澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

維新対案に異議あり。「諸事態乱立」の事態を憂うる。

政府与党の戦争法案には違憲の烙印が定着した。自民も公明も、違憲の世論に抗いがたいと覚悟せざるを得ない深刻事態。世論の攻撃事態に重要影響事態となって、今や法案の存立危機事態なのだ。

この政府案にとって替わろうと登場したのが維新の対案。明日(7月8日)に国会上程の予定と報道されている。どのような裏工作あっての維新案なのか、あるいはは全く裏の話しはないのか詳らかにしないが、これに振り回されてはならない。この法案の取扱が与党に採決強行の口実を与えることを警戒しなければならない。

維新対案提出の動きは今回が初めてではない。6月中旬にもメディアにその内容が公表され、6月17日の当ブログは、「朝日が報道する維新の『対案』は、政府提案の腐肉にほんのひとつまみの塩を振りかけた程度のもの。塩をかけても腐肉は腐肉。法案違憲の本質はまったく変わらない。維新案はその実質において、憲法の平和条項に対する死の宣告に手を貸すもの」と書いた。

今回の提案は、衆院法制局の官僚の手を煩わせたものだろうが、相当の分量で法案の形を整えている。目を通すだけでも一苦労の煩わしさ。分量は大部だが、合違憲を判断するには維新がホームページでまとめている2頁の要旨を読むだけで十分だろう。結論は以下のとおり。

「維新の対案は政府提案の腐肉に、こってりと胡椒を振りかけたもの。こってり胡椒を振りかけようとも、その下の腐肉は腐肉。法案違憲の本質は変わらない。維新案はその実質において、憲法の平和条項を破壊に導くものである」

議論を次のように整理すべきだろう。
1 「集団的自衛権行使違憲論」は、自衛隊発足以来今日まで長く政府のとってきた解釈であり、憲法学者を含む広範な国民の認識に定着してきた。
2 この「集団的自衛権行使違憲論」は、「武力による個別的自衛権行使合憲論」とセットをなす立論であって、許容限度ぎりぎりの憲法解釈論である。
3 ところが今、「最小限度の限定があれば、集団的自衛権行使を容認する余地がある」、「最小限度の歯止めが明確であれば集団的自衛権行使を可能とする立法が合憲であり得る」という立論が提案されている。
4 しかし、いささかなりとも集団的自衛権行使を容認する余地を認めることは、許容限度ぎりぎりの憲法解釈をはみ出すものであり、「最小限度の歯止めがあることを理由に集団的自衛権行使を可能とする立法案」はすべて違憲であることを明確にしなければならない。
5 また、個別自衛権の名を借りて、自国領域外の武力行使を容認する立論も、集団的自衛権行使違憲の脱法として許してはならない。
6 専守防衛の域を出ない個別的自衛権行使に関する立法について、今政府案の対案として提出する意味はない。基本は現行法で対応は十分であって、現行法を超えて個別的自衛権行使の行動範囲を拡大する立法には、十分立法事実は認めがたく、。

維新は、自らの対案について、「複数の法学者から合憲のお墨付きを得た」という。しかし、私にはこれが合憲とは到底考えられない。また、仮に厳密な意味で合憲の内容であれば、今、そのような法案を対案として国会に提出する意味はない。重要なことは、政府提案の危険な違憲法案を共同で潰すことであって、対案を提出することは敵に塩を送ることになるだろう。

維新の対案では、「存立危機事態」に替えて、「武力攻撃危機事態」(紛らわしいが現行法の「武力攻撃事態」ではない)という新奇のカテゴリーを設定する。この「事態」の定義は、「条約に基づきわが国周辺の地域においてわが国の防衛のために活動している外国の軍隊に対する武力攻撃が発生し、これによりわが国に対する外部からの武力攻撃が発生する明白な危険があると認められるに至った事態(我が国に対する外部からの武力攻撃を除く。)」というものである。

その要点は、「第三国から日本に対する攻撃はないが、アメリカに対する攻撃があった場合」に、その攻撃が「わが国に対する外部からの武力攻撃が発生する明白な危険」と認められれば、自衛隊による武力反撃を可能とするというもの。「我が国に対する急迫不正の侵害が現在する」という国家の正当防衛権行使の要件を具備する必要はないとしているところにある。

「武力攻撃危機事態」が発生すれば、自衛隊の防衛出動が可能となる。「わが国に対する外部からの武力攻撃が発生する明白な危険」の部分に着目すれば個別的自衛権のふくらましのようでもあるが、いまだ「外国の軍隊に対する武力攻撃が発生し」ているのみで我が国への攻撃はないのだから集団的自衛権の行使と捉えるよりほかはない。

定義の文言からも、個別的自衛権を意識した「我が国に対する外部からの武力攻撃があった場合」はわざわざ明示的に除かれているのだから、個別的自衛権行使としての武力行使とは別のカテゴリーと理解すべきであろう。維新は、「専守防衛を徹底」と言い、個別的自衛権行使要件の緩和と主張する如くであるが、「集団的自衛権の行使は認めない」との明言には接していない。ホームページの解説を見る限りでは、「存立危機事態にもとづく集団的自衛権の行使は認めない」というのみである。専守防衛(個別的自衛権の行使)からはみ出した「武力攻撃危機事態」において武力を行使する、と言っているとしか理解できない。

要するに、「安保条約(国連決議ではない)に基づく活動に対する攻撃を要件とする歯止め」「我が国周辺という地域限定の歯止め」「わが国に対する外部からの武力攻撃が発生する『明白な危険』を要件とする歯止め」が、最小限度性を担保しているというのだ。政府案よりは限定的であることを売りにした、やはり集団的自衛権容認論にほかならない。

問題は最小限度性の確保にあるのではない。集団的自衛権行使容認に踏み込むことが問題なのだ。憲法原則は、頑固に墨守しなければならない。その立場からは、解釈の許容限度ぎりぎりの専守防衛論を、これ以上緩める余地のないことを確認しなければならない。こってり胡椒をかけても、所詮腐肉は腐肉。やはり、国民に危険な腐肉を提供してはならない。
(2015年7月7日)

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