澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

安田浩一『ヘイトスピーチー「愛国者」たちの憎悪と暴力』を薦める

安田浩一著の『ヘイトスピーチー「愛国者」たちの憎悪と暴力』(文春新書・5月20日刊)を読んだ。私は、鶴橋や新大久保でのヘイトスピーチを、知らないではない。先日は秋葉原で、ヘイトスピーチデモとカウンターと警察3者の軋轢の場に出くわしてもいる。私も編集に携わっている「法と民主主義」誌で2度の特集もしている。それでも、この書の読後感は「衝撃」というほかはない。この臨場感溢れるルポを取材し書き下ろした著者に敬意を表したい。

ともかく、この書は多くの人に広く読まれるべきである。評価・評論はじっくりと時間をかけて考えよう。政治学的に、文化論的に、経済現象から。あるいは社会学的に、心理学的に、もちろん歴史的にも…。さらには、国際的にも、学際的にも、そして最後に法的な観点から…。さまざまな切り口から、生起している現象のトータルな説明や、原因分析や、対応策が議論されねばならない。が、それより以前に、情報を共有しよう。何が起こっているのかを社会全体で確認しなければならないと思う。私も、認識が不十分だったと思うのだ。

この書は、延々とヘイトスピーチの実態を叙述する。「第1章 暴力の現状」「第2章 発信源はどこか?」「第3章 『憎悪表現』でいいのか?」「第4章 増大する差別扇動」「第5章 ネットに潜む悪意」「第6章 膨張する排外主義」…。差し支えない限りに実名で語られる。基調は「ヘイトスピーチは、表現の範疇ではない。生身の人を深く傷つける暴力そのものであり、社会を壊す」というもの。説得力に富み、たいへんな迫力である。とりわけ、「第4章 増大する差別扇動」を読むと息苦しくなる。

私の読後感の「衝撃」は、恐怖でもある。私たちの暮らすこの社会は、今とんでもなく病んでしまっているのではないだろうか。もしかしたら、壊れかかっているのではないだろうか。あるいは、日本の社会が腐りかけ腐臭を放ちつつあるのではないのだろうか。そういう恐怖である。論理も、会話も、心情も、まったく通じない人々の集団がこんなにも肥大しているのだという恐怖。

差別や排外主義、弱い者イジメは以前から社会に潜んでいるにせよ、それが恥であることは共通の認識だったはず。隠れての言動はあれ、公然と口にし、行動することは希なことではなかったか。しかもこれだけの集団で執拗に。クー・クラックス・クランでさえ覆面をしていたではないか。我が国で、白昼堂々と、大っぴらに差別用語を広言する人々の集団が街を練り歩くこの事態に薄気味悪さを通り越した恐怖を禁じ得ない。

在特会の京都朝鮮学校襲撃事件に際して、3人の子を同校に通わせていた父親の話が印象に深い(同書106ページ)、龍谷大学の教員である彼は、勤務先から現場に自転車で駆けつけた。「実は、彼ら(襲撃メンバー)を説得できないものかと考えていたんです。学校にわが子を通わせている親としては、問題はきちんと解決したいし、地元に住む人々と摩擦など起こしたくない。ここで生きていく以上、日本人との対立を望む在日など、いるわけありません。話せばきっとわかってもらえる。そんな気持でいたんです」
しかし、この常識的な考えは裏切られ、彼は現場で立ちすくむことになる。投げかけられた悪罵は「朝鮮人はウンコ喰っとけ!」というものだった。

以来5年間、彼は裁判の支援に走り回った。刑事では首謀者4名に威力業務妨害による懲役1年?2年の刑(執行猶予付)が確定し、民事訴訟では在特会に1200万円の高額認容判決が確定した。しかし、裁判で何かが本当に変わったのか、変わらないままなのか。彼も著者も、在日への冷たい視線は残ったままだという。

また、中学2年生の女子学生が、「そこで生きる人々を恐怖のどん底に落とした」という「鶴橋大虐殺スピーチ」も紹介されている。
「鶴橋に住んでいる在日クソチョンコの皆さんこんにちは!」「私もホンマ、皆さんが憎くて憎くてたまらないんです。もう、殺してあげたい」「いつまでも、調子に乗っ取ったら、南京大虐殺じゃなくて、鶴橋大虐殺を実行しますよ!」「ここはニッポンです。朝鮮半島ではありません。帰れー!」
なんということだろう。著者の表現のとおりに、息苦しいし腹だたしい。

彼らは、在日差別だけてなく、ニューカマーへの差別も、部落差別も平然と口にする。その口舌たるやすさまじい。書中には、在特会を「反日」攻撃の一員と遇する右翼とのつながりや、現政権中枢とのつながりも示唆されている。嫌韓本や嫌中書が売れる時代の背景もある。警察の対応も問題視されている。

会話を拒否し、言葉も心も通じない集団が、容易にネットで増殖されていく恐怖。しかし、最終章で「ヘイトスピーチを追いつめる」として、カウンターデモに起ち上がった一団のことも語られる。これが救いであり、希望である。

著者の次の感想は重い。
「いま、日本は憎悪と不寛容の気分に満ちている。差別デモだけではなく、ネットで、書籍で、テレビで、飲み屋の片隅で、あるいは政治の場で、差別が扇動されている。」
おそらく、この憎悪と不寛容の気分も、煽動されている差別も、国際協調や平和への敵対物である。改憲勢力を利するものでもあろう。とにもかくにも、この社会のほころびの原因と修復の手立てを考えねばならないと思う。
(2015年5月31日)

「またも負けたか東京都、それで教育委員会(いいんかい)?」

西南戦争の折りに、「またも負けたか八聯隊(はちれんたい)、それでは勲章九聯隊(くれんたい)」という俗謡が流行ったという。歩兵第8連隊が本当に弱兵であったか史実はともかく、九州人の大阪隊に対する揶揄と反感が窺える。

このところ、東京都教育委員会(訴訟当事者としては東京都)が裁判負け続けである。まるで、大阪府・市と敗訴の数を競い合っているかの趣。「またも負けたか東京都、それで教育委員会(いいんかい)?」と言いたくもなる。処分の連発で教育現場の管理を徹底しようという都教委の無理な手法の破綻が明確なのだ。これで、まともな教育ができるのか、本当に心配しなければならない。

5月25日(月)の東京地裁「再雇用拒否第2次訴訟」判決に続いて、昨日(28日(木))も、都教委敗訴の東京高裁(第14民事部須藤典明裁判長)の判決が言い渡された。今週2度目の都教委敗訴である。原告団は「ダブルパンチ」と言っている。月曜日地裁判決が君が代不起立を理由とする再雇用拒否を違法として5300万円の支払いを命じたもの。そして、木曜日高裁判決が、卒業式での「日の丸・君が代」不起立に対する停職懲戒処分を重きに失して違法と取り消した逆転判決である。処分を取り消しただけでなく、国家賠償まで認めたすばらしい内容。

2007年卒業式での「君が代」斉唱時の不起立を職務命令違反として、Kさん(都立八王子東養護学校・当時)が停職3月、Nさん(町田市立鶴川二中・当時)が停職6月の懲戒処分を受けた。二人はこれを不服として、人事委員会に審査請求をし東京地裁に処分取消と国家賠償(慰謝料の支払い)を求めて提訴した。

2014年3月の一審判決は、次のとおり。
 Kさん 停職3月の処分取消請求認容 慰謝料請求棄却
 Nさん 停職6月の処分取消請求棄却 慰謝料請求棄却

各原告と東京都が、それぞれの敗訴部分について控訴し、昨日の控訴審判決となった。結果は教員側が「逆転勝訴」の旗出しとなった。以下のとおりである。
 Kさん 停職3月の処分取消請求認容 慰謝料請求10万円認容
 Nさん 停職6月の処分取消請求認容 慰謝料請求10万円認容

注目すべきは、判決理由が、都教委の機械的な累積加重処分システムを違法と断じていること。これは痛快である。次のくだりは、都知事、教育長、各教育委員、そして橋下徹(現大阪市長)にもよく読んでもらいたい。

「学校における入学式,卒業式などの行事は毎年恒常的に行われる性質のものであって,しかも,通常であれば,各年に2回ずつ実施されるものであるから,仮に不起立に対して,上記のように戒告から減給,減給から停職へと機械的に一律にその処分を加重していくとすると,教職員は,2,3年間不起立を繰り返すだけで停職処分を受けることになってしまい,仮にその後にも不起立を繰り返すと,より長期間の停職処分を受け,ついには免職処分を受けることにならざるを得ない事態に至って,自己の歴史観や世界観を含む思想等により忠実であろうとする教員にとっては,自らの思想や信条を捨てるか,それとも教職員としての身分を捨てるかの二者択一の選択を迫られることとなり,…日本国憲法が保障している個人としての思想及び良心の自由に対する実質的な侵害につながるものであり,相当ではないというべきである。」

また、都側の過失を認定するに際して、国旗国歌法の制定過程での議論を丁寧に紹介し次のように述べていることも注目される。
「国旗国歌に対する起立及び国歌斉唱には,日本国憲法が保障している思想及び良心の自由との関係で微妙な問題を含むものであること…個人の歴史観ないし世界観に由来する行動と異なる外部的行為を求められることとなり,その限りにおいて,その者の思想及び良心の自由についての間接的な制約となる面があること…が意識されていたことが認められる。したがって,国旗国歌法制定に当たって,外部的行為は,思想及び良心の自由との関係で微妙な問題を含むものであることにも配慮して,起立斉唱行為を命ずる職務命令に従わず,殊更に着席するなどして起立しなかった者について懲戒処分を行う際にも、その不起立の理由等を考慮に入れてはならないことが要請されているものというべきである。」

月曜日地裁判決も木曜日高裁判決も、最高裁判決の壁に阻まれて、君が代不起立に対する懲戒処分を違憲とまでは言えないが、その制約の範囲内で思想良心の自由保障に精一杯の配慮をした判決と評価することができる。

ところで、都教委は抱えた事件で敗訴を重ねて6連敗であると原告団が発表している。
2013年12月19日の再発防止研修未受講事件(「授業をしていたのに処分」事件)一審判決が控訴なく確定して以来、再任用更新拒否S教諭事件、条件付き採用免職Yさん事件、O教諭懲戒免職処分執行停止申立認容、再雇用拒否撤回二次訴訟、そして昨日のKさん・Nさん停職処分取消事件である。今年1月16日の東京「君が代」裁判三次訴訟の判決(31件・26名の減給・停職処分取り消し認容)を加えれば、7連敗と言ってもよい。都教委のやり方が異常なのだ。

舛添要一都知事、中井敬三教育長に再度申しあげる。すべては旧レジームにおける前任者たちのしでかした過ち。控訴・上告は、その過ちに加担し責任を自ら背負い込む愚行となる。上訴を断念して、不正常な事態を一掃する決断をお願いしたい。
(2015/05/29)

舛添さん、ここはよくお考えを。

このところの舛添要一さんの言動。石原トンデモ知事とは大違いだ。常識人としての発言内容に好感がもてる。昨日(27日)記者会見での下記の発言も、石原知事とはずいぶんの違いである。そう認めつつも、やっぱりおかしい。どうしても違和感を拭えない。私の言うことにも耳を傾けて、よくお考えいただきたい。

【記者】都立高校の元教員の方が、卒業式などの君が代の斉唱時に起立しなかったことを理由に再雇用を拒否されたのは違法だということで裁判訴訟を起こして、東京地裁が、昨日都に5300万支払いを命じる判決を言い渡しました。これについて、知事の見解を伺えますか。
【知事】これは今、しっかりと都の方で、判決内容を精査して、どういう対応をとるかということであります。国旗国歌法というのは、平成11年に国会で決めまして、やはり世界中どこ見ても自国の国旗や国歌に敬意を払うというのは当たり前のことなので、その当たり前のことを子供たちに指導する立場の人が、やはり国歌斉唱時には起立して歌うというのは、当たり前だと思いますので、今回の判決に対してどういう対応をとるかというのは、教育委員会がよく精査して対応を決めたいと思っています。

舛添さん、それはない。それはおかしいよ。
※「国旗国歌法というのは、平成11年に国会で決めまして」と持ち出していることがまずおかしい。国旗国歌法とは、国民に対して国旗国歌に敬意を払うべしとの趣旨で作られた法律ではない。もちろん、この法律に基づく「国旗国歌敬意表明義務」などあるわけがない。「国旗起立義務」も「国歌斉唱義務」もない。むしろ、国会審議の過程では「そんな義務をさだめるものではありません」と強調することによって、法の制定にこぎ着けている。
国旗国歌法を根拠に、国民の国旗国歌への敬意表明の必要を論じることは、学者知事である舛添さんの名誉にもかかわる。やめた方がよい。

※「世界中どこ見ても自国の国旗や国歌に敬意を払うというのは当たり前のこと」もおかしい。
今論じられている問題は、「国旗や国歌に敬意を払うこと」の是非ではない。国家象徴への敬意表明強制の是非であり、歴史的な負の遺産を背負っている「日の丸・君が代」尊重姿勢強制の可否なのだ。自発的な敬意の表明とその強制との間には、天と地ほどの違いがある。
訴訟の原告となっている教員の中には、「自分はこれまで率先して起立し斉唱してきたが、職務命令として強制されれば、個人の信条としても教員の良心からも絶対に立てない歌えない」と処分を受け、再雇用を拒否された人もいるのだ。

※「世界中どこ見ても卒業式で自国の国旗や国歌に敬意を払うことを強制すること、従わなければ懲戒処分をすること」は決して当たり前ではない。
どうやら、北朝鮮と中国はそのような国であるらしい。しかし、人権後進国あるいは民主主義未成熟国家ならではのこと。ヨーロッパ諸国では、そもそも卒業式に国旗国歌というものの出番がない。これが国家を相対化した成熟国家の常識。アメリカは建国の事情から国旗国歌に対する思い入れが過剰なな国だが、少なくともバーネット判決以来強制はない。司法が強制には歯止めをかけているのだ。かつて永井愛さんが、「日の丸・君が代」強制をテーマとした「歌わせたい男たち」の演劇をイギリスに紹介しようとしたら、彼の国の人にはこの強制の事態があり得ざることとして飲み込めなかったという。あまりにばかばかしい事件として喜劇としても受け容れられない、という結論になったという。石原知事の意を受けて都教委がやってきたことは、決して、グローバルでもユニバーサルでもない。北朝鮮・中国レベルの話なのだ。

※中国の名誉のために一言しておきたい。「五星紅旗」も「起来人民」も、国民的合意がある理念を象徴している。しかし、「日の丸・君が代」は、そうではない。旧天皇制国家とあまりに深く結びついた負の刻印を背負っている。我が日本国憲法が、意識的に排斥した軍国主義や植民地主義あるいは排外主義や国家神道理念の象徴でもある。欧米人には、「ハーケンクロイツに拝跪を強制するに等しい」と言えばわかりやすいだろう。そのような偏頗な理念的象徴に対する敬意表明の強制は、どうしても踏み絵と同じく思想信条をあぶり出し、思想弾圧をもたざるを得ないのだ。

※「その当たり前のことを子供たちに指導する立場の人が、やはり国歌斉唱時には起立して歌うというのは、当たり前だと思います」という俗論が一番おかしい。保守ではあっても、リベラルな「政治学者舛添」さんの本心とはとても思えない。「政治家舛添」さんはこう語らねばならないのだろうか。
子供たちは無限の発達可能態だ。あらゆることを学ぶ権利がある。国家や社会が一色の価値観に染まり、国家が提供する価値観が正しいと思い込ませることは、子供の学ぶ権利を侵害することといわねばならない。公立学校とは、検証された真理を教えるところで、特定の価値観を教え込むところではない。とりわけ、国家という怪物との向かい合い方について、一方的に肯定的な価値観だけを刷り込むようなことがあってはならない。
なお、決して「国歌斉唱時には起立して歌うというのは当たり前」ではない。1989年学習指導要綱の国旗国歌条項改定まで、都立高で卒業式に君が代の式次第をもっているのは3%に過ぎなかった。その後、このパーセンテージはかたちのうえではアップするが、ほとんどの教員は起立も斉唱もしなかった。この時代の生徒たちは、権力の提供する価値観が絶対のものではないことを学んだ。愛国心や国旗国歌尊重を教え込むことは、戦前教育への回帰の一歩として、罪の深いことというべきであろう。

※舛添さんは、「自国の国旗や国歌に敬意を払うというのは当たり前」という思い入れが強すぎるのでないか。オリンピックでは盛大に日の丸をはためかせ、君が代を歌ってほしい、とでも思っているのだろう。愛国と排外とは紙一重である。挙国一致とか、一億一心とかが叫ばれるときには碌なことがない。国民の多数が「当たり前」と思い込んでいるのだから、子供にもそのとおり教えろ。これは、多数派主義・国家至上主義ではあっても民主主義ではない。もちろん憲法の基底にある個人尊重主義でも自由主義でも、人権尊重主義でもない。あまりに安易に、教育の場における、強制が可能と考えてはいないか。

※「今回の判決に対してどういう対応をとるかというのは、教育委員会がよく精査して対応を決めたい」というのも一理あるようでやっぱりおかしい。法の支配が貫徹しているはずの日本である。下級審とはいえ、東京地裁の合議体裁判所が、東京都の行政行為を違法とし人権侵害行為があったと認定したのである。由々しき事態との認識があまりにも希薄ではないか。もっと、恐縮の体があってしかるべきではないか。石原知事の時代の教育行政の失態であることは誰もが知っていること。舛添さん個人には責任がないのだから、ここは控訴断念して、新教育長とともに都立校の教育現場の正常化にイニシャチブを発揮すべき好機としていただきたい。

石原慎太郎都知事が就任して、都教委が「10・23通達」を発出するまで4年半かかっている。この間に、教育委員・教育長人事を「お友達」で固めたのだ。しかし、当時の教育委員は、内館牧子を最後にもう一人も残っていない。10・23通達体制を元に戻すのにはさほどの時間の必要はない。舛添要一さん、地裁判決への控訴の可否はあなたの決断次第だ。あなたへの期待は大きい。
(2015年5月27日)

「戦争の準備と覚悟こそが平和を守る」?戦争法案総理記者会見のホンネ

 70年前、私たち日本人は一つの誓いを立てました。もう二度と戦争の惨禍を繰り返してはならない。この不戦の誓いを将来にわたって守り続けていく。そして、国民の命と平和な暮らしを守り抜く。
 このような腑抜けた誓いにもとづく国の在り方を、私は予てから「戦後レジーム」と呼んで、このような考え方の呪縛から脱却すべきことを訴えてまいりました。そして、ついに本日、日本と世界の新たな秩序を確かなものとするための戦争法案を閣議決定いたしました。

 もはや武力によらずして、どの国も自国の安全を守ることはできない時代であります。私たちはその厳しい現実から目を背けることはできません。私は、近隣諸国との対話を通じた外交努力を重視していますが、有利な外交を推し進めるためには、どうしても武力が必要になります。口先の外交だけの国とナメられたのでは、一方的な妥協を余儀なくされるばかりです。

 総理就任以来、私を歴史修正主義者と騒ぎ立てる中国と韓国は無視し、それ以外の地球儀を俯瞰する視点で積極的な外交を展開してまいりました。その結論は、丸腰外交の限界ということでございます。外交には軍事力の支えが不可欠なのです。しかも、いざというときには、口先の威嚇だけではなく本気になって断固総力戦に踏み切る気概がなくては外交の成功はありえず、平和を守ることもできません。戦前のごとくに、国民すべてが一億一心となって滅私奉公の覚悟を確認し合う、そのような日本を取り戻さねばなりません。

 もっとも、本気で戦端を開いた場合、我が国の軍事力はいささか心もとないことは、皆さまご存じのとおりです。そのため、我が国の安全保障の基軸である日米同盟の強化に努めてまいりました。先般のアメリカ訪問によって日米のきずなはかつてないほどに強くなっています。日本が攻撃を受ければ、米軍は日本を防衛するために力を尽くしてくれる…はずです。そうでなくては困るのです。ですから、下駄の雪といわれようと、ポチと蔑まれようと、目上の同盟者アメリカにおもねるしか、我が国には選択の余地はないのです。

 安保条約に基づいて、私たちのためその任務に当たる米軍が攻撃を受けても、私たちは日本自身への攻撃がなければ何もできない、何もしない。これがこれまでの日本の立場でありました。本当にこれでよいのでしょうか。もちろん、日本ができることはたいしたことではありません。それでも、ポチとしては、いや目下の同盟者としては、ご主人であるアメリカのためにお役に立てるよう心掛けていますよ、と殊勝なところを見せなければならないのです。

 この辺の機微を国民の皆さまにはよくご理解いただきたいのです。もはや、これまでのように、「憲法の制約がありますから」「日本の憲法9条では…」などという弁解が通じる時代ではないのです。端的に申しあげれば、憲法を守ることよりも、アメリカにゴマを摺ることの方がはるかに大切なことなのです。そのようにしてでも、アメリカに擦り寄り、いざというときには拝み倒してもアメリカの軍事力に縋って我が国の平和と安全を守らなければならないのです。集団的自衛権というのは、そのような受益に見合ったリスクの負担なのです。ここをよくご理解ください。

 日本近海において米軍が攻撃されるとします。世界の警察をもって任じるアメリカですから、これまでも頻繁にいろんな国と紛争を起こしてきました。もちろんこれからも、ドンパチがあるでしょう。そのとき、日本に対する攻撃はないからと言って、黙って見ているのでは友だち甲斐のない奴と見限られてしまいます。大して役には立たないでしょうが、及ばずながらの一太刀の加勢をしておくこと、一声でも吠えておくことが、後々のために大切なのです。このときが、汗のかきどき、血の流しどきなのです。自衛隊員に貴い犠牲が出たとすれば、それこそアメリカへは高く恩を売ったことになります。おそらくは犠牲になった隊員やご家族にも、お国のための戦死として本望なことでしょう。

 もっとも、こうあからさまに本音を申しあげると不快、あるいは不都合とおっしゃる向きもありますので、ここは「集団的自衛権行使の要件をしっかりと定めました」と言っておくことにいたします。「同盟国アメリカが攻撃される状況は、私たち自身の存立にかかわる危機」という強調を前提として、「その危機を排除するために他に適当な手段がない」「なおかつ必要最小限の範囲を超えてはならない」という3つの要件による厳格な歯止めがある、としておきましょう。
 集団的自衛権の行使が厳格に過ぎたのでは、アメリカに恩を売ることはできません。当然のことながら、そのあたりは、適宜、以心伝心、魚心あれば水心という腹芸で運用宜しきを得なければ役には立ちません。

 それでもなお、アメリカの戦争に巻き込まれるのではないか。漠然とした不安をお持ちの方もいらっしゃるかもしれません。「ここからは、抑揚をつけてゆっくり、はっきりと断言する」。あれっ、カンニングペーパーのト書きを間違って声を出して読んでしまいました。撤回して続けます。
 その不安をお持ちの方にここではっきりと申し上げます。そのようなことは絶対にあり得ません。新たな日米合意の中にもはっきりと書き込んでいます。日本が武力を行使するのは日本国民を守るため。これは日本とアメリカの共通認識であります。
 あれっ? これだけの説明で、国民の不安を解消することはできないだろうと私も思いますが、原稿にはこれ以上の理由の書き込みはありません。

 誰が考えても、本当は危ないことをするんです。日本が攻撃されていないのに、アメリカが攻撃されたら助っ人を買って出ようというのです。その途端に日本は中立国ではなく、戦争当事国になります。ですから、アメリカとの交戦相手国から、日本が攻撃を受けても文句は言えません。とりわけ、日本の軍事施設や原発の近くにいる方には覚悟が必要です。
 しかし皆さん、リスクなくしてメリットだけというムシのよい話はありません。このような危険を敢えて冒してこそ、もし日本が危険にさらされたときには、日米同盟は完全に機能する。そのことを世界に発信することによって、抑止力は更に高まり、日本が攻撃を受ける可能性は一層なくなっていくと考えます。正確に言えば、戦争と戦争による被害を覚悟し、敢えて戦争を辞さないとする決意と準備があって初めて、近隣諸国は日本と米国の本気を恐れて、うっかり手を出すことをためらうのです。
 ですから、戦争法案という呼称はきわめて正確なのです。集団的自衛権の行使を認めることは、戦争を準備しその覚悟をすることなのですから。ただ、そう言ってしまっては、法案が通りにくいことになりますから、「戦争法案などといった無責任なレッテル貼りは全くの誤りであります。あくまで日本人の命と平和な暮らしを守るため、そのためにあらゆる事態を想定し、切れ目のない備えを行うのが今回の法案です」と言っておくことにします。そして、法案の名称は、正確に「戦争法」とすることは避けて、「平和」や「安全」で飾っておきましょう。

 戦後日本は、平和国家としての道を真っすぐに歩んでまいりました。世界でも高く評価されています。その平和は、自衛隊の創設、日米安保条約の改定、度重なる改憲の試みなどの戦争への動きに抗した、国民的な平和運動の努力の結果であると一般には理解されています。しかし、もうこれからは違います。
 武力を背景に強い日本を作ること、日本の武力で足りないところは、アメリカの武力を頼ること、集団的自衛権の行使容認を立法化して、日米同盟を現実に戦争のできる実効的な同盟に作り替えること、このことを通じてしか我が国の平和と安全の確立はありません。
 私はそのように確信いたします。一見矛盾するレトリックのようですが、戦争の準備と覚悟が、抑止力にもとづく平和を生むのです。時代の変化から目を背けて立ち止まるのはやめましょう。そうして前に進もうではありませんか。

 日本と世界の平和のために、精強な軍事力を育てようではありませんか。いざというときには戦争を厭わない強い国民精神を養おうではありませんか。
子供たちに平和な日本を引き継ぐため、自信を持って、声を大にして言いましょう。
 「君たち、お国のために海外で戦う気概をもちなさい」「いざというときは、自分を犠牲にしてでも戦う勇気と公共心を持ちなさい」「そうすることで、我が国の平和と安全を守ることができるのですよ」と。

 私はその先頭に立って、国民の皆様と共に新たな時代を切り拓いて、今は失われた、本来の強い日本を取り戻す覚悟であります。
(2015年5月15日)

舞の海秀平の珍説ーこれは外国人力士への差別発言だ

今日(5月10日)から大相撲夏場所が始まった。結びの一番に、逸の城が白鵬を突き落としで破って座布団が舞った。外国人力士の活躍が大いに土俵を沸かせている。ところが、これを不愉快とヘソを曲げている一群の人々がいる。「日本人の活躍がない「国技」を面白いなどとは不届き千万」、「そのような輩は自虐ファンだ」というわけだ。国籍・人種・民族の違いに過度にこだわる人々。その多くが、すべての人を平等と見る日本国憲法の嫌いな人たちに重なる。

憲法記念日には、憲法が嫌いな人たちも寄り合って集会を行う。憲法を攻撃するために集会を開く権利も、憲法を貶める言論の自由も、懐広く憲法の認めるところだから堂々となし得る。この人たちも憲法の恩恵に浴しているのだ。

今年の5月3日には、東京・平河町の砂防会館別館で開かれた公開憲法フォーラム「憲法改正、待ったなし!」が、そのめぼしいものだった。
主催は、「民間憲法臨調」と「美しい日本の憲法をつくる国民の会」。この集会の登壇者は次のとおりである。さすがに公明党関係者はいない。
 古屋 圭司(衆議院憲法審査会幹事)
 礒崎 陽輔(自民党憲法改正推進本部事務局長)
 松原  仁(民主党、元国務大臣・拉致問題担当)
 柿沢 未途(維新の党政調会長)
 中山 恭子(次世代の党参議院会長)
 森本 勝也(日本青年会議所副会頭)
 舞の海秀平(大相撲解説者)
 細川珠生(政治ジャーナリスト)
 櫻井よしこ(両主催団体代表)
 西 修(民間憲法臨調運営委員長)

相も変わらぬ顔ぶれの中で、人目を引いたのが舞の海の発言。この人は、現役時代は器用な相撲を取っていた。きっと世渡りも器用なのだろう。現役を退いてからは器用に相撲解説をし、右翼の政治集会でも器用に「珍説」を披露して期待に応えている。

舞の海の珍説は、嗤ってばかりでは済まされない。かなりきわどい内容。これは外国人力士に対する差別発言ではないか。ヘイトスピーチと言ってもおかしくはない。

以下が、産経の報じる舞の海の発言内容。
日本の力士はとても正直に相撲をとる。「自分は真っ向勝負で戦うから相手も真っ向勝負で来てくれるだろう」と信じ込んでぶつかっていく。ところが相手は色々な戦略をしたたかに考えている。立ち会いからいきなり顔を張ってきたり、肘で相手の顎をめがけてノックダウンを奪いに来たり…。あまりにも今の日本の力士は相手を、人がいいのか信じすぎている。

「これは何かに似ている」と思って考えてみたら憲法の前文、「諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」に行きついた。逆に「諸国民の信義」を疑わなければ勝てないのではないか。

私たちは反省をさせられすぎて、いつの間にか思考が停止して、間違った歴史を世界に広められていって、気がつくとわが日本は国際社会という土俵の中でじりじり押されてもはや土俵際。俵に足がかかって、ギリギリの状態なのではないか。

今こそしっかり踏ん張って、体勢を整え、足腰を鍛えて、色々な技を兼ね備えて、せめて土俵の中央までは押し返していかなければいけない。憲法改正を皆さんと一緒に考えて、いつかはわが国が強くて優しい、世界の中で真の勇者だといわれるような国になってほしいと願っている。

言っていることが余りにせこくて情けない。論理が無茶苦茶なのは責めてもしょうがないだろう。なんでも日本国憲法のせいにするのも、右翼集会に出てきてのリップサービスとして目をつぶろう。しかし、外国人力士に対する差別には目をつぶれない。魅力ある相撲には拍手を惜しまない一般の相撲ファンにも失礼ではないか。

「日本の力士はとても正直に相撲をとる」とは、「外国人力士は正々堂々とした相撲を取らない」との中傷である。「相手は色々な戦略をしたたかに考えている」の「相手」とは文脈上外国人力士のことである。「外国人力士は立ち会いからいきなり顔を張ってきたり、肘で相手の顎をめがけてノックダウンを奪いに来たり…」とは、問題発言だ。こんなことを集会でおしゃべりする輩は相撲解説者として不適格と言わねばならない。

舞の海の発言は、明らかに民族的な差別意識からの発想である。力士を、「日本人力士」と「日本人以外=外国人力士」に分類して、「日本人力士」を「正々堂々と相撲をとる力士グループ」、「外国人力士」を「いきなり顔を張ってきたり、肘で相手の顎をめがけてノックダウンを奪いに来たりする」力士グループというのだ。力士個人に着目するのではなく、カテゴリーでレッテルを貼る。これが差別の手法である。

なお、相撲ファンの一人としての異論も言っておきたい。舞の海は、「今の日本の力士は相手を信じすぎて勝てない」「相手を疑わなければ勝てないのではないか」というが、勝負よりも相撲の美学に惹かれるファンは多いはずだ。「相手を疑っても、相撲の品格を落としても勝て」と聞こえる舞の海説の言は相撲の美学を否定するものとして愚か極まる。右翼とは、伝統の美学を重んじる立場のはず。この集会参加者で苦々しく聞いた人も多かったのではないか。

また、日本人力士が外国人力士の席巻を許している理由を「相手を信じすぎて勝てない」などと言っているのは見当違いも甚だしい。「相手を疑ってかかれば互角の勝負が可能」などと負け惜しみを言っているのではお話にならない。番付通りの歴然たる実力差を潔く認めなければならない。その上で、日本人力士の活躍を期待するのであれば、この実力差のよって来たるところを見極め、克服する努力をする以外にない。大相撲関係者が、憲法の悪口でお茶を濁している限り、日本人力士の巻き返しは難しそうだ。

なお、彼の考える憲法改正とは、「諸国民の公正と信義に信頼することは愚かだ。諸国民の公正と信義を疑え」という一点。それが、「強くて優しい、世界の中で真の勇者」であろうか。堂々たる正直相撲の美学を否定して、「ともかく勝つ方法を考えよ」という相撲解説者に、国際的な「真の勇者」を語る資格などない。

迷解説者の妄言を吹き飛ばして、国籍や民族にこだわりのない、夏場所にふさわしいさわやかな土俵を期待したい。
(2015年5月10日)

「屈辱の日」の沖縄県民大集会と、心ない靖国参拝

昨4月28日は、サンフランシスコ講和条約発効の日。1952年に日本が独立を回復した日でもあるが、片面講和によって日本が東西対立の一方に組み込まれた日でもある。また、沖縄にとっては、本土から切り離されて、アメリカの施政下に置かれることになった「屈辱の日」にほかならない。

この日、那覇では「4・28県民屈辱の日」に超党派の県民大集会が開催された。本日の琉球新報が報じる見出しは、「辺野古新基地拒否 2500人結集 『屈辱に終止符を』 4・28県民大集会 」というもの。

「県議会与党5会派と市民団体らの実行委員会による『止めよう辺野古新基地建設! 民意無視の日米首脳会談糾弾! 4・28県民屈辱の日 県民大集会』が28日、那覇市の県民広場で開かれた。約2500人(主催者発表)が集まった。日米首脳会談で名護市辺野古の新基地建設推進が再確認される見通しであることについて登壇者が『新基地建設は絶対許さない』と強調すると歓声や拍手が鳴り響き、日米両政府による新たな『屈辱』の阻止に向け思いを一つにした。」

ときあたかも、オバマー安倍の日米両首脳が満面の笑みをもって「新たな屈辱」をつくりつつある。

よく知られているとおり、63年前の「沖縄の屈辱」には、昭和天皇(裕仁)が深く関わっている。「天皇の沖縄メッセージ」あるいは「昭和天皇の琉球処分」といわれるものだ。

この天皇の愚行は、1947年9月22日のGHQ政治顧問シーボルトから本国のマーシャル国務長官宛書簡に公式記録として残されている。標題は、「琉球諸島の将来に関する日本の天皇の見解」というもの。寺崎英成がGHQを訪問して伝えた天皇の意向が明記されている。寺崎は当時宮内省御用掛、英語に堪能でマッカーサーと天皇との会談全部の通訳を務めたことで知られている。

シーボルトの国務長官宛て書簡のなかに次の一文がある。
「米国が沖縄その他の琉球諸島の軍事占領を続けるよう日本の天皇が希望していること、疑いもなく私利に大きくもとづいている希望が注目されましょう。また天皇は、長期租借による、これら諸島の米国軍事占領の継続をめざしています。その見解によれば、日本国民はそれによって米国に下心がないことを納得し、軍事目的のための米国による占領を歓迎するだろうということです。」

ややわかりにくいが、「疑いもなく私利に大きくもとづいている希望」の原文は、次のとおり。
a hope which undoubtedly is largely based upon self-interest.
「self-interest」を「保身」と訳すれば理解しやすい。

これにシーボルト自身の「マッカーサー元帥のための覚書」(同月20日付)が添付されている。こちらの文書が文意明瞭で分かりやすい。以下、全文の訳文。

「天皇の顧問、寺崎英成氏が、沖縄の将来にかんする天皇の考えを私(シーボルト)に伝える目的で、時日を約束して訪問した。
寺崎氏は、米国が沖縄その他の琉球諸島の軍事占領を継続するよう天皇が希望していると、言明した。天皇の見解では、そのような占領は、米国に役だち、また、日本に保護をあたえることになる。天皇は、そのような措置は、ロシアの脅威ばかりでなく、占領終結後に、右翼および左翼勢力が増大して、ロシアが日本に内政干渉する根拠に利用できるような『事件』をひきおこすことをもおそれている日本国民のあいだで広く賛同を得るだろうと思っている。
さらに天皇は、沖縄(および必要とされる他の島じま)に対する米国の軍事占領は、日本に主権を残したままでの長期租借?25年ないし50年あるいはそれ以上?の擬制(fiction)にもとづくべきであると考えている。天皇によると、このような占領方法は、米国が琉球諸島に対して永続的野心をもたないことを日本国民に納得させ、またこれにより他の諸国、とくにソ連と中国が同様な権利を要求するのを阻止するだろう。
手続きについては、寺崎氏は、(沖縄および他の琉球諸島の)「軍事基地権」の取得は、連合国の対日平和条約の一部をなすよりも、むしろ、米国と日本の二国間条約によるべきだと、考えていた。寺崎氏によれば、前者の方法は、押しつけられた講話という感じがあまり強すぎて、将来、日本国民の同情的な理解をあやうくする可能性がある。
W・J・シーボルト」

この天皇(裕仁)の書簡を目にして怒らぬ沖縄県民がいるはずはない。いや、まっとうな日本国民すべてが怒らねばならない。当時既に天皇の政治権能は剥奪されていた。にもかかわらず、天皇は言わずもがなの沖縄の売り渡しを自らの意思として積極的に申し出ていたのだ。「疑いもなく私利(保身)にもとづいた希望」として、である。沖縄が、4月28日を「屈辱の日」と記憶するのは当然のことなのだ。

沖縄の心を知ってか知らずか、無神経に「主権回復の日」に舞い上がる輩もいる。稲田朋美自民党政調会長などがその典型。昨日(4月28日)、天皇の神社であり軍国神社でもある靖国に参拝している。特に、この日を選んでのことだという。米国に滞在中の安倍にエールを送っているつもりなのか、それとも風当たりが強くなることを無視しているのだろうか。

安倍政権では、高市早苗総務相、山谷えり子拉致問題担当相、それに有村治子女性活躍相が、春の例大祭に合わせて靖国参拝をしている。これに稲田が加わって「靖国シスターズ」のそろい踏みだ。

靖国とは、「侵略戦争を美化する宣伝センター」(赤旗)である。これはみごとに真実を衝いた言い回しだ。「そこへの参拝や真榊奉納は同神社と同じ立場に身を置くことを示すもの」(同)という指摘は、政治家がおこなえばまさしくそのとおり。

私の手許に「沖縄戦記 鉄の暴風」(沖縄タイムス社編)がある。初版が1950年8月15日で、私の蔵書は1980年の第9版。「唯一の地上戦」の沖縄県民の辛酸の記録だが、450頁のこの書の相当部分の紙幅を割いて、県民が日本軍から受けた惨たる仕打ちが克明に報告されている。靖国神社とは、沖縄県民の命とプライドを蹂躙した皇軍兵士を神として祀るところでもある。「沖縄屈辱の日」を敢えて選んでの稲田の参拝は、さらに沖縄県民を侮辱するものと言わねばならない。

独立を回復した記念の日に、広島でも長崎でも、東京大空襲被害地でも、摩文仁でもなく、なぜことさらに軍国神社靖国参拝となるのだろうか。主権回復のうえは、何よりも軍事施設への関心を示すことが大切だというアピールと解するほかはない。これは戦争を反省していない証しではないか。

しかも、である。朝日によれば、「参拝後、稲田氏は『国のために命を捧げた方々に感謝と敬意、追悼の気持ちを持って参拝することは、主権国家の責務、権利だ』と語った。」という。これは看過できない。

稲田の言う『靖国参拝は、主権国家の責務、権利だ』は、問題発言だ。憲法は、国家の宗教への関わりを厳しく禁じている。公党の要職にある人物の政教分離への無理解に呆れる。これが、弁護士の発言だというのだから、同業者としてお恥ずかしい限り。

菅官房長官よ、安倍晋三の靖国への真榊奉納については、「私人としての行動であり、政府として見解を申し上げることはない」と言ったあなただ。「靖国参拝は主権国家としての権利」と言ってのけた稲田発言をどう聞くのか。

明けて今日(4月29日)が、最高位の戦争責任を負うべき立場にあり、戦後においても自らの保身のために(based upon self-interest)沖縄に屈辱をもたらした、その人の誕生日である。

この日を「昭和の日」として奉祝するなどは、沖縄の屈辱をさらに深めることにほかならない。せめて、歴史を省みて、辺野古基地新設反対の県民世論に寄り添う思いを固める日としようではないか。
(2015年4月29日)

これは安倍政権の国辱的行為だー外務省の外国紙への言論介入

私は、国のつく言葉が嫌いだ。国威・国体・愛国・憂国・国士・国粋・挙国・国富・国益・国母・国是・国策・国論・国賊・売国・国禁…。どれもこれも嫌なイメージがつきまとう。

中でも、「国辱」が大嫌い。「我が誇るべき国家の名誉を傷つけた。許せぬ」という、思い込み激しい罵り言葉として使われる。多くの場合、ウルトラナショナリストが激情赴くままに議論を拒絶した発語だから始末に悪い。

しかしときに、なるほどこれこそは「国の恥」にあたる「国辱的行為」ではないかと思いあたることがある。それが国自身のなせるわざで、政権に強く突き刺さる鋭さをもつのであれば、敢えてこれは「国辱もの」と言ってよいのではなかろうか。

本日(4月28日)の朝日が報道する「特派員『外務省が記事を攻撃』 独紙記者の告白、話題に」という記事の内容がまさしくそれ。安倍政権と外務省が挙国の態勢で、憂国の志から碧眼の賊徒を懲らしめ、国威を発揚せんとした愛国美談の一幕。しかし、これこそまぎれもなく国恥であり国辱ではないか。そのような批判の語として用いるのが、「国辱」の正しい使い方であろう。

その記事には、メインの見出しのほかに4本のサブの見出しがついている。「政権批判 総領事が独本社訪れ抗議」「東京滞在5年 離日に際し告白」「記者『昨年あたりから変化』」「識者の人選にも注文」というものだ。紙面に勢いがあふれている。権力批判のジャーナリズム健在を示す記事だ。これは下記のURLで読める。是非とも拡散して、多くの人に読んでもらおうではないか。再びの「国辱」が繰り返されることのないように。
http://www.asahi.com/articles/ASH4P6GZ3H4PUHBI02T.html?iref=comtop_6_06

記事は「昨年来、日本の外務官僚たちが、日本に批判的な外国特派員の記事を大っぴらに攻撃している」と指摘するもの。有り体に言えば、日本の国家総掛かりでの言論への介入である。それも、ドイツやアメリカの有力紙へのもの。おそらくは氷山の一角として明らかになった、ドイツ有力紙元東京特派員の驚くべき告白がメイン。そして、「米主要紙東京特派員」への在米日本大使館からの批判メール事件を紹介している。さすがに、よく行き届いた直接取材で信憑性はきわめて高い。由々しき問題と、憂国せざるを得ない。

主要部分を引用しておきたい。
 注目されているのは、独紙フランクフルター・アルゲマイネ(FAZ)のカルステン・ゲルミス記者(56)が書いた英文の寄稿「外国人特派員の告白」だ。日本外国特派員協会の機関誌「NUMBER 1 SHIMBUN」4月号に掲載された。これを、思想家の内田樹(たつる)さんがブログに全文邦訳して載せ、ネット上で一気に広がった。

 ゲルミス氏は2010年1月から今月上旬まで東京に5年余り滞在した。発端となる記事をFAZ紙に掲載したのは昨年8月14日のこと。「漁夫の利」と題し、「安倍政権が歴史の修正を試み、韓国との関係を悪化させているうちに、中韓が接近して日本は孤立化する」という内容の記事だった。これに対し、中根猛・駐ベルリン大使による反論記事が9月1日付のFAZ紙に掲載された。

 ここまではよくある話だが、寄稿が明かしたのは、外務省の抗議が独本社の編集者にまで及んでいた点だった。記事が出た直後に、在フランクフルト日本総領事がFAZ本社を訪れ、海外担当の編集者に1時間半にわたり抗議したという。

 寄稿によると、総領事は、中国が、ゲルミス氏の記事を反日プロパガンダに利用していると強調。さらに、総領事は「金が絡んでいると疑い始めざるを得ない」と指摘した。また、総領事は、ゲルミス記者が中国寄りの記事を書いているのは、中国に渡航するビザを認めてもらうために必要だからなのでしょう、とも発言したという。

 ゲルミス氏は寄稿で、「金が絡んでいる」との総領事の指摘は、「私と編集者、FAZ紙全体に対する侮辱だ」と指摘。ゲルミス氏は「私は中国に行ったことも、ビザを申請したこともない」とも記している。

 当事者たちに、現地で直接取材した。昨年8月28日、FAZ本社を訪れたのは坂本秀之・在フランクフルト総領事。対応したのは、ゲルミス氏の上司に当たるペーター・シュトゥルム・アジア担当エディター(56)だった。

 シュトゥルム氏によると、同紙に政府関係者が直接抗議に訪れたのは、北朝鮮の政府関係者以来だったという。シュトゥルム氏は「坂本総領事の独語は流暢だった」と話す。総領事は中国のビザ取得が目的だったのだろうと指摘したうえで、「中国からの賄賂が背後にあると思える」と発言したという。シュトゥルム氏は「私は彼に何度も確認した。聞き違いはあり得ない」と話す。

 現在勤務する独北部ハンブルクで取材に応じたゲルミス氏は、「海外メディアへの外務省の攻撃は昨年あたりから、完全に異質なものになった。大好きな日本をけなしたと思われたくなかったので躊躇したが、安倍政権への最後のメッセージと思って筆をとった」と話した。

 ゲルミス氏が、機関誌に寄稿したのは「日本政府の圧力に耐えた体験を書いてほしい」と、特派員協会の他国の記者に頼まれたからだ。その後、記事への反応を見ると、好意的なものが多かったが、「身の危険」をほのめかす匿名の中傷も少なからずあったという。「日本は民主主義国家なのに歴史について自由に議論できない空気があるのだろうか」と語る。

 シュトゥルム氏もこう話した。「我々は決して反日ではない。友好国の政府がおそらく良いとは思えない方向に進みつつあるのを懸念しているから批判するのだ。安倍政権がなぜ、ドイツや外国メディアから批判されるのか、この議論をきっかけに少しでも自分自身を考えてもらいたい」

もう一つは「日本大使館、識者の人選に注文」というもの。記事のコメンテーターへのクレームという話題だ。

 米主要紙の東京特派員は、慰安婦問題に関する記事で引用した識者(コメンテーター)について、在米日本大使館幹部から人選を細かく批判する電子メールを受け取った。同特派員は「各国で長年特派員をしているが、その国の政府からこの人を取材すべきだとか、取材すべきでないとか言われたのは初めて。二度と同じことをしないよう抗議した」と話したという。

外務省が嫌ったコメンテーターとは、中野晃一・上智大教授であり、代わって外務省国際報道官室幹部が政権御用達として秦郁彦を推薦するメールを送信しているという。このメール全文までは報道されていないが、メールの存在と内容は外務省が認めているという。

はたして日本に、権力の干渉を受けることなく表現する自由は健在なのだろうか。
おなじみになった、「国境なき記者団」の「世界報道の自由度ランキング 2015」では、日本は180カ国(地域)中の61位である。かつては11位と高位にランクされた時代もあったが、安倍政権になって以来急速に評価を下げ、「先進諸国」中の最下位に甘んじている。アジアでは、台湾(51位)、モンゴル(54位)、韓国(60位)の後塵を拝しする立場。この日本の自由度ランキングは、安倍政権が続いている限りのことだが、来年さらに顕著に順位を落とすことが確実である。

なお、このランキングでは北朝鮮が179位である。ドイツ有力紙の編集者が、日本の総領事の行為について「政府関係者からの直接抗議は北朝鮮以来」と言っているのは示唆に富む。安倍政権は、北朝鮮に比肩されているのだ。

この事態は、安倍政権の末期症状として見るべきなのか、あるいは恐るべき言論弾圧時代の幕開けなのか。憂国の情に堪えない。
(2015年4月28日)

「『思想の自由』と『表現の自由』の今ー権力と社会的圧力に抗して」

「俳人・9条の会 新緑の集い」にお招きを受けて、報告した。テーマは、9条ではなく「『思想の自由』と『表現の自由』の今ー権力と社会的圧力に抗して」というもの。準備の過程で、なるほどこのテーマであれば私こそ語るにふさわしい、と考えるようになった。

「日の丸・君が代」強制と靖国問題とで思想・良心・信仰の自由の問題に触れ、DHCスラップ訴訟で表現の自由を語った。いずれも、私自身が関わる問題である。聞いてもらわずにはおられない。

精神生活の基礎を形づくるものとして、思想は自由である。人が人であるために、自分が自分であるために、憲法によって保障される以前から、思想は本来的に自由なのだ。

思想のほとばしりである言論も本来的に自由でなくてはならない。表現の自由を侵害するものは、公権力と社会的圧力である。公権力は法的強制をもって言論を封じ、社会多数派はその同調圧力で個人の言論を封じる。

フォーマルには、社会的多数者の意思が権力の意思となり、国や自治体が言論を規制する。インフォーマルには、社会的多数派の圧力が、個人の言論を萎縮させ、非権力的に言論を抑制する。

個人の言論が、多数者の意思によって圧迫を受けてはならない。表現の自由とは、本来的に少数者の権利であって、多くの人にとって不愉快で耳障りな表現こそが権利として保障されなければならない。民主々義社会では、多数派が権力を構成するのだから、社会的な圧力は容易に公権力による規制に転化する。だからこそ、権力が憎む表現、多数が眉をしかめる表現の自由が権利として守られねばならない。

社会的な言論抑圧のレベルでは、
多数派の意思→圧力→少数派の萎縮→多数派の増長→圧力の強化→さらなる萎縮
という負のスパイラルを警戒しなければならない。言論の萎縮は、さらなる圧力をもたらし、さらなる後退を余儀なくさせる。

社会的多数派の耳に心地よくない言論とは、政権に対する批判、与党勢力に対する批判、天皇や皇族の言動に対する批判、「日の丸・君が代」強制への批判、ナショナリズムへの批判、最高裁の判決に対する批判、ノーベル賞の権威などに対する批判等々の言論である。このような権力や権威に対する批判の言論の自由が保障されなければならない。

そして、ダブルスタンダードなく、反体制内権力や革新内部の多数派にも批判が必要だ。たとえば、選挙をカネで歪める動きについて、保守派だけを批判するのは片手落ち、革新陣営の選挙違反にも遠慮のない批判の言論が保障されなければならない。それなくしては緊張感を欠くこととなり、革新陣営の腐敗が免れないことになる。いかなる組織にも、運動にも、下から上への批判が不可欠なのだ。

このようなときであればこそ、表現者は萎縮してはならない。自主規制して言論を躊躇してはならない。社会的圧力に抗して、遠慮することなく、いうべきことをはっきりと言わねばならない。でないと、今日の言論の保障は、明日には期待できなくなるかも知れないのだから。

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懇親会にまでご招待いただきありがとうございます。本席では、天皇の発言が話題となっていますので、この点についてもう少しお話しさせてください。

私は、本来人間は平等だという常識的な考えもっていますから、天皇という貴種が存在するなどとは思いもよりません。天皇を特別な存在とし、血筋故に貴いとか、文化的伝統を受け継いだ尊敬すべき人格だとかという虚構を一切認めません。

「象徴天皇は憲法的存在だから認めてもよいのではないか」という議論は当然になり立ちます。制度としては天皇の存在を認めざるを得ません。しかし、天皇が象徴であることから、天皇をこのように処遇すべきだという、法的な効果は何もないのです。「象徴」とは、権限や権能を持たないことを意味するだけの用語に過ぎません。天皇の存在を可能な限り希薄なものとして扱うこと、最終的にはフェイドアウトに至らしめること、それが国民主権原理の憲法に最も整合的な正しい理解だと私は思っています。

「象徴天皇は、存在しても特に害はないのではないか」というご意見もあろうかと思います。しかし、私は違う意見です。今なお、象徴天皇は危険な存在だと思うのです。その危険は、国民の天皇への親近感があればあるほど、増せば増すほどなのです。国民に慕われる天皇であればこそ、為政者にとって利用価値は高まろうというものです。

先ほど、高屋窓秋という俳人のご紹介の中で、嫌いなものは「奴隷制」というお話しがありました。奴隷制とは、人を肉体的に隷属させるだけでなく、精神的な独立を奪い、その人の人格的主体性まで抹殺してしまいます。

奴隷根性という嫌な言葉があります。奴隷が、奴隷主に精神的に服従してしまった状態を指します。客観的には人権を蹂躙され過酷な収奪をされているにかかわらず、ほんの少しのご主人の思いやりや温情に感動するのです。「なんとご慈悲深いご主人様」というわけです。奴隷同士が、お互いに、「自分のご主人様の方が立派」と張り合ったりもすることになります。

旧憲法下の、天皇と臣民は、よく似た関係にありました。天皇は、臣民を忠良なる赤子として憐れみ、臣民は慈悲深い天皇をいただく幸せを教え込まれたのです。これを「臣民根性」と言いましょう。明治維新以来、70年余にわたって刷り込まれた臣民根性は、主権者となったはずの日本国民からまだ抜けきっていないと判断せざるを得ません。

天皇制とは、日本国民を個人として自立させない枷として作用してきました。臣民根性の完全な払拭なくして、日本国民は主権者意識を獲得できない。天皇制の呪縛を断ち切ってはじめて、個人の主体性を回復できる、私はそう考えています。

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本日の私の報告の中で、「権力を信頼することは権力を腐敗させること、権力には猜疑の目をもっての批判が不可欠だ。それあってこそ、健全な権力を維持することができる」「この理は、たとえ民主勢力が政権を取っても、あるいはいかなる民主的な政府が成立したとしても変わらない」というくだりがあった。

これに対して、「本当に民主的な政府にも、批判が必要なのか」という質問があって、時間切れとなった。一応、追加して触れておきたい。

完全に「民主的な政府」となどというものはありえない。より民主的な政府を目ざさなければならない。また、いかなる権力も、権力が成立した瞬間から腐敗の進行を始める。従って、ある政府を、より民主的にするためにも、腐敗を防止するためにも、民衆の忌憚のない批判が絶対に必要なのだ。選挙は大きな国民の政府への批判の機会であるが、これだけに限られない。日常的な批判の言論が実質的に保障されなければならない。

国民の批判を実質的に保障するとは、権力運用の透明性が確保されていなければならず、権力が批判に寛容でこれを受容し生かす制度を完備していなければならない。

そこまでしても権力が腐敗を免れれることができるか、おそらくは無理だろう。そのときには、政権交代の受け皿が用意されていなければならない。こうしたサイクルで、民主主義は命永らえていくのではないだろうか。
(2015年4月26日)

毎日新聞社もスラップ訴訟の被告になったー「DHCスラップ訴訟」を許さない・第41弾

私自身が被告にされ、6000万円の賠償を請求されているDHCスラップ訴訟の次回期日は明後日4月22日(水)13時15分に迫っている。舞台は東京地裁6階の631号法廷。誰でも、事前の手続不要で傍聴できる。また、閉廷後の報告集会は、東京弁護士会507号会議室(弁護士会館5階)でおこなわれる。集会では、関連テーマでのミニ講演も予定されている。どなたでも歓迎なので、ぜひご参加をお願いしたい。

さて、私は、DHC・吉田から私に対する訴訟を「スラップ訴訟」と位置づけている。この場合のスラップ訴訟とは、権力者や経済的な強者が自分に対する批判の言論を嫌って、言論封殺を目的とする提訴のこと。DHC・吉田は渡辺喜美に対して「届出のない8億円を拠出していた」ことを自ら曝露した。多くの論者がこれを批判したが、DHC・吉田はその内10人を選んでスラップ訴訟をかけている。私もそのひとり。トンデモナイ高額請求で、うるさい人物を黙らせようということなのだ。

このようなスラップ訴訟の被害は、フリーランスのジャーナリストや個人ブロガーなど恫喝に弱い立場の者に集中してきた。ところが、大手新聞社もスラップの対象となっている。これは、ジャーナリズム全体に由々しき事態ではないか。既に報道の自由そのものが被害者となっているのだから。

以下は、毎日新聞4月17日夕刊(社会面・第14面)の記事である。多くの読者には目にとまらなかったであろう、小さな扱いのベタ記事。しかし、記事の内容は見過ごせない。

見出しは「サンデー毎日記事巡り稲田氏が本社提訴」というもの。
「サンデー毎日の記事で名誉を傷付けられたとして、自民党の稲田朋美政調会長が発行元の毎日新聞社を相手取り、550万円の損害賠償などを求める訴えを大阪地裁に起こした。17日の第1回口頭弁論で毎日新聞社は請求棄却を求めた。
 訴状によると、サンデー毎日は2014年10月5日号で、稲田氏の資金管理団体が10〜12年、『在日特権を許さない市民の会』(在特会)の幹部と行動する8人から計21万2000円の寄付を受けたと指摘。稲田氏について『在特会との近い距離が際立つ』とする記事を載せた。
 稲田氏側は『寄付を受けることは寄付者の信条に共鳴していることを意味しない』と主張。記事によって『在特会を支持していると読者に受け取られ、(稲田氏の)社会的評価を低下させる』と訴えている。
 ▽毎日新聞社社長室広報担当の話 記事は十分な取材に基づいて掲載しています。当方の主張は法廷で明らかにします。」

原告は自民党の政調会長である。安倍晋三にきわめて近い立場にあると見られている人物。このような政権与党の中枢に位置する人物のメディアに対する提訴は、被告が大手新聞社であっても、記事の内容が意図的な事実の捏造でもない限り、言論封殺を目的としたスラップ訴訟とみるべきであろう。また、現時点における複数の報道による限り、提訴の内容はまさしく、「権力者が自分に対する批判の言論を嫌って、言論封殺を目的とする」ものと考えてよいと思われる。

問題の「サンデー毎日」2014年10月5日号記事は、『安倍とシンパ議員が紡ぐ極右在特会との蜜月』というメインタイトル。大きな反響を呼んだ記事だ。サブタイトルは、「スクープ 国連が激怒」「自民党がヘイトスピーチ規制に後ろ向きな噴飯ホンネ」「山谷えり子との『親密写真』公開!」「お友達議員にバラ撒かれるカネ」「高市早苗とネオナチ団体」などと賑やかだ。しかし、サブタイトルに稲田の名がないことに注目いただきたい。

使われている写真は、「山谷氏を囲む在特会関係者」「ネオナチと高市氏(左)、稲田氏(右)の写真を報じる海外メディア」と、これは文句のつけようがない。

記事全体としては、「安倍自民と在特会」との蜜月関係を洗い出して、「今さら簡単に断ち切れないほど関係を深めている」「ナショナリズムを政権浮揚に使ってきたツケが回ってきた」と、政権の右翼化を批判したもの。

この記事に出て来る「シンパ議員」の名を挙げておきたい。
安倍晋三・山田賢司・高市早苗・下村博文・山谷えり子・有村治子・古屋圭司・衛藤 晟一、そして稲田朋美だ。稲田の名は最後に出て来る。扱いも、高市や山谷に較べて遙かに小さい。

稲田に関する主要な記事を抜粋してみよう。
「一方で在持会関係者が直接、自民党国会議員ににカネをバラ撒いているケースもある。稲田政調会長の資金管理団体『ともみ組』10〜12年、在特会で顧問に近いポジションにいる有力会員M氏ら、在特会幹部とともに活動している8人から計21万2000円の寄付を受けた。稲田氏の事務所は『稲田の政治理念と活動に賛同してくださる個人を対象に、広く浅く浄財を頂いている。事務手続きに必要な事項、法令で定められた事項、政治資金収支報告書に記載された事項以外の情報は確認していない』というが、在特会との近い距離が際立つ。稲田氏といえば、高市総務相とともにネオナチ団体の代表と撮影したツーショット写真が流出し、2人とも『相手の素性や思想は知らなかった』と弁明した。」

この記事にクレームがつけられて、今年の2月13日提訴となっていたことは、4月17日毎日夕刊の記事が出るまで知らなかった。それにしても、疑問が湧いてくる。なぜ、稲田だけが提訴したのだろうか。他の安倍・高市・下村・山谷らは、なぜダンマリなのだろう。

資金管理団体『ともみ組』の政治資金報告書は誰でもネットで閲覧可能である(下記URL参照)が、サンデー毎日記者は、事前に稲田の事務所を取材している。そのコメントも丁寧に記事にしている。手続的に問題はない。
http://www.soumu.go.jp/senkyo/seiji_s/seijishikin/reports/SS2020131129.html

毎日新聞の記事による限りだが、原告稲田側は「在特会との近い距離が際立つ」とする記事が怪しからん、ということのようだ。「寄付を受けることは寄付者の信条に共鳴していることを意味しない」にもかかわらず、同記事によって『在特会を支持していると読者に受け取られ、(稲田氏の)社会的評価を低下させた」との主張のようだ。稲田も、在特会と近しいとされることは迷惑なのだ。せっかく「稲田の政治信条と活動に共鳴して政治資金を寄付した」在特会側は、この稲田事務所の連れない言辞をどう受け止めるだろうか。

朝日の報道はやや異なる。
「『在日特権を許さない市民の会』(在特会)と近い関係にあるかのような記事で名誉を傷つけられたとして、稲田朋美・自民党政調会長(56)が週刊誌『サンデー毎日』の発行元だった毎日新聞社に慰謝料など550万円の損害賠償と判決が確定した場合の判決文の掲載を求め、大阪地裁に提訴した。」
「稲田氏側は、在特会の会員と確認できるのは8人のうち1人だけと主張。さらに『寄付を受けることは、必ずしも寄付者の思想信条に共鳴していることを意味しない』と訴えた。」

稲田の提訴目的は、いつまでも「在特会と近い関係」と言われることを嫌っての縁切り宣言にあったのかも知れない。それでも、「寄付を受けることは、必ずしも寄付者の思想信条に共鳴していることを意味しない」は、記事を批判し得ていない。サンデー毎日の記事は、「在特会との近い距離が際立つ」というものである。寄付を受ける者と寄付者との関係を「距離が近い」と言って少しも不都合なところはない。これは典型的な記事の「意見・論評」の部分である。意見・論評には幅の大きな表現の自由が保障される。これでは稲田側の主張が裁判所で認められる余地はない。

「在特会の会員と確認できるのは8人のうち1人だけ」との稲田側の主張の真偽は第三者には分からない。しかし、サンデー毎日の記事は、「在特会で顧問に近いポジションにいる有力会員M氏ら、在特会幹部とともに活動している8人」となっている。「8人がすべて在特会の会員」と言ってはいない。立証のハードルはきわめて低い。

摘示された事実には真実性が求められるが、「主要な点において真実であればよい」ので、必ずしも完璧な立証が求められるわけではない。また、真実であると信じたことに相当な根拠があれば毎日側の過失は否定される。こうして、表現の自由は保護され、国民の知る権利が保障される。

どう見ても、稲田側の勝訴の見込みはあり得ないが、「自分を批判すると面倒だぞ」とメディアを萎縮させる効果は計算しての提訴ではあろう。それゆえのスラップ訴訟である。

私は、DHC・吉田に対してだけでなく、社会に「スラップ訴訟は許されない」と発言し続けている。是非、毎日も同じように声を揃えていただきたい。
(2015年4月20日)

東京・神戸・高知・信濃毎日各社説のまっとうさー大学の国旗国歌問題

本日もしつこく、安倍政権の大学に対する国旗国歌押しつけ問題を取り上げる。私は、この10年、教育の場への国旗国歌強制を不当とする訴訟に取り組んできた。この訴訟に携わった者の責務として、この問題では発言しなければならないと肚を決めている。しつこさには、目をつぶっていただきたい。

昨日のブログに、東京新聞の社説がこの問題に触れないことを嘆いた。明けて今日(4月17日)、期待に応えて同紙の社説が政権批判を論じた。これで中央紙の政権批判派が4紙となり、政権への無批判ベッタリ追随派が2紙となった。4対2の色分けは、まだ言論界が全体として健全な批判精神をもっていることを示している。

数だけではない。内容においても、政権批判派は政権ベッタリ派を圧倒している。主張の説得力も格調も段違いだ。社説を比較する限りでのことだが、なぜ、読売や産経のような新聞が淘汰されずに生き延びているのか、不思議でならない。もしかしたら、両紙の読者は、他紙を読んだことがないのかしら、などと思わせる。

東京の社説は、「大学と国旗国歌 自主自律の気概こそ」という、まことに正攻法。真っ向勝負の東京新聞らしい。

冒頭の一節が引き締まっている。
「国立大学の卒業式や入学式で日の丸掲揚、君が代斉唱を求める安倍政権の動きは、大学の自治を脅かす圧力になりかねない。統制を強めるほど、教育研究は色あせ、学問の発展は望めなくなる。」

その理由や根拠は次のように簡潔に述べられている。
「大学の自治は、憲法が定める学問の自由を守る砦である。教育研究はもちろん、人事や予算、施設管理といった学内の運営に対する外野からの干渉は許されない。だからこそ、九年前の教育基本法の改正では、大学の自主性、自律性の尊重を義務付ける条文が盛り込まれたのではなかったか。」

「大学は世界の平和と人類の福祉に貢献するという原点を忘れないでもらいたい。真理を探究し、新しい価値を創造する。日本の未来のためにも、自治の精神を貫く気概を持つべきだ。」

東京新聞は、露骨に大学の自治への介入を試みている政権を批判するとともに、大学に政権の強要に屈するな、と呼びかけている。私たちも、その両者に目を向ける必要がありそうだ。

昨日は、地方紙の旗手として道新の社説を取り上げたが、新たに神戸新聞、高知新聞、信濃毎日の各社説が目に留まった(そのほかに、東京の親会社である中日新聞は、東京新聞と同じ社説を掲げているがこれは除く)。それぞれに多様な特色があって実に面白い。

まずは、神戸新聞。「国旗国歌の要請/強要でないと言うのだが」というタイトル。飄々としたしたたかさを感じさせる文体。どちらかといえば硬派ではない軟派。直球派ではない軟投派だ。

社説の冒頭で「『お願い』と言いながら威圧的なのが気がかりだ。」という。言われて見ればそのとおり。確かに下村文科省の態度は、「威圧的」だ。到底、人に「お願い」しようという姿勢ではない。

決めつけずに、したたかに次のように言っている。
「国旗国歌法の成立時、当時の小渕恵三首相が『強制するものではない』と述べたことも想起したい。下村氏も『お願いであり、するかしないかは各大学の判断。強要ではない』」とは話している。しかし、単なる『お願い』と受け止めにくい状況がある。国立大の運営費交付金は削減傾向が続いており、大学側からは『教育や研究の質の低下を招きかねない』との悲鳴が上がっている。一方で改革に積極的な大学には交付金を重点配分することも検討されている。そんな中、首相の『税金によって賄われていることを鑑みれば』の発言だ。『要請』は受ける側にとって圧力のように響く。」

次いで、「【国旗国歌要請】大学の自主性に委ねよ」という高知新聞。こちらは硬派だ。直球のストレート勝負。要点を抜き出せば以下のとおり。

「政治が、大学の式典の中身にまで口を挟むのは問題があると言わざるを得ない。」
「政治権力などの干渉を受けず、全構成員の意思に基づいて教育研究や管理に当たる『大学の自治』は、憲法が保障する『学問の自由』に不可欠な制度とされている。2006年改正の教育基本法でも、それまでなかった大学の条文が設けられ、『自主性、自律性その他の大学における教育及び研究の特性が尊重されなければならない」としている。
「国が『お願い』だと主張しても、いまの国立大学は『圧力』と受け止めかねない状況にある。」「兵糧攻めへの恐怖は大きい。」

そして、硬派の硬派たる所以が末尾の一節。
「下村文科相は会見で圧力を否定し、『強要ではない』と強調した。しかし、集団的自衛権行使容認をはじめ、安倍政権に見られる強引な政策展開からは不安は募る。注視し続ける必要がある。」
ごもっとも。よく言っていただいた。腹に据えかねるとして、吐き出された一文ではないか。

そして、信濃毎日新聞である。「大学に国旗国歌 『法にのっとる』のなら」という標題。これは他にない法的ロジックの社説。

「大学の自治を軽んじる動きが続いている。」

「戦前には、大学の研究内容に国家が介入した。例えば滝川事件では京都帝大教授が自由主義的との理由で文相に辞職に追い込まれた。学問の自由が妨げられた反省に立って大学自治の仕組みがつくられたことを忘れてはならない。」

「大学は深く真理を探究する場である。教育基本法もそううたう。続けて『大学については、自主性、自律性が尊重されなければならない』と定めている。法にのっとって、と言うなら、政権の介入こそ慎まなければならない。」

これまで、8紙の政権批判派社説と、2紙の政権ベッタリ派社説を見てきた。7紙が2紙を圧倒していると言ってよい。論点は出尽くした感がある。東京社説の言うとおり、政権を批判する世論を作るとともに、大学人を励ますことも実践の課題となる。

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ここからは、付録。
東京新聞社説の中に、次の一文がある。前後とのつながりは明瞭でない。
「2004年の園遊会での一幕があらためて思い出される。
東京都教育委員だった棋士の故米長邦雄氏が『日本中の学校で国旗を揚げ、国歌を斉唱させるのが、私の仕事です』と語ると、天皇陛下は『やはり強制になるということでないことが望ましいと思います』と返されたのだった。」

なぜ、唐突に天皇が持ち出されたのか。天皇がこう言ったからどうなんだ、とは書いていない。だから、論評は難しい。が、この「米長対天皇問答事件」は、私に印象が強い。米長と天皇の両者に問題ありとして、当時のブログに2度書いた。今、それを読み返してみると、私は少しも変わっていない。少しも進歩していない。十年一日のごとく同じことを繰り返しているのだ。但し、ペンの切れ味は落ちていると嘆かざるを得ない。

当時は日民協のホームページに連載していた「事務局長日記」、そのアーカイブ2件を再録して披露しておきたい。

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2004年10月29日(金)米長邦雄を糾弾する  
以下は、朝日の報道。
「天皇陛下は28日の園遊会の席上、東京都教育委員を務める棋士の米長邦雄さん(61)から『日本中の学校で国旗を掲げ、国歌を斉唱させることが私の仕事でございます』と話しかけられた際、『やはり、強制になるということではないことが望ましい』と述べた。」

共同通信は、以下のとおり。
「東京・元赤坂の赤坂御苑で28日に開催された秋の園遊会で、天皇陛下が招待者との会話の中で、学校現場での日の丸掲揚と君が代斉唱について『強制になるということでないことが望ましいですね』と発言された。
棋士で東京都教育委員会委員の米長邦雄さん(61)が『日本中の学校に国旗を揚げ、国歌を斉唱させることが私の仕事でございます』と述べたことに対し、陛下が答えた。」

問題の第1は、米長が天皇の政治的利用をたくらんだこと。これは、現行憲法下の禁じ手である。天皇制は人畜無害を前提にかろうじて存続が許されているからだ。もともと、天皇は政治的利用の道具であった。そのことが天皇制批判の最大の根拠である。天皇の政治的利用をたくらんだ者の責任は徹底的に糾弾されなければならない。二歩を打った棋士米長はその瞬間に負けなのだ。天皇制存続派にとっても米長の行為は愚かで苦々しいものであろう。

問題の第2は、米長の意図とは違ったものにせよ、天皇が政治的な発言をしたことにある。国旗国歌問題について、天皇がものを言う資格など全くない。自ら望んだ会話ではないにせよ、出過ぎた発言である。天皇には口を慎むよう、厳重注意が必要だ。

問題の第3は、宮内庁の発言である。
羽毛田信吾次長は「国旗や国歌は自発的に掲げ、歌うのが望ましいありようという一般的な常識を述べたもの」と話した(共同通信)という。冗談ではない。少なくとも私は、そのような「一般的な常識」の存在を認めない。毎日に拠れば、羽毛田は、天皇の真意を確認しての会見という。「一般常識として歌うのが望ましい」との認識を天皇が有していたという発言自体が大きな問題だ。羽毛田見解が天皇の発言を「国民が自発的に国旗国歌を掲揚・斉唱するのが望ましい」との内容と釈明したとすれば、天皇の責任をさらに重大化するものである。

天皇は黙っておればよい。誰とも口を利かぬがよい。それが、人畜無害を貫く唯一のあり方なのだ。彼の場合、何を言っても「物言えばくちびる寒し秋の風」なのだから。

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2004年10月31日(日)米長君、君に教育委員は務まらない  

米長邦雄君、君は教育委員にふさわしくない。潔く辞任したまえ。
君は、棋士として名をなしたそうだ。産経新聞社主催の棋聖戦では不思議と強くて「永世棋聖」を名乗っていると聞く。僕も将棋は好きだがまったくのヘボ。永世棋聖がどのくらいのものだか、君がどのくらい強いのか理解はできない。

しかし、これだけは僕にも分かる。君は盤外のことはよく分からないのだ。そして盤外では、自分の指し手に相手がどう対応するのか、まったく読めない。将棋ができることがエライわけではなく、将棋しかできないことが愚かでもない。問題は、盤外での君が、愚かを通り越してルール違反をしたこと。禁じ手を指したのだ。即負けなのだよ。教育委員が務まるわけがない。

本来、教育委員というのは、重い任務なのだよ。日本の将来の少なくとも一部に責任を持たねばならない。将棋を指すこととは、根本的に異なる。それなりの見識がなければならない。床屋談義のレベルで務まるものではないのだ。不見識を露呈した君は、その任務に堪え得ない。だから、一日も早く辞めたまえ。それが、若者の将来のためでもあり、君自身のためでもある。

君は園遊会で、天皇に次のように話しかけた。
「日本中の学校に国旗を上げて国歌を斉唱させるというのが私の仕事でございます」
このことは、複数のマスコミ報道が一致している。ところが君のホームページを見ると、国旗国歌問題については何の会話もなかった如くだ。この姿勢はフェアではなかろう。君のやり方は姑息だ。ちっともさわやかではない。

君が天皇へ話しかけた言葉に不見識が露呈されている。君の頭の中がよくみえる。君は、子どもたちの無限の可能性を引き出す教育という崇高な営みについて何も考えてはいない。教育について何も分かってはいない。国旗・国歌問題だけが「私の仕事」と信じこんでいるのだ。しかも、天皇からさえ批判された「強制」が君のこれまでの仕事なのだ。

君は棋聖なのだから、自分が一手を指すまえに相手の二手目の応手を読むだろう。それなくしては一手を指せない。きみは、天皇に話しかけるに際して、相手の反応をどう読んだのか。いったい天皇のどんな返答を期待したのだろうか。願わくは「しっかりやってくださいね」という激励、少なくとも「そうですか。ご苦労様」という消極的同意を期待したものと判断せざるを得ない。でなくては、棋士米長にあるまじき無意味な発語。君がどんなに否定してもそのような状況でのそのような意味を持つ発言なのだ。

これは、天皇の政治的利用以外の何ものでもない。君も知ってのとおり、日本には最高規範として日本国憲法というものがある。憲法では天皇の存在は認められているが、厳格に政治的な権能は制約されている。そもそも、天皇の存在自体が憲法の本筋として定められている国民主権原理に矛盾しかねない。政治的にまったく無権限・無色ということでかろうじて憲法に位置を占めているのが、天皇という存在なのだ。だから、天皇の政治的利用は、誰の立場からもタブーなのだ。君は、そのタブーをおかしたのだよ。不見識を通り越して、ルール違反・禁じ手だという所以だ。

天皇が、君の問いかけに対して、こう答えたと報じられている。
「やはり強制になるということでないことが望ましいですね」
君と一心同体の産経だけが、、「望ましい」でなく、「好ましい」としているそうだが、どちらでも大差はない。

これは、天皇としてあるまじき政治的発言ではないか。誰が考えても、学校教育の現場での国旗国歌のあり方が政治的テーマでないはずがない。しかも今、強制の波は現実の課題として押し寄せ、大量処分と訴訟にまで発展している。政治的に大きく割れた意見のその一方の肩をもつ発言を天皇がしたのだ。由々しき事態である。この問題発言を引き出したのは、米長君、君だ。君自身が責任をとらねばならない。

もっとも、君もさぞかし驚いただろう。天皇は、君がやっている「日の丸・君が代」強制の事実を知っていたのだ。しかも、それに批判的な見解をもっていた。都教委が現場の教師に起立・斉唱を強制し、これを拒否した教員を大量処分した事実に関心を持ちよく新聞も読んでいたのだろう。即座に、強制反対を口にしたのは、予てからこの事態を苦々しく見ていたからに違いない。皮肉なことだが、君とその仲間がやっていたことは、天皇の「お気に召す」ことではなかったのだ。

この天皇の発言に対する、君の三手目の指し手が次のとおりだ。
「ああ、もう、もちろんそうです」「ほんとにもう、すばらしいお言葉をいただきましてありがとうございました」
これをどう理解すればよいのだろう。君は多分天皇崇拝主義者なのだろうね。だから、天皇に反論したりはせず、滑稽なほど迎合した発言になってしまったのだろう。それはともかく、君は、「強制でないことが望ましい」に対して、「もちろんそう。すばらしいお言葉ありがとう」と言ったのだよ。天皇の前でのこの言葉を、まさか、撤回ということはあるまいね。今後は「すばらしいお言葉」を無視して、「日の丸・君が代」の強制を続けることなどできはすまい。

実は、君の一手目がルール違反で敗着。指し継いでも、相手の二手目が絶妙手で君の負け。三手目は詰んだあとの無駄な指し手。

もう君には、教育委員の重責は務まらない。やることがあるとすれば、君の言のとおり強制を望ましくないとして、処分を撤回すること。それができないのなら、すぐに辞めたまえ。君の流儀は「さわやか流」というそうではないか。この際さわやかに潔く辞めることが、君の名誉をいささかなりとも救うせめてもの「形作り」なのだから。

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