DHC・吉田嘉明が私のブログ記事を名誉毀損として、6000万円の慰謝料支払いや謝罪文などを求めているのが「DHCスラップ訴訟」。実は、DHC・吉田が起こした同種訴訟は、少なくも10件ある。だから、私の事件を正確に特定するためには、「DHCスラップ訴訟・澤藤事件」とでも言わねばならない。他に少なくとも9件の「別件スラップ訴訟」が提起されたことが各訴訟のスラップ性を如実に表しているのだ。
「少なくも10件」というのは、東京地裁への提訴年月日や事件番号を弁護団が把握している事件の数だ。本当のところ、DHC・吉田はいったい何件のどんな訴訟を提起したのか、それがどのような審理の進展となっているのか、正確なところは分からない。本来は、その件数や内容を明らかにして、全体像を把握することが、DHC・吉田のそれぞれの提訴が持つ意図や違法性を判断することに有益である。
だから、私の弁護団は原審において、「本件訴訟がスラップ訴訟であることを証明するため」として、DHC・吉田に対して「本件と同時期に、同種の高額の金銭賠償を求める名誉棄損訴訟を何件提起したか」を明らかにするよう釈明を求めたが、DHC・吉田側は頑なにこれを拒否した。自分がした巨額の賠償請求訴訟の件数すら、明示できないとしたのだ。
それでいて、それぞれの訴訟の進展が自分に有利だと思われる判決や和解になると、これを援用するというご都合主義。都合の悪い判決や和解には、口をつぐんでいるのだ。DHC・吉田が、私に対する本件提訴がスラップでない証しとして別件の和解調書や判決書を証拠提出するのであれば、求釈明に応じて吉田の手記を巡る名誉棄損訴訟の全貌(提訴件数、内容、審理の現状)を明らかにすべきが当然ではないか。
昨日(12月19日)のブログでは、DHC・吉田が控訴審で提出してきた判決書に基づいて、「判決が認定した『DHCに対する行政指導の数々』ー『DHCスラップ訴訟』を許さない・第59弾」を掲載した。この判決は、DHC吉田が通販業界の業界紙発行元を被告として提起した1億円の損害賠償請求訴訟のもの。驚くべきは、判決が認定した行政のDHCに対する数々の行政指導と、これに対するDHCの対応である。DHC吉田が「厚労省の規制チェックが煩わしい」という理由と、吉田が「官僚と闘う」というその闘い方の実態がよく見えるではないか。こういう集積された情報は、消費者行動の判断要因としてきわめて有益である。ぜひとも、公益のために拡散していただきたいと希望する。
本日は、控訴審になってDHC・吉田側が提出してきた、別件DHCスラップ訴訟での和解調書についてご報告したい。これまた、突っ込みどころ満載なのだ。
提出された和解調書によれば、東京地裁民事第7部で本年9月27日に原告DHC・吉田と、被告となったジャーナリスト(あるいは政治評論家)の間で訴訟上の和解が成立した。実は、事件番号が2件付いている。この被告はDHC・吉田から2件のスラップ訴訟を提起され、その2件が併合審理されて、和解に至ったのだ。
その内の1件は2014年4月14日提訴で請求額は6000万円(第1次事件)、もう1件が同年6月16日提訴で請求額は4000万円(第2次事件)というもの。合計1億円の請求に対する和解金額は30万円、率にして0.3%である。両訴訟の印紙代だけで合計34万円を上回る。弁護士費用どころか、印紙代に足りない和解金額なのだ。もっとも、謝罪文とウェブ記事の削除条項があって、検討を要する。
和解条項本文は下記のとおりである。
和解条項
1 被告は,原告らに対し,本件和解金として,30万円の支払義務があることを認める。
2 被告は,原告らに対し,前項の金員を平成27年○月○日限り,原告ら指定の下記口座に振り込む方法により支払う。ただし,振込手数料は被告の負担とする。
3 被告は,原告らに対し,原告吉田嘉明が渡辺喜美に対して8億円を貸し付けたことに関し,被告が平成26年月14日までに作成した記事について,事実と異なる部分があったことにつき,謝罪する。
4 被告は,原告らに対し,平成27年10月1日から同月31日までの間,別紙1謝罪広告目録記載の謝罪広告をする。
5 被告は,原告らに対し,平成27年10月1日限り,別紙2削除記事目録記載の記事を削除する。
6 原告らはその余の請求をいずれも放棄する。
7 原告ら及び被告は,原告ら及び被告との間には,本和解条項に定めるもののほか何らの債権債務がないことを相互に確認する。
8 訴訟費用は各自の負担とする。
対澤藤訴訟でのDHC・吉田側の証拠説明書には、立証趣旨が次のように記されている。
「本件(澤藤事件)同様,控訴人吉田による8億円の貸付の動機について,「何か『見返り』をアテにしていたはずである。」などと述べるブログ記事を掲載した政治経済評論家と控訴人(DHC・吉田)らとの間で,ブログ記事の記載が『事実の摘示』であることを前提とした訴訟上の和解が成立した事実等」
しかし、この和解調書でそこまで読み取ることは不可能である。和解条項中には、確かに被告の記事に「事実と異なる部分があった」とは記載されてはいるものの、被告が認めた「事実と異なる記載」の特定はなく、どこがどのように事実と異なるかは明示されていないのだ。
1億円請求訴訟における被告の座にあることの重圧は相当のものである。私は同じ立場にある者としてその心理がよく分かる。「この重圧から直ちに逃れられるのであれば、30万円の支払いは安いもの」と被告が考えたとしても、おかしくはない。仮に、一審で全面勝訴判決を得ても、DHC・吉田は必ず控訴するだろう。上告審も考えなければならない。裁判は長引く、仕事には差し支える。金もかかる。通常、この種の事件で弁護士に支払うべき控訴審着手金が30万円で済むとは考えられない。金を厭わず裁判を仕掛ける相手だけに、被告が30万円で決着をつけようという選択をしたことは肯けるところ。これも、スラップの恫喝効果というべきであろう。
しかし、被告もプライドを捨てたわけではない。謝罪文は、次のとおりごくあっさりとしたものである。被告の記事のどこにどのような「事実と異なる部分があった」のか、ことさらに曖昧にされている印象を拭えない。
「株式会社ディーエイチシー会長吉田喜明氏が渡辺喜美氏に対して8億円を貸し付けたことに関し,私が平成26年4月14日までに掲載した記事に事実と異なる部分があったことにつき,謝罪する。」
むしろこの謝罪文において注目すべきは、「平成26年4月14日までに掲載した記事」に限定して「事実と異なる部分があった」としていることである。前述のとおり、和解は併合した2事件について行われている。「平成26年4月14日」とは、第1次事件の提訴日であって、実は6月16日提訴の第2次事件については、被告は謝罪もせず記事の削除にもまったく応じていないのだ。
だから、和解条項第3項は、その反対解釈として「原告吉田嘉明が渡辺喜美に対して8億円を貸し付けたことに関し,被告が平成26年4月15日以後に作成した記事については,事実と異なる部分があったことは認められず、削除も謝罪もする必要はない」と合意をしたと読むべきなのだ。このことに鑑みれば、4月14日までの記事について「事実と異なる部分があった」は、実は和解で収めるための口実つくりの条項と解すべきであろう。
第2次事件は、被告とされたジャーナリスト氏の経済誌への寄稿記事である。当該雑誌(「L誌」としておく)は14年7月14日号で、発売は同年6月3日である。この号に掲載された被告の記事は、前掲和解条項の「被告が平成26年4月14日までに作成した記事について,事実と異なる部分があったことにつき,謝罪する」の範疇からは明示的に除かれている。もちろん、記事の削除もない。第2事件の請求原因は、和解条項第6項で「原告らはその余の請求をいずれも放棄する」の「その余」とされ、完全に解決済みの問題とされたのだ。
第2次事件の対象とされた記事を掲載した「L誌」はA4版本で、問題とされたのは「『タニマチ』ではなく ただの『金貸し』」と題する2頁分の記事。このなかの8個所の記述が名誉を毀損するものとして問題とされた。既に、和解解決のあった現在、この記事の紹介に躊躇すべき問題はなくなった。「当該記事がいったんは名誉毀損として提訴の対象とされたが、記事の削除も訂正もないまま、明示的に『事実と異なる部分』とする範疇から外されて和解に至った」記事の内容として紹介することに意義がある。
DHC・吉田側の第2次事件訴状請求原因における主張では、まず、「『タニマチ』ではなく ただの『金貸し』」というタイトルが名誉毀損だと言った。
さらに7個所の記述が名誉毀損ないし侮辱に当たると主張されたのだが、記事中の問題箇所を、理解のために前後のまとまりも含めて以下の部分だけを引用しておきたい。
「渡辺前代表は、千葉県一の金持ちになった吉田会長に、いわゆる伝統的な『タニマチ』の姿を思い描き、政治資金をアテにした。『タニマチ』とは、無償でスポンサーになり、後援して贔屓の人間を可愛がる人のことをいう。だが、吉田会長には、『タニマチ』になる気はなく、化粧品・サプリメント製造販売の監督官庁である厚生労働省、とくに「厚生省」に顔が利く政治家の一人として、渡辺氏の『利用価値』に着目したにすぎなかった。
渡辺前代表の亡父・渡辺美智雄元蔵相が、『厚生大臣』歴があったことから、厚生省に築いていた人脈や利権が渡辺前代表に引き継がれているのではないかと錯覚し、利用価値を感じていたフシがある。」
「吉田会長は、「主務官庁である厚労省の規制チェックは他の省庁と比べても特別煩わしく、何やかやと縛りをかけてくる」と不満を述べている。しかし、元々、業者に対する取締り行政を主な使命とする監督官庁である厚労省が、国民・消費者の健康被害を防ぐために製品製造に関して厳しい基準を設けて製品をチェックし、監視するのは当たり前だ。」
「(吉田会長は)監督官庁が持っている規制を緩和・撤廃してもらうのに政治家を利用する『新しいタイプの政商』たらんとしたということだ。所詮は、『ただの金貸し』にすぎなかった」
以上の記述は、至極真っ当で常識的な論評というべきではないか。この記述が、DHC・吉田の名誉を毀損し不法行為を構成するものと提訴されたが、和解成立に際してはまったく無傷のまま残ったのだ。現在でも、この雑誌の当該号の在庫を注文して読むことができるわけだ。
特に注目すべきは、澤藤事件においてこの和解調書を提出した立証趣旨がこだわっている「吉田による8億円の貸付の動機について」の記述である。和解したジャーナリストの「L誌」の記事は、「吉田会長には、『タニマチ』になる気はなく、化粧品・サプリメント製造販売の監督官庁である厚生労働省、とくに「厚生省」に顔が利く政治家の一人として、渡辺氏の『利用価値』に着目したにすぎなかった。」「(吉田会長は)監督官庁が持っている規制を緩和・撤廃してもらうのに政治家を利用する『新しいタイプの政商』たらんとしたということだ。所詮は、『ただの金貸し』にすぎなかった」と、動機を語ってこれが和解によって無傷で残ったということなのだ。
この和解は、DHC吉田の行為を批判した私のブログ記事の主張を補強するものでこそあれ、否定材料にはならない。「DHCスラップ訴訟・澤藤事件」の控訴審に、いったいなんのために提出してきたのか、またまた首を傾げざるを得ない。
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DHCスラップ訴訟12月24日控訴審口頭弁論期日スケジュール
DHC・吉田嘉明が私を訴え、6000万円の慰謝料支払いを求めている「DHCスラップ訴訟」。本年9月2日一審判決の言い渡しがあって、被告の私が勝訴し原告のDHC吉田は全面敗訴となりました。しかし、DHC吉田は一審判決を不服として控訴し、事件は東京高裁第2民事部(柴田寛之裁判長)に係属しています。
その第1回口頭弁論期日は、
クリスマスイブの12月24日(木)午後2時から。
法廷は、東京高裁庁舎8階の822号法廷。
ぜひ傍聴にお越しください。被控訴人(私)側の弁護団は、現在136名。弁護団長か被控訴人本人の私が、意見陳述(控訴答弁書の要旨の陳述)を行います。
また、恒例になっている閉廷後の報告集会は、
午後3時から
東京弁護士会502号会議室(弁護士会館5階)A・Bで。
せっかくのクリスマスイブ。ゆったりと、楽しく報告集会をもちましょう。
表現の自由を大切に思う方ならどなたでもご参加ください。歓迎いたします。
(2015年12月20日・連続第994回)
枕詞というものがある。あおによし奈良、ちはやぶる神代、ぬばたまの闇、たらちねの母という、あの手の言葉。ギリシャ神話にも、すね当てよろしきアカイア人、全知全能のゼウスなど、いくつも出て来る。私もいくつか「マイ枕詞」を持っている。都教委の10・23通達には、必ず「悪名高い」と冠する。そして産経新聞には「私の大嫌いな」だ。この枕詞が外れることは、しばらくはあるまい。
その私の大嫌いな産経の元ソウル支局長が、韓国大統領の名誉を毀損したとの嫌疑で起訴された刑事被告事件において、昨日(12月17日)ソウル中央地裁が無罪判決を言い渡した。私の大嫌いな産経支局長の事件ではあっても、言論の自由保障の見地から無罪判決は大いに歓迎したい。もともとが無理でおかしな起訴であったのだから。
法制が微妙に違うのでなかなか理解しにくいが、被告罪名は情報通信網法違反であるという。ネットにおける名誉や信用を毀損する言論を取り締まる法なのであろう。この法のなかに、「名誉毀損」に関する罰条があって、元支局長は朴槿恵大統領の名誉を傷つけたとして起訴された。逮捕こそされなかったが、しばらくは日本への帰国は許されず、求刑は懲役1年6月だった。
判決では、産経ネット記事の内容は真実ではないと断定され、真実ではないことについての認識も存在したとされたようだ。争点はもっぱら大統領を中傷する意図の有無に集中し、中傷の意図なしとしての無罪判決と報じられている。
その判決内容はともかく、驚いたことは、判決言い渡しの冒頭に裁判長の信じがたい発言があったこと。韓国外務省から裁判所に、この事件についての「善処」を求める要請があったことが明らかにされた。その「善処」とは、「日本からの要望を考慮すべきこと」だというのだ。
朝日の社説では「異例の措置」と評して「韓国政府が日韓関係や国際批判などを考えて自ら決着を図ろうとしたとも受け取れる」と述べているが、異例といわんよりは異様なことというしかない。
裁判所に外務省からの圧力があった。しかも、その圧力は日本の要望に基づくものだというのだ。司法の独立という理念に照らして、大問題ではないか。このような圧力があったことを判決言い渡しの冒頭に述べた裁判官の感覚が理解できない。
いくつかの著名な先例が思い浮かぶ。
まずは、大津事件だ。明治の中ころ、訪日中のロシア皇太子を日本の警察官が切りつけて怪我を負わせた。旧刑法時代のことだが殺人罪の案件。しかし、大国ロシアにおそれをなした政府は、司法部に「大逆罪」の適用を促した。天皇や皇太子の殺害は既遂でも未遂でも死刑しかなかった。要するに、ロシアへの言い訳に犯人を死刑にせよと圧力をかけたのだ。時の大審院長児島惟謙は、敢然と政府の干渉を拒絶して、謀殺未遂罪(旧刑法292条)を適用して被告人に無期徒刑(無期懲役)を言い渡した。死刑ではなかったのだ。以来、児島はロシアへのおもねりや政府の干渉から「司法の独立」を守ったヒーローと持ち上げられている。
児島惟謙と対照的に、外国の干渉をすんなり受容したアンチヒーローが、砂川事件における最高裁長官田中耕太郎。
安保条約に基づく刑事特別法を違憲無効として無罪判決を言い渡した東京地裁の伊達判決に、アメリカは素早く対応した。判決言い渡し翌日の閣議の前に、駐日米国大使マッカーサー(ダグラス・マッカーサーの甥)は藤山外相に会って、「この判決について日本政府が迅速に跳躍上告(控訴審抜きで直接最高裁に上告する例外的な手続)を行うよう」示唆し、同外相はその場で承諾している。さらに、同大使は自ら跳躍上告審を担当した田中最高裁長官とも会って、「本件を優先的に取り扱うことや結論までには数ヶ月かかる」という見通しについての報告を得ている。1959年12月の砂川事件大法廷審理は、マ大使が本国への報告書に記載したとおりの筋書きとして展開し、全裁判官一致の判決となって伊達判決を覆した。
しかし、さすがに田中耕太郎がアメリカからの圧力を公表することはなかった。以上の事実が明るみに出たのは、伊達判決から49年後の2008年4月、ジャーナリスト新原昭治が米国立公文書館で、駐日米国大使マッカーサーから米国務省宛報告電報など伊達判決に関係する極秘公文書を発見したことによる。
ところが、ソウル中央地裁の裁判長は、すんなりと外務省の干渉を受け入れながら、そのことを隠そうともしない。児島惟謙とも違うが、田中耕太郎とも同じではないのだ。
私は、軍事政権を倒して民主化をなし遂げた韓国の人々に敬意を惜しまない。韓国社会には好もしい隣人と親近感を持っている。しかし、今度の一連の動きには、違和感を禁じ得ない。
まずは大統領府の動きがヘンだし、産経記事を告発した「市民団体」もヘンだ。最もヘンなのが言論の自由を圧迫する起訴をした検察庁。そして判決ぎりぎりになって裁判所に干渉した外務省も、この干渉を当然の如く公表してこの干渉を受け入れた裁判所もまことにヘンだ。
私が、大嫌いな産経を応援しなければならないことが、ヘンの極みではないか。これ以上にヘンなサイクルが進展せぬよう願いたい。ヘンな事件よ、これで終われ。
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DHCスラップ訴訟12月24日控訴審口頭弁論期日スケジュール
DHC・吉田嘉明が私を訴え、6000万円の慰謝料支払いを求めている「DHCスラップ訴訟」。本年9月2日一審判決の言い渡しがあって、被告の私が勝訴し原告のDHC吉田は全面敗訴となりました。しかし、DHC吉田は一審判決を不服として控訴し、事件は東京高裁第2民事部(柴田寛之総括裁判官)に係属しています。
その第1回口頭弁論期日は、
クリスマスイブの12月24日(木)午後2時から。
法廷は、東京高裁庁舎8階の822号法廷。
ぜひ傍聴にお越しください。被控訴人(私)側の弁護団は、現在136名。弁護団長か被控訴人本人の私が、意見陳述(控訴答弁書の要旨の陳述)を行います。
また、恒例になっている閉廷後の報告集会は、
午後3時から
東京弁護士会502号会議室(弁護士会館5階)A・Bで。
せっかくのクリスマスイブ。ゆったりと、楽しく報告集会をもちましょう。
表現の自由を大切に思う方ならどなたでもご参加ください。歓迎いたします。
(2015年12月18日・連続第992回)
本日の毎日朝刊に、次の見出しの記事。
「籾井・NHK会長:与党聴取『圧力と捉えず』 やらせ疑惑巡り」
「NHKの籾井勝人会長は3日の定例記者会見で、『クローズアップ現代』のやらせ疑惑を巡り自民党が局幹部から事情聴取したことについて、『圧力と捉えるのは考えすぎだ』と述べた。放送倫理・番組向上機構(BPO)の放送倫理検証委員会は11月6日、自民党の聴取を『政権党による圧力』と批判する意見書を出している。
籾井会長は意見書の指摘には『コメントを控える』としたうえで、『(クローズアップ現代の報道に関する)我々の中間報告書が出た時点の話だから、説明に行っただけ』と主張。さらに『自民であろうが野党であろうが、説明に来いと言われれば行くが、そこで《この番組はどうだ》と(内容について)言われても、我々は《聞けません》という話だ』と述べた。」
読売もほぼ同じ内容で、見出しは「自民の事情聴取『圧力は考えすぎ』…NHK会長」。
産経(デジタル)が籾井の言葉を詳しく報道している。その一部。
「自民党の聴取については、あのとき、NHKの中間報告が出ていた。それを説明に行ったということだ。番組について、NHKがプレッシャーを受けたということはない。こう言うと、また『籾井は自民党寄りだ』といわれるかもしれないが、そういうことではない。NHKの中間報告が出た時点で、それを説明に行ったということ。これを圧力ととらえるのは考え過ぎではないか。こう言うと反発を食らうかもしれないが、事実はそういうことだ」
「??BPOの意見書などは、政権与党がテレビ局を呼んだことを「圧力」と指摘していた。だが、籾井会長自身は圧力ではないと受け止めているというか
はい。(そう考えてもらって?澤藤補足)結構です。言い過ぎかもしれないが。われわれは不偏不党でやっているので、自民党であろうが、野党であろうが、『説明に来い』と言われたら、説明には行く。そこで『この番組はどうだ』と(注文を)言われたら、NHKとしては聴けません、という話だ。われわれとしてはそういう認識で(説明に)行った」
「??BPOとは考え方が違うということか
BPOと考え方が違うとか、そういうことではなく、NHKとしてはそう思っているということだ」
籾井記者会見の発言は、実は大きな問題を露呈しているのだ。NHKはBPOの指摘をまったく理解していない。理解する能力をもっていない。だから、当然のことながら、BPOの指摘を真摯に受け止める姿勢に欠けている。
BPOはNHK自体の問題として、『クローズアップ現代』のやらせ疑惑を指摘した。さすがに籾井もこの点は理解しているようだ。しかし、BPOの指摘はこれだけでなく、総務相や自民党の放送への介入を厳しく戒めている。これが真骨頂。
BPO意見書は、「NHKが自主的に問題を是正しようとしているのに、政府が行政指導で介入するのは、放送法が保障する『自立』の侵害行為だ」「自民党情報通信戦略調査会がNHK幹部を呼び、番組について説明させたのは、放送の自由と自律に対する政権党による圧力そのもので厳しく非難されるべきだ」と政権の介入を厳しく批判した。また、BPOは、NHKの側にも「干渉や圧力に対する毅然とした姿勢と矜持を堅持できなければ、放送の自由も自律も浸食され、やがては失われる」としかるべき対応の努力を促したのだ。
籾井には、BPOから指摘のこの問題点の重要性が理解できない。だから自覚など生じようがないのだ。
「NHKがプレッシャーを受けたということはない。これを圧力ととらえるのは考え過ぎではないか。」というのは、おそらく彼のホンネなのだろう。
籾井は、自ら「こう言うと、また『籾井は自民党寄りだ』といわれるかもしれない」としている。自分では「自民党寄り」という程度の自覚なのかも知れないが、実態はとんでもない、そんなレベルではない。「寄り」ではなく安倍自民党と一体の存在なのだ。圧力とは、異質のものからの働きかけについてだけ感じられるもの。籾井は、高市や自民党から何と言われても、身内からの助言としか感じない。これを圧力と感じる能力を欠いているのだ。
言論人は、権力との距離を十分に意識し、自分が権力とは異質であることを自覚しなければならない。権力の行使のあり方には常に敏感でなくてはならない。自分に対するものだけでなく、他者に対するものについても、権力からの圧力は鋭敏なアンテナで覚知して、声を上げ抵抗する覚悟がなければならない。
籾井勝人には、そのような資質が決定的に欠けている。どっぷり浸かった権力との同質感がその妨げとなっている。戦前のメディアの多くは権力からの弾圧を感じていなかった。NHKは大本営発表に汲々とし、新聞は戦意高揚を煽って部数を伸ばした。自らを権力と同質のものとし、権力からの独立や対峙の気概をもたなかったからだ。
籾井勝人は、戦前のNHKとまったく同じ感覚ではないか。BPOの指摘をないがしろにするNHK会長は、やはり不適任。辞めてもらわねばならない。日本の民主主義のために。
(2015年12月4日・連続977回)
上村達男(元NHK経営委員)著の「NHKはなぜ、反知性主義に乗っ取られたのか」(東洋経済新報社)が話題となっている。題名がよい。これに「法・ルール・規範なきガバナンスに支配される日本」という副題が付いている。帯には、「NHK経営委員長代行を務めた会社法の権威による、歴史的証言!」。著者は、人も知る「法・ルール・ガバナンス」のプロ中のプロ。その著者が、直接にはNHKのガバナンスについて報告しつつも、「規範なきガバナンスに支配される日本」を論じようというのだ。これは興味津々。
私はこの本をまだ読んでいない。11月29日(日)の赤旗と朝日の両書評を見た限りで触発されての本日のブログである。
NHKの反知性が話題になっているのは、およそ知性とかけ離れた会長のキャラクターによる。元NHKディレクターの戸崎賢二による赤旗の書評の表題が、「衝撃の告発 根源的な危機問う」と刺激的だ。NHK会長の反知性ぶりが並みではなく衝撃的だというのだ。その籾井勝人の「反知性」の言動を間近に見た著者の「衝撃の告発」「歴史的証言」にまず注目しなければならない。
「上村氏は2012年から3年間NHK経営委員を務め、籾井会長時代は経営委員長代行の職にあった。この時期に氏が体験した籾井会長の言動の記録は衝撃的である。自分に批判的な理事は更迭し、閑職に追いやる、気に入らないとすぐ怒鳴り出す、理事に対しても『お前なー』という言葉遣い、など、巨大組織のトップにふさわしい教養と知見が備わっていない人物像が描かれている。」
これは分かり易い。しかし、問題はその先にある。「反知性」の人物をNHKに送り込んだ「反知性主義者」の思惑が厳しく問われなければならない。
「著者は、こうした(籾井会長の)言動を『反知性主義』と断じているが、会長批判に終始しているわけではない。安倍政権が、謙抑的なシステムを破壊しながら、国民の反対を押し切って突き進む姿も『反知性主義』であり、政権のNHKへの介入の中で起こった会長問題もその表れであるという。」「NHK問題の底流には日本社会の根源的な危機が存在している、という主張に本書の視野の広さがある。」
朝日の方は、「著者に会いたい」というインタビュー記事。「揺らぐ『公正らしさ』への信頼」というタイトルでのものだが、さしたるインパクトはない。それでも、著者の次の指摘に目が留まった。
「公正な情報への信頼が揺らげば、議論の基盤が失われ、みんなが事実に基づかずに、ただ一方的に言葉を投げ合うような言論状況が起きかねない。『健全な民主主義の発展』に支障が生じるのではないか、と懸念する。」
民主主義は「討議の政治」と位置づけられる。討議における各自の「意見」は各自が把握した「事実」に基づいて形成される。各自が「事実」とするものは、主としてメディアが提供する「情報」によって形づくられる。公共放送の使命を、国民の議論のよりどころとなる公正で正確な情報の提供と考えての上村発言である。
おそらく誰もが、「あのNHKに、何を今さら途方もない過大の期待」との感をもつだろう。政権と結びつき政権の御用放送の色濃い現実のNHKである。そのNHKに、「議論の基盤」としての公正な報道を期待しようというのだ。それを通じての「健全な民主主義の発展を」とまで。
一瞬馬鹿げた妄想と思い、直ぐに考え直した。反知性のNHKではなく、憲法の理念や放送法が想定する公共放送NHKとは、上村見解が示すとおりの役割を期待されたものではないか。その意味では、反知性主義に乗っ取られたNHKは、民主主義の危機の象徴でもあるのだ。到底このままでよいはずがない。
さて、「NHKはなぜ、反知性主義に乗っ取られたのか」という問について考えたい。この書名を選んだ著者には、「乗っ取られた」という思いが強いのだろう。では、NHKは本来誰のもので、乗っ取ったのは誰なのだろうか。
公共放送たるNHKは、本来国民のものである。国家と対峙する意味での国民のものである以上、NHKは国家の介入を厳格に排した独立性を確立した存在でなくてはならない。しかし、安倍政権はその反知性主義の蛮勇をもってNHK支配を試みた。乱暴きわまりない手口で、まずは右翼アベトモ連中を経営委員会に順次送り込み、その上で反知性の象徴たる籾井勝人を会長として押し込んだ。NHK乗っ取り作戦である。
NHKを乗っ取った直接の加害者は、明らかに安倍政権である。解釈改憲を目指しての内閣法制局長人事乗っ取りとまったく同じ手法。そして、乗っ取られた被害者が国民である。政権が、反知性主義の立場から反知性の権化たる人物を会長に送り込む人事を通じて、国民からNHKを乗っ取った。一応、そのような図式を描くことができよう。
しかし、安倍政権はどうしてこんなだいそれたことができてしまうのか。政権を支えているのは、けっして極右勢力や軍国主義者ばかりではない。小選挙区制というマジックはあるにせよ、政権が比較多数の国民に支えられていることは否定し得ない。自・公に投票しなかった国民も、この間の政権によるNHK会長人事を傍観することで、消極的あるいは間接的に乗っ取りに加担したと言えなくもない。
とすれば、国民が国民からNHKを乗っ取ったことになる。加害者も被害者も国民という奇妙な図。両者は同一の「国民」なのか、それとも異なる国民なのか。
「反知性主義」とは、国民の知的成熟を憎悪し、無知・無関心を歓迎する政権の姿勢である。自らものを考えようとしない統治しやすい国民を意識的にはぐくみ利用しようという政権の思惑といってもよい。反知性主義者安倍晋三がNHKに送り込んだ反知性の権化は、政権の意を体して「政府が右を向けというからいつまでも右」という報道姿勢をとり続けている。今のところ、反知性主義者の思惑のとおりではないか。
ヒトラー・ナチス政権も旧天皇制政府も、実は「反知性の国民」からの熱狂的な支持によって存立し行動しえたのだ。国民は被害者であるとともに、加害者・共犯者でもあるという側面を否定できない。再びの過ちを繰り返してはならない。反知性主義に毒されてはならず、反知性に負けてはならない。
厚顔と蛮勇の前に知性は脆弱である。が、必ずしも厚顔と蛮勇に直接対峙しなければならないことはない。大きな声を出す必要もない。心の内だけででも、政権の不当を記憶に刻んで忘れないとすることで対抗できるのだ。ただ粘り強さだけは必要である。少なくとも、反知性の徒となって、安倍政権を支える愚行に加わってはならない。それは、いつか、自らが悲惨な被害者に転落する道に通じているのだから。
(2015年12月1日・連続第975回)
一昨日の土曜日(11月28日)に、明治大学の集会で西川伸一さん(政治学・明大政経学部教授)のレポートを聞いた。レポートというよりはレクチャーを受けた印象。「『安保法制=戦争法』の採決は正当に行われたのか? メディア報道の在り方を問う」というタイトル。これが滅法面白かった。これに続いて、私も「採決の不存在」について法的視点からのレポートをしたのだが、こちらは面白い報告とはならなくて残念。
西川さんのレポートは、事実にまつわる「記憶」と「記録」の関係についてのもの。民主主義社会における討議の前提となる事実は、「記録」によって確認するしかない。正確な「記録」こそが民主主義成立の前提として重要であることを公文書管理法などを引用して強調し、最後は「記憶に頼るな、記録に残せ」という野村克也(生涯一捕手)の言葉で締めくくられた。
その重要な「記録」が、今回の戦争法案審議ではいかに杜撰な扱いをされたか。参議院規則に照らしていかに大きな違反をし、ねじ曲げられたか。具体的で興味深いレクチャーとなった。
最も印象的だったのは、記録の改ざんをジョージ・オーウェル「1984年」の次の一文を引いて批判したこと。
「すべての記録が同じ作り話を記すことになればーーその嘘は歴史へと移行し、真実になってしまう。党のスローガンはいう。『過去をコントロールするものは、未来をコントロールし、現在をコントロールするものは過去をコントロールする』と」
西川さんのレクチャーの導入は、「1984年」の「真理省」のスローガンの紹介から。記憶を正確に記録しようとしない安倍政権とその膝下の議会とを「真理省的状況」と憂いてのことである。
「真理省」のスローガンを想い起こそう(高橋和久訳)。
戦争は平和なり
自由は隷従なり
無知は力なり
この3つのスローガンの解釈はいく通りにも可能だろう。
全体主義が完成した社会における支配者にとっては、矛盾した命題を何の疑問を提示することなく、素直に受容する国民の精神構造こそが不可欠なのだ。このスローガンは、そのような国民意識の操作道具として読むことができるだろう。その点では、旧天皇制政府やナチスのスローガンと酷似している。
もう少し、意味のあるものとしても理解できそうだ。
「戦争は平和なり」とは、あまりにも長く継続する戦争を国民に納得させるためのスローガンと読むことができる。「戦争に慣れよ。慣れ切ってしまえば、これが正常な事態で、平和と変わらない平穏な状態なのだ。戦争継続のこの状態こそを日常であり平和であると受容せよ」という思考回路の押しつけ。
「自由は隷従なり」も同様。国民が権力に抵抗するから弾圧を受けて自由でないと感じることになるのだ。国民が自由でありたいと願うなら、権力に自発的に隷従する精神を形成すればよい。そうすれば、隷従することこそ自由であって、自由は隷従となる。
「無知は力なり」は分かり易い。なまじ国民個人が知をもてば、主体を確立した個人が形成される。そうすれば、権力を批判することにもなる。それは国家の力を弱めることにほかならない。国家が欲するものは無条件に絶対服従する国民であって、それこそがつよい国家形成の礎なのだ。
一般論を離れて、この3本のスローガン。まさしく、非立憲・反知性アベ政権のスローガンそのものではないか。
「戦争は平和なり」とは、アベ政権の積極的平和主義のことである。
消極的に平和を望むことでは平和は実現できない。平和の実現のためには武力による抑止力が必要であり、その武力は想定される敵国を制圧するに足りる強力なものでなくては役立たない。しかも、抑止力としての武力は保持しているだけでは不十分。武力による威嚇も武力の行使も辞さない姿勢あって初めて平和のための抑止力となる。いや、戦争を辞さない覚悟があって、初めて平和が実現する。だから、我が国は平和の実現のための戦争をいとわない。戦争こそ平和のためのために必要なのだ。これが、積極的平和主義の真骨頂。
「自由は隷従なり」における自由の一は、権力からの自由。自由の要諦は徹底して権力に隷従することである。「日の丸・君が代」を内心において受容せよ。さすれば、その内心に従って起立し斉唱する自由が認められているではないか。なまじ権力に抵抗する精神をもつものだから、沖縄県や名護市やその支援者の如く、自由ではいられないのだ。仮にの話しだが、「久辺三区」が隷従すれば、ムチではなくアメにありつく自由を獲得することになるのだ。
もう一つの自由は、資本からの自由。企業には世界一の経営環境を確保するのが、政権の方針。実質的に企業の側には、解雇の自由も、雇い止めの自由も、サービス残業を命じる自由も保障する。ひるがえって、労働者の権利は可及的に切り捨てる。労働者の人間性の確保や労働条件の改善などを求める自由は、企業に隷従する者についてだけ、隷従の範囲において認められる。
そして、何よりも「無知は力なり」である。現政権・与党の開き直った反知性主義を象徴するスローガン。無知蒙昧で自主性自立性を欠いた操縦しやすい国民の育成こそが政権の大方針。「国民の無知」が政権の支えであり「国家の力」の源泉なのだ。このアベ政権の大方針は、教育政策とメディア政策に反映している。
小学校から大学まで、自分の頭で批判的にものを考えようとしない国民をどう作り上げるか。これが教育政策の根幹である。政府批判の世論を押さえ込む報道の姿勢をどう作り上げるか、これがメデイア政策の根幹である。教育基本法の改悪から、教育委員会制度改悪、大学の自治への介入、教科書採択介入や道徳教育の強行まで、教育政策全般が「無知は力なり」の大原則に則って進められている。そして、メディア対策の基本は、特定秘密保護法の制定とNHKの政権支配とによく表れている。
そのアベ政権の支持率が今、持ち直しているという。「無知は力なり」「自由は隷従なり」を支える国民が一定程度存在する現実があるのだ。無念の気持で、ジョージ・オーエルの慧眼と警鐘にあらためて敬意を表しなければならない。嗚呼。
(2015年11月30日・連続第974回)
「札付き」という言葉がある。「折り紙付き」の「折り紙」とはちがう、よからぬ「札」が付いている連中のこと。その札付き連中が、TBSの看板番組『NEWS 23』でアンカーを務めている岸井成格を攻撃している。これは看過できない。この攻撃を成功させてはならない。
私は本日の赤旗「潮流」で初めて知った。11月14日産経と翌15日読売に、「私達は、違法な報道を見逃しません」と題した異様な全面意見広告が掲載されている。岸井成格を攻撃して、その報道姿勢を変えようというのだ。その攻撃の理由が、「番組で岸井氏が『メディアは安保法案の廃案に向けて声を上げ続けるべきだ』と発言したのは、放送法4条『政治的公平』に違反すると言うのです」。この真っ当な発言が攻撃対象とされているとは穏やかでない。戦戦争法廃止運動をつぶそうという動きの一環だ。舞台は国会の場から、平和と戦争をテーマとしたメディアの自由をめぐる論争に移された。
この異様な広告の「広告主は“視聴者の会”なる団体。呼びかけ人として7人が名を連ねています。いずれも安倍首相の応援団を自負する面々です。あの手この手でメディア支配をねらう政権。今回の広告は視聴者を装い個別番組と一放送人を標的にしています。異常です」
この7人とは、以下のとおり。
すぎやまこういち/代表(作曲家)
渡部昇一(上智大学名誉教授)
渡辺利夫(拓殖大学総長)
鍵山秀三郎(株式会社イエローハット創業者)
ケント・ギルバート(カリフォルニア州弁護士・タレント)
上念司(経済評論家)
小川榮太郎(文芸評論家)
この7人に付いているのは、「極右」という札だけではなく、「安倍応援団」という札だ。代表となっている、すぎやまこういち(作曲家)とは、安倍晋三の政治団体である晋和会に毎年150万円の法が許容する最高額を寄附し続けている人物。安倍晋三に、「我々日本人が直面している難局を乗り切るリーダーは安倍晋三氏しか考えられません。私達の子孫にこの素晴らしい日本国をしっかりと残して行く責任は重大です。音楽家のひとりとしても、氏の“美しい国を目指す”という宣言にも感動しております」とエールを送ってもいる。
この「安倍応援団」の札付きが、あからさまに「メデイアとしても(安保法案の)廃案に向けて声をずっと上げ続けるべきだ」という岸井の発言を攻撃のターゲットに定めている。ここが問題の核心だ。
政権と与党には目の上のコブの反戦争法(案)運動の盛り上がり。できることなら、これを弾圧し制圧したいところだが、民衆の反作用も恐ろしい。官邸や自民党が前面には出にくいところ。そこで、官邸主導で使いっ走りを集めたか、パシリの方からその役目を買って出たか、あるいはアウンの呼吸でのことであったか、その辺は定かでない。定かではないものの、官邸の言いたいこと、やりたいことを、この札付き連中が代わってやっているのだ。権力に奉仕の重宝なパシリたち。
いま、TBSという有力な電波メディアの表現の自由が攻撃を受けている。攻撃の尖兵になっているのは社会的勢力としての右翼だが、その背後には明らかにアベ政権の存在がある。さらに重大なことは、攻撃の対象とされているものが、けっしてTBS一社ではなく、我が国の表現の自由そのものであることだ。平和・戦争・安全保障・立憲主義等々のシビアなテーマにおいて、時の政権に批判の立場の言論は許さない、というシグナルが送られているのだ。事態は深刻である。
表現の自由とは、何よりも権力に対峙するものとしてその存在が保障されなければならない。権力を賛美し同調し、あるいは迎合する表現や言論に権力による制約はあり得ない。だからその自由や権利性を論じる意味はない。意味があるのは権力を批判し、権力を攻撃することによって、権力から憎まれる表現についての自由や権利だけである。
すぎやまこういち以下「権力の手先7人衆」が求めているものは、偏向のレッテルを貼り付けることでの、政権批判の自重・自制・自粛にほかならない。この攻撃に屈して、TBSに萎縮があってはならない。そのようなことがないように、全メディアが、いま、こぞって岸井成格とTBSを擁護し支援しなければならない。むしろ、局・各メディアが、より政権批判を強めることで、「権力の手先7人衆」とその背後の政権の意図を挫かなければならない。
読売と産経も同様だ。広告料収入に頬を緩めて傍観していたのでは、明日は我が身のこととなりかねないのだから。
(2015年11月29日・連続第973回)
本日の夕刊を見て驚いた。「韓国のソウル東部地検は18日、慰安婦問題を扱った学術書『帝国の慰安婦 植民地支配と記憶の闘い』の著者、世宗大の朴裕河(パク・ユハ)教授を名誉毀損罪で在宅起訴した。」(毎日)という。
同教授は同書で「日本軍従軍慰安婦」を、「売春婦」「日本軍と同志的関係にあった」などと記述したことから、元慰安婦から刑事告訴されていた。起訴は、この告訴を受けてのもののようだ。
毎日の記事によると、「検察は、河野官房長官談話や、2007年に米下院が日本に慰安婦問題で謝罪を求めた決議などを基に『元慰安婦は性奴隷に他ならない被害者であることが認められている』と指摘。著書の内容は『虚偽』と判断した。」という。これでは、表現の自由の幅は極端に狭くなる。
共同通信の配信記事では、「地検は『虚偽事実で被害者らの人格権と名誉権を侵害し、学問の自由を逸脱している』と指摘した。」「同書は韓国で、日本を擁護する主張だとして激しい非難を浴び、元慰安婦の女性ら約10人が14年6月に朴氏を告訴。ソウル東部地裁は今年2月、女性らが同書の出版や広告を禁じるよう求めた仮処分申し立ての一部を認める決定を出し、出版社は問題とされた部分の文字を伏せ、出版した。」という。表現の自由は、既にここまで制約されているのだ。
私は、民主化運動後の韓国を好もしい隣国であり国民と感じてきた。2年前の5月に訪問したソウルは、穏やかで落ちついたたたずまいの美しい街という印象だった。
憲法裁判所の見学や民主的な弁護士らのと交流で垣間見た、この国の民主化の進み方に目を瞠った。そして、これからは韓国社会に学ぶべきところが大きい。掛け値なしにそう思った。
ところが、その後いくつかの違和感あるニュースに接することになる。その筆頭は、産経新聞ソウル支局長の起訴である。同支局長のコラムが、「大統領を誹謗する目的で書かれた」として、名誉毀損罪で起訴され懲役1年6月の求刑を受けている。判決期日は11月26日、大いに注目せざるを得ない。韓国の司法は、大統領府からどれほど独立し得ているのだろうか。
私は、産経は大嫌いだ。ジャーナリズムとして認めない。常々、そう広言してきた。産経にコメントを求められたことが何度かある。そのたびに、「自分の名が産経紙上に載ると考えただけで、身の毛がよだつ」と断ってきた。その私が、産経支局長の起訴には納得し得ない。元来、権力や権威や社会的影響力の大きさに比例して、あるいはその2乗に比例して、批判の言論に対する受忍の程度も高くなるのだ。大統領ともなれば、批判されることが商売といってもよい。中には、愚劣な批判もあるだろうが、権力的な押さえ込みはいけない。
これに続いての朴裕河起訴である。寛容さを欠いた社会の息苦しさを感じざるを得ない。朴裕河の「帝国の慰安婦」の日本語版にはざっと目を通して、読後感は不愉快なものだった。不愉快ではあったが、このような書物を取り締まるべきだとか、著者を処罰せよとはまったく思わなかった。よもや起訴に至るとは。学ぶべきものが多くあるとの印象が深かった韓国社会の非寛容の一面を見せられて残念でならない。
もちろん、私は日本軍による戦時性暴力は徹底して糾弾されなければならないと思っている。被害者に寄り添う姿勢なく、どこの国にもあったこととことさらに一般化して旧日本軍の責任を稀薄化することにも強く反対する。しかし、それでも見解を異にする言論を権力的に押さえつけてよいとは思わない。当然のことながら、私が反対する内容の言論にも、表現の自由を認めねばならない。
産経ソウル支局長も朴裕河も、情熱溢れる弁護活動と、人権感覚十分な裁判官によって無罪となって欲しいと思う。念のため、もう一度繰り返す。私は産経は大嫌いだ。朴裕河も好きではない。「大嫌い」「好きではない」と広言する自由を奪われたくない。そのためには、嫌いな人の嫌いな内容の言論にも、表現の自由という重要な普遍的価値を認め、これを保障せざるを得ないのだ。
(2015年11月19日・連続第963回)
恐るべし。日本中を「偏向攻撃」という名の怪獣が徘徊している。虎視眈々とあらゆる言論を視野に狙いを定め、猛然と襲いかかっては噛みついて餌食とする。この怪獣は常に、右から左へ一方向だけに突進するのだ。
真に恐るべきは、この怪獣の毒液がもたらす萎縮効果である。噛みつかれるかもしれないと怯える惰弱な精神が、攻撃されてもいないのに過剰に反応して政権批判を自粛する。このような言論の自己規制が怪獣をのさばらせ太らせることになる。
この怪獣を直接に操っているのは知性なき付和雷同の輩であるが、これを生み、育て、陰の司令塔となっているのは、明らかに現政権とその一味である。この怪獣は、政権の後ろ盾でぬくぬくと育って、政権の意向を忖度しつつ成長し、政権の望むように攻撃目標を設定している。
かつてこの怪獣は漫画「はだしのゲン」を攻撃し、「梅雨空に『九条守れ』の女性デモ」という俳句にまで噛みついた。また、放送大学も立教大学も、噛みつかれる以前に萎縮し自主規制して、闘わずしてこの怪獣の餌食となった。
そして本日(11月14日)の毎日新聞に、「ジュンク堂:民主主義フェア、選書を入れ替え再開」の記事。同書店が9月下旬からはじめた「自由と民主主義のための必読書50」というブックフェアが「偏向」の攻撃で10月下旬に中断され、企画の書棚撤去が話題となっていた。このフェアが、形を変えて再開されたというニュース、なのだが…。
「大手書店『MARUZEN&ジュンク堂書店』渋谷店は13日、先月から中断していたフェア『自由と民主主義のための必読書50』を『今、民主主義について考える49冊』に改めて再開した。店員の書き込みをきっかけに、インターネット上で『偏向している』と批判されたのを受けた措置。中断前から約3分の2の本を入れ替え、『誤解される余地のないようにした』と説明している。
フェアは安全保障関連法成立後の9月下旬に始まり、10月末まで実施する予定だった。しかし、10月中旬に店員がツイッターで『ジュンク堂渋谷店非公式』と題して『年明けからは選挙キャンペーンをやります!夏の参院選まではうちも闘うと決めましたので!』『一緒に闘ってください』と書き込んだところ、ネット上に『書店が特定の思想・信条を支持するのはどうなのか』といった投稿を含め、反対、賛成両論があふれた。渋谷店は10月21日に棚を撤去し、書店のホームページで『本来のフェアタイトルの趣旨にそぐわない選書内容だった』とコメントしていた。
再開したフェアは、安保法反対の活動をした学生団体SEALDsと高橋源一郎さんの共著や、五野井郁夫・高千穂大准教授の本を引き続き選んだが、小熊英二・慶応大教授、中野晃一・上智大教授、映画監督の想田和弘さんらの本を外した。
一方、長谷川三千子・埼玉大名誉教授、佐伯啓思・京都大名誉教授ら保守派の論客や、ジャーナリストの池上彰さんの本を加えた。SEALDsの本は最下段に陳列した。
入れ替えについて広報担当者は『個別の本が良いとか悪いとかではなく、フェアタイトルに合っているかを考えた』と話した。フェアは来月12日まで。今回フェアから外した本も多くは店内で陳列している。」
恐るべき「偏向攻撃」の毒牙は、私企業に過ぎない書店のブックフェアにまで及んでいるのだ。「自由と民主主義のための必読書50」を「今、民主主義について考える49冊」に変えた。「3分の2の本を入れ替え」、「誤解される余地のないようにした」というのだ。小熊英二・中野晃一・想田和弘を消した。そして、「民主主義を考える」コーナーに、なんとも不似合いな長谷川三千子・佐伯啓思を並べたのだ。ついでに、安全パイとして池上彰を右翼の長谷川・佐伯と同列の光栄に浴せしめた。さらに、「SEALDsの本は最下段に」なのだ。
結局のところは、現体制や現政権に不都合な言論は除かれ、政権のお友だち言論に差し替えられただけなのだ。「自由と民主主義のため」が、偏向していると攻撃を受ける時代であることを深刻に受け止めざるを得ない。この「偏向攻撃」という名の怪獣をのさばらせておいては、あたり一面死屍累々たる政権批判言論の墓場となりかねない。そして、この恐るべき怪獣が、政権批判の言論を食い散らかしたそのあとには、茶色の朝がまっているのだ。
(2015年11月14日・連続第959回)
このごろ巷に流行るもの、「不祥事に、第三者委員会」である。
第三者とは「当事者以外の者、その事柄に直接関係していない人を言う」と辞書は解説しているが、どうも身内のお手盛り委員会と疑われるものが多い。どうやら、「第三者委員会まがい」、ないしは「第三者委員会もどき」である。
不祥事の当事者は、記者会見で神妙に頭を下げ、「第三者委員会を設置して厳重に調査してもらいます」と呪文をとなえる。この呪文が案外に効くのだ。社会からの風圧を遮断し、その調査結果を待ってみようという気分にさせるのだ。そして、学識経験者や弁護士らから成る委員会(もどき)が、世間の記憶が薄れたころに、気の抜けたサイダーのごとき調査結果を発表をする。これが通例、これが通り相場の定番となりつつある。
ところが、昨日(11月5日)、NHKと日本民間放送連盟による第三者機関であるBPO(「放送倫理・番組向上機構」)がNHKの報道番組「クローズアップ現代」のやらせ問題で珍しく立派な意見書を発表した。これこそ、第三者委員会のお手本ではないか。
政権にも、与党にも、有力政治にも、そしてNHK当局に対しても、怯むことなく臆することなく、指摘すべきを指摘し、批判すべきを批判しているこの姿勢は十分な評価に値する。多くのメディアの論調がこの度のBPO意見書を肯定的に紹介していることは、この社会の健全さを示すものとして爽やかさを感じさせる。
第三者と銘打つ機関の調査結果が辛口であって当たり前なのだが、新聞には「異例の意見書」という大見出しが踊った。「やらせはなかった」というNHKの自己調査を「深刻な問題を演出や編集の不適切さに矮小化している」と批判し、「重大な放送倫理違反があった」「事実と異なることを視聴者に伝えた」と指摘した。(東京新聞)
このまっとうな結論に、NHK当局は「真摯に受けとめる。事実に基づき正確に報道するという原点を再確認し、再発防止策を着実に実行していく」と答えている。(東京新聞)
BPO意見書の異例はこれだけではない。つけ加えて、総務相や自民党の放送への介入を厳しく戒めたのである。これが真骨頂。久方ぶりにまっとうな意見を聞くことができ、清々しい気分で朝を迎えることができた。
各紙が「NHKに自民圧力」「BPO 政府の介入を批判」「番組介入許されない」と報じた。「自民党国会議員らの6月の例会で『マスコミを懲らしめるには広告料収入をなくせばいい』との発言があったことなどを『圧力』の例として列挙。高市早苗総務相が4月末、NHKを厳重注意したことも問題視した」「NHKが自主的に問題を是正しようとしているのに、政府が行政指導で介入するのは、放送法が保障する『自立』の侵害行為だ」「自民党情報通信戦略調査会がNHK幹部を呼び、番組について説明させたのは、放送の自由と自律に対する政権党による圧力そのもので厳しく非難されるべきだ」と政権の介入を厳しく批判した。また、放送局側にも「干渉や圧力に対する毅然とした姿勢と矜持を堅持できなければ、放送の自由も自律も浸食され、やがては失われる」としかるべき対応の努力を促した。(毎日新聞)
この日は、タイミングよく「アベチャンネルはゴメンだ!」「怒りのNHK包囲行動」予定の日。包囲行動のボルテージは自ずから高揚した。NHK西門における、従軍慰安婦問題を追及してきた池田恵理子さん、沖縄辺野古から果敢に報道を続けている景山あさ子さんなど各界からのNHKの偏向報道に対する不満や叱咤激励のリレートークも自ずと力のこもったものとなった。出入りするNHK職員もさぞ肩身が狭かろう。
その後、宮下公園から渋谷ハチ公広場前をコースとしたデモ行進が行われた。コールも曇り空に負けまいと大きく響いた。「アベ政権は報道への介入をやめろ」「NHKをアベちゃんねるにするな」「NHKは政権の介入に屈するな」というコールはBPO意見書のとおりである。「籾井会長はやめろ」「NHKは国民の声を伝えろ」は当然の要求である。
「マイナンバーで受信料を徴収するな」は沿道の若い人々の大きな共感を呼んだ。携帯でシャメを撮る人が多いのも渋谷をデモする醍醐味。ちょっと長丁場の包囲行動は参加者や世話人の方には負担かとも思われたが、解散場所の宮下公園へ着いても快い興奮が充満してさりがたい気分が満ちていた。このような人々の声が、BPO意見に反映しているのだ。
(2015年11月7日・連続第951回)
毎日新聞署名コラムの中で、山田孝男「風知草」の論調には、歴史認識や立憲主義の理解の点で違和感が大きい。安倍晋三に招かれて、ともに会食などしているとこうなるのではないか。その山田が、国立競技場建設費問題を戦争中の戦艦武蔵の「悲劇」になぞらえている。武蔵は、世界最大の戦艦としての威信を誇示した。しかし、時代遅れの大艦巨砲主義は戦略あいまいなままに出撃して何の戦果を挙げるでもなく、巨費とともに沈んだ。両者の類似の指摘は頷かせる。安倍と会食をともにする記者の記事でさえなければ立派な記事だ。
国立競技場建設費用は2520億円!!。金額だけではなく、その金額の決め方にまつわる無責任体制が、戦争責任や原発開発とも重なる。「ドタバタ劇」として、「負のレガシー」として国民に完全に定着した。あの「読売」の世論調査でも、81%が建設計画を見直すべきだという結果である。「責任の所在があいまいなまま突っ走り、『決まったことだから』と、途中でやめることができない。これが日中戦争から太平洋戦争にかけての日本の歴史。と思っていたら、新国立競技場をめぐる問題も、そっくりです。」とは池上彰の毎日紙上発言。2520億円問題は、誰も彼も大っぴらに批判のできるテーマとなっている。
もちろん、この問題にも、諸悪の根源としての安倍晋三が絡んでいる。この競技場のデザインと、福島第1原発の放射能問題の解決が東京五輪招致成功の2本の柱だった。これを国際公約といっているわけだ。放射能は「完全にコントールされ、ブロックされています」というこちらの柱は、大ウソだったことがとっくに明確になっている。もう一つもウソとなれば、「大ウソ2本立て」。招致の根拠が崩れるというわけだ。せめて競技場のデザインだけは遺したい。これが政権と、その意を体した無責任体制関連人脈のホンネのところ。
しかし、この計画を推進するには2520億の巨費を調達しなければならない。安倍や森、下村の懐を痛めての負担ではない。身銭を切るのは国民なのだ。批判の荒波を覚悟しなければならない。政権を揺るがすことにもなりかねない。
この計画を頓挫させれば、日本の威信にかかわる? そんなことはない。安倍政権とJOCの威信でしかなかろう。安倍晋三が引責辞任すればよいだけのことだ。
何とも、無責任極まる安倍晋三・森喜朗・下村博文、そしてJOCだ。FIFAのカネまみれ体質が明らかになったが、あまり人々が驚いていない。所詮、そんなものだろうという受け止め方。商業主義蔓延のオリンピックも同様ではないのか。2520億という巨額のカネの取扱いの杜撰を見ていると、オリンピックが美しいものなどとは到底思えない。こんなに金のかかる競技場なら作る必要はない。入場式なんぞは原っぱで十分だ。雨が降ったら傘をさせばよい。そんな非常識なことはできない、というのならオリンピックなんかやめてしまえ。わけの分からぬ東京オリンピックを返上しろ。
イメージというものは恐ろしい。あのキールアーチのデザインは、最初の頃こそ斬新・清新なイメージだった。しかし、報道が積み重ねられるうちに、既に完全な負のレガシーとしてのイメージが定着した。あのデザインそのままでは、オリンピックのバカバカしさ、薄汚さのシンボルとして半永久的な語りぐさとなる。
さて、問題はここからだ。こんな馬鹿馬鹿しいものの建設費はムダ金であり、捨て金だ。捨て金の支出など許してはならない。舛添知事は、これまでは比較的常識的な姿勢で都民の支持を維持してきた。「国側からきちんとした説明をいただかなければ、都民の税金を費やすわけには行かない。」という至極真っ当な姿勢。ところが、7月7日有識者会議以来、どうも雲行きがおかしい。
舛添さん、都民の知らぬ裏の場で、安倍・森・下村などから一席設けられ、振る舞い酒に酔うなど、けっしてないように。何とはなしに話をつけて、都の財政から500億のつかみがねを支出するようなことがあれば、都民の怒りを買うことになりますぞ。500億を出したらあなたの2期目はない。オリンピックの年まで知事でいたいのなら、なによりもこの捨て金を出さないと明言することが肝要だ。
このところ多くの人が、地方財政法上、国の支出の一部を地方が負担することは禁じられていると指摘している。つまり、都財政からの500億円支出は、単に不当というだけでなく、違法なのだ。違法な支出は、都民がたった一人でも住民監査を経て住民訴訟の提起が可能である。
最終的には、知事個人が違法支出の責任をとらねばならない。応訴にもかかわらず、舛添敗訴となれば、500億円を個人として東京都に支払うよう命じられる。500億円全額回収に現実性はないものの、違法支出の抑止効果は十分に期待できる制度だ。知事や議会は多数派が握っている。多数派の横暴に歯止めをかけて、統治の合法性を確保するための貴重な制度である。
ところが、今、国立市で問題となっている一つの裁判が、この制度を無にしかねない重大な問題をはらんでいる。仮に、国立競技場の建設費の一部として舛添知事が500億を都の財政から支出し、これを裁判所が違法と認めたとする。その場合でも、都議会の自民党が舛添免責の決議を提案して議会がこれを採択すれば、東京都が舛添知事個人に対する損害賠償請求権の行使はできなくなる、というのだ。現実に、そのような地裁判決が出ている。
詳しくは、下記の当ブログを参照されたい。
2014年9月26日「株主代表訴訟と住民訴訟、明と暗の二つの判決」
https://article9.jp/wordpress/?p=3589
当該の判決についての報道は、以下のとおり。
「高層マンション建設を妨害したと裁判で認定され、不動産会社に約3100万円を支払った東京都国立市が、上原公子元市長に同額の賠償を求めた訴訟の判決が(2014年9月)25日、東京地裁であり、増田稔裁判長は請求を棄却した。
増田裁判長は『市議会は元市長に対する賠償請求権放棄を議決し、現市長は異議を申し立てていないので、請求は信義則に反し許されない』と指摘した。」(時事)
今回の事例に置き直せば、以下のようになるのだ。
「先行する住民訴訟の判決で、国立競技場建設費用500億円の知事の支出は違法とされた。この判決に基づいて、東京都が原告となって舛添要一知事に500億円の賠償を求めた訴訟の判決が東京地裁であり、裁判長は原告の請求を棄却した。裁判長は『都議会は知事に対する賠償請求権放棄を議決し、知事は異議を申し立てていないので、請求は信義則に反し許されない』と指摘した。」
要するに、舛添知事の責任を都議会多数派の意思次第で免責することが可能だというのである。これは制度の趣旨を根本から突き崩すものではないか。上原元市長の行為が違法であるかどうかについては私は論評を控えたい。事情を詳らかにしないだけでなく、結論がどちらでも、事例判決を一つ積み重ねるだけでさしたる問題ではない。議会で首長の責任を免責できるか否かが大問題なのだ。
住民訴訟とは、民主主義・多数決原理に限界を画するものである。住民の多数派から選任された首長が、どのような「民意に基づく行為」であったにせよ、法体系に反することはできないのだ。首長らに財務会計上の違法行為があれば、住民たった一人でも、原告となってその是正を求める提訴ができる。これを、議会の多数決で違法行為の責任を免ずることができるとすれば、せっかくの住民訴訟の意義を無にすることになる。
首長の違法による損害賠償債務を議会が多数決で免責できるとすることには、とうてい納得し難い。国立市はいざ知らず、東京都をはじめ、ほとんどの地方自治体の議会は、圧倒的な保守地盤によって形成されている現実がある。首長の違法を質すせっかくの住民訴訟の機能がみすみす奪われることを認めがたい。
もし仮に、最高裁までが議会の決議による首長の債務免責を認めることになれば、免責決議に賛成した議員の法的責任追及が必要になるものと考えている。
(2015年7月12日)