国際ボート連盟の会長が、ロランというフランス人だという。国際ボート連盟なる組織がいかなるものか、その会長がいかなる人物かはまったく知らなかったし、本来なんの関心もない。それが、突然に東京までやって来て出過ぎた発言で物議を醸している。
この人、フルネームがジャンクリストフ・ロランだそうだ。えっ? 本当か。ロマン・ロランのジャンクリストフといえば、我々の世代には「青春のバイブル」だった。この名前の印象は良過ぎ、それに比してこの人物の言動の印象が悪過ぎ。相対的に、小池側を応援したくなるのが少しシャクなほど。
2020年東京五輪の競技施設建設予算がべらぼうな額となり、遅きに失したとは言え、小池都知事が見直しに着手した。そのなかに、ボート競技会場となる「海の森水上競技場」の建設中止がある。昨日(10月3日)ロランは、これにクレームをつけたのだ。彼が言わんとしたは「東京から遠い宮城県なんかに移されてはがっかりだ。東京に連盟とアスリートの気に入るような最高の施設を作れよ。カネのことはオレは知らん。あんたの方でなんとかしろ」ということだ。ロマン・ロランも驚くだろう。ジャンクリストフなら絶対に言わないセリフ。知性なき乱暴者ロランだからこそ、こんなことを口にできるのだ。
学生時代にボートをやったという人は少なくない。あのロランと同類に見られるかと、さぞ肩身が狭いことだろう。それだけではない。アスリート全体に肩身の狭い思いをしてもらわねばならない。アスリートが何様だ。そう言葉を発するのに、ちょうどよいきっかけではないか。これから、遠慮なくものを言おうではないか。
報じられているところでは、ロランの言葉は、次のとおりである。
「我々は14年から日本全国の候補を調査、検討し、その中で色んな要素を考慮した。知事が懸念しているコストや、アスリートファースト、レガシーも。(海の森は)IOC、都、組織委員会という全てのステークスホルダーと分析して出した結論」。
「色んな要素」とは、コスト、アスリートファースト、レガシーの3点。
「すべてのステークスホルダー」とは、IOC、都、組織委員会の3組織。
おそらくは、これがアスリート団体のトップ層の粗雑で思い上がった頭の中なのだ。こんな連中をのさばらせてはならない。
彼らの頭からは納税者がすっぽりと抜けている。ステークスホルダーとして納税者を意識していないし、施設のコストやレガシーを決めるのは納税者だという当たり前のことを理解していない。あたかも、IOCや競技連盟や組織委員会がなんでも決めることができると思い込んでいる如くではないか。まるで駄々っ子だ。
都民も国民も、ロランが語る思い上がった「アスリートファースト」に怒らねばならない。フトコロに手を突っ込んで「アスリートの気に入るようにもっとカネを出せ」と言われているのだから。
アスリートがなんぼのものか。アスリートとはいったい何様なのだ。納税者を差し置いて、IOCファーストや競技連盟ファーストや組織委員会ファーストはありえない。そして、「アスリートファースト」を美しい響きの言葉にしてはならない。うさんくささを嗅ぎ取らねばならない。理の当然としての「納税者ファースト」の姿勢を貫かねばならない。
プロ野球と比較してみよう。ここではお客様ファーストとならざるを得ない。球場に足を運ぶか、テレビ観戦をする観客に支えられて球界が存立している。しかし、実はプロ野球でなら、機構ファーストでも、選手ファーストでもいっこうに差し支えない。公費が投入されていないからだ。それでも、お客様ファーストでなくては興業として成り立たない。
五輪は、今や薄汚い商業主義の象徴と化している。にもかかわらず、多額の公費が投入されている不条理がある。それはさておき、公費が投入されている以上は、納税者ファースト以外にはあり得ない。それが、民主々義国家の常道である。
無頼のロランに対峙した小池は、経費削減の観点を強調し、「宮城県の知事も(開催に前向きな)意思を示している。もともと復興オリンピックを標榜していた」と述べ、東日本大震災の被災県で開催を検討する意義に理解を求めた、という。その姿勢を後退させてはならない。
ところで、「オリンピック・アジェンダ2020?20+20の提言」というものを2014 年11月のIOC総会が採択している。ここに見られるのは、オリンピックが持続できるかという危機感である。オリンピックの招致合戦や設備の建設に無駄なカネがかかりすぎることや、時に垣間見える汚い裏舞台への批判に耐えられなくなることへの対応策が必要になっているのだ。ローマの五輪招致辞退が、このことを象徴している。
IOCの傲りが納税者ファーストをおろそかにしてきた。そのことのツケが、オリンピック持続可能性のための具体的提言となっている。ロランの言は、明らかにこれに反している。ロラン一人の思惑か、ウワサされるような結託者がいるのかは分からない。少なくとも、ロランの言はIOCのタテマエに照らしてさえ、なんの説得力もない。せっかくのロランの言。これを「オリンピックは納税者ファーストで」の世論に切り替えるきっかけにしようではないか。
(2016年10月4日)
9月28日、小池百合子新都知事が就任後初めての都議会本会議で所信を表明した。その演説は、都民の関心に応えて移転予定の豊洲市場の盛り土問題から始まった。盛り土されているはずの主要各棟の地下に、巨大空間が拡がっていることが明らかになっていることの責任問題である。
豊洲市場の移転に関する一連の流れにおいては、都政は都民の信頼を失ったと言わざるを得ません。「聞いていなかった」「知らなかった」と歴代の当事者たちがテレビカメラに答える姿に、多くの都民は嘆息をもらしたことでありましょう。
そう知事は、話を切り出している。「聞いていなかった」「知らなかった」と都民を嘆息させている「歴代の当事者」の筆頭は、「伏魔殿の主」石原慎太郎である。
この失った信頼を回復するためには、想像を超える時間と努力が必要であります。責任の所在を明らかにする。誰が、いつ、どこで、何を決めたのか。何を隠したのか。原因を探求する義務が、私たちにはあります。
そのとおりだ。きちんと責任を明確にせよ。多くの都民が、「歴代の当事者たち」に対する新知事の厳格な責任追及姿勢に期待している。新しい知事は手が汚れていない。その手がきれいなうちなら、伏魔殿の闇に光を当てて大掃除をしてくれるだろう、という期待である。きっと、雑魚だけではなく伏魔殿のヌシをあぶり出し、網にかけてくれるだろう、という期待である。
なお、都民の関心のひとつは、食の安全安心を実現すべきことであり、もう一つは現実に生じ始めている都の財政上の負担増に対する填補である。都の財政に穴を開けた者には、しっかりと穴埋めを求めなければならない。具体的には、このバカバカしい事態を招いた責任者の特定と、その責任者に対する都からの損害賠償の請求である。頭を下げたら済むという問題ではない。
ところが、9月30日の小池都知事の調査結果の発表は、いまいち迫力に欠ける。どこまでやる気があるの? と首を傾げざるを得ない。
「いつ、誰が、盛り土をしないことを決めたのか」――東京都が行った「自己検証」は結局、最後まで犯人を特定できなかった(日刊ゲンダイの表現)。知事は、「地下空間を設けることと、盛り土をしないことについて、段階的に固まっていったと考えられる。いつ、誰がということはピンポイントで指し示すことがなかなか難しい。流れの中で、空気の中で進んでいった」と言うのだ。
また、知事は、都議会・都民への説明責任が果たされてこなかった原因として「ガバナンスの欠如」「意思決定プロセスの不備」「連携不足」などを上げた、とも報じられている。
仮にそのとおりなら、これはすべからく都政の最高責任者である都知事の責任である。当時の知事石原慎太郎が、法的責任をとらねばならない。都に対する損害賠償の責めを負わねばならないのだ。
もちろん、人は、不可能であったことについては責任を問われない。考えにくいが、当時都知事として要求される十分な能力と注意力を発揮しても、この結果を回避できなかったという特別の事情があれば、石原の責任は阻却される。そのような事情がもしかしてあるとすれば、石原は公開の場で弁明し立証しなければなない。その弁明に成功しない限り、これから市場の移転が遅延することによって都が負担せざるを得ない公金の支出分を、個人として負担しなければならない。仮に豊洲移転が白紙撤回ともなれば、ムダになった公金支出分のすべてを賠償しなければなない。
再度日「刊ゲンダイ」から引用する。
「都庁役人は、このまま〈真相〉を闇に葬るつもりだ。どんなに「内部調査」を続けても真相は永遠に分からない。当時、知事だった石原慎太郎氏も逃げ切るつもりだ。もはや、真相を解明するには、都議会に関係者を「参考人」として招致し、さらに「百条委員会」を設置するしかないのではないか。」「すでに都議会共産党は、慎太郎氏など12人の参考人招致を要求しているが、都庁役人と都議会自民党は、絶対に参考人招致を阻止するつもりだ。」「都庁役人と都議会自民党が参考人招致を嫌がっているのは、盛り土だけでなく、豊洲市場の“談合”や“巨額利権”に飛び火する恐れがあるからです。ケガ人が続出しかねない。しかも、慎太郎氏は参考人として呼ばれたら、何を言い出すか分からない。何が何でも阻止するつもりです」(都政関係者)
この「都政関係者」が誰かは知らないが、いかにもありそうで頷ける話。私は、現知事を支持する立場にはないが、ここで徹底追及の姿勢を貫いていただきたい。手綱を緩めたら都民の批判が現知事に向かう世論の沸騰が予想される。
過ぐる大戦の戦争責任を考えねばならない。「誰がということはピンポイントで指し示すことがなかなか難しい。流れの中で、空気の中で戦争は進んでいった」のだ。そして、310万の自国の民と、2000万人という近隣被侵略諸国の民の犠牲を出した。自らの責任の自覚について問われた戦争の最高責任者は、「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりませんから、そういう問題についてはお答えが出来かねます」と言ってのけた。一億総無責任体制だった。
無責任な戦争責任体制は、戦後の原発開発に受け継がれた。無責任体制の中で、トイレのないマンションが54基も建設されたのだ。いまもって、「ピンポイントで指し示すことがなかなか難しい。流れの中で、空気の中で原発建設は進んでいった」のだ。責任の所在明確でないままに。
豊洲の問題は、戦争準備や原発建設の伝統であるこの国の無責任体質をあらためて浮かびあがらせた。「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりません」という言葉は、今再び慎太郎の口から「私は建築のイロハを知らないので、(地下の工法を)思いつくはずがない。素人だから他人任せにしてきた」と発せられているではないか。
知事とは、最高責任者である。一軍の将なのだ。兵の責任を語るのは見苦しい。将として敗戦の責任をとらねばならない。今の時代だ。腹を切る必要はない。無責任体制の実態を明らかにして、あとは金で済む問題。それも、今有している財産の範囲でのこと。そのときこの知事が大嫌いだった日本国憲法が身を守ってくれる。けっして、生存権を否定するような財産の剥奪はしないのだ。
(2016年10月3日)
この度は、私の東京都知事在任中の件で、皆様に多大な混乱やご懸念を生じさせるなどしておりまして、まことに申し訳なく思っております。
普段は、上から目線の傍若無人でえっらそうにむやみに威張る人と評判をとるこの私が、このくらい下手に出ているのでございます。そのくらいに窮地にあるものとご推察いただき、武士の情けをおかけくださるよう切にお願い申しあげます。
このところ、豊洲への市場移転に関して、多くの報道機関の皆様から取材の依頼を受けておるのみならず、無遠慮に私の責任を追及するやの言論が跋扈しておりますので、私としては面倒極まりなく、また責任追及に防衛の手段を講じなければならないものと痛感しておるところで、心境の一端を以下のとおり明らかにさせていただくという形で、取材拒否と私の責任追及への予防措置を明確にしておきたいと存じます。
今般の件は十数年というかなりの時間が経過している上、当時私は都政とは無関係な尖閣問題や、うまく責任を逃れた新銀行東京などの私にとっての重大案件を抱えていたことや、週に1、2度しか登庁しないという大きな制約の事情もあり、加えて間もなく84歳になる年齢の影響もあって、長編の書物を執筆したり、集会で「厚化粧」発言などはできても、私にとっては大して重大とも思えない市場移転問題については記憶が薄れたり、勘違いをしたりすることも大いに考えられます。今後、報道機関の皆様の個別のお問い合わせにその都度お答えすることは、面倒この上ないばかりか、うっかり不利益な真実を語ったりしかねないおそれもあることから、一切控えさせていただくこととしました。
取材は控えさせていただきますが、ただ、私から一言弁解を申し上げます。この弁解に関する反論の取材はもちろんお断りです。今般の件については、当時、卸売市場、建築、交通、土壌汚染、予算等のさまざまな観点で、私の意を体した専門家や関係者だけの意見を聞きながら、側近中の側近であった副知事以下、子飼いの幹部職員や、私の威令には逆らうことのできない実務に長けた関係部署の多くの職員たちを半ば恫喝し半ばは宥めながら事業の計画を進めていたもので、この事業はとても私個人の素人判断のみでは、真っ当な形式を整えることができなかった専門的かつ複雑な問題でありました。
それだけに、経過の詳細を思い出してご説明することなれば、うっかり隠れていた真実が明るみに出かねない難しさがつきまといますが、幹部職員や担当職員からも事情を聞いていただければ、自ずから私が因果を含めていたような証言となるはずで、私の責任はないよう周到に用意されていたとおり明らかになるものと思っております。
もちろん、私に昔ほどの権力も権威もなく、虚仮威しが通じない気配もありますので、私自身に責任が及ぶもけねんされますので、そのような事態となれば遠慮なく発言する権利は留保いたします。その上で、もとより私自身も今後、私自身に法的な責任が及ばない限りにおいて、事実関係の検証を行う場合に形だけは全面的に協力するつもりでおります。
ところで、一部の報道においては、私が土壌汚染による危険を無視ないし軽視して予算と完成時期だけにこだわり強引に今回問題になっている構造にさせたといった指摘がなされているようですが、これは一面正確なご指摘ですが、実は表面だけを見てのこと。是非この程度でおさめていただき、私が、何が何でも極度に毒性強い土壌の豊洲に、何ゆえ食の安全を無視してまでも強引に市場を移転する決断をしたか、この大きな謎に切り込むような取材や報道があってはならないものと警告しておきたいと存じます。
私が、法的責任を追及される筋合いは断じてありません。そもそも、知事というものは、週に1度か2度か登庁して、部下が調えた書類にメクラ判を押す気楽な商売ではありませんか。年俸2000万円ぽっちはメクラ判代でしょう。それを、私一人がやったわけでもなく、多数の専門家や担当部署職員が関与し、また議会も審議する案件で、一々責任を追及されては割が合わないじゃないですか。
ともあれ、私の都知事在任中の件に端を発してこのような事態になっていることについては責任を痛感いたしておりますが、この責任は、あくまでも言葉だけのもの倫理上道義上のもので、私に法的責任があるなどということは絶対にありえません。そんなものは、いつものとおり部下が責任をとればよい。私は、一切知らぬ存ぜぬなのであります。以上のとおり、謹んで宣告申し上げます。
(2016年9月22日)
祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。驕れる慎太郎も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者も遂には亡びぬ、ひとへに風の前の豊洲の塵に同じ。
近く歴代都知事をとぶらへば、先代舛添要一、先々代猪瀬直樹、これらは皆、心ある人びとの諫めをも思ひ入れず、都政の乱れんことを悟らず、民間の愁ふるところを知らずして、あるいは都下の病院経営者から5000万円もの現金の提供を受け、あるいは私事に公費の混同目に余りしかば、久しからずして、都民に見捨てられて亡じにし者どもなり。しかれども、奢れる慎太郎にくらぶればその罪さしたることなしというべきならん。
舛添、猪瀬の両名に先だつて、13年もの長きにわたって都庁を伏魔殿とし、その魔物巣窟の主として君臨せし石原慎太郎と申しし人の、おごれる心たけきことのありさま、伝え承るこそ、心も言葉も及ばれね。
この慎太郎、人を人とも思わぬ傍若無人の振る舞いで知られてければ、部下にも記者にも、敬して遠ざけられておりしは、軽い御輿のありさまとぞ覚えけり。またこの人、常に手柄は我が物として記者会見では得意満面となりつれど、不祥事の責任はすべて部下になすりつける卑劣漢として音に聞こえけり。
しかれども、この慎太郎の強面、強引、恫喝の数々を、いかんせん愚昧なる都民が許せしかば、ますます増長して、都政と都民の重ね重ねの不幸のみなもととなりにけり。
しかるに、今ようやく天網恢々疎にして漏らさず、応報因果は我が身にめぐるのたとへのとおり、ここに慎太郎の命運も尽きんとするこそ、あはれなれ。
慎太郎こそ、当時の知事として、豊洲新市場移転問題のすべての責めを負うべきが、その土壌汚染対策瑕疵の責めを問われるや、まずは「僕はだまされたんですね。結局、してない仕事をしたことにして予算を出したわけですから。その金、どこ行ったんですかね?」と、平然当時の部下に責任を押しつけにけり。卑怯未練の本領発揮というべきなるらん。
しかるに、かつての都知事時代の定例記者会見の記録で、新事実が浮上せり。
豊洲の土壌汚染対策について、慎太郎は得意げにかく語ってあり。「担当の局長にも言ったんですがね。もっと違う発想でものを考えたらどうだと。どこかに土を全部持っていって(略)、3メートル、2メートル、1メートルとか、そういうコンクリートの箱を埋め込むことで、その上に市場としてのインフラを支える。その方がずっと安くて早く終わるんじゃないか」「(盛り土案より)もっと費用のかからない、しかし効果の高い技術を模索したい」「担当の局長に言ったんですがね。もっと違う発想でものを考えたらどうだと」。
こうして慎太郎。「私はだまされた」の被害者面をしてみせたものの、なんじょう被害者などであるべきか。一転、盛り土案潰しの『真犯人』に擬せらるに至れり。
さすれば慎太郎は一計案じて前言翻して、「シタ(=部下)から箱をつくると上げてきたので、それを会見で報告しただけ」「私は建築のイロハを知らないので、そんな工法思いつくはずがない。素人だから他人任せにしてきた」と居丈高に開き直り、最後は「東京都は伏魔殿だ」と捨てぜりふ。この伏魔殿の主の言に、聞く人一同笑いさざめけるは、既に慎太郎がかつての勢いなきしるしなり。
かつて勢い盛んなるときなれば、誰もが慎太郎の暴言には目をつぶれり。しかれど、今は昔の彼ならず、シタ(=部下)も黙ってはおられない。黙っていれば悪役ともならんずらん。
比留間英人なる人は、当時の都中央卸売市場長なりけるとぞ。メディアに向かって申し開きをこころみにけり。「『こんな案があるから検討してみてくれ』と知事から指示を受けました」と。慎太郎こそはウソをのたまひけれ。「下から上への地下室案」ではなく、「上から下への提案」とのことなりき。
ウソ付きは閻魔の劫火に焼けてあれ。慎太郎の夢に見給ひけるこそおそろしけれ。田園調布の某所に、猛火おびたたしく燃えたる車を、門のうちへやり入れたりて、牛の面のようなる者、馬の面のようなる者の言うよう。「閻魔より、慎太郎殿の御迎へに参りて候」と申す。「さて、なんの迎えぞ」と問はせ給へば、「南閻浮提、都民の善男善女をたぶらかし、都政を混乱させ給へる罪によって、無間の底に落ち給ふべきよし、閻魔の庁に御さだめ候ふなり」とぞ申しける。夢さめてのち、これを人に語り給へば、聞く者、身の毛もよだちけり。
(2016年9月16日)
都知事選が終わった。開票結果は事前に各メディアが報じた情勢のとおりとなって、当確がはやばやと出た。野党統一候補は敗れて、新都知事には品のよくない右翼が就任する。最悪だ。石原慎太郎の時代に逆戻りではないか。チクチクと胸が痛む。
それにしても、4野党の候補統一ができたとき、これは勝てる選挙になると小躍りした。与党側が分裂という情報が伝わって、これこそ千載一遇のチャンスと思った。しかし、取りこぼしたのだ。千載一遇のチャンスを逃したのだ。敗因はどこにあるのか、徹底した検討が必要だろう。
一議席を争う与党と野党の一騎打ちは、憲法改正の国民投票に擬せられてよい。改正発議をするか否か、するとしていつのタイミングを狙うか、その選択の権利を今壊憲与党の側が握っている。勝算ありと考えれば、発議の実行はあり得るのだ。
そのような目で、都知事選における都民の選択を見つめると、極めて危うい。憲法問題について世論が明日はどう転ぶか、私には読めない。不安を感じざるをえない。
有権者は必ずしも理性的ではない。情報に操作され、たぶらかされるのだ。強いメッセージに踊らされ、つくられたイメージに流される。選挙結果はけっして冷静な選択ではない。民主主義とはそのよう危うさをもったものだ。戦前の歴史を思う。明治以来日本にも連綿と非戦論・平和主義はあった。しかし、開戦や事変のたびに、あっという間に崩れて主戦論・ナショナリズムが天下を席巻した。
国民が挙げて主戦論の熱気の中にあるとき、これに負けずに非戦論を貫いた人びとに心からの敬意を表する。北朝鮮がどういう行動をとろうとも、中国とのトラブルがどのように喧伝されようとも、そのようなときであればこその覚悟で9条を守り抜かなければならない、あらためての決意が必要なのだ。
4野党の統一ができたのは大きな成果だ。この共闘関係を継続して、信頼関係を深めていくことが、今後の最大の課題だ。この点に揺らぎがあってはならない。これ以外に野党勢力を伸ばす方策もなく、改憲阻止の展望も開けてこない。
しかし、期待されたほどの共闘効果は出なかった。各野党それぞれの支持勢力全体を統一候補者の支援のために総結集できたかははなはだ心もとない。そのような努力と工夫は十分になされたのだろうか。連合東京という組織には、脱原発のスローガンはタブーなのだろうか。これから先、ずっとそうなのだろうか。この点には、どう対応すべきなのだろうか。
今回4野党統一候補の支援をしなかっただけでなく、結果的には足をひっぱる側に回った宇都宮グループ。これに対する正確な事実を踏まえての徹底批判も必要であろう。
憲法改正発議があった場合の、発議側の世論操作への対抗策と、改正阻止側の統一した共同行動をどう組むかという視点からの総括が必要だと思う。負けた選挙、せめて教訓を酌み取りたい。
(2016年7月31日)
明日(7月31日)が都知事選の投票日。鳥越候補の「最後の訴え」は、新宿南口だった。甲州街道をはさむ広場を埋めつくす大群衆の熱気の中で、護憲や野党共闘を支持する運動の広がりと確かさを実感する。とはいえ、午後8時を過ぎて、拡声器を使った選挙運動が終わって、群衆が散ると普段と変わらぬ東京の土曜日の夜。あの大群衆を呑み込んで喉にも触らぬ東京の大きさ。あの群衆も実は一握りの人びとでしかないことを思い知らされる。さて、明日はどのような結果が出ることだろうか。
「最後の訴え」の応援弁士は、福島みずほ、小池晃、山口二郎、澤地久枝、そして岡田克也。いずれも力のこもった聞かせる演説。そして、鳥越俊太郎が渾身の語りかけ。三つのゼロ「待機児童ゼロ、待機高齢者ゼロ、そして原発ゼロ」の政策を高らかに宣言した。そして、一度終わった演説を、鳴り止まぬ鳥越コールの中で、「あと1分ある」として、短い話を最後にこう締めくくったのが、印象に残った。
「野党が共闘して参院選を闘い抜き、都知事選にまでつなげた。これを大切にしようじゃありませんか」
まったく、そのとおりだと思う。
明日の都知事選。1000万有権者による、たったひとつのポストをめぐる争い。これは、形を変えた首都の擬似国民投票ではないだろうか。
都民の声に耳を傾けて都政をおこなう、予算執行の透明性を高める、保育と介護を充実する、オリンピック予算を適正化する、くらいのことはどの候補も政策として掲げる。こんなことには、政策の独自性は出て来ない。鋭く対決するのは、「平和・憲法・原発」の3課題。実は、護憲の野党共闘と、自公改憲勢力の対決の様相なのだ。
核兵器も原発もない「非核都市東京」を目指すという鳥越と、「核武装の選択肢は十分にあり得る」という小池百合子のコントラスト。これは、決定的な対決課題なのだ。
昨日(7月29日)夕、フジテレビの「みんなのニュース」での討論会で、鳥越が小池氏を批判したという。
「小池さんは、かなり前の雑誌で、『軍事上、外交上の判断において、核武装の選択肢は十分にあり得る』という風に言っておられますが、私は知事になったら早速すぐにやりたいのは『非核都市宣言』をやりたい。核武装論者である小池さんに『非核都市宣言』というのは果たしてできるのか」
小池は、「私が『核武装論者』と言い切られましたけれども、これこそ捏造」と反論。「でも実際に本に書いてある」(鳥越氏)と言われると、「いや、言ってませーん!日本語を読めるのであれば、よく読んでいただきたいと思います」と発言したという。
このテーマは、以前にも取り上げたが、憲法や安全保障に関わる基本政策の際だった差異を物語る象徴的な問題。しかも、小池が「いや、言ってませーん!日本語を読めるのであれば、よく読んでいただきたい」というのだから、みんなで読んでみよう。テキストは、小池の公式ウェブサイトに掲載されている、保守論壇誌『Voice』(PHP研究所)2003年3月号所収の田久保忠衛、西岡力との極右トリオ鼎談記事。タイトルは「日本有事 三つのシナリオ」。そして、当該個所の小見出しが、「東京に米国の核ミサイルを」という物騒なもの。日本語を読める人なら下記のURLで、鳥越の指摘と小池の否定の真偽を、直ちに確認することができる。
https://www.yuriko.or.jp/bn/column-bn/column2003/column030320.shtml
小池の発言は以下のとおりだが、ここだけでなく全体を読んでいただくと小池の政治姿勢や体質がよく分かる。右翼どっぷりであり、どっぷり右翼なのだ。
小池 軍事上、外交上の判断において、核武装の選択肢は十分ありうるのですが、それを明言した国会議員は、西村真吾氏だけです。わずかでも核武装のニュアンスが漂うような発言をしただけで、安部晋三官房副長官も言論封殺に遭ってしまった。このあたりで、現実的議論ができるような国会にしないといけません。今の国会は時間とのせめぎ合いがほとんどで、労働組合の春闘と同じです(笑)。それももうないのに。
小池百合子の平和や憲法ないがしろにする姿勢に恐ろしさを感じざるを得ない。明日は、ミニ国民投票だ。平和・憲法を大切に思い、原発は不要とする立場の都民は、ぜひともこぞって、鳥越俊太郎候補への投票を。間違っても、小池百合子にだけは投票してはならない。
(2016年7月30日)
東京都知事選(7月31日投開票)最終盤である。選挙運動ができるのは、今日(7月28日)を含めても、あと3日を残すだけ。是非とも鳥越俊太郎を押し上げたい。
鳥越候補公約の目玉のひとつが「非核都市東京」の宣言である。非核とは、原水禁反対という平和のテーマでもあり、反原発のエネルギー政策でもある。ともに、人間の尊厳に根ざした課題であり、憲法の理念の具体策でもある。軍事大国化、経済大国化の路線は採らないという宣言なのだ。
この対極にあるのが小池百合子。こんな候補を知事にしてしまったら最悪だ。「反・非核都市東京」の路線を歩みかねない危うい政治家なのだから。
昨日(7月27日)、鳥越は新宿駅前の演説で「ある候補は、ある雑誌の対談で『日本は外交上、軍事上、核武装という選択肢はあり得る』と言ってる。そんな人が東京都知事になるなんて、あり得ないでしょう」と発言。続いて練馬駅前の演説では、「名前を言います。小池候補」と名指しした。
この鳥越の指摘に小池は反発して、「曲解してねつ造している。不正確なことをおっしゃるのはよろしくない、と不快感を示した」と報道されている。
ジャーナリストに対する「曲解」「捏造」発言は聞き捨てならない。ことは、政治家の基本姿勢にも関わる重大事だ。『日本は外交上、軍事上、核武装という選択肢はあり得る』と発言した事実があるか否か。現時点ではどう考えているのかを明確にすべきところだが、この点を小池は濁したまま。
鳥越発言の根拠は、雑誌『Voice』(PHP研究所、2003年3月号)での鼎談記事での発言のようだ。鼎談の相手がすさまじい。田久保忠衛(現・日本会議会長)と西岡力(「救う会」会長)なのだ。小池はこんなのとお仲間。「ぼくらは極右の3人組」、あるいはこの鼎談の中で名前が出ている西村真悟(「お国の為に血を流せ」で著名)も加えて、「極右4人組」というところ。
『Voice』(2003年3月号)の歴史的な鼎談を誰かが掲載してくれればありがたいのだが、私は孫引きするしかない。
本日の赤旗によれば、小池百合子の発言内容は、「軍事上、外交上の判断において、核武装の選択肢は十分ありうる」「わずかでも核武装のニュアンスが漂うような発言をしただけで、安倍晋三官房副長官も言論封殺に遭ってしまった」「このあたりで、現実的議論ができるような国会にしないといけません」というもの。
それなら、鳥越発言の「『日本は外交上、軍事上、核武装という選択肢はあり得る』と言ってる」「そんな人が東京都知事になるなんて、あり得ないでしょう」を、曲解とも捏造ともいう筋合いはない。事実摘示の正確さは十分であり、その事実を前提とする意見の表明になんの問題もない。むしろ小池は、この指摘に噛み合う形での政治的見解を述べて有権者の判断を仰ぐべきであった。
最近適切な資料紹介で注目されているリテラは、もっと詳細に解説している。
見出しは、「小池百合子が日本会議会長らと『東京に核ミサイル配備』をぶちあげていた! 小池は『東京のトランプ』になる?」という、刺激的なもの。読み応え十分である。やや長いが、下記の引用をお読みいただきたい。
「2003年、保守論壇誌『Voice』(PHP研究所)3月号所収の田久保忠衛、西岡力両氏との鼎談記事…タイトルは『日本有事 三つのシナリオ』。内容は小池氏、西岡氏、田久保氏の3名がそれぞれ議題を提示して討論するという企画なのだが、くだんの“東京核ミサイル配備”は田久保氏の『日米同盟か、核武装か』なる問題提起から始まり、北朝鮮の核保有と日米安保がメインテーマになっている。
そして、このなかで堂々と『東京に核ミサイルを』なる小見出しまでつけて、西岡氏が『アメリカがほんとうに利己主義的になれば、彼らはアメリカまで届くテポドンだけはストップさせるが、日本を狙うノドンは放置するでしょう』とぶつと、これに応じた小池氏はこう言い放つのだ。
『軍事上、外交上の判断において、核武装の選択肢は十分ありうるのですが、それを明言した国会議員は、西村真悟氏だけです。わずかでも核武装のニュアンスが漂うような発言をしただけで、安部晋三官房副長官も言論封殺に遭ってしまった。このあたりで、現実的議論ができるような国会にしないといけません』
つまり小池氏は、“日本の核兵器保有を国会で現実的に議論せよ”と声高に主張しているのである。しかも、この小池氏の発言の直後には、田久保氏がこう続けている。
「西村真悟氏が『日本は核をもて』といって批判されたのは、地球は平たいと思っている社会で『地球は丸い』と主張したからです。しかし、そのうちに誰が正しかったかが明らかになる」
さらにこの田久保氏の弁を継ぐかたちで、今度は西岡氏がこんな雄叫びをあげるのだ。
「私が九四年から主張してきたのは、『北朝鮮が核開発を続けているあいだは、日本は核武装ではなく、非核三原則における『核持ち込ませず』を凍結せよ』です。つまり、アメリカに核を持ち込んでもらうほうがいい。日本がアメリカの核の傘に入ることを望むのであれば、核ミサイルを東京にもってきてもらうのがベストです」
東京に核ミサイルを。いったい、この人たちは何を言っているのだろう。お決まりの“核抑止力”を北朝鮮に見せびらかすために東京タワーの真横にでも核ミサイル発射施設をおっ建てるべきだとでも考えているのだろうか?そんなもの、国防でも外交の上でも、都民の生活を考えても、完全にデメリットしかないトンデモだ。
ところが、小池氏は“東京核ミサイル配備”の与太話をなだめるどころか、記事の最後で『ところでこの座談会、北朝鮮側に読ませたくないですね(笑)。手の内が分かってしまうので』などと嬉しげに賛意を示している。しかもこの鼎談がよほど気に入ったのか、自分のホームページにテキストを全文転載し、現在でも閲覧できるように無料公開までしているのだ。
もともと小池氏は一貫して日本の軍備増強を声高に主張し、核武装構想についても2003年の衆院選前に毎日新聞が行ったアンケートで「国際情勢によっては検討すべき」と回答しているが、しかし、東京に核ミサイルを配備する計画までこんな嬉しげに語り合っていたとは……。さすがにまともな神経をしているとは思えないが、こんな人物がいま実際に東京都知事選に立候補しているのだから笑えない。
なお、本日の赤旗は、もう一つの核である原発についての小池の意見を次のように紹介している。
見出しは、「福島原発事故直後『稼働中の原発は運転を』」。
小池氏はまた、東京電力福島第1原発事故直後に、「稼働中の原発は安全性を総点検した上で運転を続けていいと思います」と発言していました。雑誌『アエラ臨時増刊』(朝日新聞出版、2011・5・15号)の「『原発』の行方 20人の提言」の中で述べています。
石原慎太郎に勝るとも劣らぬ「トンデモ知事候補」というべきではないか。トンテモだけは、ゴメンをこうむる。
(2016年7月28日)
本日(7月27日)午前11時、東京地裁527号法廷で、東京「日の丸・君が代」処分取消請求第4次訴訟の第11回口頭弁論。恒例のとおり、原告のお一人が、熱を込めて陳述をした。いつものことながら原告の陳述は感動的で、裁判官諸氏もよく耳を傾けてくれたと思う。
今日の陳述を担当した渡辺厚子さんは、障がい児教育に情熱を傾けて教員人生を送った方。その陳述内容の前文が後掲のとおり。渡辺さんは、障がい児と接する中でいろんなことを教えられたという。私は、10・23通達関連の訴訟に携わる中で、障がい児教育に携わる教員から大事なことを教わった。
これまでも学校事故の損害賠償請求事件などでは、在学契約における学校の子どもに対する安全配慮義務の内容に関連して、憲法26条に言及してはきた。しかし、「日の丸・君が代」裁判で初めて障がい児教育の何たるかをおぼろげながらにも知った。そこから、教育の本質が見えてくる思いだ。
重度の障がい者に接して、石原慎太郎の如くこんな感想を述べる人物もいる。
「ああいう人ってのは人格あるのかね」「ショックを受けた」「僕は結論を出していない」「みなさんどう思うかなと思って」「絶対よくならない、自分がだれだか分からない、人間として生まれてきたけれどああいう障がいで、ああいう状況になって…。しかし、こういうことやっているのは日本だけでしょうな」「人から見たらすばらしいという人もいるし、恐らく西洋人なんか切り捨てちゃうんじゃないかと思う。そこは宗教観の違いだと思う」「ああいう問題って安楽死なんかにつながるんじゃないかという気がする」(「安楽死」の意味を問われた知事は)「そういうことにつなげて考える人も いるだろうということ」「安楽死させろといっているんじゃない」(と否定した。)「自分の文学の問題にふれてくる。非常に大きな問題を抱えて帰ってきた」(1999年9月18付 朝日)
石原には障がい児教育はできない。障がい児教育を重要とする発想もできない。相模原障がい施設での19人殺害事件犯人と、根底において同じ発想なのだから。
障がい児教育の思想は、その対極にある。教育の成果を国家にも社会にも還元する発想を持たない。子どもを将来の経済社会の担い手として、「人材」と見る目をもたない。教育を経済投資としコストとする思考を拒否してはじめてなり立つ。徹底して、子どもの人格の尊厳から出発する思想だといってよい。
国家や社会に先んじて子どもの尊厳がある。教育とは、そのような尊厳から出発すべきものだというのだ。一人ひとりの障がい児に寄り添うことで、教育の本質が見えてくるのではないか。
その障がい児教育の現場に乱暴に押し入ってきた国旗国歌とは、教育の本質と相容れない国家主義の象徴である。石原都政の時代に、強引に国旗国歌強制が持ち込まれたことは偶然ではないのだ。
本日で主張のやり取りが一応終了して、次回第12回口頭弁論から舞台は103号地裁大法廷に移る。証拠調べ手続にはいる。また、感動的で教訓に満ちた法廷となるものと思う。
なお、次回法廷は、10月14日(金)午前9時55分開廷で、午後4時30分まで。
次々回は、11月11日(金)午前10時開廷で、午後4時30分まで。
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2016年7月27日4次訴訟原告渡辺厚子陳述
2003年10月、大泉養護学校職員会談で、校長より10・23通達の説明がなされました。このときの全教職員の驚愕を私はどう言葉にしていいかわかりません。巣立っていく一人ひとりの卒業生を思い浮かべて、こうしたらいいだろうか、ああしたらいいだろうか、と私たち教員が考え続け、実施しようとしている卒業式が、完全に壊されてしまう。大変な危機感をもって、みんな必至で校長に言いました。
「A君はやっと車椅子をこげるようになりました。いま、その車椅子で証書をもらいたいとフロアー会場で練習をしているんです。」「壇上になったらどうしてこげますか。彼に、自力ではとりにいくな、とでも言うんですか。」
「Bさんは呼吸器をつけています。電源コードを壇上へのばして舞台上手そでから向こうの下手そでまでぐるっと回し降りてくるまで延ばすなんてできません。呼吸器の電源を切らない限り無理です。そんなことをさせるんですか。」
しかし校長は、都教委の命令だから、それに従わなければならない、と苦しそうに答えるだけでした。私達は憤懣やるかたなく、世の中のバリアーフリーに逆行している。命をなんと思っているんだ。通達は、子どもの活動、子どもの権利を潰そうとしている、と言い合いました。ほどなく近藤精一指導部長の、障がい児学校には個別配慮をするという都議会答弁をきき、「そうだよ、都教委だって障がい児にバリアーをつくって動けなくするようなことはしないはずだ」「フロアーを使用できるよう要望してほしい」と校長に訴えました。
校長も、そうだなあ、校長連絡会で聞いてみるよ、と言いました。しかし持って帰ってきた結果は、「だめだ、壇上しか許されない。都議会答弁と実際は違う。スロープ制作予算をつけると言っている」。それっきりでした。
高い壇しかないときに、スロープを通ってのぼれるようバリアーフリーをめざす、というのならわかります。しかし約50年間研究を重ね、子どもたちが主人公となる卒業式のために、バリアーのないフラットな会場を使って対面式の卒業式をしてきたのです。スロープをつくるからいいだろう、ではなく、そもそもバリアーフリーのフラットな会場を使うな、と禁止したことこそ問題です。
フロアーか壇上か、と言った形式の違いの問題としてみられるかもしれませんが、それは本質をみていません。子どもから出発すべき教育の基本を忘れた、いや無視した大問題です。障がい児への合理的配慮に欠ける、なにより子どもの尊厳を奪う事柄なのです。
通達前03年3月卒業式では、どれほど車椅子操作がたどたどしくとも自走して証書をとりにいくのを禁じられることはありませんでした。通達後の卒業式で、生徒が電動車椅子を操作し、フロアーで受け取りたいと、校長に懇願しました。その生徒は唇や舌を噛み切りコントロールできない身体に泣き叫ぶ毎日でした。同じ病気の弟は亡くなりました。本人、親、担任の3人4脚の文字通り涙ぐましい努力で奇跡的にやっとどうにか操作が出来るようになったのです。これは、できるできないというレベルの話ではなく、自分の人生で初めてつかんだ、生きる希望、自らの尊厳でした。しかし、校長から、だめだ、とはねつけられました。その子は泣く泣く担任に押されて壇上に上がりました。担任は悔し涙で、起立しませんでした。
通達が出るまでは当然のこととして営まれてきた子どもの活動です。私たち教員は、子どもの尊厳を守ってやれないばかりか、踏みにじる行為に加担させられます。情けない、悔しい。起立命令を拒否するのは、こんな理不尽には従えない、加害行為に加担したくない、というひりひりとした教員の良心の叫びなのです。
私は本訴訟で停職6ヶ月の処分取り消しを求めています。
子どもたちによって育ててもらった、教員としての私の良心、信念。それを捨てるわけにはいかないとしてきたら、あっという間にこんなに重い処分となってしまいました。
退職の前年度の2009年には、悩み抜いた末の卒業式不起立により停職3ヶ月処分を受けました。そして保護者達から責め続けられ、大変苦しみました。これが30年余自分のすべてを注ぎ込み情熱をもって関わってきたことの答えなのかとほぞを噛む思いでした。
退職の年、教員としてどん底にいた私を、再び信頼してくれる子どもや保護者たちが現れ、私は気を取り直し、最後まで子どもと自分を裏切るまいと思い2011年3月起立しませんでした。
私は障がい児教育の1頁も知らずに飛び込み、初めての学校でありちゃんに出会いました。ありちゃんは、後頭葉が損傷しているため、目が見えませんでした。面会にくるお父さんは、ありちゃんを抱っこしながら、「ありの目が見えたら、世界1周でもしてやりたい」と語っていました。1年ほどたったある日のこと、何気なく転がしたボールを追うように、ありちゃんの顔が上がったのです。私はナースステーションに駆け込み、「先生! ありちゃんが見えているみたいだ」とさけびました。医者も看護師も見に来て、後のカンファレンスで、脳に新たな回路ができ始めたのだろうと言われました。
私は芯から驚きました。不可能と医学でいわれていても、人との関わりが人を変える。私はありちゃんによって教育の力、というものを知らされました。その後も、沢山の子どもによって、人は一人ひとり違い、その違いにこそ価値をおいて教育するべきなのだ、と教えられました。通達と命令は子ども一人ひとりの違いを押しつぶしています。
こどもの権利を侵す間違った命令には従えない。これは私にとって、自分が自分であり続けるために、子どもたちによって育てられた教員の良心を捨てないために、越えてはならない一線なのです。夭折していった子どもたちへ、今後も怠けず、子どものために尽くす、と誓った日を私は忘れるわけにはいきません。
私の初任時代からの近しい友人は、諸事情から命令を拒否できず、苦しみながら起立していました。毎年3月が近づくたびに目が空ろになり、耐えかねてとうとう退職し、そしてほどなくなくなりました。教員はみんな、子どもを第一に考えた教育を実施したいのです。それとは正反対のことをさせられる苦しみ。10・23通達はどの教員の良心にも回復し難い打撃を与えています。
裁判所におかれては、教育というものを熟考し、私達が何故起立できなかったのかに深く思いを致していただきたい。そして子どもや教職員の人権擁護の観点に立った判断を示していただきたいと切に願います。
以上
(2016年7月27日)
世論調査では都知事選での小池百合子優勢が伝えられているが、この人の何が都民にとっての魅力なのか理解に苦しむ。石原慎太郎よりは猪瀬が少しはマシかと思い、石原後継の呪縛から逃れがたい猪瀬よりも舛添が数段マシだろうとも思った。しかし、小池は最悪だ。また、振り出しに戻って、暗黒都政の再来となりかねない。
本日の赤旗が、小池百合子の国旗国歌に対する姿勢を取り上げている。「沖縄での『国旗』『国歌』扱い攻撃」「強制とたたかう人々非難 小池百合子都知事候補」という見出し。その記事の全文を紹介しておきたい。
「東京都知事候補の小池百合子元防衛相が、2013年5月26日に自民党本部内で行った講演で、沖縄県内での「国旗」「国歌」の扱いを批判し、沖縄タイムス、琉球新報の論調を攻撃していたことが分かりました。
講演は、改憲右翼団体「日本会議」と連携して改憲や「教育再生」を主張する「全国教育問題協議会」が主催した「教育研究大会」で行ったもの。
当時自民党広報本部長だった小池氏は『日本の教育を変えていく最大のポイントはメディアにある』と主張。サンフランシスコ平和条約が発効した1952年4月28日を記念して安倍政権が政府主催の「主権回復の日」式典を開催したことに関連し、4月28日を祝日にすべきだと述べつつ、沖縄の2紙が同日を「屈辱の日」だとする論調で報じたことを批判しました。
その上で、『沖縄では国旗が非常に粗末に扱われ、国歌でさえまともに歌われていない』『国歌は当然のことながら、大切に手を胸に当てて歌うものだ。それを立つの、立たないのと裁判をしているような国は私は聞いたことがない。これらをあたかも正当化するような報道をし続けているのがメディアだ』などと、「国旗」「国歌」強制を当然視する発言を繰り返しました。
小池氏の発言は、沖縄戦で悲惨な被害を出し、戦後もサンフランシスコ平和条約で本土から切り離され、米国の支配や基地問題に苦しめられた沖縄の人々への攻撃であり、憲法が保障する思想信条の自由に基づいて「国旗」「国歌」の強制とたたかう全国の人々まで攻撃するものです。」
国旗国歌は国家の象徴である。個人が、国家をどう認識するかが、そのまま国旗国歌にどのように接するかの態度としてあらわれることになる。国家を大切に思う人は、国旗国歌を大切に扱えばよい。国家一般を、あるいは現政権が運営する国家を、個人の自由の敵対者だと思う者は、国旗国歌に抗議の意志を表明することになる。これは、純粋に思想の自由の問題であり、自由な思想を表現する自由の問題である。
問題は、国旗国歌を尊重する思想を強制したいという「お節介で、困った人びと」が、国旗国歌を大切に扱うよう他人の行動に介入しようということだ。典型的には、戦前の国防婦人会の面々の如くに。この「お節介で、困った人びと」が権力を握ると、「恐るべき超国家主義国家」への歩みが始まることになる。小池百合子は、そのような歩みを進める危険な政治家ではないか。
価値観の多様性への寛容は民主主義社会の中核に位置する。国家に関する価値観の自由はさらにその根幹に関わる。国旗国歌に対する姿勢における寛容度は、その国や社会の民主主義到達度のバロメータと言ってよい。
「国歌は当然のことながら、大切に手を胸に当てて歌うもの」という小池の思い込みは、個人の思想としては自由でそれで咎められることはない。しかし、「国歌は当然のことながら、大切に胸に手を当てて歌う人もいれば、黒い手袋の拳を上げて抗議の意思を表明する人もいる。また、国旗を焼き捨てることが国家への批判を表明する手段となることもある」のだ。
「立つの、立たないのと裁判をしているような国は私は聞いたことがない」ですって? ならば、聞きたい。国歌斉唱時に起立を強制している国をご存じだろうか。かつての文部省が調査をしている。韓国と中国には、そのような強制があるようだ。当然韓国と臨戦状態にある北朝鮮にもあるだろう。しかし、欧米の民主々義を標榜する先進諸国に関する限り、「国家が国民に対して、立てだの、唱えだのと強制をしているような国があろうとは、私は聞いたことがない」。
この点に関心を持って、ちょっと調べたら、次の記事が目にとまった。『文藝春秋』2008年1月号の小池寄稿を引用するウィキペディア記事。
「小池が自由党を離党して保守党に参加し、小沢と決別した理由については、「ここで連立政権を離れて野党になれば、小沢氏の『理念カード』によって、政策の先鋭化路線に再び拍車がかかることは想像できる。一方で、経済企画庁の政務次官の仕事を中途半端に投げ出すことには躊躇した」「少々心細くもあったが、実は『政局』と『理念』の二枚のカードに振り回されることにも、ほとほと疲れていた。」「かつて小沢さんは、自由党時代に取り組んだはずの国旗・国歌法案について、自民党との連立政権から離脱するなり、180度転換し、『反対』に回った。国旗・国歌法案は国家のあり方を問う重要な法案だ。政治の駆け引きで譲っていい話ではない。同じく外国人地方参政権の法案についても自由党は反対だったはずだが、公明党の取り込みという目的のために、『賛成』へと転じたことがある。国家の根幹を揺るがすような重要な政策まで政局運営の“手段”にしてしまうことに私は賛成できない。これが私が小沢代表と政治行動を分かとうと決意する決定打となった」と説明している。
小池にとっては、国旗国歌の強制は、「国家のあり方」を決定づける重要な理念なのだ。かつて「政界渡り鳥」との揶揄に対して、「変わったのは、私を取り巻く環境であって、私の信念は一貫している」と弁明したことがある。一貫している小池の信念とは、ウルトラナショナリズムの理念にほかならない。こんな人物を、いやこの人だけは、知事にしてはならない。
(2016年7月25日)
都知事が2代続けて「汚れたカネ」でつまずいて、辞任に追い込まれた。今回都知事選は、いつにもまして候補者の「政治資金収支のクリーン度」が問われている。カネにキズ持つ候補者は、今回都知事選に出馬の資格がない。
昨日の当ブログで、「落選運動を支援する会」のサイトを引用して、小池百合子候補の「政治とカネ」疑惑4件をお伝えした。今日(7月24日)になって、そのうちの1件に進展があった。小池百合子の「政治資金疑惑」の色が一挙に濃くなったのだ。小池は、思想的に右翼というだけではない。「政治資金のクリーン度」不足についても徹底した批判を受けなければならない。赤旗と日刊ゲンダイが伝えているニュースだが、もっと多くの有権者に小池百合子「裏金作り疑惑」を知っていただきたいと思う。
政治資金の流れは、徹底して透明でなければならない。これをごまかそうというのが、「裏金作り」だ。適宜に調達した領収証を利用して、政治資金収支報告書には実体のない支出の報告をしておく。こうして浮かせた金が、国民の目から隠れた支出に使われる。計画的で組織的な、ダーティきわまるカネの使い方。もちろん、政治資金規正法における「収支報告書への虚偽記載の罪」に当たる。小池百合子にその疑惑濃厚なのだ。
昨日の当ブログの該当個所は、以下のとおりである。
小池百合子自民党衆議院議員(元防衛大臣)の政治資金問題その2
「不可解な「調査費」支出とその領収書問題
http://rakusen-sien.com/rakusengiin/6730.html
既にない企業へ世論調査を依頼し、「調査費」の領収証をもらったという不可解。
こんなことをしている政治家に、クリーンな都政を期待できるのか。」
落選運動のサイトから、疑惑を再構成してみよう。
☆政治資金収支報告書によれば、小池百合子議員の政党支部「自民党・東京都第10選挙区支部」(代表者・小池百合子)は、2012年から2014年まで、「M?SMILE」(当初、東京都新宿区新宿5?11?28、後に東京都渋谷区広尾5?17?11)という先に「調査費」合計210万円を支出している。
☆上記住所の「M?SMILE」は、インターネットで検索しても該当するものが見あたらない。会社としての登記もない。実在が怪しい。
☆「日刊ゲンダイ」の調査報道(「小池百合子氏に新疑惑 “正体不明”の会社に調査費210万円」2016年7月5日)によると、同紙の問合せに対する小池事務所の説明は次のとおり。
「当初は『M―SMILE』という会社名だったのですが、現在は『モノヅクリ』という名前に変更されています。・・・支出目的? 選挙の際、世論調査をお願いしました」
☆この説明は不自然で、疑惑が残る。
・『モノヅクリ』は実在するが、「オーダースーツ専門の株式会社」で、調査をする会社とは思えない。
・この点の疑惑に関して、『モノヅクリ』の代表者はこう説明している。
「私は09年ごろから、個人的に『M―SMILE』という名で世論調査の事業を始めました。小池さんから仕事をいただき、軌道に乗れば法人登録したかったのですが、うまくいかなかった。そのため、12年に『モノヅクリ』を立ち上げ、オーダースーツの事業をメーンにしています」(「日刊ゲンダイ」)
・小池事務所の「『M―SMILE』という会社名が、『モノヅクリ』という名前に変更された」と、『モノヅクリ』側の「12年に『モノヅクリ』を立ち上げた」は齟齬がある。「調査」と「スーツ」、事業目的の違いはあまりに大きく商号変更というには無理があろう。
☆2012年には既に企業としては存在しなくなっている『M―SMILE』に、2012年から2014年まで調査費を支払ったということはあまりに不自然。
・仮に、「『M―SMILE』という会社名が、『モノヅクリ』という名前に変更」されたとしても、13年・14年とも『M―SMILE』の領収証を添付し続けたことが、これまたあまりに不自然。
☆実は、調査の依頼などの事実はなく、存在しない(あるいは、存在しなくなった)会社の領収書が意図的に作成された疑惑が残る。政治資金収支報告書上は調査費支出としておいて、実は210万円を裏金とする操作をしたのではないか。これは、政治資金規正法上の収支報告書への虚偽記載に当たる可能性がある。
ここまでは、昨日まで判明の「疑惑」。ここからが「本日さらに濃くなった疑惑」である。
本日(7月24日)の赤旗・社会面のトップと、「日刊ゲンダイ」(デジタル)が、新たな調査で判明した疑惑を報道している。
「小池百合子氏「裏金疑惑」 都議補選に出馬“元秘書”の正体」(「ゲンダイ」)、「『調査費』210万円の実態不明会社 社長の正体は元秘書」(赤旗)という各見出し。
「ああ、やっぱり」というべきなのだ。「疑惑」は限りなくクロに近くなった。
赤旗の記事を引用しておこう。
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「東京都知事選(31日投票)に立候補している元防衛相、小池百合子氏の政党支部が、実態不明の会社に「調査費」名目で210万円を支出していた問題で、同社の社長は、小池氏の元秘書だったことが、23日までにわかりました。まさに政治資金の“横流し”といえるもの。しかも小池氏は、この元秘書を22日に告示された都議補選・新宿区に無所属で擁立しており、小池氏側に説明責任が浮上してきました。
政治資金収支報告書によると、小池氏が支部長を務める「自民党東京都第10選挙区支部」は、2012年?14年に計210万円を「調査費」名目で「M―SMILE」に支出しています。
本紙の調べによると、このM―SMILEなる会社は、当該住所に存在しませんでした。本紙の「架空支出ではないのか」との問い合わせに、小池事務所は「M―SMILEは現在、『ものづくり』という会社で、世論調査を発注、結果を受け取っていた」と文書で回答してきました。
今回、都議補選に立候補した小池氏の元秘書は、森口つかさ氏(34)。同氏のオフィシャルサイトによると、08年9月に「衆議院議員小池百合子事務所」に入所し、12年10月に「株式会社モノヅクリ設立」とあります。
登記簿やホームページによると、「モノヅクリ」は、東京都渋谷区広尾に「本店」を置き、資本金100万円のオーダースーツ専門会社。森口氏が社長でした。
元秘書のオーダースーツ専門会社に「調査費」名目で支出していたことになります。
第10選挙区支部は、12年?14年の3年間で4875万円の政党助成金を自民党本部から受け取っています。これは、同支部の収入総額(約9140万円)の53・3%にあたります。国民の税金が、「調査費」名目で自分の秘書の会社に流れていた可能性があります。
小池氏は、森口氏擁立にあたって、「都議会に私の仲間というか、方向性を同じくする者が存在するということは意義深いことだ」と語り、22日の告示日にも応援に立ちました。
小池氏は、知事選立候補表明直後に掲げていた「利権追及チームの設置」にいつのまにか言及しなくなりました。「しがらみなくクリーンな若い力で、不透明な都政を変えます」と主張している森口氏ともども、不透明な政治資金支出について、明確な説明が求められています。
以下は「日刊ゲンダイ」の記事
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「31日投開票の都知事選に出馬している小池百合子元防衛相(64)に新たな「政治とカネ」問題が浮上した。今回はナント! 「裏金づくり」疑惑だ。
日刊ゲンダイは小池氏が代表を務める「自民党東京都第十選挙区支部」の収支報告書に添付された領収書の写し(2012?14年分)を入手。この領収書を精査すると、不可解なカネの流れが判明した。
同支部は12?14年、「M―SMILE」という会社に「調査費」として計210万円を支出していたのだが、この会社は登記簿を調べても記載がなく、実体不明の会社だったからだ。
小池事務所は「現在は『モノヅクリ』という社名に変わっている。選挙の際の世論調査を依頼した」と説明。そこで日刊ゲンダイが改めて「M?SMILE」の代表者に確認すると、代表者の男性は「09年ごろ、個人的に『M―SMILE』という名で世論調査の事業を始めた。12年に、『モノヅクリ』を立ち上げ、オーダースーツの事業をメーンにしている」と説明。つまり、実体のないスーツ会社が、小池氏から多額の政治資金を受け取り、世論調査を請け負っていた――という怪しさを記事にした。
■小池氏、元秘書とも問い合わせにダンマリ
そうしたら、小池陣営が22日、都議補選(31日投開票)で新宿選挙区から擁立した男性の名前を見て驚いた。何を隠そう「M?SMILE」の代表者、森口つかさ氏(34)だったからだ。しかも、肩書は小池氏の「元秘書」だったからビックリ仰天だ。
つまり、小池氏は自分の秘書がつくった“ペーパーカンパニー”に多額の政治資金(調査費)を支払っていたことになる。これほど不自然で、不可解なカネの流れはないだろう。政治資金に詳しい上脇博之・神戸学院大教授もこう言う。
「小池氏の政党支部が(M?SMILE)に調査費を支出した時期に森口氏が秘書を務めていたのなら大問題です。通常、議員のために調査を行うことは秘書としての業務の一環で、調査の対価は給与として支払い済みのはず。それを秘書が経営する(幽霊)会社に調査費用を支払うというのは、あまりにも不自然です。裏金をつくったり、不正な選挙資金を捻出していたと疑われても仕方がありません。そうでないのならば、小池氏は説明責任を果たすべきです」
果たして小池氏と森口氏はどう答えるのか。両者に何度も問い合わせても、ともに一切回答なし。知事が2代続けて辞職に追い込まれた「政治とカネ」問題は、今回の都知事選でも間違いなく重要な争点だ。それなのに小池氏、元秘書ともそろってダンマリでいいはずがない。
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以上の各報道が問題点を語り尽くしている。「M?SMILE」にせよ、「モノヅクリ」にせよ、その代表者(森口つかさ)は小池百合子の元秘書なのだ。現在も、小池が都議補選候補に擁立する間柄。小池百合子を代表者とする政治団体が、小池百合子の秘書(あるいは元秘書)に「調査」を依頼し、その秘書(あるいは元秘書)が作成した領収証を受領していたというのだ。領収証はどうにでも作れるではないか。到底些事として看過できることではない。
(2016年7月24日)