まやかしの「復興五輪」はいらない。東北復興の実現を。
(2021年3月11日)
あの日から10回目の3月11日。岩手を故郷とする私にとっては心痛む日。この日は、この世に神のないことをあらためて確認すべき日となった。もし神ありとせば、冷酷な神、無慈悲な神、気まぐれな神、人に対する配慮のカケラもない神、なくもがなの神でしかない。
あの大惨事を「天罰」と言ってのけた恐るべき政治家がいた。その名を石原慎太郎という。冷酷な男、無慈悲な右翼、気まぐれな愚物、人に対する配慮のカケラもない都知事、なくもがなの存在でしかない。
私は、彼のこの一言に心底怒った。これは失言ではない、彼の本性の暴露なのだ。その視点から石原慎太郎糾弾のブログを書いた。その記事をまとめたものが、「3・11から4年。『石原慎太郎天罰発言』批判のアーカイブ」である。
https://article9.jp/wordpress/?p=4563
私は、「この一言で石原慎太郎の政治生命は終わった」と思った。が、そうはならなかった。この明らかな政治家失格人間がその後も細々ながらも命脈を保っている。一部にもせよ、こんな政治家を支持する都民がいるからなのだ。
また私は、被災した東北の復興を心から願った。震災・津波だけでなく原発事故被害。天災と人災の複合被害からの回復は現実には困難だった。それでもの復興の努力に水を差したのが、東京五輪である。しかも、東北復興が東京五輪招致のダシに使われた。「復興五輪」のネーミングが虚しく、腹立たしい。これを主導した人物の名を安倍晋三という。
私は安倍晋三にも復興五輪にも腹を立てたが、安倍晋三も復興五輪も、しぶとくその後相当期間にわたって生き延びた。こんな政治家、こんな五輪を支持する国民がいたからなのだ。
世界を欺して東京五輪を誘致した張本人・安倍晋三が昨夏ようやく首相の座を下り、「復興五輪」もなくなったようだ。
安倍政権の継承者である菅義偉は、本日の「東日本大震災10周年追悼式」での式辞で、「復興五輪」に言及しなかった。昨年の3月11日には、安倍は「追悼の言葉」の中で、こう言ったという。
「復興五輪と言うべき本年のオリンピック・パラリンピックなどの機会を通じて、復興しつつある被災地の姿を実感していただきたい」
また、本日、加藤官房長官は会見で、なぜ「復興五輪」という言葉がなくなったかについてこう答えたという。(朝日.com)
「これは毎年の言葉を、なども踏まえつつ、作成されているものと承知をしておりまして、政府として、今後も、えー、しているものであり、ですね……」と5秒近く沈黙。「まさにそれに尽きるということであります」と続け、理由を説明することはなかった。
「復興五輪」に代わっての流行りが、「人類が新型コロナウイルスに打ち勝った証しとしての完全な形での東京五輪」なのだが、「人類が新型コロナウイルスに打ち負かされた証しとしての東京五輪中止」となりそうな雲行きではないか。
毎日新聞の世論調査の結果は、「五輪開催『復興の後押しにならない』61% 被災3県・世論調査」と報道されている。
被災3県の調査で、「復興五輪」を掲げた東京オリンピック・パラリンピックの開催が「復興の後押しにはならない」と答えた人が61%に達し、「後押しになる」の24%を大きく上回った。「わからない」は14%だった。大会組織委員会は3月25日に福島県内で聖火リレーをスタートさせるなど、東京五輪を復興のシンボルとする方針を打ち出してきたが、被災地でその効果が否定的に見られている現状が浮かんだ。開催理念や復興への効果を疑問視する声は根強くある。
東京五輪はなくてもいっこうにかまわない。しかし、東北復興はなくてはならない。東北復興をダシにした東京五輪などもってのほか。東京五輪の経費を全てコロナ対策と東北復興にまわしていただきたい。そして、いつの日か語りたい。
国民が東京五輪という愚策の誘惑に打ち克った理性の証しとして実現した東北復興、と。