を有し専門的な訓練を積んだ機関に任せるべきべきである。軍事用装備品の流用で済ましてよいはずはないのだから。
そして、ことさらに自衛隊に感謝してはならない。全ての公務員が国民に奉仕しているのだ。警察も消防も清掃も海保も気象庁も、そして教育も司法も行刑も…。自衛隊の任務のみを崇高としたり、特別に感謝の対象とすべき理由はない。
さらに、日本国憲法は、武力を保持しないと定めている。自衛隊はその存在自体が違憲である可能性が高い。仮にこれを違憲な存在でないとすれば、専守防衛に徹した規模や装備や編成に限定しなければならない。果たして、自衛隊は違憲の存在ではないのか。この議論の徹底を躊躇させる空気はきわめて危険である。
自衛隊とは、暴走すれば、国民の人権も民主主義も破壊する危険な暴力装置である。これに対しては、徹底した文民(主権者国民)の統制下に置かねばならない。自衛隊のあり方に対する批判を躊躇させる空気が社会に蔓延したときには、軍国主義という病が相当に進行していると考えざるを得ない。その病は、国民にこの上ない不幸をもたらす業病である。予防がなによりも肝腎なのだ。
だから、自衛隊感謝決議は、自衛隊批判を口にしにくくする空気作りの第一歩として危険なのだ。ましてや、共産党が賛成となればなおさらではないか。革新を名乗る党が、このような決議に賛同してはならない。猛省を促したい。
(2022年4月25日)
似合いというものがある。あるいは釣り合いというべきか。鶴には亀、梅に鶯、富士には月見草。翁には嫗、ロミオにはジュリエット、そして、ヒトラーにはヒロヒトである。ウクライナ政府の公式ツイッター上の動画で、せっかくヒトラー・ムソリーニと並べられていた昭和天皇(裕仁)の顔写真が、自民党経由の外務省の要請で削除されたという。おやおや、なんという不粋な。お似合いの仲を裂かれて、ヒトラーもヒロヒトも、泉下でさぞ無念の思いではなかろうか。
ウクライナ政府が、「ファシズムとナチズムは1945年に敗北した」という字幕と共にこの3名の顔写真の動画を掲載したのは、4月1日のことだという。もちろん、プーチン並みの戦争犯罪者としての非難の意を込めてのことである。
戦前の日・独・伊枢軸3国が侵略国家であり、反人権・反民主主義の全体主義だったことも、その各国の象徴たる人物がヒトラー、ムソリーニ、そして紛れもなくヒロヒトであったことも、世界に共通の常識である。その全体主義好戦国家の敗北は世界的に見れば慶事であった。このキャプションも、プーチン非難にピッタリのお似合い3人組写真掲載も、怒る筋合いはなく、謝るべきことでもない。
但し、ウクライナ政府には、ちょっとした誤解があったようだ。ドイツやイタリアと同様に、日本も全体主義の過去を清算した民主主義社会になっていると思い込んでいたのではないか。実はそうではなかったことに今ごろ気が付いて、愕然としているのだろうと思う。え?、日本ってまだ戦前と同じなのか?。
もしかしたら、ウクライナ政府の実務担当者は、ヒロヒトが戦後も天皇として生き延びたことを知らなかったのではないか。また、戦前は神であった天皇が戦後公式には人間となったが、洗脳から逃れられない多くの民衆からいまだに神同然の信仰対象となっていることも。戦前は臣民であった国民が戦後公式には主権者となったが、実は多くの民衆がいまだに臣民根性そのままであることも。さらには、枢軸時代の国旗や国歌だった「日の丸・君が代」を、日本だけが旧態依然として後生大事に護持していることなども。
ヒトラー・ムソリーニの思想を清算し克服してきた今のドイツやイタリアは、ヒトラーを批判してもムソリーニを非難しても、なんの問題も起こらない。両国ともに、世界の常識が通じる国になっているからである。ところが、日本はそうなっていない。天皇をヒトラーと並べれば、キリスト教徒がイエス・キリストを侮蔑されたごとくに、イスラム教徒がマホメットを誹謗されたごとくに、ヒステリックに喚くのだ。神聖な天皇教の教祖を、戦争犯罪人として扱ったなどとして。ヒロヒトの評価によって、日本社会の深層が炙り出される。
このヒステリックな抗議を受けて、ウクライナ政府は昨日、ツイッターに投稿した動画から昭和天皇裕仁の顔写真を削除し、謝罪した。やれやれというところだが、謝罪の言葉は難しい。ウクライナは世界の常識に従っただけ、なにも間違っていないからだ。「誤りを犯したことを心からおわびします。友好的な日本の方々を怒らせるつもりはありませんでした」とだけ述べたという。これが精一杯だろう。「怒らせるつもりはありませんでした」のあとに、「どうして皆さんが怒るのか、理解も納得もできてませんけれど…」という余韻が残る。
ナザレンコ・アンドリーという在日のウクライナ人の幾つかのツィッターが目にとまつた。4月24日付の以下のものが、その典型。正常な神経ではない。
「ウクライナ公式垢(ママ)は、本当に言葉が出ない程失礼なことをやらかした。「日本の教科書だって同じ歴史観」では済まされない。必ず責任者を特定して、直接抗議し、正しい歴史認識を教える。一般的なウクライナ人との感覚はズレがひどすごる。二度と広報に関わるべきではない。売国奴レベル。」
「正しい歴史認識」「売国奴」という言葉づかいは右翼のもの。右翼を代表するこの人物に聞いてみたい。「正しい歴史認識を教える」っていったい何を教えようというのか。まさか、昭和天皇(裕仁)に近隣諸国への侵略の意図も責任もないということではあるまい。それは、「正しい歴史認識」ではなく、「歴史修正主義」というのだから。
それ以外にも、幾つかのツィッターにお目にかかった。
ふざけるのもいい加減にしろ。ヒトラーと一緒にするな!
昭和天皇とアドルフ・ヒトラーを一緒にするな。日本にとってひどい侮辱だ。
(この種のツィートが少なくない。これは、深刻な社会心理学的研究テーマであろう)
金輪際ウクライナは応援しない!
支援を即、止めろ。そして支援した金も全て返してもらえ。
ウクライナを支援する気持ちがまったく失せた。謝罪がなければ、応援しない。
(結局は、ウクライナに対する日本の支援は反ロシアの感情だけからのもので、侵略戦争の被害救援という動機ではないようなのだ)
ゼレンスキーのパールハーバー演説で怒りの声をあげないからこうなるんだよ!
ゼレンスキーのパールハーバー発言を許すからこういうことになる!
(結局、ナショナリズムの呪縛から逃れられず、好戦的日本についての反省のない人々の妄言なのだ)
改めて思う。全ては、戦前の天皇制プロバガンダによるマインドコントロールを脱し切れていないことからの椿事なのだ。天皇制恐るべし、である。
(2022年4月24日)
本日でロシアのウクライナ侵略開始から2か月となった。この2か月間、戦争というものの悲惨さ、愚かさを噛みしめ続けてきた。いま、停戦への光明はまったく見えていない。この理不尽は、いったいいつまで続くのだろうか。
憎しみ合い、殺し合い、奪い合い、破壊し合い、欺し合い、環境を汚染するのが戦争である。どうしてこんなことが起きるのか。どうしたら、この不幸の源を世界から駆逐することができるのだろうか。
この戦争は明らかにロシアの側から仕掛けられたものである。軍事大国ロシアの大義のない隣国への侵略戦争。ロシア国内の開戦批判世論が、侵略に踏み切った政権を揺さぶることになるだろう、私は期待も込めて当初はそう考えた。
ところが、これまでのところそうなっていない。ロシア国民の政権支持率は、開戦後大きく上昇したという。政府系の世論調査機関の調査だけでなく、独立系の世論調査機関レバダ・センターの調査結果も、3月の支持率は83%を記録し、2月の71%から12ポイントも上昇したという。
そもそも戦争とはナショナリズムを高揚させ、政権の求心力を高めるものだからなのか。あるいはプーチン政権が国内向けプロバガンダに成功しているということなのだろうか。
だが、大局を眺めればロシアの軍事的な思惑は大きく挫折している。当初はウクライナの首都占領を目指した進軍は思わぬ反撃を受けて撤退を余儀なくされ、兵力を東部への侵攻に集中させてはいるが作戦の進展は思うとおりにはなっていない。制空権を掌握できないことは、侵攻当初から指摘されてきた。黒海艦隊の旗艦『モスクワ』の沈没もあり、兵の士気は低いと報じられてもいる。さらには国際世論の厳しい批判は身にこたえているに違いなく、国際的な経済制裁もこれから効果を発揮してくるだろう。軍事費浪費の負担に財政がどこまでもつのかという問題もある。
そんな状況で迎えた開戦2か月目の報道の中に、「侵攻継続以外の選択肢なし=支持率の低下懸念―プーチン政権」という〈リビウ発時事配信〉記事に目がとまった。
ロシアの独立系メディア「メドゥーザ」が22日、ロシア大統領府に近い複数の関係者の話として報じたところによると、政権内では数週間前から戦闘終結に関するシナリオが検討され始めた。しかし、プーチン氏の支持率低下を避ける「出口戦略」を見いだせず、停戦交渉のための世論づくりを放棄し「すべて成り行きに任せる」ことになった、という。
この報道だけではその真偽を判断しがたいが、こうした方針に至ったことについて、以下のようにプーチン政権の判断理由が述べられている。一言で言えば、ロシアの中産階級の間では侵攻を支持する割合が高く、中途半端な形での幕引きで不満が高まることを警戒したからだというのだ。
「メドゥーザが引用した、13?16日にモスクワ市民1000人を対象に行われた世論調査結果によると、「実質的に何でも買える」収入を得ている層では、「軍事作戦の継続に賛成」が62%で、「停戦交渉に賛成」の29%を大きく上回った。収入的にその一つ下の層でも、作戦継続賛成が54%で、交渉支持は37%。これが「食費も十分でない」層になると、停戦派が53%と作戦継続派(40%)を上回った。
社会学者グリゴリー・ユジン氏はメドゥーザに対し、「ロシアの中産階級のかなりの部分が治安・国防関係者と中堅の官吏」であり、「政権の直接的な受益者」だと分析。大統領府に近い関係者も、米欧が厳しい経済制裁を科し、食品を中心に国内の物価が上昇する中でも、こうした層はそこまで影響を受けていないと指摘した。」
つまり、戦争継続には低所得層の賛意が得られないのだが、停戦には高所得層の反発が強く、停戦に踏み切る決断はしがたいというのだ。しかし、このままでは、確実に国民生活への戦争の影響は深刻化することにならざるをえない。戦争継続反対の世論が、政権批判の世論となって、停戦せざるを得なくなるに違いない。私は、再び期待を込めて、そう思い始めている。プーチン政権の国民的な支持基盤は、けっして盤石ではなさそうなのだ。
(2022年4月23日)
火事場泥棒という言葉がある。普段できないことを、どさくさに紛れて性急にやってしまおうという、姑息でみっともないやりくちへの非難として使われる。今、自民党がやろうとしている「敵基地攻撃能力」整備論が、まったくその卑劣な手口である。
一国の安全保障政策の基本を転換するについても、憲法解釈の明らかな変更に関しても、落ちついた国民的議論を尽くさなくてはならない。浮き足立つごとき火急のさなかに、これをチャンスと普段やりたくてやれないことをやってしまえという、防衛政策の大転換。これを「卑劣な悪乗り」と言わざるを得ない。
まさか、まさかと思っている内に、自民党内の「敵基地攻撃能力」整備論が、自民党安全保障調査会で党内意見として採用となった。本年暮れに政府の「国家安全保障戦略」(2013年制定)が改定の予定。その新たな「戦略」への正式な「提言」として、その反映を目指すことになるという。4月21日の同調査会全体会合でのこと。これは、「泥縄」ではない。プーチン・ロシアの侵攻を利用した「悪乗り」というほかはない。
評判の悪かった「敵基地攻撃能力」のネーミングは、「反撃能力」に変更された。しかし、その内容がマイルドになったわけではない。もっと露骨な「敵基地だけでなく基地を維持するためのその周辺機能」をも攻撃対象とし、「先制も辞さない攻撃」をも認容する恐れを内包している。さらには防衛予算の増額までが盛り込まれた。
まず、攻撃対象には「指揮統制機能等」が追加された。「指揮統制機能」の限定性は薄弱で、「等」は無限に拡散する。先制攻撃への歯止めはない。
防衛費は、国内総生産(GDP)比2%以上を念頭に、5年以内の増額を提言した。
他国への武器供与に関する防衛装備移転3原則(旧「武器輸出3原則」)も、緩和の方向で見直すという。「侵略を受けている国に幅広い分野の装備移転を可能とする制度を検討」と踏み込んでいる。
いずれも、憲法の平和主義に対する挑戦的な内容。武力によらない平和の理念に逆行した、「武力の威嚇」による安全保障政策。これでは、近隣諸国の警戒心を高め、戦争への危険を招くことにならざるを得ない。
この「提言案」は、中国と北朝鮮、ロシアの軍事動向を問題視し、安全保障環境が「加速度的に厳しさを増している」と指摘し、他国の武力を牽制する武力の整備を強調する。
産経新聞が、高市早苗政調会長の記者会見発言を報じている。
『攻撃対象を「指揮統制系統を含む」としたことに関し、「かねてより相手の指揮統制機能を無力化することについては、非常に有効な手段であると私も考えていた」と語った』という。
正確な報道であるかは疑問だが、単純に軍事的な有効性だけを考えれば、「提言」も、これを支持する高市も正しい。が、もっと広い視野で、平和を維持するために有効か否かは、別問題である。外交には、明らかにマイナスでしかない。こういう「安全保障調査会」と「政調会長」をもつ自民党の防衛政策は危うい。
この自民党の「安保提言」に抗議する【平和構想研究会】(川崎哲代表)は、「憲法の平和主義の原則を逸脱」するものと厳しく批判している。その中に、次の一節がある。まったく同感、というほかはない。
「日本がこのような攻撃態勢をとれば、相手国も当然同様に反応をするだろう。いたずらに地域の軍事的緊張を高め、日本が攻撃される可能性をむしろ高めるものである。
こうした軍拡政策を、ロシアによるウクライナへの侵略戦争で人々が不安を抱いているのに乗じて提案することは、きわめて扇動的で挑発的な行為である。抑止力の強化という名目でとられるこうした政策は、実際には、日本の平和主義に対する不信を生み、周辺国を軍事的に刺激し、結果として戦争の危険性をむしろ高めるものである。」
(2022年4月22日)
ロシアの軍事侵攻によるウクライナの悲惨な事態に胸が痛む。これまで、その名さえ知らなかったマリウポリという都市の存在が、ここ数日特別の意味をもって脳裏を離れない。その市民の深刻な苦悩や恐怖を思わずにはいられない。
4月17日以来、マリウポリのアゾフスターリ製鉄所に立て籠もる守備軍と市民にに対する時間を切った降伏勧告が繰り返され、その都度胸が締めつけられる思いを余儀なくされてきた。いまもなお、その巨大な製鉄所の地下に、砲撃の恐怖と飢餓とに苛まれている多くの人々が身をひそめているという。
ところが、昨21日突然に様相が変わった。プーチンが、唐突に作戦変更を指示したようなのだ。報道では、プーチンはショイグ国防相にこう述べたという。
「工業地帯への強襲は、得策とは思えない。中止を命じる。兵士と将校の命と健康を守ることを考えなければならない。地下墓地のようなところをはいずり回る必要はない。ハエ1匹通れないよう、工業地帯を封鎖せよ」「“マリウポリ解放作戦”の完了を祝福する。感謝の意を隊員に伝えてほしい。南部の重要な拠点を制圧したことは成功だ。おめでとう」
なんというプーチンの言いぐさだろう。「マリウポリ全体では、約10万人が地下シェルターに隠れており、製鉄所地下には2000人が救出不可能な状況」と報じられている。息をひそめて「地下墓地のようなところをはいずり回る」10万の人々を、プーチンは「ハエ」にたとえたのだ。生死の境をさまよっている人々に対して、「ハエ1匹通れないよう封鎖せよ」と言った。それが、プーチンなのだ。
戦争だから仕方がない、とは言わせない。戦争を起こしたのもプーチンではないか。やむにやまれず起こした戦争だとも、言わせない。プーチンには、自らが起こした戦争での死者や戦争に苦しむ人に対する畏敬の念も、遺憾の気持ちも、憐憫も呵責も何もない。侵略戦争を起こし戦争犯罪を犯す人物とは、このような神経の持ち主なのだ。
確認しておこう。プーチン・ロシアの侵略行為は、国連憲章に違反の違法行為である以前に、明らかな大量殺戮であり、大規模強盗である。都市と建造物の破壊犯罪であり、放火犯でもある。さらに、おびただしい死体損壊、死体遺棄でもある。これに関しての、いかなる口実も言い訳も許してはならない。
また、改めて思う。プーチン・ロシアと同様に、これまでのあらゆる侵略も違法である。皇軍の侵略も、ベトナム戦争も、アフガン戦争も、イラク戦争も、イスラエルも…も。「どっちもどっち」で許すのではなく、「どっちも、けっして許してはならない」。アメリカもロシアも、ヒトラーもヒロヒトも、侵略戦争を起こし、戦争犯罪を重ねた国とその指導者は、徹底して断罪されなければならない。
私に分かることは、侵略者の違法とその悪辣さであって、しかるべき制裁が必要だということである。私に分からないのは、悪辣な侵略行為にどう対処すればよいのかということ。英雄的な徹底抗戦が正義なのか、交渉に妥協してでも停戦して人命を尊重すべきが正義なのか。あるいは、そのような問題の設定自体が間違っているのか。果たして、このような問に正しい解があるのだろうか。
分からぬままに、ひたすらに胸が痛む。これもプーチンの仕業である。
(2022年4月18日)
ロシア国防省は、17日包囲攻撃を続けるウクライナ南東部の要衝マリウポリで、製鉄所構内に立てこもったウクライナ部隊に降伏を勧告し、ゼレンスキーはこれを拒否した。局地的には絶望的な戦況での、部隊の殲滅を覚悟しての降伏拒絶である。本日夕刊の報道では「マリウポリ抵抗続く」とされてはいるが、希望は見えない。胸が痛む。
全軍の士気高揚のために、また国民の戦意を持続するためにも、徹底抗戦あるべきだろうか。あるいは人命尊重の見地からは降伏を受容すべきか。どちらが正しい選択なのだろうか。
旧帝国には大元帥である天皇が兵に与えた心得である『軍人勅諭』が、「死は鴻毛より軽しと心得よ」と教えた。さらに、陸軍大臣東條英機が示達した『戦陣訓』は、「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿れ」として、「降伏よりは死を」強要した。
盛岡で親しくした柳館与吉さんを思いだす。私の父と同世代で、私が盛岡で法律事務所を開設したとき、「あんたが盛祐さんの長男か」と手を握ってくれた人。戦後最初の統一地方選挙で、柳館さんも私の父・澤藤盛祐も、盛岡市議に立候補した間柄。二人とも落選はしたが善戦だったと聞かされている。もっとも、柳館さんは共産党公認で、私の父は社会党だった。
柳館さんは、旧制盛岡中学在学の時代にマルクス主義に触れて、盛岡市職員の時代に治安維持法で検束を受けた経験がある。要注意人物とマークされ、招集されてフィリピンの激戦地ネグロス島に送られた。絶望的な戦況と過酷な隊内規律との中で、犬死にをしてはならないとの思いから、兵営を脱走して敵陣に投降している。
戦友を語らって、味方に見つからないように、ジャングルと崖地とを乗り越える決死行だったという。友人とは離れて彼一人が投降に成功した。将校でも士官でもない彼には、戦陣訓や日本人としての倫理の束縛はなかったようだ。デモクラシーの国である米国が投降した捕虜を虐待するはずはないと信じていたという。なによりも、日本の敗戦のあと、新しい時代が来ることを見通していた。だから、こんな戦争で死んでたまるか、という強い思いが脱走と投降を決断させた。
戦争とは、ルールのない暴力と暴力の衝突のようではあるが、やはり文化的な規範から完全に自由ではあり得ない。ヨーロッパの精神文化においては、捕虜になることは恥ではなく、自尊心を保ちながらの投降は可能であった。19世紀には、俘虜の取扱いに関する国際法上のルールも確立していた。しかし、日本軍はきわめて特殊な「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓のローカルなルールに縛られていた。
しかも、軍の規律は法的な制裁を伴っていた。1947年5月3日、新憲法施行の日に正式に廃止となった陸・海軍刑法第7章「逃亡罪」は、敵前逃亡を死刑としていた。「出て来い。ニミッツ、マッカーサー」と叫んでいた時代に、当時20代の若者が、迷いなく国家よりも個人が大切と確信し、自ら投降して生き延びた。見つかれば、確実に銃殺となることを覚悟しての、文字通り決死行だった。「予想のとおり、米軍の捕虜の取扱いは十分に人道的なものでしたよ」「おかげで生きて帰ることができました」と言った柳館さんの温和な微笑が忘れられない。
ロシア軍の占領地での蛮行がなければ、ウクライナ軍司令部も降伏勧告受容の選択が可能であったかもしれない。投降しても、捕虜に対するロシア軍の苛酷な扱いは避けられないという判断もあるのだろう。暴力に対する憎悪と不信のエスカレートが、ウクライナ軍兵士の投降を阻んで、戦争をさらに凄惨なものにしている。
戦争になれば、戦闘も降伏も、敵も味方も、兵も民間も、勝利も敗北も、何もかもが悲惨極まりない。戦争を避けるあらゆる努力を惜しんではならない。
(2022年4月15日)
ウクライナ戦争のさなか、情報戦も熾烈である。何が真実か、真実をどう見極めるべきか、そもそも真実とはいったい何だろうか。錯綜する情報にどう向き合うべきか。多くの人の悩みを反映して、アンヌ・モレリ著「戦争プロパガンダ 10の法則」(草思社・永田千奈訳、初版2002年3月刊)が話題となっている。この「10の法則」を岩月浩二さんが、メーリングリストに次のとおり紹介してくれた。
1 われわれは戦争をしたくはない
2 しかし敵側が一方的に戦争を望んだ
3 敵の指導者は悪魔のような人間だ
4 われわれは領土や覇権のためにではなく、偉大な使命のために戦う
5 われわれも意図せざる犠牲を出すことがある。だが敵はわざと残虐行為に及んでいる
6 敵は卑劣な兵器や戦略を用いている
7 われわれの受けた被害は小さく、敵に与えた被害は甚大
8 芸術家や知識人も正義の戦いを支持している
9 われわれの大義は神聖なものである
10 この正義に疑問を投げかける者は裏切り者である
この法則は、イギリスの軍人でもあり政治家でもあったアーサー・ポンソンビー著の「Falsehood in Wartime(戦時の嘘)・1928」に出てくる、第一次世界大戦当時のプロパガンダを分析したもの。アンヌ・モレリは、その後に起こった第二次世界大戦やさまざまな戦争の情報を盛り込んで、1法則1章の章立で解説している。なお、モレリの肩書は、ブリュッセル自由大学歴史批評学教授となっている。
そして、モレリは11番目の法則を付け加えている。
「新たにもうひとつ法則を追加しよう。
『たしかに一度は騙された。だが、今度こそ、心に誓って、本当に重要な大義があって、本当に悪魔のような敵が攻めてきて、われわれはまったくの潔白なのだし、相手が先に始めたことなのだ。今度こそ本当だ』」
この本については、NHKラジオ「高橋源一郎の飛ぶ教室」4月8日の「ヒミツの本棚」でも取りあげられている。その最後の部分の高橋の解説が興味深い。
モレリさんは書いています。「戦争プロパガンダの法則について考えてゆくと、最後には次のような根本的な疑問にたどりつく」「真実は重要だろうか。」
本当のことって分かんないんだから、もうどうでもいいみたいになるのか、それでも本当の事を探すべきなのか。
何が本当かわからなくなってくるっていうときに、我々はどうしたらいいのか。「なにもかも疑うのもまた危険なことではないだろうか」
これメディアリテラシーの話なんですよね。いま皆さんもいろんなメディアの情報にさらされてて、そういう時にどうしたらいいのかと。「これまでの歴史のなかで、戦況を左右した「情報」が、その後あっさりと否定され、しかもその否認が何の反響も引き起こさないとなると、真実には何の価値もないのだろうかという疑問がうかぶ」
モレリさんはこういうふうに言ってます。
「行き過ぎた懐疑主義が危険であるとしても」、「盲目的な信頼に比べれば、悲劇的な結果につながる可能性は低いと私は考える。メディアは日常的にわれわれを取り囲み、ひとたび国際紛争や、イデオロギーの対立、社会的な対立が起こると、戦いに賛同させようと家庭のなかまで迫ってくる。こうした毒に対しては、とりあえず何もかも疑ってみるのが一番だろう。」
モレリさんの最後の結論は最後の1行に出てきます。
「疑うのがわれわれの役目だ。武力戦のときも、冷戦のときも、漠とした対立が続くときも。」
今の目の前の戦争もそうだけれども、こういったことは戦争だけじゃないよね。だから本当にいま困難な中で、明せきでいられるにはどうするか。絶えず自分で注意して、でも自分が取っている情報が本当かどうかもわからない中で、どうしたらいいのか、っていうときに、こういうプロパガンダの法則があるというのを知っていると、ちょっと我に返るためには、僕はすごくいいことだと思いました。
戦争目的の聖化や敵の悪魔化は、皇軍やナチスの専売特許ではない。そして、過去のことでもなく、戦争遂行に限られたことでもない。リテラシーを研ぎ澄まして、プロバガンダに対する強い免疫を獲得せねばならない。
(2022年4月14日)
今朝の毎日の第11面「激動の世界を読む」シリーズに、酒井啓子・千葉大教授の骨太の論説。ネットでは有料記事のようだが、読むに値する内容。こんな論説を読めるのだから、新聞というものは実に廉い。
https://mainichi.jp/articles/20220414/ddm/004/070/017000c
《「侵攻」をめぐる二重基準》《ゆがめられる国際規範》という二つの大きな主見出しに、『難民対応でも違い』『「現状」とは何か』そして、『論理酷似する米露』という小見出しが付いている。
キーワードの第1は、「二重基準」である。
アフガニスタン戦争、イラク戦争など米国の軍事介入と、今回のロシアのウクライナ侵攻。同じ「大国による現状変更の軍事介入」でありながら、国際社会は「よい介入」と「絶対悪としての介入」と極端なダブルスタンダードの評価をした。
そのことが難民対応の違いともなる。ウクライナ難民に対して、日本などはもろ手を挙げて受け入れを表明した。一方、シリアやイラク、イエメンなど、同じく外国の介入が原因で難民化し、受け入れを何十年も待ち続けている人々が、ウクライナ難民優先で放置される。
キーワードの第2は、「現状変更」。
「武力による現状変更」というときの「現状」とは何か、という問題。欧米の言う「現状」がソ連崩壊後の国際秩序であるのに対して、ロシアにとっては、帝国期からソ連時代に至るロシア文明圏の維持が、あるべき「現状」なのだろう。
何が「維持されるべき現状」なのかを決めるのは、戦争の勝利者である。勝利者のルールに阻まれて失地が回復できないなら、自らが勝利者となるしかないと考える力の論理が横行する。
キーワードの第3は、「米露の論理酷似」。
20年間の「対テロ戦争」で多大な負担と損害を被って、米国は介入先から撤退した。だが、米国が多用した正当化の論理は、そのままロシアに引き継がれている。自派勢力に武器と義勇兵を投入し、それを正当化するために人道と正義をかざすなど、そうした軍事介入での手法が常とう化され、米国からロシアに継承されている。
そして結論が《ゆがめられる国際規範》を正さねばならないということ。
国際規範が大国によって徹底的にゆがめられ、恣意的に利用されてきたために、規範としての信頼性が失われている。今、国際規範が無力なのは、大国の武力による利益追求を正当化する口実でしかないと、矮小化されているからである。
ロシアのウクライナ侵攻と、アメリカの「対テロ戦争」の反省は、私たちに、欺まんにまみれた国際規範を正し、その汎用性を高める努力の必要性を訴えている。
要約すれば以上のとおりだが、若干の感想を付け加えたい。
私は、ベトナム戦争以来、軍事超大国アメリカこそが不合理な世界秩序における不正義の元兇と考え続けてきた。湾岸戦争ではその立場で、「ピースナウ・市民平和訴訟」に取り組んだ。不正義なアメリカの戦争に加担してはならない、との基本姿勢である。その後のアフガン戦争、イラク戦争と、私の信念は強化された。
酒井教授の言う、「二重基準」はそのとおりである。が、今批判を集中すべきはプーチンのロシアであって、アメリカではない。ウクライナやNATOの不手際でもない。
プーチン・ロシアの手口は、アメリカの軍事介入にも、皇軍の侵略にも酷似していることを忘れない。徹底してプーチン・ロシアを批判し、その侵略批判の国際世論の高揚をもって、アメリカも旧日本軍も、あらゆる国の侵略と人権侵害を許さない平和をつくるよう努めたい。国内の動きにも、「そりゃ、まるでプーチンの論理や手口とおんなじだ」と批判できるようにしたいのだ。
そして、少なくともウクライナ難民の受け入れの程度には、我が国の難民対策を改善しなければならない。「二重基準」の解消は、平和と人権を尊重する方向で行われなければならない。