本年(2017年)2月1日付の、「橋下徹」対「新潮社・野田正彰」損害賠償請求事件、上告審の決定書を入手した。橋下から、新潮・野田医師に対する上告を棄却するとともに、上告受理申立も不受理とする三行半の決定。
その原判決が、大阪高裁第5民事部(中村哲裁判長)の2016年4月21日言い渡しの判決。このほどその判決書も入手し一読した。その内容は、紹介するに値するものである。
周知のとおり訴訟は公開で行われるが、その法廷外への公表においては、市井の人のプラバシー保護への十分な配慮を必要とする。しかし、本件判決において話題とされた事項は、政治家橋下徹の政治家としての資質に関する情報である。公的人物の公的関心事にかんする情報として、むしろ積極的に世に知らしむべき内容といってよい。
私は、問題となった雑誌記事はまったく読んでいなかったが、訴訟になったおかげで、野田医師の「誌上診断」と橋下の「病状」を知ることになった。訴訟提起の偉大な効果である。せっかくだから、判決を通じて、何が問題となって、裁判所がどのような理由で橋下の請求を棄却したのか、ご紹介したい。
控訴審判決は、事件の概要を次のようにまとめている。
「本件は、元大阪府知事であった被控訴人(橋下徹)が、精神科医である控訴人野田が執筆し、控訴人会社(新潮社)が発売した月刊誌『新潮45』平成23(2011)年11月号(以下「本件雑誌」という。)に掲載された「大阪府知事は『病気』である」と題する原判決添付の別紙記事(以下「本件記事」という。)によって名誉を毀損されたと主張して、控訴人らに対し、不法行為(民法719条・共同不法行為)による損害賠償請求権に基づき、連帯して、1100万円及びこれに対する不法行為日(本件雑誌の発売日)である平成23(2011)年10月18日から支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を求める事案である。
原審は、被控訴人の請求のうち、控訴人らに対し、連帯して、110万円及びこれに対する平成23(2011)年10月18日から支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で認容し、その余は、理由がないとしていずれも棄却したことから、これを不服とする控訴人らが控訴した。」
この控訴審判決の主文は以下のとおり。
1 原判決中、控訴人ら敗訴部分を取り消す。
2 上記取消部分に係る被控訴人の請求をいずれも棄却する。
3 訴訟費用は、1、2審を通じて披控訴人の負担とする。
つまり、橋下側から見て、一審では一部(請求額の10分の1)勝訴判決だったが、控訴審で逆転し全面敗訴となったのだ。
掲載記事のうち、原告が名誉毀損の言論と主張したのは、A?Dと符号をつけられた4カ所。一審判決は、その内C部分について違法を認めた。
名誉毀損とは、人の社会的評価を低下させることだが、ある言論が人の評価を低下させただけでは損害賠償の責任は生じない。違法な名誉毀損行為だけが責任を生じる。訴訟実務では、被告の側で当該の言論が、真実であるか、真実と信じるについて相当であれば、違法性は阻却される。
本件一審判決は、C部分について、真実であることの立証も、真実と信じるについての相当性の立証も足りないとした。控訴審判決はこれを逆転して、真実であることはともかく、真実と信じるについての相当性は認められる、としたのだ。
「C部分」とは、野田医師が橋下の高校時代のA教諭から得た、橋下の高校時代の行動についてのエピソードである。判決書きの中から拾えば、次のようなもの。
「大掃除の時汚れ仕事から逃げていく。帰ってしまう。地味なことはしない。」、「目と目をあわせることができず、視線を動かし続ける。嘘を平気で言う。ばれても恥じない。信用できない。約束を果たせない。自分の利害に関わることには理屈を考え出す。」「バレーボールで失敗した生徒を罵倒。相手が傷つくことを平気で言い続ける。」、「文化、知性に対して拒絶感があるようで、楽しめない」、「話していても、壁に向かって話しているような思いにこちらがなる」「感情交流ができず共感がない」「伝達、伝言のようでコミュニケーションにならない」「馬鹿にされていると敏感に感じるのか、見返そうとしているようだった」など。
控訴審判決は、「当裁判所は、被控訴人(橋下)の本件請求には理由がないからこれをいずれも棄却すべきものと判断する。」と結論した。その理由として、野田医師が、橋下の「教科のみならず生活指導や進路指導にも関係したA教諭」から本件記載部分Cのエピソードについて聴き取りをした経過を詳細に認定して、「C部分を真実と信じるについての相当性が認められる」としたのだ。
また、判決は、別人が「その取材活動で、Cと重なり合う、同様の事実、たとえば、『体育のバレーボールの時間などに失敗した子を徹底的に罵倒する』、『掃除の時間になるといつの間にかいなくなる』、『校内大掃除などみんなでやる作業も徹底して拒否する』、『約束も守らず友達も少ない』、『ラグビー部の練習をさぼるときに平気で嘘をつき、嘘がばれても全然気にしない』などの事実を得ていた」を認定し、「それぞれ異なる取材であったのに本件記載部分Cのエピソードと別件記事に係る上記内容とが重なり合っていた」としている。
確かに、裁判所の認定は、野田医師の記事の真実性ではなく、相当性(真実と信じるについての相当性)ではある。しかし、ことの性質上、厳密な意味での記事の真実性立証は不可能に近い。本件での相当性の立証は、実は真実性の立証に近いものと言って間違いでない。
野田医師の、橋下に対する「診断」名は「自己顕示欲型精神病質者」「演技性人格障害」という精神疾患であった。関係者に取材して情報を集めての誌上診断であるのだから、臨床診察による診断ではない。また、収集された情報は厳密に立証された事実とも言えない。しかし、それに代わる高校時代の橋下の教師の証言を得るについての真摯な姿勢は、判決が認定しているところである。
そのような真摯な姿勢で野田医師が収集した、「大掃除の時汚れ仕事から逃げていく。帰ってしまう。地味なことはしない。」、「嘘を平気で言う。ばれても恥じない。信用できない。約束を果たせない。自分の利害に関わることには理屈を考え出す。」「バレーボールで失敗した生徒を罵倒。相手が傷つくことを平気で言い続ける。」、「文化、知性に対して拒絶感があるようで、楽しめない」、「話していても、壁に向かって話しているような思いにこちらがなる」「感情交流ができず共感がない」などは、政治家の資質に関わる重要なエピソードではないか。
その意味で、野田医師の記事は社会的に極めて有益な情報なのだ。政治家の名誉を毀損するものとして、これを軽々に違法としてはならない。違法とする判決によって貴重な情報をシャットアウトしてはならない。
「嘘を平気で言う。ばれても恥じない。信用できない。約束を果たせない。自分の利害に関わることには理屈を考え出す。」などという指摘には、橋下に限らず、思い当たる政治家の顔が、いくつも浮かんでくる。
厚顔な輩に負けてはおられない。野田医師も新潮社も、萎縮することなく有益な情報提供を続けていただきたいと願う。先日まで、被告業を余儀なくされていた者として、連帯の意を表明する。民主主義の前進のために。
(2017年2月6日)
昨晩(2月2日)のこと、久しぶりに野田正彰医師から電話をいただいた。「橋下徹から訴えられていた名誉毀損訴訟で最高裁の判断が出た」「これで、勝訴判決が確定した」とのことだった。
控訴審(大阪高裁)の野田医師逆転勝訴判決言い渡しが、昨年(2016年)4月21日のこと。常識的には、これで勝負あった。上告も上告受理申立も通るはずがない。とはいえ、当事者の心情としては最高裁決定が出るまでは、「もしや」「万が一」「万々が一」の心配をせざるを得ないのだ。この心境は、私自身がDHCスラップ訴訟で味わったところ。野田医師の安堵の気持ちは、おそらくだれよりも私がよく分かる。わざわざの電話は、同病相哀れむの気持からであったろう。そのためか長電話となった。
本日の朝刊では、共同配信の記事を毎日が小さく報道している。それによると、橋下からの上告受理申立にたいする不受理決定は2月1日付だったようだ。2月1日決定の通知が同日発送されて翌2日に到着したということだ。
毎日の判決内容についての情報は以下が全文で、これ以上はない。
「確定判決によると、橋下氏が大阪府知事だった2011年10月発売の同誌(「新潮45」)は「大阪府知事は『病気』である」とのタイトルで、橋下氏に精神疾患の特徴が当てはまるとする記事を載せた。1審大阪地裁判決は、記事内の橋下氏の高校時代のエピソードに裏付けがないとして、新潮社と野田氏に計110万円の支払いを命令。2審大阪高裁は、当時の教諭への取材などから真実と信じる理由があったと認め、請求を棄却した。」
これだけでは面白くない。せっかくの機会、野田医師の診断内容や訴訟の経過を多くの人に思い起こしてもらわねばならない。再確認しようとネットで検索したら、まず私のブログ(2016年4月22日)が出てきた。その引用をベースに、多少補いたい。
タイトルは、「野田正彰医師記事に違法性はないー大阪高裁・橋下徹(元知事)逆転敗訴の意味」
野田正彰医師は硬骨の精神科医として知られる。権力や権威に遠慮するところのない歯に衣着せぬ言動は、権力や権威に安住する側にはこの上なくけむたく、反権力・反権威の側にはまことに頼もしい。
その野田医師が、大阪府知事当時の橋下徹を「診断」した。「新潮45」の誌上でのことである。誌上診断名は「自己顕示欲型精神病質者」「演技性人格障害」というもの。この診断のどちらも、医学的に確立した歴とした疾患名である。橋下が、この誌上診断を名誉毀損に当たると主張して、損害賠償請求訴訟を起こした。
一審大阪地裁は一部認容の判決となったが、2016年4月21日大阪高裁は逆転判決を言い渡し、橋下徹の請求を全面的に棄却した。欣快の至りである。
高裁判決は、野田医師の誌上診断は、橋下の社会的評価を低下せしめるものではあるが、その記述は公共的な事項にかかるもので、もっぱら公益目的に出たものであり、かつ野田医師において記事の基礎とした事実を真実と信じるについて相当な理由があった、と認め記事の違法性はないとした。橋下知事(当時)の名誉毀損はあっても、野田医師の表現の自由を優先して、橋下はこれを甘受しなければならないとしたのだ。
橋下が上告受理申立をしても、再逆転の目はない。判断の枠組みが判例違反だという言い分であれば、上告受理はあり得ないことではない。しかし、本件の争点は結局(野田医師が真実と信じることについての)相当性を基礎づける事実認定の問題に過ぎない。これは最高裁が上告事件として取り上げる理由とはならないのだ。
「新潮45」2011年11月号が、「橋下徹特集」号として話題となった。この号については、当時新潮社が次のように広告を打っている。
「特集では、橋下氏の死亡した実父が暴力団員であったことに始まり、『人望はまったくなく、嘘を平気で言う。バレても恥じない。信用できない』(高校の恩師)、『とにかくカネへの執着心が強く、着手金を少しでも多く取ろうとして「取りすぎや」と弁護士会からクレームがつくこともあった』(最初に勤務した弁護士事務所の代表者)といった、橋下氏を知る人の発言や、『大きく出ておいてから譲歩する』『裏切る』『対立構図を作る』という政治戦術、そして知事就任から府債残高が増え続けている現実、またテレビ番組で懇意になった島田紳助氏との交友についても触れるなど、橋下氏の実像をわかりやすくまとめた構成になっています。是非ご一読を。」
この特集記事の1本として、「大阪府知事は『病気』である」(野田正彰・精神科医)が掲載された。病気の「診断」名が「自己顕示欲型精神病質者」「演技性人格障害」というもの。その診断根拠は、橋下に対する直接の問診ではなく、それに代わる高校時代の橋下の恩師の証言等である。
この記事によって名誉を傷つけられたとして、橋下が新潮社と野田医師を提訴した。損害賠償請求額は1100万円。この請求に対して、2015年9月一審大阪地裁(増森珠美裁判長)は、一部記載について「橋下氏の社会的評価を低下させ、名誉を毀損する内容だった」として、新潮社と野田医師に110万円の支払いを命じた。「精神分析の前提となった橋下氏の高校時代のエピソードを検討。当時を知る教諭とされる人物の『嘘を平気で言う』などの発言について『客観的証拠がなく真実と認められない』」との判断だった。
控訴審逆転判決の内容については、朝日の報道が分かり易い。
?「橋下徹・前大阪市長は『演技性人格障害』、などと書いた月刊誌『新潮45』の記事で名誉を傷つけられたとして、橋下氏が発行元の新潮社(東京)と筆者の精神科医・野田正彰氏に1100万円の賠償を求めた訴訟の控訴審判決が21日、大阪高裁であった。中村哲裁判長は、記事は意見や論評の範囲内と判断。110万円の賠償を命じた一審判決を取り消し、橋下氏の訴えを退けて逆転敗訴とした。
?同誌は、橋下氏が大阪府知事時代の2011年11月号で「大阪府知事は『病気』である」とする野田氏の記事を掲載し、高校時代の橋下氏について「うそを平気で言う」などの逸話を紹介。「演技性人格障害と言ってもいい」と書いた。高裁判決は、記事は当時の橋下氏を知る教員への取材や資料に基づいて書かれ、新潮社側には内容を真実と信じる相当の理由があり、公益目的もあったとした。」
また、焦点の「記事の内容を真実と信じる相当の理由」の有無については、次のような報道がなされている。
「高裁判決は野田氏が橋下氏の生活指導に当時、携わった教諭から聞いた内容であることなどから、『真実と信じた相当の理由があった』と判断した(時事通信)」
「中村裁判長は、野田氏が橋下氏の生活指導に関わった高校時代の教諭に取材した経緯などを検討した。その結果、記事内容を裏付ける証明はないものの、『野田氏らが真実と信じる理由があり、名誉毀損は成立しない』と判断した(毎日)」
「野田氏の精神分析の前提となった橋下氏のエピソードについて、1審判決は『客観的証拠がなく真実と認められない』として名誉毀損を認定したが、高裁判決は別記事での取材内容も踏まえ『真実との証明はないが、真実と信じるに足る理由があった』とした(産経)」
「2015年9月の1審判決は、記事の前提になった橋下氏の高校時代のエピソードを『裏付けがない』としたが、高裁の中村哲裁判長は『複数の人物から取材しており、真実と信じる相当の理由があった』と指摘した(読売)」
以上のとおり、原審と控訴審ではこの点についての判断が逆転した。橋下はこれに不服ではあろうが、憲法判断の問題とも、判例違反とも主張できない。結局は事実認定に不服ということだが、それでは上告審に取り上げてはもらえないのだ。
「新潮45編集部は『自信を持って掲載した記事なので当然の判決と考える』とコメント。橋下氏側は『コメントを出す予定はない』とした。」と報道されている。
名誉毀損訴訟においては、表現者側の「表現の自由」という憲法価値と、当該表現によって傷つけられたとされる「『被害者』側の名誉」とが衡量される。この両利益の調整は、本来表現内容の有益性と「被害者」の属性とによって判断されなければならない。野田医師の橋下徹についての論述は、有権者国民にとって、公人としての知事である橋下に関する有益で重要な情報提供である。明らかに、「表現の自由」を「橋下個人の名誉」を凌駕するものとして重視すべき判断が必要である。
総理大臣や国会議員・知事・市長、あるいは天皇・皇族・大企業・経営者などに対する批判の言論は手厚く保護されなければならない。それが、言論・表現の自由を保障することの実質的意味である。権力や権威に対する批判の言論の権利性を高く認めることに躊躇があってはならない。この点についての名誉毀損訴訟の枠組みをしっかりと構築させなければならない。
現在の名誉毀損訴訟実務における両価値の調整の手法は、名誉毀損と特定された記事が、「事実の指摘」であるか、それとも「意見ないし論評であるか」で大きく異なる。野田医師の本件「誌上診断」は、典型的な論評である。基礎となる事実(高校時代の恩師らの取材によって得られた情報)の真実性が問題になる余地はあるものの、その事実にもとづく推論や意見が違法とされることはあり得ない。これは「公正な論評の法理」とされるもので、我が国の判例にその用語の使用はないが、事実上定着していると言ってよい。
そして、実は野田医師の論評が、知事たる政治家の資質に関するものであることから、真実性や相当性の認定においてハードルの高いものとしてはならない。同判決は、真実性はともかく、真実相当性認定のハードルを下げるやり方で表現の自由に軍配を上げたのだ。政治家や政治に口を差し挟もうという企業や経営者が、名誉毀損訴訟を提起する時代ではないことを知るべきなのだ。
なお、同じ「新潮45」の特集記事に関して、以下の産経記事がある。
「橋下徹前大阪市長が、自身の出自などを取り上げた月刊誌『新潮45』の記事で名誉を傷つけられたとして、発行元の新潮社とノンフィクション作家の上原善広氏に1100万円の損害賠償を求めた訴訟の判決が(2016年3月)30日、大阪地裁であり、西田隆裕裁判長は橋下氏の請求を棄却した。判決によると、同社は新潮45の平成23年11月号で、橋下氏の父親と反社会的勢力とのかかわりについて取り上げた。西田裁判長は判決理由で「記事は政治家としての適性を判断することに資する事実で、公益目的が認められる」とした。
私見であるが、「記事は政治家としての適性を判断することに資する事実で、公益目的が認められる」は、単なる違法性阻却の必要条件ではない。判決理由に明示していなくても、その公益目的の重要性は、真実性や真実相当性認定のハードルを低くすることにつながっているはずである。
野田医師の逆転勝訴とその確定は、私のDHCスラップ訴訟の結果にも響き合う。何よりも、憲法上「精神的自由権」の中心的位置を占める表現の自由擁護の立場から、まことに喜ばしい。
(2017年2月3日)
当ブログ「澤藤統一郎の憲法日記」が、日民協ホームページの軒先間借りから独立して、新装開店したのが2013年4月1日。以来、毎日一本の記事を途切れることなく掲載し続けて、およそ3年と10か月。本日で連続1400回となった。何がメデタイのか判然とはしないが、ともかく一人で祝うことにしよう。
1400日前の、連載第一回冒頭の記述を引用する。
春。新しい出発のとき。引越の季節でもある。
本「憲法日記」は、4月1日の本日、これまで長く間借りしていた日民協ホームページから引越をして、本サイトにての新装開店である。独立を宣言する心意気なのだが、これまでと何がどう違うことになるのかは、まだよく分からない。少なくとも、大家に気兼ねすることなく、独立自尊、のびのびと、言わねばならぬことを言いたいように言えることになる。もの言わぬは腹ふくるる業とか。恐いものなし。なんでも言うことにしよう。
以来今日まで、第一回で宣言したとおり、「なんでも言うことにし」てきた。「言わねばならぬことを言いたいように言ってきた」とも思う。
私の当ブログ執筆の基本姿勢は以下の如きものだ。
当たり障りのないことは、わざわざ時間をかけて書くに値しない。すべからく、「当たり障りのある」ことだけを記事にしなければならない。
「当たり障りのある」記事とは、直接間接に誰かにとって不愉快であり感情を害するもの。あるいはそれにとどまらず、場合によっては、対象人物の社会的評価を低下させる内容を含むものである。
通常、他人を批判することは避けたいとするのが人情。私もその例に漏れない。しかも私は、もともとが文系の人となり。どちらかといえば、花鳥風月や歴史をひもとくことが好み。そんな文章を書いている限り、舌禍も筆禍もないのだ。
当然のことながら、他人への批判には反論が待っている。反論や反批判の繰りかえしというしんどい作業を覚悟しなければ、「当たり障りのある」記事を書くことはできない。それでも私は、1400日前に、そのような覚悟をもって「当たり障りのある」ブログ記事を書き続けることを宣言したのだ。もちろん、アベ政権の憲法破壊の動きに、少しでも抵抗が必要だと考えてのことである。
表現の自由とは、だれをも傷つけない、毒にも薬にもならない内容の言論が保障されていることではない。権力と権威あるものを対象に、これに打撃を与え、「毒」になる内容の言論が保障されているということでなくてはならない。権力と権威は得てして暴走する、これを是正するのが批判の言論である。権力と権威の腐敗防止の役割も批判の言論が担う。そのことが、多くの人にとっての「薬」になる。当ブログは、そのような役割の一端を担いたい。
まずは、内閣、省庁、国会、裁判所、地方自治体などの権力機構やこれを担う官僚・公務員に対する批判の言論が徹底して保障されなければならない。とりわけ、政治家に対する批判の自由は格別に重要な意味を持つ。
次いで、天皇や天皇にまつわる制度を批判する言論の自由が保障されなければならない。天皇や皇族の行状、その経済的優遇措置、天皇の神聖性や文化的権威の維持に資する一切の思惑や賛美の意見や行事などを批判する言論が最大限に手厚く保障されなければならない。天皇こそが、歴史的に国民主権の敵対物であり、主権者意識確立を妨害する存在だからである。
さらに、社会的な強者としての財界、企業、事業者に対する批判においても躊躇さするところがあってはならない。
そして、メディアや、政党、大学や研究機関、あるいは巨大宗教団体など、社会的な権威や権力を持つ組織やそれを担う人物に対しても、批判の言論が保障されなければならない。
すべからく、権威や権力を持つ者は、その権威や権力の程度に応じて、批判に寛容でなくてはならない。
昨日の「DHCスラップ訴訟・勝利報告集会」で、田島泰彦教授が「国際動向のなかの名誉毀損法改革とスラップ訴訟」というタイトルでの記念講演があった。表現の自由を定めた、国連の「自由権規約(B規約)19条」の公的解釈とも言うべき「名誉毀損法の国際ガイドライン」が、いま大きく変更されようとしており、数ヶ月以内に発表があるはずとのこと。
その中で注目されるものは、「公人(あるいは公的人物)に対する批判の言論」を手厚く保障するという枠組みから、もっと広く「公共の関心事に関する言論」を手厚く保障するという枠組みになるはず、ということだった。「自由権規約(B規約)」は国内法としての効力を持つことになるのだから、心強い限りである。
今日までの1400回のブログでは、アベ政権・自公与党による明文改憲・解釈改憲の動きを批判し続けてきた。その同盟者としての橋下・維新もである。都政や歴史修正主義、諸悪法制定の動きにも警鐘を鳴らしてきた。
天皇や天皇制、天皇制にまつわる元号、祝日、叙位叙勲、公的行為を批判してきた。また、消費者の立場から企業や規制緩和論者を批判してもきた。全ては、弱者の側からの、強者に対する批判のオンパレードである。「宇都宮君立候補をおやめなさい」シリーズも、「DHCスラップ訴訟を許さない」シリーズも、弱い立場の人権に敵対する強者への挑戦の言論となっているはずである。
さて、1400回。もちろん、通過点に過ぎない。次は、満4年の記念日があり、1500回があり、さらに5年となる。改憲阻止を目指して、毎日コツコツと書き続けていくことになるだろう。2000回を迎えたときには、いったい何が主要なテーマとなっているのだろうか。
(2017年1月29日)
一昨日(11月30日)の、【ワシントン=時事】配信記事が目を引く。
「トランプ次期米大統領は29日、国旗を燃やす抗議行動に対し、市民権剥奪か禁錮を刑罰として科すべきだという考えを示した。米国では党派を問わず、憲法で保障された言論の自由を軽視していると批判が広がっている。」という内容。
このリード2文の前半。反知性・差別主義のトランプが、「国旗を燃やす抗議行動に対し、市民権剥奪か禁錮を刑罰として科すべきだという考えを示した」では、犬が人に噛みついた程度のニュースで、目を引くほどのものではない。しかし、後半の「米国では党派を問わず、憲法で保障された言論の自由を軽視していると批判が広がっている」というのは、人が犬に噛みついたほどのニュースバリューのある記事ではないか。
「トランプ氏は29日朝、ツイッターに『国旗を燃やす行為は、許されるべきではない』と投稿。『燃やした場合は結果が伴わなければならない。市民権剥奪か刑務所行きだ』と書き込んだ。トランプ氏の大統領選勝利に抗議して国旗が燃やされたというニュースに、触発されたとみられている。」
ここまでが、本文での「犬が人に噛みついた」ニュースバリューのない記事。
しかし、ここからが「人が犬に噛みついた」ニュースバリュー満点の記事となっている。
「米メディアによれば、連邦最高裁は過去の判決で市民権を奪う刑罰を禁じている上、国旗を燃やす行為を憲法上の権利と認めている。
アーネスト大統領報道官は、記者会見で『国民の多くが国旗を燃やすのは不快だと感じるが、私たちには権利を守る責任がある』とトランプ氏を批判。共和党のマコネル上院院内総務も『米国には不快な言論を尊重する長い伝統がある』と異論を唱えた。
米メディアの間では『トランプ氏が反対論をどのように弾圧するかを示す恐ろしい証拠』などと非難する声が強まっており、トランプ氏を支えてきたギングリッチ元下院議長は『誰からもチェックを受けず(ツイッターで)つぶやくべきではない』とたしなめた。」
トランプは、刺激的なポピュリズムの言動で大統領選に勝利した。ナショナリズムこそは、古典的にポピュリズムの典型テーマ。調子に乗って「国旗を燃やす奴は刑務所行きだ」と愛国者ぶりを発揮して見せたのだ。ところが、この発言は良識派から強くたしなめられての失点になったという構図だ。アメリカはポピュリズム一辺倒ではない。共和党内からの批判も出ているというのが心強い。
ところで、国旗(星条旗)の焼却は犯罪となるだろうか。トランプ政権は、国旗(星条旗)の焼却者を「刑務所行き」にできるだろうか。
アメリカ合衆国は、さまざまな人種・民族の集合体である。強固なナショナリズムの統合作用なくして国民の一体感形成は困難だという事情がある。当然に、国旗や国歌についての国民の思い入れが強い。が、それだけに、国家に対する抵抗思想の表現として、国旗(星条旗)を焼却する事件が絶えない。合衆国は1968年に国旗を「切断、毀棄、汚損、踏みにじる行為」を処罰対象とする国旗冒涜処罰法を制定した。だからといって、国旗焼却事件がなくなるはずはない。とりわけ、ベトナム戦争への反戦運動において国旗焼却が続発し、合衆国全土の2州を除く各州において国旗焼却を処罰する州法が制定された。その法の適用において、いくつかの連邦最高裁判決が国論を二分する論争を引きおこした。
著名な事件としてあげられるものは、ストリート事件(1969年)、ジョンソン事件(1989年)、そしてアイクマン事件(同年)である。いずれも被告人の名をとった刑事事件であって、どれもが無罪になっている。なお、いずれも国旗焼却が起訴事実であるが、ストリート事件はニューヨーク州法違反、ジョンソン事件はテキサス州法違反、そしてアイクマン事件だけが連邦法(「国旗保護法」)違反である。
連邦法は、68年「国旗冒涜処罰」法では足りないとして、89年「国旗保護」法では、アメリカ国旗を「毀損し、汚損し、冒涜し、焼却し、床や地面におき、踏みつける」行為までを構成要件に取り入れた。しかし、アイクマンはこの立法を知りつつ、敢えて、国会議事堂前の階段で星条旗に火を付けた。そして、無罪の判決を獲得した。
アイクマン事件判決の一節である。
「国旗冒涜が多くの者をひどく不愉快にさせるものであることを、われわれは知っている。しかし、政府は、社会が不愉快だとかまたは賛同できないとか思うだけで、ある考えの表現を禁止することはできない」「国旗冒涜を処罰することは、国旗を尊重させている自由、そして尊重に値するようにさせているまさにその自由それ自体を弱めることになる」
なんと含蓄に富む言葉だろうか。(以上の出典は、「日の丸・君が代」強制拒否訴訟における土屋英雄筑波大学大学院教授の意見書から)
わが国の刑法には、外国国旗損壊罪(92条)はあっても、自国の国旗(日の丸)損壊罪はない。この点、アメリカよりはわが国の文明度が高いと誇ることができよう。しかし、これも現行憲法が健全なうちのこと。自民党の改憲草案には、国民の国旗国歌尊重義務が明記されている(3条2項)。こんな憲法になれば国旗(日の丸)損壊罪や国旗侮辱罪が成立するだろう。全国民が一糸乱れず国旗を仰ぎ見る、これは全体主義の悪夢ではないか。
トランプを当選させたアメリカだが、けっして全体主義化しているのではないと知って、やや安堵の思いである。
(2016年12月2日)
昨日(11月23日)の東京新聞「こちら特報部」欄。見過ごしてはならない重い内容の記事となっている。是非とも拡散したい。多くの人に読んでいただき、この国が歴史的にどんな位置にあるかについて考えていただきたい。このような貴重な記事を提供してこその、さすが東京新聞であり、さすが「こちら特報部」であると思う。
メインの大見出しは「警察 暴挙見て見ぬふり」。サブの見出しとして、「天皇制反対デモを右翼が襲撃」。そして中見出しが、「車ボコボゴ、けが人も 政治的中立性どこに」というもの。これだけで、あらかたは推察できる。
リードに、「特報部」の問題意識が、よく表れている。
「東京都内で二十日、天皇制に反対するデモを複数の右翼団体が襲い、デモを先導する車のフロントガラスが割られたり、負傷者が出る騒ぎになった。警視庁の機動隊が現場で規制をしていたが、逮捕者はいなかった。沖縄県の米軍施設建設反対運動では、参加者を警察官が「土人」と中傷した。昨今の警察は政治的中立性という「建前」すら無視してはいないか。」
問題とされているのは、天皇制の是非やデモの主張の当否ではない。民主主義社会において国民に保障されている「表現の自由」の行使が暴力によって蹂躙されているとき、「警察が暴挙見て見ぬふり」をしたという重大事なのだ。こと、政権が押し進める沖縄の基地拡張問題となれば、あるいは政権を支える右翼勢力にとってセンシティブな天皇制の問題となれば、「昨今の警察は政治的中立性という『建前』すら無視する」ということなのだ。
記事の全文を引用して紹介したい。
襲撃されたのは「11・20天皇制いらないデモ」。生前退位議論に絡んで、東京都武蔵野市のJR吉祥寺駅南口周辺で、約百人が参加して実施された。
インターネット上にアップされた動画を見ると、右翼団体がワゴン車を囲み、左右に揺さぶったり、日の丸を付けたポールでフロントガラスを突くなどした。右翼団体の拡声器からは「殺せ、殺せ」という怒声が響き、ヘルメット姿の機動隊が制止に入ったが、右翼団体はそれを押しのけ、ワゴン車への襲撃を続けた。
このデモに参加した男性(37)によると、ワゴン車はデモの先導車で、デモの開始前、井ノ頭通りに出たところを右翼団体に襲われたという。男性は「車がボコボコにされた後、吉祥寺駅近くまで三キロ弱の距離を一時間半ほどデモしたが、ずっと右翼団体に囲まれ、横断幕は破られ、拡声器を奪われたり、地面にたたき付けられたりした。右翼団体とのもみ合いであごから出血したり、歯が折れた参加者もいた」と話す。
右翼団体は全体で三十?四十人。規制する機動隊は五百人ほどいたという。男性は「右翼団体は何のデモか周辺の人びとに分からないようにすることが狙いだったようだ。私たちの主張が書かれているプラカードや、拡声器を集中的に狙っていた」と振り返る。
当日、デモ隊、右翼団体双方から逮捕者は出なかった。男性は「これまで十年ほど運動をしているが、被害の大きさは過去最高。警察は右翼団体の暴挙を意図的に見逃しているようにしか見えなかった」と憤る。
この点について、警視庁公安部は「現在捜査中なので、回答は差し控える」とコメントしている。
ジャーナリストの斎藤貴男氏は「警察は本質的に体制の擁護者。国家の秩序維持が、その存在意義の一つだということは分かっている。そうだとしても、目の前の犯罪を取り締まらないとは度を越している」と批判する。
沖縄県東村の米軍北部訓練場ヘリパッド移設工事に反対する運動では先月、警備にあたっていた大阪府警の機動隊員が反対派市民に「ぼけ、土人が」などと発言し、戒告の処分を受けた。だが、鶴保庸介沖縄北方担当相が「警察の(土人発言は)差別とは断定できない」と発言した件について、政府は十八日、「謝罪の必要はない」との認識を閣議で決定した。
斎藤氏は、「土人発言を大臣が擁護することは、日本が差別を率先する国になっていることを意味する」と危機感を抱く。「戦後、少しずつ改善された人権意識が全部壊され、社会秩序を守るべき警察が、積極的に社会をぶち壊す側に回っている。ここまでひどいのは戦後初めてではないか」
さらに、こうした警察の振る舞いの影響を危ぶむ。
「今回は天皇制反対のデモだったが、これからはどんなテーマであれ、お上に逆らう人びとに対しては、罵詈雑言を浴びせたり、暴行しても権力が擁護する社会になるかもしれない。この無残さは人の世とは思えない。どれだけ意見に相違があろうとも、デモヘの襲撃は犯罪にほかならない」
東京新聞・特報部の焦慮にも似た問題意識がよく伝わってくる。デモの実行委員会から提供を受けたという「デモの開始前に割られた先導車のフロントガラス」の写真も生々しい。
ところで、この点に関しての他紙や電波メデイアの報道はどうなっているのだろうか。まさか、「天皇制反対の過激デモ、痛い目に遭ってもやむを得まい」と思っているはずはないだろう。しかし、「報道は、天皇制に対するデモを擁護と受けとられかねない」としての黙殺や遠慮が少しでもあるとすれば大きな問題であり、それこそが天皇制の民主主義に対する危険性を物語るものでもある。
声を上げなくてはならないと思う。今ならまだ遅くはない。小さな声の集積が差別者集団のヘイトデモを追い詰めたように、表現の自由を守るべき声を上げなければならない。ことが天皇制の評価に関わるものだからと躊躇していては、「お上に逆らうすべての言論」が封殺されてしまうことになりかねない。
「警察は襲撃者集団を特定して訴追すべきである」と発信しよう。警察が撮影したデモ襲撃現場の動画もあるはずだし、ネットにも動画が掲載されている。警察が犯人を特定して逮捕できないはずはない。
そして、被害者は証拠を保全して告訴すべきだ。暴行、脅迫、傷害、窃盗、器物損壊、だけでなく、
「暴力行為法(暴力行為等処罰ニ関スル法律)第1条 団体若は多衆の威力を示し、団体若は多衆を仮装して威力を示し又は兇器を示し若は数人共同して刑法第208条(暴行)、第222条(脅迫)又は第261条(器物損壊)の罪を犯したる者は3年以下の懲役又は30万円以下の罰金に処す」「同法第1条の3 常習として刑法第204条(傷害)、第208条(暴行)、第222条(脅迫)又は第261条(器物損壊)の罪を犯したる者 人を傷害したるものなるときは1年以上15年以下の懲役に処し其の他の場合に在りては3月以上5年以下の懲役に処す」も活用すべきだ。
仮に不起訴となれば、証拠を携えて検察審査会に審査申立をすべきだし、特定できた襲撃者に対しては、損害賠償請求訴訟も提起を考慮すべきだ。附和雷同の襲撃加担者に、軽挙が高くつくことを知らしめなければならない。
いま右翼は、政権も社会も自分の味方だと思いあがっているのだ。政権にも、右翼暴力にも、民主主義社会は毅然たる姿勢を示さなければならない。
(2016年11月24日)
一昨日(11月16日)、むさしの憲法市民フォーラムが主催する、「シンポジウム 今、言論、表現の自由のために」に聴衆の一人として参加した。会場は、武蔵境のスイングホール。パネラーが、植村隆、醍醐聰、神原元の3名であるからには、どうしても行かねばならない。
参加者の熱気がパネラーの熱意を呼び、充実した集会となった。事前の集会のコンセプトが練られた集会ではなかった。ところが、却ってその未整理の混沌が、力強い問題提起となった。今日の言論状況を、浮き彫りにする結果となって、考えさせられる素材の提供を受けたと思う。
植村さんは、「言論弾圧・歴史修正主義と闘うジャーナリスト」として、「植村バッシング」の経過を報告した。植村バッシングのえげつなさについての被害者本人ならではの説明のあと、一連のバッシングの目的を、「改憲をたくらむ歴史修正主義者たちによる『リベラル朝日』を萎縮させ、慰安婦問題をタブー化させる攻撃」とまとめた。それゆえ、絶対に屈することができないとも。
醍醐さんは、「メディア(NHK)の自由・自立と使命をめぐる論点」として、NHKの政権翼賛メディアに堕している実態を告発した。本来権力に対する監視の役割をレーゾンデートルとするはずのメディアが、「準」国策報道機関の域を超えて、「純」国策報道機関となっている。政権浮揚に手を貸して国民(視聴者)を裏切っている実態を、民放報道と比較した幾つもの具体例を挙げた。
また、神原さんは、「なぜ、いまヘイトスピーチなのか」として、その禍々しい実態をレポートした。安倍政権の成立とともにヘイトスピーチ、ヘイトクライムが跋扈してきたことの報告が印象的だった。
集会のメインタイトルが、「今、言論、表現の自由のために」である。通常、公権力の規制に抗しての「言論、表現の自由」は、民衆にとって、あるいは国民大多数にとって価値ある望ましいものである。だから、「言論・表現の現状」の問題性は、「言論・表現の自由の寡少」として語られる。
しかし、東京地裁・札幌地裁に係属している2件の「植村訴訟」では、櫻井よしこや西岡力ら被告右翼側が、憲法21条の表現の自由を援用している。また、ヘイトスピーチ・ヘイトデモをもっぱらにしている在特会すらも、自らの行動の正当性を「表現の自由」で粉飾している。NHKの対政権擦り寄り姿勢も、「報道の自由」「編集権の裁量」の美名で糊塗されかねない。
植村バッシングの言論も、民族差別の表現も、政権と一体になったNHKの報道等々についての問題性は、「言論・表現の自由の寡少」が問題ではなく、「言論・表現の自由の濫用」状況にいかに歯止めをかけ得るかとして問われなければならない。
この点を醍醐さんは、「従来言論の自由は、『公権力』対『メディア・市民』という対抗関係でとらえられ、メディアの国家の干渉からの自由が、市民の利益にかなうものと受けとめられてきた。しかし、メディアと市民は必ずしも、利害を同一にするとは限らない。また、市民対市民の中傷誹謗の言論の問題も無視し得ない。それぞれに様相が複雑化している」とした上で、「言論の自由は、それ自体が目的ではなく、真理に近づく熟議を可能とする前提として価値がある」「言論の自由は権力者によってだけではなく、偏狭な排他主義、『世間』『組織』の同調圧力によっても、脅かされる」と発言した。これは、真理に近づく熟議を可能とする前提としての言論でなくてはその自由を擁護すべき価値はないとの含意であろうし、公権力に対する警戒だけでなく、偏狭な排他主義からなる身近な世間の同調圧力となっている言論をも警戒せよ、との警鐘でもある。
また、神原さんは、1930年代ドイツにおけるケルゼンやラートブルフの論説を引いて、民主主義や自由を否定する言論に対しては、寛容を以て遇するのではなく、果敢に闘わざるを得ない、と述べた。
渦中にいる人たちの焦慮が伝わってくる。ヴォルテールの名言と伝えられる「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけても守る」などと言っておられる事態ではないということだ。
好例がヘイトデモであり、植村バッシングである。ヘイトデモの暴力性は、ようやく社会の共通認識となってきたが、これが言論の域にとどまるものとしても、差別の表現に寛容であれなどと言ってはおられない。人間の尊厳を攻撃し貶める言論には果敢に闘わざるを得ない。
植村バッシングも基本は同じ。こちらはもっと手が込んでいて、悪質と言えよう。産経や文春、西岡、桜井らの言論は、それぞれの役割を補完しつつ一体をなしている。実は、産経や文春、西岡、桜井らは氷山の一角の頂点をなす存在で、その下部には水面下深く、巨大な匿名集団が存在している。産経や文春、西岡、桜井ら頂点の存在は、暗い水面下に沈潜する氷塊の司令塔であり、煽動部隊である。産経や文春、西岡、桜井らの煽動によって、百鬼夜行の如く、匿名に隠れたネトウヨたちが蠢動する。攻撃されたのは、植村ひとりではない。勤務先の北星大学をターゲットにして、抗議の電話やファクスが集中した。複数の脅迫状も送られてきた。家族をネットに晒して、卑劣な攻撃をされた。産経や文春、西岡、桜井らは、自分たちの「言論」が及ぼす、暴力や脅迫や、威力による業務への支障や、それによる当事者の恐怖の効果を計算しつつ発言できるのだ。少なくとも、自分の言論において名指しした人物に及ぼす具体的影響について予見可能だし、予見義務もある。
実は、このようないびつな言論空間の中で、非対称の言論・表現が交換されている。この現実を捨象して、抽象的に表現の自由一般を語って、敵対する表現にも寛容であれ、などと述べることは、粗暴な強者の側に屈服することにほかならない。
植村さんが、あの時点で敢然と提訴したことは、たたかう姿勢を見せたことだ。裁判を基軸に、朝日バッシングと歴史修正主義に対抗する運動が盛り上がりを見せて、確実に成果をあげている。
今日(11月18日)、たまたまご近所の集会所で植村さんを招いての「メディアバッシングと報道の自由を考える集い」があった。出席の多くはジャーナリストの皆さん。
植村さんの講演のあと、「植村さんの姿勢に励まされた」「植村さんを支えて最後まで闘いたい」とのジャーナリストの発言が続いた。
闘う相手は、産経や文春、西岡、桜井だけではない。政権も含む巨大なもの。もしかしたら時代の潮流そのものというべきものなのかも知れない。そして、闘いは、訴訟の場における法的問題にとどまらない。歴史修正主義や差別の言論への批判に、躊躇があってはならない。メディアバッシングを許し、反権力・反多数派の報道の自由を形骸化させてしまっては、取り返しのつかないことになる。それこそ、真理に近づく熟議が、不可逆的に不可能となりかねないのだから。
(2016年11月18日)
四國五郎(1924?2014)という画家をご記憶だろうか。ウィキペディアには、「広島県広島市出身の画家・挿絵画家・絵本作家・詩人である。広島平和美術展を広島の画家仲間達と創設。絵画と詩を描きながら、広島を拠点にして戦後の平和運動を推進した。特に原爆をテーマにした絵本『おこりじぞう』の装丁と挿絵が有名。」とある。峠三吉や山口勇子と組んで仕事をした人だ。
本日配達になった「福竜丸だより・№395」(2016年9月1日)に、ご長男・四國光氏の寄稿がある。「詩画人・四國五郎と『辻詩』」というタイトル。
「辻詩」とは耳慣れない。「辻」は、四つ辻の辻。辻説法・辻占・辻商い・辻籠・辻待ち・辻芝居・辻斬りの、あの「辻」。往来が交差する賑わうところ、巷の意味。辻詩は、「巷の詩」ということになるが、その内容は思想的宣伝物(手描きの反戦反核ポスター)なのだ。これを、単にポスターとかビラあるいは伝単などと即物的に表現せず、「辻詩」と言うところに作成者の思い入れがある。作成者とは峠三吉と四國五郎の両名が中心。峠が文を四國が絵を担当したという。この辻詩の作成と貼り出しは、占領下の広島で当局の言論統制をかいくぐっての逮捕覚悟のものだったという。その表現意欲がすさまじい。
「福竜丸だより」の寄稿を抜粋して紹介したい。これはまた見事な、亡き父へのオマージュでもある。
父・四國五郎は第五福竜丸の水彩画を残している。また、ビキニ事件の時は、巨大な「原爆マグロ」を作って広島のデモに参加した。行動しなければ、という思いが常に父を突き動かしていた。
その父の展覧会が「原爆の図一丸木美術館」で、開催されている(9月24日迄)。
父の作品としては「絵本おこりじぞう」の絵や、峠三吉と作った「原爆詩集」の表紙面や挿画が最も知られたものだと思うが、今回の展示の目玉のひとつは、父が峠と作った手描きの反戦反核ポスターだ。父たちはこの表現形式を「辻説法」になぞらえ「辻詩」と呼んだ。1950年の朝鮮戦争の始まる少し前から、峠が入院する53年頃まで、父は100枚から150枚描いたというが、現存するのは父のアトリエにあった8枚のみ。今回の展覧会では初めてこの8枚全てが展示された。
当時はGHQによる言論統制のため、戦争や原爆に関する表現は厳しく規制されていた。「辻詩」はそのような状況下で作られた、逮捕覚悟の反戦活動であった。「辻詩」が出来上がると、峠が始めた詩のサークルである「われらの詩の会」のメンバーが手分けしてゲリラのように街中に貼り出し、警察が来ると大急ぎで剥して逃げた。「辻詩」の四隅に残る画鋲の穴を数えると、何回逃げたかがわかる。多いもので40個の穴が開いていたそうだ。
どのようにして「辻詩」を作ったか、父のメモが残されている。それを読むと、ジャズの即興を連想させる。峠と父とでアイデアを持ち寄る。お互いに意見をぶつけ合いその場で「辻詩」の原案をどんどん作っていく。父がそれを自宅に持ち帰り、絵と、絵に相応しい字体で詩を書き入れる。出来上がると街に貼り出し道行く人に訴える。混沌の現実から今もぎ取ってきたような「生の表現」。それこそが人の心に訴え人を動かす、という信念が父たちにはあった。父は自分たちで書くだけでなく、多くの方が参加可能な「表現のプラットフォーム」として、「辻詩」に大きな可能性を見出していた。沈黙から言葉を引き出そうとした。
仲間たちの中には、父や峠の、あまりに前のめりな姿勢に対して、危険すぎるので止めるべきだ、という反対も多かったと言う。しかし、父の日記を読む限り、この運動を減速したり止めたりする気持ちは微塵もなかったようだ。「辻詩」によって、詩と絵が社会に対してどれだけの働きかけができるのか、そのチヤレンジに全身全霊をかけて没頭していた様子が伺われる。
「この時代、沈黙してはいけない」。日記を読むと、一連の表現活動による逮捕の可能性も仄めかしており、恐らく覚悟の上だったようだ。「戦争とシペリアを経験したので、それに比べればどんな事でも乗り越えられると思った」と晩年語っていた。
「辻詩」とは廃棄あるいは押収される事が運命づけられた「使い捨て」の表現物だ。自分が丹精込めた「表現」の痕跡は一切残らない。3年近く、父は「辻詩」の作成に情熱を注いだ。作品として残る可能性の無いものに対して、そこまでのエネルギーを費やし続けることの、執念のような腹の括り方に、 私は改めて驚きを禁じ得ない。
峠の死後も、父は生涯、戦争と平和のメッセージを伝える事を自分の使命と課し、絵や詩など膨大な作品を残した。その中で、最も父の心を熱く燃やしたものが、若き日の「辻詩」であったと思う。「辻詩」は表現者・四國五郎の原点であった。
なお、東京新聞(16年8月4日)の記事に、次の紹介がある。
「原爆をテーマにした絵本「おこりじぞう」の挿絵や詩人・峠三吉の私家版「原爆詩集」の表紙絵などで知られ、生涯にわたり反戦と平和を表現し続けた画家四国五郎さん(1924?2014年)の画業を振り返る「四国五郎展」が、東松山市の原爆の図丸木美術館で開かれている。」「復員の翌年、峠三吉と知り合った四国さんは、反戦詩をつづった絵を街頭に張り出す「辻詩」の活動を始める。朝鮮戦争(1950?53年)の最中、占領軍の言論統制下でのゲリラ的な運動だった。50年、丸木位里・俊夫妻も官憲の目をかいくぐりながら「原爆の図」の全国巡回展を始め、出発点となった広島では、四国さんらが展覧会を支えた。」(以下略)
表現の自由が抑圧された時代にも、表現者は黙ってはおれない。「この時代、沈黙してはいけない」という四國の言葉は重い。今の時代、意欲さえあれば、書ける、話せる、出版も、掲示も、メールも、ブログも、ほぼ自由に表現できる。この貴重な自由を、精一杯行使し続けなければならない。表現の萎縮によって自らこれを放棄する愚を犯してはならない。峠や四國の活動を知って、痛切にそう思う。
(2016年9月9日)
下記の、各地17の視聴者団体が、今日(8月11日)から連名で、NHK経営委員会長宛先にした、署名運動を始めた。
この署名運動への賛同と拡散への協力要請の通知を受けた。
私も署名をして、多くの方への賛同と拡散への協力を要請します。
☆呼びかけ団体は以下のとおり。
アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」(wam)
NHKとメディアを語ろう・福島
NHK問題大阪連絡会
NHK問題京都連絡会
NHK問題とメディアを考える茨城の会
NHK問題を考える岡山の会
NHK問題を考える会・兵庫
NHK問題を考える会・さいたま
NHK問題を考える堺の会
NHK問題を考える滋賀連絡会
NHK問題を考える奈良の会
NHKを憂える運動センター・京都
NHKを考える東海の会
NHKを監視・激励する視聴者コミュニティ
政府から独立したNHKをめざす広島の会
「戦争と女性への暴力」リサーチ・アクションセンター(VAWW RAC)
時を見つめる会
放送を語る会
籾井さん!NHK会長やめはったら受信料払います京都の会
☆要望書のタイトルは、
「次期NHK会長選考にあたり、籾井現会長の再任に絶対反対し、推薦・公募制の採用を求める」
というもの。
☆署名による経営委員会長宛の要望事項
1. 公共放送のトップとして不適格な籾井現会長を絶対に再任しないこと
2. 放送法とそれに基づくNHKの存在意義を深く理解し、それを実現できる能力・見識のある人物を会長に選考すること
3. 会長選考過程に視聴者・市民の意思を広く反映させるよう、会長候補の推薦・公募制を採用すること。そのための受付窓口を貴委員会内に設置すること
☆署名用紙の全文(呼びかけ団体、署名運動の趣旨、要望事項、署名欄、署名用紙の郵送先などを記載)は下記URLを参照してください。
http://bit.ly/2aVfpfH
☆ネット署名も受け付けています。
https://goo.gl/forms/G43HP83SSgPIcFyO2
署名に添えられたメッセージを、個人情報を省いて、ネット上で公開しています。
https://goo.gl/GWGnYc
☆署名の第一次集約とその提出予定
第一次集約日 9月10日(土)
第一次分提出予定日 9月12日(月)
(9月13日(火)が経営委員会長定例会長となります)
☆ 要望事項に添えられた要請文は下記のとおり。
来年1月に籾井現会長の任期が満了するのに伴い、貴委員は目下、次期NHK会長の選考を進めておられます。
私たちは、放送法の精神に即して、NHKのジャーナリズム機能と文化的役割について高い見識を持ち、政治権力からの自主・自立を貫ける人物がNHK会長に選任されることを強く望んでいます。
籾井現会長は、就任以来、「国際放送については政府が右ということを左とは言えない」、「慰安婦問題は政府の方針を見極めないとNHKのスタンスは決まらない」、「原発報道はむやみに不安をあおらないよう、公式発表をベースに」など、NHKをまるで政府の広報機関とみなすかのような暴言を繰り返し、視聴者の厳しい批判を浴びてきました。このような考えを持つ人物は、政府から自立し、不偏不党の精神を貫くべき公共放送のトップにはまったくふさわしくありません。
次期会長選考にあたっては、視聴者の意思を反映させる、透明な手続きの下で、ジャーナリズム精神を備え、政治権力に毅然と対峙できる人物が選任されるよう、貴委員会に対し、以下のことを強く要望いたします。
皆さま、ご協力のほど、よろしくお願いします。
********************************************************************
ジャーナリズムの本領は、国民の知る権利に応えることにあります。
国民の知る権利の対象は、時の政権が国民に知らせたいことではなく、国民に知らせたくないことにほかなりません。 国民の知りたいこと、知るに値することは、時の政権に不都合なこと。これを国民に知らせることが、NHKの使命ではありませんか。
権力から独立してこそのジャーナリズムです。
政府が右と言おうと左と言おうと、これに左右されるようなことでは、ジャーナリズム失格というほかはありません。
ジャーナリズムの公正とは、権力からの独立と同義にほかなりません。
NHKの公正の度合いは、官邸からの距離ではかられます。官邸の思惑を忖度などけっしてしてはなりません。
NHKの信頼を完全に失った籾井勝人会長は失格というほかありません。
NHKの使命を全うするにふさわしい、識見を持った会長の選考を求めます
(2016年8月11日)
本日(6月16日)、日本記者クラブを会場とした、公開討論「テレビ報道と放送法―何が争点なのか」を会場の片隅で聴いた。この公開討論は、「放送法遵守を求める視聴者の会」なるものの主張をめぐって、同会と「放送メディアの自由と自律を考える研究者有志」との討論という形のもの。
「視聴者の会」は、一見明らかにアベ政治の応援団。もっと端的に言えば、政権の手先の役割を担っている。これまで3度この会の名で、「私たちは違法な報道を見逃しません」という「監視の目」を大写しにした例の新聞広告を出した。昨年(2015年)11月、読売と産経に各1度。そして、今年(2016年)2月13日に再び産経に。この3度目の広告には、呼びかけ人だけでなく、賛同者の名が掲載された。変わり映えのしない狭い右派人脈の名が連ねられている。
このような団体との公開討論に意味があるのか疑問なしとしないところだが、「研究者有志」側の醍醐聰さんの事前の呼びかけは、「高市総務大臣の『電波停止発言』や報道の自由、自律、放送メディアの影響力(権力性)などをめぐってさまざま議論が交わされている。これらの点について異なる意見を持つ言論人が公開で討論をする企画が以下のとおり実現することになった。」というもの。
仲間内の議論だけで済ませるのではなく、「異なる意見を持つ者との議論こそが重要」「そのような議論を通じてこそ自分の見解が検証され」「議論が深まる」と言われてみればそのとおりだが、「あまりにも異なる意見をもつ者との議論」が成り立つのだろうか、実りある議論となるのだろうか。
パネラーは、3人対3人。
<放送メディアの自由と自律を考える研究者有志>側は、
砂川 浩慶(立教大学教授/メディア総合研究所所長)
岩崎 貞明(放送レポート編集長)
醍醐 聰(東京大学名誉教授)
<放送法遵守を求める視聴者の会>
ケント・ギルバート(米カルフォルニア州 弁護士、タレント)
上念 司(経済評論家)
小川 榮太郎(文芸評論家、視聴者の会事務局長)
視聴者の会側が求める「放送法遵守」とは、同法4条1項の以下の各号のこと。
第4条1項 放送事業者は、国内放送…の放送番組の編集に当たつては、次の各号の定めるところによらなければならない。
一 公安及び善良な風俗を害しないこと。
二 政治的に公平であること。
三 報道は事実をまげないですること。
四 意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。
会に言わせると、既存テレビ局の放送は、この二号と四号に反して、特定のバイアスをもった政治的なプロパガンダとなっているという。常識的にとても首肯できる主張ではないが、その根拠として持ち出されているのが、特定秘密保護法や安保法制の法案審議段階での各番組の「両論(賛成・反対)放送時間比較」。
秒単位で測ってみたら、圧倒的に反対論の時間が多かった。これを総合すると、
特定秘密保護法案の審議に関する報道では、[賛成 26%][反対74%]
安保法制の審議に関する報道では、[賛成 11%][反対89%]
ほら、こんなに偏っているでしょう、というわけである。今日の討論会でも、「1対9はおかしいでしょう」と、執拗に繰り返された。
この検証をしたのは、「一般社団法人日本平和学研究所」という組織。社団法人で、「平和学」を専門とする研究機関なら権威があろうかと思わせるが、ネットを検索するとこの組織は、
登記年月日:平成27年10月15日
役員:代表理事 小川榮太郎
理事 長谷川三千子
というもの。なお、いうまでもなく一般社団法人の設立は届出だけで可能である。
視聴者の会の事務局長を務める小川榮太郎とは何者か。そのことについて、「リテラ」というネットニュース記者の会場発言が印象的だった。私は初めて知ったことだが、「リテラ」の記事を引用する。
http://lite-ra.com/2015/12/post-1827.html
「同団体(視聴者の会)と安倍首相との関係。鍵を握っているのは「視聴者の会」の事務局長を務める小川榮太郎氏だ。『視聴者の会』を立ち上げ、実質的に仕切っている人物で、同会がテレビの報道内容の調査を委託した『一般社団法人日本平和学研究所』の代表も小川氏が務めている。
その小川氏は、自民党総裁選直前の2012年9月、『約束の日 安倍晋三試論』(幻冬舎)という“安倍礼賛本”を出版、デビューしており、この本がベストセラーになったことが、安倍首相復権の第一歩につながったとされている。
ところが、この「視聴者の会」の首謀者の著書を、安倍首相の資金管理団体である晋和会が“爆買い”していたことがわかったのだ。
この事実を報じたのは、「しんぶん赤旗」日曜版(12月13日号)。同紙によると2012年10月に丸善書店丸の内本店で900冊、11月に紀伊国屋書店でも900冊購入していたという。
〈「晋和会」の12年分の政治資金収支報告書には、書籍代として支出先に大手書店の名前がずらり。収支報告書に添付された領収書を見ると、小川氏の『約束の日』を少なくとも2380冊、計374万8500円購入していることが分かりました。〉(同紙より)
本サイト(「リテラ」)でも晋和会の収支報告書を検証したところ、赤旗が報じたよりももっと大量に小川氏の『約束の日』を購入している可能性があることがわかった。同書が発売された2012年9月から12月にかけての収支報告書にはこんな巨額の書籍購入記録がずらりと並んでいた。(中略)
その総額は実に700万円以上! しかも、興味深いのは安倍首相が版元の幻冬舎だけでなく、紀伊国屋書店はじめ複数書店で大量購入していることだ。
支持者に配るためというなら、版元から直接購入すればいいだけの話。それをわざわざ都内の各書店を回って、買い漁っているのは、ようするに、買い占めによって同書をベストセラーにするという作戦だったのだろう。(以下略)」
この事実を念頭に、視聴者の会の主張を聞くとその評価はがらりと変わることになる。つまりは、表向きの主張(知る権利の擁護)とホンネ(アベ応援目的)との乖離が見えてくる。ホンネはマスメディアの安倍批判を牽制しようということとみれば、表向きの主張はご都合主義のきれいごとに過ぎないのだ。
しかし、醍醐さんは、視聴者の会の表向きの主張に真っ向から丁寧に付き合う。主張の背景にあるもので相手を攻撃しない。こんな相手でも、その人格を認めて意見交換を行うことに価値ありという立場なのだ。多分天性のものもあろうし、学生を教えてきた職業的な真摯さが板についていることもあるのだろう。まずは、相手の言い分にじっくり耳を傾けようという姿勢。真似ができない。
政権の応援団として、政権批判の言論を牽制しようという彼らも、民主主義や自由主義、表現の自由を否定しない。むしろ、自分たちこそ、その理念の体現者だという。だから、危ういながらも、議論の出発点としての共通の土台はある。醍醐さんが設定したのは「知る権利」だった。
メデイアの表現の自由とは、国民の知る権利に奉仕するためにある。国民は、メディアが伝える事実やその事実に付随する見解・評価を咀嚼して自らが判断し、主権者としての自らの意見を形成する。
特定秘密保護法や戦争法の法案など、国や国民の命運に関わる重要法案の審議において、メデイアが国民に伝達すべきは、圧倒的に優勢な権力側が提供する情報ではない。これに賛成する意見の垂れ流しでも形式的な賛否の平等でもない。メディア本来の役割は、政府提案の内容や根拠や背景を徹底して吟味しその問題点や、政府案の欠陥をえぐり出して国民に提示することである。そうして初めて、国民は自己の判断に資する情報や評価に接しえたことになる。断じて賛否の時間的なバランスが大切なのではない。どだい、「視聴者の会」がいう賛否の色分けも曖昧なもので、納得できるものではない。
時間で測定した形式的平等に固執し、「賛否の時間比が、1対9」と繰り返す視聴者の会側の3人は、私には政権擁護派の愚論としか聞こえない。メデイアの現状を知る国民に影響力あるとは思えないのだ。しかし、もしかしたら、彼らは俗耳に入りやすいことを計算した巧妙な議論を展開しているのかもしれない。とすれば、愚論と切って捨てることでは問題の解決にならない。その場合には、丁寧に学生と交流し学生を諭す醍醐さん流の正攻法が唯一の有効策なのかも知れない。
(2016年6月16日)
本日(6月2日)、横浜地方裁判所川崎支部が、以下の仮処分命令を出した(仮処分事件では、申立てた者を「債権者」、申し立てられた相手方を「債務者」という)。
当裁判所は,債権者に債務者のため30万円の担保を立てさせて,次のとおり決定する。
主文 債務者は,債権者に対し,自ら別紙行為目録記載の行為をしてはならず,又は第三者をして同行為を行わせてはならない。
行為目録
債権者(社会福祉法人)の主たる事務所(川崎市川崎区桜本○丁目△番□号)の入口から半径500m以内(別紙図面の円内)をデモしたりあるいははいかいしたりし,その際に街宣車やスピーカーを使用したりあるいは大声を張り上げたりして,「死ね,殺せ。」,「半島に帰れ。」,「一匹残らずたたき出してやる。」,「真綿で首絞めてやる。」,「ゴキブリ朝鮮入は出て行け。」等の文言を用いて,在日韓国・朝鮮人及びその子孫らに対する差別的意識を助長し又は誘発する目的で公然とその生命,身体,名誉若しくは財産に危害を加える旨を告知し,又は名誉を毀損し,若しくは著しく侮辱するなどし,もって債権者の事業を妨害する一切の行為
これはすばらしい決定だ。「ヘイトスピーチを行う個人や団体に行為の禁止を認める仮処分決定は、京都地裁が『在日特権を許さない市民の会』(在特会)などに対し、京都朝鮮第一初級学校(京都市)近くでの演説禁止などを命じた決定(2010年)に続き、2例目とみられる。」と報道されているが、今回の仮処分はヘイトスピーチ対策法成立後のこの時期、天下の耳目を集めてのもの。影響は大きい。
仮処分命令は「地図上に同法人の事務所から半径500メートルの円を描いて、このなかのヘイトデモを禁止する」という内容。警察は、デモ隊がこのエリアで「デモしたりあるいは徘徊したり」することを阻止しなければならない。制止を無視するヘイトスピーチデモ参加者を、威力業務妨害で逮捕もしなくてはならない。
これから続々と同種仮処分の活用が日常化していくことになるだろう。ヘイトデモ禁止に実効性を有する仮処分戦術が進歩していくだろう。仮処分だけでなく、仮処分の取得をテコにした警察警備のあり方も厳格化されていくだろう。何よりも、仮処分だけでなく本訴の活用にも大きく道が開けた。この仮処分決定は、理由中で「ヘイトデモにおける差別的言動は、平穏に生活する人格権に対する違法な侵害行為に当たるものとして不法行為を構成する」と明記した。しかも、「人格権を侵害する程度が顕著」とも断じている。その結果、ヘイトデモ主宰者や幹部企画者だけでなく、すべての差別デモ参加者が共同不法行為の責任を負わねばならないことになる。損害賠償責任が生じ、ヘイトデモ参加者個人に対する財産の差押えができることになる。
決定書を見ると、債権者は、「在日大韓基督教会川崎教会を母体として社会福祉法人の認可を受けた川崎市内桜本地区の社会福祉法人で、その目的として,人種・国籍・宗教のいかんを問わず,福祉サービスを必要とする者が,心身ともに健やかに育成され,又は社会,経済,文化その他あらゆる分野の活動に参加する機会を与えられることを目指し,個人の尊厳を保持しつつ,自立した生活を地域社会において営むことができるよう支援し,共生社会を実現することを掲げている」という。
裁判所の認定によれば、「川崎市臨海部は,戦前から,在日コリアンと呼称される在日韓国・朝鮮人(その子孫らを含む。以下同じ。)が多数居住する地域であり,特に債権者の事務所が所在する川崎市川崎区桜本地区はその集住地域であり,そのことは広く知られている。債権者は,同地区において,民族を理由に入園を断られた子供を受け入れる保育園を設立する,学校で孤立する在日コリアンの居場所を作る,在日1世の高齢者の福祉も手掛けるなど,民族差別解消・撤廃に向けて取り組み,社会福祉事業を行ってきたものであり,現在,同地区内ないしその周辺において,計9か所の拠点で,保育所,児童館,高齢者・障害者交流施設,通所介護施設等の施設を運営している。債権者の事業所及び施設は,債権者の主たる事務所の入口から半径500m以内(別紙図面の円内)に所在している」という。だから、ここが差別主義者の標的になるのであり、だからこそ卑劣な攻撃から防衛しなければならないわけだ。
裁判所は、住民の人格権尊重と、憲法21条の表現の自由との調整について、次のように判示している。やや長いが重要個所として引用しておきたい。
「人格権の侵害行為が,侵害者らによる集会や集団による示威行動などとしてされる場合には,憲法21条が定める集会の自由,表現の自由との調整を配慮する必要があることから,その侵害行為を事前に差し止めるためには,その被侵害権利の種類・性質と侵害行為の態様・侵害の程度との相関関係において,違法性の程度を検討するのが相当である。しかるところ,その被侵害権利である人格権は,憲法及び法律によって保障されて保護される強固な権利であり,他方,その侵害行為である差別的言動は,上記のとおり,故意又は重大な過失によって人格権を侵害するものであり,かつ,専ら本邦外出身者に対する差別的意識を助長し又は誘発する目的で,公然とその生命身体,自由,名誉若しくは財産に危害を加える旨を告知し,又は本邦外出身者の名誉を毀損し,若しくは著しく侮辱するものであることに加え,街官車やスピーカーの使用等の上記の行為の態様も併せて考慮すれば,その違法性は顕著であるといえるものであり,もはや憲法の定める集会や表現の自由の保障の範囲外であることは明らかであって,私法上も権利の濫用といえるものである。これらのことに加え,この人格権の侵害に対する事後的な権利の回復は著しく困難であることを考慮すると,その事前の差止めは許容されると解するのが相当であり,人格権に基づく妨害予防請求権も肯定される。」
この仮処分命令申立は5月30日で、予告された6月5日のデモを禁止する必要から、急ぎ本日(6月2日)発令となった。ただし、期限は6月5日までと区切られていない。その後もなお、有効なのだ。
また、デモの主催者は、市内2カ所の公園利用を市に申請していたが、市は5月末に不許可としている。市民の意識が中心となり、自治体や裁判所の手を借りることで、「日本の恥」というべきヘイトスピーチデモを根絶することができそうな予感がする。
安倍政権登場とともに、ヘイトデモは跋扈し始めた。ヘイトスピーチを許容する社会の雰囲気が安倍政権を作った側面もあろうし、安倍政権の右翼的体質がヘイトスピーチデモを煽ったことも否定し得ない。しかし、あまりにひどい差別言動には、さすがの安倍政権も距離を置かざるを得ない。世論に押される形で、政権には不本意なヘイトスピーチ対策法が成立し、川崎市もヘイトスピーチデモ排除に乗り出している。このタイミンクでの仮処分決定は、まことに貴重だ。勇気をもって、申し立てた関係者と、代理人の弁護団に敬意を表する。
(2016年6月2日)