澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

冷酷な統計が示す、これが平均的国民の老後年金生活。

昨日(7月2日)、厚労省が2018年の「国民生活基礎調査の概況」を公表した。下記の両URLで、その報告を見ることができる。
https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/k-tyosa/k-tyosa18/dl/09.pdf

https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/k-tyosa/k-tyosa18/dl/10.pdf
同報告は、特に【調査結果のポイント】として、次の点を挙げている。
・1世帯当たり平均所得金額は551 万6 千円 <前年560 万2 千円>
・生活意識が「苦しい」とした世帯は57.7% <前年55.8%>
(注:生活意識は、5段階の選択肢であり、「苦しい」は「大変苦しい」「やや苦しい」の合計)

1年前に比較した国民生活は、客観的に所得が減って、主観的には生活意識を苦しいものとしている。そのことが、統計に表れている。これが、アベノミクス6年目の「前年比成果」なのだ。わずか1年で、所得は「9万円」の減、生活苦は「2%」の変動である。

折しも、参院選直前である。「年金選挙」の様相を帯びてきたこの選挙の争点に関わるものとして、この統計も「老後」の「年金問題」との関連で注目された。

この点について、同報告は、次のように特記している。

「高齢者世帯(65歳以上の者のみで構成するか、又はこれに18歳未満の未婚の者が加わった世帯)では「公的年金・恩給」が61.1%、「稼働所得」が25.4%となっている」
「公的年金・恩給を受給している高齢者世帯のなかで「公的年金・恩給の総所得に占める割合が100%の世帯」は51.1%となっている」

つまり、年金受給者の多くが、ほぼ年金だけに頼って暮らしている。稼働所得は、微々たるものに過ぎない。まったく年金だけに頼って暮らしている人も過半数に及ぶ。

さて、公的年金受給者全体の半数を上回る51.1%が、ハッピーに公的年金だけで悠々と老後の生活を楽しんでいるのか。あるいは生活費に不足ではあるが公的年金以外の収入を得ることができないアンハッピーな状態なのか。統計は、直接にその点に切り込んではいない。

しかし、高齢者世帯の「平均公的年金・恩給」受給額は、年間204万5000円であるという。この金額で、「1.5人」(高齢者世帯は、夫婦構成と単独構成とほぼ半々。所帯人員数の平均は、「1.5人」でよいと思う)が暮らしていけるはずはない。一人あたり月額にすると、11万円程度に過ぎないのだから。

また、同報告によると高齢者世帯総所得金額の「中央値」は、年額260万円である。204万円が年金、その余の年間50万円余が稼働収入ということになる。これが平均的国民の老後だ。「年金だけでは生活は成り立たず」、さりとて「働こうとして真っ当な稼働収入を得るあてもない」と覚悟しなければならない。

消費増税をしてさらに経済弱者を痛めつけたり、F35を買ったり、イージスアショアに莫大な金を注ぎ込む余裕など、この国にはないことを悟らなければならない。

毎日新聞は、老後所得『年金のみ』半数 生活苦しい55%(7月3日朝刊)との見出しで、下記のとおり簡潔に報じている。

65歳以上の高齢者世帯のうち、働いて得られる収入がなく、総所得が公的年金・恩給のみの世帯が半数に上ることが2日、厚生労働省の2018年国民生活基礎調査で分かった。生活への意識を質問したところ、高齢者世帯で「苦しい」と答えた割合は55・1%に上り、前年から0・9ポイント増加した。

無年金の人らを除く高齢者世帯のうち総所得に占める公的年金・恩給の割合が100%の世帯は51・1%。この割合が50%を超える傾向は1990年代から続く。1世帯当たりの平均所得(17年)を見ると、高齢者世帯は334万9000円。所得の内訳は「公的年金・恩給」61・1%、「稼働所得」25・4%??など。

また、時事通信はこう伝えている。

収入「年金のみ」が半数=高齢者、生活の支え?国民生活基礎調査
厚生労働省は2日、2018年の国民生活基礎調査の結果を発表した。年金や恩給をもらっている高齢者世帯について、これらの収入が総所得の100%を占めると答えた割合は51.1%と約半数だった。恩給の受給者はごく限られるため、収入源が年金のみの高齢者世帯が相当数を占めるとみられる。

17年の割合は52.2%。過去増減はあるが、13年の57.8%から微減傾向が続いている。働く高齢者が増えたことが影響しているとみられる。
老後の資金をめぐっては、公的年金以外に2000万円の蓄えが必要と指摘した金融庁報告書が注目を集めている。老後への不安が広がる中、高齢者世帯の多くが年金を支えに生活費を確保している実態が改めて浮き彫りとなった。

時事がいう「働く高齢者が増えた」のは、明らかに不十分な年金では暮らせないことの結果である。割りの悪い仕事でもやらざるを得ないのだ。年金は増やさない。いや、マクロ経済スライドで、着実に減らしていく。これが、政権の老人「反福祉」基本構想なのだ。

若者が、これを他人ごとと見過ごしてはならない。生活を「苦しい」と感じているのは、「児童のいる世帯」では、62.1%【前年58.7%】と高齢者所帯より高い。また、年代別で世帯人員1人当たり平均所得金額をみると、最も低いのが「30?39 歳」の179 万6 000円なのだ。しかも、若者が年金受給年齢に達する頃、マクロ経済スライドは今の水準には及びもつかない低年金受給額となっているのだ。

若者よ、あなたがたの老後は、さらに厳しい。あなたが、投票所に足を運んで、この政権にノーを突きつけない限りは。
(2019年7月3日)

アベノミクスがもたらした格差・貧困への怒りを投票行動に

参院選が近い。総選挙との同日ダブル選はなくなった模様。
政権としては、「どうせこのままでは支持率はジリ貧。すこしでも勝てる見込みがあれば、今のうちにダブル選挙」だったであろうが、そこまで踏み切れなかったということだ。6月26日で今通常国会の会期を終了し、G20終了後の7月4日公示で、同月21日投開票がほぼ確定と伝えられている。

この参院選は日本国憲法の命運を左右する。自・公・維の改憲派議席を3分の2以下に押し込むことができれば、「安倍改憲」のもくろみは当面ついえることになる。何しろ、今が改憲派にとっての千載一遇のチャンスなのだ。このチャンスは、「安倍が首相でいるうち」「両院に改憲派議席が3分の2あるうち」のこと。参院選は、これを突き崩す護憲派のチャンス。

安倍自民は、「日本の明日を切り拓く」「令和新時代・伝統とチャレンジ」とのキャッチフレーズを掲げた上で、参院選公約として下記の6本の柱を建てている。
(1)力強い外交・防衛
(2)経済成長と所得引き上げ
(3)誰もが安心、活躍できる人生100年時代の社会保障
(4)最先端をいく元気な地方
(5)復興と防災
(6)憲法改正を目指す

6番目の柱の「憲法改正」だが、どの世論調査でも「安倍内閣での憲法改正には反対」が国民多数の世論である。与党が、改憲公約を前面に掲げて選挙ができる環境にはない。これを承知で、選挙戦での安倍自民の強調点は、「経済成長と所得引き上げ」の柱に寄り掛かることになる。

「圧倒的な国民には受益の実感がない」「むしろ格差を拡大してきただけ」「企業のための雇用条件切り下げではないか」と言われながらも、政権は数字をつまみ食いしてアベノミクスの効果を語り続けてきた。

「経済政策で票を集めて、獲得した議席で改憲を実現する」というのが、年来の安倍政権の改憲戦略。今回もそうせざるを得ないのだが、「経済政策で票を集める」ことが困難になりつつある。政権が選挙戦では頼みにしているアベノミクス効果が息切れし、崩壊寸前なのだ。

昨日(6月18日)の朝日に、収200万円未満が75% 非正規のリアルに政治は」「非正社員が働き手に占める割合は過去最高水準」という記事。あらためて、アベノミクスがもたらした国民生活の実態に驚かざるを得ない。これが、アベノミクス6年の「成果」の内実なのだ。

記事は、こう始まる。

「全都道府県で1倍超の有効求人倍率、高い大卒の就職率、歴史的な低失業率――。安倍政権は『アベノミクスの成果』として雇用の指標をよく語ります。でも、非正規雇用が10人に4人にまで増え、そのほとんどの年収が200万円に満たないことはあまり触れられません。安倍晋三首相が『非正規という言葉を一掃する』と言いながら、歯止めなく増え続ける非正規雇用も、参院選での論点になりそうです。

そして、就職氷河期を経験した非正規労働者の具体例を挙げて、こう言う。

 安倍政権はこの春から、「働き方改革」の新制度を順次導入している。ただ、高プロのように働き手のニーズというよりも、企業目線、経営者目線で生産性の向上をめざす改革が際立つ。

 首相があまり触れない数字もある。非正規雇用だ。この6年間で約300万人増え、2018年10?12月は2152万人になった。首相は「非正規という言葉を一掃する」と宣言したが、働き手に占める非正規の割合はいまや38%を超え、過去最高の水準にある。

 総務省の2017年調査では、非正社員の75%は年収200万円未満。「働いても働いても生活が豊かにならない」、いわゆるワーキングプアに当てはまる。女性だけだと比率は83%に達する。

 氷河期世代に象徴される非正規雇用が増え続けるのは、企業が人件費を抑えようと正社員よりもパートやアルバイトを雇ってきたことがある。加えて、1990年代後半以降、自民党政権が企業の求めに応じて派遣労働などの規制緩和を進めたことも背景にある。

 平均賃金を上昇させるには、際限なく増え続ける非正規雇用に歯止めをかけることが欠かせない。目先の看板施策にこだわる今の政権にそうした機運は乏しい。直近では、最低賃金の大幅な引き上げを求める政府内の声が、企業側の強い反対でかき消された。

 この先、多くの外国人労働者が「特定技能」の資格で入ってくると、平均賃金はさらに伸び悩む恐れがある。?

偶々、海外ニュースで目に留まったのが、スイス各地で行われた6月14日の女性労働者のストライキ。男女間の賃金格差是正や職場でのハラスメント根絶を求めての、ストライキ参加者は計50万人にのぼるという。スイスの全国人口は800万余。日本に当てはめれば、500万人を遙かに上回る規模のストライキとなる。

虐げられている者が声を上げ、立ち上がらねばならない。香港でも韓国でも、民衆の力が政治を変えることを教えている。日本でも、そうありたい。まずは、この不満を参院選で表したい。投票による「反安倍」「反自公」「反アベノミクス」「反改憲」の意思表示を。
(2019年6月19日)

船橋秀人君! 君こそ、東洋大学の希望だ。

東洋大学と竹中平蔵、哲学とゼニの取り合わせ。高邁な理想を掲げる大学に、政治絡みでの儲け方だの節税手口だのを教えようというのだろうか。この違和感に、学内から批判の声が上がったのは真っ当な反応ではないか。

話題の人、同大学4年生の船橋秀人君は「竹中平蔵による授業反対!」と書いた立て看板を学内に掲げ、ビラを撒いた。船橋君のビラの内容は次のとおりだ。至極真っ当で、立派な意見ではないか。私は全面的に賛意を表する。一人立ち上がった彼に、敬意も表したい。これを大きく拡散しよう。

この大学はこのままでいいのだろうか?
我々の生活が危ない!
竹中氏の過悪、その一つは大規模な規制緩和である。特に2003年の労働者派遣法の改悪がこの国にもたらしたものは大きい。それまで限定されていた業種が大幅に拡大されることで、この国には非正規雇用者が増大したのである。「正社員をなくせばいい」や「若者には貧しくなる自由がある」といった発言は、当時の世論を騒がせた。しかしながら、この男まるで反省の素振りを見せない。「朝まで生テレビ!」という番組では、自らの政策の肝であったトリクルダウン(お金持ちが富むことでその富が貧しい者にも浸透するという理論)について、「あり得ない」というある種開き直ったかのような発言をしており、まるで自分がやった責任について無自覚なようだ。また、昨年可決された高度プロフェッショナル制度については、「個人的には、結果的に(対象が)拡大していくことを期待している」などという驚くべき思惑を公言している。つまり、初めは限定的なものだからという理由で可決された労働者派遣法が、今これほどまでに対象を拡大したように、高度プロフェッショナル制度は、今後とも更なる拡大が予想されるのである。無論、我々も例外ではない。労働者はこれから一層使い捨てにされることになるのだ!!
?
様々な利権への関与!?
竹中氏が人材派遣会社のパソナグループの会長を務めているということも忘れてはならない。というのも労働者派遣法の改悪は、自らが会長を務める会社の利権獲得に通じていたからだ。まさに国家の私物化である。また、最近では昨年法案の正当性について全く審議されずに可決された水道法改正案と入管法改正案についても関与していたことが明るみになっている。更に加計学園との関連も取りざたされており、今後ともこの男の暴走を追及する必要がありそうだ。
?今こそ変えよう、この大学を、この国を

皆さんは恥ずかしくないですか、こんな男がいる大学に在籍していることが。僕は恥ずかしい。そして、将来自分や友達や自分の子どもが使い捨てにされていくのを見ながら、何も行動を起こさなかったことを悔いる自分が、僕は恥ずかしい。意志ある者たちよ、立ち上がれ! 大学の主役は、我々学生なのだ。右も左も前も後も何にも分からない人も、みんな集まれ。民主主義は決して難しいものではない。共に考え、議論し、周りに訴えながら、もう一度みんなでこの社会を立て直そう!!

船橋君によれば、これに対する大学の対応は、次のようなものだった。
「21日朝9時から立て看板を出し、ビラを配り始めたら、10分と経たないうちに学生課の職員がビラ配布の中止と看板の撤去を求めてきました。その後、学生課の部屋に連れていかれ、職員5、6人から約2時間半にわたって詰問されました」
「職員らは学生生活ハンドブックの条項を示しながら、『大学の秩序を乱す行為』に該当するとし、退学処分をちらつかせてきました。さらに『君には表現の自由があるけど、大学のイメージを損なった責任を取れるのか』と大きな声で言われたり、『入社した会社で立場が危うくなるのでは』とドーカツされたりしました」

複数の報道では、男性職員から「性行不良で改善の見込みがないと認められる者」「本学の秩序を乱し、その他学生に反した者」など、退学に関して規定された学則第57条を示しながら「表現の自由には責任が伴う。何らかの処分で責任を取ってもらう」などと追及されたという。

「表現の自由には責任が伴う。何らかの処分で責任を取ってもらう」は、特筆すべき迷言! 要するに、「表現の自由なんてここにはない。だから、ものを言うな。言えば処分が待ってるぞ。」と脅しているわけだ。

企業は組合幹部にこう言うだろう。「団結権には責任が伴う。何らかの処分で責任を取ってもらう」
防衛省は、「平和には責任が伴う。戦争に行ってもらおう」
厚労省にはこう言いたい。「統計には責任が伴う。何らかの形で責任を取ってもらう」

東洋大のホームページには、こうある「今や11学部44学科、10研究科32専攻、法科大学院を擁し、学生数が約3万人という、大変大きな総合大学となりました。いずれの学部・研究科等においても、建学の精神に基づいて人財養成の目的や教育目標を定め、物事を自ら深く論理的・体系的に考え、判断し、行動することができる、社会に有為な人財の育成に心を砕いています」。その規模には驚かざるを得ない。近時急成長している大学であることには間違いない。

竹村牧男学長は、そのメッセージで、「物事を自ら深く論理的・体系的に考え、判断し、行動することができる、社会に有為な人財の育成に心を砕いています。」と言っている。船橋秀人君こそ、学長メッセージにピッタリの人物ではないか。

船橋君は、こうも言っている。
「日本大学のアメフト部の悪質タックル問題で、学生の側から意見を言わない、言えない状況をニュースで目の当たりにして「こんなので良いのかと思ったし、自分も批判されているような気持ちになった」と感じたことも、行動を起こした理由」

「(在籍した)4年間で、校内に立て看板が立つことはなかった。僕は卒業間際まで動くことが出来なかったけれど、単身で声を上げたことで組織の問題などを考えて欲しいし、根本的な議論につなげて欲しい。後輩にも受け継いで欲しい」

東洋大(白山キャンパス)は、我が家からは散歩圏内。地域との連携も良く、親近感がある。これまでの評判は悪くない。立派になって欲しいと思う。竹中平蔵の採用はともかく、これを批判する人物を育てたのだから、東洋の希望は大いにある。

大学に望むことを、一言申しあげたい。学内を「学則」が支配する世界だと思い込んではおられないか。大学こそ、最も風通し良く憲法の理念が行き渡る空間であって欲しい。船橋君の憲法上の権利主張を、「学生生活ハンドブック」の細則で押さえ込もうというのは、研究機関や教育機関の発想として貧弱ではないか。どうだろう。この問題、公開の場で真摯な意見交換をしてみては。
(2019年1月25日)

「資本の論理」を野放しにさせない「憲法の人間性」

資本主義というものは合理的な経済システムである。個別資本が、それぞれに最大限利潤を追求するための合理的判断を重ねていくプロセスでもある。資本の合理的判断は本質的に冷酷なものであって、ヒューマニズムとは無縁というべきである。これを野放しにしておけば、経済が人間性を破壊する。貧富の差は無限大に拡大する。しかし、資本の論理とは別次元でのファクターが、資本の行動に介在すれば、資本の合理的判断は変化せざるを得なくなる。

労働基準遵守の強制はその最たる好例だろう。個別資本の内的な衝動は、限りなく低廉で長時間稼働可能な労働力を欲するが、労働基準を遵守すべき法の強制に違反した際の制裁措置を判断要素として考慮すれば、労基法を遵守すべきことが合理的選択と判断の修正を余儀なくされる。

ひろく、法的な強制や訴訟による判決強制は、これに従うべきことが企業判断の合理性となる。公害訴訟や労災・消費者被害救済訴訟の多くは、事後的な損害賠償請求訴訟である。差し止め請求も果敢に試みられてはいるが、その成果は必ずしも芳しくはない。しかし、利潤追求を至上命題とする企業に対して、事後的にせよ巨額の金銭賠償を命じることは、大きな意味を持つ。

企業経営における合理性は、未然に公害や消費者被害を防止するためのコストの負担を嫌うことにならざるを得ない。しかし、巨額の金銭賠償負担を強いられることと比較して、公害や消費者被害の防止策に費用を投入する方が安上がりとなれば、企業は未然に公害を防止すべくコストを負担することを合理的判断として選択することになるだろう。

資本の横暴や冷酷さを、法や社会の力で抑え込むことが求められている。冷酷な資本に、人間性や環境のサスティナビリティなどという観点から、資本の論理を修正することが重要なのだ。大切なのは、人間であり社会であって、資本ではなく、経済でもない。

冷酷な資本の横暴を押さえ込む最も有効なものは法による強制である。人間性や環境持続を含む社会の要請は、法に盛り込まれる。法を駆使して、この企業社会を御しなければならない。資本主義そのものは人間性を押し潰すことを厭わない。資本主義システムをなすがままに放置すれば、貧富の格差は無限大に拡大される。これを抑制し修正して、人間性の本質に適合させるよう枠をはめるのが法の役割であり、その法体系の頂点に憲法がある。

法が経済を縛らざるを得ない。憲法のヒューマニズムをもって、資本主義の冷酷さを克服できなければ、資本主義そのものを廃絶する以外に道はない。

(2018年10月10日)

現存する貧富の差をそのままにしているなら、私たちは毎日泥棒をしているのと同じです。

「基本的な自然の法則」
人は皆、ある意味で泥棒だと言っていいでしょう。
もし、すぐには要らないものを私が手に入れ、手元に置いておくなら、他の誰かからそれを奪い取っているのと同じです。自然は私たちが必要とするだけのものを日々産みだしくれ、それは例外のない根源的な自然の法則です。
ですから、もし、誰もが自分に必要なだけを受け取り、それ以上欲しがらなければ、この世に貧困はなくなるし、飢えて死ぬ人もいなくなるのです。それなのに、現存する貧富の差をそのままにしているなら、私たちは毎日泥棒をしているのと同じです。
私は社会主義者ではないので、お金持ちから財産を取り上げるやり方は望みません。しかし、暗闇の中で光明を見出すことを願う人なら誰しも従わなければならない法則があることだけは、あなた方に直接、はっきり伝えておきます。
お金持ちから財産を取り上げるという考えを、私は持っていません。そんなことをすれば、アヒンサーの法則(非暴力主義)から外れてしまいます。だから、もし他の誰かが私より多くのものを持っていたとしても、そうさせておくだけのことです。ただ、私白身はアヒンサーの法則に基づいて暮らそうと努めていて、必要以上のものを持たないと、はっきり決めています。
インドでは、300万人もの人が一日一食で飢えをしのいでいます。しかも、その食事は、脂肪分のまったくないたった一枚のチャパティと一つまみの塩だけなのです。このような300万人の人たちに、衣服と食べ物が今以上にいきわたるようになるまでは、私もあなたも、手元に蓄えているものについて、どのような権利もありません。あなたも私もそのことを十分に承知しているのですから、その300万人の人たちが大切にされ、食べ物と衣服に困ることがなくなるよう、自分の欲望を制御し、進んで食事なしで済ませることくらいはやってみなければなりません。
(「演説・著作集」第4版)

「何よりもまず、貧困層に適切な衣食住を」
上流階級や王侯貴族はいろいろ必要が多いのだと言い立てて、上流階級と一般大衆、王侯貴族と貧乏人の間に横たわる目のくらむような較差を正当化するのを許してはならない。それは、怠惰な詭弁であり、私の理論を揶揄するものに過ぎない。
富裕層と貧困層との間に存在する今日の格差は、見るに堪えない。インドの貧しい村人だらけ、外国の政府と自国の都市生活者の双方から搾取されている犠牲者である。村人たちは食料を生産するが、飢えている。村人たちはミルクを生産するが、その子どもたちには飲むミルクがない。このようなことは放置できない。誰もがバランスの取れた食事をし、清潔な家に住み、子どもたちに教育を受けさせ、適切な医療を受けられる、そういう社会を実現しなければならない。
(「ハリジャン」1946年3月31日号)

以上は、大阪の加島宏弁護士が紹介するガンジーの言葉の一部である。年2回刊の「反天皇制市民1700」誌第43号に、連載コラム「ガンジー」第8回に、ガンジーの経済思想として掲載されているもの。

人は大人になりきる以前には、必ずこのような思想や生き方に深く共鳴する。このような思想を自分の胸の底に大切なものとして位置づけ、このような生き方を理想としよう。一度はそう思うのだ。しかし、落ち着きのない生活を重ねるうちに、少しずつ理想も共感も忘れていく。

それでも、ガンジーのこの言葉は魂を洗うものではないか。ときに噛みしめてみなければならない。

ガンジーは、こう言うのだ。「もし、誰もが自分に必要なだけを受け取り、それ以上欲しがらなければ、この世に貧困はなくなるし、飢えて死ぬ人もいなくなるのです。それなのに、現存する貧富の差をそのままにしているなら、私たちは毎日泥棒をしているのと同じです。」

70年前にして現実はこうだった。「上流階級と一般大衆、王侯貴族と貧乏人の間に横たわる目のくらむような較差を正当化するのを許してはならない。」いまや、「目のくらむような較差」はさらに天文学的で絶望的なものになっている。それは、多くの巨大な泥棒連中が、この世に横行しているということなのだ。

泥棒を駆逐して、「誰もがバランスの取れた食事をし、清潔な家に住み、子どもたちに教育を受けさせ、適切な医療を受けられる、そういう社会を実現しなければならない。」と切に思う。日本国憲法の生存権思想は、まさしくそのような社会を求めている。

明文改憲を阻止するだけでなく、憲法の理念をもっともっと深く生かしたいと思う。
99%の「貧乏人」と、1%の「上流階級と王侯貴族と財閥たち」との間に横たわる目のくらむような較差の壁を崩していくことは、生存権だけでなく14条の平等権の歓迎するところでもある。社会保障を削って、軍事費を増やそうなど、もってのほかという以外にない。こうなると「泥棒」ではなく、「強盗」というべきだろう。
(2018年2月6日)

明けましておめでとうございますー「目出度さもちう位也この春は」

あらたまの年の初めである。目出度くないはずはない。街は静かで人は穏やかである。誰もが、今年こそはという希望をもっている。欠乏や飢餓や恐怖は、見えるところにはない。が、その目出度さも、「ちう位」というしかない。

今年(2017年)の5月3日に、日本国憲法は施行70周年の記念日を迎える。この70年は、私の人生と重なる。振り返れば、その70年の過半は、希望とともにあった。漠然したものではあれ、昨日よりは今日、今日よりは明日が、よりよくなるという信念に支えられていた。「よりよくなる」とは、すべての人の生活が豊かになること、人が拘束から逃れて自由になること、そして貧困が克服されて格差のない平等が実現し、人が個性を育み自己実現ができること、その土台としての平和が保たれることであった。

敗戦ですべてを失った戦後の歩みは、平和を守りつつ豊かさを取り戻す過程であった。自由や平等や人権保障の不足は、「戦前の遅れた意識」のなせる業で、いずれは克服されるだろうと考えられていた。楽観的な未来像を描ける時代が長く続いた。しかし、明らかに今は違う。今日よりも明日がよりよくなり、上の世代よりも若い世代が、よりよい社会を享受するだろうとは思えない。いつから、どうしてこうなったのだろうか。

私が物心ついて以来、民主主義信仰というものがあった。戦前の誤りは、一握りの、皇族や軍部、藩閥政治家や財閥、大地主たちに政治をまかせていたからである。完全な普通選挙を実施したからには、同じ過ちが繰り返されるはずはない、というもの。天皇を頂点とする差別の構造も、官僚や資本の横暴も、民主主義の政治過程が深化する中でやがてはなくなる、そう考えていた。

しかし、経済格差のない男女平等の普通選挙制度が実現して久しい今も、多くの人が政権や天皇批判の言動を躊躇している。官僚や資本の横暴もなくなりそうもない。それどころか、平和さえ危うくなってきた。民主主義信仰は破綻した。少なくとも、懐疑なしに民主主義を語ることはできなくなった。

政治や制度が多数派国民の意思に支えられていることを民主主義と定義すれば、民主主義的な搾取や収奪の進行も、民主主義的な戦争もあり得るのだ。人種差別も思想差別も優生思想もなんでも「民主主義」とは両立する。トランプの登場やアベの政治は、そのことに警鐘を鳴らしている。

格差と貧困が拡がり深まる社会にあって、「お目出度とう」とは言いがたい。国民一人ひとりの尊厳が大切にされて、こころから「おめでとう」と言い合える、「ちう位」ではない目出度い正月をいつの日にかは迎えたいと思う。

立憲主義大嫌いのアベ政権である。今年の憲法記念日に、憲法施行70年を盛大に祝うとは到底思えない。このことは、一面「怪しからん」ことではあるが、権力によって嫌われる憲法の面目躍如でもある。日本国憲法は、政権から嫌われ、ないがしろにされ、改悪をたくらまれていればこそ、民衆の側が護るに値する憲法なのだ。

今年も、憲法改悪を阻止と、憲法の理念を実現する運動の進展を願う。その運動の進展自身が、民主主義を支える自立した市民を育むことになる。微力ではあるが、当ブログもその運動の一翼を担いたいと思う。
(2017年1月1日・元旦)

格差社会の中の「我らがパラダイス」

最近、毎日新聞の連載小説「我らがパラダイス」(林真理子)が朝の楽しみ。ストーリーは、いよいよ佳境。真っ先にここから読み始める。

何年か前の同じ著者の「下流の宴」も面白かった。こちらもテーマは社会の格差。経済格差が学歴格差と重なる実態を描きつつ、「下流」の心意気と「上流」の虚栄とを描いて痛快だった。

実直に働いている沖縄出身の高卒女性が、恋人の母親から結婚に反対される。そのときのセリフが、「ウチは医者の家系なのよ」というものだった。これに、この若い女性が猛反発する。「医者って、そんなにえらいんですか」「私医者になってみせる」。

ここからが、作家の力量だ。日本で一番はいりやすい医学部を特定して、その入試に合格するために、どのように勉強するか。ノウハウの提供者が現れて、彼女の勉強ぶりがリアルに描かれる。本人の努力や恋人の助力もあって目出度く合格する。しかし、その合格によって幸せがつかめるかどうか…、これはまた別のはなし。

ともかく、「医者って、そんなにえらいんですか」の名セリフは、いろいろに置き換えられる。
「大学出って、そんなにえらいんですか」「東大卒って、本当にえらいんですか」「金持ちって、そんなに立派なことですか」「社長ってなんぼのものですか」「上司って、そんなに威張れる身分ですか」「政治家って、どうしてそんなに大きな顔ができるんですか」「皇族って、なぜ税金で暮らせるんですか」…。

「医者」に置き換えられるものは無限にある。「日本人」「尊属」「男性」「公務員」「正社員」「健常者」「都会人」「アスリート」…。もろもろの差別構造の優越者に対する「下流」からの告発。私も気をつけよう。「弁護士さんって、どうして依頼者の気持ちが分からないのですか」と言われぬように。

「下流の宴」では、「下流」の側が「上流」に対して、一寸の虫にも五分の魂があることを見事に示して共感を呼んだ。が、下流の闘いは個人レベルのもので終わっている。それに比較して、「我らがパラダイス」は、高齢者介護における格差をテーマに、もっと社会性を意識した作品となっている。

それぞれに自分の親の介護問題に深刻に悩む3人の女性が、超高級老人ホームに勤務する。ここで至れり尽くせりの入居者を見ているうちに、自分の親にも同じようなケアを受けさせたいとの思いが募ってくる。そして、それぞれの親をこっそりとこの施設の空き部屋にいれての「親孝行」を実行する。このくわだては、単独にはできない。仲間の協力を得てのこと。

しかし、このくわだての束の間の成功と幸福は続かない。ことは露見して、「ここは貧乏人の来るところではない」と罵倒される。この3人は追い詰められて一矢報いようと決意する。「上流の走狗」二人を人質に、施設の一角にバリケードを築いての立て籠もりを始めようというのだ。

この3人の「決起」に、他の「下流」が連帯する。「上流」に属する入居者の中からも協力者が出てくる。バリケードの組み方を指導する学生運動の元闘士まで現れる。この連帯が、前作にはないところ。さて、これからどうなることか。

本日(12月1日)のストーリー展開は、籠城のための食糧確保だ。3人のうちのひとりが厨房に駆け込んでチーフに依頼する。ここで、次のように「下流同士の連帯」が描かれる。

「食べ物を分けてくれない。二、三日分」
「そっちは何人いるんだ」
「えーと、みんな合わせて十五人ぐらいかな」
「オッケー、パンと乾麺、冷凍のもん、いろいろ持ってきな。上の階には確か電子レンジとガスコンロあるはずだよ」
あまりにもあっさりと承諾してくれたので、さつきはとまどってしまったほどだ。
「オレが上に運んでやってもいいよ。なんだか面白そうだし」
「いや、いや、チーフに迷惑はかけられない。それにエレベーターも階段も封鎖してる。今裏口のエレベーターだけが使えるけど、そこもすぐに封鎖するって」
「なんだか本格的だねえ」
チーフはうきうきとした口調になった。
「よし、オレが段ボールに入れてここに置いとく。すぐに取りに来な」

さあ、明日からの展開が目を離せない。格差社会の中の「我らがパラダイス」は、束の間のバリケード内にとどまるのだろうか。それとも、バリケードの外まで拡がりをもつことになるのだろうか。

この小説は、確実にこの社会の断面を鋭く抉っている。格差社会の下流には、不満のマグマが渦を巻いている。このマグマは、いつかは噴出することになる。地震と同じでいつとは言いがたく、その規模も予想しがたい。しかし、年金をカットし、介護保険料を上げ、金持減税・庶民増税を繰り返していては、確実にその噴出の時期は早まるばかり。そしてその噴出のマグニチュードは大きくなる。心してあれ、「上流」の諸君。そして自・公・維の走狗たちよ。
(2016年12月1日)

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