澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

肥田舜太?医師の証言に感動した元裁判官の新聞投稿

昨日(3月29日)の毎日新聞「みんなの広場」欄に、元裁判官・森野俊彦さんの投書が掲載されている。「肥田舜太郎さんの遺志生かせ」という表題。全文を転載させていただく。

「広島原爆で被爆し、医師として被爆者医療に尽力した肥田舜太郎さんが亡くなられた。私は裁判官時代、原爆症認定訴訟に関与し、肥田さんの証言録に接した。自らの被爆体験を出発点として、長きにわたる被爆者の治療経験と、海外の文献研究に基づく証言内容に強い感動を覚えた。

 裁判官退官後、肥田さんの講演会があることを知り、会いに行ったことがある。訴訟に関与した者ですと名乗った私に、肥田さんは「よくぞ会いに来られた」と言われ、私の手を力強く握られた。

 肥田さんはその後も被爆者全員の救済実現のために貴重な提言を続けられた。残念なことに原爆症認定問題は司法判断と行政認定との間の溝が埋まらないままだ。仄聞するところ、被爆者側が相応の歩み寄りを示したものの、国側は従前の認定手法にこだわっているという。原爆投下から70年以上経過した今こそ、肥田さんの言葉に真摯に向き合い、全面的な解決を図るべきではなかろうか。」

森野俊彦さんは、私と司法修習同期生(23期)で裁判官として任官された方。定年退官の後に現在大阪で弁護士をされている。親しい間柄ではないが、身近な懐かしさを覚える。

森野さんのこの投書の動機を忖度してみたい。いま、「忖度」のイメージが悪いから、「考察」でも「推理」でも、あるいは「推測」でも「推量」でもよい。

森野さんは、「裁判官も感動する」ことをみんなに知ってもらいたいと考えたのだろう。少なくとも、「感動する裁判官もいる」ということを。裁判官とて、血の通った生身の人間だ。なかには、熱い血をたぎらした裁判官もいるのだ。投書の内容からすると、森野さんは法廷で直接に、肥田さんの謦咳に接したということではないようだ。他の法廷で作成された「肥田俊太郎証言録」を読んで感動したのだ。民事訴訟では、書証として提出された証言録が法廷で読み上げられることはない。森野さんは、裁判官室であるいは自宅に持ち帰って読みふけったのだろう。

その証言録には、「ヒバク医師肥田舜太?自らの被爆体験を出発点として、長きにわたる被爆者への治療経験と、海外の文献研究の成果」が記録されており、これが森野裁判官を強く感動させたのだ。

おそらく、森野さんはこう言いたいのだと思う。あるいは知ってほしいのだ。「法廷でのあなたの声に、懸命に耳を傾ける裁判官もいるのですよ」ということを。そして、退官後も、その感動を持ち続け、その感動に基づいて行動し発言する裁判官もいるのだと。

同じ朝刊の紙面に、「高浜原発再稼働へ」「大阪高裁 稼働停止仮処分覆す」の記事が出ている。社会面に、住民サイドの弁護団長として、井戸謙一さんが高裁決定を強く批判している。井戸さんも、元裁判官。金沢地裁の裁判長として担当した事件で、志賀原発2号機運転差し止め認容判決を出したことで知られている。裁判官として原発訴訟を担当し、そのときの知見から反原発の立場をとるようになった。退官後弁護士となってからは、住民サイドでの原発訴訟をライフワークとしておられる。

家永教科書裁判の東京地裁杉本判決(1970年)を起案したことで知られる中平健吉さんも、退官後は著名な人権派弁護士として活躍された。「人間裁判」と言われた、朝日訴訟第一審判決(1960年)を起案した小中信幸裁判官も、退官後は朝日訴訟判決の意義を語り続けた。当事者の熱意は、裁判官を動かし得る。そのような例は、探せばいくらもあるだろう。

森野さんは、私に語りかけているのではないか。「担当裁判官に共鳴し感動してもらえるような、そんな語りかけを工夫した訴訟活動をしなさいよ」「裁判官を味方につけるようでなくては、人権の擁護も憲法の理念尊重も絵に描いた餅」。その忖度、多分当たっていると思う。
(2017年3月30日)

「被爆者である私は、日本政府の姿勢に心が裂ける思いです。」

世の中には、落ちついて耳を傾けると「なるほどそういうことだったのか。よく聞いてみて初めてわかった」と納得できることがある。しかし、その反対に、聞けば聞くほど「さっぱり分からん。やっぱりおかしい」と思うこともある。日本政府の核兵器禁止条約に反対という理屈は、「いくら聞いても分からない」「聞けば聞くほど、やっぱりおかしい」の典型というほかはない。

この日本という国の政府は、確かに私たち日本の国民が作ったはずの政府なのだが、本当はだれの政府なのだろうか、そしてどこを向いているだれのための政府なのだろうか。何とも釈然としない。その思いは、被爆者の熱い訴えと、政府を代表しての軍縮会議代表部大使の冷たいスピーチを対比させるときに、ますます募ることとなる。

ニューヨークの国連本部で、昨日(3月27日)から「核兵器禁止条約」制定に向けての交渉会議が始まっている。核兵器の存在を違法とし、法的に禁止しようという試みである。その会議の冒頭、日本原水爆被害者団体協議会(被団協)を代表して、藤森俊希事務局次長が壇上から訴えた。「1945年8月6日、米軍が広島に投下した原爆に被爆した一人です」と自己紹介してのことである。以下、その内容を抜粋して紹介する。

 被爆者は「ふたたび被爆者をつくるな」と国内外に訴え続けてきました。被爆者のこの訴えが条約に盛り込まれ、世界が核兵器廃絶へ力強く前進することを希望します。

 被爆した時の私は、生後1年4カ月の幼児でした。母に背負われ病院に行く途中、爆心地から2・3キロ地点で母とともに被爆しました。私は、目と鼻と口だけ出して包帯でぐるぐる巻きにされ、やがて死を迎えると見られていました。その私が奇跡的に生き延び、国連で核兵器廃絶を訴える。被爆者の使命を感じます。米軍が広島、長崎に投下した原爆によって、その年の末までに21万人が死亡しました。キノコ雲の下で繰り広げられた生き地獄後も今日3月27日までの2万6166日間、被爆者を苦しめ続けています。

 同じ地獄をどの国のだれにも絶対に再現してはなりません。私の母は、毎年8月6日子どもを集め、涙を流しながら体験を話しました。辛い思いをしてなぜ話すのか母に尋ねたことがあります。母は一言「あんたらを同じ目にあわせとうないからじゃ」と言いました。母の涙は、生き地獄を再現してはならないという母性の叫びだったのだと思います。?

 ねばり強い議論、声明が導き出した結論は「意図的であれ偶発であれ核爆発が起これば、被害は国境を超えて広がり」「どの国、国際機関も救援の術を持たず」「核兵器不使用が人類の利益であり」「核兵器不使用を保証できるのは核兵器廃絶以外にあり得ない」ということでした。多くの被爆者が、万感の思いをもって受け止めました。

 核兵器国と同盟国が核兵器廃絶の条約をつくることに反対しています。世界で唯一の戦争被爆国日本の政府は、この会議の実行を盛り込んだ決議に反対しました。被爆者で日本国民である私は心が裂ける思いで本日を迎えています。しかし、決して落胆していません。会議参加の各国代表、国際機関、市民社会の代表が核兵器を禁止し廃絶する法的拘束力のある条約をつくるため力を注いでいるからです。法的拘束力のある条約を成立させ、発効させるためともに力を尽くしましょう。

核廃絶こそは民意だ。広島・長崎、そして第五福竜丸の悲劇に戦慄した日本国民は、全国民的な規模で原水爆禁止運動を巻き起こし、切実に核兵器のない世界の実現を願い、行動を積み重ねてきた。今回の国連を舞台とした核兵器禁止条約交渉会議も、その成果の一端ではないか。被爆者の発言に表れたこの思いは、日本国民全体のものと言ってよい。

ところが同じ日に、日本政府を代表する立場で、高見沢将林軍縮会議代表部大使は、核兵器禁止条約への交渉不参加を表明する演説をしたのだ。棄権ではない、明確な反対の立場。被爆者の心を逆撫でにし、「心が裂ける」までにすることを承知の上でのことである。

日本政府は、昨年以来このような立場で一貫してきた。その理由とするところに耳を傾けてみるのだが、およそ理解し難い。

「交渉には核軍縮での協力が不可欠な核兵器保有国が加わっておらず、日本が『建設的かつ誠実に参加することは困難』」、「核保有国抜きの禁止条約は実効性がないばかりでなく、『核兵器国と非核兵器国、さらには非核兵器国間の分裂を広げ、核なき世界という共通目標を遠ざける』」あるいは、「核軍縮と安全保障は切り離せない」「禁止条約がつくられたとしても、北朝鮮の脅威といった現実の安全保障問題の解決に結びつくとは思えない」「実際に核保有国の核兵器が一つも減らなくては意味がない」「日本は核拡散防止条約(NPT)強化や核実験全面禁止条約(CTBT)早期発効に努力する」などなど…。理解可能だろうか。

外務行政のトップである岸田文雄外相(広島一区選出!!)も本日(28日)午前、東京での記者会見で、「我が国の主張を満たすものではないことが明らかになった。日本の考えを述べたうえで今後この交渉に参加しないことにした」「核兵器国と非核兵器国の対立をいっそう深めるという意味で逆効果にもなりかねない」と弁明したという。さて、はたしてこれも理解できるだろうか。

政府も国民と同じく、核廃絶あるいは核軍縮という目標を共通にしているはずという前提でものを考えるから、理解ができないのかも知れない。「核は、安全保障に有効だから、どこの国にも保有の権利がある。」「核あってこそ平和が保たれるのだから、核あってもよい。いや、核はこの世にあった方がよい」。そう政府が考えているのなら、政府の発言はストンと腹に落ちるのだ。

核保有国が、易々と核兵器違法という条約に賛成するはずはない。いやいやながらも、賛成せざるを得ない条件を作っていくしかない。今回の条約交渉は、そのような努力の一つである。「核保有国が賛成しないから実効性を欠く」「だから反対」では、百年河清を待つに等しい。この日本政府の姿勢では、核兵器の違法化、核廃絶の目標に一歩も進まない。

昨年12月国連総会で、核兵器禁止条約の制定を目指す交渉会議開催が決議された。その決議を受けて、昨日から交渉会議が始まり、日本はこれに不参加の態度をとったのだ。昨年12月決議の提案者となったのは、オーストリアなど核兵器を保有しない50余りの国々。決議での賛否の内訳は、賛成113、反対35、棄権13という票差だった。被爆の歴史をもち今なお被爆者を抱える日本は、提案国にならないばかりか、賛成にもまわらなかった。棄権ですらなく、核廃絶を求める世界の世論に敢えて敵対する立場をとったのだ。日本の政府は、核廃絶を求める国際運動の妨害者として批判されている。

ある被爆者が怒りを込めてこう語っている。
「核保有国に抗議するのではなく、アメリカの側に立って非核保有国と敵対するという恥知らずな姿勢に怒りを感じる。安倍首相は“自主憲法を”といって憲法改定まで主張しているが、どこに自主性があるのか。広島出身の岸田外相は市民の前に出てきて説明すべきだ」

「核兵器禁止条約」制定に向けての交渉会議の前半スケジュールは3月27日から31日まで。その後5月ごろに最初の条約案を作成し、6月15日から7月7日までの後半の交渉スケジュールで条約を作り上げる見通しだという。核保有国や、日本政府の妨害に負けることなく、世界の反核勢力が力強い成果を生み出すことを期待して、見守りたい。
(2017年3月28日)

古稀を迎えた第五福竜丸ー負の遺産忘却の潮流に負けずに

本日(3月12日)は、江東区夢の島で公益財団法人第五福竜丸平和協会の理事会。私は協会の監事として、理事会にも評議員会にも出席する立場。もっとも、私の実務はたいしたことはない。理事・評議員の役員全員が核廃絶の理念に共鳴したボランティア。当然のことのごとく、まったくの無償での活動に頭が下がる。

席上、2016年4月から17年2月まで11か月の第五福竜丸展示館の入場者数が、98,389人と報告された。6年前の東日本大震で入館者数が激減した。いま、震災前までの回復までには至らないものの、ようやく年間入館者数10万人台突破確実の見込みとなった。

関連して、小・中学校の先生たちに、原水禁運動や核廃絶問題についての関心が薄れているのではないかとの議論があった。本当にそうなのだろうか。原発と核兵器との関連や、核拡散問題は大きな社会的関心事となっていると思うのだが。

子供も大人も、多くの人に第五福竜丸展示館に足を運んでいただき、歴史の生き証人である巨大な船体を眺めながら、充実したパネル展示やガイドの説明で、1954年3月1日のできごとの意味をお考えいただきたいと思う。

なお、第五福竜丸展示館の公式ホームページは以下のとおり。
http://d5f.org/

さて、東京都から第五福竜丸展示館運営の委託を受けているのが公益財団法人第五福竜丸平和協会。その協会が、「都立第五福竜丸展示館ニュース 福竜丸だより」を発行している。最新号が、2017年3月1日付の398号(3・4月号)。8頁建ての充実した内容。

今号トップは、「70年を記念して 福竜丸をつくる」という、今年の展示内容の紹介の記事。
「この3月、第五福竜丸は建造から70年を迎えました。
展示館の開館にあたり東京都は『木造船での近海漁業は現在でも行われていますが、当時はこのような船で遠くの海まで漁を求めて行ったのです……遠洋漁業に出ていた木造船を実物によって知っていただく」と展示の趣旨を掲げています。
 70年は、人でいえば古稀です。木造船は本来20年前後の耐用年数ですが、『原水爆による惨事をふたたび起こさないように(都の展示趣旨)』との市民の願いをこめて、本造船の実物の保存が実現したのです。
 今年は木造船・第五福竜丸を発信していく企画展示をすすめます。現在の『この船を知ろう~建造70年の航跡』につづき6月からは、『第五福竜丸・木造船をつくる』(仮称)と題して、どのように船が造られるのかをたどります。建造の地和歌山県古座(串本町)、練習船改修の旧強力造船(三重県伊勢市)などから資料の提供をうけ、船大工、研究者の協力で船造りの工程や船大工の技、大工道具などを展示します。
          *
 「福竜丸だより」は来る7月号で400号を迎えます。展示館開館時の「福竜丸ニュース」「平和協会ニュース」に代わり1978年4月に「都立第五福竜丸展示館ニュース」を冠して刊行されました。福竜丸と来館者、展示館の模様や協会の取り組みをたどる貴重な積み重ねの記録です。今号は、「3・1ビキニ記念のつどい」でのフランスの核実験と被害について、講演録を収録。これからも皆さんと第五福竜丸をつなぐ「たより」として編集したいと思います。

その「たより」7頁に、「ワシントンからの通信(1)」が掲載されている。連載第1回のタイトルが「オバマの広島訪問と謝罪問題」。執筆者名は、私には馴染みのない、樋口敏広という方。肩書に、「ジョージタウン大学外交学院助教」とある。若い人なのだろう。

ジョージタウン大学といえば、著名な私立大学。ビル・クリントンの卒業校であり、現在「下院議員16名及び、上院議員6名が同大学の卒業生」だとのこと。とりわけ、外交関係への影響は飛び抜けて大きいようだ。

その大学の学生、つまり「将来のアメリカ外交を担う若者」の核に対する意識についての報告が興味深い。

「昨年5月27日、バラク・オバマが現職の米国大統領として初めて公式に広島を訪問した。当時、アメリカでは国論を二分する大統領選が行われていたが、主要政党とメディアはこの訪問を好意的に評価した。しかし、それは主に日米和解の証として捉えられ、原爆投下に対する謝罪の必要性が正面から論じられることは皆無であった。オバマの広島訪問の「成功」は、むしろ原爆投下に関するアメリカの『神話』、すなわち原爆が終戦をもたらし、現在の日米友好につながったとの通説を一層強化したと言えよう。
では、将来のアメリカ外交を担う若者は原爆投下をめぐる歴史と記憶をどのように考えているのか。昨秋、私は大学一年生向けのゼミでオバマの広島訪問をとりあげた。驚いたことに多くの学生は謝罪問題を原爆投下の必要性や人道的影響といった従来の論点だけでなく、加害者としての歴史を否定する現在の世界的な潮流の一環として論じていた。ある学生は、日米両国が負の遺産を常に直視し謝罪し続けない限り、加害と犠牲の上に成りたっている自国を盲目的に肯定する思想が若者の間で台頭する、とその危険を指摘した。
 事実、アメリカでも先住民征服と奴隷制の過去と現在まで続く構造的暴力の存在を忘却し、自国を無条件に礼賛する歴史修正主義が高まっている。アメリカの多様性の象徴として登場したオバマ大統領が原爆投下に対する謝罪を避けることで国民統合を図ったとすれば、それは誠に皮肉だと言えよう。
負の遺産を否定し忘却しようとする動きが国内外で強まる中、その遺産をどのように展示し継承するかは、第五福竜丸展示館をはじめとする各資料館に共通する課題ではなかろうか。(ひぐちとしひろ ジョージタウン大学外交学院助教)」

短い文章だが、歴史修正主義蔓延の指摘だけでなく、その克服の希望をも語っている点で読み応えを感じさせ、連載2回目以後が楽しみではないか。

「たより」の定期購読については、以下のURLを開いていただきたい。
http://d5f.org/contribute.html
(2017年3月12日)

学術・科学の分野におけるアベ政権との対峙

昨日(3月7日)、日本学術会議の「安全保障と学術に関する検討委員会」が、「軍事的安全保障研究に関する声明(案)」をとりまとめて発表した。その全文を、末尾に掲載する。この案は、3月24日の学術会議幹事会での議論を経て、4月13日から開かれる総会で確定するものと見られている。

このような声明案が検討されるきっかけは、アベ政権の軍事大国化政策である。具体的には、2015年度に防衛省が創設した「安全保障技術研究推進制度」である。初年度3億円の予算規模で始まり17年度には110億円に膨張して話題と憤激を呼んだあの制度。研究者を金で締め上げ、政権に身をすり寄せる矜持のない者についてだけ、紐付きの研究費を恵んでやろうという発想である。

学術会議は、この防衛省の紐付き研究資金公募制度開始を機に、新たな声明案作成の作業に着手した。当初は、学術会議の方針が軍事研究容認に傾くのではないかと懸念されたが、結局はアベ政権のこの卑劣な手口にたいする科学者集団の危機感が、今回の声明案に結実したと言ってよい。その内容を吟味してみたい。

日本学術会議は、1948年7月公布の日本学術会議法に基づいて、1949年1月に設立された公法人である。同法は前文を持ち、「日本学術会議は、科学が文化国家の基礎であるという確信に立って、科学者の総意の下に、わが国の平和的復興、人類社会の福祉に貢献し、世界の学界と提携して学術の進歩に寄与することを使命とし、ここに設立される」と宣言している。教育基本法などと並んで、戦後民主主義の息吹にあふれたもの。平和憲法の学術科学版でもある。

人間に幸福をもたらすはずの科学が、いびつな発達を遂げて、数多くの残虐な兵器をつくり出した。1945年8月6日の広島で明らかにされたとおり、人類は遂に人類自身を消滅させるに足りる科学力を手にしたのだ。間違った科学は人類を破滅させる。

学術会議は、1950年4月の総会で、科学者が戦争に協力した戦前の反省に立って法の目的を具現すべく、「戦争を目的とする科学の研究には絶対従わない決意の表明(声明)」を総会で決議している。その決意のみずみずしさが今読む者の胸を打つ。「科学者としての節操」の言葉が輝いている。

  戦争を目的とする科学の研究には絶対従わない決意の表明(声明)
 日本学術会議は,1949年1月,その創立にあたって,これまで日本の科学者がとりきたった態度について強く反省するとともに科学文化国家,世界平和の礎たらしめようとする固い決意を内外に表明した。
? われわれは,文化国家の建設者として,はたまた世界平和の使徒として,再び戦争の惨禍が到来せざるよう切望するとともに,さきの声明を実現し,科学者としての節操を守るためにも,戦争を目的とする科学の研究には,今後絶対に従わないというわれわれの固い決意を表明する。
? 昭和25年4月28日 日本学術会議第6回総会

学術会議は、さらに重ねて67年の総会でも下記の声明を出している。今こそ、読んで噛みしめるべき内容ではないか。

   軍事目的のための科学研究を行わない声明
 われわれ科学者は、真理の探究をもって自らの使命とし、その成果が人類の福祉増進のため役立つことを強く願望している。しかし、現在は、科学者自身の意図の如何に拘らず科学の成果が戦争に役立たされる危険性を常に内蔵している。その故に科学者は自らの研究を遂行するに当って、絶えずこのことについて戒心することが要請される。
 今やわれわれを取りまぐ情勢は極めてきびしい。科学以外の力にょって、科学の正しい発展が阻害される危険性が常にわれわれの周辺に存在する。近時、米国陸軍極東研究開発局よりの半導体国際会議やその他の個別研究者に対する研究費の援助等の諸問題を契機として、われわれはこの点に深く思いを致し、決意を新らたにしなければならない情勢に直面している。既に日本学術会議は、上記国際会議後援の責任を痛感して、会長声明を行った。
 ここにわれわれは、改めて、日本学術会議発足以来の精神を振り返って、真理の探究のために行われる科学研究の成果が平和のために奉仕すべきことを常に念頭におき、戦争を目的とする科学の研究は絶対にこれを行わないという決意を声明する。
?昭和42年10月20日第49回総会

以上の理念が、長く日本の科学者の倫理と節操のスタンダードとされ、これに則って大学や公的研究機関の研究者は軍事研究とは一線を画してきた。当然のことながら、日本国憲法の平和主義と琴瑟相和するもの。ところが、いま、この科学者のスタンダードに揺るぎが生じている。言うまでもなく、アベ政権の平和憲法への攻撃と軌を一にするものである。

問題は深刻な研究費不足であるという。政権や防衛省が紐をつけた軍事研究には、予算がつく。アベ政権の平和崩しは、ここでもかくも露骨なのだ。

さらに大きな問題は、大西隆現会長ら政権に近い筋が、「1950年、67年の声明の時代とは環境条件が異なって専守防衛が国是となっているのだから、自衛のための軍事研究は許容されるべき」「デュアルユースなら許されてよい」などと発言していることだ。

「デュアルユース」とは、技術研究を「民生用」と「軍事用」に分類し、「軍事用研究」も「民生」に役立つ範囲でなら許容されるというもの。ところが、「軍事用研究」の中に「専守防衛技術」というカテゴリを作ると、「専守防衛のための軍事技術は国是として許容されるのだから、民生に役立つかどうかを検討するまでもない」となる。結局は限りなく、許容される軍事技術の研究分野を広げることになる。

そのような経過で、今軍事と科学の関係に関する、3番目の声明案がとりまとめられたのだ。この声明案は、学術会議が1950年と67年に出した過去の2声明にについて、「科学者コミュニティーの戦争協力への反省と再び同様の事態が生じることへの懸念があった」と指摘のうえ、「軍事的安全保障研究」は学問の自由や学術の健全な発展と緊張関係にあるとして、過去の「2つの声明を継承する」と明記した。

私は、学術会議が科学者の総意をこの内容の声明案に結実させたことを高く評価したい。過去の二つの声明の継承を明記した上、防衛装備庁の「安全保障技術研究推進制度」(2015年度発足)を、名指しで批判している。今後は、この声明の精神を具体化していくこととなろう。

ここにも重要なアベ政権との対峙の運動がある。
(2017年3月8日)
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       軍事的安全保障研究に関する声明(案)
日本学術会議が1949年に創設され、1950年に「戦争を目的とする科学の研究は絶対にこれを行わない」旨の声明を、1967年には同じ文言を含む「軍事目的のための科学研究を行わない声明」を発した背景には、科学者コミュニティの戦争協力への反省と、再び同様の事態が生じることへの懸念があった。われわれは、大学等の研究機関における軍事的安全保障研究が学術の健全な発展と緊張関係にあることをここに確認し、上記2つの声明を継承する。
 科学者コミュニティが追求すべきは、何よりも学術の健全な発展であり、それを通じて社会からの負託に応えることである。学術研究がとりわけ政府によって制約されたり動員されたりしがちであるという歴史的な経験をふまえて、研究の自主性・自律性が担保されなければならない。軍事的安全保障研究では、研究の期間内および期間後に、研究の方向性や秘密性の保持をめぐって、政府による研究者の活動への介入が強まる懸念がある。
 防衛装備庁の「安全保障技術研究推進制度」(2015年度発足)では、将来の装備開発につなげるという明確な目的に沿って公募・審査が行われ、外部の専門家でなく職員が研究中の進捗管理を行うなど、政府による研究への介入が著しく、学術の健全な発展という見地から問題が多い。むしろ必要なのは、科学者の自主性・自律性が尊重される民生分野の研究資金の一層の充実である。
 研究成果は、時に科学者の意図を離れて軍事目的に転用され、攻撃的な目的のためにも使用されうるため、研究の入り口で研究資金の出所等に関する慎重な判断が求められる。大学等の各研究機関は、施設・情報・知的財産等の管理責任を有し、自由な研究・教育環境を維持する責任を負うことから、軍事的安全保障研究と見なされる可能性のある研究について、その適切性を技術的・倫理的に審査する制度を設けるべきである。学協会等において、それぞれの学術分野の性格に応じて、ガイドライン等を設定することも求められる。
 研究の適切性をめぐっては、学術的な蓄積にもとづいて、科学者コミュニティにおいて一定の共通認識が形成される必要があり、個々の科学者はもとより、各研究機関、各分野の学協会、そして科学者コミュニティ全体が考え続けて行かなければならない。科学者を代表する機関としての日本学術会議は、そうした議論に資する知見を提供すべく、今後も率先して検討を進めて行く。

核をもてあそぶ者の言い分と思惑

今宵は、クリスマスイブ。キリスト教世界だけではなく、全人類が平和というプレゼントを待ち望んでいる。しかし、いま世界は憎悪と諍いに満ちている。「世界がぜんたい幸福にならないうちは、個人の幸福はあり得ない」という詩人の直感のとおり、この世に平和がない限り、人々の幸福の実現はない。その平和は、いま急速に遠のいている印象が強い。とりわけ、核という絶対悪が、存在感を増している。各国為政者それぞれの愚かな言い分が、もしかしたら世界を破滅に追いやるかも知れないのだ。

☆まずは、愚かなトランプ(次期米大統領)の言い分はこんなところだ。

 「世界は、あるべき核に関する良識を持ち合わせていない。核に関する良識が世界に浸透するいつの日か先の先まで、米国は核能力を大いに強化・拡大しなければならない。

 世界の現状を冷静に見つめれば、核が不要な時代は遠い先のことだ。前任のオバマは、就任早々プラハ演説で『核なき世界』を掲げたが愚かなことだ。さらに任期切れ間近になって、被爆地・広島を訪問して核軍縮を訴えたが、そんなことが平和にも米国の安全にもつがりはしない。私は同じ愚を繰り返すことはしない。

 何よりも優先すべきは米国の安全だ。そのためには、核能力の強化・拡大が不可欠なことは分かりきったこと。民主党政権が安閑としている内に、ロシアに比較して米国の核開発計画は後れをとっているではないか。これはよいことではない。米政府はこうしたことを許すべきではない。核軍拡でロシアに後れをとってはならない。

 ロシアは、米国のミサイル防衛(MD)システムによって迎撃されない核ミサイルの開発・配備を進める考えを強調しているではないか。それなら、米国は、ミサイル防衛(MD)システムをより高度なものとし、ロシアのミサイル防衛システムによって迎撃されない核ミサイルの開発・配備を進めなければならない。

 そのような発想は、止めどのない核軍拡の競争を招くという批判もあるが、軍拡競争になってもいいじゃないか。米国は、どんな国にも核能力強化競争で負けることはない。どんな局面でも必ず優位に立って見せる。以上が、一昨日(12月22日)のツィッターと昨日(23日)MSNBCニュース番組で私が語ったことのあらましだ。

 もっとも、大きな声では言えないが、核軍拡の理由は実はそれだけじゃない。核開発も、核兵器運搬手段の製造も、米国の巨大重要産業だ。核軍縮は景気の後退と失業の増大をもたらす。仮想敵国との緊張はなくてはならないし、テロの脅威が持続することも大切だ。私が大統領でいる限り、国内経済を活性化するために、核軍拡はどうしても必要な政策なのだ。」

☆あの油断ならぬプーチンの言い分はこんなところだ。

 「ロシアは飽くまでも平和を願う立場だ。世界最強の米軍と争う考えはない。だから、自国の資産を費やす軍拡に引き込まれるような愚かなことはしない。アメリカの次期政権と友好的な関係を築くことも大歓迎だ。

しかし、現実の米ロ関係は甘いものではない。アメリカとの軍拡競争は、何もいま始まったことではなく、MD整備のために米国がABM(弾道弾迎撃ミサイル)制限条約から離脱した2002年からのことで、全面的にアメリカに責任がある。

そのような現実を踏まえれば、自国の防衛のためには安閑としてはおられない。一昨日(12月22日)、「戦略核の3本柱の強化」を命じたところだ。3本柱とは、ロシアの核戦力を新しいレベルに引き上げる必要性に応えるための、大陸間弾道ミサイル(ICBM)、戦略爆撃機、核搭載原子力潜水艦による核攻撃手段のことだ。米国が配備を進めているミサイル防衛(MD)システムに対抗するための措置であり、このわれわれのシステムは、米国主導のMDよりはるかに効果的なのだ。

アメリカがMDを整備すれば、ロシアはこれを破る核攻撃力を構築する。アメリカのMDが進歩すれば、こちらもかならずさらに進歩して打ち負かす。アメリカは核能力の開発競争ではどこにも負けないと言っているか、ロシアも負けてはおられないのだ。だから、核軍拡競争の泥沼に陥りたくはないが、どうなるかはアメリカ次第だ。」

☆冷戦の負の遺産として、米ロ両国は今も多数(米9000余、ロ13000)の核弾頭保有を公言している。外務省のホームページには、2001年12月現在のSTART Iに基づく義務履行完了時点で、米国の戦略核弾頭保有数は5949発、ロシアは5518発であるという。そこから、核軍縮の進展が止まっている。

両国ともに、自国の安全のために、相手国に対抗せざるを得ないという「理屈」を振りかざしている。両国ともに、相手国を上回る「戦略核兵器の戦闘能力増強」なければ、自国の防衛は危ういという。これでは、永久核軍拡路線のスパイラルを抜け出すことができない。まさしく、核のボタンを握る大国の為政者が、正気を失っている事態だ。

米ロ両国に限らない。5大国(米・ロ・英・仏・中)が同じ理屈だ。イスラエルも、北朝鮮も、インド・パキスタンも同様だ。それぞれの国の為政者が、「邪悪な敵からの自国の安全を守る」として、核をもてあそんでいる。しかも、唐突な核をめぐる米ロ両大国首脳の危険な発言。

さて、クリスマスイブである。神を信じる者は、核なき世界の実現を祈るがよい。神を信じぬ者は、反核の世形成を決意するしかない。
(2016年12月24日)

池田眞規さんを悼む

池田眞規さんが亡くなられた。11月13日のこと。本日(11月16日)が通夜。明日告別式がある。享年88。つい最近まで、そんなお歳とは見えない壮健な活躍ぶりだった。そして常に明るく、周囲を励ます人でもあった。今は、ご冥福を祈るばかり。

以前、事務局長・会長を務めた日本反核法律家協会の機関誌、「反核法律家」に「人生こぼれ話」を連載しておられた。昨年秋号に、その第6話「忘れっぽい人間に原爆の記憶の継承は大丈夫でしょうか?」が掲載されている。

その冒頭の文章が次のとおり。
「個々の『人の死』は相続によって継承されます。しかし、『人類の死』には相続はありません。核兵器を造った少数の人間、戦争の開始を決定した少数の人間、戦争の開始を阻止しなかった多数の人間、これらの人間の仕業の総仕上げが核戦争です。
核戦争になると『人の種』は地球上から消えてなくなります。その結果に至るすべてが人間の仕業である以上、人間の判断で『核兵器も戦争もない世界』を実現することは可能なはずです。だがそれは容易ではありません。何故なら、原爆被害の忘却、核による巨大な利得、核大国米国の軍事基地など、大きな障害があるからです。」

この文章は、続いて親鸞と浄土真宗の歴史を教訓として、「闘い続けることによる原爆の記憶の承継」を論じている。本論はともかく、『個々の人の死』と『人類の死』とを対比して、前者の扱いが、あまりに淡泊な印象を受ける。この頃、眞規さんは既に「自分の死」を予期し、受容していたのだろうか。自分の死は受容しえても、『原水爆による人類の死』を受け容れがたいとする池田さんの思いを、私も相続し継承しなければらないと思う。

眞規さんとの最初の出会いは、私が司法修習生になったばかりのころ。同期で作る青年法律家協会の企画として、何人かの先輩弁護士を呼んで、弁護士の生きがいやあり方などを語ってもらった。その中の一人として、まだ弁護士になって日の浅い眞規さんがいた。

長沼や百里の経験を聞きたいとしてお呼びしたものだが、その点のお話しの印象はない。眞規さんは、あの独特の語り口で、冒頭にこう言った。「弁護士とは、資本という汚物にたかるギンバエである」。どぎつい言い方が印象的だが、弁護士の卵たちに対して、「弁護士としての理念をもて」「理念なき弁護士は、自ずと資本の手先になりさがる」「弁護士という存在は客観的にそういうものだ」「意識的に自分を律することなければ、流されてしまうぞ」という警告と受けとめた。その後、私も弁護士となって、眞規さんの後輩として「プライド捨てたギンバエ」にはならぬよう、気をつけながら歩み始めた。

私が弁護士になって20年目。1991年に湾岸戦争が起きた。日本政府(海部内閣)は、戦地に掃海部隊を派遣し、90億ドル(1兆2000億円)の戦費を支出しようとした。平和的生存権と納税者基本権を根拠に、これを差し止めようと「ピースナウ・市民平和訴訟」と名付けた集団訴訟が実現した。東京では1100人を超える人々が原告となり、80名ほどの弁護団が結成された。私が弁護団事務局長を務め、団長は正式に置かなかったが、明らかに眞規さんが「団長格」だった。

東京地裁に訴状提出後、担当裁判長(後に最高裁裁判官となった涌井紀夫判事)から 「訴状に貼付すべき印紙が不足しているのではないか。原告弁護団の手数料計算方法に疑義がある」という指摘を受けた。裁判所の考え方を文書で示していただきたいと要望したところ、ファクスが届いた。これがなんとも素敵なものだった。

本件の係争にかかる経済的利益を差し止め対象の支出金額である1兆2000億円とし、これを訴額として1人あたりの手数料を算出して、 原告の人数を乗ずるという算定をすべきだという。

驚くなかれ、この算定方法では訴状に貼付すべき印紙額は3兆4000億円(当時の司法総予算の15年分)になる。 最高額の印紙(10万円)で貼付して、東京ドームの天井にも貼りきれない。

私と眞規さんとで、手を叩いて喜んだ。さっそく記者会見を開き、これは当時格好の話題となった。それまで、この訴訟に目もくれなかったすべてのマスメディアが、俄然注目し社説を書いた。天声人語も、余録も取り上げた。

その時の眞規さんの思い出はそれだけではない。眞規さんは、自ら書証の整理担当をかって出た。第1回期日以前に、1000点を超える甲号証を整理して提出している。本来なら事務局長の私の仕事なのだが、眞規さんの仕事にのめり込む姿勢に驚いた記憶が鮮明である。

もう一つ。下記は「法と民主主義」2003年11月号に掲載された、佐藤むつみ編集長の「とっておきの一枚」という連続インタビュー、池田眞規さんの巻である。「楽しきコスモポリタン 憲法九条を連れて」と標題されている。
ご供養に、この記事を引用させていただく。

 池田先生は弁護士になって四〇年。この一〇年が一番充実した楽しい仕事が出来たという。弁護士になるまで病気をしたり風早八十二先生の事務所を手伝っていたりちょっと寄り道をして、一八期、七五才になる。ここ二〇年、先生は全然年を取らず髪も真っ黒。アジア集団安全保障共同体構想を語る時、コスタリカのことを語る時、ほとばしる思いが凛々と伝わってくる。独特のテンポののんびりとした口調にだまされてはいけない。人を食ったような語り口は昔のNHKの子ども番組「チロリン村とクルミの木」の渋柿じいさんみたいだ。素朴な土のにおいが濃厚にする。
 私の事務所は東京四谷、池田先生とは同じご町内。時々ばったりとお会いする。これがただじゃすまない。コスタリカに行く前の日に会った時など「コスタリカはすごいよ。あんたも行きなさい。あんな小さな国が戦争放棄してるんだ。俺たちも学ばなくちゃ。」と遠足に行く前の子どもみたいである。うれしいな、うれしいな。アジア集団安全保障構想の話しの時は悲劇だった。遅れた昼食を取っているとそこに現れた池田先生「ふっふっ」と私のテーブルにくる。「朝鮮半島と日本と中国が共同体を作る。みんな非核宣言をする。俺は昔からこう言ってたんだ。あんたはどう思う。」私はご飯が食べたいの。どう思うって言われたってね。いい加減に聞いていると「あんたもう俺の話を聞きたくなくなったな」とギロリと威嚇する。これで嫌われたかなと思っていたら本人はすっかり忘れている。
 池田眞規先生は一九二八年に韓国の大邱で生まれ釜山で育った。兄一人姉三人の末の次男坊である。父佐忠は天草出身の事業家で釜山の港湾建設事業を取り仕切っていた。豪放磊落な自由人で目端の利く面白い人物だった。メキシコから石油を輸入しようとしたり、蔚山(ウルサン)と山口県の油谷町に港を作り新航路開発事業を計画したり、何とも闊達である。山本五十六連合艦隊司令官とお友達で、真珠湾攻撃の前日、旗艦長門から山本が書いた書を送ってもらたりしている。
 マキちゃんは小さいとき引っ込み思案の少年で、たまにしか会わない父親に恥ずかしくてあいさつもできなかった。中学四年終戦間近の三月、マキちゃんは明治大学付属の専門学校造船科に進むために最後の関釜連絡船に乗って上京。東京は大空襲で焼け野原だった。八月玉音放送を聞く。何のことだかわからなかった。教授が泣くのをみて負けたんだと思った。翌日丸の内の交通公社で釜山行きの切符を手に入れマキちゃんはさっさと学校をやめ釜山に帰ってしまう。仙崎から出る船に予科練の制服借りて復員兵になりすまして乗船、無事帰宅。「まさちゃんが帰ってきた」みんなびっくりした。
 マキちゃん一七才。コルト六連発を尻ポケットに突込んで毎日デモをみたり、引揚日本人の世話会長だった父親の仕事を手伝ったりしていた。一一月父親がCIAにつかまる。アメリカ軍にワイロを渡して日本人を守ってくれと接待した容疑。二四時間以内の追放命令、身の回りのものをリックにつめてすぐに引き揚げ船に乗った。油谷町の広大な土地でマキちゃんは農業でもしようと思っていた。ところが「バカでも入れる学校がある」と従兄弟から勧められ「まさ、行ってこい」の父の一声でマキ青年は熊本語学専門学校に入学。そこでマキ青年は東洋哲学の俊英玉城康四郎先生に出会い、哲学を学ぶ。一年結核で休み四年かかって専門学校を卒業、また従兄弟に勧められ九州大学に進学することとなる。
 五〇年マキ青年は九州大学法学部に入学する。入学したらあまりに授業がつまらなくてやめようかと思ったが、法律学科から政治学科に移り何とか留まった。そしてマキ青年は左翼の洗礼を受け学生運動に邁進する。ところが結核が再発、中野の組合病院で手術を受けることになる。大学は取れていた単位で五三年に卒業した。父親も死亡し経済的にも大変な療養生活だったが、マキ青年はどんなときにも落ち込まない。今もそうである。ものにこだわらない楽天性は父親譲りである。
 病院を退院した時、風早事務所で事務員を募集しているから行ってみたらと進められる。行ってみると風早先生は九州大学の恩師具島兼三郎先生の師であった。人生の巡り合わせは不思議なもの。池田青年に「君は弁護士になってわしの手伝いをしろ」と風早先生の命。風早事務所で弁護修習、六六年から弁護士となる。風早事務所の大番頭として約一五年間、勤める。
 弁護士になると、何も知らずにうっかりと「地獄の百里弁護団」に入り、事務局を押しつけられ、これを二〇年勤める。訴訟活動はもちろん大衆的裁判闘争の運動を引っ張る要でもあった。池田先生は「生きた憲法九条の平和の思想」を百里の農民の地をはう戦いのなかで血肉とする。土の匂いはここから生まれたのかも知れない。
 百里裁判と平行して、日本被団協に押しかけて、「被爆者の望むことは、何でもやります」と誓うそそっかしさ。原爆を裁く国民法廷運動も楽しくやり、一九八九年には国際反核法律家協会のハーグでの創立総会に参加。日本での反核法律家運動にも関わるようになる。九一年に国際反核法律家協会(IALANA)の呼びかけで始まった「世界法廷運動」が日本では国民的な大運動となり、九六年国際司法裁判所のすばらしい「勧告的意見」に結実。九九年ハーグ市民社会会議に参加し、その平和アピールでは公正な世界秩序のための第一原則として「各国議会は、日本国憲法第九条のような、政府が戦争を禁止する決議を採択すべき」とまで言わしめたのである。
 しかし国内では憲法九条は改悪の危機。二〇〇〇年池田先生らは軍隊を捨てた国コスタリカに出かけるのである。名カメラマン池田先生が撮った軍隊廃止を宣言した亡フィゲーレス大統領夫人のカレン女史の写真がある。とてもいい。先生とカレン女史との関係がそこに出ている。日本にお客様を呼ぶとき池田先生は成田に迎えに行き日本にいる間中一緒に行動する。そして成田まで送る。この熱い心を「幸せはささやかなるを極上とする」妻ゆきさんがかたわらで支えているのである。
 「ボクは人にいつも恵まれるの。すばらしい人が現れて運動を支えてくれる。すごいよ」

池田眞規
1928年 韓国大邱に生まれる
1953年 九州大学法学部卒業
1966年 弁護士登録・百里裁判・被爆者運動に没頭。
1990年 日本反核法律家協会初代事務局長。
2016年 逝去(惜しまれつつ)

(2016年11月16日)

似た者同士、トランプ・アベの「日本核武装化新時代?」

敬愛するドナルド・トランプ次期大統領閣下。
貴国の従属的同盟国の総理・アベでございます。

大統領選の結果判明のその瞬間まで、私ども官邸は閣下を当選の見込みない泡沫と決めこんで、貴国の次期大統領はヒラリー・クリントン氏と予定した行動をとっておりました。これは、ワタクシの無能な部下の愚行とご寛恕いただきたく、非礼をお詫びするための拝謁の機会を得たくご連絡するとともに、併せて厳粛に属国並みの忠誠を誓約申しあげます。

思えば、ワタクシと閣下とは、人種差別の心情や反知性の粗暴な人格において、また反リベラルの右翼思想においても、排外的なナショナリストとしても、似た者同士と申しあげてよろしいかと存じ、僭越ではありますが、頗る親近感をいだいております。ホンネのところで、これほどぴったりと価値観を共有する同盟国の首脳は他にないとの思いを強くしているところでございます。

閣下同様ワタクシも、従来の保守・中道政権が国民から飽きられたことを奇貨として、右翼を基盤に政権を獲得したのでございます。政権の支持基盤が極端に右傾化しましたから、ワタクシもリベラル派からは悪評噴出して「私の首相ではない」「私たちの政権ではない」「アベ政治を許さない」と悪評さくさく、反発は今なお根強いところでございます。とりわけ、ワタクシの政権になって以来、ヘイトスピーチ・ヘイトデモ・ヘイトクライムが、社会に蔓延いたしました。これも、閣下の場合と兄弟相和するものとして、親近感を強くする所以のひとつなのでございます。

そのような思いから、属国の身をかえりみず、多少はお役に立つべきことを申しあげたいと存じます。

今、閣下は、合衆国大統領への就任を目前として頗る緊張のご様子とお見受けいたします。しかし、ナニ、ご心配には及びません。ワタクシごときに日本国首相が務まるのです。文字通り浅学非才、人格低劣、政治的見識皆無。単なる「右翼の軍国主義者」に過ぎないワタクシにおいてです。閣下に大統領職が務まらぬはずはありません。政策の立案・実行は、すべてしかるべき官僚が行うのですから、御輿の上の木偶人形が緊張したり心配したりの必要はございません。トップというものは、しゃべって物議を醸す生身よりは、しゃべらぬ木偶の方がずっとマシなのでございます。

ただ、これだけはやっかいです。閣下の支持基盤の中核は右翼ないし極右です。激しい人種差別の感情に駆られた排外主義者が貴政権の最も熱狂的な支持者となっています。この支持者の熱狂に応えたいのが、閣下の真意ではあろうと忖度申しあげますが、実はそれがなかなかやっかいなこと。「公約を破るのか」「選挙民を欺したのか」「おまえには何枚舌があるのか」という非難を覚悟で、この右翼勢力を宥めなければなりません。ここがたいへんに難しいところ。

ワタクシも靖国派や日本会議や、諸々の極右勢力の支援によって政権に就きました。この勢力の要望こそがワタクシの政治信条のホンネなのです。ですから、直ぐにでも9条改憲を実現したい。天皇の元首化をはかりたい。全国民に国旗国歌尊重を強制したい。核武装もしたい。沖縄を押さえつけて米軍基地の拡充を実現したい。「神武は実在した」「南京事件は幻だ」という教科書を津々浦々に普及したい。NHKを官邸の広報チャンネルとして純化したい。全閣僚の堂々の靖国神社参拝を実現したい。…願望は、やまやまですができないのです。第1次アベ内閣当時、ワタクシは権力の座にあればなんでもできると思っていまして、憲法改正の序章と位置づけた教育基本法改正には手を付けましたが、それも不十分なままで、結局はそれまで。それ以上のことはできなかったのです。結局は選挙に負けて、前代未聞のみっともないありさまで政権を放棄しました。是非、その轍を踏まれることのないよう、ワタクシを反面教師としてご用心ください。

ところで、問題は日米軍事同盟です。閣下は、選挙期間中日米軍事同盟の片務性を大いに問題にし、「アメリカが日本を守ってやっているのに、日本はそのコストを払っていない」「コストの全額を払わないなら米軍は撤退する」「日本は、核兵器でも何でも持って自国を守るべきだ」と繰り返して来られました。

失礼ながら、閣下が日米軍事同盟やガイドライン、そして沖縄を中心とする目下の基地問題にどれだけ通暁しておられるのか懸念なしとはしませんが、おっしゃっていることには一理あると感服しています。

とりわけ、日本の核武装の問題。日本国民の核アレルギーにはなかなかに根の深いものがあり、残念ながら直ぐには実現する見通しは薄いと考えざるをえません。しかし、これまでの貴国大統領とはまったく立場を異にし、我が国に核武装を促すとは、さすがに見上げた見識。閣下とワタクシとで、日本の民衆の核アアレルギー解消を目標とする「新日米同盟関係」を打ち立てることにご賛同いただけたら幸甚に存じます。

おっしゃるとおり、中国のみならず北朝鮮までが核をもっている北東アジアの軍事環境下で、日本が核に関して丸腰では軍事バランスを欠いて平和が危ういと言わざるを得ません。日本をめぐる国際環境が核開発を許すのなら、幸いに日本はプルトニゥム保有大国です。一部は貴国の要請に応じて返還したとは言え、未だに核弾頭5000発分と見積もられているプルトニゥムは他の用途なく、処理に困っておるところでございます。潜在的核保有国と言われる我が国が、核武装することにさしたる時間は要しません。核爆弾の運搬技術は種子島で実験を重ね、既に軍産学協調の成果として完成の域に達していますから北朝鮮に対して核優位に立つことはいともたやすいこと。

これこそ、新しい核の抑止力に基づく平和を切り開く、「トランプーアベ親密外交新時代」。是非とも国民の核アレルギーの払拭を通じての核抑止力均衡に基づく積極的平和の実現に向かってともに努力を重ねていこうと、かように愚考いたしております。
 誠惶誠恐頓首々々謹言
(2016年11月12日)

「核兵器禁止条約 交渉開始決議」に日本が反対する、その「屁理屈」。

国連総会第1委員会(軍縮・国際安全保障問題)は、10月27日核兵器禁止条約締結に向けて交渉を開始する会議を来年に招集するとした決議案を、圧倒的な賛成多数で採択した。「『核兵器を禁止し、完全廃絶につながるような法的拘束力のある措置』を交渉するために『国連の会議を2017年に招集するよう決定する』」というもの。キーワードは「法的拘束力」である。世界各国の核廃絶への意気込みが伝わってくる。年内に国連総会本会議で採択のうえ、核兵器の法的な禁止をめぐる本格的な議論が初めて国連で行われることになる。ところが、この決議に、日本が反対に回っていることが話題になっている。

この決議の共同提案国が57か国。採決の結果は、賛成123、反対38、棄権16だった。唯一の戦争被爆国である日本が、共同提案国57か国に加わっていない。賛成123か国の中にもはいらなかった。棄権ですらなく、少数派・反対グループ38国の一員となった。北朝鮮ですら賛成している。NPT体制における核保有5大国の一角である中国は棄権と、国際世論に配慮しているのに、日本は「反対」というのだ。

「法的拘束力をもつ核軍縮には反対」と明言する日本。これが本当に、私の国だろうか。かつて、3000万筆の原水爆反対署名を集めて、国際世論を喚起した被爆国と同じ国なのだろうか。核兵器廃止に反対票を投じる現政権が、日本国民を代表する正当性をもっているのだろうか。憤懣に堪えない。

さらに噴飯物なのが、政府の反対理由である。岸田文雄外相・萩生田官房副長官が閣議のあとの記者会見で明らかにし、同旨をアベ首相も述べている。

「慎重な検討を重ねた結果、反対票を投じた。北朝鮮などの核、ミサイル開発への深刻化などに直面している中で、決議は、いたずらに核兵器国と非核兵器国の間の対立を一層助長するだけであり、具体的、実践的措置を積み重ね、核兵器のない世界を目指すというわが国の基本的考えと合致しないと判断した」

「核兵器のない世界を目指す」から、世界の潮流に断乎逆らって「法的拘束力をもつ核軍縮には反対」というのだ。誰がどう考えたところで、説明になってない。論理として成り立たない。「反対」の姿勢もさることながら、こんな理由しか言えないのだから情けない。とんでもない政府ではないか。

もし、こんな屁理屈がまかりとおるのなら、賛成・反対自由自在だ。何にでも賛成もできるし、反対もできる。訳が分からなくなる。理屈と膏薬はどこへでも付く、とはよく言ったもの。たとえば、次のようにだ。

「慎重な検討を重ねた結果、世界平和と軍縮を促進しようという決議には反対票を投じた。平和を語って戦争を準備する勢力の台頭など深刻な事態に直面している中で、決議は、いたずらに平和を称える勢力と軍縮によって軍事バランスを崩すことが危険だと考える諸国との間の対立を一層助長するだけであり、具体的、実践的措置を積み重ねて、平和な世界を目指すというわが国の基本的考えと合致しないと判断した」

「慎重な検討を重ねた結果、地球温暖化防止のための温室効果ガス排出規制に関する条約には反対票を投じた。世界に経済発展の格差という現実があり、各国が開発と環境保全との深刻な矛盾に直面している中で、決議は、いたずらに先進国と途上国、排出規制促進派と反対派の間の対立を一層助長するだけであって、具体的、実践的措置を積み重ね、地球環境保全を究極目標とするわが国の基本的考えと合致しないと判断した」

「慎重な検討を重ねた結果、あらゆる児童を労働から解放して教育の機会を保障すべきとする決議には反対票を投じた。国によっては、文化や財政や、あるいはその国に進出している資本の発言力によって、児童労働の解放は直ちに現実する見通しのない深刻な事態において、決議は、いたずらに後進国と先進国、貧しき者とこれを搾取する者との間の対立を一層助長するだけであり、具体的、実践的措置を積み重ねて、やがては過酷な児童労働をなくそうというわが国の基本的考えと合致しないと判断した」

「慎重な検討を重ねた結果、両性の平等を促進しようという決議には反対票を投じた。世界の各国はそれぞれの歴史や伝統に基づく男女の社会的・文化的・法的地位のあり方をもち、それぞれ個別多様に深刻な事態に直面している中で、決議は、いたずらに形式的平等促進を称える諸国と、国内諸事情によってそのことに慎重な諸国との間の対立を一層助長するだけであり、具体的、実践的措置を積み重ねて、真の両性の平等を目指すというわが国の基本的考えと合致しないと判断した」

「慎重な検討を重ねた結果、世界から貧困と格差をなくそうという決議には反対票を投じた。世界の各国には、貧困と格差をなくそうという諸国だけでなく、経済発展が何よりも優先と考える国もあり、熾烈な競争こそが配分すべきパイを極大化すると考える国もある。決議は、いたずらに各国の政策対立を一層助長するだけであり、具体的、実践的措置を積み重ね、貧困格差のない世界を目指すというわが国の基本的考えと合致しないと判断した」

国際問題だけではなく、国内問題でも同じことだ。

「慎重な検討を重ねた結果、近代立憲主義の原則を尊重すべしとする国会決議には反対せざるを得ない。我が国には憲法9条を遵守して国際協調と平和を擁護せよという見解のみがあるわけではない。防衛環境の変化の中で、政府が厳格に憲法を遵守すると宣言することは特定の近隣国に誤ったメッセージを送ることになり、抑止力を脆弱化することにもつながるとする意見も根強い。このような意見がある限り、決議は、いたずらに「立憲主義の理念」と「国防最優先の思想」との間の対立を一層助長するのみならず、具体的、実践的措置を積み重ねて、立憲主義と国防との両立を目指すというアベ政権の基本的考えと合致しないと判断した」

「慎重に検討を重ねた結果、福祉を増進し、教育を無償化し、労働条件を改善し、中小企業と農漁業を振興し、環境を保全するための予算増額の措置には反対せざるを得ない。我が国には、この国を「世界で一番大企業が活躍しやすい国」にすべきであるという有力な耳を傾けるべき意見がある。このような意見がある限り、老齢者福祉も、障がい者福祉も、生活保護も、貧困対策も、教育無償化も、労働条件改善も、中小企業と農漁業を振興も、すべては大企業の利益を損なうものであるいじょう、いたずらにこの国の深刻な階級対立や思想対立を一層際立たせることを助長するのみならず、具体的、実践的措置を積み重ねて、大企業が満足する範囲で福祉政策との両立を認めるというアベ政権の基本的考えと合致しないと判断した」

こんな「屁理屈政権」には、即刻退場してもらわねばならない。
(2016年10月30日)

築地にマグロ塚をー署名運動にご協力のお願い

本日(9月23日)が久保山愛吉の命日である。
1954年3月1日、アメリカはビキニ環礁で最大級の15メガトン水爆「ブラボー」を大気中で爆発させた。その威力は広島に落とされた原爆の1000倍であったという。そして、その構造から大気中にばらまかれた放射線量もけたはずれのものだった。

たまたま近海で操業していてたマグロ漁船・第五福竜丸は、爆発地点から160キロの距離で被災することになった。未明、太陽が西に昇ったと思わせる閃光の後に、乗組員23名が雪のように降った死の灰を浴びることになった。これが「3・1ビキニ事件」。

この死の灰は、島ごと吹き飛ばされた珊瑚礁の破片を主成分とする、高線量の放射性物質だった。23人の乗組員全員が「急性放射線症」で入院した後、最年長の通信士久保山愛吉が半年後の9月23日に亡くなる。その遺言は、「原水爆の被害者はわたしをさいごにしてほしい」というものであった。

久保山の遺言を刻した「久保山愛吉碑」が、夢の島の第五福竜丸展示館の裏庭に建立されている。その書体は、三宅泰雄(第五福竜丸平和協会・初代会長)の筆になるもの。

その「久保山愛吉碑」のとなりに、「マグロ塚」がおかれている。高さ約130センチほどの青みがかった重量感ある石碑。「マグロ塚」の文字は、第五福竜丸乗組員だった大石又七の筆跡である。

東京都名義の解説板に、以下の記載がある。
「1954年3月1日、米国が太平洋のビキニ環礁で行った水爆実験で被爆した第五福龍丸から、放射能に汚染された魚が水揚げされ、消費者の手に渡る前に中央卸売市場築地市場の一角に埋められました。
 このような核の被害が再び起きないことを願って、「築地にマグロ塚をつくる会」は募金活動を行い、募金に参加した大勢の子どもたちと共にマグロ塚を作りました。
 本来であれば、この塚はマグロが埋められた築地市場に置くことがふさわしいのですが、市場は整備中であるため、暫定的に第五福竜丸のそばに展示されることになりました。」

ビキニ事件当時、原爆マグロは世を震撼させた。放射能の脅威、その被害が食の安全を脅かす形で、すべての人の身近なものとなった。その記憶を風化させないで、核の恐怖の警鐘にしよう。そう考えたのが大石で、子どもたちに10円募金を呼びかけて石碑を作ることまではした。しかし、東京都も認めるとおり、「この塚はマグロが埋められた築地市場に置くことがふさわしい」のだが、それが実現していない。

築地には石碑ではなく、建物の壁にはめ込まれた金属の「プレート」がある。こちらは、次のように由来が書き込まれている。
「1954年3月1日、米国が太平洋のビキニ環礁で行った水爆実験で被曝した第五福竜丸から水揚げされた魚の一部(約2トン)が同月16日築地市場に入荷しました。国と東京都の検査が行われ、放射能汚染が判明した魚(サメ、マグロ)などは消費者の手に渡る前に市場内のこの一角に埋められ廃棄されました。
 全国では850隻余りの漁船から460トン近くの汚染した魚が見つかり、日本中がパニックとなって魚の消費が大きく落ち込みました。築地市場でも「せり」が成立しなくなるなど、市場関係者、漁業関係者も大きな打撃を受けました。
 このような核の被害がふたたび起きないことを願って、全国から10円募金で参加した大勢の子どもたちと共に、この歴史的事実をきろくするため、ここにプレートを作りました。 マグロ塚を作る会」

いま、築地にマグロ塚はなく、市場の整備が済むまで、暫定的に第五福竜丸展示館にある。これを本来あるべきところに移そうという運動が起きている。その運動を担うのが「築地にマグロ塚を作る会」、代表が大石又七である。その会の設立趣旨を記しておきたい。

本会は、「1954年の水爆実験で、放射能マグロ騒ぎが起こり、築地魚市場はもちろん日本中がパニックになりました。457トンものたくさんのマグロが地中や海に捨てられ、魚屋さんや、お寿司さん魚河岸も、お手上げになりました。その教訓を忘れないようにしたいのです。埋められたマグロ、食卓に上ったマグロにも、マグロ好きな日本人らしく、供養と感謝の思いをよせて作りたい」との大石又七さんの呼びかけにもとづき、築地の中央市場への建設の要請と署名及び10円募金活動を行ってきました。その結果署名は2万2千名、募金は約300万円が集まりました。これは全国各地多くの賛同する人たちからの支援、とくに小・中学校の生徒からの支援も多くありました。
 築地の中央市場を管理する東京都からは市場の移転や改修計画を理由にプレートの設置のみが許可され、2000年の1月8日に中央市場の正門にプレートを設置することができました。又、本来ならば築地に置くべき『塚』は暫定的ながら第五福竜丸展示館前に設置する事になりましたが、いずれこの塚は、築地の市場に設置すべきものと考えています。
 97年当初はマグロ塚をつくる会といっても、大石さん一人から署名・募金活動を開始され、その後徐々に支援の輪が拡がってきました。今後とも築地の中央市場への塚の設置実現のためには、大石さんや多くの人たちが協力して持続的で広い活動を行うことが必要とされています。その為にも『築地にマグロ塚をつくる会』の会則等をつくり、機能的に運営し、多くの支援してくれる方にその活動の内容を伝えたいとおもっています。

会は今、東京都に対する要請の署名運動を始めた。要請の趣旨は、「かつてマグロの廃棄地とされた跡地の一画に『マグロ塚』を移設することで、核兵器や放射能の怖さ、そして平和の尊さを多くの人たちに永く訴えたい」ということである。
昨日(9月22日)夢の島で、会が「9・22平和集会」を開催した。82歳の大石が病む体を押して出席し、署名を通じての塚の移設実現を訴えた。

はからずも、今築地から豊洲への市場移転問題が世の大きな関心事となっている。食の安全こそが重大事として再確認されているのだ。60年前の「原爆マグロ」事件は、食の安全が脅かされたことによる国民的な規模でのパニックをもたらした。核兵器の存在が、このような形でも人の生活を脅かすことを忘れてはならない。

下記のURLを開いて、是非ご協力をお願いしたい。
  http://tsukijimaguro.blogspot.jp/2016/09/blog-post_76.html
(2016年9月23日)

四國五郎ー「反戦平和」を貫いた広島の画家

峠三吉のガリ版『原爆詩集』(1951年)の表紙絵や絵本『おこりじぞう』(1979年)の挿絵を手がけるなど、広島で生涯をかけて「反戦平和」を見つめながら表現活動を続けた画家・四國五郎(1925?2014)。(丸木美術館「四國五郎展」2016年の案内リーフから)

その四國五郎が次のような文章を書いている。

「原爆詩集が刷りあがったとき、峠さんはうれしそうであった。第一工房というガリ版印刷所は、千田町三丁目の電鉄前ににあったのだが、刷りあがったホヤホヤを私の勤め先の市役所へ持ってきてくれたのである。
市庁舎の改築で玄関あたりもすっかり様がわりしたのでついでに書いておくが、庁舎前の石畳に、やはりみかげ石で縁どった芝生に金木犀やかいづかが植えてあった。九月の陽ざしをさえぎって、けっこう木かげをつくっていたので二人はそこに腰をおろした。
「ほら、できあがったよ、いいのができたありがとう」
謄写インキの香りもま新しいその原爆詩集は、ザラ紙にセピアで刷られたものであるが、きれいな文字が小さく並んでおり、いま眺めても、手造り詩集といった感じで、なかなか味のあるものである。
後にこの詩集が河出書房の日本現代詩大系に収録されたときも、ちょうど峠さんの家に居あわせたのだが、そのときよりもガリ版の原爆詩集ができたときの方が、ほんとうに嬉しそうであった。自分の詩集が誕生したというだけの嬉しさだけでなく、詩による原爆の告発が陽の目をみることのよろこびも込められているよろこびであり、それは「われらの詩の会」のみんなのよろこびでもあった。」

その人柄をよく表した美しい文章だと思う。
また、同じ文章に、原爆詩集の制作過程の一コマがこう綴られている。

 「被爆の状況を語りあいながら私が毛筆で和紙に絵を描き、峠さんはそれを眺めながら、イラストにつけ加える説明とも詩ともつかぬ文句を考え、イラストはグレイで刷られた。そのときのそのような共同作業が、その後の辻詩作製のパターンのはじまりであった。」

四國五郎についてはウィキペディアに以下の記事がある。よくできた紹介と感心するしかない。やや長文になるが引用させていただく。

「原爆詩人の峠三吉が死没するまで常に共に活動しており、「ちちをかえせ」で著名な『原爆詩集』(1951年出版オリジナル版)の表紙装丁、中の挿画も全て四國の作品。この詩集は官憲の弾圧を恐れた東京の出版社が全て出版を拒否したため、詩人・壺井繁治の勧めもあり、広島で急遽ガリ版刷りで500部出版したもので、原爆文学作品として記念碑的存在。現在では一部の博物館でしかオリジナル版の実物は目にする事はできない。広島市平和公園内の峠三吉の「ちちをかえせ」の慰霊詩碑のデザインも彼によるもの。また、広島市内には大田洋子の文学碑もあるがこれも四國のデザインによるもの

約3年間シベリアに抑留され、公の全ての記録はソ連により剥奪されたが、四國は生死を彷徨う体験をしながらも、自分で豆のようなノートを作り、それに克明に記録を取り靴の中に入れて密かに日本に持ち帰った。帰国後すぐに記録を絵と共に1,000ページ近い絵日記として復元し、シベリア抑留の貴重な生の記録となっている。また、自らの飯盒にシベリアの仲間達の名前を60名近く彫りこみ、その上からペンキを塗り文字を隠し日本に持ち帰った。シベリアから記録を持ち帰ることはスパイ罪と見なされ、厳しく制限されたが、四國は持ち帰ることに成功している。シベリア抑留者の中で、四國のように、豆のような日記や名前の彫りこまれた飯盒を日本に持ち帰った例は、他にないと言われている。

また、1950年の朝鮮戦争前から、峠が入院するまで約3年間、『辻詩』(つじし)と題して、絵は四國、詩は峠が担当し、一枚モノの手書きのポスターのような表現物を100種類近く手書きで作成。市内のあちこちにゲリラ的に掲出した。GHQが厳しい言論統制を敷く中、当時としては逮捕覚悟の反戦活動だった(貴重な歴史資料だが、現物はほとんど残っていない)。

戦争によって、意味もなく最も被害を受けるのは、何の罪もない母や子供たち、との考えから、平和の象徴として「母子像」をテーマに、誰にでも分かりやすく平和の尊さを訴える、多くの作品を油絵や水彩で残した。」

丸木美術館の「四國五郎展」には、「豆日記」も「辻詩」(8葉)も、「母子像」も展示されていた。そして、絵本「おこりじぞう」の原画も、戦後の広島の風景も。
企画展の案内リーフには、ジョン・ダワー(マサチューセッツ工科大学名誉教授)のメッセージが記されていた。

「原爆の図丸木美術館」に常設されている丸木位里・赤松俊夫妻の「原爆の図」と一緒に四國五郎の作品が展示されるのは、なんともすばらしい機会である。
この三人の作品は、単に1945年8月に日本に投下された原爆の恐ろしさを思い起こさせるだけではない。戦争と平和がいかに絡み合っているかということを作品を観る者の心にうったえてくるし、創造性豊かな三人の作品から私が個人的に受ける忘れがたい印象は、美と創造性と平和、さらには人間の命の大切さの深淵な確認ということである。
((略))
 三人の作品は、核戦争というものがいったいどんなものなのかを世界中の人々に思い起こさせる上で、特別な力強さを持っている。
私の祖国である米国でも、また日本でも、軍国主義が再び台頭しつつある今、四國五郎と丸木夫妻の芸術作品は、今まで以上に緊迫性をもって私たち一人一人に語りかけてくる。

私は原爆詩集が発行されたころ、広島市内の小学生だった。今は様変わりしている太田川や相生橋の記憶もある。原爆ドームの瓦礫で遊んだ記憶もある。四國五郎の描く当時の広島の風景には、格別に心惹かれるものがある。

広島の画家として「反戦平和」の生涯を貫いた四國五郎の作品群である。願わくは、貴重な歴史の宝として、もっともっと多くの人に知られ評価されんことを。
(2016年9月21日)

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