澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

維新の正体が見えたー戦争法成立に手を貸す維新に批判を

維新とはなんであろうか。
自民を見限って民主に期待し、民主にも裏切られた保守層の期待幻想が紡ぎ出した虚妄である。半自民、反民主ではあるが、自らの中にプリンシプルを持たない。だからまとまりはなく、一貫した政策もない。全員が一色ではなかろうが、全体としては、世の風向きを読むことに敏感で、自己保身の遊泳に精一杯なだけの、政治世界の盲腸のようなもの。

その盲腸、場合によっては虫垂炎を起こす危険な代物となる。虫垂内部で細菌が増殖すると、膿瘍を形成し穿孔し腹膜炎を起こして重症化する。対処を誤ると、局所症状に留まらず重篤な全身症状となって死に至ることさえもある。起因菌が増殖を始めた盲腸は早めに摘除しなければならない。

今まさしく、維新が危険な盲腸として炎症を起こしつつある。維新が、戦争法案の成立に手を貸そうとしているのだ。自・公とならんで、維新を世論の矢面に立たせなければならない。3本目の批判の矢が必要となっている。取り立ててなんの理念ももたない維新のことだ。世論の風向き次第で態度は変わる。摘出手術の荒療治まではせずとも、批判の注射だけで無害の盲腸に戻すことが可能となる公算もある。

昨日(7月7日)配信の時事通信記事は次のとおりである。
「民主党の枝野幸男、維新の党の柿沢未途両幹事長は7日、国会内で会談し、武力攻撃に至らないグレーゾーン事態に対処する『領域警備法案』について、共同提出を見送ることを確認した。…政府提出の安全保障関連法案の採決日程をめぐって対立し、共同提出に向けた協議が決裂。両党は8日にそれぞれ単独で国会提出する。
 会談では同席した維新の馬場伸幸国対委員長が、領域警備法案の審議時間を確保するため、同法案と政府案の採決日程をあらかじめ与党側と合意するよう提案。政府案の廃案を目指す民主党は『与党に手を貸すようなことには協力できない』として拒否した。」

読売がきわめて適切な見出しをつけている。「枝野氏『突然、非常識な提案』 維新との協議決裂」というもの。記事は、「維新の党側は、与党が求めている関連法案の採決について、7月下旬に応じることを民主党に持ちかけた。」となっている。

産経の報道は次のとおり。
「民主党の枝野幸男幹事長は不快感をあらわにした。維新から『与党に手を貸すような提案』があった」「『出口の話をするような無責任な野党としての対応はできない』として決裂した」

この報道には驚いた。そして、呆れた。これまでは、極右政党「次世代」を除いて、野党の足並みは政府提案の戦争法案反対で揃っていたはず。少なくも、徹底審議での共闘合意ができていたはず。ところが、維新は態度を豹変させて、「戦争法案採決について7月下旬に応じることを民主党に持ちかけた」というのだ。枝野幹事長が「突然、非常識な提案」と怒るのはもっともな話。民主党の感覚が、真っ当ではないか。

ああ、そうなのか。あらためて合点が行く。6月14日突然に設定された安倍・橋下密談がこんな筋書きを描いていたのか。あれ以来様相が変わってきたではないか。対案を出すだの、民主と共同提案だのと維新が言っていたことは、すべて野党分断、民主抱き込みの伏線だったのか。自民党へ恩を売るための下工作だったのか。与党と維新の間では密約が成立し、「7月下旬採決強行」のスケジュールが組まれていたのだ。自民が、「7月15日採決案」をリークする。維新が手柄顔に、「7月下旬まで先延ばし」して、与党強行のイメージを薄めた採決の舞台を整える。この筋書きに、うっかり欺されるところだった。

維新とは「これ(維)新たなり」の意味だが。昨日露わになった維新のやり口は、まったく清新なところがない。旧態依然の、裏工作、駆け引き、目眩まし。永田町流政治術は自民の専売ではないのだ。

しかし、盲腸の変身が戦争法案反対の運動に大きな影響を及ぼすはずもない。飽くまで、正攻法で、戦争法に反対しよう。違憲法案は廃案にさせるしかない。それが、平和を維持し、国民の安全を守ることなのだ。政権と与党と維新に、3本の矢を突きつけて、それぞれを正々堂々と批判しよう。
(2015年7月8日)
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事態の変化は目まぐるしい。昨日(7日)民主と維新の幹事長会談では壊れた領域警備法案の共同提案が、本日(8日)の党首会談で元の鞘に収まったという。その上で、「党首会談では、与党に領域警備法案の十分な審議を求めることを確認し、法案が参院送付後60日経ても議決されない場合、衆院で再可決が可能となる「60日ルール」の適用を阻止することでも一致した。維新は7日の幹事長会談で、政府案と対案の採決日程を決めて与党と交渉する提案を行ったが、党首会談では取り上げなかった。」(産経)と報道されている。

それでも、「維新の正体」「維新への批判の必要」の私の見解は変わらない。本日のブログの原稿を訂正することなく、掲載する。

維新対案に異議あり。「諸事態乱立」の事態を憂うる。

政府与党の戦争法案には違憲の烙印が定着した。自民も公明も、違憲の世論に抗いがたいと覚悟せざるを得ない深刻事態。世論の攻撃事態に重要影響事態となって、今や法案の存立危機事態なのだ。

この政府案にとって替わろうと登場したのが維新の対案。明日(7月8日)に国会上程の予定と報道されている。どのような裏工作あっての維新案なのか、あるいはは全く裏の話しはないのか詳らかにしないが、これに振り回されてはならない。この法案の取扱が与党に採決強行の口実を与えることを警戒しなければならない。

維新対案提出の動きは今回が初めてではない。6月中旬にもメディアにその内容が公表され、6月17日の当ブログは、「朝日が報道する維新の『対案』は、政府提案の腐肉にほんのひとつまみの塩を振りかけた程度のもの。塩をかけても腐肉は腐肉。法案違憲の本質はまったく変わらない。維新案はその実質において、憲法の平和条項に対する死の宣告に手を貸すもの」と書いた。

今回の提案は、衆院法制局の官僚の手を煩わせたものだろうが、相当の分量で法案の形を整えている。目を通すだけでも一苦労の煩わしさ。分量は大部だが、合違憲を判断するには維新がホームページでまとめている2頁の要旨を読むだけで十分だろう。結論は以下のとおり。

「維新の対案は政府提案の腐肉に、こってりと胡椒を振りかけたもの。こってり胡椒を振りかけようとも、その下の腐肉は腐肉。法案違憲の本質は変わらない。維新案はその実質において、憲法の平和条項を破壊に導くものである」

議論を次のように整理すべきだろう。
1 「集団的自衛権行使違憲論」は、自衛隊発足以来今日まで長く政府のとってきた解釈であり、憲法学者を含む広範な国民の認識に定着してきた。
2 この「集団的自衛権行使違憲論」は、「武力による個別的自衛権行使合憲論」とセットをなす立論であって、許容限度ぎりぎりの憲法解釈論である。
3 ところが今、「最小限度の限定があれば、集団的自衛権行使を容認する余地がある」、「最小限度の歯止めが明確であれば集団的自衛権行使を可能とする立法が合憲であり得る」という立論が提案されている。
4 しかし、いささかなりとも集団的自衛権行使を容認する余地を認めることは、許容限度ぎりぎりの憲法解釈をはみ出すものであり、「最小限度の歯止めがあることを理由に集団的自衛権行使を可能とする立法案」はすべて違憲であることを明確にしなければならない。
5 また、個別自衛権の名を借りて、自国領域外の武力行使を容認する立論も、集団的自衛権行使違憲の脱法として許してはならない。
6 専守防衛の域を出ない個別的自衛権行使に関する立法について、今政府案の対案として提出する意味はない。基本は現行法で対応は十分であって、現行法を超えて個別的自衛権行使の行動範囲を拡大する立法には、十分立法事実は認めがたく、。

維新は、自らの対案について、「複数の法学者から合憲のお墨付きを得た」という。しかし、私にはこれが合憲とは到底考えられない。また、仮に厳密な意味で合憲の内容であれば、今、そのような法案を対案として国会に提出する意味はない。重要なことは、政府提案の危険な違憲法案を共同で潰すことであって、対案を提出することは敵に塩を送ることになるだろう。

維新の対案では、「存立危機事態」に替えて、「武力攻撃危機事態」(紛らわしいが現行法の「武力攻撃事態」ではない)という新奇のカテゴリーを設定する。この「事態」の定義は、「条約に基づきわが国周辺の地域においてわが国の防衛のために活動している外国の軍隊に対する武力攻撃が発生し、これによりわが国に対する外部からの武力攻撃が発生する明白な危険があると認められるに至った事態(我が国に対する外部からの武力攻撃を除く。)」というものである。

その要点は、「第三国から日本に対する攻撃はないが、アメリカに対する攻撃があった場合」に、その攻撃が「わが国に対する外部からの武力攻撃が発生する明白な危険」と認められれば、自衛隊による武力反撃を可能とするというもの。「我が国に対する急迫不正の侵害が現在する」という国家の正当防衛権行使の要件を具備する必要はないとしているところにある。

「武力攻撃危機事態」が発生すれば、自衛隊の防衛出動が可能となる。「わが国に対する外部からの武力攻撃が発生する明白な危険」の部分に着目すれば個別的自衛権のふくらましのようでもあるが、いまだ「外国の軍隊に対する武力攻撃が発生し」ているのみで我が国への攻撃はないのだから集団的自衛権の行使と捉えるよりほかはない。

定義の文言からも、個別的自衛権を意識した「我が国に対する外部からの武力攻撃があった場合」はわざわざ明示的に除かれているのだから、個別的自衛権行使としての武力行使とは別のカテゴリーと理解すべきであろう。維新は、「専守防衛を徹底」と言い、個別的自衛権行使要件の緩和と主張する如くであるが、「集団的自衛権の行使は認めない」との明言には接していない。ホームページの解説を見る限りでは、「存立危機事態にもとづく集団的自衛権の行使は認めない」というのみである。専守防衛(個別的自衛権の行使)からはみ出した「武力攻撃危機事態」において武力を行使する、と言っているとしか理解できない。

要するに、「安保条約(国連決議ではない)に基づく活動に対する攻撃を要件とする歯止め」「我が国周辺という地域限定の歯止め」「わが国に対する外部からの武力攻撃が発生する『明白な危険』を要件とする歯止め」が、最小限度性を担保しているというのだ。政府案よりは限定的であることを売りにした、やはり集団的自衛権容認論にほかならない。

問題は最小限度性の確保にあるのではない。集団的自衛権行使容認に踏み込むことが問題なのだ。憲法原則は、頑固に墨守しなければならない。その立場からは、解釈の許容限度ぎりぎりの専守防衛論を、これ以上緩める余地のないことを確認しなければならない。こってり胡椒をかけても、所詮腐肉は腐肉。やはり、国民に危険な腐肉を提供してはならない。
(2015年7月7日)

戦争法反対運動の中での「日本民主法律家協会第54回定時総会」

日本民主法律家協会(日民協)は60年安保改定に反対する大国民運動から生まれた。幅広い多くの法律家が、自らの職能の持つ使命感から安保反対の国民運動に参加した。その法律家集団が、「安保条約改定阻止法律家会議」を経て、1961年10月に日民協の設立に至った。協会は、安保闘争の申し子である。

安保闘争が、主権と平和と民主主義の擁護を願う国民的な拡がりを持つものであったことから、日民協は自ずと法律家団体の統一戦線的組織となった。思想的な幅の広さだけでなく、「法律家諸団体の連合組織として、また学者・弁護士・税理士・司法書士・裁判所職員・法務省職員・法律事務所職員など多職能の法律分野で働く人々が参加しているという、他に例のない特色」(「協会案内」から)をもっている。

その「安保闘争の申し子」が、新安保闘争というべき戦争法案反対の国民運動燃えさかる中で、本日第54回定時総会を迎えた。アメリカと日本との関係、支配層の憲法嫌悪、世論と議席数の乖離、民主主義の脆弱さ…、基本的なことがらが60年安保の当時と少しも変わっていないことに驚かざるを得ない。なんと、当時の首相の孫が、現首相という因縁さえもある。悪夢のデジャヴュではないか。

日民協が自らに課してきた主たる課題は、一つが「憲法の擁護」であり、もう一つが「司法の独立」である。その取り組みが憲法分野重視のこともあり、もっぱら司法問題を重視したこともあった。今は、まぎれもなく熱い憲法の季節。

以下が、総会で採択された「壊憲と戦争への道を許さず、国民の力で憲法を守り抜こう」と題する、「戦後70年にあたってー日本民主法律家協会第54回定時総会アピール」である。同アピールは下記の3パラグラフから成っている。
 第1パラグラフで、日本国憲法に内実化されている平和を説いて、戦争法案が違憲であって、それ故に国民の平和への願いを踏みにじるものとして指摘し、
 第2パラグラフで、今や憲法9条だけでなく、あらゆる憲法理念が、安倍政権によって全面的に攻撃されていることを、「壊憲」として指摘し、
第3パラグラフにおいて、戦争法案審議の強行と壊憲の動きに反対する歴史的な国民運動を巻き起こそうと呼びかけている。
 ぜひ、ご一読いただきたい。

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    壊憲と戦争への道を許さず、国民の力で憲法を守り抜こう
1 戦後70年。この節目の年に、この国は再び戦争への道に足を踏み出そうとしています。
 日本は、アジア諸国民2000万人以上、日本人約310万人の尊い命を奪った侵略戦争の悲惨な経験から、再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し、不戦の誓いを持って戦後の国際社会に復帰し、戦争放棄と戦力不保持を規定した憲法9条の下、戦後70年にわたり、海外での武力行使を許さない立場を堅持してきました。
しかし、今国会に提出された安保関連法案(戦争法案)は、戦闘地域を含め世界中どこでも、いつでも、アメリカをはじめとした他国の軍事行動に対し、弾薬や武器の提供などの兵站活動、武器の使用、さらには参戦も、切れ目なくできるようにしたもので、平和国家としての日本の国のあり方を根本から変える戦争法案です。
 憲法9条は、戦争を永久に放棄し、戦力の不保持,交戦権の否認を謳っており、本来、自衛隊の存在を認めることさえ困難です。戦争法案は、憲法9条によって守り抜かれてきた「戦わない」という一線を踏み越えるもので、明らかに憲法違反であり、解釈で憲法9条を壊すことは立憲主義の見地から許されないことはもちろん,70年間戦争を拒否してきた日本国民の平和への意思を踏みにじるものです。

2 安倍政権の政策は、憲法9条の破壊にとどまりません。日本の戦後の制度の根幹を揺るがす重大な政策転換を全面にわたって行おうとしています。
 労働者の権利を壊す残業代ゼロ法案、命と環境を壊す原発推進、暮らしを壊す社会保障大幅縮減、農業破壊のTPP、軍事国家化のみならず国民の知る権利・批判の自由を壊す秘密保護法、国民のための教育権を壊す教育の国家統制、学問の自由・大学の自治を壊す大学管理強化・文系学部圧殺、司法の独立を壊す司法「改革」、法科大学院制度導入に伴う法学研究の破壊、刑事被告人・被疑者の権利を壊し監視社会を作る刑事司法制度の大改悪(盗聴拡大・司法取引導入など)等々の、個別問題としても大きな憲法破壊の動きが同時進行で襲いかかってきています。
 安倍政権は、憲法を頂点とする戦後の制度を「戦後レジーム」と罵倒し、ここから「脱却」することを目標として暴走しています。これらはいずれも憲法壊し、つまり「壊憲」です。

3 安倍政権は、戦争法案の危険性を隠したまま、また、壊憲政策と言うべき幾つもの法案を数に任せて成立を強行しようとしています。
 しかし、国民や国会を無視した安倍政権の反民主主義的態度が国民に大きな不安を抱かせ、国会を大きく揺るがせています。与党の推薦者をはじめ参考人全員が戦争法案を違憲と断じ、憲法研究者や学者が今までにない広がりで廃案を求め、国民運動の共同の輪が広がり、運動に関わったことのない人々も声をあげ始め、多くの地方議会でも反対意見書が採択され、世論調査でも、国民の大多数が反対し、さらに広がりをみせています。また、壊憲政策というべき幾つもの法案に対する反対の声も強まっています。
 延長国会となったこの夏、国民の共同を、より多様に、より広く、より地域に根ざして、大きく発展させ、政権と国会を包囲し、戦争法案を必ず廃案にし、また壊憲政策を頓挫させなければなりません。
 この国が歴史的岐路に立つ今、私たちは、本協会設立の原点である、法律家を結集する結節点としての役割、また、国民各層と共同する役割を深く自覚し、壊憲と戦争への道を許さず、主権者である国民の力を結集して憲法を守り抜くことを決意します。
(2015年7月4日)

文京区議会が戦争法案反対請願を採択ー孤立しているのは自公だ

まずは、下記の請願に目を通されたい。
安全保障法制の関連法案に反対を求める請願
 請願者  文京平和委員会
 紹介議員 板倉美千代
 請願理由
安倍政権は集団的自衛権の行使容認を柱とした「閣議決定」(2014年7月1日)を具体化するための「安全保障法制の関連法案」を国会に提出しました。これは、戦力の不保持や交戦権否認を明記した憲法9条に違反して、海外での武力行使に踏み出すことを可能にするものです。
すなわち、?自衛隊が「戦闘地域」まで行って軍事支援をする、?イラクやアフガニスタンでの治安維持活動などに参加し、武器を使用できるようにする、?集団的自衛権を発動し、他国の戦争にも参戦するなどで、これらはこれまでの「専守防衛」の安保政策の大きな転換点を意味します。よって私たちは、以下のことを強く求めます。
 請願事項
「安全保障法制の関連法案」を廃案にするよう、国に求めること。

6月30日、わが町文京の区議会本会議がこの請願の採択を決議したのだ。戦争法案の違憲を指摘したうえで、曖昧さを残さず、その廃案を求める請願の採択である。拍手を送りたい。

地方自治法第99条は「地方公共団体の公益にかかわる事柄に関して、議会の議決に基づき、議会としての意見や希望を意見書として内閣総理大臣、国会、関係行政庁に提出できる」とさだめる。この請願は文京区議会の意見として、内閣と、衆参両院に提出されることなる。

東京新聞の報道では、「白石議長は、自身の所属する自民党が成立を目指す法案に反対する要望書を送付することに『議会が決めたことですから、きっちり扱わないといけない』と語った」という。

紹介議員の板倉美千代さんは共産党の所属。ブログでもと探したが、見あたらなかったので、代わって金子てるよし文京区議(共産党)のブログを紹介する。決議成立の経過について、次のように解説されている。

■「不採択」の主張は自民・公明だけ
 請願が審議された総務区民委員会は、採決に加わらない委員長を除くと委員は8名(自民1、公明1、未来3、共産2、市民1)です。26日の総務区民委員会で自民・公明の委員は「決して戦争法案ではない」「歯止めがある」と反論しましたが、未来・共産・市民の委員は「憲法違反」と指摘し、採択6・不採択2で「採択すべき」との報告が議長にされていました。

■マスコミも注目「東京」(1日付)が報道
「安保法制関連法案の廃案を求める要望書」が区議会の意思として政府に提出されることが確実になった30日、本会議開催前から党区議団にも取材があり、共産党都委員会や民主党都連への取材も踏まえ、法案に明確に反対の請願採択は“23区では初めて”と注目し、記事を掲載しました。

「未来」とは、正式名称は、「ぶんきょう未来」。「民主、維新、無所属の10人が所属する区議会最大会派」とのこと。結局、自・公が孤立して、本議会では「賛成多数」による採択だった。今は、自公以外は戦争法案に反対の姿勢なのだ。

民主党のベテラン・渡辺まさし区議のホームページの、立派な一文(抜粋)も紹介しておきたい。
特筆すべきは「安保法制案の廃案を求める」請願が採択されたこと。この案件において、地方議会から政府にダメだしを発信できたことはとても意義あることで、まさに区民の「時の声」を反映できたものと嬉しく思っています。
……地球の裏側で自衛隊が武力行使することや、集団的自衛権を行使できるなどということは、どう解釈しても現下の憲法では読み解くことが出来ないと思います。政府は集団的自衛権の行使について「歯止めがある」と強調していますが、国会審議を見る限りそれらも曖昧なままです。これらのことを真摯に受け止めて、どうぞ今後国会においては立法府として、また国権の最高機関としての矜持を示して頂き、間違っても憲法違反となるであろう法案を成立させることのないよう強く望むものです。

6月20日のNHKニュース7が、「安全保障法制について各地の地方議会が次々と国への意見書を議決している」というニュースを報じた。
その集計結果は、
  賛成    3
  反対  181
  慎重   53
である。この数字はなかなかのものではないか。

もっとも、NHKは、「賛成」と「慎重」の各1議会を現場取材して放映したが、「反対」意見を議決した圧倒的多数の議会については、一つも取り上げなかった。このみごとな偏向ぶりが話題を呼んで印象が深い。

今日(7月3日)の赤旗の首都圏欄に、文京区だけでなく、鎌倉市(13対10)と、国立市(12対9)での廃案を求める請願採択の記事が出ている。いずれも、反対した自公が孤立して敗れている。これは、今の世論の動向を良く表した結果だ。

これで、少なくとも、反対決議をした地方議会数は184となった。国会の会期は9月下旬まで。文京区や鎌倉市の成果が他に伝播していくことを期待したい。
(2015年7月3日)

西修参考人意見「強弁」の無力

戦争法案が違憲であることは、既に国民の常識となっている。斎藤美奈子の表現を借りれば、「いまや違憲であることがバレバレになった安保法制」(東京新聞・「本音のコラム」)なのだ。「違憲の法案を国会で成立させてはいけない」という正論も過半の国民の確信だ。大勢決したいま、敢えてこれを合憲と言い繕おうという強弁は、蟷螂の斧に等しい。

そのような蟷螂の役割を勇ましく買って出たのが西修(駒澤大学名誉教授)である。6月22日の安保特別委員会での参考人発言だ。しかし、どんなに勇ましいポーズをとろうとも、蟷螂は所詮蟷螂。その斧をいかに振りかざそうとも、天下の形勢にはそよ風ほどの影響もない。

6月22日参考人意見では、宮?礼壹、阪田雅裕の元内閣法制局長官両名の発言が話題となった。「学者だけでなく、官僚も違憲の見解なのだ」と。西の発言内容はほとんど話題にもならなかった。とはいえ、他にない珍らかなる蟷螂の言である。それなりの注意を払うべきだろう。報道されている限りで、その発言を整理してみたい。

西参考人発言は、次の10項目を内容とするものである。
1 「戦争法案」ではなくて「戦争抑止法案」だと思う。9条の成立経緯を検証すると、自衛権の行使はもちろん、自衛戦力の保持は認められる。
2 比較憲法の視点から調査分析すると、平和条項と安全保障体制、すなわち集団的自衛権を含むとは矛盾しないどころか、両輪の関係にある。
3 文理解釈上、自衛権の行使は、全く否定されていない。
4 集団的自衛権(国連憲章51条)は、個別的自衛権とともに、主権国家の持つ固有の権利、すなわち自然権である。また、両者は不可分であって、個別的自衛権か集団的自衛権かという二元論で語ること自体がおかしな話。
5 集団的自衛権の目的は抑止効果であり、その本質は抑止効果に基づく自国防衛である。
6 我が国は、国連に加盟するに当たり、何らの留保も付さなかった。国連憲章51条を受け入れたと見るのが常識的だろう。
7 個別的自衛権にしろ集団的自衛権にしろ、自衛権行使の枠内にある。国際社会の平和と秩序を実現するという憲法上の要請に基づき、その行使は政策判断上の問題であると思います。
8 政府は、「恒久の平和を念願し」「国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求」などという国民の願いを真摯に受けとめ、国際平和の推進、国民の生命、安全の保持のため、最大限の方策を講ずるべき義務を負っている。
9 国会は、自衛権行使の範囲、態様、歯どめ、制約、承認のありようなどについて、もっと大きな視点から審議を尽くすべきである。
10 今回の安全保障関連法案は、新3要件など、限定的な集団的自衛権の行使容認であり、明白に憲法の許容範囲である、このように思うわけであります。

私の要約は、大きく間違ってはいないはず。ところどころ、テニオハが少しおかしいが、これは、西の発言の原型を尊重しているからだ。以上をお読みになって、はたして蟷螂の斧の威力の有無以前に、そもそも西製斧の形状や素材を認識できるだろうか。主張への賛否や、説得力の有無の判断以前に、主張の筋道や論理性を理解できるだろうか。

論証の対象は、「安全保障関連2法案(戦争法案)の合憲性」「法案の9条との整合性」、少なくとも「違憲性の否定」である。上記10項目がそのような論証に向けての合目的的な立論となっているとはとても考えられない。これを聞かされた自民党・公明党の委員も、さぞ面食らったのではなかろうか。

以上の、理屈らしい理屈を述べようとした部分はきわめて分かりにくい。というよりは、合憲論の論証としてはほとんど体をなしていない。分かり易いのは、西が最後に述べたところである。大意は以下のとおりだ。

「我が国の平和と安全を維持するための安全保障であれば、その目的を達するためにふさわしい方式または手段である限り、国際情勢の実情に即応して適当と認められるものを選ぶことができることはもとよりであって、我が憲法9条は、我が国がその平和と安全を維持するために他国に安全保障を求めることを何ら禁ずるものではないのである。」

これは分かり易い。要するに、「主権国家は平和と安全を維持するために、国際情勢の実情に即応して適当と認められることなら何でもできる」というのである。おそらくは、このあとに、「主権国家が平和と安全を維持するために国際情勢の実情に即応して適当と認められることをすることが違憲となることはありえない」「本法案は、そのような『適当と認められる』範囲内の法律を定めるものだから違憲ではない」ということになるのだろう。要するに、「国を守るためなのだから憲法の字面に拘泥してはおられない」という分かり易く乱暴な「論理」である。この「論理」で前述の10項目を読み直すと、なるほど了解可能である。もちろん、了解可能とは意味内容の理解についてだけ。けっして同感や賛同などできる訳がない。

西の立論では、憲法9条の文言が具体的にどうであるかはほとんど問題にならない。「比較憲法学的に」、一般的な安全保障のあり方の理解や、国際情勢のとらえ方次第で、憲法の平和条項はどうとでもフレキシブルに解釈可能というのだ。およそ、憲法が権力の縛りとなるという発想を欠くものというほかはない。

また、西の主張では、自衛権に個別的だの集団的だのという区別はない。どちらも国家の自然権として行使が可能というのだ。時の政権の判断次第で、我が国の存立のためなら何でもできる。憲法よりも国家が大切なのだから当然のこと、というわけだ。

これはまたなんと大胆なご主張、と驚くほかはない。あからさまな立憲主義否定の立論である。主権者が憲法制定という手続を経て、為政者に対して課した権力行使に対する制約を認めない立場と言ってよい。

立憲主義を認め、9条の実定憲法上の規範性を認めた上で、問題の法案を合憲というには、きわめて精緻でアクロバティクな立論が要求される。西流の乱暴な議論では、どうにもならないのだ。

やはり、自民党は今度も参考人の人選を誤ったようだ。とはいうものの、敢えて蟷螂たらんとする者は他になく、手札は底を突いていたのだろう。西参考人推薦は、与党側にとって合憲論での巻き返しの困難さをあらためて示したというほかはない。
(2015年6月24日)

ああ維新よ、君を泣く。君、死神となるなかれ。

人を助けることは美しい行為だ。しかし、安倍内閣を助けようなどとは醜いたくらみ。平和憲法擁護こそが美しい立派な行為だ。ボロボロの戦争法案の成立に手を貸そうとは、不届き千万ではないか。仲裁は時の氏神という。だが、この期に及んでの維新の動きは、「時の死神」たらんとするものにほかならない。

そもそも、維新とは何ものか。誰もよくはわからない。おそらく当の維新自身にも不明なはず。自民を見限り、期待した民主党政権にも裏切られた少なからぬ有権者の願望が作りだした「第三極」のなれの果て。「自民はマッピラ、民主もダメか」の否定の選択が形となったが、積極的な主義主張も理念も持ち合わせてはいない。あるのは、民衆の意識動向に対する敏感な嗅覚と、自分を高く売り込もうという利己的野心だけ。

しかし、ここに来て大きな矛盾が露呈しつつある。「国民意識環境」の大きな変化が、ポピュリズムと利己的野心の調和を許さない状況を作りだしていることだ。ポピュリズムに徹すれば党の独自性発揮の舞台なく埋没しかねない。さりとて、利己的野心を突出させれば確実にごうごうたる世論の非難を受けることになる。

さらに、維新への世論の支持は急速に低下している。真っ当な良識からの評価は皆無といってよいだろう。議席の数は不相応な水ぶくれ。国会内での存在感も希薄だが、国会の外ではほとんどなんの影響力もない。次の国政選挙では見る影もなくなる公算が高い。「崩壊の危機」という見方さえある。彼らの危機感も相当なものであろう。

そのような折り、危機乗り切りの焦りからか、労働者派遣法改正法案審議での「裏切り」に身を投じた。どうやら、毒をくらわば皿までの勢い。農協法改正法案の「対案」を提出して自公との修正協議を迫っている。そして、いまや窮地に陥っている、戦争法案の救出に手を貸そうというシナリオが見え見えである。

しかし、ここはよく考えた方がよい。自公と組むメリットばかりに目が行っているようだが、それは確実に滅びの道なのだ。権力の甘い腐臭の誘惑の先には、食虫植物の餌となる昆虫の運命が待ち受けている。

我が身を安倍政権と与党に売り込むには、いまがもっとも高価に値を付けることができる時期との打算。しかし、安倍政権に手を差し伸べることは、憲法と平和を売り渡すことであり、そしていまや世論に背を向けることでもある。

戦争法案の違憲性は、既に国民に広く浸透し確信にまでなっている。丁寧に説明すればするほどボロが出てくる。安倍は、丁寧にはぐらかし、丁寧に都合のよい部分だけをオウムのごとくに繰り返してきたが、それでもこの体たらく。いまや、誰の目にも愚かで危険なピエロとなり下がってしまっている。

政府が法案を合憲と強弁する根拠は完全に破綻した。まさしく「違憲法案のゴリ押し」「憲法の危機」の事態が国民の目に明らかとなり、法案撤回を求める国民世論は大きく盛りあがっている。やや反応が鈍かったメディアもようやくにして重い腰をあげつつある。このとき、まさかの伏兵として維新が安倍政権に手を貸そうというのだ。

「維新の党が今国会に提出する安全保障関連法案の対案の骨子が16日、明らかになった。集団的自衛権を使って中東・ホルムズ海峡で機雷を取り除くケースを念頭に、『経済危機』といった理由だけで自衛隊を送ることができないようにする。安倍晋三首相は同海峡での機雷除去に強い意欲を示しており、修正協議になった場合の焦点になりそうだ。対案は来週にも国会に提出する。」(朝日)
政府も与党も大歓迎で協議に応じることだろう。

おそらくは、維新はこう考えている。
「いまこそ、我が党の存在感を示すとき。数の力では自・公が圧倒しているのだから、この法案はいずれ通ることになる。それなら、少しでもマシなものにしておくことで、世論のポイントを稼げることになるはず」

維新は、戦争法案推進勢力と反対勢力との間に立って、「時の氏神」を気取っているのだろう。しかし、朝日が報道する維新の「対案」は、政府提案の腐肉にほんのひとつまみの塩を振りかけた程度のもの。腐肉は腐肉。法案違憲の本質はまったく変わらない。維新案はその実質において、憲法の平和条項に対する死の宣告に手を貸すものである。

維新の諸君よ、鋭敏な嗅覚で世論の法案反対の高まりを見よ。戦争法の成立に手を貸すことが、国民の大きな怒りを招き自らの滅亡に至ることを直視せよ。だから、こう一声かけざるを得ない。「君、死神となるなかれ」と。
(2015年6月17日)

砂川で 立憲主義の 浮き沈み

溺れる者は藁をもつかむ。藁をつかんだところで詮ないことを知りつつもの人の性。昨日(6月15日)の記者会見で、長谷部恭男が語っている。政府が戦争法を合憲という論拠の説明についてである。「藁にもすがる思いで砂川判決を持ち出してきたのかもしれませんが、藁はしょせん藁、それで浮かんでいるわけにはいきません。」

砂川判決は、あれは藁なのか。藁に過ぎないのだが、そのほかに戦争法案を合憲というすがるべき根拠がなにもなかったから、やむなくこれにすがったというのだ。言い得て、まことに妙である。

ところが、政府はこの藁すらも捨てた。すがっても詮ないことを思い知らされたからだ。「衆院平和安全法制特別委員会は15日、一般質疑を行った。中谷元(げん)防衛相は、1959年の最高裁の砂川事件判決が集団的自衛権の行使容認を合憲だと判断する根拠になるかどうかについて『直接の根拠としているわけではない』と明言した」。藁とすがった砂川判決を捨てて、「中谷氏は『(根拠は)あくまでも72年の政府見解の基本的論理だ。砂川判決を直接の根拠としているわけではないが、砂川判決はこの基本的な論理と軌を一にするものだ』と答え、政府が個別的自衛権の行使を認めた72年見解が根拠との考えを示した」(以上、毎日)。

おや、72年見解の論理に説得力がなかったから、砂川判決を持ちだしたのではなかったの? いずれにせよ、「72年政府見解」は集団的自衛権行使違憲の説明でしかない。こりゃダメだ。同見解は藁よりか細い。いや、そもそも水に浮かない。

念のために、72年政府見解の末尾の部分を引用しておこう。
「わが憲法の下で武力行使を行うことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られるのであって、したがって、他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されないといわざるを得ない。」

ところで、今朝の東京新聞が紹介している、長谷部恭男・小林節共同記者会見のボルテージはたいしたものだ。お二人の、憂い・怒り・使命感・心意気が痛いほど伝わってくる。まことにその言やよし。とりわけ、戦争法が成立した場合の対応についての発言には驚いた。感嘆するしかない。

長谷部:国政選挙で新しい政府を成立させ、いったん成立したこれらの法律を撤回することを考えるべきだ。
小林:次の選挙で自民党政権を倒せばよい。最高裁判決を待つより、よほど早い。

「安保ハンタイ。安倍を倒せ」なのだ。

この会見に刺激されて、ひねってみたのが次の戯れ歌。

 藁は藁 所詮頼りにならねども 大船なければ すがるやむなき

 砂川のよどみに浮かぶわらひとつ つかみかねてぞ 安倍は沈まん

 高村から岸田にそそぐ砂川の 中の谷にて枯れる安倍(あんばい)

 砂川で 立憲主義の 浮き沈み

 藁捨てて すがるは維新橋の下

 自と公と維新もろとも 泥の下

(2015年6月16日) 

高村正彦さん、他人には見えないトンデモナイものが見えるそうですね。そりゃ飛蚊症。早く眼科に行かなくちゃ。

戦争法案への世論の動向をはかるバロメータとして重要なものの一つが、地方紙の姿勢とその紙面構成である。第2次安倍政権発足直後の96条先行改憲の動きを止めたものが、2013年5月憲法記念日前後の地方紙各紙の圧倒的な批判の社説であった。

中央各紙の姿勢は、ほぼ色分けが固定している。地方紙の動向は、世論をはかる指標として意味が大きく、「地元」選出の議員に影響大なるものがある。だから、機会あるごとに地方紙を読むように心がけている。この感覚は、東京育ちにはつかみにくい。また、有力な地方紙・ブロック紙をもたない大阪人にもわかりにくいのではないだろうか。

本日、たまたま神奈川新聞を読んだ。一面トップ、紙面半分以上のスペースを割いて、「安保法案 自民OBも反対」「藤井氏『自公インチキ』」の記事。

「山崎拓・自民党元副総裁、亀井静香元金融担当相らかつて自民党に所属した議員や元議員の重鎮4人は12日、日本記者クラブで会見し、集団的自衛権行使を可能とする安全保障関連法案に反対の考えを表明した。山崎氏は「地球の裏側で後方支援活動をすると憲法違反になる行動を引き起こす。自衛隊と相手方が殺し合う関係になるのは間違いない」と述べた。

ほかに藤井裕久元財務相と武村正義元官房長官が出席した。山崎氏は「問題点が多々あり、十分な審議を尽くすべきで、今国会での成立に反対だ。平和国家としての国是は大いに傷つく」との声明も発表した。‥‥

共同通信の配信記事として、全国の地方紙を大きく飾っているはず。もっとも、トップ扱いの判断や関連記事は、神奈川新聞独自のもの。この記事は、神奈川同様、各「地元」で大きな話題となるだろう。保守系先輩議員からの忠言を、現役の議員諸氏はどう聞くのだろうか。

首都の地方紙・東京新聞は一面左上隅に、「自民OBら 反対表明」の見出しと4人の写真を掲げ、記事は3面にまわした。比較的扱いは小さい。その代わり、社会面のトップに、「砂川事件弁護団再び声明」と記者会見を大きく取り上げた。これまたすばらしい。時宜を得た記事で、これも戦争法案廃案を求める運動に大きく力を与えるもの。

この声明の最後は、「安倍首相や高村正彦副総裁の言説が無価値であり、国民を惑わすだけの強弁にすぎないことはもはや明白であるから、一刻も早く態度を改め、提案している安保法制(改正法案)を撤回して、憲法政治の大道に立ち返られんことを強く要求するものである。」と結ばれている。

記事は、「最高裁判決には集団的自衛権行使の根拠はない」「合憲主張『国民惑わす強弁』」という大見出し。
他国を武力で守る集団的自衛権の行使容認を柱とする安全保障関連法案について、政府が1959年の砂川事件の最高裁判決を根拠に合憲と主張しているのに対し、判決時の弁護団の有志5人が12日、東京都内で会見し、「裁判の争点は駐留米軍が違憲かに尽きる。判決には集団的自衛権の行使に触れるところはまったくない」とする抗議声明を出した。5人はみな戦争を知る白髪の八十代。「戦争法制だ」「国民を惑わすだけの強弁にすぎない」と批判し、法案撤回を求めた。

「白髪の八十代有志5人」の会見の写真が若々しい。坂本修、神谷咸吉郎、内藤功、新井章、山本博の各弁護士。

会見の冒頭。新井章弁護士は眼鏡を外し、鋭いまなざしを子や孫世代の記者たちに向けた。そして「事件の弁護活動をした私らは裁判の内容にある種の証人適格を持っている」と法律家らしく語り始めた…。

あとは省略するが、「集団的自衛権について砂川判決から何かを読み取れる目を持った人は眼科病院に行ったらいい」というフレーズが紹介されている。そう。飛蚊症(ひぶんしょう)という目の病気がある。ないものがあるように見えるのだ。トンデモナイものが、あたかも飛んでいるように見える。高村正彦さん、誰にも見えないものがあなたにだけは見えているようだ。そりゃたいへんだ。早めに眼科の診察を受けることをお勧めする。
(2015年6月13日)

憲法学者「9条違反」ー「違憲ショック」「論戦 潮目変わる」「審議大きな転換点」

私は、昨日(6月6日)「那須南九条の会」で戦争法案の違憲性について講演。本日(6月7日)は、川口で少人数の「憲法カフェ」に出席して質疑に応じた。多くの人が、憲法の平和主義が壊れるのではないかと危機感を募らせていることを痛感するとともに、戦争法案の違憲性の確信や反撃への手応えも感じている。

とりわけ、6月4日(木)衆院憲法審査会に参考人として出席した憲法学者3人が、口を揃えて「戦争法案は違憲」と言った「事件」の波紋は大きい。この話題が巷に満ちている。朝日川柳に次の句が掲載されている。
  呼んどいて「異見」はいらぬというシンゾウ(林武治)

世の衝撃は大きく、政権の評判はがた落ちだ。法案審議について議論の潮目が変わる予感がする。法案審議についての潮目の変化は、当然に安倍内閣支持の世論の潮目の変化ともなる。

本日の東京新聞朝刊には「論戦 潮目変わる」の大きな見出し。そして、「違憲ショック」「各論から『違憲立法』へ」である。朝日も、昨日の「憲法解釈変更 再び焦点」「安保法制『違憲』、攻める野党」に引き続いて、第2面に「参考人の指摘 重みは」とする大きな解説記事を掲載し「審議大きな転換点」と締めくくっている。毎日も、「学者批判続々」「安保法制 政権に不信感」だ。

とりわけ、東京新聞のボルテージが高い。
「衆院憲法審査会に参考人として出席した憲法学者三人全員が安全保障関連法案を『違憲』と言明したのを受け、衆院特別委員会の審議の最大の焦点が、法案の中身から法案の違憲性に移った。『違憲ショック』で法案の正当性が根幹から揺らいだことで、政府・与党は防戦を強いられた」というリード。

「長谷部恭男早大教授は、他国を武力で守る集団的自衛権の行使を解禁した憲法解釈変更に基づく安保法案について『従来の政府見解の論理の枠内では説明できず、法的安定性を揺るがす』と指摘。小林節慶応大名誉教授(民主党推薦)と笹田栄司早大教授(維新の党推薦)も『違憲』と言い切った」と経過を要約のうえ、
「五日の特別委は、専門家三人の『違憲』発言を受けて審議の潮目が変わった。それまでは、どういう状況なら集団的自衛権の行使が許されるのかの基準に議論が集中していたが、法案の違憲性が中心になった」と解説している。

「政府側は『憲法解釈は行政府の裁量の範囲内』(中谷元・防衛相)と反論。だが、この説明は『政府が合憲と判断したから合憲だ』と主張するのに等しい」「安倍政権は憲法解釈変更の閣議決定に際し、一内閣の判断で憲法解釈を変え、憲法が国家権力を縛る「立憲主義」をないがしろにしたと批判された経緯もあるのに、今回の学者や野党側の「違憲」との指摘も、正面から受け止めようとはしなかった」と手厳しい。

衆院憲法審査会の与党推薦参考人は、当初佐藤幸治(京大名誉教授)が予定されていたとされている。佐藤の日程の都合がつかなくて、与党は内閣法制局に適任者の人選を依頼し、内閣法制局から長谷部の推薦を受けたと経過が報じられている。もし、当初予定の佐藤幸治の日程に差し支えなく佐藤が審査会に出席していればどうなっただろうか。おそらくは、長谷部以上に辛辣に断固として法案の違憲を論じたにちがいないのだ。

その、話題の佐藤幸治が昨日(6月6日)1400人の聴衆に語っている。毎日の報道が大きい。「憲法改正:『いつまでぐだぐだ言い続けるのか』 佐藤幸治・京大名誉教授が強く批判」というタイトル。

「日本国憲法に関するシンポジウム『立憲主義の危機』が6日、東京都文京区の東京大学で開かれ、佐藤幸治・京大名誉教授の基調講演や憲法学者らによるパネルディスカッションが行われた。出席した3人の憲法学者全員が審議中の安全保障関連法案を「憲法違反」と断じた4日の衆院憲法審査会への出席を、自民党などは当初、佐藤氏に要請したが、断られており、その発言が注目されていた。

基調講演で佐藤氏は、憲法の個別的な修正は否定しないとしつつ、『(憲法の)本体、根幹を安易に揺るがすことはしないという賢慮が大切。土台がどうなるかわからないところでは、政治も司法も立派な建物を建てられるはずはない』と強調。さらにイギリスやドイツ、米国でも憲法の根幹が変わったことはないとした上で『いつまで日本はそんなことをぐだぐだ言い続けるんですか』と強い調子で、日本国憲法の根幹にある立憲主義を脅かすような改憲の動きを批判した」

注目されるのは、毎日が紹介するパネルディスカッションでの議論の内容。
「違憲とは言えないかもしれないが、憲法の精神には反していることを示す『非立憲』という言葉が話題になった。これまで、特に政治家の行動を戒めるために使われてきた言葉という。樋口陽一・東大名誉教授は、憲法改正の要件を定める憲法96条を改正し、国会発議のハードルを下げる『96条改正論』や、政府・与党による安保法制の提案の仕方そのものが『非立憲の典型』と批判した。」

これは面白い。2013年の憲法記念日を中心に、メディアに「立憲主義」の用語があふれた。安倍内閣の96条先行改憲論が立憲主義に反すると批判の文脈でだ。立憲主義の普及が、96条改憲論に本質的なとどめを刺した。今度は、「非立憲」。7・1閣議決定が「非立憲」。戦争法の提案自体が「非立憲」。必ずしも、明確に立憲主義違反とは言えない場合にも「非立憲」。気軽に、手軽に「非立憲」。安倍政権の非立憲を大いにあげつらおう。

東京新聞2面に、「安保国会 論点進行表」が掲載されている。10項目の各論点について、先週の「第1週の議論」に続いて、「第2集(1?5日)の議論」がまとめられている。ここには安保特別委員会だけでなく、憲法審査会の参考人発言も要領よく書き込まれている。これは優れものだ。来週の進行が楽しみになってきた。
(2015年6月7日)

違憲訴訟で闘う試みー「安倍内閣・集団的自衛権行使容認違憲訴訟」

6月1日の東京新聞「こちら特報部」が、「違憲訴訟で闘う市民」を紹介している。もちろん、安倍政権の集団的自衛権行使容認の閣議決定に対する抗議の意思表示。個人での訴訟が少なくとも5件あるという。さらに、閣議決定と戦争法の双方を俎上に載せる集団訴訟を、松坂市長を先頭とする450人が準備中だとも紹介されている。小林節さんが、弁護団長引き受けの予定なのだそうだ。

この記事以来、何人かの方から問合せを受けた。「今度は違憲訴訟やらないんですか」「東京ではそんなことを企てているグループはないんですか」。そして、「もし、私がひとりで原告になろうと決意したら、代理人になっていただけますか」という方も。みんな、なんとかしなければならない。何かをやりたい、という雰囲気なのだ。

東京新聞の記事も、私に連絡をしてきた方たちも、こんな風に考えているのだと思う。
「今は憲法が大きな危機にある。その元凶である安倍政権に立法府が歯止めをかけることが難しそうだ」「それなら、三権の残る一つである司法に期待するしかない」「司法こそは、憲法の番人ではないか」「立法府や内閣は数の力を恃むところだが、司法は数を数えるところではない。純粋に違憲・違法の判断をしてくれるはず」「司法はたったひとりの市民の訴えにも耳を傾けるところではないか」

また、「何よりも、憲法改正の手続を僣脱して、閣議決定で違憲の宣言とは何ごとか」「今国会で進行しているのは、法律で憲法を覆えす試みではないか」「主権者をないがしろにした安倍クーデターだ」「国民世論が国会にも、内閣にも反映していないのだ」「このような事態に裁判所が無力であってよいはずはない」
そのように言いたいことが、とてもよくわかる。しかし、それでも提訴は難しいことになる。

実務法律家は、このような市民の司法への期待を、素人故の見当外れの願望と一蹴してはならない。少なくとも憲法論としてはこれらの見解の真っ当さは明白である。これを司法の場で実現する方法を真剣に検討すべきが筋だろう。

とは言うものの、私にはそのような知恵も能力もない。違憲訴訟立ち上げの運動にまったく参加していないし、東京にそのような運動があるかすらも知らない。この際、違憲訴訟をやってみようという積極的な元気も余裕もない。せいぜい、ブログを書き続けるくらいしか能がない。

もう、24年もまえのことになる。1000名を超える市民が原告になって、東京地裁に市民平和訴訟を提起した。湾岸戦争に戦費を支出するな、掃海部隊を派遣するな、そして原告各自に慰謝料1万円ずつの支払いを求めた。典型的な集団違憲訴訟である。この提訴が、この種訴訟のスタイルを作ったのではないだろうか。私はその弁護団事務局長だった。

1991年3月4日、百人を超える原告が、みんな手に手に一輪ずつの花をもって地裁に集合し提訴した。以来、法廷や集会には必ず、花を持参した。ゼッケンやワッペンにはうるさい裁判所も、さすがに花の持ち込みまでは咎めなかった。

この訴訟の請求の趣旨は、当初以下のとおりだった。
1、被告国は、湾岸協力会議に設けられた湾岸平和協力基金に対し90億ドル(金1兆1700億円)を支出してはならない。
2、被告国は、自衛隊法100条の5第1項についての「湾岸危機に伴う避難民の輸送に関する暫定措置に関する政令」(1991年1月29日公布政令第8号)に基づいて自衛隊機及び自衛隊員を国外に派遣してはならない。
3、被告国は、原告らそれぞれに対し各金1万円を支払え。
4、訴訟費用は被告の負担とする。

後に、「掃海部隊派遣差し止め」が加わり、90億ドルが現実に支出され掃海部隊が派遣されたあとは、「支出行為・派遣行為の、違憲・違法確認請求」に切り替えた。自衛隊機派遣は計画が消え、取り下げている。

市民平和訴訟の形式は、2004年に各地で取り組まれたイラク派遣差し止め訴訟に受け継がれた。

名古屋地方裁判所への提訴の請求の趣旨は以下のとおりである。
1 被告は、『イラクにおける人道復興支援活動及び安全確保支援活動の実施に関する特別措置法』により、自衛隊をイラク及びその周辺地域並びに周辺海域に派遣してはならない。
2 被告が『イラクにおける人道復興支援活動及び安全確保支援活動の実施に関する特別措置法』により、自衛隊をイラク及びその周辺地域に派遣したことは、違憲であることを確認する。
3 被告は、原告らそれぞれに対し、各金1万円を支払え。
4 訴訟費用は被告の負担とする。

市民平和訴訟で請求の根拠としたものが、憲法前文中に謳われている平和的生存権、そして納税者基本権である。いろんな工夫を凝らしてはみたが、裁判所を説得することはできなかった。この種の違憲訴訟は難しい。現行の訴訟制度の中で、憲法論まで到達することが容易ではない。

何を違憲の対象として特定するのか、被告の選定、原告適格、被侵害利益、訴えの利益、請求権の根拠、どのような請求の趣旨を立てるか…。裁判を土俵に乗せるまでが至難の業なのだ。さらに、土俵上でしっかり組んだと思っても、スルリと体をかわされる。そのうっちゃり技が統治行為論である。

裁判所の頭の中には、東京地裁伊達判決を覆した砂川事件大法廷判決の法理が離れなかったのだろう。最後はこのようにして違憲判決回避という裁判所なのだ。「高度に政治性の高いテーマについては、一見きわめて明白に違憲無効と認められない限り、違憲かどうかの法的判断を下すべきではない」という統治行為論である。つまりは、できるだけ国会や内閣という「民主的機関」の意思を尊重して司法は軽々に違憲判断をすべきではない、というのである。一見きわめて明白な憲法の番人の職務放棄である。

それでも、次々と新しい挑戦者が現れるだろう。イラク訴訟がその典型で、名古屋高裁判決では立派な成果を挙げている。東京と大阪で、安倍靖国参拝違憲訴訟が進行中だが、ここにも新しい試みがある。これまではこの種の国家賠償請求では、請求の根拠として原告の宗教的人格権侵害を挙げていた。いま、平和的生存権の侵害も併せて強力に主張されている。

工夫の積み重ねがやがては力になっていく。新しい挑戦者に期待したい。
(2015年6月3日)

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