(2022年6月19日)
18日付の各紙が、「細田博之衆院議長が文芸春秋社を提訴 『セクハラ報道、事実無根』」と報じている。細田は17日、女性記者へのセクハラ疑惑を報じた週刊文春の記事で名誉を傷つけられたとして、発行元の文芸春秋社に2200万円の損害賠償、謝罪広告の掲載、オンライン記事の削除を求めて東京地裁に提訴したとのこと。
『週刊文春』5月26日号(同月19日発売)は、細田が過去に女性記者に対して、深夜自宅に「今から来ないか」と誘うなどセクハラ発言を繰り返していたと報道。翌週と翌々週にも続報記事2本を掲載した。細田側は「記事に記載されたセクハラや虚偽の説明、口止めを行ったことはなく、事実無根だ」と主張している。
一方の文芸春秋側は、「小誌のセクハラ報道以来、国権の最高機関のトップである細田議長が、公の場で一度も説明されないまま提訴に至ったことは残念に思います。記事は複数の証言、証拠に基づくもので十分自信を持っており、裁判でセクハラの事実を明らかにしてまいります」と余裕のコメント。
私は週刊文春も週刊新潮も大嫌いである。しかし、その報道の自由は尊重しなければならない。とりわけ、衆議院議長のセクハラ報道である。政治的・社会的圧力によって、その報道が闇に葬られてはならない。
この件については、「細田博之・セクハラ疑惑報道に対するスラップの構造 ー 「DHCスラップ訴訟」を許さない・第200弾」(2022年5月28日)として、既に当ブロクに私の見解をアップした。
https://article9.jp/wordpress/?p=19220
スラップ訴訟の定義は必ずしも定まらないが、この細田による文春への提訴もスラップと呼んでよい。侵害された自分の権利の救済を求めての訴訟提起ではなく、自分の意に染まない言論を牽制しての提訴なのだから。
但し、この提訴。言論に対する恫喝であるよりは、言論からの防衛の動機が透けて見える。あるいは、沸騰した世論の糾弾をかわすための時間かせぎの提訴。セクハラは事実無根と主張した以上は提訴せざるを得ず、訴訟の継続で時間を稼いでいる内に、世論が報道を忘れて沈静化するだろうという思惑。それでも、被告とされる側の応訴の手間暇や経済的負担に変わりはない。
この種の訴訟には、社会的な要請として反訴が必要ではないか。その反訴では、細田の提訴の意図を徹底して追及してもらいたいと思う。
この細田の対文春2000万円請求提訴はそれ自体が、不当なスラップとして違法となり得る。その理由は以下のとおりである。
本来、民事訴訟とは、正当な権利や利益の侵害を救済するための制度である。ところが、そのような民事訴訟法本来の趣旨からは明らかに逸脱した提訴がある。被告に応訴の負担をかけることで言論を妨害しようとするものが典型で、このような場合は、提訴自体が違法行為となり、提訴者において損害賠償の責めを負わねばならない。細田の対文春提訴も、その種の提訴である。
? どのような場合に提訴が違法になるか。1988(昭和63)年1月26日?最高裁判所第三小法廷判決は、このように定式化している。
「訴えの提起は、提訴者が当該訴訟において主張した権利又は法律関係が事実的、法律的根拠を欠くものである上、同人がそのことを知りながら又は通常人であれば容易にそのことを知り得たのにあえて提起したなど、裁判制度の趣旨目的に照らして著しく相当性を欠く場合に限り、相手方に対する違法な行為となる」
これを本件に当て嵌めてみれば、次のとおりである。
「細田博之の文春に対する訴えの提起は、
(A)提訴者である細田が当該訴訟において主張した権利又は法律関係が事実的、法律的根拠を欠くものである上、
(B1)細田がそのことを知りながら、又は
(B2)通常人であれば容易にそのことを知り得たのにあえて提起したなど、
裁判制度の趣旨目的に照らして著しく相当性を欠く場合は、文春に対する違法な行為となる。」
この(A+B(1or2))の充足がスラップ違法の方程式。本件では、客観要件である(A)も、主観要件である(B1)も、事前に細田にはよく分かっているはずのこと。
結局のところ、「2人きりで会いたい」「愛してる」「お尻を触られた」「文春はほぼ正しい」「抱きしめたいと言われ…」云々の週刊文春の記事が真実であれば、原告細田の名誉毀損訴訟が敗訴となるだけでなく、その提訴自体が違法となって反対に損害賠償債務を負担することになる。
DHC・吉田嘉明は、私を名誉毀損で訴えて6000万円を請求してゼロ敗しただけでなく、その提訴が違法なスラップとして165万円の損害賠償を命じられた。スラップは民主主義の根幹をなす「表現の自由」に敵対する社会悪である。この社会悪をなくすために、文春にも「表現の自由」の旗を掲げて、細田と徹底して闘ってもらいたい。
(2022年5月27日)
一昨日(5月25日)、名古屋地裁での「『あいトレ』未払い費用請求訴訟」の判決言い渡し。その報道の見出しを、産経は「昭和天皇の肖像燃やすシーン『憎悪や侮辱の表明ではない』 名古屋地裁」とした。『昭和天皇の肖像燃やす』にこだわり続けているのだ。
わが国における「表現の自由」の現状を雄弁に物語ったのが「あいちトリエンナーレ2019」事件である。公権力と右翼暴力とのコラボが、「表現の自由」を極端なまでに抑圧している構造を曝け出した。そして、その基底には、「表現の自由」の抑圧に加担する権威主義の蔓延がある。この社会は権威を批判する表現に非寛容なのだ。
日本の「世界報道自由度ランキング」は71位だという。いわゆる先進国陣営ではダントツの最下位。もちろん、台湾(38位)・韓国(43位)にははるかに及ばない。69位ケニア、70位ハイチ、72位キルギス、73位セネガル、76位ネパールなどに挟まれた位置。あいトレ問題の経緯を見ていると、71位はさもありなんと納得せざるを得ない。
報道にしても、芸術にしても、その自由とは権力や権威の嫌う内容のものを発表できることにある。今回の「昭和天皇の肖像燃やすシーン」こそは芸術の多様性を象徴する表現行為である。これは、特定の人々の人権侵害や差別の表現行為ではない。社会の権威に挑戦するこのような表現こそが自由でなければならない。
ポピュリズム政治家と右翼政治勢力にとっては、「とんでもない」表現なのだろうが、表現の自由とは「とんでもない」表現への権力的介入を許さないということなのだ。
河村たかし名古屋市長は、「市民らに嫌悪を催させ、違法性が明らかな作品の展示を公金で援助することは許されない」と主張したが、判決は「芸術は鑑賞者に不快感や嫌悪を生じさせるのもやむを得ない」と判断。作品の違法性を否定して市の主張を退けた(朝日)、と報じられている。
この判決については、毎日新聞の報道が詳細で行き届いている。
「愛知県で2019年に開催された国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」を巡り、同県の大村秀章知事が会長を務める実行委員会が、名古屋市に未払いの負担金支払いを求めた訴訟の判決が25日、名古屋地裁であり、岩井直幸裁判長は請求通り約3380万円の支払いを命じた。
同芸術祭の企画展「表現の不自由展・その後」で、昭和天皇の肖像を燃やすシーンがある映像作品や従軍慰安婦を象徴する少女像を展示したことを、名古屋市の河村たかし市長が、「政治的中立性を著しく害する作品を含む内容・詳細が全く(市側に)告知されていなかった」などと問題視。一部負担金の不払いを決めたため、実行委員会が支払いを求めて20年5月に提訴していた。
判決で岩井裁判長は、作品の政治的中立性について、「芸術活動は多様な解釈が可能で、時には斬新な手法を用いる。違法であると軽々しく断定できない」と指摘。映像作品については、「天皇に対する憎悪や侮辱の念を表明することのみを目的とした作品とは言いがたい」とし、少女像も含めて、「作品内容に鑑みれば、ハラスメントとも言うべき作品であるとか、違法なものであるとかまで断定できない」と判断した。
訴訟では、河村市長自身が証人として出廷。「政治的に偏った作品の展示が公共事業として適正なのか。問題は公金の使い道であり、表現の自由ではない」などと意見陳述していた。」
判決後、河村市長は「とんでもない判決で司法への信頼が著しく揺らいだ。控訴しないことはあり得ない」と言っているそうだ。この人の辞書には、反省の2文字がないのだ。
河村のホンネとして、「天皇バッシングは怪しからん」と騒げば票につながるだろうとの思惑が透けて見える。この河村の姿勢は、果たして名古屋市民を舐め切っているのだろうか。それとも彼の読みは当たっているのだろうか。
いずれにせよ、河村の判断ミスによって、払わずに済むはずの遅延損害金や応訴費用が、名古屋市民の負担となっている。控訴すれば、更に無駄な出費は加算されることになる。潔く一審判決に従うべきが名古屋市民の利益であり、民主主義の利益にもなる。
(2022年4月20日)
いつからだろうか、何を切っ掛けにしてのことかの覚えはない。私のメールボックスに「産経ニュースメールマガジン」が送信されてくる。ときにその論説に目を通すが、愉快な気分になることはなく、なるほどと感心させられることも一切ない。とは言え、怪しからんと思うことも、黙らせたいと思うことも通常はない。そもそも思想信条も言論も自由なのだから。
しかし、昨日送信を受けた「榊原 智コラム・一筆多論」には、看過し得ない危険を感じる。一言なりとも批判をしておかねばならない。ことは、自衛隊という軍事力=組織的暴力装置の取り扱いに関わるもの。この危険物の取り扱いに失敗すると、軍国主義復活につながりかねない。維新と産経がその先導役を買って出ているような臭いがするのだ。なお、榊原智とは産経の論説副委員長だという。
論説の内容は、共産党委員長志位和夫の「新・綱領教室」出版発表会見での言説に対する批判である。「ロシアのウクライナ侵略があっても目が覚めないのか―」「日本の政党の防衛政策は合格点にあるとはいえないが、共産党と立憲民主党という左派政党の姿勢はとりわけ嘆かわしい」という調子。こういう批判・非難はいつものことで、とるに足りない。
産経が問題にしたのは、志位委員長が言ったという「急迫不正の主権侵害には、自衛隊を含めてあらゆる手段を行使して、国民の命と日本の主権を守り抜く」という発言。
産経は非難がましく、《共産は綱領で、「憲法9条の完全実施(自衛隊の解消)」「日米安保条約の廃棄」を目指している。一方、2000(平成12)年の党大会で、自衛隊の段階的解消を掲げつつ、侵略があれば自衛隊を「活用」すると打ち出した》と解説している。誰が見ても、共産党の綱領は憲法に忠実な姿勢であろう。産経の批判は、「共産党は憲法遵守の姿勢を貫いて怪しからん」と聞こえる。
また産経は《日本維新の会の馬場伸幸共同代表が14日、「国防という崇高な任務に就く自衛隊を綱領で『違憲だ』と虐げつつ、都合のいい時だけ頼るとはあきれる」と批判したのはもっともだ」と言う。フーン、維新と産経、話が合うんだ。ここまでは、聞き流してもよい。問題は次の一文である。
《自衛隊は政治の命に服すべき組織だが、政治家も含め国民は、諸外国の人々が軍人に対するのと同様に、自衛隊員に敬意を払い、支えるべきだろう。命がけで日本を守る決意をしてくれた人たちだ。「事に臨んでは危険を顧みず、身をもって責務の完遂に務め」ると宣誓している。》《共産は自衛隊攻撃を自衛隊と隊員に謝罪し、敬意を払うのが先だ。それなしに自衛隊「活用」を唱えても真剣に防衛を考えているとは思えない。参院選対策の戦術的擬態だと国民に見透かされるのがオチだろう。》
国民に《自衛隊員に対する敬意》を要求し、共産党には《自衛隊と隊員に謝罪せよ》と言うのが産経の態度なのだ。
ことさら確認するまでもなく、《平和を望むのなら、さらなる防衛力の増強と軍事同盟の強化に邁進せよ》というのが、自民・維新・産経の立場である。このことについては、論争あってしかるべきである。しかし、《自衛隊員に敬意を持て》《自衛隊と隊員に非礼を謝罪せよ》と言い募る産経の論調は、それ自体厳しく批判されなければならない。これは、危険な言説である。
軍事力とは厄介なもの、日本国憲法はこれを保持しないと定めたが、現実には自衛隊という「軍事力」がある。暴走すれば、国民の人権も民主主義も破壊する。このような組織的暴力装置は、徹底した文民(主権者国民)の管理下に置かねばならない。だから、自衛隊について、「存在自体が危険」とも、「違憲であるが故に存在してはならない」とも、「直ちに廃止すべき」とも、「段階的に縮小すべき」とも、意見を言うことにいささかの遠慮もあってはならない。この点についての国民の批判の言論は、その自由が徹底して保障されなければならない。
「国防という崇高な任務にまず敬意を」「命がけで国を守る人に批判とは何ごとぞ」という論説は、けっしてあってはならない言論封殺である。権力者にも、権威にも、そして危険物である自衛隊についての論議においても、国民の意見表明の権利は徹底して保障されなくてはならない。
自衛隊のあり方に対する批判に躊躇せざるを得ない空気が社会に蔓延したときには、軍国主義という病が相当に進行していると考えざるを得ない。その病は、国民にこの上ない不幸をもたらす業病である。軽症のうちに適切な診察と治療とが必要なのだ。産経のように、これを煽ってはならない。
(2022年2月20日)
小林多喜二は虐殺された。天皇の手先である思想警察の手によってである。多喜二の無念を忘れてはならない。権力の暴虐を忘れてはならない。
子どものころに教えられた。あの壮大なピラミッドを作ったのは、クフなど歴代のファラオである。設計者でも石工でも運搬者でもない。万里の長城を築いたのは皇帝であって、使役された土工ではない。東大寺を建立したのは聖武天皇であって、作業に従事した宮大工ではない。ならば、多喜二を虐殺したのは、特高ではなく明らかに天皇・裕仁である。
1933年2月20日、多喜二はスパイの手引きで路上格闘の末特高警察に身体を拘束された。拉致された築地警察署内で拷問を受け、その日のうちに虐殺された。なんの法的手続を経ることもない文字どおりの虐殺であった。スパイの名は三船留吉。多喜二殺害の責任者は特高警察部長安倍源基。その手を虐殺の血で染めたのは、特高課長毛利基、特高係長中川成夫、警部山県為三らである。が、多喜二の虐殺者として歴史に名を留めるべきは、明らかに天皇・裕仁である。
私は、多喜二の殺害に関わった特高らを殺人鬼だとは思わない。彼らは、天皇に忠実な警察官として、当時の共産党員を天人ともに許さざる不忠の輩と真面目に思い込んでいたのであろう。天皇の神聖を害し、天皇の統治を撹乱し、天皇の宸襟を煩わす非国民。それに対する制裁は法を超越した正義であって、躊躇すべき理由はない。
多喜二は、天皇の警察によって、天皇のために虐殺された。天皇の名による正義を実現する目的で…。天皇が多喜二を虐殺したと言って何の不都合があろうか。裕仁は、虐殺された多喜二と、その母の無念に思いをいたしたことがあっただろうか。
多喜二は、その鋭い文筆故に満29歳と4か月で命を落とした。治安維持法で弾圧された人々の崇高な活動と悲惨を描いて、自らも弾圧に倒れた。その時代、言論の自由は保障されていなかった。今の日本に言論の自由はあるか、正確には答えにくいが、多喜二の時代よりははるかにマシと言ってよい。その自由は十分に活用されているだろうか。再び錆び付く恐れはないだろうか。
もっとも、多喜二が虐殺されたあの時代にも、天皇を賛美し帝国の興隆を鼓吹する旺盛な言論活動は、誰からも制約されることなく社会に溢れていた。時の権力や有力者に迎合する言論をことさらに自由という意味はない。
表現の自由は、政治的・経済的な強者に対する批判と、権威を否定する言論においてこそ保障されなければならない。このような言論が、これを制圧しあるいは報復しようという大きな圧力と対峙せざるを得ないからである。このような言論はそれ自体貴重であり萎縮させられてはならない。
言い古された言葉であるが、言論の自由とは、政治権力や社会の権威が憎む言論の自由でなくてはならない。また、社会の多数者にとって心地よからぬ少数者の言論の自由でなくてはならない。まさしく、多喜二の言論がその典型であった。
今、言論の自由を押さえ込み、表現者の口を封じペンを折る手段として、必ずしも暴力が有効な時代ではない。が、天皇や天皇制批判の言論が、十分であるとは思えない。
多喜二の命日くらいには、天皇と天皇制の害悪を遠慮なく表現しようではないか。「国民の総意に任せる」などと傍観者を決めこむのではなく、自身の意見をはっきりと言おう。表現の自由を錆びつかせないためにも。
(2021年11月20日)
中日新聞(11月17日)の社会面に、「高校演劇作品 公開せず 県高文連『せりふに差別用語』」「脚本関係者『表現の自由への制約』」という記事。これは看過できない。地元紙・福井新聞では、「作中に差別用語…高校演劇巡り広がる波紋」「主催者が映像化を中止、創作者は表現抑圧と反発」という見出し。投げかけている問題は大きい。
中日新聞を引用する。
「県高校文化連盟(県高文連)演劇部が今年9月に福井市で開催した県高校演劇祭の関係者向けインターネットサイトで、福井農林高校(同市)が上演した演劇作品だけ公開されていないことが分かった。県高文連は劇中のせりふに「差別用語」が含まれていたことを理由としているが、脚本に関わった関係者は「差別的な文脈で使用したものではなく、表現の自由に対する制約だ」と主張している。
作品のタイトルは「明日のハナコ」。二人の少女が1948(昭和23)年の福井地震から現在までの県内の歴史を振り返りつつ、未来について考え成長していく物語。
県高文連の関係者によると、元敦賀市長の発言として原発誘致の利点を語るせりふの中に「カタワ」という言葉が含まれていた点を問題視した。この作品をサイトで公開しないことは、高校演劇部の顧問らで作る顧問会が事前に弁護士に相談した上で、10月8日に協議して決めた。差別表現はどのような場合でも許されないことや、公開した場合に生徒や教員が誹謗中傷にさらされたり、名誉毀損などの罪に問われる可能性があることなどを弁護士に指摘されたことから判断したという。
せりふは過去の文献を参考にした形で書かれていたが、脚本家に対し、せりふを書いた意図について確認はしなかったという。
さらに、この作品のDVDは作らず、脚本は顧問が管理し、生徒の手に渡らないようにすることなども決めた。演劇祭の様子は12月に地元の福井ケーブルテレビで放映される予定だったが、県高文連側がこれらの懸念を伝え、放映しないことになった。
県高文連演劇部会長を務める丸岡高校の島田芳秀校長は、取材に対し「子どもたちを守るための判断で、問題はない」と述べた。脚本に関わった関係者は「表現に対する過度の制約につながり、懸念している」と話している。
演劇「明日のハナコ」で使われたせりふの抜粋
小夜子 (略)「まあ原子力発電所が来る。電源三法の金はもらうけど、そのほかに地域振興に対して裏金よこせ、協力金よこせ、というのがそれぞれの地域にある。(中略)そんなわけで短大は建つわ、高校はできるわ、50億円で運動公園はできるわ。そりゃもう棚ぼた式の街作りができる。そのかわり100年たってカタワが生まれてくるやら、50年後に生まれた子供が全部カタワになるやら、それはわかりませんよ。わかりませんけど、今の段階で原発をおやりになった方がよい」
ハナコ それ誰。
小夜子 敦賀市長。石川県の志賀町で原発建設の話が持ち上がったときに地元商工会に招かれてしゃべったらしいのね。
(後略)
生きた議論を
志田陽子・武蔵野美術大教授(憲法・芸術関連法)の話 差別的な表現について法律家が文脈を見ずに「許されない」と助言することは通常考えにくく、学校側の誤解があったのではないか。学校の管理権は広く認められる傾向にあるが、(生徒の危険を理由に非公開とした決定は)善意ながら上から目線で事なかれ主義を押しつけた可能性がある。特に脚本を生徒の目に触れないようにするなど、後からの検証を不可能とする形で言論を封殺することは最もやってはいけない。せりふの意図を説明した上で公開するなど、表現を成立させる方向へ進んでほしい。学校側がこれを機に表現の自由を考える場をつくるのであれば、生きた議論ができるはずだ。
さすが志田教授、憲法論にとどまらず、あるべき教育論にまで踏み込んだ立派なコメント。
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そして、佐藤正雄・福井県議会議員(共産)が、こう語っていることにも大賛成だ。
https://blog.goo.ne.jp/mmasaosato/e/f5a9ce2a88573c40d7bcc4c9fd61afa4
私のコメント
「福井農林高校演劇部の劇も、必要な措置をおこない福井ケーブルテレビで放映すべきと考えます。」
この経緯には、福井農林演劇部の生徒さん、顧問の先生、外部指導員の玉村さん、校長先生、そして、校長先生で構成される演劇部会、演劇部顧問で構成される顧問会議、教育委員会、福井ケーブルテレビ、スクールロイヤーなどの多様な当事者が存在します。
大事なことは演劇含めて表現の自由は最大限尊重されなければなりませんし、舞台上演可能な高校演劇がテレビ放送には適さない、というダブルスタンダードでは当事者である生徒たちや、県民にもわかりにくいと思います。
原発誘致をめぐる当時の敦賀市長の、差別用語の問題発言は当時も大きく報道されていますし、書籍にも掲載され、現在でも簡単にネット上で検索もできます。
歴史的な政治家の発言をそのまま使うことには小説であれ、演劇であれ、ありうることです。それが現在では不適切であれば、その際に、「ことわり」を入れることは当然です。
弁護士であるスクールロイヤーが「差別用語の放送は危険であり、放送は大きな問題だ」と指摘したことが今回の展開に大きな影響を与えたようです。
しかし、私も障がい者運動の当事者の方々の意見もお聞きしましたが、「歴史的な発言を語る演劇が放映されないことの方が問題ではないか。だから原発に忖度したのではといわれる。落語でも小説でも歴史的な差別用語を残して今日に伝えている例はたくさんある」などと話されています。
放映の際にその部分に、「不適切な表現がありますが当時の敦賀市長の発言のまま放映しました」などのことわりが流れるようにすれば、障害をお持ちの方含め県民理解も得られるのではないでしょうか。
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なお、市民運動団体「福井の高校演劇から表現の自由を失わせないための『明日のハナコ』上演実行委員会」によると以下の事情があるという。
9月20日、その福井ケーブルテレビより、福井県高等学校演劇連盟に対して連絡がありました。「福井農林高校の劇の放映について、社内で審議にかかるかもしれないので連盟としての意見を求めたい」「個人を特定する点、原発という繊細な問題の扱い方、差別用語の使用などについて懸念している」とのこと。
そこでその日に行われた顧問会議の結論は、「ケーブルテレビ局内の意向を尊重する」。つまりケーブルテレビ側が放送しないと決定したならばそれに従う、というものです。
その理由としては、
1 この劇には、反原発・個人名・差別用語が含まれている。放送後、それらを取り上げられて、生徒や福井農林高校に非難が寄せられることを憂慮する。学校は教育的に生徒を守らなければならないから。
2 福井農林高校の劇は、表現方法はともかく、上演に問題はないと思う。ただ、不特定多数の人目に触れる放送はいかがなものかと思う。
3 高文連は原電からの支援を受けている。また、ケーブルテレビも原電と関係のある企業がスポンサーになっているかもしれない。これからもケーブルテレビと良好な関係を保ちたい。放映すると影響がでる。
「1」について、まず差別用語は、劇を見てもらえばわかりますが、差別意識を持った取り上げ方はしていません。
「2」個人名についても、図書館にある書籍をそのまま引用したものです。
「3」反原発については、たとえば「原発からの支援を受けている」という意見には、こう反論したいのです。補助金は、活動の思想的方向や表現内容についてなんら干渉するものではないし、これまでも干渉した例はないはずです。そういう性質の支援であるからこそ、公的な組織が(高文連は県の組織です)は公明正大に受け取ることができるのです。
もしも干渉があって、内容を規制しなければならないようなものであれば、それも意見の一方を否定するようなものであれば、そのような助成を受け取っている県が裁かれる事態になってしまうし、即刻県はその助成を返上すべきだというのが、行政上の通念だと思われます。
したがって、「3」の理由がまかりとおれば、これ以降、福井では原子力発電の危険性を訴えるような劇を作れないことになります。表現してはいけない分野を生んでしまうことになります。
また、原発に関係する内容次第では社内で審議にかかるなどと、排除する可能性も示すのがケーブルテレビなら、むしろ結果的に表現の自由を制約することになるそうしたケーブルテレビの姿勢こそ、問われるべきです。そう主張して生徒を守るのが教員の仕事じゃないでしょうか。
その後、福井農林高校演劇部生徒たちの反応を聞き取ったのちに、10月8日に再度、顧問会議が開かれ、あらためて次の三項目が、決定されました。採決もなく、でした。
・福井農林高校の劇だけはケーブルテレビでは放映しない。
・DVDはつくらず、記録映像を閲覧させない。
・脚本はすべて回収する。
会議ではスクールロイヤー(顧問弁護士)の意見として次のような見解が述べられました。
・劇中における反原発の主張は、表現の自由が保障されるので問題ではない。
・人権尊重の立場から、表現の自由は制限されることがある。
・劇中使用された「かたわ」という差別用語は、使用するだけで駄目である。
顧問会議で具体的にどのような討論があったのか、議事録が公開されないのでわかりませんが、最後の「差別用語は使用するだけで駄目」という理由が会議の流れを強く決定したとのことでした。
なるほど、主役は原発なのだ。そういう目で事態の推移を見直せば、よく分かる。ということは、この件をこのまま放置していれば、「原発批判は避けて通るに越したことはない」という社会の雰囲気を醸成することにもなるのだ。
それにしても、志田陽子教授、左藤正雄議員とも、見事なコメントである。付言すべきことはない。
(2021年11月16日)
いま振り返って、2019年9月の「あいちトリエンナーレ・表現の不自由展その後」は、日本社会の嘆かわしい現状をあらためて教えてくれた。
問われたのは、この日本の社会に表現の自由がどれほど根付いているかという問題である。天皇を批判する表現の自由はあるのか。従軍慰安婦問題を根底から考えようという表現についてはどうなのか。その困難を知りつつ果敢にこの企画の実行に挑戦した人たち、そして問題が顕在化してからは懸命にこの企画を守ろうとした多くの人たちの真摯さ熱意に讃辞を送らねばならない。
しかし、これを妨害しようという心ない勢力が、我が国の表現の自由の水準を教えてくれた。その勢力の中心に、高須克弥、河村たかし、吉村洋文、田中孝博らの名があった。右翼とポピュリストたちの反民主主義連合である。
彼らが、「不自由展」を主宰した責任を問うとして始めた大村知事リコール運動を担った署名活動団体「愛知100万人リコールの会」の会長が高須克弥であり、その事務局長を務めたのが田中孝博。当時田中は、日本維新の会・衆議院愛知5区選挙区支部長(総選挙予定候補者)であった。
その会が提出した署名のおよそ8割に当たる約36万人分が偽造だったとして、世を驚愕させた。右翼とポピュリストたちの薄汚さを晒して余すところがない。今、田中は地方自治法違反(署名偽造)の罪名で起訴されて公判中であるが、河村や高須がどう関わったかは、まだ明らかにされていない。
かつて中国に「?国无罪」(愛国無罪)というスローガンがあった。河村や高須には、「自分たちは愛国者だ。天皇を誹謗する不逞の輩を糾弾する愛国心の発露に違法の謂われはない」という思い上がりがあるのではないだろうか。
本日の夕刊に、久しぶりに高須克弥の名を見た。「高須院長の秘書ら2人を書類送検 リコール署名偽造の疑い」というタイトル。
毎日新聞は、こう報道している。
「愛知県の大村秀章知事に対するリコール(解職請求)運動を巡る署名偽造事件で、県警が署名活動団体「愛知100万人リコールの会」会長、高須克弥氏(76)の女性秘書(68)と50代女性の2人を地方自治法違反(署名偽造)の疑いで書類送検していたことが16日、関係者への取材で判明した。いずれも容疑を認めているという。
送検容疑は同会事務局長の田中孝博被告(60)=同法違反で公判中=と共謀し、2020年10月ごろ、愛知県内で数人分の署名を偽造したとしている。
署名偽造を巡っては佐賀市内でアルバイトを雇い、署名を書き写したとして田中被告らが逮捕、起訴されているが、佐賀市以外での署名偽造に関して立件されるのは初めて。
女性秘書については田中被告の指示で押印のない署名簿に自身の指印を押していたことが既に判明。県警は5月に女性秘書の関連会社を家宅捜索し、任意で事情を聴いていた。地方自治法は署名偽造について罰則がある一方、他人の署名に押印する行為への罰則や過失規定はないため、立件は見送られていた。
秘書が書類送検されたことについて、高須氏は16日、毎日新聞の取材に「僕はリコールのノウハウもなく、(署名活動団体事務局に)全部丸投げでお願いしますと言っていた。秘書には捜査に協力するようには言ったが、僕には細かいことは全く知らされていない」と自身の関与について否定した。」
また、産経の報道にこうある。
「大村秀章愛知県知事へのリコール(解職請求)運動を巡る署名偽造事件に関わったとして、地方自治法違反(署名偽造)の疑いで書類送検された高須克弥・高須クリニック院長の女性秘書(68)が、自身が役員を務める企業の従業員らにそれぞれ数万円の報酬を支払って署名を偽造させた疑いがあることが16日、捜査関係者への取材で分かった。」
取材に対して、高須は、「秘書には捜査に協力するようには言ったが、僕には細かいことは全く知らされていない(だから、僕には責任はない)」「全く知らなかった。私自身は全く関与していない」と話している。安倍晋三を典型とする政治家に真似た、秘書という尻尾切り捨ての術である。
また、河村たかしも、「報道で知ってびっくりした。とんでもない話ですわ。県警は誰にも遠慮せず、きちんと事実を明らかにしてほしい」と話したという。
私は知らなかったが、愛知県警は今年2月以降、秘書への任意の事情聴取を複数回実施。同5月には、秘書の自宅や秘書が役員を務める関係会社を同法違反容疑で捜索し、パソコンや携帯電話などを押収していたという。
遅々としてではあるが、着実に捜査の手が高須の身辺に迫っている印象を受ける。愛国無罪などあってはなない。厳正な捜査を尽くしてもらいたいと願う。
(2021年10月6日)
「WiLL」という月刊誌がある。常連の執筆陣は、櫻井よしこ・阿比留瑠比・藤井厳喜・石原慎太郎・上念司・石平・ケントギルバード・高橋洋一・山口敬之など。かつては、小川栄太郎も。この執筆陣を見れば、どんな雑誌と説明するまでもない。21年10月号には、安倍晋三も寄稿している。そういう傾向の雑誌。
フリージャーナリストの安田純平さんが「WiLL」の出版元である「ワック株式会社」(東京)を被告として、損害賠償請求訴訟を提起していた。「WiLL」に掲載の記事で名誉を毀損されたので慰謝料を支払えという訴え。請求額は330万円だった。
訴えの内容は、《ワック社は2018年に発行した「WiLL」に、安田さんが15年から3年以上拘束されたことについて「中東でよく行われている人質ビジネスでは?と邪推してしまう」との記事を掲載し、虚偽の事実を摘示して安田さんの名誉を毀損した》というもの。
報道によれば、本日の判決は、この記事が「身代金名目で金銭を得る側に安田さんが加担していたことを黙示的に示した」と解釈したうえ、安田さんの名誉を毀損したと認めた。その上で、損害賠償として33万円の支払を命じたという。
33万円の内訳は、判決の認めた慰謝料(精神的損害額)額が30万円で、その30万円の支払を得るための弁護士費用3万円の認容であろう。
ワック側には、「身代金名目で金銭を得る側に安田さんが加担していた」ことの真実性を立証するか、少なくとも真実であると信じたことについての相当の事情の存在を立証しなければならない。これに関して、判決は「安田さんの会見以外に取材した様子はない」と判断したという。
「WiLL」という月刊誌記事の信頼性がこの程度ということを世に明らかにした点で、この判決の意義は小さくない。しかし、問題は認容額である。わずかに、33万円。
安田さん自身が、「被告は真実性の説明すら放棄しており妥当な判決だが、賠償金額が低すぎるため誹謗中傷に対する抑止効果が望めない点で残念と言わざるを得ない」とコメントしている。そのとおりだと思う。
弁護士を依頼し、本業への差し支えを覚悟で手間暇をかけての訴訟追行活動が必要である。その上でようやく勝ち得た判決の認容額が33万円。これでは、ワックにに対する制裁として不十分で執筆姿勢の改善にインセンティブを与えない。むしろ、同種の裁判を提起する意欲を減殺させることにしかならない。
実は同じ裁判官が、今年の春(3月10日)、同じような判決を書いている。原告が朝日新聞社、被告が小川栄太郎と飛鳥新社。やはり、名誉毀損損害賠償請求訴訟だが、こちらの請求金額は5000万円と大きい。
小川栄太郎の著書「徹底検証『森友・加計事件』 朝日新聞による戦後最大級の報道犯罪」の記述で名誉や信用を傷つけられたとして、朝日新聞社が小川氏と出版元の飛鳥新社を訴えたもの。
同書は、森友学園への国有地売却問題や加計学園の獣医学部新設問題をめぐる朝日の報道を批判する内容で、2017年に発売された。判決は、「どちらも安倍(晋三前首相)の関与などないことを知りながらひたすら『安倍叩(たた)き』のみを目的として、疑惑を『創作』した」▽加計問題は「全編仕掛けと捏造(ねつぞう)で意図的に作り出された虚報」▽「『総理の意向』でないことが分かってしまう部分を全て隠蔽して報道し続けた」▽「朝日新聞とNHKとの幹部職員が絡む組織的な情報操作」という記述や著書のタイトルなど、計14カ所は「真実性が認められない」と判断。「報道機関としての名誉と信用を直接的に毀損する内容だ」と認めた。(朝日の報道による)
また判決は、名誉毀損言論と特定した15か所の記事の内1か所は、名誉毀損言論とならない(朝日の名誉や信用を低下させる記述ではない)とされたが、残る14か所については、「報道機関としての名誉と信用を直接的に毀損する内容だ」と認めたうえで、「真実性が認められない」と判断したわけだ。
森友・加計事件報道をリードしてきた朝日にしてみれば、この訴訟は掛け値なしに重要なものだったろう。判決は、責任論については立派なものだが、やはり損害額の認定が200万円では、僅少に過ぎる。被告らは、安堵したのではないだろうか。
問題の記述は相当に悪質である。センセーショナルに事実に基づかぬ記事を書いて書籍の売上げを伸ばし、訴えられても損害賠償が少なければ、これをコストに見込んだビジネスモデルも成立しうるのだ。このような虚偽報道を許さぬ損害賠償の認容額が必要である。
判決を受けての小川榮太郎のコメントが「極めてスキャンダラスで異常な判断だ。裁判所が個別の表現に踏み込むのは司法の暴力だ」というもの。不思議なことをおっしゃる。誰の目にも、スキャンダラスにも、異常な判断にも見えようはずはない。裁判所が必要な名誉毀損の判断を行うことは、司法の暴力ではなく、司法の職責というほかはないのだから。
(2021年3月3日)
なるほど、なるほど。とても面白いし楽しい篠原資明さんの作品。言葉遊びもこの水準にまでなれば、遊戯の域を超えて、文芸か芸術作品と言ってよい。
ところが、なんとももったいないし残念なことに、ネット上にあったその原作は、既に全部削除されている。結局、ここで引用できる作品は、新聞記事から孫引きした下記4作品だけ。篠原さんご自身は、「アートとして思いついたもので、政治的意図はない」「五輪中止時の『墓碑銘』となるように祈りを込めた。良い意味も悪い意味もない」と説明しているという。ならば、篠原さんの作品に、私が私なりの理解を書き込むことに何の問題もなかろう。受け取り方は人それぞれなのだから。
(1) 「かいかい 死期」(開会式)
東京オリンピック開会式のイメージ展開である。コロナ禍のさなかに、世界中からの感染者予備軍を集めての開会式は、確率的に参加者の誰かの死期となる。そうならずとも、暗い死期を予見させる開会式とならざるを得ない。
もしかしたら、ここで死ぬのは、商業主義や国威発揚演出と闘って一敗地にまみれた五輪憲章とその精神なのかも知れない。
(2) 「すぽ お通夜」(スポーツ屋)
「かいかい 死期」に臨んで通夜を営むのは、(スポーツ屋)である。(スポーツ屋)とは、五輪をメシのタネと儲けをたくらむ電通などの企業や、竹田恒泰ら裏金を操作する連中、そして、森喜朗、橋本聖子、丸山珠代らの五輪政治家ばかりではない。権力機構のなかで国威発揚と売名にいそしむ輩、菅義偉や小池百合子らをも含むものというべきだろう。
(3) 「ばっ墓萎凋」(バッハ会長)
言わずと知れた(スポーツ屋)の元締めが、この人物だ。IOCを神聖にして侵すベからざるものとしてはならない。オリンピック精神の死期におけるIOC会長こそは、「罰」「墓」「萎縮」「凋落」のイメージにピッタリではないか。
(4) 「世禍乱なぁ」(聖火ランナー)
今や、東京五輪は風前の灯である。実は単にコロナ禍のためばかりではない。国威発揚や商業主義跋扈のせいだけでもない。オリパラ推進勢力が、この国を形作っている旧い体質とあまりに馴染み、人権や民主主義の感覚とは大きく乖離しているからなのだ。聖火ランナーを辞退せずオリンピックに協力することは、家父長制やら女性差別に加担する、「旧世代人」イメージを背負うリスクを覚悟しなければならない。まっとうな人は、そんなにしてまで走らんなあ。
篠原資明さんは、京大で美学・美術史を教えていた人。今は名誉教授で高松市美術館の館長。この2月、ツイッターの個人用アカウントに「東京オリンピック、なくなりそうな予感。なので墓碑銘など、いまから考えてみませんか」とした上で、みずからが生み出した「超絶短詩」の幾つかを書き込んだ。
「超絶短詩」とは、一つの言葉を二つの音に区切ることで思いがけない意味を持つ表現方法だという。『ウィキペディア(Wikipedia)』に、「超絶短詩は、篠原資明により提唱された史上最短の詩型。ひとつの語句を、擬音語・擬態語を含む広義の間投詞と、別の語句とに分解するという規則による。たとえば、「嵐」なら「あら 詩」、「赤裸々」なら「背 きらら」、「哲学者」なら「鉄が くしゃ」となる。」と解説されている。「おっ都政」(オットセイ)という秀逸もある。
篠原さんは、「メディアからの取材を受けたことで『ことば狩り』と感じ、美術館のスタッフにも迷惑をかけたくないと思ってアカウントを削除した」と話しているという。オリンピック批判はまだ日本社会ではタブーなのだろうか。こんな楽しい言葉遊び作品を削除せざるを得ない、この社会の窮屈さこそが、大きな問題ではないか。
(2021年2月20日)
話題の桐野夏生「日没」を先ほど読み終えた。読後感を求められれば、「この本を手にするんじゃなかった」というのが正直なところ。まだお読みでない人に、親切心から警告しておきたい。これは、読み始めたら途中で止められない。普通の神経の持ち主には耐え難いほどの精神的苦痛をもたらす。希望も救いもない。「日没」に、明日の夜明けの気配はまったくないのだ。それでも、恐い物見たさの誘惑に克てない人には、「自己責任でお読みなさい」と言うしかない。
小説の冒頭、主人公の作家が正体不明の施設に収容されるまでの展開は不自然で、出来のよくない平凡な小説風。時代や社会という背景がまったく描かれていないから、ここまではリアリティに欠けるのだ。ところが、このデストピア施設での生活が始まると巻を置けなくなる。読み進むのが苦痛なのだがやめられない。結局、最後まで引っ張られることになる。
「私」が収容されるのは、千葉と茨城の県境近くにある「療養所」。実は、国家が運営する反体制・反道徳の作家を「更生」させる施設。被収容者は、読者からの「告発」によって選定される。被収容者は徹底して他人と切り離され、孤立した状態で、圧倒的な力を持つ弾圧者と対峙する。弾圧者は、「私」について、私も知らない隠された事実をいくつも知っている。監視社会・管理社会・密告社会の極限状態が、この小説の舞台設定となっている。
章立ては以下のとおり、みごとなタイトル付けである。
第一章 召喚
第二章 生活
第三章 混乱
第四章 転向
己の無力を自覚せざるをえない状況で、プライドを堅持して抵抗するか、あるいは屈するか。「私」は、その両者の間で、揺れ動くことになる。「面従腹背」や「転向のフリ」が、奏功するような状況ではない。初め、反抗すれば「減点」が加算され、減点1ごとに、収容期間が1週間延長されることを宣告される。それでも、「私」は抵抗を試みもするが、また空腹から従順になったりもする。
やがて、この施設から「娑婆」へ戻ることは不可能なことがほのめかされ、多数の自殺者があることも分かってくる。権力側は収容者の自殺をむしろ歓迎しているしいう。「私」は、渾身の抵抗を試みるが、成功はしない。そして…。
小説の巧拙に関わりなく、この小説にリアリティを与える状況のあることが恐怖の源泉なのだろう。体制を礼賛し、反中・嫌韓の表現には寛容でありながら、反体制・反日・反道徳というレッテルを貼られた作家や作品にについての「表現の不自由」という現実をこの社会は現出している。学術会議の任命拒否問題しかり、である。
作中の設定では、「ヘイトスピーチ法」の成立とともに、「有害図書」の作家の更生の必要を定める法律が制定されたという。以来、国家が有害作家の更生に乗り出し、何人もの作家が消されていくことになる。これは絵空事ではない。権力をもつ者には、羨望の事態だろう。
恐怖に震えた「私」が、この施設の精神科医に「先生、転向しますから、許してください」と懇請する場面がある。これに対して、精神科医が笑って言う。「転向って小林多喜二の時代じゃないんだから、人聞きが悪い」。この小説は、多喜二の時代の再来が、夢物語ではないことを語っている。
この「落日」が描いているのは、作家に対する弾圧である。しかし、文学や芸術が権力から攻撃される以前に、政治活動や社会的活動、あるいは労働運動、ジャーナリズムや学術・教育に対する弾圧が先行しているに違いない。「日没」の描く風景が恐ろしいだけに、あらためて自由を擁護しなければならないと思う。
(2021年2月10日)
公共放送NHKは日本最大のメディアであって、そのありかたは国民の「知る権利」に計り知れない影響力をもつ。ということは、健全なNHKは日本の民主主義を支え、堕落したNHKは民主主義を貶める。そのNHKの最高意思決定機関はNHK会長でも理事でもなく、経営委員会である。経営委員12人の職責は、重大である。
経営委員会自身が、「NHKには、経営に関する基本方針、内部統制に関する体制の整備をはじめ、毎年度の予算・事業計画、番組編集の基本計画などを決定し、役員の職務の執行を監督する機関として、経営委員会が設置されています。」と述べている。
各経営委員は、衆参両議院の同意を得て内閣総理大臣が任命する。NHK会長は、経営委員会によって任命される。経営委員会は、会長に対する監督権限も罷免の権限も握っているのだ。その経営委員会委員長の任にあるのが、森下俊三である。総務省や官邸におもねってNHKの良心的な番組制作潰しに狂奔し、現場をかばおうとしたNHK会長を脅したとんでもない人物。
誰が見ても、ジャーナリズムの何たるかも、公共放送のありかたも分からない、経営委員不適格者。このとんでもない人物が罷免されないばかりか、首相も国会も続投させるという。まさしく、日本の民主主義の愚かさを物語っている。
昨日(2月9日)の衆院本会議は、NHK経営委員会人事を議事に上程し、この明らかな不適格者である森下俊三の経営委員再任を賛成多数で可決した。立憲民主・共産・国民民主の野党3党は反対したが、多勢に無勢で再任を阻止することはできなかった。
そして本日、まことに情けなくも、参院本会議においても、数の暴力が正論を押しのけた。額にくっきりと【不適】のマークが刻印されている森下俊三が、経営委員として再任された。経営委員長職は互選だが、事情通の語るところでは、この委員不適格者が経営委員長になるという。
ことは、公共放送の人事である。政争の具とせずに、全会一致が望ましいところである。同時にはかられた森下以外の他の3名の候補者は全会一致だった。この菅内閣と与党の、NHK支配に固執する強引さは恐ろしさを感じさせる。
あの安倍政権時代には、NHK経営委員として百田尚樹や長谷川三千子などの真正右翼が送り込まれた。これに対する、市民運動やNHK内部からの激しい抵抗がつづいた。その安倍が退陣した今もなお、菅義偉政権によるNHK支配が継続していることを嘆かざるを得ない。
なお、毎日新聞は、森下俊三を次のように、紹介している。また、「森下俊三氏をNHK経営委員に再任しないよう求める各界有志」の通知と、森下再任に明確に反対した朝日・毎日新聞の社説を引用しておく。
森下氏は委員長代行時代の2018年、かんぽ生命保険の不正販売を報じたNHK番組を巡り、日本郵政グループの抗議に同調して番組を批判し、当時の会長への厳重注意を主導。放送法が禁じる委員の番組介入の疑いが強い行為をした。注意の際の経営委議事録についても、NHKの情報公開の審議委による全面開示の答申などを実質的に尊重せず、概要しか公開していない。こうした問題を理由に、立憲民主、共産、国民民主党は、森下氏の再任に反対した。
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2021年2月8日
NHK経営委員 各位
森下俊三氏をNHK経営委員に再任しないよう求める
アピール文ほかをお送りします
森下俊三氏をNHK経営委員に再任しないよう求める各界有志
(名簿は同封別紙)
皆様におかれましては、NHK経営委員会委員として重責を担われ、ご多用のことと存じます。
森下俊三氏の経営委員としての任期が今月末で満了するのを受けて、私たちは同封のようなアピール文、「日本郵政がNHKに圧力を加えるのに加担し、放送法に違反した森下俊三氏が、NHK経営委員に再任されることに断固反対します!」をまとめ、アピールへの賛同者名簿と賛同者から寄せられたメッセージを添えて、1月29日に各党党首ならびに衆参総務委員会委員全員宛てに郵送しました。
つきましては、これら3点の文書を経営委員各位にもお送りいたします。
今朝(2月8日)の『朝日新聞』1面記事によれば、「NHK個人情報保護・情報公開審議委員会」は、かんぽ問題を巡る経営委員会議事録の要約のみの開示は認められない、全面開示すべきという答申を出しました。これを受けて貴委員会は明日2月9日に開催される経営委員会で、この問題に関する対応を協議されるものと思われます。
その際には、私たち有志の意見を、前もってぜひ一読いただくようお願いします。そのうえで、かんぽ問題をめぐって失墜した貴委員会の信頼回復のための最後の機会というべき明日の会合において、
(1)貴委員会が犯した数々の放送法違反を真摯に反省されること、
(2)放送法に違反する経営委員会の個別番組への干渉と続編放送の妨害、議事録の公開拒否を主導した森下経営委員長の責任を明確にされること、
(3)上田良一氏を厳重注意した議論の経緯が分かる経営委員会議事録の全面開示を決定すること、
を強く求めます。
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(朝日社説・2月7日)
「NHK経営委 委員長再任に反対する」
ガバナンスが機能せず正論を平然と握りつぶす体制を、この先も続けるつもりなのか。公共放送への不信を深める人事を、認めるわけにはいかない。
政府は先月、NHKの森下俊三経営委員長(元NTT西日本社長)を委員に再任する案を国会に提示した。衆参両院で同意が得られれば、委員12人の互選によって再び委員長職に就く可能性が大きい。
だが森下氏がNHKの事業運営をチェックする経営委員、ましてやそのトップにふさわしくないのは、この間の言動から明らかだ。国会は与野党の立場を超え、国民が納得できる結論を導き出さなければならない。
経営委では近年、看過できない出来事が相次いでいる。
かんぽ生命保険の不正販売に切り込んだNHKの番組をめぐり、日本郵政が18年に苦情を申し立てた際、経営委はこれを受け入れ、当時の上田良一会長を厳重注意とした。郵政幹部と面会した後、制作手法を批判し、処分に至る流れをリードしたのは、委員長代行だった森下氏とされる。放送法が禁じる個別番組の編集への干渉が、公然と行われたと見るべきだ。
それだけではない。19年に委員長に昇格した森下氏の下、経営委はこの時の議事録の公開を拒んだ。NHK自身が設ける第三者機関が昨年5月、事案の重要性に鑑み全面開示すべきだと答申したが、それでも応じないため、第三者機関は4日付で改めて同旨の答申を出した。
放送法違反が疑われる行いで現場に圧力をかけ、さらには視聴者の知る権利も踏みにじる。その中心にいるのが森下氏だ。放送法が経営委員の資格として定める「公共の福祉に関し公正な判断をすることができる者」にあたるとは、到底思えない。
政府の対応もおかしい。
新年度のNHK予算案に付けて国会に提出した意見で、武田良太総務相は経営委の議事録にも触れ、「情報公開を一層推進することにより、運営の透明性の向上を図り、自ら説明責任を適切に果たしていくこと」をNHKに求めた。森下氏の再任案はこの要請と矛盾する。
経営委をめぐっては、委員の選出過程の不透明さに加え、運営や判断に過ちがあってもそれを正す方法が限られることが、かねて問題になってきた。外部からの不当な介入を防ぎ、NHKの独立性と自律性を守るために設けた仕組みやルールが、本来の趣旨に反して今回のような暴走の素地になっている。
今回の問題を、経営委の組織や人事はどうあるべきか、社会全体で再考する機会とする必要がある。NHKの存立の根幹に関わる重要なテーマだ。
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(毎日社説・2月9日)
「NHK経営委員長人事 再任では公共性守れない」
これでは公共放送への不信感は増すばかりだ。
今月末に任期切れを迎えるNHKの森下俊三経営委員長を、委員に再任する人事案を政府が国会に提示した。
衆参両院で同意が得られれば、委員の互選の結果、再び委員長に就任する可能性が高い。しかし、その資質には大いに問題がある。
かんぽ生命保険の不正販売を報じた番組を巡り、NHK経営委員会は当時の上田良一会長を厳重注意した。日本郵政グループからの抗議に、当時委員長代行だった森下氏らが同調した。
ガバナンス不足が理由とされたが、森下氏は「本当は、郵政側が納得していないのは取材内容だ」と上田氏を前に発言していた。
放送法はNHKの最高意思決定機関である経営委が個別の番組に介入することを禁じている。制作手法などを批判する発言は番組への事実上の介入にあたり、放送法に抵触する恐れがある。
続編の放送は一旦、延期され、番組による不正販売被害の告発が妨げられた。ジャーナリズムの責務を理解しているか疑わしい。
森下氏はさらに、厳重注意に関係する議事録の公開に応じていない。NHKが設置している第三者機関である情報公開・個人情報保護審議委員会が全面開示すべきだと答申したにもかかわらず、切り貼りした公表済み文書を出しただけで済ませた。
業務の透明性の確保、視聴者への説明責任をないがしろにする行為は目にあまる。
武田良太総務相はNHK予算案に付けて国会に出した意見で、情報公開を推進し、運営の透明性の向上を図ることを求めている。
それに照らし合わせても、適任の人事案と言えるのだろうか。
NHKは来年度からの次期経営計画で、業務のスリム化を打ち出した。ラジオや衛星波のチャンネル統合の方針は、サービス低下が懸念される。視聴者の方を向いた改革になるか、公共放送のあり方が問われる正念場だ。
放送法は経営委員の資質として、「公共の福祉に関し公正な判断」ができることを挙げている。公正さが疑われる森下氏の再任は信頼回復の取り組みに逆行する。