気合いの入った5月3日憲法記念日の東京新聞社説は、「戦後70年 憲法を考える 『不戦兵士』の声は今」というもの。最初の小見出しが、「白旗投降した海軍中尉」とされている。戦後は、島根県浜田市で地方紙の主筆兼編集長として健筆を振るった「不戦兵士」・故小島清文を取り上げたもの。
社説は、「小島氏が筆をふるったのは約11年間ですが、山陰地方の片隅から戦後民主主義を照らし出していました」と戦後の生き方を評価している。しかし、私の関心は、もっぱら彼が太平洋戦争の最終盤で、ルソン島の激戦のさなかに米軍に降伏した、その決断と背景にある。
小島は戦時中、慶応大を繰り上げ卒業し、海軍に入って戦艦「大和」の暗号士官としてフィリピンのレイテ沖海戦に従う。その後、ルソン島に配属され、中尉として小隊を率いることになった。なんの実戦経験もなく、陸戦隊の指揮官として激戦の中に放り込まれたのだ。
戦況は絶望的だった。極限状況において、彼は部下を連れての降伏を決断する。この決断を、社説はこう解説している。
「小島氏は考えました。『国のために死ね』という指揮官は安全な場所におり、虫けらのように死んでいくのは兵隊ばかり…。連合艦隊はもはや戦う能力もない…。戦争はもうすぐ終わる…。考えた末に部下を引き連れて、米軍に白旗をあげ投降したのです。」
ルソン島の戦闘には日本軍25万が投入され、約22万人が戦死・戦病死したとされている。無傷の者は一人としてなかったろう。降伏したことによって、小島は辛くも生還し得た。そして、強烈な反戦・反軍主義者となって後半生を送ることになる。
玉砕か降伏か。国家のために命を捨てるか、国家に叛いて自らの生を全うするか。国家と個人と、極限状況で二者択一が迫られている。さて、どうすべきか。
戦争とは、ルールのない暴力と暴力の衝突のようではあるが、やはり文化的な規範から完全に自由ではあり得ない。ヨーロッパの精神文化においては、捕虜になることは恥ではなく、自尊心を保ちながら投降することが可能であった。19世紀には、俘虜の取扱いに関する国際法上のルールも確立していた。しかし、日本軍はきわめて特殊な「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓のローカルなルールに縛られていた。
しかも、軍の規律は法的な制裁を伴っていた。1952年5月3日、新憲法施行の日に正式に廃止となった陸軍刑法(海軍刑法も同様)は、その第7章に、「逃亡罪」を設けていた。以下はその全文である。
第七章 逃亡ノ罪
第七十五条 故ナク職役ヲ離レ又ハ職役ニ就カサル者ハ左ノ区別ニ従テ処断ス
一 敵前ナルトキハ死刑、無期若ハ五年以上ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス
二 戦時、軍中又ハ戒厳地境ニ在リテ三日ヲ過キタルトキハ六月以上七年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス
三 其ノ他ノ場合ニ於テ六日ヲ過キタルトキハ五年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス
第七十六条 党与シテ前条ノ罪ヲ犯シタル者ハ左ノ区別ニ従テ処断ス
一 敵前ナルトキハ首魁ハ死刑又ハ無期ノ懲役若ハ禁錮ニ処シ其ノ他ノ者ハ死刑、無期若ハ七年以上ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス
二 戦時、軍中又ハ戒厳地境ニ在リテ三日ヲ過キタルトキハ首魁ハ無期若ハ五年以上ノ懲役又ハ禁錮ニ処シ其ノ他ノ者ハ一年以上十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス
三 其ノ他ノ場合ニ於テ六日ヲ過キタルトキハ首魁ハ二年以上ノ有期ノ懲役又ハ禁錮ニ処シ其ノ他ノ者ハ六月以上七年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス
第七十七条 敵ニ奔リタル者ハ死刑又ハ無期ノ懲役若ハ禁錮ニ処ス
第七十八条 第七十五条第一号、第七十六条第一号及前条ノ未遂罪ハ之ヲ罰ス
(以上はhttp://www.geocities.jp/nakanolib/hou/hm41-46.htm「中野文庫」で読むことができる)
敵前逃亡は「死刑、無期もしくは5年以上の懲役または禁錮」である。党与して(徒党を組んで)の敵前逃亡の首謀者は「死刑または無期の懲役もしくは禁錮」とされ、有期の選択刑はない。最低でも、無期禁錮である。
さらに、「敵に奔(はし)りたる者」は、「死刑または無期懲役・禁錮」に処せられた。単なる逃亡ではなく、敵に投降のための戦線離脱は、個人の行為であっても、死刑か無期とされていたのだ。未遂でも処罰される。もちろん、投降現場の発覚は即時射殺であったろう。
小島は、帝国軍の将校として叩き込まれた戦陣訓を捨て、敢えて軍法にも背いて「敗戦の結果が見えている無謀な戦争の犠牲」を避けようと、合理的な選択をしたのだ。もともと、小島は自由主義者であったという。欧米の文化にも理解があった。そして何よりも「大和」の暗号士官として、戦況が敗戦必至であることをよく認識していたのであろう。
投降の決断は部下に強制できることではなかった。説得に応じた兵ばかりではなく、降伏を拒否して自決を選択した兵も少なくなかったという。必ずしも生を希求する合理的判断が教育された道徳観念に優越するというものではない。刷り込まれた戦陣訓や軍の規律への盲従が、死の恐怖にも優越する選択をさせたのだ。
私が盛岡にいたとき、共産党県委員会の幹部であった柳館与吉という方と懇意になった。私の父の知り合いである。旧制盛岡中学在学の時代に社会科学に触れ、盛岡市職員の時代に治安維持法で検束を受けた経験がある。要注意人物とマークされ、招集されてネグロス島の激戦地に送られた。彼は、絶望的な戦況と過酷な隊内規律との中で、犬死にをしてはならないとの思いから、兵営を脱走して敵陣に投降している。
戦友を語らって、味方に見つからないように、ジャングルと崖地とを乗り越える決死行だったという。友人とは離れて彼一人が投降に成功した。将校でも士官でもない彼には、戦陣訓や日本人としての倫理の束縛はなかったようだ。デモクラシーの国である米国が投降した捕虜を虐待するはずはないと信じていたという。なによりも、日本の敗戦のあと、新しい時代が来ることを見通していた。だから、こんな戦争で死んでたまるか、という強い思いが脱走と投降を決断させた。
その顛末を直接聞いて、私は仰天した。世の中が「鬼畜米英」と言い、「出て来い。ニミッツ、マッカサー」と叫んでいた時代のことである。当時20代の若者が、迷いなく国家よりも個人が大切と確信し、適切に状況を判断して生き延びたのだ。予想のとおり、米軍の捕虜の取扱いは十分に人道的なものであったという。私は、「貴重な体験を是非文章にして遺してください」とお願いしたのだが、さてどうなっているだろうか。
小島や柳館の投降は、智恵と勇気にもとづく合理的な判断であった。この体験を経て、柳館は戦後共産主義運動に身を投じ、小島はジャーナリストとなって、「日本に民主主義を根付かせ、二度と戦争をしない国にするという思い」から筆を執った。小島は、新聞界を退いてから後、1988年に「不戦兵士の会」を結成し、最期までひたすら次のように『不戦』を説いた。
<戦争は(中略)国民を塗炭の苦しみに陥れるだけであって、なんの解決の役にも立たないことを骨の髄まで知らされたのであり、日本国憲法は、戦勝国のいわば文学的体験に基づく平和理念とは全く異質の、敗戦国なるが故に学んだ人類の英知と苦悩から生まれた血肉の結晶である>
<権力者が言う「愛国心」の「国」は往々にして、彼らの地位を保障し、利益を生み出す組織のことである。そんな「愛国心」は、一般庶民が抱く祖国への愛とは字面は同じでも、似て非なるものと言わざるを得ない>
<われわれは、国歌や国旗で「愛国心」を強要されなくても誇ることのできる「自分たちの国」をつくるために、日本国憲法を何度も読み返す努力が求められているように思う。主権を自覚しない傍観者ばかりでは、権力者の手中で国は亡びの道を歩むからだ>
東京新聞社説は最後を次のように締めくくっている。
小島氏は02年に82歳で亡くなります。戒名は「誓願院不戦清文居士」です。晩年にラジオ番組でこう語っています。
<戦争というのは知らないうちに、遠くの方からだんだん近づいてくる。気がついた時は、目の前で、自分のことになっている>
「不戦兵士」の忠告が今こそ、響いて聞こえます。
付言したい。「不戦兵士の会」は、今「不戦兵士・市民の会」と名称を変えて、貴重な活動を継続している。以下はその入会の呼びかけである。
戦場体験兵士が、「生き地獄絵図を見てきた数少ない証人」として、戦争だけは二度としてはならない」と、1988年1月に創立した「不戦兵士の会」は、憲法9条を生み出した源にある戦場・戦争体験を語り継ぐ活動が重要と考え、1999年2月、「不戦兵士・市民の会」に改称。今年(2013年)1月、創立25年を迎えました。
貴重な戦場体験者・老兵士はまもなく消え去ろうとしています。戦場・戦争体験世代とともに、戦後世代市民のご入会を心から訴えます。
292-0814 千葉県木更津市八幡台2?5 C?1
tel 0438-40-5941 fax 0438-40-5942
mail fusen@kmj.biglobe.ne.jp
http://www.home.f01.itscom.net/fusen
不戦兵士たちの「平和の語り部」としての活動を支え、戦後世代市民が「戦争体験の伝承」に心掛けなければならないと痛切に思う。ほかならぬ今だから、なおさらのこと。
(2015年5月6日)
第2次大戦の敗戦から70周年。この事情は日本もドイツも変わらない。そのドイツでは、ナチス・ドイツ降伏の5月8日を目前にして、メルケル首相の活発な動きが注目されている。
5月2日、メルケルは国民に歴史と向き合うよう呼びかける映像メッセージを政府ホームページに公開した。「『歴史に終止符はない。我々ドイツ人は特に、ナチス時代に行われたことを知り、注意深く敏感に対応する責任がある』と訴えている」「ドイツ国内のユダヤ系の施設を警官が警備している現状を『恥だ』とし、『意見を異にする人々が攻撃されるのは間違っている』と指摘。学校や社会でも歴史の知識を広めていくことの重要性を強調した」(朝日)という。このビデオでは、「独国内で戦争責任に対する意識が希薄になっていることについて『歴史に終止符はない』と強い口調で警告。『ドイツ人はナチ時代に引き起こした出来事に真摯に向き合う特別な責任がある』と述べ、戦後70年を一つの『終止符』とする考えを戒めた」「人種差別や迫害は『二度と起こしてはならない』と訴えた(毎日)とも報じられている。
また、メルケルは3日、4万人以上が犠牲となった独南部のダッハウ強制収容所の解放70年式典で演説し、「『我々の社会には差別や迫害、反ユダヤ主義の居場所があってはならず、そのためにあらゆる法的手段で闘い続ける』と述べ、ナチス時代の記憶を世代を超えて受け継ぐ重要性を訴えた」「式典には、収容所の生存者約130人や解放に立ち会った元米兵6人も参加。メルケル氏は『収容所の経験者が、まだ自らの経験を語ってくれるのは幸運なことだ』と述べた(毎日)。「ナチスがこの収容所で犠牲者に与えた底知れない恐怖を、我々は犠牲者のため、我々のため、そして将来の世代のために、決して忘れない」と語ってもいる(朝日)。
同所の演説では、「『われわれは、皆、ナチスのすべての犠牲者に対する責任を負っている。これを繰り返し自覚することは、国民に課せられた義務だ』と述べ、一部の若者らにみられる反ユダヤ主義や、極右勢力による中東出身者を狙った犯罪に強い懸念を示しました」(NHK)、「昨年起きたベルギーのユダヤ博物館のテロ事件などを例に、今もユダヤ人への憎しみが存在すると指摘。『決して目を閉じてはならない』と呼び掛けた(共同)」とも報じられている。
さらに、メルケルは、自身が10日にモスクワを訪れ、ロシアのプーチン大統領と無名戦士の墓に献花する。「ウクライナ危機でロシアと対立していても『第2次大戦の多数の犠牲者を追悼することは重要だ』と理解を求めた」(朝日)という。
世に、尊敬される指導者、敬服に値する政治というものはあるものだ、と感服するしかない。安倍晋三に、メルケルの爪の垢を煎じて飲ませたい。そうすれば、次のことくらいは言えるようになるのではないか。
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某日、安倍晋三は、こう語った。
「歴史に終止符はない。我々日本人は、過去天皇制政府がおこなった近隣諸国民に対する蛮行について、敗戦時意図的に隠滅し隠蔽された証拠を誠実に探し出して、よく見極め注意深く敏感に対応する責任がある。学校でも、社会でも過去の日本人がした行為について、歴史の知識を広めていくことの重要性は最大限に強調されなければならない」
「われわれは、皆、私たちの国がした蛮行のすべての犠牲者に対する責任を負っている。これを繰り返し自覚することは、日本国民に課せられた義務にほかならない」
「現在なお、歴史修正主義が横行し、被害者からの抗議の声やそれを伝える報道を『捏造』と切り捨て、あまつさえ排外主義の極みとしてのヘイトスピーチが野放しとなっている現状を大いに恥辱だと認識しなければならない」
「日本人は、旧天皇制の時代に引き起こした、侵略戦争と植民地支配に真摯に向き合う特別な責任がある。これまで、その責任に真摯に向き合って来なかったことに鑑みれば、戦後70年を一つの終止符として、『もうそろそろこの辺で謝罪は済んだのではないか』『いつまで謝れというのだ』『これからは未来志向で』などという被害者の感情を無視した無礼で無神経な発言は厳に慎まなければならない」
「人種差別や民族迫害は、絶対に再び犯してはならない。我々の社会には差別や迫害、他国への威嚇や武力行使があってはならず、そのような邪悪な意図の撲滅のために、あらゆる法的手段で闘い続ける覚悟をもたねばならない」
「天皇制政府と皇軍が被侵略国や植民地の民衆に与えた底知れない恐怖を、我々は今は声を発することのできない犠牲者のためだけでなく、我々自身のために、そして将来の世代のためにも、決して忘れてはならない」
「脱却すべきは戦後レジームからではなく、非道な旧天皇制のアンシャンレジームの残滓からである」「取り戻すべき日本とは、国民主権と人権と平和を大原則とする日本国憲法の理念に忠実な日本のことでなければならない」
「厳粛に宣言する。われわれは、日本と日本国民の名誉にかけて、決して過去に目を閉じることなく誠実にその責任に向かい合うことを誓う」
こうすれば、日本は近隣諸国からの脅威と認識されることなく、真の友好関係を築いてアジアの主要国として繁栄していくことができるだろう。もちろん、戦争法の整備による戦争準備は不要になろう。
ところで、国民はそれにふさわしい政府や政治家をもつ、という。ドイツはワイツゼッカーやメルケルの政府をもった。日本は、安倍や橋下のレベルの政府や政治家しか持てない。このレベルが、日本国民にふさわしいということなのだろうか。私も、恥の文化に生きる日本人の一人である。まったくお恥ずかしい限り。
(2015年5月5日)
月に一度、律儀に「新宗教新聞」が送られてくる。購読申込みをした覚えはなく、継続配達を希望したこともない。それでも、毎月々々月末ころに確実に郵送される。岩手靖国訴訟受任時に新宗連とのささやかな交流があって以来のこと。既に30年にもなる。
かつて私は、厳格な政教分離を主張して、国や自治体と対立した。そのとき、自ずと宗教者とは蜜月の関係となった。ところが、霊感・霊視商法が跋扈したとき、私は被害者の立場から宗教団体(あるいは「宗教団体まがい」)の批判に遠慮をしなかった。おそらく、そのときに宗教者との「蜜月」は終わった(のではないか)。
今私は、新宗連だけでなく、どこの宗教団体や連合体とも交流はない。唯一の「交流」が、毎号送られてくる「新宗教新聞」である。私はこの新聞の愛読者として毎号よく目を通している。加盟各教団の行事紹介にはさしたる興味はないが、紙面の真摯さに好感を持たざるを得ない。
ご存じのとおり、「新日本宗教団体連合会」(新宗連)の機関紙である。毎号題字の前に、3本のスローガンが並んでいる。「信教の自由を守ろう」「宗教協力を進めよう」「世界の平和に貢献しよう」。私の記憶では、かつてはもう一本「政教分離」のスローガンがあったが今は消えたのが残念。もっとも、同紙の政教分離違反への監視の眼は鋭い。安倍晋三の靖国参拝や真榊奉納に対する批判声明などは、意を尽くして行き届いたものだ。何より、宗教者らしい礼節を尽くしたものとして心に響くものがある。
毎号のことだが、紙面は、まさしくこの「信教の自由」「宗教協力」「平和」という3本のスローガンにふさわしいものとなっている。
まずは、「平和への貢献」。今号(4月27日号)にも、「平和」があふれている。「戦争犠牲者慰霊並びに平和祈願式典(8・14式典)準備」「沖縄慰霊平和使節団」「平和への巡礼」「長崎・原爆落下中心地講演慰霊祭」「終戦70年特別事業」「アジア懺悔行」「前事不亡・後事之師」「世界平和を誓う」「平和への祈り」…。
次いで、「信教の自由を守ろう」。東北総支部の「信教の自由とは何か」をテーマとした学習会が紹介されている。そこでの組織内講師の発言が注目される。
「これまでの信教の自由のとらえ方は、教団の信教の自由が中心だったが、宗教界の既得権益を守る活動のような誤解を受けがちだった。基本的人権の根源である個人の信教の自由を出発点としたい」というもの。そのうえで、「教団の自由」と「個人の自由」の関係を、大学の自治を例に挙げて、「個人の自由」を基本としながら、その保障のための「教団の自由」の大切さを説いている。国家権力による個人の信教の自由攻撃に対する防波堤としての教団の自由という位置づけ。なるほど、テーマとしてたいへん興味深く面白い。
そして、「宗教協力」である。「新宗連活動の原点と歴史」という連載コラムで、新宗連の設立にGHQの関与があったことを初めて知った。見出しが「信教の自由守るための団結を」「宗教弾圧知るウッダート氏が提案」というもの。
1951年3月末に、GHQ民間情報教育局の調査官ウィリアム・ウッダートなる人物が、後に新宗連初代理事長になる御木徳近(元ひとのみち、現PL教団の2代教祖)に面会した。この調査官は、「ひとのみち教団」や「大本教」などへの戦前・戦中の過酷な宗教弾圧をよく知っており、日本において、再び宗教弾圧が起きることを懸念して新宗教団体が団結する必要性を次のように説いたという。
「戦後、新憲法ができて信教の自由が得られても、日本という国は、いつか右傾して、宗教の弾圧がまた始まる可能性がないとは言えません、そんな時にはやはり新宗教が主として弾圧の対象となるでしょう、そんな時に、戦前のひとのみち教団や大本数のように孤立していて個々バラバラであっては、国家権力に対抗することは不可能です。そこで、これからは新宗教も手を握りあい、団結・協力してそれに対抗しなければいけません」
この経過は、新宗連の初代事務局長を務めた大石秀典の『真生滔々』(新宗教新聞社刊)に詳しいそうだ。
これがきっかけとなって、同年10月17日新宗連結成の運びとなる。元々、新宗連は権力による宗教弾圧を避けようとして結成されたものなのだ。
同じコラムの中に、御木徳近が後年こう語ったと紹介されている。
「神仏の道を説く者がなんのためにいがみ合うのでありましょうか。いかなる宗教も平和を欣求してやまぬものであるはずです。神仏のみこころは、平和な人間世界を具現することにあると思います。心の平静を保ち、みんなで仲良く世界中の人が、信教の別を超越し、無信仰者もともに、平和社会具現のために尽くしてこそ、神仏のみこころにかなうのであります」
宗教協力は、国家権力から信教の自由を擁護するためのものでもあり、平和社会具現のためのものでもあったという。3スローガンが三位一体の調和という次第なのだ。
(2015年5月2日)
作者が高名な詩人なのだから、これは一行で完結した詩になっているのだろう。
もっとも、詩であろうとなかろうと、どうでもよいことだ。
題名が「春」とされているが、これがふさわしいかどうか。「美しい蝶の、希望への春の飛翔」などと解したのでは、まことにつまらぬ駄文でしかない。題は無視しよう。作者の意図もどうでもよいことだ。このわずか一行の文字の連なりの重さと激しさを、自分なりにときどき反芻する。
詩人の心象の中で、蝶は自身の姿だ。たった一匹、群れることを拒否した魂。
暗い北の海辺の蝶は、敢えて沖へ羽ばたく。海の果ては見えない。はたしてこの海が海峡であるか大海であるのか、それすら蝶は知らない。
海が果てるまでの波濤の連なりに飲み込まれることなく羽ばたき続けられるだろうか、蝶に確信はない。明日は雨やも知れず、向かい風が吹くやも知れない。突然に波が高くなることもあろう。疲れても休む場所はなく、見渡す限り、花も蜜もない。海を渡った新たな天地に希望があるのか。それすら分からない。
それでも、蝶は敢えて海を渡ろうと羽ばたくのだ。無謀、これ生きる証しのごとくに。
私は、この詩の作者に一度会っている。1957年のことだ。私は、大阪府下の中学校の3年生だった。そのときに、校歌ができた。その作詞者が、隣町・堺に住んでいた高名な詩人、安西冬衛その人だった。
作詞者を迎えて、1500人の全校生徒による校歌の発表会がおこなわれた。私は生徒会長として、詩人に謝辞を捧げる一場の演説をおこなった。隻脚で杖をついた白髪の老人の温厚な雰囲気をよく覚えている。詩人もうれしそうだった。
私がしゃべった内容はよく覚えていないが、校歌に読み込まれた校訓を引いて、それらしいことを言ったのだと思う。その安西冬衛作詞の校歌とは、次のようなもの(のはず)だ。
峰の青雲
秀ずる金剛
仰ぐこの門
我らが母校
つとに尊ぶ
自主の精神
この山
この川
われら学ばん
眉健やかに
望み豊かに
富田林第一中学校
温厚な老詩人の風貌にも校歌の歌詞にも
「てふてふが一匹革達革旦海峡を渡つて行つた」
という、伝説となった詩の切れ味はなかった。
一番だけ覚えている校歌に読み込まれた校訓は、「自主の精神」だった。終戦から10年余のこの時期の戦後民主主義の空気をよく表しているのではないか。「忠君愛国」や「滅私奉公」の類の反対語が校訓となっていたのだ。
なお、私は富田林小学校に2年在籍している。その小学校にも校訓があった。
自主自立
共同親和
勤労愛好
この3語が、やはり校歌の各番に読み込まれている。
筆頭に挙げられた「自主」・「自立」は、紛れもない戦後民主主義のスローガン。「共同親和」は戦前型道徳の残滓を感じさせる。「勤労愛好」は両方に読める。
自主性・主体性の確立は、この時代の教育スローガンのトレンドだったのだ。「君が代」なんぞよりは、格段に立派なものではないか。
なお、安西冬衛「春」の初出は、1926年だという。詩人にとって、時代の雰囲気が「韃靼海峡」の暗さだったのだろうと私は思う。この時代の暗さが海をこえて羽ばたかざるを得ないとする心象を形成したと解釈したい。戦後、「眉健やかに 望み豊かに」と中学生とともに詠うことができる時代への転換は、老詩人の幸福でもあったのだと思う。
詩人の心象風景に中のてふてふは、戦後ようやくにして、春の明るい日ざしの中で希望に向かって羽ばたいたのではないだろうか。
(2015年4月23日)