今回の天皇(明仁)夫妻パラオ諸島訪問に言いたいこと、言うべきことは多くあるが、まずはその報道への「不快感」を表明しなければならない。
人は、それぞれである。それぞれに、快と不快の基準がある。「天皇皇后両陛下」という文字に出会うと、私の中の不快指数がピクンとはね上がる。「陛下」は無用、「天皇」だけで十分だ。もう一つ「玉砕」という用語も不快だ。
「陛」の字を訓では「きざはし」とよむ。階段一般だけではなく、特に天子の宮殿に登る階段を意味する。その階段の下の場所が「陛下」である。臣下が天子に直接にものを言うことはない。取り次の側近の居場所である階段の下が婉曲に天子を指す言葉となり、さらに天子の尊称となったという。殿下、閣下、台下、猊下など皆この手の熟語。人間の貴賎の格差を意識的に拡大し誇張しようとした文化的演出の名残である。
詳しいことは知らないが、手許の辞書には史記の「始皇帝本義」からの引用がある。中国の古代世界で、権力を獲得したものが自らを権威づけるための造語、あるいはいつの時代にも跋扈している「権力者におもねる文化人」たちがつくりだした言葉であろう。
これを明治政府が真似した。旧皇室典範第4章「敬稱」が次の2か条を定めていた。
第17條 天皇太皇太后皇太后皇后ノ敬稱ハ陛下トス
第18條 皇太子皇太子妃皇太孫皇太孫妃親王親王妃?親王王王妃女王ノ敬稱ハ殿下トス
陛下は、「天皇」と「太皇太后」「皇太后」「皇后」(これを「三后」と言った)にだけ使われた。「皇太子」「皇太子妃」「皇太孫」「皇太孫妃」「親王」「親王妃」「?親王」「王」「王妃」「女王」などの皇族の敬称は殿下である。マルクスが喝破したとおり、国王の最大の任務は生殖にある。血統を絶やさないためのシステムとして皇室・皇族を制度化し、これを「陛下」や「殿下」と呼ばせた。
「陛下」の敬称をもつ人格は、そのまま大逆罪の行為客体ともされていた。
旧刑法第116条 天皇・三后・皇太子ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス
未遂も死刑であり、死刑以外の選択刑はなかった。三審制度は適用されず、大審院のみの一審だった。天皇制国家は、法治国家の形式だけは整備したが、その内実が恐怖国家であったことがよく分かる。
大逆罪に加えて、使い勝手のよい不敬罪があった。こちらは戦後削除された現行刑法典旧条文を引く。
第74条1項 天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又ハ皇太孫ニ對シ不敬ノ行為アリタル者ハ三月以上五年以下ノ懲役ニ處ス
同条2項 神宮又ハ皇陵ニ対シ不敬ノ行為アリタル者亦同シ
構成要件的行為が「不敬の行為」である。これなら自由自在の解釈が可能。なんだってしょっぴくことができる。権力にとっての魔法の杖だ。今の政権も、こんな便利なものが欲しくてたまらないことだろう。
皇室典範自体には「陛下」の敬称使用を強制する規定はない。不敬罪がその強制を担保していたといえよう。もちろん、いま不敬罪はない。にもかかわらず、なにゆえメディアはかくも「陛下」の使用にこだわるのか。
もう一つ。「玉砕」である。これは「瓦全」の対語。人が節義のために潔く死ぬることは、玉が砕け散るごとく美しい。価値のない瓦のごとく不名誉なまま生きながらえるべきではない、ということなのだ。沖縄に伝わる「ぬちどう宝」(命こそ、かけがえのない宝もの)とは正反対の思想。戦死を無駄死にではないと美化するために探してきた言葉が「玉砕」だ。「散華」も同じ。戦陣訓の「生きて虜囚の辱を受けず」も、瓦全を戒め玉砕を命じたもの。
この「玉砕」が、宮内庁のホームページの「パラオご訪問ご出発に当たっての天皇陛下のおことば(東京国際空港)」に堂々と出て来る。(「陛下」だけでなく、「お言葉」も、私の不快指数を刺激する)
「終戦の前年には,これらの地域で激しい戦闘が行われ,幾つもの島で日本軍が玉砕しました」という使われ方。サイパン訪問の際にも同様だったとのこと。
これも、古代中国での言葉を天皇制政府が探し出して再活用したもの。「戦死は無駄死にではない」という究極の上から目線で、国民の死を飾り立てるための大本営用語なのだ。太平洋戦争での軍人軍属戦没者の大半は、戦闘死ではない。惨めな餓死、あるいは弱った体での感染症死だったことが常識になっている(「飢え死にした英霊たち」藤原彰)。美しい死でも、勇ましい死でもなかった。これを美化してはならない。今ごろ、天皇が無神経に「玉砕」などという言葉を使ってはいけない。
差別用語の使用禁止が、時に言葉狩りとして煩わしく感じられる。が、指摘される度に襟を正そうと思う。過剰にならないよう抑制すべき面はあるものの、差別用語を禁止して死語にしようとする努力が差別をなくすることにつながることは否定し得ない。このことは既に社会の共通認識になっている。その一方で、「天皇皇后両陛下」「皇太子殿下」などの「(逆)差別用語」や、「玉砕」など戦争美化用語が大手を振っているのは何故か。
このような言葉を死語にしなくてはならない。私の不快指数だけの問題ではないのだから。
(2015年4月12日)
カネに汚い人間は軽蔑される。カネについてだけではなく、生き方そのものが廉潔性を欠くと推測されるからだ。もっとも、市井の人物であれば、カネに汚くても軽蔑されるだけの問題でおわる。だが、公職にあってカネにまつわる公私混同を指摘される人物は、公的な場で徹底して指弾されなければならない。カネで、職務が左右されることになっているのではないかという疑惑を払拭できないからだ。指弾を受けた上、信用できない人物として辞職してもらうに如くはない。
ことがNHK会長職の問題となれば、なおさらのことだ。NHKとは視聴者国民の信頼があって初めて存立しうる公共放送である。運営の資金は視聴者国民の懐から出ている。金銭の管理に関する綱紀にも、コンプライアンス全般に徹底した厳正さが要求されている。そのコンプライアンスに責任を持つ立場にあるトップには、いささかの瑕瑾も許されない。李下に冠を正さなければならず、瓜田に沓を踏み入れてはならないのだ。籾井勝人にはその自覚がない。
思想信条の如何と、生き方の廉潔性とは無関係である。国家主義ジャーナリストも、権力追随主義国営放送経営者も、カネには潔癖でありうる。廉潔な右翼活動家は珍しくない。しかし、籾井勝人は、その思想において権力に対する批判精神を欠いてるのみならず、高給を食んでいながらカネに汚い。天は籾井から二物とも奪った。籾井勝人ほどNHK会長職に相応しからぬ人物はない。
即刻辞めてもらいたい。できれば、明日(3月19日)を待たずに、今日中の辞職をお勧めする。せめて、散り際の潔さくらいは見せてはいかがか。高給故か、職に恋々としているみっともなさは、さらに惨めな結末をもたらすことになるだろうから。
ことは単純だ。NHKの籾井勝人会長は、今年1月2日私的なゴルフに出かけた。遊びの場所は、名門・小金井カントリークラブ。その際ハイヤーを利用したという。純粋に私用なのだから、ハイヤーの手配は自分ですべきであった。あるいは自分でタクシーを呼べばよいこと。ところが、NHKで使っているハイヤー会社の車両が利用され、ハイヤーの手配はNHKの職員にさせた。ここで既に、籾井勝人は瓜田に沓を入れている。
そのハイヤーの代金は4万9585円。なぜか、籾井はこの私用の代金を当日清算していない。当日清算できない事情があれば、「私用だから代金の請求は、NHKにではなく自分宛てにするよう」指示をすべきが当然であるのに、これもしていない。当然のごとく、業者はこれをNHKに請求し、NHKはこれを支払っている。籾井勝人は、自分では支払う意思がなかったのだとしか考えられない。少なくも、その疑惑を拭うことができない。
ハイヤー業者から籾井勝人への傭車代の直接の請求はなされていない。籾井は、「NHKから請求書が回ってきたから直ぐに支払った」と国会(16日衆院予算委員会・小川敏夫議員の質問に対する回答)で述べている。また、小川議員が「支払ったのは監査委員会の調査の後か」「NHKは立て替えたのか」と質問したのに対し、籾井は「答えは控えたい」と回答している。
籾井自身の説明でも、1月2日の私用ハイヤー代を、3月9日に支払ったというのだ。「こんなことは、民間ならあり得ない」ことではないのか。それともお得意の「よくあること」だというのだろうか。
事件は内部告発によって発覚し、経営委員3人で構成される監査委員会が調査を始めた。この調査が始まったあとで、籾井は金を支払った。調査があったから、慌てて支払ったのだと誰もが考える。内部告発がなければ、あるいは監査委員会の調査が始まらなければ、籾井が金を支払うことはなかったのではないか。そう国民から疑惑を持たれて当然の事態の推移なのだ。
監査委員会を構成する3名が誰かは知らない。が、法律家やコンプライアンスの専門家がいるとは思えない。この道のプロとして、上村達男さんがこのメンバーに加わっていればと残念でならない。
以上が昨日までの情報。今日あらたな重要情報に接した。
まず毎日の報道。「NHKの籾井勝人会長が私用ハイヤー代の請求をNHKに回した問題で、代金を自己負担したのは、監査委員会側から支払いを促された後だったことが17日分かった」というもの。
籾井に代金支払いを督促したのはNHKではなく、監査委員会だったというのだ。内部告発があって、それに基づいて監査委員会が構成されて、一応の調査があっての後に監査委員会が籾井に支払うよう督促したのだ。籾井にこのことがわからなかったはずはない。16日予算委員会における小川敏夫議員に対する回答は、欺瞞に満ちている。
さらに、朝日の報道。
「NHKの籾井勝人会長が私用のゴルフで使ったハイヤー代がNHKに請求されていた問題で、役員が業務の際に使用する乗車伝票が作成され、会長の業務に伴う支出として経理処理されていたことが17日、分かった」
「籾井会長は今年1月2日、東京都渋谷区の自宅と小平市の小金井カントリー倶楽部をハイヤーで往復。車両は午前7時に出庫し、約12時間利用した。伝票上は業務内容として『外部対応業務』と記され、籾井会長名のサインもあった」
この報道は、決定的だ。ことの性質上ニュースソースを出せないだろう。しかし、その記事の具体性から信頼に足りるものと判断してよいだろう。立て替え払いが公私混同で道義的に問題だというレベルではない。プライベートの遊びのカネを「外部対応業務」として、NHKに支払わせたのだ。
籾井勝人は李下に冠を正しただけではなく、スモモの実をもいでいたのだ。そして、あたかも冠を正しただけと繕っていたのだ。せっかくもいだスモモだが、発覚したから返さざるをえなかったということ。「見つかったから返すよ。返したんだから問題なかろう」という例の逃げ口上の常套手段を、またまた聞かされることになったのだ。
籾井君、君はアウトだ。私用の傭車代金をNHKに支払わせたのだ。詐欺罪に当たるのか背任罪なのかはともかく、法的な問題として追求されて当然なのだ。
監査委員会は当初24日に予定していた経営委員会への報告を、19日に開かれる臨時経営委員会で行う、と報道されている。明日(19日)の監査委員会報告に注目したい。どのくらい厳正な調査をおこなったのか、厳正に不適格会長を指弾しているのか。経営委員会側も、その姿勢に関して国民の批判に曝されているのだ。
二つの感想を付け加えておきたい。
一つは、政権と籾井勝人とのつながりの深さについてである。
「菅義偉官房長官は16日午前の記者会見で、籾井会長のハイヤー報道について、『私が承知する限りにおいては全く問題がない』との認識を示した。」と報道されている。
政権は、NHKのコンプライアンスに口出しする立場にはない。ましてや会長の個人スキャンダルをもみ消そうとするかのごとき発言はあってはならないもの。この菅発言は政権と籾井勝人との持ちつ持たれつの関係を露わにするものとなった。おかげで、籾井勝人スキャンダルは、政権の責任を問うものともなっている。
もう一つは、内部告発者の勇気とその功績を称えたいということ。あらためて、内部告発(公益通報)が社会にもたらす有益性を確認したい。そして、この有益な情報を社会に公開するきっかけとなった内部告発者を擁護しなければならないと思う。籾井勝人とその配下の者たちは、内部告発者の犯人捜しをしたり、報復を企てるなどしてはならない。そのようなことがあれば、さらなるNHKの国民不信が深まることになるのだから。
(2015年3月18日)
昨日(3月15日)、「九条の会」が都内で全国討論集会を開いた。さすがに、よいタイミングでの企画。集団的自衛権行使容認の「閣議決定」を法律レベルで具体化する安保法制整備の阻止が焦眉の急の課題。法案の大綱は、現在進行中の与党協議の結論として、今月末までに明らかになる。自・公が真剣に議論しているのか、それとも出来レースで議論しているふりをしているのかも。
「九条の会」のこの集会の呼びかけは、1月29日に公表された。以下のような内容。
「安倍政権は、通常国会で、憲法9条の破壊につながる戦争関連法制の改定案や自衛隊海外派兵恒久法案などを提出しようとしています。私たちは、先般の集団的自衛権の政府解釈見直しの不当な閣議決定に沿ったこれらの憲法違反の諸法制を断じて容認できません。これを許せば、日本はまさに『戦争する国』になります。安倍政権のこの危険な企てに対して、九条の会はどのように活動するべきかを語り合うため、『全国討論集会』を開催します。全国からの参加を期待します。声をかけあってご参加ください。
単位「九条の会」は、全国の地域や職域や学園に7500も結成されているという。昨日はその内の280の「九条の会」から452人が参加し、34人が発言したと報じられている。
今朝の赤旗が、この集会を一面トップと、社会面の中段で記事にしている。これは驚くに当たらない。驚いたのは、東京新聞である。1面の左肩で扱っただけでなく、社会面の半分以上の紙幅を割いての、発言内容にまで立ち入った本格的な報道。
しかも、その姿勢が真っ直ぐだ。見出しが、「改憲反対に若い力を」「『九条の会』世論盛り上げ」「いま9条守る」というもの。その報道姿勢が、まことに新鮮な印象。
これまで、大手メディアは、護憲派の運動を報じることに臆病ではなかったか。改憲派の報道と抱き合わせでなくては、護憲派の集会はなかなか記事にならなかったのではないか。今朝の東京新聞の記事は、吹っ切れたという感じがある。同紙が原発報道において脱原発派に正当な地位を認めたように、憲法をめぐるせめぎ合いにおいても護憲派の運動に同様の対応をすることを決意したように見える。
東京新聞は、1面では「憲法九条を守る活動をしている市民団体『九条の会』は15日、全国の会員による討論集会を東京都内で開き、若者へのPRや地域に根差した活動で改憲に反対する世論を盛り上げていく方針を確認した。創設時の呼び掛け人の作家沢地久枝さん(84)と、同じく作家の大江健三郎さん(80)も登壇し『歴史を繰り返さないために』と訴えた」と公式的な報道内容だが、社会面では無名の5人の発言を写真入りで報じている。暖かい報道姿勢だ。
同紙がつけたこの5人の発言のタイトルがよい。
「改憲派にも言葉届けよう」「平和へ保守とも協力を」「東アジアの草の根で連帯」「改憲阻止へ大きなうねり」「障害者こそ平和が必要」というもの。この発言の選択とタイトルの付け方が、記者の共感を物語っている。
「運動の対象を改憲派にも拡げて、改憲派とも語り合おう」「革新・リベラル派だけの内向き運動だけでは勝てない。平和を希求する保守陣営とも協力して憲法を守ろう」「国内だけではなく、東アジアの草の民衆とも連帯しよう」「そして、8月15日には100万人大集会を成功させて改憲阻止へ大きなうねりを作っていこう」という、運動の拡がりを提案する発言が主流となったようだ。そして、「戦争の時代には弱い立場の人権が真っ先に切り捨てられる。障害者自身が弱者にこそ平和が必要だと訴えていきたい」という平和の尊さについての言及。まさしく、草の根の護憲運動が発言している。
なお、毎日もスペースは大きくないが、きちんと報道はしている。共同通信の配信で北海道新聞などの地方紙も報道をしている様子。朝日には関連記事がみあたらない。読売については言わずもがな。産経については「ことさらに『九条の会』を批判する記事」の掲載はないようだとだけ言っておこう。
各紙の報道での私の印象。
当然ではあるが、まずは、護憲派の危機感がとても強いということ。一歩一歩積み重ねられてきた、「戦争のできる国作り」が、いよいよ瀬戸際まで来ているという危機感である。これまでの運動の壁を乗り越えて、あらたな質と規模の護憲を求める国民的大運動を、という声が強い。
その危機感は、とりわけ戦前と戦争を知る世代に強い。「今が戦前に似ている」と語る高齢世代からの緊張感が伝わってくる。その高齢世代の危機感が、若い世代への運動継承の必要の強調となっている。
そして、これまで結束の対象としていた革新リベラルの域を超えて、その外の多くの人々に、改憲阻止の運動に参加を呼びかけようと訴えられている。共闘とは、無理に意見を一致させることではない。一致点での共同行動が第一歩である。
とりあえずは、専守防衛容認派も、瓶のフタとしての安保条約容認論者も、アベノカイケンだけには反対という論者も、閣議決定で実質改憲を許してはならないという一点護憲派も、「いまの安倍政権による改憲には反対」という一致点での共闘は可能であり、それこそが多数を味方に結集して大きな国民的運動を起こせるし、起こさねばならないのだ。
私も、自分の考え方は大切にしながらも、改憲阻止の大きな国民運動のうねりを作るためにはどうすればよいかを意識しつつ、当ブログを書き続けていきたい。
(2015年3月16日)
上村達男さん(早稲田大学教授、会社法・金融商品取引法)は、NHK経営委員会の「良心」であり希望でもあった。委員長代行として重きをなし、存在感を示していた。すべてを過去形でしか語れないのは、同氏が2月末で退任したためである。
籾井勝人会長は、上村さんとは対照の存在。NHKの「反良心」である。心あるNHK関係者の目には、「NHKの面汚し」「NHKの恥さらし」とも見えよう。一人の人物が、一つの組織の評判をかくも貶めている実例は他にないのではなかろうか。
この度、NHKから「良心」が去り、「反良心」が居残った。上村さんに退任を望む声はなく、籾井会長には「辞任せよ」との声が国に満ちているにもかかわらず、である。これも時代の空気のなせるわざか。暗澹たる思いを禁じ得ない。
その上村さんが、朝日のインタビューに応じた。まさしく、良心の発露としての発言をしている。政府の姿勢におもねる籾井会長の姿勢を忌憚なく批判している。これは、多くの人に知ってもらいたく、要点を抜粋しておきたい。
「放送法はNHKの独立や政治的中立を定めています。しかし、就任会見時の『政府が右と言うことに対して左とは言えない』とか、従軍慰安婦問題について『正式に政府のスタンスがまだ見えない』といった最近の籾井会長の発言は、政府の姿勢におもねるもので、放送法に反します。放送法に反する見解を持った人物が会長を務めているということです」
「会長は『それは個人的見解だ』と言って、まだ訂正もしていませんが、放送法に反する意見が個人的見解というのは、会長の資格要件に反していると思います」
「(籾井会長を満場一致で選んだことは)確かに経営委に責任があります。ただ、籾井氏の経歴を見ると、一流商社である三井物産で副社長まで務め、海外経験も豊富な人物。数人の候補者がおり、籾井氏には異論が出なかった。20?30分の面接では、信条の問題まではわからない。『放送法を守ります』と繰り返していましたし」
「経営委の過半数が賛成すれば会長を罷免できます。少なくとも籾井会長を立派な会長だと思っている委員はほぼいないのではないか。ただ、就任会見直後ならともかく、今は罷免までしなくても事態を切り抜けられると考えている委員の方が多いとみています」
「私はずっと罷免すべきだと思っていた。ただ、罷免の動議をかけて、否決されると、籾井会長は『信任された』と思うでしょう。それでは逆効果になると考えました」
「経営委は専門性に乏しい12人の集まり。審議機関の理事会と情報に格差がある。しかも、会長は理事会の審議結果に拘束されないと理解されてきました。籾井会長には、びっくりするぐらい権力があることになっているんです」
「籾井会長が起こした最も大きな問題の一つは、NHKの予算案に、国会で与党だけが賛成するという状況を生み出したことです。視聴者には与党支持者も野党支持者もいるのだから、原則的に全会一致で承認されることに意味があった。NHKは時の政治状況に左右されてはならないのです。」
「NHKは多様な見方を提供して、日本の民主主義が成熟していくように貢献しなければならない。NHKの独立というのは強いものに対して発揮されるべきもの。弱いものに対しては『独立』とは言わないわけですから」
至極ごもっとも。まったく同感だ。このとおりなのだから、視聴者には受信料支払いの意欲がなくなって当然。少なくも、籾井会長在任中は受信料を停止したくなる。その空気を察してか、また本日(3月5日)籾井問題発言が重ねられた。
「NHKの籾井勝人会長は5日午前、衆院総務委員会に参考人として招かれ、『(受信料の支払いを)義務化できればすばらしい。法律で定めて頂ければありがたい』と発言した」(朝日)という。
これは悪い冗談だ。現行の受信料制度では、NHKは受信料確保のためには国民の批判を気にしなくてはならない。ところが本日の籾井発言は「NHKの評判が悪いから、姿勢をただそう」というのではない。正反対に、「国民の評判など気にすることなく、政府の姿勢におもねり続けることができるようにして欲しい」「いちいち国民の批判を気にかけずに、びっくりするような権力を持ち続けたい」という居直りの発言なのだ。
放送法64条(改正前は32条)は、テレビ受像器を設置した世帯に対して、NHKとの受信契約の締結を民事的に義務づけている。しかし、受信契約締結なければ支払いの義務はないし、もちろん不払いに刑事的な制裁は一切ない。NHKは、公共放送としての姿勢をただし視聴者である国民の信頼を勝ちうる努力をすることによって、国民が「われわれの公共放送を支えよう」として受信料を支払うことを期待されているのだ。
このことについては、市民運動の中心にある「NHKを監視・激励する視聴者コミュニティ」のサイトをご覧いただきたい。
http://kgcomshky.cocolog-nifty.com/
また、個人的には、友人である多菊和郎さんのサイトをお薦めする。彼は、NHKに奉職して、今はNHKの外から、NHKのていたらくを嘆いている。多菊さんも、生粋のNHKマンとしてNHKOB群の良心の一人。彼には、NHK受信料制度成り立ちの歴史とその性格についての本格的な論文がありホームページに掲載されている。かなりのボリュームのあるものだが、時間をかけても読むに値する。
多菊和郎のホームページ
http://home.a01.itscom.net/tagiku/
「受信料制度の始まり」
この論文で、彼は「NHKが十分に『視聴者に顔を向けた』放送局でなくなった」場合に視聴者が受信料支払いを拒否することを、「視聴者の『権利』のうちの『最後の手段』の行使」として肯定的に評価している。その場合、「受信料制度は破綻したのではなく,設計どおりに機能したと言えよう」という見解。まさしく今がそのときではないか。
(2015年3月5日)
西川公也農相の政治献金問題がおさまりつかず辞任にまで発展した。これに安倍首相の「ニッキョーソはどうした!」ヤジ事件のおまけまでついて、政権への震度は思った以上に大きくなりつつある。
これまで何度も聞かされた言葉が繰り返された。「法的には問題ないが道義的責任を感じてカネは直ぐに返還した」「あくまで法的に問題はないが、審議の遅滞を招いては申し訳ないので辞任することにした」。要するに、「カネを返せば問題なかろう」「些細なミス、訂正すれば済むことだ」「やめて責任を取ったのだからこれで終わりだ」。終わりのはずを蒸し返し執拗に追求するのは、些細なことを大袈裟にしようという悪意あってのこと、という開き直りが政権の側にある。
しかし、既視感はここまで。今回は、世論もメデイアも野党も、この「カネを返したから、訂正したから、辞めたから、一件落着」という手法に納得しなくなっている。トカゲのシッポを切っての曖昧な解決を許さない、という雰囲気が濃厚に感じられる。問題の指摘を続ける野党やメディアへのバッシングも鳴りをひそめている。
本日(2月24日)の各紙夕刊に「首相の任命責任、国会で追及へ」「野党首相出席要求」「衆院予算委が空転」の大見出し。野党各党の国対委員長が国会内では、「西川氏辞任の経緯や、首相の任命責任をただす考えで一致した」と報じられている。何が起こったのかを徹底して明らかにし、問題点を整理して、不祥事の再発防止策を具体化する。刑事的制裁が必要であればしかるべき処分をし、制度の不備は改善し、責任の内容と程度とを明確にして適正な世論の批判を可能とする。そのような対応がなされそうな雰囲気である。
今朝の朝刊6紙(朝・毎・読・東京・日経・産経)の社説がこの問題を取り上げている。世間の耳目を集める問題では、おおよそ「朝・毎・東京」対「読売・産経」の対立となり、日経がその狭間でのどっちつかずという図式になる。ところが今回は違う。産経の姿勢がスッキリしているのだ。少し驚いた。
まず標題をならべてみよう。
朝日「農水相辞任 政権におごりはないか」
毎日「西川農相辞任 政権自体の信用失墜だ」
東京「西川農相辞任 返金で幕引き許されぬ」
産経「西川農水相辞任 改革に水差す疑惑を断て」
日経「農相辞任で政策停滞を招くな」
読売「西川農相辞任 農業改革の体制再建が急務だ」
標題はほぼ内容と符合している。朝日・毎日・東京が、徹底した疑惑の解明を求め、安倍政権の責任を論じている。それぞれ的確に問題点を指摘し、首相の責任の具体化を求める堂々たる内容。読売と日経が明らかに立場を異にし、「切れ目のない政策継続」に重点を置き、安倍政権を擁護してその傷を浅くする役割を演じようとしている。
産経の「改革に水差す疑惑を断て」という標題だけが、「改革の継続」と「疑惑を断て」のどちらに重点が置かれているのかわかりにくい。ところが、その内容は、安倍政権に手厳しい。「改革や農業政策の継続」の必要は殆ど語られていない。普段の安倍晋三応援団の姿勢とはまったく趣を異にしている。この産経の論調は、日経・読売2紙の安倍政権ベッタリ姿勢を際立たせることになっている。これは、一考に値するのではないか。
以下、主要な部分を抜粋する。
「国の補助金を受けた会社から寄付を受けてはならないことなど、政治家としてごく基本的なルールを軽視していた。その結果、職務遂行に支障を来す事態を自ら招いたのであり、辞任は当然だ。安倍晋三首相の任命責任も重い。…閣僚らに厳格な政治資金の管理を求めるのはもとより、『政治とカネ』の透明化へ具体的措置をとるべきだ。
問題視されたのは、日本が環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)交渉に参加する直前、砂糖業界の関係団体から西川氏が代表の政党支部に100万円が寄付されたことなどだ。西川氏は自民党TPP対策委員長だった。しかも、業界団体である精糖工業会は国から補助金を受けていた。政治資金規正法は1年間の寄付を禁止しており、別団体からの寄付の形がとられた。こうした行為に対し、脱法的な迂回献金との批判が出るのは当然だろう。同支部は補助金を受けた別の会社からも300万円の寄付を受けた。
首相や西川氏の説明は『献金は違法なものではない』ことを主張するばかりで、不適切さがあったとの認識がうかがえない。砂糖は日本にとってTPPの重要品目であることからも、政策判断が献金でゆがめられていないか、との疑念を招きかねない。
形式的には別の団体が寄付を行っても、実質的に同一の者の寄付とみなされるものは、規制をかける必要が出てくるだろう。脱法的な寄付を封じる措置を、政治資金規正法改正などを通じてとるべきだ。」
おっしゃるとおり。まことにごもっとも、というほかはない。とりわけ、「脱法的な寄付を封じる措置を、政治資金規正法改正などを通じてとるべきだ」には、諸手を挙げて賛成したい。8億円もの巨額の裏金を、明らかに政治資金として政治家に交付しておいて、「献金なら届けなければ違法だが、貸金なら届出を義務づける法律はない」と開き直っている大金持ちがいる。このような「脱法を封じる法改正」を実現すべきは当然ではないか。
各紙の社説を通読して、その全体としての批判精神に意を強くしたが、いくつかコメントしておきたい。
東京新聞は、次のようにいう。
「業界との癒着が疑われる政治献金はそもそも受け取るべきではなく、返金や閣僚辞任での幕引きは許されない。与野党問わず『政治とカネ』をめぐる不信解消に、いま一度、真剣に取り組むべきだ」「カネで政策がねじ曲げられたと疑われては、西川氏も本望ではなかろう」
具体的事例を通して、政治資金規正法の精神を掘り下げようとする論述である。
「業界との癒着が疑われる政治献金は受け取るべきではない」というのは、もちろん正論である。「カネで政策がねじ曲げられてはならない」とする民主主義社会の大原則がある。「業界との癒着が疑われる政治献金」は、「カネで政策がねじ曲げられているのではないか」という疑惑を呼び起こすものである。つまりは、政治の廉潔性や公正性に対する信頼を傷つけるものとして、授受を禁ずべきなのだ。
企業や金持ちから政治家に渡されるそのカネが、現実に廉潔なものか、あるいは政治をねじ曲げる邪悪なものであるかが問題なのではない。国民の政治に対する信頼を傷つける行為として禁止すべきなのだ。「私のカネだけは廉潔なものだから、献金も貸金もなんの問題ない」という理屈は、真の意味で「いくら説明してもわからない」人の言い分でしかない。
なお、「カネで政策がねじ曲げられているのではないか」という疑惑を呼び起こす政治献金は、「業界との具体的な癒着が疑われる政治献金」に限らない。企業や団体、富裕者の献金は、すべからく財界や企業団体の利益となる政治や政策への結びつきをもたらすものとして、政治の廉潔性や公正性に対する社会の信頼を傷つけるものである。献金にせよ、融資にせよ、本来一般的に禁ずべきが本筋であろう。少なくも、上限規制が必要であり、透明性確保のための届出の義務化が必須である。
毎日が、社説の文体としては珍しい次のような一文を載せている。
「『いくら説明をしてもわからない人はわからない』。自ら疑惑を招いての辞任にもかかわらず、まるで問題視する方が悪いと言わんばかりに開き直って記者団に語る西川氏の態度に驚いてしまった。」
私も、自らの体験として、「まるで問題視する方が悪いと言わんばかりに開き直って語る態度」に思い当たる。
2012年12月都知事選における宇都宮候補の選挙運動収支報告書を閲覧して、私は明らかな公選法違反と濃厚な疑惑のいくつかを指摘した。当ブログで33回にわたって連載した「宇都宮君立候補はおやめなさい」シリーズでは、この公選法違反の指摘は大きな比重を占めている。「自らの陣営に法に反する傷がある以上、君には政治の浄化などできるはずもない。だから宇都宮君、立候補はおやめなさい」という文脈でのことである。
この指摘に対して、2014年1月5日付で、宇都宮陣営から「澤藤統一郎氏の公選法違反等の主張に対する法的見解」なるものが発表された。中山武敏・海渡雄一・田中隆の3弁護士が、まさしく「まるで問題視する方が悪いと言わんばかりに開き直って」の居丈高な内容だった。
同「見解」は、まことに苦しい弁明を重ねた上、「選挙運動費用収支報告書に誤った記載があることは事実であるが、この記載ミスを訂正すれば済む問題である」と開き直った。3弁護士は、「陣営に違法はなかった」ことを主張するばかりで、自ら資料収集ができる立場にありながら、具体的な説明を避け、資料の提示をすることもなかった。
宇都宮君も、中山・海渡・田中の3弁護士も、もちろん違反の当事者である上原公子選対本部長(元国立市長)も熊谷伸一郎選対事務局長も、今、野党とメディアが政権に求めているとおりに、経過を徹底して明らかにして自浄能力の存在を示し、謝罪すべきである。そのうえで、「2014年1月5日・3弁護士見解」を撤回しなければ、選挙の公正や政治資金規制について語る資格はない。
私は、「保守陣営についてだけ厳格に」というダブルスタンダードを取らない。宇都宮君らが選挙についてどう語るかについてこれからも関心をもち、その言動に対しては保守陣営に対するのと同様に、批判を展開したいと思っている。
自浄能力のない政権へは、野党とメディアの批判が必要である。革新陣営が広く社会的な信頼を勝ちうるためにも、私の批判が有用だと信じて疑わない。
(2015年2月24日)
「根津・千駄木憲法問題学習会」は、毎月1回の例会を10年間も継続していらっしゃるとのこと。その地道な活動に敬意を表します。
本日は、2月の例会に特定秘密保護法の問題点についてお話しするようお招きを受けました。自分なりに、考えていることをお話しさせていただきます。
☆本日の「毎日」新聞投書欄に『謙虚な気持ちで名誉挽回を』という60歳男性の投稿があります。
「ウクライナ東部の停戦合意…これこそ外交、これこそ政治家…。対照的なのが、イスラム過激派組織『イスラム国』人質事件での日本政府の対応のお粗末さだ。有効な手立てもなく、交渉力ゼロ、有能な政治家ゼロの実態を世界にさらけ出してしまった。安倍首相の施政方針演説も説得力に乏しく、上すべりしているように感じられる。まずは事件を総括して、非があれば隠さず、国民の批判を仰ぎ、謙虚な気持ちで名誉挽回の道を歩み出すべきだ」
日本中の誰もの思いをズバリと代弁してくれた感があります。不祥事が起こったときには、
事実検証→総括→公表→批判→政策の改善→次の選挙での審判
というサイクルが作動しなければなりません。さて今回、はたしてこのサイクルが有効に作動するでしょうか。
大切なことは、この検証の過程が国民の目に見えるよう保障すべきこと。主権者国民は、暫定的に権限を負託した政府の行為を監視し批判しなければなりません。これに、障碍として立ちふさがるのが、あらたに施行となった特定秘密保護法。これまでは、言わば机上の空論だったのですが、今回初めて現実の素材が提供されたことになります。
既に、「岸田文雄外相は2月4日の衆議院予算委員会で、中東の過激派「イスラム国」とみられるグループに日本人2人が殺害された事件について、特定秘密保護法の対象となる情報がありうるとの認識を示した」と報じられています。
改めて、この間にシリアで起きたことを思い起こして、特定秘密保護法の別表とを見比べてください。「法」別表の第1号(防衛に関する事項)はともかく、第2号(外交関連)、第3号(特定有害活動=スパイ防止)、第4号(テロ防止)のいずれにも該当する可能性は極めて大きいといわざるを得ません。しかも、そのどれに該当するかも、指定があったかも明らかにされることはないのです。
権力の源泉は情報の独占にあります。政権を担う者は、常に情報を私物化し操作したいとの衝動をもちます。だから、情報の公開を義務づけることこそが重要なので、秘密保護法制は合理的で不可欠な、厳格に最低限度のものでなくてはなりません。
特定秘密保護法の基本的な考え方は、「国民はひたすら政府を信頼していればよい」「国民には、政府が許容する情報を与えておけばよい」ということです。そして、「情報から遮断される国民」には、国会議員も裁判官も含まれるのです。
これは民主々義・立憲主義の思想ではありません。国民は、いかなる政府も猜疑の目で監視しなければなりません。とりわけ、危険な安倍政権を信頼してはなりません。
情報操作(恣意的な情報秘匿と開示)は、民意の操作として時の権力の「魔法の杖」です。満州事変・大本営発表・トンキン湾事件・沖縄密約…。歴史を見れば明白ではありませんか。
☆特定秘密保護法の前史について、おさらいしておきたいと思います。
戦前の軍機保護(防牒)関係法として、国防保安法・軍機保護法・陸軍刑法・海軍刑法・軍用資源秘密保護法・要塞地帯法などがありました。また、基本法である「刑法」の第83?86条が「通謀利敵罪」を規定していました。その他、治安維持法・出版法・治安警察法・無線電信法などが治安立法として猛威を振るいました。
ゾルゲと尾崎は、国防保安法・軍機保護法・軍用資源秘密保護法・治安維持法の4法違反に問われて死刑となりました。なかでも、「最終形態としての国防保安法」(1941)は、軍事のみならず政治・経済・財政・外交の全過程を権力中枢の「国家機密」として「治安」を維持しようとするものでした。今回の特定秘密保護法は、処罰範囲の広さにおいてこれに似ています。
戦前の軍事機密法制は、国民に「見ざる。聞かざる。言わざる」を強制するものでした。「戦争は秘密から始まる」とも、「戦争は軍機の保護とともにやって来る」と言ってもよいと思います。
日本の国民は、敗戦によって身に沁みて知ることになりました。国民には正確な情報を知る権利がなければなりません。日本国憲法は、「表現の自由(憲法21条)」を保障しました。これはメディアの「自由に取材と報道ができる権利」だけでなく、国民の「真実を知る権利」を保障したものであります。
民主主義の政治過程は「選挙⇒立法⇒行政⇒司法」というサイクルをもっていますが、民意を反映すべき選挙の前提として、あるべき民意の形成が必要です。そのためには、国民が正確な情報を知らなければなりません。主権者たる国民を対象とした情報操作は民主主義の拠って立つ土台を揺るがします。戦前のNHKは、その積極的共犯者でした。
戦後の保守政治は、憲法改正を願望としただけでなく、戦前への復帰の一環として、防諜法制の立法化を企図し続けました。
たとえば、1958年自民党治安対策特別委員会「諜報活動取締法案大綱」、1961年「刑法改正準備草案」スパイ罪復活案、そして1985年国家秘密法(スパイ防止法)案上程の経過があります。国家秘密法案は、国民的な反撃でこれを廃案に追い込みましたが、その後の作土は続きました。
そして、特定秘密保護法制定の動きにつながります。2011年8月8日の「秘密保全のための法制の在り方に関する有識者会議報告」が発端となりました。第二次安倍政権が、これを法案化して上程、2013年12月6日に強行採決して成立に持ち込みます。そして、2014年12月10日施行となりました。
☆特定秘密保護法は、戦前の軍事機密法・治安法の役割を果たすものです。
問題点として指摘されるのは、重罰化、広範な処罰、要件の不明確、秘密取扱者の適性評価などです。
何よりも、重罰による「三猿化」強制強化が狙いです。内部告発の抑止ともなります。
これまでの国家(地方)公務員法違反(秘密漏示)の最高刑が懲役1年です。自衛隊法の防衛秘密漏洩罪でも懲役5年。これに対して、特定秘密保護法違反の最高刑は懲役10年。しかも、未遂も過失も処罰します。共謀・教唆・扇動も処罰対象です。将来、更に法改正で重罰化の可能性もあります。
気骨あるジャーナリストの公務員に対する夜討ち朝駆け取材攻勢は、秘密の暴露に成功しなくても、未遂で終わっても、犯罪となり得ます。民主主義にとって恐ろしいのは、「何が秘密かはヒミツ」の制度では、時の政府に不都合な情報はすべて特定秘密として、隠蔽できることです。国民はこれを検証する手段をもちません。国会も、裁判所もです。
さらに、国民にとって恐ろしいのは、「何が秘密かはヒミツ」という秘密保護法制に宿命的な罪刑法定主義(あらかじめ何が犯罪かが明示されていなければならない)との矛盾です。地雷は踏んで爆発して始めてその所在が分かります。国民にとって秘密保護法もまったく同じ。起訴されてはじめて、秘密に触れていたことが分かるのです。
国がもつ国政に関する情報は本来国民のものであって、主権者である国民に秘匿することは、行政の背信行為であり、民主々義の政治過程そのものを侵害する行為であります。これを許しておけば、議会制民主々義が危うくなります。裁判所への秘匿は、刑事事件における弁護権を侵害します。人権が危うくなります。
法律は、国会で改正も廃止もできます。超党派の議員での特定秘密保護法廃止法案は昨年(2014年)11月に国会に提出されています。これを支援する国民運動の展開が期待されます。小選挙区下での現行の国会情勢では直ぐには実現できないかも知れません。しかし、訴え続け、運動を継続していくことが大切で、その運動次第で、運用は変わってくるはずです。ジャーナリストが最前線に立たされていますが、国民運動はその背中を押し、支えて励ますことによって確実に萎縮を減殺することができるはずです。
ジャーナリストの萎縮は、国の運命を左右する最重要な情報について、国民の知る権利を侵害することになり、国民に取り返しのつかない被害をもたらすことになりかねません。
まずは、学ぶことから、そして考え話し合うことから始めようではありませんか。
(2015年2月18日)
本日(2月17日)付で、標記の東京弁護士会会長声明が発表された。「朝日新聞元記者の弁護団」とは、現在北星学園大学の講師の任にある植村隆氏が今年1月9日に提訴した、文藝春秋社や西岡力氏らを被告とする名誉毀損損害賠償請求訴訟の原告側弁護団のこと。その弁護団の実務を担っている事務局長弁護士の法律事務所に、いやがらせの悪質な業務妨害がおこなわれた。会長声明はこれを厳しく糾弾している。URLは以下のとおり。
http://www.toben.or.jp/message/seimei/
従軍慰安婦に関する記事を書いた朝日新聞元記者は現在週刊誌発刊会社等を被告として名誉毀損に基づく損害賠償等を請求する裁判を追行しているが、この裁判の原告弁護団事務局長が所属する法律事務所に、本年2月7日午前5時10分から午後0時27分までの間に延べ9件合計431枚の送信者不明のファクシミリが送りつけられ、過剰送信によりメモリーの容量が限界に達してファクシミリ受信が不能となる事件が起きた。ファクシミリの内容は、朝日新聞元記者に対する中傷、同記者の家族のプライバシーに触れるもの、慰安婦問題に対する揶揄などであった。
この朝日新聞元記者に関しては、2014年5月以降その勤務する北星学園大学に対し、学生に危害を加える旨を脅迫して元記者の解雇を迫る事件が起きており、当会ではこのような人権侵害行為を許さない旨の会長声明(2014年10月23日付け)を発出したところである。しかし、その後の本年2月にも再び北星学園大学への脅迫事件は起きている。
言うまでもなく、表現の自由は、民主主義の根幹をなすがゆえに憲法上最も重要な基本的人権のひとつとされており、最大限に保障されなければならない。仮に報道内容に問題があったとしても、その是正は健全かつ適正な言論によるべきであり、犯罪的な手段によってはならない。
今回の大量のファクシミリ送信は、いまもなお朝日新聞元記者に対する不当な人権侵害とマスメディアの表現の自由に対する不当な攻撃が続いていることを意味するだけではなく、元記者の権利擁護に尽力する弁護士をも標的として、司法への攻撃をしていることにおいて、きわめて悪質、卑劣であり、断じて看過できない。
当会は、民主主義の根幹を揺るがせる表現の自由に対する攻撃を直ちに中止させるため、関係機関に一刻も早く厳正な法的措置を求めるとともに、引き続き弁護士業務妨害の根絶のために取り組む決意である。
2015年02月17日
東京弁護士会 会長 ?中 正彦
植村氏の提訴は、脅迫や名誉毀損・侮辱、業務妨害や解雇要求の強要など、言論の域を遙かに超えた明白な犯罪行為の被害に耐えきれなくなっておこなわれた。朝日新聞社へのバッシングは、「顕名の言論」と「悪質卑劣な匿名の犯罪」とが、役割を分担し相互に補完して勢力を形づくっている。表部隊と裏部隊とが一体となることによって、「言論」が「実力」を獲得して強力な社会的影響力を発揮している。
顕名の言論に扇動された匿名の犯罪者たち。あるいは犯罪すれすれの名誉毀損や侮辱の言論を繰り返す、匿名に隠れた卑劣漢たち。その「実力」行為抑止の最有効手段として顕名者を被告とする民事訴訟が決意されたのだ。その訴訟に対する匿名者の悪質な業務妨害行為は、顕名部隊と匿名部隊の一体性を自ら証明するものと見るべきであろう。
著しい非対称性が明白となっている。植村氏の言論(20年前の記者としての記事)に、すさまじい実力によるイヤガラセがおこなわれた。これを抑止しようとする植村氏の提訴の弁護団にまで卑劣な妨害行為がおこなわれる。これがリベラルな言論に対する右翼勢力(排外主義派)からの実力妨害の実態である。
一方、右翼言論に対するリベラル派からのこのようなイヤガラセも実力行使もあり得ない。右翼勢力が原告を募集して「対朝日新聞・慰安婦報道集団訴訟」を起こしているが、この原告側弁護団への業務妨害行為などはまったく考えられない。リベラル派は、本能的に匿名発言を恥じ、卑劣行為を軽蔑する。右翼勢力は、これに付け入るのだ。
植村氏の提訴に対して、「言論人であれば、言論には言論で反論すべきではないか。提訴という手段に至ったことは遺憾」という、したり顔の批判があったやに聞く。現実をありのままに見ようとしない妄言というべきだろう。せめてもの対抗手段として有効なものは提訴以外にはないではないか。
そもそも「言論対言論」の応酬によって問題の決着がつけられるという環境の設定がない。武器対等者間での言論の応酬などという教科書的な言論空間が整えられているわけではない。排外主義鼓吹勢力が、虎視眈々と生け贄を探しているのが、実態なのだ。思想の自由市場における各言論への冷静な審判者が不在のままでの、「言論には言論で」とのタテマエ論の底意は透けて見えている。卑劣な実力を背景にした強者の論理ではないか。
このような事態に、理性に裏打ちされた弁護士会の機敏な声明はまことに心強い。弁護士会は、いつまでも、かく健全であって欲しいと願う。
(2015年2月17日)
毎日新聞の「仲畑流万能川柳」(略称「万柳」)欄、本日(2月10日)掲載の末尾18句目に
民意なら万柳(ここ)の投句でよくわかる(大阪 ださい治)
とある。まったくそのとおりだ。
その民意反映句として、第4句に目が留まった。
出すほうは賄賂のつもりだよ献金(富里 石橋勤)
思わず膝を打つ。まったくそのとおり。
過去の句を少し調べてみたら、次のようなものが見つかった。
献金も 平たく言えば 賄賂なり(日立 峰松清高)
献金が無償の愛のはずがない(久喜 宮本佳則)
超ケチな社長が献金する理由(白石 よねづ徹夜)
選に洩れた「没句供養」欄の
献金と賄賂の違い霧と靄(別府 吉四六)
という秀句も面白い。庶民感覚からは、疑いもなく「献金=賄賂」である。譲歩しても「献金≒賄賂」。
国語としての賄賂の語釈に優れたものが見あたらない。とりあえずは、面白くもおかしくもない広辞苑から、「不正な目的で贈る金品」としておこう。「アンダーテーブル」、「袖の下」、「にぎにぎ」という裏に隠れた語感が出ていないのが不満だが。
刑法の賄賂罪における「賄賂」とは、金品に限らない。「有形無形を問わず、いやしくも人の需要または欲望を満たすに足る一切の利益を包含する」という定義が大審院以来の定着した判例である。もちろん、「融資」や「貸付」も、「人の需要を満たすに足りる利益」として当然に賄賂たりうる。巨額、無担保、低利であればなおさらのことである。
DHCの吉田嘉明から、「みんなの党」の党首・渡辺喜美(当時)に渡ったカネは、吉田自身が手記に公表した限りで合計8億円。本当に貸したカネなのか呉れてやったカネではないのかはさて措くとしても、これが健全な庶民感覚に照らして「不正な目的で贈る金品」に当たること、「いやしくも人の需要または欲望を満たすに足る一切の利益」の範疇に含まれることは理の当然というべきだろう。
前述の各川柳子の言い回しを借りれば、この8億円は「出すほうは賄賂のつもりだよ」であり、「平たく言えば 賄賂なり」である。なぜならば、「出すカネが無償の愛のはずがない」のであって、「超ケチな社長が金を出す理由」は別のところにちゃんとある。結局は、「堂々と公表される無償の政治献金」と、「私益を求めてこっそり裏で授受される汚い賄賂」の違いは、その実態や当事者間の思惑において「霧と靄」の程度の差のものでしかない。これが社会の常識なのだ。
原告DHC側の完敗となった1月15日言い渡しの「DHC対折本弁護士」事件判決でも、このことが論じられている。少し詳しく書いておきたい。
原告は折本ブログの次の5個所を名誉毀損の記述と特定した。
?「報道によると,徳洲会の場合,東電病院に絡んだ話なんかもあったし,DHCについても,薬事法の規制に不満を待っていたという話もあるようだが,やはり,何らかの見返りを期待,いやいや,期待どころか,約束していたのではないかと疑いたくなるところだ。」(献金が無償の愛のはずがない)
?「常識的にみて,生き馬の目を抜くようなビジネスの世界でのし上がって来た叩き上げの商売人が,ただ単に政治家個人を応援する目的で多額の金を渡すということは考えにくいからなおさらだ。」(超ケチな社長が献金する理由)
?「おそらく,現実には,金をもらった時点でただの野党の党首にすぎない渡辺喜美については,職務権限という収賄罪の構成要件がクリアされないだろうから,この事件が贈収賄に発展する可能性は低いと思うが,それはそもそも,日本の贈賄罪,収賄罪の網掛けが不十分であり,また,構成要件が厳しすぎるからなのだ。」(献金も 平たく言えば 賄賂なり)
?「だが,ちょっとうがった見方をすれば,当時党勢が上げ潮だったみんなの党が選挙で躍進してキャスティングボードを握れば,政権与党と連立し,厚生労働省関係のポストを射止めて,薬事法関係の規制緩和をしてもらう,とまあ,その辺りを期待しての献金だった可能性だってないとはいえないだろう。」(出すほうは賄賂のつもりだよ献金)
?「まあ,本件については,まだまだわからない点もあるから,断定的なことはいえないが,実際,大企業の企業献金も含めて,かなりのものが何らかの見返りを求めてのものであり,そういった見返りを求めての献金は,実質的には『賄賂』だと思うのだ。」(献金と賄賂の違い霧と靄)
以上の折本ブログの記事について、原告DHC側は、次のとおりに主張した。
「原告吉田が,薬事法関係の規制緩和をしてもらうとの約束の下,渡辺に対して8億円を貸し付けたとの事実を摘示しており,この貸付けが何らかの見返りを求めてのものであって贈収賄の可能性があり,実質的には賄賂である旨の法律専門家である弁護士としての法的見解を表明するものであって,原告吉田の社会的評価を低下させている。」
判決は、この原告主張を一蹴して、次のように判示した。
「まず,本件記述?,?及び?は,本件金銭の交付の事実を前提として,薬事法関係の規制緩和をしてもらうとの約束の下で,又は見返りを期待して,本件金銭の交付がされたとの疑いを指摘するものであり,上記約束や見返りの存在を明示的に摘示するものでない。しかも,その記述の仕方や表現方法をみても,そのような疑いが,原告会社が薬事法の規制に不満があることや単に政治家個人を応援するという目的だけで多額の献金をすることは考え難いこと等の外形的な事情による被告の推測に基づくものであると読み取ることができ,また,本件各記述においては,『疑いたくなるところだ』,『可能性だってないとはいえないだろう』,『本件については,まだまだわからない点もあるから,断定的なことはいえないが』等の断定を避ける表現が繰り返し使用され,本件記述?と?の間には,政治思想を同じくする渡辺に協力する目的で原告吉田が献金した可能性にも言及されるなど原告吉田の主張に沿う見方も指摘されていること(甲2)からすれば,本件記述??及び?が,上記約束や見返りの存在について暗示的にも断定的に主張するものと認めることはできない。
「そうすると,被告は,弁護士ではあるものの,一私人にすぎず,本件金銭の交付に関して当時既に公表されていた情報以上を知る立場にないことも併せて考慮すれば,一般読者において,本件記述?,?及び?に記述された疑いは,推測に基づく,本件金銭の交付に対する被告による一つの見方が提示されたものとして読み取られるというべきであり,それを超えて上記約束や見返りの存在を断定的に主張するものとして読み取られるとは認められないのであるから,それによって,原告らの社会的評価が低下したと認めることはできない。」
「本件記述?は,上記約束や見返りの存否とは異なる職務権限の要件を理由にして,本件金銭の交付が贈収賄となる可能性が低いこと等を指摘するものであり,また,本件記述?は,見返りを求めてされる政治献金一般に対する被告の論評ないし意見を表明しているにすぎないところ,前記判示のとおり,本件記述?,?,?及び?が,原告ら主張に係る事実を摘示するものでないなどの前後の文脈も併せて考慮すれば,一般読者において,本件記述?及び?が,上記約束や見返りの存在を前提としているものとして読み取られると認めることはできない。」
「また,本件記述?及び?は,本件金銭の交付が贈収賄となる可能性を何ら指摘するものではないし,本件記述?での実質的に賄賂であるとの意見についても,飽くまで何らかの見返りを求めてされる政治献金一般に対して述べられたものであり,本件金銭の交付については,前記のとおり,規制緩和の約束や見返りという事実の存在を前提としていないのであるから,本件金銭の交付が実質的に賄賂であるとの意見が表明されているものとして読み取られると認めることもできない。」
「以上によれば,原告らの上記の主張は採用できない。」
判決は、当該言論の「公共性」「公益性」「真実(相当)性」など違法性阻却事由有無の議論に踏み込むことなく、「そもそも名誉毀損言論ではない」と切って捨てたのだ。これは言い渡し裁判所の見識というべきであろう。
判示の中で、最も重要で普遍性のある判断は、「被告(折本弁護士)が,本件金銭の交付に関して当時既に公表されていた情報以上を知る立場にないことも併せて考慮すれば,一般読者において,本件記述の『疑い』は,推測に基づく,本件金銭の交付に対する被告による一つの見方が提示されたものとして読み取られるというべきであり,それを超えて上記約束や見返りの存在を断定的に主張するものとして読み取られるとは認められない」「だから,原告らの社会的評価が低下したと認めることはできない」という説示部分である。
もちろん、「社会的評価が低下したと認めることはできない」とは、明示されてはいないものの「法的な救済を必要とするほどの」という限定が付されている。厳密な意味で、「折本ブログが何の社会的影響も与えるものではなかった」「原告にとって痛くも痒くもない」と言っているわけではない。
語尾を疑問形にしようと断定調にしようとも、論評は論評であり、「疑い」は一つの見方の提示以上のなにものでもない。それを法的に「社会的評価が低下した」とは言わないのだ。
だから、遠慮なく民意は語られてよいのだ。「出すほうは賄賂のつもりだよ献金」「献金も 平たく言えば 賄賂なり」と言って誰にも文句を言われる筋合いはない。なんと言っても、「献金が無償の愛のはずがない」のであり、「超ケチな社長が献金する理由」は見え見えで、「献金と賄賂の違い霧と靄」なのだから。
これを、目くじら立てて咎め立てするのは、やましいところあって、自分のことを貶められたかと心穏やかではいられないからなのではないか。不粋という以外に形容する言葉が見つからない。ましてや、スラップとして高額損害賠償の提起においてをやである。
なお、DHCと吉田は対折本弁護士事件判決を不服として控訴したとのこと。恥の上塗りを避けて控訴を断念し潔く負けを認めて謝罪することこそが、傷を浅く済ませる賢明な策だと思うのだが。
(2015年2月10日)
朝鮮日報、中央日報、東亜日報、聯合ニュースなどの韓国メディアが、インターネット日本語版で発信している。まことに貴重な情報源である。
例えば、2月6日の朝鮮日報ネット日本語版に朴正薫(パク・チョンフン)という幹部記者の次のようなコラムが掲載されている。
標題が、「悲劇に冷静な日本、ぞっとするほど恐ろしい」というもの。同記者は20年前の阪神淡路大震災の現場取材を行って、「頭を殴られたような衝撃を感じる出来事」に遭遇したという。70代とみられる高齢者夫婦の自宅が崩壊し、妻ががれきの下に埋まった。夫が見守る中、救助作業が行われたが、妻は遺体となって発見された。
「記者が本当にぞっとしたのは次の瞬間だった。救助作業中、ずっとその場に立ちすくんでいた白髪の夫は妻の死を確認すると、救助隊員らに深々と頭を下げ、何度も『ありがとうございます。お疲れさまでした』と大声で叫んでいるようだった。夫は一滴も涙を流さず、自らの感情を完璧にコントロールしていた。ロボットのようなその様子を見ると、記者は『これが日本人だ』と感じた。…被災地のどこにも泣き叫ぶ声は聞こえなかった。『静けさゆえに恐ろしい』という感覚。これこそ記者が日本の素顔を目の当たりにしたと感じた体験だった」
続いて、記者はこう続ける。
「過激派組織『イスラム国』により2人の日本人が殺害され、日本国民の間に衝撃が走った。しかし、日本社会の反応は20年前の阪神淡路大震災当時とほとんど変わらなかった。最初の犠牲者となった湯川遥菜さんの父は、息子が斬首され殺害されたとのニュースを聞くと『ご迷惑を掛けて申し訳ない』と述べた。また2人目の被害者となった後藤健二さんの母もカメラの前で『すみませんでした』と語った。何が申し訳なくて、何が迷惑だったのだろうか。」
記者は、これを「迷惑コンプレックス」と紹介している。「日本人の潜在意識には『他人に迷惑を掛ける行為は恥』と考える遺伝子が受け継がれている。『侍の刀による脅し』が日本人をそのようにしたという見方もあれば、教育の効果という見方もある。いずれにしても理由は関係ない。重要なことはたとえ悲惨な状況の中でも、彼らは常に忍耐を発揮するということだ」という。
記者が言いたいことは次のようなことのようだ。
「イスラム国に家族を殺害された遺族らは、日本政府に対して恨み言の一つでも言いたいはずだ。2人の人質が殺害されるという最悪の結果を招いたことについては、安倍政権の失政が大きいからだ。2人が人質となったのは昨年10月ごろで、イスラム国との交渉も水面下で行われていたという。ところが安倍首相は致命的なミスを犯した。中東を歴訪した際、現地で『イスラム国との戦争に2億ドル(約240億円)を拠出する」(原文のママ)と表明し、まさに彼らの面前で挑発したのだ。安倍首相の発言が報じられた直後、イスラム国は2人の人質を殺害すると突然表明した。無用にイスラム国を刺激する結果を招いた戦術的なミスだった。」
「他人に迷惑を掛ける行為は恥」と考える遺伝子を受け継いでいる日本人は、安倍首相のミスで家族を失っても、政権を批判しないどころか、「ご迷惑を掛けて申し訳ない」「すみませんでした」と謝るばかり。記者は、そのように日本人に対する苛立ちを隠さない。日本通と思われる韓国人から、われわれはこう見られている。思いがけないというべきか、思い当たるというべきだろうか。
韓国メディアは、権力批判に遠慮がない。日本の政権にも手厳しい。安倍政権の従軍慰安婦否定発言問題ではことさらである。
安倍首相が今月初めの国会審議において、「アメリカの教科書が従軍慰安婦問題をどのように記述しているかを知って驚愕した」「政府として教科書の記述の変更を求める」と、答弁したことへの反応は敏感である。昨日(2月8日)の朝鮮日報(ネット日本語版)は、アメリカ歴史学界の動向をインタビュー取材して次のように報道している。
「安倍首相は学問の自由を脅かしている」というもの。
今年の1月2日に、アメリカ歴史学会(AHA)が昨年11月の安倍首相による歴史修正主義的発言を批判する全会一致の声明を出した。また、今月5日には、安倍首相の教科書非難発言について、専門家19学者連名の声明が出ている。その中心となった歴史学者のインタビュー記事である。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150207-00000800-chosun-kr
米国コネチカット大学のアレクシス・ダデン教授は「日本政府の教科書修正要求は学問の自由に対する直接的な脅威であり、教科書を執筆したハワイ大学ハーバート・ジーグラー教授を、私たち歴史学者が支持しなければならないということにすぐ同意した」と語った。安倍首相は先日、米国の教科書に日本軍慰安婦問題が間違って記述されていると語り、その前にも日本の外務省は教科書を発行したマグロウヒル社に慰安婦に関する部分を削除するよう要求していた。
同教授は「日本の間違った行動に対し警告すべきだという共感と連帯感が強かった。歴史は自分の都合のいいように選び、必要なものだけを記憶するものではない」と述べた。以下は一問一答。
?声明に賛同したのはどんな学者たち?
「さまざまな地域を研究する、さまざまな地位の学者たちが集まった。アジアを専攻する学者だけでなく、ロシア、欧州、ラテンアメリカなど世界各地の専門家だと考えればよい」
?日本政府の教科書修正要求を歴史学者たちはどのように受け止めているのか。
「学問の自由に対する直接的な脅威だと深刻に受け止めている。日本政府が独特なのは、従軍慰安婦問題は論争の種ではなく、すでに全世界が認めている『事実』なのにもかかわらず、しきりに政治的な目的をもってこれを変更、あるいは歴史の中から削除しようとしている点だ。マグロウヒル社は非常に評判が高い出版社で、見当違いもいいところだ」
?なぜ安倍政権はしきりに歴史問題を取り上げると思う?
「日本政府の不名誉を覆い隠そうという意図ではないかと思う。しかし、河野談話を通じて多くの人々が慰安婦に関する真実を知り、これを認めている。日本の人々も同様だ。特に慰安婦に関する真実のほとんどは、日本人学者の吉見義明・中央大学教授の努力により証明されている。さらに過去数十年間、日本の小中高校に関連の記述があったが、安倍政権になって急に、安倍氏とその支持者たちが真実を変えようとしている。自分たちに有利な記憶だけ大事にしようとしているが、これは問題だ」
?日本はなぜ、第二次世界大戦中のナチスの過ちを謝罪し続けるドイツのように行動できないのか。
「日本人の多くはドイツと自国を比較することを好まない。終戦70周年を迎えたのにもかかわらず、安倍政権は不幸にも日本の過去の責任を認めた村山談話にも挑もうとしている。地域内の平和を20年以上守ってきた歴史問題やそれに関連する大きな枠組みを個人的な政治ゲームのため不必要に崩そうとするのは問題だ。だが、安倍首相がドイツのように過去の過ちを謝罪し、未来に向かって進めない理由はない。世界が直面している危機に共に対処しても不十分なのに、安倍政権は全てを後退させる傾向がある。北東アジア地域や世界にとって良くないことだ」
韓国メディアは米国歴史学者の安倍批判発言を大きく取り上げている。日本と韓国、足を踏んだ側と、踏まれた側の違いではないだろうか。私たちは、韓国国民の発信に耳を傾け、その感情の動きにもっと敏感でなくてはならない。
(2015年2月9日)
NHKの籾井勝人会長がまたまた話題を提供している。この人に抜きがたく刻印されたイメージどおりの、「期待を裏切らない」発言によってである。余りに露骨で拙劣な政権ベッタリの籾井発言に接して、安倍首相のメディア対策人事が成功しているとは到底思えない。これは政権側から見ても大失敗の人事ではないか。
言うまでもなく、真実を伝えてこそのメディアでありジャーナリズムである。真実を不都合として妨害する力を持つ者は、第1に政治権力、第2に経済的富力、そして第3に多数派の社会的圧力である。
これらの諸力から毅然と独立し対峙する存在であってはじめて、メディアとしての存在価値がある。何よりも、報道の自由とは権力から憎まれ、経済的富者から疎まれ、社会の多数派から歓迎されない、そのような事実や見解を報道する自由なのだ。
権力にへつらい、シッポを振って恥じないこのような人物。ジャーナリストとしての矜持を持たないこんな男を、よくぞ見つけてきてNHKのトップに据えたものだ。救いは、ジャーナリストらしい格好すらできないことだが…。
一昨日(2月5日)の籾井発言の内容は、昨日の朝日に詳しく、本日(2月7日)朝日だけが「NHK会長 向き合う先は視聴者だ」と題して社説に取り上げている。朝日のその姿勢に拍手を送りたい。
ああ朝日よ、君に告ぐ。君、萎縮したまふことなかれ。籾井が何を言おうとも、他紙の攻撃激しくも、君の誇りは傷つかじ。この世ひとりの君ならで、ああまた誰をたのむべき。君、萎縮したまふことなかれ。
本日の朝日社説の冒頭を引用したい。さすがに、読みやすい良く練られた達意の文章となっている。
「NHKの籾井勝人会長が、おとといの記者会見で、公共放送のトップとして、また見過ごすことのできない発言をした。
戦後70年で『従軍慰安婦問題』を取り上げる可能性を問われ、こう答えたのだ。
『正式に政府のスタンスというのがよくまだ見えない。そういう意味において、いま取り上げて我々が放送するのが妥当かどうか、慎重に考えなければいけない。夏にかけてどういう政府のきちっとした方針が分かるのか、このへんがポイントだろう』
まるで、NHKの番組の内容や、放送に関する判断を『政府の方針』が左右するかのような言い方だ。
就任会見で『政府が右と言うことを左と言うわけにはいかない』と発言し、批判を招いて1年余。籾井会長は相変わらず、NHKとはどういうものか理解していないように見える。
当たり前のことだが、NHKは政府の広報機関ではない。視聴者の受信料で運営する公共放送だ。公共放送は、政府と一定の距離を置いているからこそ、権力をチェックする報道機関としての役割を果たすことができる。番組に多様な考え方を反映させて、より良い社会を作ることに貢献できる。そして、政府見解の代弁者でないからこそ、放送局として国内外で信頼を得ることができるのだ。
政府の立場がどうであれ、社会には多様な考え方がある。公共放送は、そうした広がりのある、大きな社会のためにある。だからみんなで受信料を負担し、支えているのだ。公共放送が顔を向けるべきは政府ではない。視聴者だ。」
昨日の「会見詳報」には、次のような発言も収録されている。
問 去年、朝日新聞の誤報問題で従軍慰安婦が脚光を浴びたが、従軍慰安婦問題を戦後70年の節目で取り上げる可能性は
籾井 なかなか難しい質問ですが、やはり従軍慰安婦の問題というのは正式に政府のスタンスというのがよくまだ見えませんよね。そういう意味において、やはり今これを取り上げてですね、我々が放送するということが本当に妥当かどうかということは本当に慎重に考えなければいけないと思っております。そういう意味で本当に夏にかけてどういう政府のきちっとした方針が分かるのか、この辺がポイントだろうと思います。
問 先ほどの従軍慰安婦問題で、正式に政府のスタンスがよく見えないとおっしゃった。現時点では河野談話があり、現政府も踏襲すると言っている。それでも政府のスタンスがよく見えないというのは、河野談話について変わるべきだとか変わりうるとか言うことでおっしゃってるんでしょうか
籾井 その手の質問にはお答えを控えさせていただきます。
問 「よく見えない」という認識は……
籾井 あの、どんな質問もお答えできかねます。
問 それはどうしてですか
籾井 しゃべったら、書いて大騒動になるじゃないですか。
問 大騒動になるようなお考えをお持ちなのですか
籾井 ありません。そんな挑発的な質問はやめてくださいよ。
この人の頭の中では、NHKとは「政府のスタンス」に従う伝声管でしかないのだ。そのような戦前のあり方を反省しての放送法であり、あらたな公共放送機関としての新生NHKであったはずではないか。
いま、先日亡くなられた奥平康弘氏の、表現の自由に関する論文を読み返している。そのなかに、戦前の放送規制のあり方に関して次のような叙述がある。やや長いが、是非お読みいただきたい。
「わが国放送事業が、1924年、社団法人東京放送局・大阪放送局・名古屋放送局の設立免許とともにはじまったのは、周知のとおりである。監督庁たる逓信省はその内規、放送用私設無線電話監督事務処理細則(1924(大13)年2月作製、のちしばしぱ改正した)および各放送局施設許可付帯命令書などにより、放送番組内容の詳細な事前検閲権を確保し・所轄逓信局長の監督に服せしめるものとした。のちまもなく、既存三法人を解散させ、日本放送協会を成立せしめたが、放送番組に関する公権力的検閲の大綱は変化しない。1930年全面改正された監督事務処理細則によれば、
(1) 放送種目及び放送内容は社会教育上適当と認めるものに重きを置くこと
(2) 放送内容中経済財界に関する事項については慎重なる考慮を払うここと
(3) 講演・演芸等の委嘱又は雇傭に依る放送は人選を慎重調査し特に外国人を選ぶときは十分に注意すること、などが命ぜられている。
また、大体において新聞紙法・出版法に準拠して、放送番組の禁止・削除・訂正の各事項が列挙されている。これらの諸点につき、逓信局の事前のチェックをうけることもちろんだが、それだけでは不十分というわけか、つぎのようなフェイル・セイフの制度がとられている。
すなわち、各放送には監督者たる放送主任者を配置せしめなけれぱならず、この放送主任者席には「常時放送を監督し得る装置と瞬時に放送を遮断し得る装置をなさしめ、逓信局との直通電話もこの席に設くること」これである。
逓信省は、所轄逓信局を経由して、そのときどきの具体的な禁止事項・注意事項を通達し、たえまない指導監督をおこなっていたが、準戦時体制に入ると、ここでも番組統制権は、他のマス・メディア統制権とともに、内閣情報局の集中掌握するところとなる。」(有斐閣「表現の自由??理論と歴史」『戦前の言論・出版統制』。初出は「ジュリスト」378号・1967年)
同論文で、出版・新聞・放送・演劇・演芸等の表現活動に対する戦前の統制を概観して、氏は最後をこう結んでいる。
「戦前の出版警察を考究して脳裡から離れないのは、日本人はよくも長いこと、こんな非合理的、徹頭徹尾馬鹿馬鹿しい権力を我慢してきたものだという一事である。わたくしには、この秘密をわたくしなりに解明をしてみないかぎり、現行憲法が表現の自由を保障しているということに安心立命することができないように思える。」
「奥平先生に、まったく同感」では済まない。述べられていることが過去のことではなく、現在の問題でもあるのだから。籾井のごときがNHKの会長を続けるこの事態は、まさしく「日本人はよくも、こんな非合理的、徹頭徹尾馬鹿馬鹿しい権力を我慢していられるものだ」というに値する。こんな人物をトップにいただくNHK、こんなトップを任命する安倍政権の「非合理的、徹頭徹尾馬鹿馬鹿しさ」に我慢してはおられない。安心立命など到底できようはずもない。
(2015年2月7日)