昨日(5月25日)の東京地裁「再雇用拒否第2次訴訟」判決。法廷から出てきた仲間の弁護士から第一報のメールがはいった。肉声のように、生々しい。
「全面勝訴! 裁量権逸脱で、その余の点は判断するまでもなく(憲法判断もなし)。 1年分の収入を損害賠償として認めた。
『正義は勝つ・・・とはかぎらない。でも、たまに勝つことがある』
いやあ、ほんとうに、希望がもてるような気がしてきました。がんばりましょう。」
率直な心情の吐露である。実は、事案の内容をほぼ同じくする「第1次訴訟」では、一審において同様の「勝訴判決」(2008年2月)を得たものの、高裁で逆転敗訴(2010年1月)となり、上告棄却(2012年6月)で確定している。「第1次訴訟」のほかにも、前例となる類似事案3件で最終的には教員側の敗訴が確定している。
昨日の判決は、そのような数件の判決があることを双方十分に意識した上での攻防を経て言い渡された原告勝訴なのだ。だからこそ、「必ずしも常に勝つとは限らない正義実現への、今回こそはの希望」という実感が湧いてくる。
この事件は、私は直接には関与していない。弁護団長は川越の田中重仁さん。彼を支えて埼玉の弁護士が中心になって担ってくれた。東京弁護団の重荷を分担していただいたのだ。提訴が2009年9月だから、6年近いご苦労。その成果に敬意を表したい。
各紙の報道を眺めてみる。見出しに微妙な差がある。
君が代訴訟、東京都に賠償命令 不起立で再雇用拒否は違法 共同
再雇用拒否、都に賠償命令=君が代不起立、元教諭ら勝訴 時事
君が代不起立で再雇用拒否は違法、都に賠償命令 地裁 朝日
君が代不起立訴訟:再雇用拒否の都に5300万円賠償命令 毎日
国歌斉唱で不起立、再雇用せず…都に賠償命令 読売
君が代訴訟、東京都に賠償命令 不起立で再雇用拒否は違法 東京(共同配信)
君が代訴訟で都に賠償命令 「再雇用拒否は違法」 日経
国歌不起立で教員再雇用せず 都に賠償命令 東京地裁判決 産経
ネットで配信されている「弁護士ドットコム」の報道がやや詳しく分かり易い。
「君が代を歌わないだけで『再雇用拒否』は違法ー東京地裁が東京都に『賠償命令』判決」
東京地裁(吉田徹裁判長)は5月25日、卒業式・入学式で「国旗に向かって起立し、国歌を斉唱しなかったこと」だけを理由にして、東京都立高校を定年退職した教職員を「再雇用」しなかったことが「違法だ」とする判決を下した。2007年?09年にかけて再雇用されなかった元都立高校教職員の原告たち22人に賠償金(211万円〜260万円)と利息を支払うよう、東京都に命じた。賠償金は、もし再雇用されていたら支払われていたはずの1年分の給与にあたる額。
判決は、教職員の90%?95%が採用される再雇用制度の実態などから、教職員には再雇用されることを期待する権利(期待権)があり、その期待権は「法的保護に値する」とした。そして、都教委が「不起立」のみをもって原告たちを再雇用をしなかったことは、原告たちの期待権を「大きく侵害」し、違法だと判断した。
注目すべきは、毎日の判決理由の要約。
「判決は、都教委が再雇用を拒否した理由は『不起立』だけだと指摘。『起立斉唱命令は原告らの思想の自由を間接的に制約している。命令違反は再雇用拒否の根拠としては不十分』と述べた。その上で22人全員に、1年分の報酬211万〜259万円の支払いを命じた。
末尾に裁判所が配布した「判決骨子」を貼り付けておく。これをお読みいただけば論旨明快な判決理由がよくわかる。
判決が都教委の裁量権逸脱濫用を認定した決め手は、「再雇用制度の意義・趣旨」と「再雇用制度運用の実態」である。自らの思想・信条と教員としての良心に忠実であろうとしたために、国旗国歌の強制に従えないとした者に、懲戒処分を超えた過当な不利益を科することを違法と認めたのである。
周知のとおり、石原慎太郎・横山洋吉・米長邦雄・鳥海厳・内舘牧子などの面々が悪名高き「10・23通達」を発して、東京都の教育現場に踏み絵を再現させた。彼らは、「日の丸・君が代」強制の職務命令違反が重なるごとに処分の量定を加重する手法を編み出し、過酷にこれを実践した。明らかに、「日の丸・君が代」受容の思想への転向強要システムというほかはない。
しかも、「日の丸・君が代」不起立への制裁は懲戒処分だけでは終わらない。一度着けられたマイナス評価は職業生活の最後まで、いや定年後まで生涯にわたってついて回る。その陰湿なイヤガラセの中で、最たるものが定年後の再雇用(再採用・嘱託採用)拒否なのだ。元々再雇用制度は、定年制導入の際に年金受領年齢までの間隙を埋める制度としてできたもので、全員採用が制度の趣旨であり運用実態でもあった。ところが、他の理由の被懲戒経験者は採用されても、「日の丸・君が代」関連の被処分者だけは頑なに差別されて採用を拒否されているのだ。
それにしても、都教委の手口はひどい。ようやくにして、関連訴訟での都教委の敗訴が続いている。日本の司法の行政への甘さはよく知られているところ。法律用語でいえば、「行政裁量」の範囲は広すぎるほど広いのだ。だから、よほど目に余ることでもない限り、行政裁量が違法とされることはない。最近の諸判決は、司法が都教委のやり方を「到底看過できない」としているということだ。
都教委は本件の判決について、「大変遺憾。内容を精査して、今後の対応を検討する」と、中井敬三教育長のコメントを発表している。何が「遺憾」なのだろうか。指摘された自分の違法行為を反省して遺憾と言っているのではなさそうだ。東京地裁の裁判官を怪しからんと言っているように聞こえる。傲慢としか評しようがない。
都教委に猛省を促すと同時に、特に中井敬三教育長に一言申しあげておきたい。
あなたはこれまでの都教委の違法の積み重ねに責任がない。すべて、あなたの前任者がしでかした不始末で、「これまでの都教委のやり方がよくなかった」と言える立場にある。あなたの手は今はきれいだ。まだ汚れていないその手で、不正常な東京の事態を抜本解決するチャンスだ。
この度の判決への対応を間違えると、あなた自身の責任が積み重なってくる。あなた自身の手が汚れてくれば、抜本解決が難しくなってくる。一連の最高裁判決に付された補足意見の数々をよくお読みいただきたい。この不正常な事態を解決すべき鍵は、権力を握る都教委の側にあることがよくお分かりいただけるだろう。
「トンデモ知事」の意向で選任された「トンデモ教育委員」による「10・23通達」が問題の発端となった。今や、知事が替わった。当時の教育委員もすべて交替している。教育畑の外から選任された中井敬三さん、あなたなら抜本解決ができる。今がそのチャンスではないか。大いに期待したい。
(2015年5月26日)
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平成27年5月25日午後1時30分判決言渡1 0 3号法廷
平成21年(ワ)第34395号損害賠償請求事件
東京地裁民事第36部 吉田徹裁判長 松田敦子 吉川健治
判 決 骨 子
1 当事者
原告 ○○ほか21名 被告 東京都
2 事案の概要
本件は、東京都立高等学校の教職員であった原告らが、東京都教育委員会(以下「都教委」という。)が平成18年度、平成19年度及び平成20年度に実施した東京都公立学校再雇用職員採用選考又は非常勤職員採用選考等において、卒業式又は入学式の式典会場で国旗に向かって起立して国歌を斉唱することを命ずる旨の職務命令(以下「本件職務命令」という。)に違反したことを理由として、原告らを不合格とし、又は合格を取り消した(以下、これらの選考結果等を「本件不合格等」という。)のは、違憲、違法な措置であるなどとして、都教委の設置者である被告に対し、国家賠償法1条1項に基づき損害賠償金の支払を求めた事案である。
3 主文(略)
4 理由の骨子
(1)再雇用制度等の意義やその運用実態等からすると、再雇用職員等の採用候補者選考に申込みをした原告らが、再雇用職員等として採用されることを期待するのは合理性があるというべきであって、当該期待は一定の法的保護に値すると認めるのが相当であり、採用候補者選考の合否等の判断に当たっての都教委の裁量権は広範なものではあっても一定の制限を受け、不合格等の判断が客観的合理性や社会的相当性を著しく欠く場合には、裁量権の範囲の逸脱又はその濫用として違法と評価され、原告らが有する期特権を侵害するものとしてその損害を賠償すべき責任を生じさせる。
(2)原告らに対する不合格等は、他の具体的な事情を考慮することなく、本件職務命令に違反したとの事実のみをもって重大な非違行為に当たり勤務成績が良好であるとの要件を欠くとの判断により行われたものであるが、このような判断は、本件職務命令に違反する行為の非違性を不当に重く扱う一方で、原告らの従前の勤務成績を判定する際に考慮されるべき多種多様な要素、原告らが教職員として長年培った知識や技能、経験、学校教育に対する意欲等を全く考慮しないものであるから、定年退職者の生活保障並びに教職を長く経験してきた者の知識及び経験等の活用という再雇用制度、非常勤教員制度等の趣旨にも反し、また、平成15年10月に教育長から国旗掲揚・国歌斉唱に関する通達が発出される以前の再雇用制度等の運用実態とも大きく異なるものであり、法的保護の対象となる原告らの合理的な期待を、大きく侵害するものと評価するのが相当である。
したがって、本件不合格等に係る都教委の判断は、客観的合理性及び社会的相当性を欠くものであり、裁量権の範囲の逸脱又はその濫用に当たる。
よって、都教委は、その裁量権の範囲を逸脱し、又はこれを濫用して、再雇用職員等として採用されることに対する原告らの合理的な期待を違法に侵害したと認めるのが相当であるから、他の争点について検討するまでもなく、都教委の設置者である被告は、国家賠償法に基づき、期特権を侵害したことによる損害を賠償すべき法的責任がある。
(3)再雇用職員等の運用実態、雇用期間等を考慮すると、原告らが再雇用職員等に採用されて1年間稼働した場合に得られる報酬額の範囲内に限り、都教委の裁量権の範囲の逸脱又はその濫用による原告らの期待権侵害と相当因果関係にある損害と認めるのが相当である。
東京都(教育委員会)を被告とする、一連の「日の丸・君が代」強制拒否訴訟は、一定の歯止めとなる判決を得ながらも所期の成果をあげるまでには至っていない。最高裁での違憲判決を求めて、法廷闘争はまだまだ先が長い。
弁護団は知恵を絞って、新しい主張を開拓して裁判所を説得したいものと努力をしているが、一方、これまで積み上げてきた基本となる教育の本質論や、憲法を頂点とする教育法体系の理念や、その立法事実の主張にも手を抜いてはならないと思う。天皇制教育を清算して戦後に確立した現行教育法体系は、「戦後レジーム」(戦後民主主義体制)の象徴というべき存在として、訴訟を離れても、今その確認と評価とは、ことのほか重要なテーマとなっている。
具体的には、教育の本質とは何か。教育条理は法にどう反映しているか、法の解釈にどう活かされるべきか。また、戦前のレジームを象徴する天皇制教育とはいかなる考え方で、いかなる実態をもち、国の命運にいかなる結果をもたらしたのか。戦後教育改革とは、戦前教育のどこをどう反省し、どのように根本転換して、戦後教育法システムを作り上げたのか。さらにそのことが、新憲法の理念とどう関わっているのか。
本日(5月22日)が、東京「君が代」裁判第4次(処分取消)訴訟の第5回口頭弁論期日である。ここで陳述される原告準備書面(4)が、以上の問題意識に触れる主張を盛り込んだものとなっている。この訴訟を担当している限り、歴史修正主義に毒されることはありえない。
準備書面は目次だけで6ページに及ぶ大部なものだが、そのごく一部を紹介しておきたい。以下、教育基本法制定の経過と基本理念、そして完成した教育基本法の普遍性、真理性についての要約である。
※戦前教育への反省と戦後教育改革の基本理念
教育基本法は、戦後教育改革の結実点である。その立案にあたったのが、「教育刷新委員会(南原繁委員長)」であった。同委員会は内閣に直接建議を行う機関として位置づけられ、重要な役割を果たした。その委員会審議の冒頭に、吉田茂首相の代理として、幣原喜重郎国務大臣(前首相)が次のように挨拶している。
「今回の敗戦を招いた原因は、煎じつめますならば、要するに教育の誤りに因るものと申さなければなりませぬ。従来の形式的な教育、帝国主義、極端な愛国主義の形式というものは、将来の日本を負担する若い人、これを養成する所以ではありませぬ・・・・我々は、過去の誤った理念を一擲し、真理と人格と平和とを尊重すべき教育を、教育本来の面目を、発揮しなければならぬと考えます。」
ここには、戦前の教育に対する深い反省が表れている。戦前教育の誤りをもって戦争の原因と認め、天皇制教育を一擲して「真理と人格と平和とを尊重すべき教育」を教育本来の面目としている。この短い言葉に、戦後教育改革の理念が凝縮されている。
※憲法改正論議における「教育根本法」構想
憲法改正審議の中で、憲法中に教育関係の一章を設けて、教育の自主性・教育の自由・教育の独立性など、新しい民主主義教育の理念を明らかにすべきことが、大島多蔵(新光倶楽部)らの議員から提案された。
これに対し、田中耕太郎文相(後の最高裁長官)は、「教育根本法というべきものの構想をねっている」ことを明らかにし、さらに次のように発言している。
「教育権の独立と云うようなこと、詰り教育が或は行政なり、詰り官僚的の干渉なり或は政党政府の干渉と云うものから独立しなければならないと云う精神は、これは法令の何処かに現したいと云うことは、当局と致しまして念願して居る所でありまして、これは計画致して居りまする教育根本法に、若し法律的のテクニックとして許しますならば、考慮してみたい」
と述べ、教育にかかる憲法的条項を、新たに制定する「教育根本法」にゆずる方針を明らかにした。
※教育刷新委員会における教育基本法構想
1946年9月20日、教育刷新委員会の第3回総会にて、田中耕太郎文相は、教育基本法の全体構想を掲げ、同委員会の審議を求めた。
この中で、田中文相は、
「文部省なり地方の行政官庁なりが終戦まで執って居った態度は我々の考から言ってはなはだ遠いものでありまして、文部省にしろ、あるいは地方の行政官庁にしろ、教育界に対して外部から加えられるべき障碍を排除するという点に意味があるのであります」
と、教育の独立を主張し、さらに、
「要するに学校行政はどういう風にしてやって行かなければならないものであるかということ、あるいは学問の自由、教育の自主性を強調しなければならないということ、・・・・・・そういう建前をもって教育の目的遂行に必要な色々の条件の整備確立をやって行かなければならぬ」
と、47年教育基本法10条の「条件整備」の考え方、すなわち、教育行政の主眼は教育に関する施設・設備・予算等の確保に置かれるべきであり、教育内容についての官僚的な統制は排除され、学問の自由・教育の自主性が尊重されなければならないといった考え方を既に明らかにしていた。
※高橋誠一郎文相の教育基本法案上程理由説明
「民主的で平和的な国家再建の基礎を確立いたしまするがために、さきに憲法の画期的な改正が行われたのでありまして、これによりまして、ひとまず民主主義、平和主義の政治的、法律的な基礎が作られたのであります。しかしながらこの基礎の上に立って、真に民主的で文化的な国家の建設を完成いたしまするとともに、世界の平和に寄与いたしますこと、すなわち立派な内容を充実させますることは、国民の今後の不断の努力にまたねばなりません。そしてこのことは、一にかかって教育の力にあると申しましても、あえて過言ではないと考えるのであります。かくの如き目的の達成のためには、この際教育の根本的刷新を断行いたしまするとともにその普及徹底を期することが何より肝要であります。
…さらに新憲法に定められておりまする諸条文の精神を一層敷衍具体化いたしまして、教育上の諸原則を明示いたす必要を認めたのであります。」
「この法案は、教育の理念を宣言する意味で、教育宣言であるとも見られましょうし、また今後制定せらるべき各種の教育上の諸法令の準則を規定するという意味におきまして、実質的には、教育に関する根本法たる性格をもつものであると申し上げ得るかと存じます。従って本法案には、普通の法律には異例でありますところの前文を附した次第であります。」
教育基本法は、教育勅語に代わる教育理念を示すいわば教育宣言であると同時に、その他の教育法を導く、「教育法の中の根本法即ち、教育憲法」(田中二郎)だといってよい。前文の文言が、そして文相の提案理由が示しているように、教育基本法は、なによりも教育が日本国憲法の精神に則り、その理想の実現を担うものであるべきこと、そのために教育の目的をさらに具体的に明示して、新しい日本の教育の基本を定め、教育実践と教育行政のあり方を方向づけるためのものであった。
※教育行政の理念
以上のような教育の目的を実現するためには、教育行政は、時の政治的権力から自律し、教育独自の価値と論理を尊重する教育行政の仕組みがつくられることがとりわけ重要であった。その理念は「教権の独立」として表現された。
文部省(田中二郎・辻田力)の『教育基本法の解説』(1947年)も、戦前の中央集権的教育行政制度をつぎのようにとらえていた。同解説は、
「(戦前の)精神及び制度は、教育行政が教育内容の面にまで立ち入った干渉をなすことを可能にし、遂には時代の政治力に服して、極端な国家主義的又は軍事的イデオロギーによる教育・思想・学問の統制さえ容易に行われるに至らしめた制度であった。更に、地方教育行政は、一般内務行政の一部として、教育に関して十分な経験と理解のない内務系統の官吏によって指導せられてきた」
「このような教育行政が行われるところに、はつらつたる生命をもつ、自由自主的な教育が生れることは極めて困難であった」
と述べて、教育基本法10条を根幹とする教育行政の新たな転換の意味が、教育の自主性・自律性の尊重にあることを強調した。戦後教育行政の理念は、戦前の中央集権的官僚統制主義の反省に立って、教育行政の任務を条件整備に限定し、教育内容への介入をさけて、政治に対する教育の自律性を確保し、さらに地方の実情に応じた個性的教育を創り出すことを援助することにおかれたのである。
※教育基本法理念の普遍性
新憲法と教育基本法は、教育のあり方についての戦前的思惟への反省に立って、教育を国民の義務ではなく権利として規定するとともに、平和と民主主義を根本に据え、真理と正義を希求する人間の育成を新しい教育の目標とし、人間の尊厳に基づく個性の発現をめざすものとなった。
また、国家と教育の関係も大きく変わり、教育においても学問の自由が尊重され、真理と真実こそが教えられねばならないこと、そして、このような教育の目的を実現させるためには、教育は「不当な支配」に服することなく、「国民に対して直接に責任を負う」べきものとしてとらえられ、教育の自主性と自律性が尊重されて、教師は不断の研修を通して子どもの学習権の充足につとめ、国民の信頼に応えるために努力すること、そして、教育行政は、教育の目的が達せられるための条件を整備することにその任務を限定すべきことが定められた。
こうして、戦後教育改革は、教育勅語を中軸とする教育のあり方(帝国憲法・教育勅語体制)から、憲法・教育基本法を中心とする教育のあり方(憲法・教育基本法体制)へと大きく転換した。
教育の依拠すべき根本のものが教育勅語から教育基本法に代わったということは、教育目的が天皇制イデオロギーの注入による国民形成から、真理と正義を希求する人間の育成へと変わったということにとどまらず、それまで勅語が占めていた次元そのものを否定して、いわば教育の全構造をかえるということを意味した。
教育刷新委員会の委員長として教育基本法制定作業の中心に位置していた南原繁は、成立した教育基本法についてこう語っている。
「新しく定められた教育理念に、いささかの誤りもない。今後、いかなる反動の嵐の時代が訪れようとも、何人も教育基本法の精神を根本的に書き換えることはできないであろう。なぜならば、それは真理であり、これを否定するのは歴史の流れをせき止めようとするに等しい」
この南原の言のとおり、憲法26条(教育を受ける権利)、同13条(それを支える生徒の人間としての尊厳)、そして23条(学問の自由→生徒の権利を十全に発揮させるための教員の独立)という、高次の規範に揺るぎがない以上、2006年教育基本法改正を経てなお、教育基本法の基本理念に変更はないと見るべきである。
(2015年5月22日)
東京「君が代」裁判弁護団の澤藤です。本日、服務事故再発防止研修受講の業務命令を受け、不本意ながらもこれから研修を受けるためこのセンターに入構する教員を代理して、センターの総務課長と職員の皆様に抗議と要請を申しあげます。
まず、総務課長を通じて、都教委に対して厳重に抗議します。本日の研修は、まったく必要のないものです。いや、本日予定されている研修はけっしてあってはならないものと強く指摘せざるを得ません。あなた方は、違憲違法なことを強行しようとしているのです。
本来、この教員は今日これから、授業を担当しているはずなのです。その教員を教室から引き剥がし、子どもたちの教育を受ける権利を侵害しているのが、あなた方のしていることです。あなた方の違法な行為の被害者は、誰よりも子どもたちなのです。
さらに、言うまでもなく教員自身が被害者です。「日の丸・君が代」斉唱時に起立をしなかったというだけのことで、教員は減給10分の1を1か月という懲戒処分を受けました。それに加えての本日の研修です。本日は9時から12時半まで210分にわたって行われます。しかも、本日だけでは終わりません。もう一日同じ時間の研修が待っています。さらに、その後は校内研修も繰り返されます。あたかも、「懲戒処分だけでは不十分。もっと厳しい制裁が必要だ」「日の丸・君が代あるいは国旗国歌に敬意を表するよう思想を改造せよ」と言わんばかりの理不尽ではありませんか。
本日研修受講を命じられている教員は、教育の本質と教員としての職責を真摯に考え抜いた結果、自己の良心と信念に従った行動を選択したのです。このように良心と信念に基づく行動に対して、いったいどのように「反省」をせよと言うのでしょうか。信念にもとづく行為に対して「再発防止」を迫るということは、思想や良心を捨てよと強制することにほかなりません。日の丸・君が代への強制に服しない者への公権力による処分自体が思想・良心を侵害する公権力の発動として許されることではありませんが、これに加えて再発防止研修に名を借りた転向強要はあってはならない違法行為といわざるを得ません。
研修が必要なのは、日の丸・君が代の強制に屈しなかった教員ではありません。むしろ、あなた方、東京都教育委員の諸君と教育庁の幹部職員にこそ、研修が必要と言わざるを得ません。あなた方こそ、教育の本質を学ばなければならない。憲法や教育基本法についての研修を受けなければならない。戦前の教育のどこがどう間違い、どのように反省して今日の教育の法体系やシステムができているのか。憲法や教育基本法は、教育や教員についてどのように定めているのか。しっかりと十分な理解ができるまで研修を繰り返して、違憲・違法な教育行政の再発防止に努めていただきたい。
そうすれば、10・23通達自体の違憲・違法・不当性に思い至るはず。石原知事の意向を受け、知事のお友だちを集めた教育委員たちが、10・23通達を出したのは、2003年のことでした。あれから12年経って、知事は代わりました。当時の教育委員は全員居なくなりました。都議会の構成もあらたまっています。この体制を推し進めた教育長も交替して、10・23通達体制の泥にまみれていない外部からの新教育長の着任と聞いています。明らかに都庁の空気は変化しているはず。教育行政も変化して当然なのです。
現知事は、ことのほかオリンピックに熱心ですが、世界の人々が集まるここ東京が、思想や信仰を弾圧するということでよいのか。10・23通達体制は、不自然で無理があり、いつまでもは維持できるはずがないのです。どこかで、問題を解決しなければなりません。
一連の最高裁の判決からも、最高裁の裁判官たちが、東京都の教育が不正常で、なんとか改善しなければならないと嘆いていることを読み取れます。しかも、その改善は権力側のイニシャチブで行わねばならないことも記されています。
ようやく、10・23通達について抜本的な解決ができる萌しが見えているこの時期、再発防止研修の名で新たなトラブルを起こす愚は避けていただきたい。
そのような観点から、本日の研修を担当する研修センターの職員の皆様に要請を申しあげたい。
日の丸・君が代強制と、強制に屈しない個人への制裁として本日これから強行されようとしている服務事故再発防止研修とは、キリシタン弾圧や特高警察の思想弾圧と同じ質の問題を持つ行為です。おそらく皆様には、内心忸怩たる思いがあることでしょう。キリシタン弾圧や特高警察になぞらえられるようなことを進んでやりたいとは思っているはずはないとおもいます。だが、仕事だから仕方がない。上司の命令だから仕方がない。組織の中にいる以上は仕方がない。「仕方がない」ものと割り切り、あるいはあきらめているのだろうと思います。
しかし、お考えいただきたい。本日の研修受講命令を受けている教員は、「仕方がない」とは割り切らなかった。あきらめもしなかった。教員としての良心や、生徒に対する責任を真剣に考えたときに、安穏に職務命令に従うという選択ができなかった。
懲戒処分が待ち受け、人事評価にマイナス点がつき、昇給延伸も確実で、賞与も減額され、服務事故再発防止研修の嫌がらせが待ち受け、あるいは、任地の希望がかなえられないことも、定年後の再任用が拒絶されるだろうことも、すべてを承知しながら、それでも日の丸・君が代への敬意表明の強制に屈することをしなかった。彼は多大な不利益を覚悟して、自分の良心に忠実な行動を選択したのです。
本日の研修命令受講者は、形式的には、非行を犯して懲戒処分を受けた地方公務員とされています。しかし、実は自分の思想と教員としての良心を大切なものとして守り抜いた尊敬すべき人、立派な教員ではありませんか。そのことを肝に銘じていただきたい。
あなたがた研修センター職員の良心に期待したい。その尊敬すべき研修受講者に対して、心して研修受講者の人格を尊重し、敬意をもって接していただくよう要請いたします。
(2015年5月13日)
作者が高名な詩人なのだから、これは一行で完結した詩になっているのだろう。
もっとも、詩であろうとなかろうと、どうでもよいことだ。
題名が「春」とされているが、これがふさわしいかどうか。「美しい蝶の、希望への春の飛翔」などと解したのでは、まことにつまらぬ駄文でしかない。題は無視しよう。作者の意図もどうでもよいことだ。このわずか一行の文字の連なりの重さと激しさを、自分なりにときどき反芻する。
詩人の心象の中で、蝶は自身の姿だ。たった一匹、群れることを拒否した魂。
暗い北の海辺の蝶は、敢えて沖へ羽ばたく。海の果ては見えない。はたしてこの海が海峡であるか大海であるのか、それすら蝶は知らない。
海が果てるまでの波濤の連なりに飲み込まれることなく羽ばたき続けられるだろうか、蝶に確信はない。明日は雨やも知れず、向かい風が吹くやも知れない。突然に波が高くなることもあろう。疲れても休む場所はなく、見渡す限り、花も蜜もない。海を渡った新たな天地に希望があるのか。それすら分からない。
それでも、蝶は敢えて海を渡ろうと羽ばたくのだ。無謀、これ生きる証しのごとくに。
私は、この詩の作者に一度会っている。1957年のことだ。私は、大阪府下の中学校の3年生だった。そのときに、校歌ができた。その作詞者が、隣町・堺に住んでいた高名な詩人、安西冬衛その人だった。
作詞者を迎えて、1500人の全校生徒による校歌の発表会がおこなわれた。私は生徒会長として、詩人に謝辞を捧げる一場の演説をおこなった。隻脚で杖をついた白髪の老人の温厚な雰囲気をよく覚えている。詩人もうれしそうだった。
私がしゃべった内容はよく覚えていないが、校歌に読み込まれた校訓を引いて、それらしいことを言ったのだと思う。その安西冬衛作詞の校歌とは、次のようなもの(のはず)だ。
峰の青雲
秀ずる金剛
仰ぐこの門
我らが母校
つとに尊ぶ
自主の精神
この山
この川
われら学ばん
眉健やかに
望み豊かに
富田林第一中学校
温厚な老詩人の風貌にも校歌の歌詞にも
「てふてふが一匹革達革旦海峡を渡つて行つた」
という、伝説となった詩の切れ味はなかった。
一番だけ覚えている校歌に読み込まれた校訓は、「自主の精神」だった。終戦から10年余のこの時期の戦後民主主義の空気をよく表しているのではないか。「忠君愛国」や「滅私奉公」の類の反対語が校訓となっていたのだ。
なお、私は富田林小学校に2年在籍している。その小学校にも校訓があった。
自主自立
共同親和
勤労愛好
この3語が、やはり校歌の各番に読み込まれている。
筆頭に挙げられた「自主」・「自立」は、紛れもない戦後民主主義のスローガン。「共同親和」は戦前型道徳の残滓を感じさせる。「勤労愛好」は両方に読める。
自主性・主体性の確立は、この時代の教育スローガンのトレンドだったのだ。「君が代」なんぞよりは、格段に立派なものではないか。
なお、安西冬衛「春」の初出は、1926年だという。詩人にとって、時代の雰囲気が「韃靼海峡」の暗さだったのだろうと私は思う。この時代の暗さが海をこえて羽ばたかざるを得ないとする心象を形成したと解釈したい。戦後、「眉健やかに 望み豊かに」と中学生とともに詠うことができる時代への転換は、老詩人の幸福でもあったのだと思う。
詩人の心象風景に中のてふてふは、戦後ようやくにして、春の明るい日ざしの中で希望に向かって羽ばたいたのではないだろうか。
(2015年4月23日)
「国立大学の卒業式に国旗国歌を」という安倍晋三の押しつけに、まず朝日と毎日が批判の社説を書いた。朝日「国旗国歌―大学への不当な介入だ」、毎日「国旗国歌の要請 大学の判断に任せては」というもの。両紙とも4月11日の朝刊に掲載。安倍発言は9日で、予定されたことではなかったようだから、両紙の迅速な対応には敬意を表したい。
対して、政権ベッタリの本領を発揮したのが、14日付の産経社説。「国旗国歌 背向ける方が恥ずかしい」というもの。「読むだに恥ずかしい社説」と、私が昨日のブログで叩いたものだ。実は、昨日日経も社説に取り上げていた。「自主・自律あっての大学だ」という標題。これが、実にリベラルな立場からの明確な政権批判の内容なのだ。おそらくは、経済合理性を重んじる財界主流の意向は、安倍の非合理な復古主義にはついていけないということなのだろう。ともかく、昨日の時点で、この問題についての中央各紙の社説の姿勢は3対1で、批判派が圧倒した。
ところが今日(16日)、読売がこの問題で社説を書いた。産経の後追いである。内容はお粗末極まる。日経並みの見識を示すチャンスを逃して、産経並みでしかないことを天下に示した。ともあれ、これで批判派とベッタリ派とは、3対2の色分けとなった。東京新聞はこの件を社説に取り上げていない。4対2となるよう期待したいところ。
ネットで地方紙を探してみたが、面倒で調べきれない。北海道新聞の社説だけが目にとまった。「国立大に日の丸 押しつけはやめるべき」という、なんともストレートなそのものズバリの標題。以下に、日経、読売、そして道新3紙の社説を要約してご紹介したい。
日経社説の論旨は、「自主・自律あっての大学だ」という標題のとおり。大学の自治の重要性を中心に、大学の国際化の問題にも触れて、大学を萎縮させてはならない、とするもの。
「大学はその運営も教育・研究の中身も自主性、自律性が尊重されるべき存在だ。世界中から人を受け入れる空間でもある。大学のグローバル化が急務となるなかで、国公立、私立にかかわらず画一的な統制はなじまない。」
「大学に対する政府の役割は、入学式をどう営むかといったお節介でなく、教育・研究の水準向上や多様性確保である。政府はこの問題で、これ以上の口出しは控えるべきだ。国立大学協会など大学サイドでも、きちんと対応を議論すべきではないだろうか。」
以上に見られる日経社説子の筆の運びは、「なんと愚かな」「非常識な」「馬鹿馬鹿しい」「どうしてそこまでやろうというのか」という、政権に対するあきれ果てたという気分にあふれている。
さらに、こう言っていることが注目される。
「下村文科相は、各大学への要請は『強制ではなく、お願い』だという。しかしまさに首相が『税金によって賄われている』と述べたように、国立大への交付金のさじ加減は文科省が握っている。そこからきた『お願い』は大学を萎縮させる効果が十分にあろう。」
きわめて常識的なそして明解な指摘ではないか。
本日の読売社説は「大学の国旗国歌 要請で自治が脅かされるのか」というもの。タイトルのとおりの内容である。面白くもおかしくもない。
「国旗・国歌が国民の間で広く定着している状況を考えれば、式典で掲揚や斉唱を促すのは妥当と言えよう。」というのが、基本スタンス。
一応、「憲法が保障している『学問の自由』と、それを支える『大学の自治』の原則は、尊重されなければならない。」とは言う。とは言うものの、一応のものとしての理解でしかない。かたちばかりの憲法原則の尊重は、その蹂躙を許容している。
要は、「『強制』ではない。『要請』に過ぎないのだから、問題はない」ということに尽きる。「強制力のない『お願い』によって簡単に揺らぐほど、大学の自治はもろいのだろうか。」とまで言っている。権力の側に立ち続けると、こういう感覚になるのかも知れない。日経の方がまことにまっとうではないか。
戦前、治安維持法や国防保安法、軍機保護法、新聞紙法、出版法などの思想弾圧法制が猛威を振るった当時、「思想統制はそんなにたいしたことはなかった。私は自分の書きたいことを書いた」という記者がいた。そりゃそうだ。権力に擦り寄っていれば書けるのだ。権力を批判する記事さえ書かなければ、「権力はたいしたことはない」のだ。読売は、長年そのようなスタンスだから、自分は安全なのだ。「『強制』ではない。『要請』に過ぎないのだから、問題はない」と言っていられるのだ。そう、権力ベッタリ派は、権力の恐ろしさに向かい合うことはない。権力を警戒せよと言っても、理解不能なのだ。
北海道新聞の社説「国立大に日の丸 押しつけはやめるべき」は格調が高い。まずは大学の国際化から説き起こしている。
「大学の役割はますます国際的に開かれたものになりつつある。…キャンパスで伝統的に培われてきた自治や自立、自主性を尊重することが大学の個性を生む。それが世界からの評価につながる。」
「大学をナショナリズム色の強い安倍カラーに染めあげては、国際化も世界に通じる人材の育成も危うい。押しつけはやめるべきだ。」
「国がカネを出しているのだから、国立大学は政府の考えに従うのが筋―。そう言いたいのだとしたら、あまりに了見が狭い。研究や学問はそもそも国という枠にとらわれるものではない。言うまでもないが、その目的は広く世界の科学や技術、社会の発展に寄与するところに置かれている。…「国家」ばかり強調すると、研究自体がゆがんでしまわないか。」
「下村文科相は『強要するものではない』と自主性を重んじる物言いだ。しかし、本当か。国が運営費交付金の重点配分を通じて大学を選別する方針を打ち出している。だからこそ、額面通りには受け取れないのだ。」
「教育の要諦は懐の深さにある。幅広い人材を生むには鷹揚さが欠かせない。なのに政府はいま、最高学府に対しても、たがをはめつつ、国内外の大学同士を徹底的に競わせようとしているようにみえる。競争至上主義の導入といい、今回の『国旗国歌』といい、大学が持ってきた自由闊達な空気を失わせないか。それを危惧する。」
読売や産経には疾うに失われた見識や知性というものが、地方紙の論説には脈々と生きていることに清々しい思いを禁じ得ない。
なお、読売が、「自国や他国の国旗・国歌に敬意を表すのは、国際社会における常識であり、当然のマナーだ。政府がそうした教育を求めるたびに、あたかも統制強化のごとくとらえる議論が起きるのは、世界でも日本だけだろう。」と言っている。
そうだろうか。国旗国歌を国家ないし権力の象徴として、国旗国歌に抵抗の意思を示す行動は世界に共通のものだ。愛国心の強制は国旗国歌の強制とともにあり、権力批判は国旗国歌への象徴的な抗議の行動となる。これも普遍的な現象だ。
アメリカの例を引きたい。国家への抗議の意味を込めて公然と国旗を焼却する行為を、象徴的表現として表現の自由に含まれるとするのが連邦最高裁の判例なのだ。
アメリカ合衆国は、さまざまな人種・民族の集合体である。強固なナショナリズムの作用なくして国民の統合は困難という事情がある。当然に、国旗や国歌についての国民の思い入れが強い。が、それだけに、国家に対する抵抗の思想の表現として、国旗(星条旗)を焼却する事件が絶えない。合衆国は1968年に国旗を「切断、毀棄、汚損、踏みにじる行為」を処罰対象とする国旗冒涜処罰法を制定した。だからといって、国旗焼却事件がなくなるはずはない。とりわけ、ベトナム戦争への反戦運動において国旗焼却が続発し、2州を除く各州において国旗焼却を禁止しこれを犯罪とする州法が制定された。その憲法適合性について、いくつかの連邦最高裁判決が国論を二分する論争を引きおこした。
著名な事件としてあげられるものは、ストリート事件(1969年)、ジョンソン事件(1989年)、そしてアイクマン事件(同年)である。いずれも被告人の名をとった刑事事件であって、どれもが無罪になっている。なお、いずれも国旗焼却が起訴事実であるが、ストリート事件はニューヨーク州法違反、ジョンソン事件はテキサス州法違反、そしてアイクマン事件だけが連邦法(「国旗保護法」)違反である。
68年成立の連邦の「国旗冒涜処罰」法は、89年に改正されて「国旗保護」法となって処罰範囲が拡げられた。アメリカ国旗を「毀損し、汚損し、冒涜し、焼却し、床や地面におき、踏みつける」行為までが構成要件に取り入れられた。しかし、アイクマンはこの立法を知りつつ、敢えて、国会議事堂前の階段で星条旗に火を付けた。そして、無罪の判決を得た。
アイクマン事件判決の一節である。
「国旗冒涜が多くの者をひどく不愉快にさせるものであることを、われわれは知っている。しかし、政府は、社会が不愉快だとかまたは賛同できないとか思うだけで、ある考えの表現を禁止することはできない」「国旗冒涜を処罰することは、国旗を尊重させている、および尊重に値するようにさせているまさにその自由それ自体を弱めることになる」(土屋英雄教授作成の東京君が代訴訟における「意見書」から)
なんと含蓄に富む言葉だろう。
安倍や産経、読売に聞かせてやりたい。
「大学に国旗を押しつけることは、国旗を尊重するに値するようにさせている、まさにそのわが国の自由を冒涜し、わが国の価値を貶めることになる」のだと。
(2015年4月16日)
昨日(4月14日)の産経社説が、国立大学における国旗国歌押しつけ問題を取り上げた。「国旗国歌 背向ける方が恥ずかしい」という標題。もちろん、産経本領発揮の提灯持ち社説。こんな記事を読まされる方が恥ずかしい。
同社説は冒頭にこう言っている。
「国立大学の卒業式や入学式で国旗掲揚と国歌斉唱を適切に行うよう求めることに反発がある。国旗と国歌に敬意を払う教育がなぜいけないのか。それを妨げる方が問題である。」
産経は、誰にどのような理由で「反発」があるかについて思いをいたすところがない。「実施できないのは、国旗国歌に背を向ける一部教職員らの反発が根強いからだろう」とだけ言って、この教職員の言い分に耳を傾けようとはしない。いったい、どこにどのような問題があるかを考えようともせず、噛み合った議論をしようという姿勢を持ち合わせていない。一方的に、自分の主張の結論を情緒的に述べているだけ。これでは幼児の口喧嘩のレベルに等しい。それが右翼メディアの本領と言えばそれまでだが、これでは、大学人の反発や懸念をますます深めるだけのものと知らねばならない。
まずは、産経の議論の立て方がおかしい。「国旗と国歌に敬意を払う教育がなぜいけないのか」ではなく、「国旗と国歌に敬意を払う教育がなぜ必要なのか」と問わねばならない。さらに、「なぜかくまでに国旗国歌にこだわるのか」、「なにゆえに国旗国歌に敬意の表明を強制する必要があるのか」と問を展開する必要がある。
議論の出発点は飽くまでも個人の自由でなくてはならない。個人の思想も行動も、公権力に制約されることなく自由であることが大原則なのだ。どんな旗や歌を好きになろうと嫌いになろうと、その選択は個人に任されている。にもかかわらず、なにゆえ、国旗国歌に敬意を払わねばならないというのか。これは「国際常識」や「多数の意思」などで簡単にスルーすることはできない大きな問題である。さらに、歴史的に刻印された負の烙印をいまだに消せない「日の丸」と「君が代」への敬意を払うべきとする教育が、なにゆえに是認されるのか、政権も産経も納得のいく説明をしなくてはならない。
国家の象徴である歌や旗への態度は、個人が国家に対してどのようなスタンスをとるかを表す。これは、完全に自由でなくてはならない。日本大好きで、日の丸・君が代へ敬礼を欠かさない人がいてもよい。しかし、虫酸が走るほど嫌いで、日の丸・君が代は見るのもイヤだという国民がいてもよいのだ。国民の資格は国家への好悪が条件ではない。国民が主人公の民主主義国家においては、国家には国民に対する無限の寛容が要求される。
かつて大日本帝国大好きな臣民がいた。ナチスドイツの愛国者もいた。今、北朝鮮にもISにも熱烈な愛国者がいるだろう。しかし、国民すべてがその国を大好きなはずはない。問題は、いろんな理由で自分の国を好きではないと思う人たちが、非国民との非難を受けることなく安心して生きていけるかにある。そのことについての寛容の有無が、民主主義国家であるか全体主義国家であるかの分水嶺である。そして、国旗国歌への態度についての国の干渉のあり方は、民主主義か全体主義かのリトマス試験紙である。
憲法とは、突きつめれば個人と国家との関係の規律である。我が日本国憲法は、安倍政権や下村教育行政や産経にはお気に召さないところだが、18世紀以来の近代憲法の伝統にのっとった個人主義・自由主義に立脚している。自由な個人が国家に先行して存在し、その尊厳を価値の根源とする。国家は価値的に個人に劣後するものでしかない。いや、むしろ個人の自由を制約する危険物として取扱注意の烙印を押されているのだ。
その個人に対して、国家の象徴である国旗・国歌に敬意を払うべしとする立論には、納得しうる厳格な法的根拠が不可欠なのだ。自発的意思で国旗国歌を尊重する態度の人格形成を教育の目標とすることは、本来我が憲法下では困難というべきだろう。第1次安倍内閣が強行した改正教基法の「国を愛する」との部分は、「国」の内実の理解や、「愛する」が強制の要素を含むとすれば、違憲の疑いが濃厚である。
参院予算委員会で、安倍首相は「改正教育基本法の方針にのっとり、正しく実施されるべきではないか」と答弁した。産経はこれを「当然である。改正教育基本法では国と郷土を愛し、他国を尊重する態度を育むことを重視している」というが、浅薄きわまりない。
憲法23条は、「学問の自由は、これを保障する」と定める。誰からの学問の自由侵害を想定してこのような規定を置いたか。いうまでもなく、仮想敵は国家である。戦前、国家による数々の学問の自由への侵害事件が重ねられた。その悪夢を繰り返してはならないとする主権者の決意がこの条文である。誰にこの自由は保障されているのか。まずは個人だが、その自由を担保するための制度的保障として大学の自治が認められている。その大学に、国旗国歌の押しつけとは、おぞましい限りというほかはない。
さらに、教育基本法には産経が引用する条文だけではなく、次のようなものもある。
第2条(教育の目標)教育は、その目的を実現するため、学問の自由を尊重しつつ、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。
一号 幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養うこと。
二号 個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の精神を養うとともに、職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと。
第7条(大学)
1項 大学は、学術の中心として、高い教養と専門的能力を培うとともに、深く真理を探究して新たな知見を創造し、これらの成果を広く社会に提供することにより、社会の発展に寄与するものとする。
2項 大学については、自主性、自律性その他の大学における教育及び研究の特性が尊重されなければならない。
「学問の自由を尊重」「幅広い教養」「真理を求める態度」「豊かな情操」「個人の価値を尊重」創造性を培い」「自主及び自律の精神」「学術の中心」「高い教養」「深く真理を探究」「新たな知見を創造」「大学の自主性、自律性」「大学における教育・研究の特性の尊重」等々のすべてが、権力作用と背馳する。国旗国歌を排斥する。少なくとも馴染まない。教育基本法の隻句を国旗国歌押しつけの根拠とすることはできない。
産経は、「文科相は『お願いであり、するかしないかは各大学の判断』とも述べている。大学の自主性にも配慮した要請を批判するのは疑問だ」ともいう。しかし、産経の論難にかかわらず、下村文科行政の要請が「大学の自治を損なうもの」であることは明らかだ。カネを握るものは強い。カネの配分の権限を握っているものには、迎合せざるを得ないのがこの世の現実。大旦那が大旦那であるのは、知性は欠如していてもカネが支配の力をもっているからだ。それでなくとも乏しい文教予算。その配分を削られるかも知れないという恫喝がセットになっているところに大きな問題がある。だから、教育行政は教育条件整備に徹すべきであって、恣意的な予算配分で教育を歪めてはならない。
また、産経はこうも言う。「大学人にあえて言うまでもないことだが、国旗と国歌はいずれの国でもその国の象徴として大切にされ、互いに尊重し合うことが常識だ。」
これもお粗末な意見だ。大学人なら、「国旗国歌は、いずれの国でもその国の象徴としてふさわしいものであるが故に大切にされる。建国の理念や国民の団結を示す歌や旗としてふさわしくない国旗国歌は捨て去られる」と一蹴するだろう。
第2次大戦の敗戦国であるドイツもイタリアも国旗を変えた。その旗を象徴とした過去ファシズム国家のあり方を反省し、国の理念を変えたからである。同じ枢軸国の一員として、侵略戦争や植民地支配を反省し清算したはずの日本が、「日の丸・君が代」をいまだに国旗国歌としていることに違和感をもつ国民は少なくない。日の丸・君が代は、大日本帝国の侵略戦争や植民地主義とも、主権者天皇への盲目的崇拝ともあまりに深く結びついた存在であったからである。
国旗国歌法は、国家において「日の丸・君が代」を国旗国歌として用いることを定めただけもので、国民に何らの義務を課するものではない。敬意表明を強制をするものでないことは、国旗国歌法の審議過程で確認されたが、法ができあがってから政府はこれを少しずつ国民に強制しつつある。このやり口は詐欺に等しい。
また、産経は「人生の節目の行事で国旗を掲揚し、国歌を斉唱することは自然であり、法的根拠を求めるまでもない」という。恐るべき法感覚、人権感覚、社会感覚といわざるを得ない。私の常識では、人生の節目で国家が出てくるなんぞトンデモナイ。ましてや権力や権威を恐れず真理を探究すべき大学でのこと。口を揃えて「君が代」を唱う大学生とは、主体性を喪失し、知性や批判精神の欠如したロボットに過ぎない。知性の府である大学に、日の丸・君が代は夾雑物でしかない。
産経社説は、最後をこう結んでいる。
「祝日に国旗を掲げる家庭も少なくなっている。普段から国旗と国歌を敬う教育を大切にしたい」
「祝日に国旗を掲げる家庭が少ない」ことはごく自然で望ましいこと。政権は、家庭に直接の国旗国歌の強制は難しいから、学校教育での強制に躍起になっているのだ。
教育に最も必要なものは、個人の主体性の確立である。主権者にふさわしく、自分の足でしっかりと立って、自分の頭でものを考え、自分の意見をきっぱりと発言のできる明日の主権者を育成することである。無批判に、日の丸を仰ぎ君が代を唱わせる教育からはこのような主体は育たない。教育現場の国旗国歌こそは、国家や社会に従順な、主体性と個性に欠けた国民教育の象徴と言うべきであろう。
私見と、政権や産経の立論の差異の根底にあるものは、個人と国家の価値的優劣の理解である。私は、純粋な個人主義者であり、自由主義者である。政権や産経の立場は、国家主義であり全体主義である。
私の考え方は、アメリカ独立宣言、フランス人権宣言、そして日本国憲法、国連の諸規約に支えられた常識的なものだ。政権や産経の立場は、旧天皇制や現在も残存する全体主義諸国家を支える思想に親和的なもの。安倍政権や産経の社説に表れた、国家主義・全体主義の鼓吹には重々の警戒をしなければならない。
(2015年4月15日)
「国立大学の入学式や卒業式に国旗掲揚と国歌斉唱を」という参院予算委での安倍首相答弁(4月9日)に驚いた。下村文科相も「各大学で適切な対応がとられるよう要請したい」と具体的に語っている。「安倍右翼政権の粛々たる壊憲プログラムの進行の一つでしかない。今さら驚くにも当たるまい」という見解もあるのだろうが、あまりにも唐突だ。
朝日と毎日が、素早く本日の社説に取り上げた。いずれも明確な批判の論調。朝日は「政府による大学への不当な介入と言うほかない。文科省は要請の方針を撤回すべきである」とし、毎日は「判断や決定は大学の自主性に委ね、(国旗国歌実施の)『要請』は見送るべきだ」と結論している。両紙の姿勢に敬意を表しつつも、驚きとおぞましさが消えない。
安倍政権のスローガンが戦後レジームからの脱却である以上は、国民主権や民主主義を支えるすべての制度を敵視していることは明らかだ。安保防衛問題だけでなく、学問の自由も大学の自治も、国民の思想良心の自由も、すべてを押し潰して「富国強兵に邁進する日本を取り戻したい」と考えているだろうとは思っていた。
しかし、安倍とて愚かではない。そうは露骨になにもかにもに手を付けることはできなかろう。そのような甘い「常識」を覆しての「国立大学に適切な国旗国歌を」という意向の表明である。やはり驚かざるを得ない。
安倍晋三の頭のなかは、「いつ、いかなる事態においても、時を移さず武力を行使しうる国をつくらねばならない」「いざというときには、躊躇なく戦争のできる日本としなければならない」という考えで凝り固まっているのだ。「強い国家があって初めて国民を守ることができる」。「平和も人権も、実際に戦争ができる国家体制なくては画に描いた餅となる」。単純にそう考えているのだろう。
そのためには法律の制定だけでは足りない。「戦争のできる国作り」のためには、何よりも国民をその気にさせなければならない。国民意識を統合し、挙国一致して国運を隆昌の方向にもっていかなくてはならない。安倍政権にとって、ナショナリズムの鼓舞は大きな課題なのだ。国民こぞって、自主的に国旗を掲揚し、国歌を斉唱する国をつくらねばならない。これにまつろわぬやからは非国民と排斥されてしかるべきだ。そのようにして初めて、戦争を辞さない精強な国民と国家ができあがる。強い国日本を中心としたる新しい国際秩序をつくることができる。祖父岸信介が夢みた五族共和の東洋平和であり、八紘一宇の王道楽土だ。
政権が根拠とする理屈は、結局のところ、「国立大学が国民の税金で賄われている」ということ。「国がカネを出しているのだから、国に口も出させろ」「スポンサーの意向は、ご無理ごもっともと、従うのが当然」という理屈。これは経済社会の常識ではあっても、こと教育には当てはまらない。教育行政は教育の条件整備をする義務を負うが、教育への介入は禁じられている。このことは、戦前天皇制権力が直接教育を支配した苦い経験からの反省でもあり、世界の常識でもある。
問題は、安倍・下村の醜悪コンビがこの非常識な発言を恥ずかしいと思う感性に欠けていることだ。なりふり構わずスポンサーの意向を押しつけ、「要請」に従わない大学には国からのイヤガラセが続くことになるだろう。
「国旗掲揚国歌斉唱の実施要請に法的な根拠はありません。ですから飽くまでお願いをしているだけで、文科省の意見に従えとは口が裂けても申しません。とはいえ、予算を握っているのは私どもだということをお忘れなく。要請に対する、貴大学の協力の姿勢次第で、どれだけの予算をお回しできるか、変わってくることはあり得るところです。『魚心あれば水心』というあれですよ。よくおわかりでしょう」
もう一つ、安倍第1次内閣が改悪した新教育基本法の目的条項が根拠とされている。
第2条 教育は、その目的を実現するため、学問の自由を尊重しつつ、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。
第5号 伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。
ここに、「我が国と郷土を愛する」がある。だから、「入学式や卒業式では、日の丸・君が代を」というようだ。国を愛するとは、「国旗に向かって起立し、口を大きく開いて国歌を斉唱する」その姿勢に表れる、という理屈のようだ。
国家の権力から強く独立していなければならないいくつかの分野がある。教育、ジャーナリズム、司法などがその典型だ。弁護士会の自治も重要だが、大学の自治はさらに影響が大きい。国立大学は、けっして安倍政権の不当な介入に屈してはならない。
もう、いかなる国立大学も、政権の方針に従うことができない。この件は大学の自治を擁護する姿勢の有無についての象徴的なテーマとなってしまった。政権への擦り寄りと追従と勘ぐられたくなければ、学校行事の日の丸・君が代は、きっぱり拒絶するよりほかはない。そうでなくては、際限なく日本は危険な方向に引きずられていくことになってしまう。
(2015年4月11日)
4月6日に公表された中学校教科書の検定結果において、もっとも注目を集めたのは、「学び舎」版の「慰安婦」問題の記述である。学び舎は、現場の教員などが中心になって組織した「子どもと学ぶ歴史教科書の会」が設立した出版社。今回が初めての検定申請となった。
学び舎版はいったん不合格とされ、再提出版が合格となった。合格とはなったが、不本意に大幅削除されてのこと。その結果、傷だらけにもせよ、4年ぶりに教科書に「慰安婦」問題の記述が復活した。その評価について、韓国の2紙(日本語版)が、やや異なった評価をしている。その2紙の抜粋と、教科書ネット21の俵義文氏の談話の一部をご紹介したい。
まずは、ハンギョレ新聞(4月6日)である。
「慰安婦叙述を復活させた『学び舎』教科書」「中学校教科書に4年ぶりに記述」という、肯定的な見出しになっている。
http://japan.hani.co.kr/arti/international/20225.html
「暗い条件の中でも意味ある変化はあった。子供たちに正しい歴史を教えようと前・現職の歴史教師たちが集まって作った『子供と学ぶ歴史教科書の会』が設立した出版社『学び舎』は、今回検定を通過した教科書で、2011年以後中学校教科書からは消えた慰安婦関連記述を4年ぶりに復活させた。
ハンギョレが入手した学び舎の『社会』(歴史分野)検定通過本の281ページ「人権侵害を問い直す」には「1990年、韓国のキム・ハクスンさんの証言が契機となって、日本政府は戦時の女性に対する暴力と人権侵害に対して調査を行った。そして1993年に謝罪と反省の意を示す政府見解を発表した」と記述された。自身が日本軍慰安婦だったことを初めて明らかにしたキム・ハクスンさんの勇気ある証言を通じて、日本政府が1993年に慰安婦動員過程の強制性と日本軍の介入を認めた「河野談話」が誕生した事実を明確に示しているわけだ。同じページには「朝鮮半島で慰安婦の募集・移送などは概して本人の意志に反してなされた」という河野談話の主要内容も引用されている。…この教科書はまた、日本の植民支配と侵略に抵抗した韓国民衆の主体的な動きに焦点を合わせるなど、民衆史的観点の執筆を試みた。
…中学校教科書に慰安婦記述が初めてされたのは1993年の河野談話が発表された後に出た1997年度検定教科書からだ。当時は7種の歴史教科書の全てに関連記述が含まれていたが、2002年には3種、2006年には2種に減り、2011年検定では全て消えた。今回文部省は、学び舎の初回原稿を一度不合格処理した後、「強制連行を直接示す資料は発見されなかった」という日本政府の見解を併記する条件で慰安婦関連記述を許容した。」
次は、朝鮮日報(4月6日付)である。
「教科書:文科省、学び舎の慰安婦記載を大幅削除」という記事。こちらは明らかに否定的な評価。
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2015/04/07/2015040700897.html
「6日、日本の文部科学省による検定をパスした歴史教科書の中には、現役の教師たちが中心になって立ち上げた出版社『学び舎』が作成した教科書もある。
本紙が取材した韓日両国の教科書専門家たちによると、この出版社は当初、旧日本軍の慰安婦に関する内容を約2ページにわたって詳しく記載していたが、教科書検定の過程で不合格の判定を受けたという。
検定をパスする前、この出版社が文部科学省に提出した原本には、元慰安婦の故・金学順(キム・ハクスン)さんの証言が別のページで紹介されていた。金さんが日本政府に謝罪と補償を求めたという内容も盛り込まれていた。韓服(韓国の伝統衣装)姿の朝鮮の少女が日本軍に連行される場面を描いた、故キム・スンドクさんの絵も掲載されていた。東アジア各地に設置された慰安所の地図とともに『慰安婦たちは自らの意思に反して連れていかれた』という河野談話の内容も詳しく紹介されていた。また、国連人権委員会や米国議会で慰安婦問題が取り上げられたという最近の状況についても記述されていた。ところが、一度不合格の判定を受けた学び舎が、検定合格のため再び文部科学省に提出した原稿では結局、このような内容は大幅に削除された。金学順さんの証言やキム・スンドクさんの絵はなくなり、慰安所の地図も消えた。それだけでなく、日本の戦争責任を軽減しようとする日本政府の見解も反映された。河野談話を紹介した内容に続けて『日本軍や官憲による強制連行を直接示す資料は発見されていない』という説明が追加されたのだ。この時点で、慰安婦問題に関する分量は当初の半分程度に削減された。今回検定に合格した日本の中学校用歴史教科書で、慰安婦問題について記述したのは、学び舎の教科書だけだった。」
そして、俵義文さん(子どもと教科書全国ネット21事務局長)が、4月6日付の談話を発表している。社会科教科書に限定して今回の検定についての問題点を指摘するもので、「2015年度中学校教科書の検定について 政府の見解を一方的に教科書に強制する検定制度は廃止すべきである」というタイトル。まだホームページには掲載されていない。最大の問題点として、「新検定基準にもとづき政府見解を教科書に強要する検定」のあり方が指摘されている。
学び舎版が不合格となった際に、「欠陥」と指摘された記述は以下のとおりだったという。
「『朝鮮・台湾の若い女性たちのなかには、「慰安婦」として戦地に送りこまれた人たちがいた。女性たちは、日本軍とともに移動させられて、自分の意思で行動できなかった』という記述と、『日本政府も「慰安所」の設置と運営に軍が関与していたことを認め、お詫びと反省の意を表し』たこと、政府は『賠償は国家間で解決済みで』『個人への補償は行わない』としていること、そのため『女性のためのアジア平和国民基金』を発足させたこと、この問題は『国連の人権委員会やアメリカ議会などでも取り上げられ、戦争中の女性への暴力の責任が問われるようになって』いることなどの客観的事実を述べた記述である。
その『指摘事由』は『政府の統一的な見解に基づいた記述がされていない』ということであり、文科省の説明によれば、ここでいう『政府の統一的な見解』とは、『河野談話』発表までに政府が発見した資料の中には『軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような記述も見当たらなかった』とする辻元清美議員への答弁書(平成19年3月16日閣議決定)と、クマラスワミ報告書について『重大な懸念を示す観点から留保を付す旨表明している』とする片山さつき議員への答弁書(平成24年9月11日閣議決定)であるという。
…政府見解のみが唯一の正しい結論であるとして、政府見解のみを教科書に書かせ、それのみを子どもたちに教え込もうとすることは、民主主義社会ではあり得ない暴挙であり、愚行である。検定によって「慰安婦」記述が削除されたことが明らかになれば、国際社会からも激しい批判をあびることは必定である。このような検定行為はただちに撤回すべきである。」
「政府見解と異なることは教科書には書くな」「政府見解をそのとおりに教科書に書け」。これでは、国定教科書の復活ではないか。教育が教育行政からの不当な支配に服してはならないことは、改悪された教育基本法16条にも明記されている。これこそ教育法体系の根幹を貫く大原則である。それが、教科書検定の名で、ないがしろにされているのだ。
(2015年4月8日)
中学生の皆さん。君たちは、明日の主権者です。もうすぐ、この社会を背負って立つことになります。今の国や社会のありかたには私たち大人が責任を持たねばなりませんが、バトンタッチは間近です。君たちが責任を持たなければならない時代がすぐそこにやってきます。
この世に生まれたすべての人が人として平等に尊重され、誰もがのびやかに自由に暮らすことのできる国。貧困や暴力に苦しむ人のいない暖かく明るい社会。障がいや病気や家族の不幸があっても、社会全体が困っている人に手を差し伸べるやさしい世の中。そして、国境を越えて、人々が仲良く暮らせる平和な世界。私たち、今の大人が目ざして果たせなかった、そのような輝く未来をつくることができるのは君たちなのです。
君たちは、その輝く未来をつくるために学んでいます。学校は、そのような学びの場としてとても重要です。そこではこれまでの多くの人々が長い年月をかけて確認してきた「真理」や「真実」の基礎を効率よく君たちに伝えようとしています。
君たちは、学校で「真理」「真実」を学ぶだけでなく、今の社会のよいものとよくないものとを区別してよいものを選びとる能力、さらに自分の考えでよりよいものをつくり出す能力を身につけなくてはなりません。それは、自分自身で、ものを見、ものを考え、自分の意見を持ち、自分の意見を堂々と語り、自分の意見のとおりに行動する力です。これは、簡単に身につくことではありません。しかし、とても大切で必要なことなのです。
学校とは、真理を学ぶとともに、自分でものを考え判断し行動する能力を身につけるところ。このことはけっして当たり前のことではありません。1945年の敗戦まで、学校とは真理を教えるところではなく、国家が都合がよいことを教える場所でした。自分でものを考え判断し行動する能力ではなく、国家が教えることを疑わずに従う態度を身につけるよう教えられたのです。一言で言えば、国家が望むような国民(当時は国民ではなく「臣民」と言いました)をつくりあげるための場所だったのです。
当時、日本の主人公は国民ではなく天皇でした。天皇は神であり、神の子孫であるとされたのです。日本は天皇をいただく特別の神の国であると、学校の先生が授業で、大真面目にそう教えたのです。
その頃の教科書は国がつくりました。これを国定教科書と言います。全国の小学校・中学校が、国がつくった同じ教科書を使って、国に都合のよいことを教え込んだのです。真理や真実よりは、国に都合よい考え方でできあがった教科書でした。
敗戦後、日本は国民が主人公の国として生まれ変わりました。教育についての考え方も世界の常識に基づいたものに変わります。「国が教育の内容を決めてはならない」「学校が生徒に教える内容に国が口出ししてはならない」そういう原則を確認しました。戦前の間違いを繰り返してはならないと、国定教科書は廃止されました。こうして、教科書は、出版社が自由に発行することができるようになったのです。
ところが、だんだんと政府は教科書の内容に口出ししてきました。いま、政府を動かしている人々にとって不都合な内容の教科書は書き直しを命じられ、これに応じないときは許可しないとされているのです。次第に、教科書のあり方は国定教科書時代にどんどん近づいて、とりわけ来年から使われる中学校の教科書の内容には批判の声が高くなっています。
いまや、教科書の記載内容が、真理や真実で貫かれているのか、疑うことが必要になっています。かつて、日本の多くの人が国定教科書で洗脳されたように、来年から新しくなる教科書が君たちを洗脳しようとしているのではないか、よく考えなければなりません。
たとえば、どこの国に属するかについて争いのある竹島や尖閣諸島について、「日本固有の領土であると教科書に記述せよ」というのが政府の方針です。多くの教科書出版会社は、悩みながらもこれに従わないわけにはいかなくなっています。
国際的な紛争で、相手方に言い分がないことなどはありません。しかも、領土問題は、こじれれば国際紛争に発展しかねません。お互いが、相手国の言い分にも、耳を傾けなければならない微妙な問題と言わねばなりません。日本の言い分だけが絶対に正しいと断定する教科書の記載は、中国や韓国を刺激することになるでしょう。
日本と同じく第2次大戦の敗戦国だったドイツは、歴史教科書を作成するについて、フランスやポーランドなど戦争被害を与えた近隣諸国の意見を取り入れて作成し、現在では、ドイツ・フランス共通歴史教科書が作成されています。
日本はドイツと違って、侵略戦争を仕掛けたこと、植民地支配をしたことについて、被害国の国民に対する謝罪や反省が不十分との批判が絶えません。この度の教科書作成はさらに、近隣諸国の批判の声を大きくしかねないと心配になります。
教科書に基づいて勉強しないわけにはいきませんが、教科書には真実が書いてあるはずなどと思い込むことは早計です。今の教科書作りには、大きな批判があることをよく知ってください。そして、日本だけが正しいという思い込みを捨てて、相手の言い分にも耳を傾け、何が正しいのかを自分の頭で考える力をぜひ身につけていただきたいと思います。
私たち大人の力が足りないばかりに、中学生の君たちに問題のある教科書しか提供できないことをお詫びするしかありません。それでも君たちには、何が正しいかを見抜く力を身につけて、輝く未来をつくっていただきたいのです。
(2015年4月7日)
「日の丸・君が代」強制拒否訴訟の弁護団会議には、弁護士だけでなく原告の皆さんも出席して活発に意見を述べている。弁護団は、原告から必要な情報を得ているというにとどまらない。長年教職にある者の意見に耳を傾けているのだ。とりわけ、弁護士だけでは理解不十分な、教育条理に関する原告の見解は貴重だ。通常の事件依頼者と受任弁護士という関係とはひと味違う、教育専門家と実務法律家の親密な共同作業が必要なのだ。それなくして、この教育訴訟をどのように進行させるべきか的確な方針を期待し得ない。また、会議のテーマは必ずしも、法的な問題に限られない。関連して多方面に及ぶことになる。
最近の弁護団会議で、以下のような意見交換があった。
「10・23通達から11年余が経過した。この間、日の丸・君が代強制という問題が、自由闊達であるべき教育現場をいかに荒廃させているか。この点を明らかにすることが、都教委の教育の自由に対する侵害や不当な支配としての違憲・違法性の法的主張に直結すると思う」
「10・23通達以前の都立校の教育がどのようなものであったか、卒業式や入学式はどのような理念でどのように準備され、どのように感動的であったか。それが、10・23通達でどんなに変わってしまったか。それを総括しなければならない」
「それだけでなく、日の丸・君が代強制問題は、それ自体が独立して完結した問題となっているのではない。公権力による教育統制の一端なのだから、公権力の側がこの問題を利用しつつ、権力的な教育統制をどのように進行させているかという全体像を明確にする必要がある」
「同感だが、当時の仇役は姿を消した。石原慎太郎は退いて舛添知事に代わった。横山・米長・鳥海・内舘らの当時の教育委員も全部入れ替わった。その結果、東京都の教育行政は少しはマシになっているということはないのか」
「とんでもない。最近はもっと酷くなっていると言ってよい。以前は形式的には鄭重だった原告団の要請に対して、最近はまったく耳を貸そうとしない。問題を指摘し、これを定例の教育委員会に報告し検討するよう要請しても、露骨に拒絶される」
「しかも、教育庁の事務方は、われわれが提供する情報や見解を遮断するだけでなく、教育委員には自分たちに都合のよい不正確な情報と見解だけを吹き込んでいる。教育委員は、事務方の言い分しか知らず、最高裁が何を言っているか、まったく認識がないものと考えざるをえない」
「とはいえ、最高裁判決で、戒告はともかく減給・停職の処分は違法として取り消された。要するに最高裁は、都教委のやり口はあまりに酷い、常軌を逸したやり過ぎ、と批判したわけだ。このことが都教委全体の反省材料とはなっていないのだろうか」
「都教委は反省のかけらもなく、別の攻撃方法を探している。減給・停職の処分ができないとなるや、服務事故再発防止研修に藉口して徹底したイヤガラセを始めた。とりわけ、校内研修の繰りかえしの威嚇効果が大きい」
「しかし、舛添現知事は、元知事の石原やその後継を看板にした猪瀬前知事とは明らかに異なった常識人にみえる。明確に石原猪瀬体制の批判もしている。知事の交替による教育行政への影響は、見えないのだろうか」
「知事には、オリンピックの成功が第一の関心事ではないか。そのための、都市間外交などは評価しうるが、教育問題で都議会保守派を刺激したくはないのだろう。ましてやオリンピック推進の立場は、日の丸・君が代強制問題にものを言いにくくしている」
「教育庁職員OBの皆さんが、現在の頑な東京都の教育行政を批判している。当時と今と、何が違っているのだろうか。現在の職員は、不本意ながら、上に従っているということではないか」
「最初は強引で無理無体な押しつけだったものが、時間の経過とともに常態化した側面は否めない。また、この強制加担が出世コースから外れないための試金石だという認識もあるのではないか。職員がかなり主体性をもって強制加担をしている節が見える」
「確かに、舛添知事になってからの都庁内の雰囲気は、石原・猪瀬時代とは明らかに違ってきている。ところが、教育庁だけが旧態依然なのだ。石原も、初当選から10・23通達を出すまでは4年余の時間を要している。その間の周到な教育委員人事を変えて反憲法的な石原教育行政を確立して、教育に介入した」
「舛添教育行政が正気を取りもどすためには、何よりも教育委員人事が大切だ。次の教育委員人事に注目しなければならない」
その注目の教育委員人事、しかも4月1日からの新制度における教育長人事が昨日(3月27日)の都議会本会議できまった。現在の比留間英人教育長の横滑りではなく、中井敬三(現・財務局長)という初めて耳にする名前。比留間英人は勇退だと報じられている。かつて10・23通達体制の構築に蛮勇を振るった横山洋吉教育長が、教育長退任の後には副知事となったような優遇は受けなかった。そして、教育庁内部からの新教育長人事ではなく、これまで手の汚れていない他局からの人選である。
報じられているところでは、中井敬三・財務局長(59)は、一橋大卒で1978年に都に入庁。病院経営本部長や港湾局長を経て、2012年から現職だという。なお、従来は知事が教育委員を任命後、教育委員会が教育委員長・教育長を選任した。しかし、新制度では、知事が直接教育長を任命することとなった。大きな批判の中での新制度である。
その中井敬三新教育長に注目せざるを得ない。どのような事情あって、この重要ポストに就くことになったのだろうか。共産党も含んでの都議会全会一致の承認である。過剰な期待は禁物だが、もしかしたら舛添中道カラーの布石かも知れない。もしかしたら荒廃した教育現場再生への第一歩となるのかも知れない。まあ、期待を裏切られたところで、これ以上悪くはなりようがなかろう。
(2015年3月28日)