澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

英雄的な徹底抗戦か、人命尊重の降伏勧告受諾か。余儀なくされた深刻な選択。

(2022年4月18日)
 ロシア国防省は、17日包囲攻撃を続けるウクライナ南東部の要衝マリウポリで、製鉄所構内に立てこもったウクライナ部隊に降伏を勧告し、ゼレンスキーはこれを拒否した。局地的には絶望的な戦況での、部隊の殲滅を覚悟しての降伏拒絶である。本日夕刊の報道では「マリウポリ抵抗続く」とされてはいるが、希望は見えない。胸が痛む。

 全軍の士気高揚のために、また国民の戦意を持続するためにも、徹底抗戦あるべきだろうか。あるいは人命尊重の見地からは降伏を受容すべきか。どちらが正しい選択なのだろうか。

 旧帝国には大元帥である天皇が兵に与えた心得である『軍人勅諭』が、「死は鴻毛より軽しと心得よ」と教えた。さらに、陸軍大臣東條英機が示達した『戦陣訓』は、「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿れ」として、「降伏よりは死を」強要した。

 盛岡で親しくした柳館与吉さんを思いだす。私の父と同世代で、私が盛岡で法律事務所を開設したとき、「あんたが盛祐さんの長男か」と手を握ってくれた人。戦後最初の統一地方選挙で、柳館さんも私の父・澤藤盛祐も、盛岡市議に立候補した間柄。二人とも落選はしたが善戦だったと聞かされている。もっとも、柳館さんは共産党公認で、私の父は社会党だった。

 柳館さんは、旧制盛岡中学在学の時代にマルクス主義に触れて、盛岡市職員の時代に治安維持法で検束を受けた経験がある。要注意人物とマークされ、招集されてフィリピンの激戦地ネグロス島に送られた。絶望的な戦況と過酷な隊内規律との中で、犬死にをしてはならないとの思いから、兵営を脱走して敵陣に投降している。

 戦友を語らって、味方に見つからないように、ジャングルと崖地とを乗り越える決死行だったという。友人とは離れて彼一人が投降に成功した。将校でも士官でもない彼には、戦陣訓や日本人としての倫理の束縛はなかったようだ。デモクラシーの国である米国が投降した捕虜を虐待するはずはないと信じていたという。なによりも、日本の敗戦のあと、新しい時代が来ることを見通していた。だから、こんな戦争で死んでたまるか、という強い思いが脱走と投降を決断させた。

 戦争とは、ルールのない暴力と暴力の衝突のようではあるが、やはり文化的な規範から完全に自由ではあり得ない。ヨーロッパの精神文化においては、捕虜になることは恥ではなく、自尊心を保ちながらの投降は可能であった。19世紀には、俘虜の取扱いに関する国際法上のルールも確立していた。しかし、日本軍はきわめて特殊な「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓のローカルなルールに縛られていた。

 しかも、軍の規律は法的な制裁を伴っていた。1947年5月3日、新憲法施行の日に正式に廃止となった陸・海軍刑法第7章「逃亡罪」は、敵前逃亡を死刑としていた。「出て来い。ニミッツ、マッカーサー」と叫んでいた時代に、当時20代の若者が、迷いなく国家よりも個人が大切と確信し、自ら投降して生き延びた。見つかれば、確実に銃殺となることを覚悟しての、文字通り決死行だった。「予想のとおり、米軍の捕虜の取扱いは十分に人道的なものでしたよ」「おかげで生きて帰ることができました」と言った柳館さんの温和な微笑が忘れられない。

 ロシア軍の占領地での蛮行がなければ、ウクライナ軍司令部も降伏勧告受容の選択が可能であったかもしれない。投降しても、捕虜に対するロシア軍の苛酷な扱いは避けられないという判断もあるのだろう。暴力に対する憎悪と不信のエスカレートが、ウクライナ軍兵士の投降を阻んで、戦争をさらに凄惨なものにしている。

 戦争になれば、戦闘も降伏も、敵も味方も、兵も民間も、勝利も敗北も、何もかもが悲惨極まりない。戦争を避けるあらゆる努力を惜しんではならない。

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