(2021年7月4日)
陰鬱な雨の日曜日。耳にはいるのは熱海の土石流被害のニュースは。神奈川でも、千葉でも豪雨の被害が報じられている。気が滅入る。オリンピックどころではなかろうと呟かざるを得ない。
東京オリパラはきっぱりと中止したいもの。それだけでなく、今後もうオリパラは一切やめようではないか。今回、コロナ禍と重なってオリンピックの何たるか、IOCやJOCの何たるかを我々は知ってしまった。こんな愚劣な集団の愚劣な思惑に振り回されるのは、ごめんだ。この思いは、コロナ後も変わるばずがない。
コロナ禍が終われば、私的なスポーツの国際交流は復活するだろう。しかし、この肥大したオリパラは不要だ。いや、有害極まる。国威発揚と商業主義と売名とナショナリズムの醸成、こんなものに貴重な国費を投じてはならない。
私の手許に最新の、東京都の広報(7月号)と文京区報(6月25日号)がある。いずれも、オリパラ推進の立場での紙面作り。「いよいよ東京2020大会が始まります!」(都報)、「文京区で楽しむ東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会」(区報)という見出しを付けている。
都報にも区報にも、表紙に市松模様の東京オリンピック2020のエンブレムが掲載されている。あれはどう見てもコロナマークだ。言うまでももなく、コロナとはクラウン(冠)のこと。電子顕微鏡写真のウィルスの形がクラウン(冠)に似ていたことからの命名。あのエンブレムは紛れもなくクラウン(冠)の形のコロナマーク。これを額に刻印したマスコットは、コロナ・ボーイと呼ぶべきだろう。このデザインはコロナ蔓延以前のものだが、芸術家の直感力の賜物というべきか、何らかの啓示があったのだろうか。今後、東京2020と新型コロナとの切っても切れない関係の象徴となるだろう。パンデミック下に強行されたオリンピックとなるにせよ、世論が止めたまぼろしのオリンピック大会となるにせよ。
確実なことは、この東京大会を機にオリンピックは急速にしぼんでいくことになる。国威発揚の舞台としても、ナショナリズム高揚の手段としても、ビッグなビジネスチャンスとしても、もう機能しない。指導者が笛を吹いても、もう人は踊らない。冷めた目で、笛を吹くひとの滑稽な姿を見つめるだけのことになるだろう。かつては祝祭のオリンピックに讃歌が献じられた。今、愚劣なオリンピックに挽歌を手向けなければならない。まずは、目前の東京オリパラ、そして来年の北京冬季オリンピックがオリンピック終焉の墓標となるだろう。
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再度、五輪開催中止を求める新ネット署名の紹介
「危険性がますます明らかになっている東京五輪開催の中止を訴えます」
著名13氏が呼びかけ人になっての新しいネット署名が始まった。その署名サイトへのアクセスは、「危険性がますます明らかになっている東京五輪開催の中止を訴えます」をキーワードとする検索で。
以下は、呼びかけ人の訴え
東京五輪開催の危険性がますます明らかになっています。私たちは五輪主催者が状況をしっかりと直視し、開催を中止することを緊急に求めます。
いよいよ五輪開催が予定される期日が迫ってきました。私たちは昨年の開催延期の決定以来、日本政府と五輪主催者が「安心安全」のスローガンをどのように実現するのか、国民に納得のいく説明を行うのを待ってきました。残念ながらそのような説明が行われていないどころか、逆に感染防止体制の様々な欠陥が明らかになってきました。また、現在首都圏ではコロナの感染者数が再拡大する傾向にあり、感染力の強いデルタ株の割合も増えています。高齢者以外の方々にあまねくワクチン接種をおこなうことも不可能であると報道されています。このように低いワクチン接種率で行うことになろうとは1年前に考えてもみませんでした。私たちの不安は急速に高まっています。
私たちの怒りも深くなっています。日常生活の抑制を求めながら、数限りないコロナクラスターを無数につくる可能性を秘めた五輪開催を強行しようとする不条理に、また子どもたちから運動会を奪いながら観戦を求めようとする大人の身勝手に怒っています。
このように1年前に延期を決めたときと現在では、開催をめぐる条件が変化しているにもかかわらず、IOCと日本政府は開催ありきで、市民の声を聞く気が全く無いようです。市民の間には今さら何を言ってもと無力感が拡がっていますが、それでもこの切迫した時期だからこそ、最後のチャンスと考え、あえて言うべきことを言っておきたいと、私たちもこの署名をもって、その隊列に加わります。
日本国民の健康と命、そして世界の人々の健康と命が守られなくてはならないと考え、政府に改めて訴えます。歴史的暴挙ともいうべきこの東京五輪が中止されることを求めます。
もはや残された時間は少なくなってきました。私たちは切羽詰まったお願いをしております。遅くなる前にこの暴挙を中止する決断をしていただきたいと。
(2021年3月15日)
余、コロナ蔓延の猖獗に際して、世界の大勢と日本国の現状とに鑑み、非常の措置を以って事態を収拾せんと欲し、ここに忠良なる汝ら一般国民に告ぐ。
余は、日本国と国民の名において、新型コロナウイルスとの闘いにこれ以上打つ手のないことを世界各国に対し率直に明らかにして敗北を宣するとともに、その敗北の証しとして東京五輪を返上する旨通告せしめたり。
そもそも、日本国民に対して健康で文化的な生活を保障し、世界各国の人民との共存共栄をはかることは、余の一貫した重要政策としてきたところ。新型コロナに対する殲滅の戦いもまた、実に日本国の自存と国民の繁栄を願ってのことで、望むべくんば「人類が新型コロナウイルスに打ち勝った証しとしての完全な形での東京五輪開催」こそが余の昨日までの努力傾注の目標であった。
しかるにコロナとの交戰すでに1年と3か月になんなんとして、これを撲滅することを得ず、一億国民各々と医療従事者が最善を尽せるにかかわらず、戦局必ずしも好転せず、世界の大勢また我に利あらず、しかのみならず敵コロナは頻りに新たな変異株となって無辜の国民を殺傷に及ぶ。
余はこの事態においても、これまでは東京五輪の開催にこだわり続けてきた。五輪の成功こそが唯一の政権浮揚策であり、東京五輪の開催失敗は解散の時期を失し、追い込まれ解散による2021年総選挙の与党大敗を招きかねないからである。
しかし、このまま東京五輪開催実現前提でコロナとの交戦を継続すれば、ついに日本と日本国民に取り返しのつかない災厄を招来するのみならず、延いては人類の文明をも破却することが予測されるに至った。
とすれば、これまでコロナ蔓延対策の明らかな障碍と認識されていた東京五輪を返上せざるを得ない。これは自明の理である。「人類が新型コロナウイルスに打ち負かされた証しとしての東京五輪中止」と揶揄されようとも、やむを得ざるところ。
そして、他には既に打つべき手もなければ、非常事態宣言を解除して成り行きに任せるに如くはなしとの判断。是れが、余の敗北宣言の所以なり。
余は時運の趨くところ、堪えがきを堪え、忍びがたきを忍び、以って万世のために東京五輪を返上せんとする。汝ら一般国民、余のために泣け。そして余の意を体せよ。
署名 捺印
(2021年3月11日)
あの日から10回目の3月11日。岩手を故郷とする私にとっては心痛む日。この日は、この世に神のないことをあらためて確認すべき日となった。もし神ありとせば、冷酷な神、無慈悲な神、気まぐれな神、人に対する配慮のカケラもない神、なくもがなの神でしかない。
あの大惨事を「天罰」と言ってのけた恐るべき政治家がいた。その名を石原慎太郎という。冷酷な男、無慈悲な右翼、気まぐれな愚物、人に対する配慮のカケラもない都知事、なくもがなの存在でしかない。
私は、彼のこの一言に心底怒った。これは失言ではない、彼の本性の暴露なのだ。その視点から石原慎太郎糾弾のブログを書いた。その記事をまとめたものが、「3・11から4年。『石原慎太郎天罰発言』批判のアーカイブ」である。
https://article9.jp/wordpress/?p=4563
私は、「この一言で石原慎太郎の政治生命は終わった」と思った。が、そうはならなかった。この明らかな政治家失格人間がその後も細々ながらも命脈を保っている。一部にもせよ、こんな政治家を支持する都民がいるからなのだ。
また私は、被災した東北の復興を心から願った。震災・津波だけでなく原発事故被害。天災と人災の複合被害からの回復は現実には困難だった。それでもの復興の努力に水を差したのが、東京五輪である。しかも、東北復興が東京五輪招致のダシに使われた。「復興五輪」のネーミングが虚しく、腹立たしい。これを主導した人物の名を安倍晋三という。
私は安倍晋三にも復興五輪にも腹を立てたが、安倍晋三も復興五輪も、しぶとくその後相当期間にわたって生き延びた。こんな政治家、こんな五輪を支持する国民がいたからなのだ。
世界を欺して東京五輪を誘致した張本人・安倍晋三が昨夏ようやく首相の座を下り、「復興五輪」もなくなったようだ。
安倍政権の継承者である菅義偉は、本日の「東日本大震災10周年追悼式」での式辞で、「復興五輪」に言及しなかった。昨年の3月11日には、安倍は「追悼の言葉」の中で、こう言ったという。
「復興五輪と言うべき本年のオリンピック・パラリンピックなどの機会を通じて、復興しつつある被災地の姿を実感していただきたい」
また、本日、加藤官房長官は会見で、なぜ「復興五輪」という言葉がなくなったかについてこう答えたという。(朝日.com)
「これは毎年の言葉を、なども踏まえつつ、作成されているものと承知をしておりまして、政府として、今後も、えー、しているものであり、ですね……」と5秒近く沈黙。「まさにそれに尽きるということであります」と続け、理由を説明することはなかった。
「復興五輪」に代わっての流行りが、「人類が新型コロナウイルスに打ち勝った証しとしての完全な形での東京五輪」なのだが、「人類が新型コロナウイルスに打ち負かされた証しとしての東京五輪中止」となりそうな雲行きではないか。
毎日新聞の世論調査の結果は、「五輪開催『復興の後押しにならない』61% 被災3県・世論調査」と報道されている。
被災3県の調査で、「復興五輪」を掲げた東京オリンピック・パラリンピックの開催が「復興の後押しにはならない」と答えた人が61%に達し、「後押しになる」の24%を大きく上回った。「わからない」は14%だった。大会組織委員会は3月25日に福島県内で聖火リレーをスタートさせるなど、東京五輪を復興のシンボルとする方針を打ち出してきたが、被災地でその効果が否定的に見られている現状が浮かんだ。開催理念や復興への効果を疑問視する声は根強くある。
東京五輪はなくてもいっこうにかまわない。しかし、東北復興はなくてはならない。東北復興をダシにした東京五輪などもってのほか。東京五輪の経費を全てコロナ対策と東北復興にまわしていただきたい。そして、いつの日か語りたい。
国民が東京五輪という愚策の誘惑に打ち克った理性の証しとして実現した東北復興、と。
(2021年3月6日)
東京2021オリンピズムの根本原則
1 東京オリンピズムは、政権浮揚と国威発揚とカネのすべてのレベルを、かつ高め、かつバランスよく結合させることを目指す、我が国の国民精神総動員とスポーツの政治利用の哲学である。スポーツを、政治と経済とに融合させ、より巧妙な民衆支配の方法と、より大きな儲け方とを創造し探求するものでもある。東京オリンピズムを成功に導く民衆の生き方は、政治的、経済的、社会的に、伝統的秩序と権威に従順で支配者の提示する倫理規範を尊重し、東京五輪主催者の提供するスポーツ観戦に没我し感動することが望まれる。
2 東京オリンピズムの直接の目的は、時の菅義偉政権と小池百合子都政の数々の不祥事を国民・都民の眼から覆い隠し忘却させることで政治的安定をもたらすとともに、この社会の基本的な支配構造である資本主義の欠陥を民衆の熱狂をもって糊塗することで、現体制の尊厳の保持と市場原理の調和のとれた発展に、スポーツを役立てることである。
3 東京オリンピック・ムーブメントは、オリンピズムの政治的かつ経済的な価値に鼓舞された国家と資本とによる協調の取れた組織的、普遍的、恒久的活動である。その活動を推し進める領袖は「とにかく開催」「7月に開幕しないと信じる理由は何もない。だからプランBはない」「ワクチンが間に合わなくともオリンピックの開催は可能」と述べて中止や再延期の可能性を否定する、野蛮・無謀・無責任のトーマス・バッハである。その領袖の下での周到な準備活動は5大陸にまたがるが、東京の偉大な競技大会に世界中の選手が集まるとき、頂点に達する。そのシンボルは、「カネ」と「不正」と「権力」と「環境破壊」と「反知性」の、5つの結び合う輪である。
4 スポーツイベントを経済的な利潤獲得手段とすることは、侵してはならない神聖な権利の1つである。また、政治的な国民統合の手段とし、あるいは対外的な国威発揚手段として利用することも同様である。
すべての個人は、権力機構としての組織委員会のいかなる種類の差別も甘受して、東京オリンピックの成功のために心身ともに動員されなければならない。そのためには、盲目的従順、権威主義的心情、自己犠牲の精神とともに忖度と迎合の姿勢が求められる。
5 東京オリンピック・ムーブメントは、その成功のために、大和魂と必勝の精神を最大限動員する。とりわけ、権力と金力には卑屈となり、長幼の序と男女の別を弁え、国民一丸となって竹槍を持ち、早朝宮城に向かって遙拝し、「鬼畜コロナには決して負けない!」「東京オリンピックは必ず開催するぞ!」「中止も再延期も考えない!」「無観客もないぞー!」「天佑は我にあり!」と唱和する。断じて行えば鬼神もこれを避く。大和魂は、コロナに打ち克って、五族協和・八紘一宇の東京オリンピック開催に道を拓く。
そのとき必ずや妙なる鐘が鳴り、人類が新型コロナに打ち克った証しとしての東京オリパラが成就する。
(2021年3月5日)
昨日(3月4日)の当ブログを読み返してみた。最終行が「声を上げよう。『東京オリパラは、早急に中止せよ』『政府も自治体もコロナ対策に専念せよ』」と結論を述べている。これが、なんとなく物足りない。
読みようによっては、「東京オリパラ自体は本来素晴らしい意義をもったイベントなのだが、今コロナ禍という特別の事態では、国民の健康保持や公衆衛生を優先せざるを得ない。残念だが、オリパラは開催中止として、コロナ禍対応に注力しなければならない」と意味をとられかねない。もちろん、これは誤読・誤解である。
オリパラ中止へ多くの人の賛同を得るには、以上の文脈でもよいのだろうが、そのように受け取られるのは、私の本意ではない。私は、コロナ禍なくとも、東京オリパラの開催自体に積極的に反対である。「アスリートにはリスペクトを惜しまないし、その無念さには同情するが、今の事態でのオリンピックはコロナ蔓延に拍車をかけることになる」「世論調査で、多くの人がコロナ禍を理由に東京オリパラ開催は無理だと言っている」、だから開催反対という及び腰の消極的反対論では不十分だと思う。国家・国民を総動員しようというこのイベントの本質に切り込んで、積極的反対論を展開しなければならないと思う。
以下は、最近の当ブログの記事。「五輪ファシズム」をキーワードに、積極的オリンピック反対論を展開し、「東京五輪を中止せよ」「北京冬季五輪も中止を」と声をあげている。こちらが私の本意。
鵜飼哲「五輪ファシズム」論に賛同の拍手を送る(2021年2月14日)
article9.jp/wordpress/?p=16323
聖火リレーは「五輪ファシズム」の象徴(2021年2月17日)
https://article9.jp/wordpress/?p=16341
政治的な国民精神総動員システムとしてのオリパラを「五輪ファシズム」と呼ぶとすれば、経済面で大資本の収奪を可能とするオリパラの機能を「祝賀資本主義」と呼ぶ。「惨事便乗型資本主義」からの着想で生まれたという「祝賀資本主義」。『週刊金曜日』2月26日号の特集「五輪はオワコン」の中の一編。鈴木直文「オリンピックに経済効果なし」が、この点を、短く、読み易く、手際よくまとめている。
鈴木直文論稿は、積極・消極の東京五輪中止論の区別を意識してこう言っている。「今回の東京大会は、あまりにもお粗末で醜悪な舞台裏の状況がかなり溢れ出てきていますが、それでもまだオリンピックそのものの構造的問題への批判というよりは、新型コロナウイルス感染拡大への懸念から中止、または最延期するべきであるという意見が多いようです。」
「オリンピックそのものの構造的問題への批判」として、鈴木が論じるのが、「祝賀資本主義」である。下記が核心部分である。
「際限なく膨張した開催費用の用のほとんどは税金です。納税者は長年にわたり多大な負担を強いられるが、大企業とIOCはその利益を独占するのです。
米国の政治社会学者ジュールズ・ボイコフはこの原理を「祝賀資本主義」と呼び、これが、20世紀後半以降のオリンピックの歴史を通じて肥大してきたと言っています。招致をめぐる政治的意思決定の舞台裏が大衆の目にふれることはなく、表では官民が一体となったプロモーションでお祭り気分を盛り上げる。そして、大衆が世界的なスポーツの祭典に酔っているうちに、実はさまざまな形で公共の資産が民間の大企業へと移転される構造がっくられます。」
政治的には「五輪ファシズム」、経済的には「祝賀資本主義」。これこそが、五輪に対する構造的批判と言えよう。
なお、週刊金曜日2月26日号特集「五輪はオワコン」に掲載された下記4本の論稿は、いずれも積極的反対論を展開しており、教わることが多い。
本間龍(インタビュー) 「五輪は『負けてやめられなくなったパチンコ』」「莫大な税金の無駄遣い」「沈黙するメディア」「投資ビジネスの五輪」
鈴木直文 「オリンピックに経済効果なし」「都市経済は成長せず、貧富の差が拡大する」
來田享子 「差別を克服し未来を開くという五輪の意義を知って招致したか」「ジェンダー平等目指す五輪の方針と逆行」「五輪の歴史に汚点残したバッハ会長」
武田砂鉄 「五輪は中止すべき。以上」
武田砂鉄執筆記事の中に、「2013年9月、2020五輪の開催都市が東京に決まった瞬間の安倍晋三氏、森喜朗氏ほか」という、今となっては恥ずかしい限りの例のバンザイの写真が掲載され、みごとなキャプションが添えられている。
体を痛めている人が
路肩に倒れている。
その人に向けて
「俺たち、これからカラオケに
行くんで、歌声を聞いて
元気になってくださいよ」と
告げる人たち
(2021年3月4日)
私もその一員である自由法曹団は、弁護士だけの任意団体で、広辞苑では「大衆運動と結びつき、労働者・農民・勤労市民の権利の擁護伸張を旗じるしとする。」と解説されている。その東京支部が、2月末に第49回となる総会を開き、下記6本の特別決議を採択した。
?「コロナ禍の下で命とくらしを最優先する政策への抜本的転換を求める決議」
?「敵基地攻撃能力の保有を許さず、明文改憲阻止のだたかいに全力をあげる決議」
?「新型コロナウイルスの流行下において労働者の生活と権利を守る立法及び措置を求める決議」
?「性差別・LGBT問題に全力で取り組む決議」
?「「送還忌避・長期収容の解決に向けた提言」等に反対する決議」
?「東京オリンピック・パラリンピックの開催中止を求める決議」
各決議の表題が、「闘う弁護士」たちの今の関心事を物語っている。コロナ禍がもたらす社会的弱者への皺寄せの事態に、権力や企業と闘わざるを得ないのだ。東京五輪中止問題もその文脈にある。いまや、オリパラどころではない。政府も東京都も、コロナ対策に専念すべきなのだ。決議をご覧いただきたい。
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東京オリンピック・パラリンピックの開催中止を求める決議
2020年夏に開催予定の東京五輪(オリンピック・パラリンピック)が延期となり、2021年の開催まで5か月となったが、緊急事態宣言が3月7目まで延長され、新型コロナウイルスの感染は未だ収束する見通しはない。東京都内の医療体制は逼迫し、全国各地で体調が急に悪化して自宅などで死亡する例も急増している。
予選を兼ねて3月にドイツで予定していた体操の個人総合のワールドカップが中止になるなど半数以上の競技で出場選手が未だに確定せず、競技会場で活動する約8万人の大会ボランティアから辞退者が相次ぎ、日本医師会は医療提供体制のひっ迫状況が改善されない限り、さらなる外国人患者の受け入れは可能ではないと述べ、国内外からのアスリートだちからも多くの市民が望まない中での大会への参加を疑問視する声が上がっている。もはや東京五輪は、開催が可能であるとの理由を探す方が困難な状況である。共同通信の世論調査では今夏開催の「中止」「再延期」を合わせた反対意見は80.1%と昨年12月の前回調査の同61.2%から激増した。
しかるに国際オリンピック委員会(IOC)のバッハ会長は、予定どおり7月に開催できると述べ、日本オリンピック委員会(JOC)や東京都、政府は「東京大会を開催することにゆるぎない決意を持っている」(山下泰裕JOC会長)、「ウイルスとの戦いに打ち勝つ証しを刻んでいきたい」(小池百合子都知事)、「人類がウイルスに打ち勝った証しとして東京で開催する決意だ」(菅義偉首相)等と科学的根拠のない精神論を強調するのみである。
五輪が平和の祭典とは程遠いビジネスのための大会に堕し、テレビ放映権料やスポンサー収入を得ることが目的となっていることは多くの市民が指摘するところである。経済の活性化を前面に押し出して誘致した東京五輪であるが、多額の税金を投入して今夏に開催する大義はすでに失われた。
自由法曹団東京支部は、今夏の東京オリンピック・パラリンピックの中止を直ちに決定し、東京都の組織力、財政力を新型コロナウイルスの対策に集中することを求める。
2021年2月26日
自由法曹団東京支部第49回定期総会
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また、3月1日同期弁護士有志のメーリングリストに、梓澤和幸君から下記の投稿があった。
23期の皆さん。
コロナ生命危機なのにオリパラやめようの声が呟きの声しかあがらない。
京都新聞、信濃毎日、共同通信、毎日、朝日、東京新聞も少しは言うけれど大きな声はあげずに沈黙。ものすごい圧力で黙らされている。
そこで僕の生きる拠点国分寺市民連合は明日をスタートに
#コロナあぶない
#オリパラやめよう
とTwitterデモを打ち上げます。
皆さん。明日以降反応して下さい。
梓澤和幸
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そして、昨日(3月3日)の英紙タイムズ「東京オリ・パラ 『中止すべき時が来た』」が話題を呼んでいる。
東京オリンピック「中止すべき時が来た」 英紙タイムズがコラム掲載
感染拡大を引き起こす可能性を指摘し、日本はおろか世界へと広がるリスクが大きすぎるとしている。
今夏の東京オリンピック(五輪)・パラリンピック開催について、英紙タイムズは3日、東京支局長の写真と名前入りのコラムを掲載し、「今年の東京五輪を中止すべき時が来た」と報じた。感染拡大を引き起こす可能性を指摘し、日本はおろか世界へと広がるリスクが大きすぎるとしている。
理由として、200を超える国から1万5千人以上の選手や、関係者、審判らに加えて多くの観客が来日することを指摘した。厳しい規制などでリスクを抑え込み、大会を開催できる国があるとすれば「それは日本」と認めつつも、「確証はない」としている。(朝日新聞デジタル)
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そして、本日(3月4日)、政府の方針が「東京五輪の海外客見送りへ」「開催へ安全安心を優先」に変更された旨、大きく報道されている。
政府も東京都も、そして組織委も、海外客受け入れが不可能であることは容認した。だから、現実の進行は、
「海外客受け入れ断念」⇒「国内観客制限」⇒「オリパラ中止」
の手順とならざるを得ないように見える。
しかし、南北アメリカやヨーロッパ各国を見ても、コロナの猖獗はオリンピックどころでない。2020東京五輪の開催不可能はもはや明白ではないか。商業主義や国威発揚、あるいは目立ちたがり関係者の思惑で、コロナのリスクを拡げてはならない。むしろ政府も自治体も民間もスポーツ団体も、早急に「オリパラ中止」を決断して、コロナ対策に専念すべきである。
声を上げよう。「東京オリパラは、早急に中止せよ」「政府も自治体もコロナ対策に専念せよ」
(2021年3月3日)
なるほど、なるほど。とても面白いし楽しい篠原資明さんの作品。言葉遊びもこの水準にまでなれば、遊戯の域を超えて、文芸か芸術作品と言ってよい。
ところが、なんとももったいないし残念なことに、ネット上にあったその原作は、既に全部削除されている。結局、ここで引用できる作品は、新聞記事から孫引きした下記4作品だけ。篠原さんご自身は、「アートとして思いついたもので、政治的意図はない」「五輪中止時の『墓碑銘』となるように祈りを込めた。良い意味も悪い意味もない」と説明しているという。ならば、篠原さんの作品に、私が私なりの理解を書き込むことに何の問題もなかろう。受け取り方は人それぞれなのだから。
(1) 「かいかい 死期」(開会式)
東京オリンピック開会式のイメージ展開である。コロナ禍のさなかに、世界中からの感染者予備軍を集めての開会式は、確率的に参加者の誰かの死期となる。そうならずとも、暗い死期を予見させる開会式とならざるを得ない。
もしかしたら、ここで死ぬのは、商業主義や国威発揚演出と闘って一敗地にまみれた五輪憲章とその精神なのかも知れない。
(2) 「すぽ お通夜」(スポーツ屋)
「かいかい 死期」に臨んで通夜を営むのは、(スポーツ屋)である。(スポーツ屋)とは、五輪をメシのタネと儲けをたくらむ電通などの企業や、竹田恒泰ら裏金を操作する連中、そして、森喜朗、橋本聖子、丸山珠代らの五輪政治家ばかりではない。権力機構のなかで国威発揚と売名にいそしむ輩、菅義偉や小池百合子らをも含むものというべきだろう。
(3) 「ばっ墓萎凋」(バッハ会長)
言わずと知れた(スポーツ屋)の元締めが、この人物だ。IOCを神聖にして侵すベからざるものとしてはならない。オリンピック精神の死期におけるIOC会長こそは、「罰」「墓」「萎縮」「凋落」のイメージにピッタリではないか。
(4) 「世禍乱なぁ」(聖火ランナー)
今や、東京五輪は風前の灯である。実は単にコロナ禍のためばかりではない。国威発揚や商業主義跋扈のせいだけでもない。オリパラ推進勢力が、この国を形作っている旧い体質とあまりに馴染み、人権や民主主義の感覚とは大きく乖離しているからなのだ。聖火ランナーを辞退せずオリンピックに協力することは、家父長制やら女性差別に加担する、「旧世代人」イメージを背負うリスクを覚悟しなければならない。まっとうな人は、そんなにしてまで走らんなあ。
篠原資明さんは、京大で美学・美術史を教えていた人。今は名誉教授で高松市美術館の館長。この2月、ツイッターの個人用アカウントに「東京オリンピック、なくなりそうな予感。なので墓碑銘など、いまから考えてみませんか」とした上で、みずからが生み出した「超絶短詩」の幾つかを書き込んだ。
「超絶短詩」とは、一つの言葉を二つの音に区切ることで思いがけない意味を持つ表現方法だという。『ウィキペディア(Wikipedia)』に、「超絶短詩は、篠原資明により提唱された史上最短の詩型。ひとつの語句を、擬音語・擬態語を含む広義の間投詞と、別の語句とに分解するという規則による。たとえば、「嵐」なら「あら 詩」、「赤裸々」なら「背 きらら」、「哲学者」なら「鉄が くしゃ」となる。」と解説されている。「おっ都政」(オットセイ)という秀逸もある。
篠原さんは、「メディアからの取材を受けたことで『ことば狩り』と感じ、美術館のスタッフにも迷惑をかけたくないと思ってアカウントを削除した」と話しているという。オリンピック批判はまだ日本社会ではタブーなのだろうか。こんな楽しい言葉遊び作品を削除せざるを得ない、この社会の窮屈さこそが、大きな問題ではないか。
(2021年3月2日)
私はスポーツの世界にはほとんど関心がない。ウサイン・ボルトの名くらいは知っていたが、ヨハン・ブレーク(ジャマイカ)は知らなかった。陸上100メートルの世界記録はボルトの9秒58、ブレークの記録はこれに次ぐ歴代2位の9秒59だという。200メートルでも、世界歴代2位の19秒26をマークしており、ボルト引退後の現役選手としては世界の最高峰に位置している。過去2回のオリンピックに出場して、金2・銀2のメダルを獲得しており、もし、今年東京五輪が開催されるようなことになれば、100・200のメダル有力選手だとか。
そのブレークが、「新型コロナウイルスのワクチンを接種するぐらいなら、むしろ東京五輪を欠場した方がまし」とワクチン拒否を宣言して話題を呼んでいる。これは、興味深い。
ジャマイカの地元紙によると、ブレークは3月27日に「固い決意は変わらない。いかなるワクチンも望まない」と述べ、五輪欠場をいとわない意思を表明した。国際オリンピック委員会(IOC)はこれまで、東京五輪参加者へのワクチン接種を強制はしないものの、推奨する姿勢で、選手団に接種させる方針を示している国もある。(時事)
彼のワクチン拒否の理由は報道では分からない。が、これを拒否する信念の固さは、伝わってくる。オリンピック出場を捨てでも、守るべき大事なものがあるということなのだ。
このブレークの信念は、著名な最高裁判決(1996年3月8日最高裁判決)に表れた高専の剣道実技受講拒否事件事件を思い起こさせる。
神戸市立工業高等専門学校に「エホバの証人」を信仰する生徒がおり、信仰上の理由から体育の剣道実技履修を拒否した。校長は、体育科目は必修であるとし、この生徒を2年連続して原級留置処分としたうえ、退学処分とした。
最高裁は、この退職処分を違法とした。その理由は、次のとおりである。
(ア) 剣道実技の履修が高等専門学校において必須のものとまでは言い難く、体育科目による教育目的の達成は、他の体育種目の履修などの代替的方法によってこれを行うことも可能である(代替的方法の存在)が、神戸高専においては原告および保護者からの代替措置を採って欲しいとの要求も拒否したこと、
(イ) 他方、この学生が剣道実技への参加を拒否する理由は、信仰の核心部分と密接に関連する真摯なものであったこと、
(ウ) 学生は、剣道実技の履修拒否の結果として、原級留置、退学という事態に追い込まれたものであり、その不利益は極めて大きく、本件各処分は、原告においてそれらによる重大な不利益を避けるためには宗教上の教義に反する行動を採ることを余儀なくされるという性質を有するものであったこと、
以上の事情からすると、本件各処分は、社会観念上著しく妥当を欠く処分をしたものとして、裁量権の範囲を超える違法なものである。
生徒が、学校がカリキュラムとして定めた剣道の授業を拒否した。校長には「生徒のワガママ」と映った。ワガママは許されないとして、遂には退学処分にまでした。この生徒の授業拒否を奇矯なものとして、処分もやむを得ないと校長側の肩を持つ意見も少なくはないだろう。「剣道の授業って真剣でやるわけじゃなかろう。竹刀を振り回していりゃいいんだから、授業拒否まですることはあるまい」という意見。
しかし最高裁は、生徒の剣道授業拒否を真摯な信仰の発露と認めた。校長に対して、剣道ではない別の体育メニューを受講させるよう配慮すべきだったと判断したのだ。最高裁も、たまには立派な判決を書く。
ブレークのワクチン拒否にも、社会には多様な意見があるだろう。「ワクチン打たないリスクをよく考えろよ」「副反応の確率は決して高くないよ」「そんなに頑なに拒否するほどのことか」「ワクチンは、自分のためだけのものではない。周りの人のためにも打つべきだ」「オリンピック出場を棒に振ってもワクチン拒絶とは理解し得ない」…。
彼のワクチン拒絶が、信仰上の理由によるものであるか否かは分からない。それでも、彼の精神の核心部分と密接に関連する真摯なものであることは、容易に理解しうる。人生をスポーツへの精進に懸けて来たアスリートが、オリンピック出場をあきらめても、ワクチンを拒絶しているのだ。その確信は、信念と言ってもよいし、思想と言ってもよい。仮に、他人の目には奇矯なものと見えても、尊重されなくてはならない。それが、多様性を尊重するということではないか。
もちろん、「日の丸・君が代」への敬意表明の強制への拒否も同様である。信仰上の信念からでも、歴史観や社会観に起因するものであっても、その姿勢は尊重されるべきで、強制などあってはならない。
(2021年2月17日)
聖火リレーという奇妙な国民精神動員行事がある。参加者の擬似的一体感を醸成するのみならず、その一体感を国家や権威・権力に動員する効果を持つ。東京オリンピックの直前に、この奇妙な行事が行われる予定だが、これに異を唱える自治体が現れた。注目に値する。
本日の毎日新聞夕刊社会面のトップが、「島根、聖火リレー中止検討 知事『五輪開催許容し難い』 コロナ対策、政府に不満」という見出し。他紙も報じているが、『五輪開催許容し難い』とはまことに手厳しい表現。これが、現職知事の言なのだ。積極的に評価したい。
「島根県の丸山達也知事は17日午前、県内で5月に行われる予定だった東京オリンピックの聖火リレーの中止を検討していることを明らかにした。報道陣の取材に『オリンピック開催は現状では許容し難い。聖火リレーにも県としては協力できない』と答えた。」
正午から開かれた臨時の県聖火リレー実行委員会で、知事の「中止検討」が正式に表明された。これは、国に対する不服従宣言にほかならない。もっとも、島根県の「聖火リレー中止」方針が確定したわけではない。毎日新聞も、「新型コロナウイルス感染拡大に対する政府や東京都の対応を改善させる狙いがあり、実施や中止の決定については『(東京都が感染を抑え込んでいるかについて)確認をした上で判断する』とした。」と報じている。
聖火リレーは中止検討の理由は、「東京都などで保健所の業務がひっ迫し、濃厚接触者などの調査が十分行われていない」「そのことが全国的な感染拡大の要因となっていて、島根県とも無縁ではない」「政府や東京都が新型コロナウイルスの感染拡大を抑え込めていない中、東京オリンピックと聖火リレーを開催すべきではない」「政府や東京都のリスクの高い対応が影響し、感染者が少ない島根の飲食や宿泊業界も大打撃を受けているにもかかわらず、緊急事態宣言地域よりも政府の支援が手薄なことも不公平」などとというもの。端的に言えば、「コロナ対応に専念すべき今、オリンピックどころではあるまい」というアピール。自治体の長として当然の姿勢ではないか。
聖火リレーは、47都道府県全部で行われる。「東京2020オリンピック聖火リレーのルートは、日本全国多くの人が沿道に応援に行けるように考慮して設定された。世界遺産や名所、旧跡など各地域の魅力あふれる場所で聖火リレーが行われる。121日間にわたる聖火リレーのルートと日程を確認しよう」と主催者は呼びかけている。
島根県の聖火リレーは、5月15日・16日の両日、170人が下記の経路を走る予定という。
(萩市)→津和野町→知夫村→益田市→浜田市→江津市→川本町→邑南町→大田市→出雲市→雲南市→奥出雲町→隠岐の島町→安来市→松江市→(三次市)
これがなくなれば、山口県・萩から広島県・三次にショートカットすることになる。
島根の中止は英断である。東北各県はどこもオリンピックどころではなく、次に続く自治体のあることを期待したい。がしかし、それだけに、島根に対する官邸や財界からの風圧には大きいものがあるだろう。
やや驚いたのは、中止になれば浮く予算の額である。「島根県の聖火リレーはことし5月15日(土)と16日(日)の2日間、合わせて14の自治体をめぐる予定」だという。それだけのことに、9000万円の予算が計上されているという。
自治体負担分とは別に、「組織委は2018年、電通と聖火リレーに関する業務委託契約を締結し、約50億円の委託費を計上したが、20年スタート直前での延期となり、業務委託費の多くは支払い済みで戻ってこなかった」という報道を思い出す。聖火リレーの全予算は、少なくとも100億円にはなるのだろう。あらためて、学術会議予算10億円の僅少さを思う。
周知のとおり、オリンピックの聖火リレーは1936年ナチス政権下のベルリン大会から始まった。ヒトラーのほしいままの政治利用を許した、あの「民族の祭典」である。発案者は、ベルリン大会組織委員会事務総長でスポーツ学者のカール・ディームだという。聖火リレーとは、ナチスドイツのプロパガンダの一端として始まった。「五輪ファシズム」の象徴とも称すべきイベントなのだ。
(2021年2月16日)
私は、スポーツの観戦に興味がない。母校が出場した高校野球だけが例外だった。甲子園は同窓会の場でもあったから顔を出したが、それ以外にはスポーツ観戦の記憶がない。子供が幼いころ、アンドレア・ジャイアントの興行を見に行ったことがある。あれをスポーツと言えば、もう一つの例外であったろうか。
スポーツのルールをよく知らない。とりわけ、「氷上のチェス」といわれるカーリングである。話題となってもついていけないし、何が面白いかさっぱり分からない。
ところが、昨日(2月15日)の朝のこと、寝床で聞いていたラジオのスポーツニュースで目が覚めた。カーリング日本選手権の女子決勝、北海道銀行が平昌五輪銅メダルのロコ・ソラーレに7?6で勝利したという。この報告だけなら面白くもおかしくもないのだが、その解説に驚いた。
こんなことは常識なのだろうか。カーリングの試合には『審判がない』のだそうだ。各自がフェアプレー精神にのっとって試合を行うことが当然とされ、ルール違反は飽くまで自己申告制だという。問題あれば、審判の裁定ではなく競技者間の協議で解決するのだとか。私には初耳のこと。スポーツは野蛮と決めつけてきたは間違いか。なんと成熟したスポーツの世界があるものだろうか。
報じられた試合は、北京オリンピック出場もかかっていた。道銀は、この試合に敗れれば確定的に出場権を失うのだという。当事者にとっては大事な試合。
その大事な試合の競り合いの中での第4エンド、A選手のラストショットがハウスの中心にピタリとみごとに決まって道銀勝利の流れがつかめたという局面。ここで、スイープしていた同じチームのB選手のブラシがストーンにわずかに当たったのだという。これはファウル。せっかくの得点のチャンスが失われただけでなく、反則点として相手チームに2点を献上することになった。この反則が、審判の指摘によるものではなくB選手の自己申告なのだという。
ラジオの解説によれば、ここで後れをとった道銀チームの誰もがBの自己申告を当然として動じることはなかったという。健気に声を掛け合って全員で前向きに試合を進め、1点を追う最終第10エンドで2点を奪って逆転劇を演じた、というハッピーエンド。正直のところ詳細はよく把握しきれないが、できすぎたお話。
自チームの不利を承知でファウルを自己申告した道銀選手のフェアプレーに拍手を送りたい。しかも、ラジオの解説によれば、ビデオをよく見ると、錯綜した状況ではあったが実はファウルではなかったようなのだという。それほど微妙な「ファウル」の自己申告だったのだ。
言うまでもなく、北海道銀行とそのカーリング・チームとは、「別人格」である。銀行業務と選手のプレーとは、もちろん別のことである。しかし、このフェアプレーは銀行のイメージを大いに高めたに違いない。道銀の行員が、顧客を欺したり、告知すべきことを故意に隠したりはしないだろう。きっとフェアな姿勢で接してくれる、こういう企業イメージが形作られた。
かつて、三菱銀行などが融資とセットで変額保険を売った。銀行の堅実なイメージを信頼してリスク商品を売り付けられた顧客は怒った。最近では、日本郵政の職員が、官業時代の郵便局の固いイメージを信頼した多くの顧客に「かんぽ生命の保険商品」を不正販売した。スルガ銀行の例もある。今や、金融機関の信用の劣化はとどまるところを知らず、昔日とは隔世の感がある。しかし、北海道銀行だけは、率直・正直・フェアでクリーンなイメージを獲得した。
企業は消費者に選択をしてもらわねばならない立場だから、その顧客に対するイメージは重要である。通常、企業は消費者の好イメージを求めて行動する。
DHCという企業が、デマやヘイトやスラップやステマで、何重にも自らのイメージを傷つけていることが信じがたい。会長吉田嘉明は、化粧品や健康食品の販売をしながら「ヤケクソくじ」などという不潔なネーミングをしている。フェアもクリーンも皆無である。こんな企業が真っ当な経営をしているとはとても思えない。
そして、NHKである。森下俊三というトンデモ人物を経営委員として再任させたことは、ジャーナリズムとしてのNHKにとって致命的なイメージダウンである。森下再任の人事は、官邸・総務省にしっかりと紐付けられ、これに抵抗できないNHKというイメージを天下に植え付けた。官邸と自公与党の愚行というしかない。
このような汚濁の世の中で、道銀カーリングチームのなんと爽やかなこと。まさしく、泥中に咲いた蓮の華さながらである。