本日は、東京「君が代」裁判・第4次訴訟の弁護団会議。7月3日提出期限の原告準備書面(5)を作成のための内容討議。私を除いて、同僚各担当者の進捗状況は順調だ。みんなよくやる。実に頼もしい。
多くのテーマが議題に上ったが、その一つが「国家が国旗国歌を強制することのイデオロギー性」、あるいは「国旗国歌を強制する儀式のイデオロギー性」。国家が特定のイデオロギーを持つことによって、それと抵触する国民の精神的自由を侵害することになる。憲法の条文を引用すれば、19条の思想良心の自由侵害、20条の信教の自由の侵害。そもそも国旗国歌というものが、国民を国家に統合する機能をもつ以上、国家主義のイデオロギーと無縁ではない。それが、「日の丸・君が代」であることは、無色な国家への統合ではなく、旧天皇制国家の理念への統合という特定のイデオロギーを持つことになるのではないか、という問題意識。
旗や歌が、特定の価値観やイデオロギーの象徴となることについては、最近のアメリカで再確認されている。米南部サウスカロライナ州チャールストンの黒人教会で起きた銃乱射事件を契機として、犯人が所持を誇示していた「南軍旗」を公共の場所から撤去すべきだという意見が世論の支持を獲得しつつあるというのだ。
6月26日同市内で催された犠牲者の葬儀では、オバマ大統領が追悼演説をして、「南軍旗」の掲揚を「組織的な抑圧と人種に基づく支配の記憶をよみがえらすものだ」と主張し、撤去を呼びかけたと報じられている。シンボルとしての旗の取扱いの問題として興味深い。当然に「日の丸・君が代」問題と重なる。
伝えられているところでは、南部諸州では白人保守層を中心に、旧南部の魂を表すものとして、あるいは南北戦争の南軍側戦没者に敬意を示すものとして「南軍旗」(The Battle Flag)への支持が根強いそうだ。大統領は、同旗の撤去は「南軍の兵士の勇気を侮辱するものではなく、奴隷制(の維持)という戦争の目的が間違っていたと認めるだけのことだ」と訴え、さらに「癒えていない傷を抱える多くの人々にとっては、控えめだが、意味のある癒やしとなる」と述べ、黒人らの人種差別への不満解消にもつながるとの認識を示した(毎日)という。また、大統領は、同演説の最後で、黒人の心の支えになってきた賛美歌「アメージング・グレース」を歌い出し、参列者数千人が合唱したという。旗だけでなく、シンボルとしての歌の出番もあったわけだ。
1861年アメリカ合衆国からの分離独立を宣言した南部諸州によってアメリカ連合国(Confederate States of America)の建国が宣言された。その陸軍旗が「南軍旗」である。赤地の正方形にX状の青い帯を交差させ、その帯に連合国参加13州を表す13個の星を配したデザイン。この軍旗のもと、将兵の士気もモラルもプライドも高かったとされる。
南北戦争は夥しい犠牲を払って1865年に終結。南軍は敗れて、軍旗もなくなった…はず。ところが、南軍旗はさまざまな形で南部各州に温存され受継されてきた。それぞれの州のアイデンティティを象徴するものとしてであるらしい。サウスカロライナ州では州議会の議事堂前に掲げられたままになっているという。27日には、南軍旗掲揚に反対する黒人活動家の女性がポールをよじ登り、旗を降ろすという「事件」がおきた。同女性は逮捕されたが、「白人優位を取り除き、真の人種的正義と平等の実現を真剣に考えるべき時だ」と掲揚の中止を訴え、反対派は「これは憎しみの旗ではなく(歴史的)遺産の旗だ」と語っているという。どこも、よく似た話しとなるようだ。
旗も歌もシンボル(象徴)である。何をシンボルしているのか、明確な場合もあるが、不明確なこともある。人によってイメージが食い違い、社会的に理解が分裂していることも少なくない。
南軍旗は白人保守層には、南部のアイデンテティや勇気の象徴でもあり、南北戦争の戦没者への敬意のシンボルでもあるようだが、差別をする側にとっての威嚇のシンボルとしても作用し、差別される側には恐怖と困惑のシンボルともなっている。
日の丸も、事情はよく似ている。1945年8月まで日の丸は、大日本帝国と深く結びついて、皇国のシンボルであった。皇国の臣民であることに疑問を持たない者にとっては、皇国の精強と繁栄のシンボルでもあったろう。しかし、同時に対外的には近隣諸国への侵略と植民地支配のシンボルであり、国内的には天皇制による思想弾圧と宗教統制のシンボルでもあった。要するに、南軍旗と同様の負の歴史の象徴なのである。日の丸の「負」の意味は、日本国憲法の普遍的な諸理念に照らしてのものである。
70年前に、日本は原理的な転換を遂げ、まったく理念を異にする新たな国に生まれ変わった。日の丸のシンボライズの対象であった「大日本帝国=皇国」は消滅した…はずであった。ところがいま、国旗国歌として法定されたものが、戦前とまったく同じ「日の丸・君が代」なのである。
南軍旗と同様、ある人にとっては、戦前戦後を通じての「日本」のシンボルとして愛着の対象であるが、別の人にとっては日本の軍国主義による侵略戦争と植民地支配の象徴として到底受容できない。「君が代」も同じ。戦前戦後の断絶など意識しない人々にとっては、戦前と同じ国歌に抵抗感がない。しかし、戦後の理念的大転換にこだわる人々にとっては、その歌詞が明らかに天皇の御代の永続をことほぐ内容であることから国民主権の世にふさわしからぬとして、受け入れがたいことになる。
信仰を持つ者にとってはさらに事態は深刻である。「日の丸」は太陽神アマテラスのシンボルであって、ある信仰にとっての忌むべき偶像に当たりうる。一般的にどのように思われているかが問題ではなく、信仰者一人ひとりにとってのシンボルの理解が重要なのである。「君が代」も、祖先神の子孫であり、かつ自身も現人神であるとされている天皇への讃歌として歌うことができないとする人が確実に存在する。
要は、特定の旗や歌を、どのような理念のシンボルと把握するかということなのだ。ハーケンクロイツも、南軍旗も、そのシンボライズする理念が受け入れがたいものとなったとき、旗も廃絶されあるいは撤去されることになる。
理念への対処は目に見えない。理念を象徴する旗や歌の扱いで、理念を受容するか排斥するかを示すことが可能となる。南軍旗の掲揚拒否の動きがそれを教えている。本来、70年前の敗戦時に、あるいは日本国憲法制定時に、「日の丸・君が代」は廃絶宣言をされてしかるべきだった。南軍旗撤去問題の報道に、あらためてそう考える。
にもかかわらず、廃絶宣言を免れて生き延びた「日の丸・君が代」を、あろうことか権力的に強制しようというのが東京都教育委員会の立場なのだ。到底是認し得るはずもなかろう。
(2015年6月30日)
「右翼」の定義は難しい。もしかしたら、不可能かも知れない。あれこれ考えた末の暫定結論は、「アンチ『左翼・リベラル』の立場」というほかはない。月は自身で光らず、太陽光を反射するだけの存在。右翼も同様、自らに積極的な思想らしい思想の体系があるわけではない。左翼・リベラルの主張や発言への反発を口にする反射神経を持ち合わせているだけ。結局はそれだけで、それ以上のなにものでもない。
太陽光がなければ月の存在は目に見えない。社会に左翼・リベラルの行動や発言がなければ、右翼の存在もなきに等しい。不可思議な共棲関係、あるいは片面的な寄生関係というほかはない。なお、私自身はリベラルを徹底した先に左翼が位置するという理解なので、「左翼・リベラル」とひとくくりにすることに抵抗感はない。
左翼・リベラルの特性の一つとして個人主義がある。個人の自立・自立した主体の自由・個性の輝きを基底的な価値とする。ひとくくりに他と束ねられることを拒否して、自分が自分であることを大切にする。右翼はそのアンチを主張して、国家・民族・社会秩序などを重んじるという。
個人の自由に敵対する主要な存在は二つある。一つは、国家権力であり、もう一つは社会の同調圧力である。「個人対国家」、「個人対社会」の自立・自由をめぐるせめぎ合いを象徴するものとして、国旗・国歌の取扱いがある。左翼・リベラルは、個人を束ね、絡めとり、個の自立や自由に敵対する作用をものものとして国旗・国歌を基本的に受け入れがたい。これを受け入れるよう期待する社会の圧力にも反発せざるを得ない。
また、左翼・リベラルは、国家や民族を単位としてものを考えないから、日本の負の歴史を直視することを躊躇しない。その目でみた、「日の丸・君が代」は、旧天皇制とのあまりに深い結びつきを払拭し得ない。天皇主権・軍国主義・超国家主義・権威主義・思想統制と異端に対する弾圧・差別容認・監視国家体制等々の日本の負の歴史を背負った存在として、「日の丸・君が代」を受け入れがたい。右翼は、「左翼・リベラルに反対」だから、「国旗国歌」にも「日の丸・君が代」にも大賛成なのだ。
昨日(6月25日)の産経社説が、《国旗国歌 敬意払うのが自然な姿だ》という社説を掲げている。右翼の心性丸出しである。もう少しまともな議論ができないのだろうかと嘆かざるを得ない。とはいうものの、まともに産経社説を相手にする真っ当な識者もなかろうから、私が反論を認めておくこととしたい。
まず、表題からおかしい。《国旗国歌 敬意払うのが自然な姿だ》というが、自然な姿がよいなら、現状あるがままの大学の自然の姿に放っておけばよいのだ。ところが、大学の自治への権力的介入という不自然をけしかける内容になっているから、きわめて不自然で分かりにくい主張であり表題となっている。
国旗国歌に敬意を払うべきだと考える思想があってもよい。しかし、国家を敬意の対象とすべきとする思想は、けっして「自然」なものではない。むしろ、権力に好都合な思想として、警戒を要する思想と言わねばならない。また、当然のことではあるが、国旗国歌に敬意を払うべきだと考えない人々に、この思想を押しつけることはできない。
《国旗、国歌はその国の象徴として大切にされ、互いに尊重するのが国際常識だ。》
これは不正確。「国家が民意を反映している限りにおいて、あるいは、国家が国民から支持されている限りにおいて、その国の国旗・国歌は、国民によって大切にされる。」というべきである。さらに正確には、「国旗、国歌は国家の象徴として大切にされることもあれば、ないがしろにされることもある。」「国家への抵抗の象徴的行為として、国旗が抗議の対象となることもしばしばある。」「国家への抗議の表現として、国旗が焼かれることも踏みつけられることもあり、分けても人種差別が顕著なアメリカ合衆国では、黒人による国家への抗議行動において星条旗受難の歴史がある」と続けなければならない。
《国旗国歌は、互いに尊重するのが国際常識》であることは、大学における「日の丸・君が代」強制と何の関係も持たない。まったく、これっぽっちも、である。運動会に万国旗を飾ることの理屈に役立つ程度であろう。しかも、《国旗国歌は、互いに尊重するのが国際常識》と言い切るのは実は困難なのだ。独裁国家、極端な人権弾圧国家の国旗国歌の尊重は、人権侵害に手を貸していると見られる恐れを拭えない。また、国旗国歌の尊重が国際紛争の一方当事者への加担と見られることすらある。台湾の国旗・チベット国旗・アイシル国旗、イロコイの国旗、ラコタの国旗、南オセチアの国旗…、その尊重には難しさがつきまとう。要するに、「自国が認めている範囲での相互主義の反映」に過ぎないのだ。
また、産経の文章は、国旗国歌の尊重が、「現実にそうなっている」というのか、「そうなるべきだ」と言っているのかはよく分からない。意識的に避けているようにも読める。
《ましてや国民が自国の旗などに敬意を払うのは自然な姿だ。》
驚いた。これは、一種の信仰告白である。根拠や理由についての一切の説明なく、どうしてかくも安易に断定できるのか。しかも、なにゆえ自分の意見を他人に押しつけることができると考えているのか。まったく理解に苦しむ。
私はまったくの別意見だ。国旗国歌とは国家という人工的組織の象徴である。国家とは暴力に支えられた権力構造体である。うかうかしていると、いつ国民に襲いかかってくるやも知れぬ危険きわまりない代物。暴発せぬよう、押さえつけておくべき警戒の対象でこそあれ、敬意を払うべき対象ではあり得ない。「敬意を払うのは自然な姿だ」とは、アンチリベラルの右翼、あるいは全体主義者・国家主義者に特有の心性でしかない。このような産経流の国家観・国旗国歌観には、70年前の日本国民が別れを告げたはずではなかったか。
《下村博文文部科学相が、国立大の入学式や卒業式での国旗掲揚、国歌斉唱を適切に行うよう学長会議で要請した。妨げる方がおかしい。学長らは国旗、国歌の重要性を認識し、正常化を進めてほしい。》
ここで論理がとんでもなく飛躍した。《敬意を払うのは自然な姿だ》というなら、それぞれの大学の自然に任せれば良いこと。どうして、札付きの右派である文科大臣が、大学の自治への介入という批判を押し切ってまで、不自然極まる「要請」をしなければならないのか。大学の財布の紐を握っている国の「要請」は、実は「強要」にほかならない。
国家は特定の思想や価値観を持つことを禁止される。国民の多様な思想や価値観に寛容でなくてはならないからである。「カネを出すから、国の言い分に随え」と言ってはならない。これがあらゆる部門にわたっての国家の基本的なルールである。ましてや大学とは、大学の自治、学問の自由が貫徹されなければならない場である。公権力のイデオロギーに左右されることのない、自由な学問の研究と教授の自由こそが、社会に不可欠だと確認されている。これは、憲法原則(憲法23条)ともなっているのだ。恐るべき、文科相と産経のタッグを組んでの憲法原則への挑戦というほかはない。
《文科省によると、国立大86校のうち今春の卒業式で国旗を掲揚したのは74校、国歌斉唱は14校にとどまっている。東大、京大のように国旗掲揚、国歌斉唱とも行っていない大学が10以上ある。下村文科相は要請にあたって「各国立大の自主的な判断に委ねられている」と配慮したうえで、「大学の自治や学問の自由に抵触するようなことは全くない」と述べた。その通りである。》
何とも愚かしい文章である。《各国立大の自主的な判断に委ねられている》のなら、口を出してはならない。文科省がスポンサーとして口を出すことが、「大学の自治や学問の自由に抵触する」ことは自明ではないか。愚かな文部行政を、愚かな右翼メディアが支えているの図である。
《国旗と国歌の適切な取り扱いは、大臣がわざわざ要請する以前に、各大学の学長の判断で行うべきことだ。できないのは一部教職員らの反対を恐れるからだ。》
いやはやとんでもない。大学人とは、知性を持つ集団である。「大学に国旗と国歌を持ち込むことに賛成」などという知性を欠いた人物は、皆無ではなかろうが圧倒的少数にとどまる。戦争法案違憲論が圧倒的な憲法学者の中で、3人だけの合憲論者がいた。このくらいの比率でしかなかろう。にもかかわらず、「国旗掲揚74校」と聞けば、驚かざるを得ない。スポンサーへのおもねりの結果というほかはない。
《スポーツの国際大会で選手、観客とも対戦相手の国旗、国歌を含め敬意を払う態度は自然であり、国旗、国歌に背を向ければ非難される。》
何度も出て来る「自然」。「自然」であるべきことに国が口出しすることはない。「自然」と言いつつ、不自然に口を出し、介入し、さらには強制を合理化しようというのだ。スポーツをナショナリズム高揚の手段に使おうという意図が透けて見える。スポーツを国旗国歌強制の口実とし続ければ、スポーツ自体の問題性が国民的な議論の対象にならざるを得ない。
《ところが日本の教育現場では小中高校などの入学、卒業式で国歌斉唱であえて起立せず、国旗掲揚や国歌斉唱を「強制」などと批判する教師らが相変わらずいる。大学での反発が強いことは予想されたことではある。海外から多くの留学生を受け入れる国立大の節目の式で国旗掲揚、国歌斉唱を行わない大学がある現状は恥ずかしい。》
ようやくのホンネである。要するに、「大学人は、国家に服従する思想に自発的に転向せよ。でなければ、大学に対して徹底して国旗国歌を強制せよ」という産経の主張なのだ。こんな「強制」を行っているのは、人権後進国である北朝鮮と中国しか実例を知らない。人権尊重を掲げる文明国ではあり得ないことなのだ。むしろ、留学生を受け入れる国立大の節目の式で国旗掲揚、国歌斉唱などを行う大学がある現状は、恥ずかしいことこの上ない。
《しかし国際的な常識や儀礼を否定してまで、特定の政治的主張を押し通そうとすることこそ、学問の自由などをゆがめるものではないのか。》
めちゃくちゃな「論理」である。特定の政治的主張を押し通そうとしているのは、文科省であり、産経である。これは水掛け論ではない。国民には多様な思想が許容されており、その多様性を保障するために国家は価値中立でなければならない。そして、国民の多様な思想の共存を妨げる権力の行使が禁止される。だから、国旗国歌に敬意を表明すべきという思想を強制してはならない。明らかに違憲・違法なのだ。
国家は、特定の価値観を持ってはならず、ましてや国民にこれを押しつけることはできようもない。国民個人の思想・良心の自由は保障されている。産経主張は、国家主義者・全体主義者の目から見た、逆さまの世界観である。こんなまやかしの論理で、国家の思想統制を許してはならない。
《さまざまな機会を捉え国旗、国歌を大切にしたい。》
産経のボルテージの高さは、経営政策上このような主張で購読部数は減らない、と読んでのことである。このように思わせている一定の読者層の存在があるのだ。右翼メデイアは右翼購買者に支えら、また右翼を再生産もする。この文科省の愚行を礼賛する産経の論調は、国家主義が危険水域に達しつつあるのではないかとの不気味さを覚える。さまざまな機会を捉えて、国旗・国歌強制の動きにプロテストしなければならない。
たいした問題ではないと高をくくって看過していると、既成事実の積み重ねが取り返しのつかない大変なことになりかねない。ここにも「既に戦前」の影が忍びよっている。
(2015年6月26日)
「安倍政権の教育政策に反対する会」を代表して開会のご挨拶を申し上げます。月曜日の正午スタートという、ご都合つきにくい日程にもかかわらず、参議院議員会館での教育を考える集会に多数ご参集いただきありがとうございます。
本日の集会のメインタイトルは、『いま、教育に起っていること』であります。
まことにさまざまなことが、いま、教育に起こっております。到底見過ごすことができないことばかり。ひとつひとつのできごとをしっかりと見つめ、見極めなければなりません。この教育分野のできごとは、けっして教育分野独自の問題として独立して生じているわけではありません。当然のことながら、教育問題も政治的・経済的・社会的な全体状況の一側面であります。他の政治や経済や社会状況と切り離して論じることはできません。そのような問題意識が、サブタイトル『戦争法とも言われている安保法制下での教育、ふたたび』として示されています。
国会の内外は、戦争法案審議の成否をめぐって、いま騒然たる状況にあります。その騒然たる状況は、全国津々浦々の教育現場の状況と密接に関連しています。初等中等教育に、政権が、あるいはその意を受けた地方権力が、乱暴な介入をしているだけでなく、いよいよ大学教育にも政権の介入が及ぼうとしています。
その政権が、昨年7月1日の集団的自衛権行使容認の閣議決定に続いて、いま戦争法案を国会に上程しました。衆議院での審議は紛糾し、政府与党は本日にも大幅な会期延長で、なんとか今国会での法案の成立を画策しています。これまでは我が国の外交にも内政にも、戦争・参戦という選択肢はありませんでした。自衛隊ありといえども、専守防衛の原則を厳守するというタテマエから踏み出すことはできなかったのです。ところが、いま、世界のどこにでも日本の武装組織が出かけていって戦争をする、戦闘に参加する、そういう選択肢をもつ、国に変えようというたくらみが強引に推し進めらようとしています。
もし、政権の思惑通りにことが成就するとすれば、まさしく憲法の平和主義からの大きな逸脱であり、これこそ「戦後政治の総決算」であり、「戦後レジームからの脱却」というほかはありません。この政権の動きと軌を一にして、教育も、そのような政策に奉仕する人材を育成する内容に変更されようとしている、と考えざるをえません。
戦争を政策選択肢とする国とは、いつもいつも効率よく戦争を遂行できるよう、万全の準備を怠らない国です。いざというときには、政権の呼びかけに応じて全国民が一丸となって戦争に参加しなければなりません。そのような国を支える教育とは、いったいどんなものなのでしょうか。
自らものを考え行動する自立した主権者を育てる教育とは対極にある教育。権力が望む批判精神を欠いた国民を育成する教育。結局のところ、権力の意思を子どもたちに刷り込み、国家の言いなりに動く人材を育成する教育。その政策の根底には、国民個人を軽んじる国家主義ないしは軍事大国化の志向があり、大企業の利益に奉仕する新自由主義があります。
本日は、何よりも教育の分野総体が、いったいどうなっているかを正確に把握したいと思います。そして、その背景を煮詰めて考える手がかりを得たいと思います。冒頭に総論として世取山洋介さん(新潟大学教授)の基調講演をお願いしています。「教育情勢全般の状況について」という世取山さんならではのご報告に耳を傾けたいと思います。そのあと、各論として、まず俵義文さん(子どもと教科書全国ネット21)から重大な局面を迎えている教科書採択状況についてのご報告。また、近時新たに大きな問題となってきました政権の大学の自治への攻撃をめぐる問題について岩下誠さん(学問の自由を考える会事務局長・青山学院大学准教授)から、さらには教育の歪みの端的な表れである学校でのいじめ問題について武田さち子さん(ジェントルハート理事)に、それぞれ20分ずつのご報告をいただき、その後ご参加いただける議員や会場の皆さまを交えての意見交換をいたしたいと存じます。
目指すところは、戦争法案と同じ根っこから顔を出している政権の全面的な教育介入に対する摘発です。戦争法案とともに、政権の教育への不当な介入も吹き飛ばすにはどうすればよいのか。教育を「ふたたび」戦前に戻してしまうような愚かさを繰り返すことのないよう自覚しなければならないと思います。そのために、本日の集会が充実した実りある議論の場となりますように、皆さまのご協力をよろしくお願いいたします。
(2015年6月22日)
舛添要一さん、あなたの都知事としての言動には、注目もし期待もしている。注目しているのは、都政が人権や民主主義あるいは教育・環境・消費生活等々に、とても大きな影響をもっているからだ。とりわけ、私の当面の関心は都立校での国旗国歌強制政策の転換だ。
期待しているのは、あなたの姿勢のリベラルさ故にだ。保守であってもリベラルではありうる。リベラルでさえあれば話し合いも歩み寄りも折れあうこともできる。その点、石原慎太郎とは大違いだ。東京都のホームページ「知事の部屋」で、あなたの記者会見の模様を動画で見ることができる。毎週金曜日午後3時からの定例記者会見の要旨は、各紙が報道もしている。就任以来のあなたの発言の態度も内容も、概ね好感のもてるものだ。もっとも、石原慎太郎との比較をベースにしてのことだから、あなたにはご不満だろうが。
石原記者会見は、やたらに威張りたがるキャラクター丸出しの不愉快な雰囲気だった。威圧的な姿勢に若い記者が気圧されていた。あなたの前任の石原後継知事も「威張りたがりキャラクター」のDNAを受け継いでいた。しかし、あなたは違う。目線を同じくして飾らずフランクに記者諸君と話し合う姿勢の好感度は大だ。やたらと威張らないというそのことだけで、石原時代よりもずっと期待がふくらむのだ。
あなたの言っていることは、常識的でリベラルだ。知性の自信に裏打ちされた余裕を感じる。憲法理念への理解も相当なものだ。都政がいつまでも暗黒の中世から抜け出せないでは困るのだ。あなたに、開明のルネッサンスへの転換の期待がかかっている。
ところが、「日の丸・君が代」問題については、どうもあなたの言うことがおかしい。リベラルでもなければ、知性の片鱗も見えない。ルネッサンスの明るさはなく、キリシタン弾圧や特高警察時代の暗さのままだ。どうなっているのだろう、と首を傾げざるを得ない。
舛添さん、あなたはあまりにも事実の経過を知らない。いや、知らされていない。また、あなたも知ろうとしていない。おそらくは関心が振り向けられていないのだ。教育委員会が独立行政委員会であることを口実に、面倒な問題を避けているとしか見えない。しかし、この問題の発端は石原都知事の国家主義イデオロギーを教育に持ち込んだところにある。あなたには、都知事としてこの右ブレを是正する責任がある。ことは、教育の問題であり、民主主義に大きく関わる問題なのだから、良心と勇気をもっていただきたい。
あなたに関心ないとして放置されては困る。ぜひとも、現状の教育の歪みを是正し、誰が見ても異常な東京都の教育を真っ当なものとする努力をしてもらわねば困るのだ。困るのは、訴訟当事者や教員だけではない。何よりも教育現場の子どもたちが困る。明日の主権者を育てる教育そのものが困り果てている。都民が困る。国民が困る。舛添さん、あなただって、このままでは教育には見識のない不適切知事と指摘されることになって困るはずなのだ。
まずは、もう少し、首都の公立校の教育現場の実情とこれまでの経過について、正確に把握されるようお願いしたい。教育庁幹部の、保身の報告だけを信用していたのでは、無能なお飾り教育委員同様、裸の王様のままとなってしまう。
少なくともこれだけは押さえていただきたい。1989年学習指導要領の国旗国歌条項改定前の「都立の自由」がどのようなものであったか。1999年国旗国歌法の内容はどのようなものであったか。同法案の審議の経過では「国旗国歌を強制するものでない」ことがあれだけ繰りかえし強調されながら、「石原教育行政」はどのようにして強制に踏み切ったのか。2003年10月の「10・23通達」が、どのような経過で出され、どのように教育現場に混乱を持ち込んだか。そして、いくつもの訴訟で、どのような判決が出ているのか。そして、現在なお、多くの訴訟が継続中で、最近の判決は都教委の連戦連敗であること、などである。そして、最高裁判決に付せられた、異例の補足意見の数々をよくお読みいただきたい。最高裁の裁判官諸氏は、けっして「日の丸・君が代」強制を問題ないとはしていない。むしろ、ぎりぎり「違憲とまでは言えない」とはしつつも、都教委の強引なやり方に苦り切った心情を露わにして、なんとか事態を改善しろよ、と言っていることを知ってもらいたい。
これまでの都の教育行政による、反憲法的反教育的な教育への介入に、直接あなたの責任があるわけではない。責任があるのは、石原都知事であり、その提灯持ち教育委員であり、それにつるんだ右翼都議の何人かであり、使い走りをさせられた教育庁の幹部職員である。
その多くは既にその任にはない。幹部職員に若干の残党がいる程度。あなたはいま、英断を下すことができる立場だ。しかし、時期を失すると、あなた自身の責任が出て来る。後戻りが難しくなってくる。早期に、手を打っていただくことが肝要だ。
私は確信している。あなたの感覚なら、経緯さえ正確に把握すれば「日の丸・君が代」不起立の教員の心情を理解できないはずがない。思想・良心の自由(憲法19条)、信教の自由(20条)、個人の尊厳(13条)への洞察の素養があるはずだ。にもかかわらず、あなたは、教育庁の担当職員にブロックされて、これまで都教委がいったい何をやって来たのか、いまどんな問題を抱えているのか、何も知らないことをさらけ出した。それが、6月12日金曜日の定例会見の席上でのことだ。
「週刊金曜日」の記者が、東京都敗訴の最近2判決についてあなたに質問をした。そのやや長い質問自体から、記者が問題に精通していることは明らかだった。ところが、質問を受けたあなたの方はほとんど何も知らないことを明らかにした。何も知らないが、自ら知ろうとはしない。この問題を都教委任せにしていればよいとの姿勢であることが明確になった。
記者の質問は、都(都教委)が1週間に2度の敗訴判決を受けるという異常な事態を踏まえて2点あった。
第1点 東京高裁の都教委敗訴判決がその理由中で、「都教委の国旗国歌問題に関する懲戒処分の量定決定は機械的な累積加重の手法となっている」「これは教員の思想・良心の自由を侵害する」と判示している。ここまで裁判所が明示した以上は機械的累積加重処分はやめるべきだと思うが、この点についての知事の見解を伺いたい。
第2点 これまで10・23通達以後の君が代処分を受けた教師は474人にのぼっている。この教師たちは、都と話し合いで問題を解決したいと望んでいる。教育の正常化のためにこれに応じる意思はないか、知事の見解を伺いたい。
これに対するあなたの回答は、おかしいものとなった。しかし、そのおかしさ自体が貴重な情報だ、削除せずに全部の映像を公開していることを評価したい。あなたは判決を読んでいないだけでなく、判決の内容や要旨の報告さえ受けていない。質問した記者の説明にもかかわらず、機械的累積加重処分の意味も理解できていない。そもそも裁判で、何が争点となり、なぜ東京都が惨めに敗訴したか、担当職員からの説明はなかったと判断せざるを得ない。
質問した記者も指摘をしているが、あなたには基礎事実について、大きな誤解がある。
どうも、あなたは、474人の懲戒処分の根拠が「国旗国歌法違反」にあるとお考えの節がある。
最後は、意味不明となる発言まで拾って、つなげてみると以下のようになる。
「国権の最高機関が法律を作っているわけですね。国旗日の丸、国歌君が代ということで。だから、公務員でありますから、当然それを守らないといけないという義務がある」「だから、これは思想の自由の侵犯だみたいな形では簡単にいかない」「国旗国歌法自体が、それでは憲法違反なのかと、こういう議論にもなるので」「私は国権の最高機関が決めたことなので、今言った問題点があるとしか申し上げません」「国歌って歌うから国歌ではないですか。そうでしょう。だから、そこまで言うと、それは屁理屈の世界になってしまうので、私はやはり国権の最高機関で決められたものは守るべきだと思っています。」
舛添さん、あなたは、「国旗国歌法を守らなければならないのか否か」を争点として訴訟が行われているとのご理解のようだ。知事就任以来、1年半に近い。その間、職員の誰一人として、あなたに訴訟の概要についての説明をする者がなかったということになる。
舛添さん、教育行政に関心をもっていただきたい。石原知事は極右の立場から、過剰に教育と教員行政に干渉した。それを放置していてはならない。都教委が、都知事から独立した立場にあることへの配慮は当然として、6月12日記者会見での質問には、まともに答えられるようにお願いをしたい。
何よりも、事実を知っていただきたい。私に報告を求められれば、喜んで出向きたい。あなたのリベラルな素養が、正確な事実経過についての認識さえあれば、これまでの都の教育行政がいかに無茶苦茶であるかについて共感してもらえるものと思う。そこから、異常な教育現場の現状を変革し、教員の意欲にあふれた教育現場を取り戻すために一歩を踏み出すことが可能となるはずである。くれぐれも申しあげる。今のままでは東京の教育はダメなのだ。
(2015年6月20日)
西南戦争の折りに、「またも負けたか八聯隊(はちれんたい)、それでは勲章九聯隊(くれんたい)」という俗謡が流行ったという。歩兵第8連隊が本当に弱兵であったか史実はともかく、九州人の大阪隊に対する揶揄と反感が窺える。
このところ、東京都教育委員会(訴訟当事者としては東京都)が裁判負け続けである。まるで、大阪府・市と敗訴の数を競い合っているかの趣。「またも負けたか東京都、それで教育委員会(いいんかい)?」と言いたくもなる。処分の連発で教育現場の管理を徹底しようという都教委の無理な手法の破綻が明確なのだ。これで、まともな教育ができるのか、本当に心配しなければならない。
5月25日(月)の東京地裁「再雇用拒否第2次訴訟」判決に続いて、昨日(28日(木))も、都教委敗訴の東京高裁(第14民事部須藤典明裁判長)の判決が言い渡された。今週2度目の都教委敗訴である。原告団は「ダブルパンチ」と言っている。月曜日地裁判決が君が代不起立を理由とする再雇用拒否を違法として5300万円の支払いを命じたもの。そして、木曜日高裁判決が、卒業式での「日の丸・君が代」不起立に対する停職懲戒処分を重きに失して違法と取り消した逆転判決である。処分を取り消しただけでなく、国家賠償まで認めたすばらしい内容。
2007年卒業式での「君が代」斉唱時の不起立を職務命令違反として、Kさん(都立八王子東養護学校・当時)が停職3月、Nさん(町田市立鶴川二中・当時)が停職6月の懲戒処分を受けた。二人はこれを不服として、人事委員会に審査請求をし東京地裁に処分取消と国家賠償(慰謝料の支払い)を求めて提訴した。
2014年3月の一審判決は、次のとおり。
Kさん 停職3月の処分取消請求認容 慰謝料請求棄却
Nさん 停職6月の処分取消請求棄却 慰謝料請求棄却
各原告と東京都が、それぞれの敗訴部分について控訴し、昨日の控訴審判決となった。結果は教員側が「逆転勝訴」の旗出しとなった。以下のとおりである。
Kさん 停職3月の処分取消請求認容 慰謝料請求10万円認容
Nさん 停職6月の処分取消請求認容 慰謝料請求10万円認容
注目すべきは、判決理由が、都教委の機械的な累積加重処分システムを違法と断じていること。これは痛快である。次のくだりは、都知事、教育長、各教育委員、そして橋下徹(現大阪市長)にもよく読んでもらいたい。
「学校における入学式,卒業式などの行事は毎年恒常的に行われる性質のものであって,しかも,通常であれば,各年に2回ずつ実施されるものであるから,仮に不起立に対して,上記のように戒告から減給,減給から停職へと機械的に一律にその処分を加重していくとすると,教職員は,2,3年間不起立を繰り返すだけで停職処分を受けることになってしまい,仮にその後にも不起立を繰り返すと,より長期間の停職処分を受け,ついには免職処分を受けることにならざるを得ない事態に至って,自己の歴史観や世界観を含む思想等により忠実であろうとする教員にとっては,自らの思想や信条を捨てるか,それとも教職員としての身分を捨てるかの二者択一の選択を迫られることとなり,…日本国憲法が保障している個人としての思想及び良心の自由に対する実質的な侵害につながるものであり,相当ではないというべきである。」
また、都側の過失を認定するに際して、国旗国歌法の制定過程での議論を丁寧に紹介し次のように述べていることも注目される。
「国旗国歌に対する起立及び国歌斉唱には,日本国憲法が保障している思想及び良心の自由との関係で微妙な問題を含むものであること…個人の歴史観ないし世界観に由来する行動と異なる外部的行為を求められることとなり,その限りにおいて,その者の思想及び良心の自由についての間接的な制約となる面があること…が意識されていたことが認められる。したがって,国旗国歌法制定に当たって,外部的行為は,思想及び良心の自由との関係で微妙な問題を含むものであることにも配慮して,起立斉唱行為を命ずる職務命令に従わず,殊更に着席するなどして起立しなかった者について懲戒処分を行う際にも、その不起立の理由等を考慮に入れてはならないことが要請されているものというべきである。」
月曜日地裁判決も木曜日高裁判決も、最高裁判決の壁に阻まれて、君が代不起立に対する懲戒処分を違憲とまでは言えないが、その制約の範囲内で思想良心の自由保障に精一杯の配慮をした判決と評価することができる。
ところで、都教委は抱えた事件で敗訴を重ねて6連敗であると原告団が発表している。
2013年12月19日の再発防止研修未受講事件(「授業をしていたのに処分」事件)一審判決が控訴なく確定して以来、再任用更新拒否S教諭事件、条件付き採用免職Yさん事件、O教諭懲戒免職処分執行停止申立認容、再雇用拒否撤回二次訴訟、そして昨日のKさん・Nさん停職処分取消事件である。今年1月16日の東京「君が代」裁判三次訴訟の判決(31件・26名の減給・停職処分取り消し認容)を加えれば、7連敗と言ってもよい。都教委のやり方が異常なのだ。
舛添要一都知事、中井敬三教育長に再度申しあげる。すべては旧レジームにおける前任者たちのしでかした過ち。控訴・上告は、その過ちに加担し責任を自ら背負い込む愚行となる。上訴を断念して、不正常な事態を一掃する決断をお願いしたい。
(2015/05/29)
このところの舛添要一さんの言動。石原トンデモ知事とは大違いだ。常識人としての発言内容に好感がもてる。昨日(27日)記者会見での下記の発言も、石原知事とはずいぶんの違いである。そう認めつつも、やっぱりおかしい。どうしても違和感を拭えない。私の言うことにも耳を傾けて、よくお考えいただきたい。
【記者】都立高校の元教員の方が、卒業式などの君が代の斉唱時に起立しなかったことを理由に再雇用を拒否されたのは違法だということで裁判訴訟を起こして、東京地裁が、昨日都に5300万支払いを命じる判決を言い渡しました。これについて、知事の見解を伺えますか。
【知事】これは今、しっかりと都の方で、判決内容を精査して、どういう対応をとるかということであります。国旗国歌法というのは、平成11年に国会で決めまして、やはり世界中どこ見ても自国の国旗や国歌に敬意を払うというのは当たり前のことなので、その当たり前のことを子供たちに指導する立場の人が、やはり国歌斉唱時には起立して歌うというのは、当たり前だと思いますので、今回の判決に対してどういう対応をとるかというのは、教育委員会がよく精査して対応を決めたいと思っています。
舛添さん、それはない。それはおかしいよ。
※「国旗国歌法というのは、平成11年に国会で決めまして」と持ち出していることがまずおかしい。国旗国歌法とは、国民に対して国旗国歌に敬意を払うべしとの趣旨で作られた法律ではない。もちろん、この法律に基づく「国旗国歌敬意表明義務」などあるわけがない。「国旗起立義務」も「国歌斉唱義務」もない。むしろ、国会審議の過程では「そんな義務をさだめるものではありません」と強調することによって、法の制定にこぎ着けている。
国旗国歌法を根拠に、国民の国旗国歌への敬意表明の必要を論じることは、学者知事である舛添さんの名誉にもかかわる。やめた方がよい。
※「世界中どこ見ても自国の国旗や国歌に敬意を払うというのは当たり前のこと」もおかしい。
今論じられている問題は、「国旗や国歌に敬意を払うこと」の是非ではない。国家象徴への敬意表明強制の是非であり、歴史的な負の遺産を背負っている「日の丸・君が代」尊重姿勢強制の可否なのだ。自発的な敬意の表明とその強制との間には、天と地ほどの違いがある。
訴訟の原告となっている教員の中には、「自分はこれまで率先して起立し斉唱してきたが、職務命令として強制されれば、個人の信条としても教員の良心からも絶対に立てない歌えない」と処分を受け、再雇用を拒否された人もいるのだ。
※「世界中どこ見ても卒業式で自国の国旗や国歌に敬意を払うことを強制すること、従わなければ懲戒処分をすること」は決して当たり前ではない。
どうやら、北朝鮮と中国はそのような国であるらしい。しかし、人権後進国あるいは民主主義未成熟国家ならではのこと。ヨーロッパ諸国では、そもそも卒業式に国旗国歌というものの出番がない。これが国家を相対化した成熟国家の常識。アメリカは建国の事情から国旗国歌に対する思い入れが過剰なな国だが、少なくともバーネット判決以来強制はない。司法が強制には歯止めをかけているのだ。かつて永井愛さんが、「日の丸・君が代」強制をテーマとした「歌わせたい男たち」の演劇をイギリスに紹介しようとしたら、彼の国の人にはこの強制の事態があり得ざることとして飲み込めなかったという。あまりにばかばかしい事件として喜劇としても受け容れられない、という結論になったという。石原知事の意を受けて都教委がやってきたことは、決して、グローバルでもユニバーサルでもない。北朝鮮・中国レベルの話なのだ。
※中国の名誉のために一言しておきたい。「五星紅旗」も「起来人民」も、国民的合意がある理念を象徴している。しかし、「日の丸・君が代」は、そうではない。旧天皇制国家とあまりに深く結びついた負の刻印を背負っている。我が日本国憲法が、意識的に排斥した軍国主義や植民地主義あるいは排外主義や国家神道理念の象徴でもある。欧米人には、「ハーケンクロイツに拝跪を強制するに等しい」と言えばわかりやすいだろう。そのような偏頗な理念的象徴に対する敬意表明の強制は、どうしても踏み絵と同じく思想信条をあぶり出し、思想弾圧をもたざるを得ないのだ。
※「その当たり前のことを子供たちに指導する立場の人が、やはり国歌斉唱時には起立して歌うというのは、当たり前だと思います」という俗論が一番おかしい。保守ではあっても、リベラルな「政治学者舛添」さんの本心とはとても思えない。「政治家舛添」さんはこう語らねばならないのだろうか。
子供たちは無限の発達可能態だ。あらゆることを学ぶ権利がある。国家や社会が一色の価値観に染まり、国家が提供する価値観が正しいと思い込ませることは、子供の学ぶ権利を侵害することといわねばならない。公立学校とは、検証された真理を教えるところで、特定の価値観を教え込むところではない。とりわけ、国家という怪物との向かい合い方について、一方的に肯定的な価値観だけを刷り込むようなことがあってはならない。
なお、決して「国歌斉唱時には起立して歌うというのは当たり前」ではない。1989年学習指導要綱の国旗国歌条項改定まで、都立高で卒業式に君が代の式次第をもっているのは3%に過ぎなかった。その後、このパーセンテージはかたちのうえではアップするが、ほとんどの教員は起立も斉唱もしなかった。この時代の生徒たちは、権力の提供する価値観が絶対のものではないことを学んだ。愛国心や国旗国歌尊重を教え込むことは、戦前教育への回帰の一歩として、罪の深いことというべきであろう。
※舛添さんは、「自国の国旗や国歌に敬意を払うというのは当たり前」という思い入れが強すぎるのでないか。オリンピックでは盛大に日の丸をはためかせ、君が代を歌ってほしい、とでも思っているのだろう。愛国と排外とは紙一重である。挙国一致とか、一億一心とかが叫ばれるときには碌なことがない。国民の多数が「当たり前」と思い込んでいるのだから、子供にもそのとおり教えろ。これは、多数派主義・国家至上主義ではあっても民主主義ではない。もちろん憲法の基底にある個人尊重主義でも自由主義でも、人権尊重主義でもない。あまりに安易に、教育の場における、強制が可能と考えてはいないか。
※「今回の判決に対してどういう対応をとるかというのは、教育委員会がよく精査して対応を決めたい」というのも一理あるようでやっぱりおかしい。法の支配が貫徹しているはずの日本である。下級審とはいえ、東京地裁の合議体裁判所が、東京都の行政行為を違法とし人権侵害行為があったと認定したのである。由々しき事態との認識があまりにも希薄ではないか。もっと、恐縮の体があってしかるべきではないか。石原知事の時代の教育行政の失態であることは誰もが知っていること。舛添さん個人には責任がないのだから、ここは控訴断念して、新教育長とともに都立校の教育現場の正常化にイニシャチブを発揮すべき好機としていただきたい。
石原慎太郎都知事が就任して、都教委が「10・23通達」を発出するまで4年半かかっている。この間に、教育委員・教育長人事を「お友達」で固めたのだ。しかし、当時の教育委員は、内館牧子を最後にもう一人も残っていない。10・23通達体制を元に戻すのにはさほどの時間の必要はない。舛添要一さん、地裁判決への控訴の可否はあなたの決断次第だ。あなたへの期待は大きい。
(2015年5月27日)
昨日(5月25日)の東京地裁「再雇用拒否第2次訴訟」判決。法廷から出てきた仲間の弁護士から第一報のメールがはいった。肉声のように、生々しい。
「全面勝訴! 裁量権逸脱で、その余の点は判断するまでもなく(憲法判断もなし)。 1年分の収入を損害賠償として認めた。
『正義は勝つ・・・とはかぎらない。でも、たまに勝つことがある』
いやあ、ほんとうに、希望がもてるような気がしてきました。がんばりましょう。」
率直な心情の吐露である。実は、事案の内容をほぼ同じくする「第1次訴訟」では、一審において同様の「勝訴判決」(2008年2月)を得たものの、高裁で逆転敗訴(2010年1月)となり、上告棄却(2012年6月)で確定している。「第1次訴訟」のほかにも、前例となる類似事案3件で最終的には教員側の敗訴が確定している。
昨日の判決は、そのような数件の判決があることを双方十分に意識した上での攻防を経て言い渡された原告勝訴なのだ。だからこそ、「必ずしも常に勝つとは限らない正義実現への、今回こそはの希望」という実感が湧いてくる。
この事件は、私は直接には関与していない。弁護団長は川越の田中重仁さん。彼を支えて埼玉の弁護士が中心になって担ってくれた。東京弁護団の重荷を分担していただいたのだ。提訴が2009年9月だから、6年近いご苦労。その成果に敬意を表したい。
各紙の報道を眺めてみる。見出しに微妙な差がある。
君が代訴訟、東京都に賠償命令 不起立で再雇用拒否は違法 共同
再雇用拒否、都に賠償命令=君が代不起立、元教諭ら勝訴 時事
君が代不起立で再雇用拒否は違法、都に賠償命令 地裁 朝日
君が代不起立訴訟:再雇用拒否の都に5300万円賠償命令 毎日
国歌斉唱で不起立、再雇用せず…都に賠償命令 読売
君が代訴訟、東京都に賠償命令 不起立で再雇用拒否は違法 東京(共同配信)
君が代訴訟で都に賠償命令 「再雇用拒否は違法」 日経
国歌不起立で教員再雇用せず 都に賠償命令 東京地裁判決 産経
ネットで配信されている「弁護士ドットコム」の報道がやや詳しく分かり易い。
「君が代を歌わないだけで『再雇用拒否』は違法ー東京地裁が東京都に『賠償命令』判決」
東京地裁(吉田徹裁判長)は5月25日、卒業式・入学式で「国旗に向かって起立し、国歌を斉唱しなかったこと」だけを理由にして、東京都立高校を定年退職した教職員を「再雇用」しなかったことが「違法だ」とする判決を下した。2007年?09年にかけて再雇用されなかった元都立高校教職員の原告たち22人に賠償金(211万円〜260万円)と利息を支払うよう、東京都に命じた。賠償金は、もし再雇用されていたら支払われていたはずの1年分の給与にあたる額。
判決は、教職員の90%?95%が採用される再雇用制度の実態などから、教職員には再雇用されることを期待する権利(期待権)があり、その期待権は「法的保護に値する」とした。そして、都教委が「不起立」のみをもって原告たちを再雇用をしなかったことは、原告たちの期待権を「大きく侵害」し、違法だと判断した。
注目すべきは、毎日の判決理由の要約。
「判決は、都教委が再雇用を拒否した理由は『不起立』だけだと指摘。『起立斉唱命令は原告らの思想の自由を間接的に制約している。命令違反は再雇用拒否の根拠としては不十分』と述べた。その上で22人全員に、1年分の報酬211万〜259万円の支払いを命じた。
末尾に裁判所が配布した「判決骨子」を貼り付けておく。これをお読みいただけば論旨明快な判決理由がよくわかる。
判決が都教委の裁量権逸脱濫用を認定した決め手は、「再雇用制度の意義・趣旨」と「再雇用制度運用の実態」である。自らの思想・信条と教員としての良心に忠実であろうとしたために、国旗国歌の強制に従えないとした者に、懲戒処分を超えた過当な不利益を科することを違法と認めたのである。
周知のとおり、石原慎太郎・横山洋吉・米長邦雄・鳥海厳・内舘牧子などの面々が悪名高き「10・23通達」を発して、東京都の教育現場に踏み絵を再現させた。彼らは、「日の丸・君が代」強制の職務命令違反が重なるごとに処分の量定を加重する手法を編み出し、過酷にこれを実践した。明らかに、「日の丸・君が代」受容の思想への転向強要システムというほかはない。
しかも、「日の丸・君が代」不起立への制裁は懲戒処分だけでは終わらない。一度着けられたマイナス評価は職業生活の最後まで、いや定年後まで生涯にわたってついて回る。その陰湿なイヤガラセの中で、最たるものが定年後の再雇用(再採用・嘱託採用)拒否なのだ。元々再雇用制度は、定年制導入の際に年金受領年齢までの間隙を埋める制度としてできたもので、全員採用が制度の趣旨であり運用実態でもあった。ところが、他の理由の被懲戒経験者は採用されても、「日の丸・君が代」関連の被処分者だけは頑なに差別されて採用を拒否されているのだ。
それにしても、都教委の手口はひどい。ようやくにして、関連訴訟での都教委の敗訴が続いている。日本の司法の行政への甘さはよく知られているところ。法律用語でいえば、「行政裁量」の範囲は広すぎるほど広いのだ。だから、よほど目に余ることでもない限り、行政裁量が違法とされることはない。最近の諸判決は、司法が都教委のやり方を「到底看過できない」としているということだ。
都教委は本件の判決について、「大変遺憾。内容を精査して、今後の対応を検討する」と、中井敬三教育長のコメントを発表している。何が「遺憾」なのだろうか。指摘された自分の違法行為を反省して遺憾と言っているのではなさそうだ。東京地裁の裁判官を怪しからんと言っているように聞こえる。傲慢としか評しようがない。
都教委に猛省を促すと同時に、特に中井敬三教育長に一言申しあげておきたい。
あなたはこれまでの都教委の違法の積み重ねに責任がない。すべて、あなたの前任者がしでかした不始末で、「これまでの都教委のやり方がよくなかった」と言える立場にある。あなたの手は今はきれいだ。まだ汚れていないその手で、不正常な東京の事態を抜本解決するチャンスだ。
この度の判決への対応を間違えると、あなた自身の責任が積み重なってくる。あなた自身の手が汚れてくれば、抜本解決が難しくなってくる。一連の最高裁判決に付された補足意見の数々をよくお読みいただきたい。この不正常な事態を解決すべき鍵は、権力を握る都教委の側にあることがよくお分かりいただけるだろう。
「トンデモ知事」の意向で選任された「トンデモ教育委員」による「10・23通達」が問題の発端となった。今や、知事が替わった。当時の教育委員もすべて交替している。教育畑の外から選任された中井敬三さん、あなたなら抜本解決ができる。今がそのチャンスではないか。大いに期待したい。
(2015年5月26日)
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平成27年5月25日午後1時30分判決言渡1 0 3号法廷
平成21年(ワ)第34395号損害賠償請求事件
東京地裁民事第36部 吉田徹裁判長 松田敦子 吉川健治
判 決 骨 子
1 当事者
原告 ○○ほか21名 被告 東京都
2 事案の概要
本件は、東京都立高等学校の教職員であった原告らが、東京都教育委員会(以下「都教委」という。)が平成18年度、平成19年度及び平成20年度に実施した東京都公立学校再雇用職員採用選考又は非常勤職員採用選考等において、卒業式又は入学式の式典会場で国旗に向かって起立して国歌を斉唱することを命ずる旨の職務命令(以下「本件職務命令」という。)に違反したことを理由として、原告らを不合格とし、又は合格を取り消した(以下、これらの選考結果等を「本件不合格等」という。)のは、違憲、違法な措置であるなどとして、都教委の設置者である被告に対し、国家賠償法1条1項に基づき損害賠償金の支払を求めた事案である。
3 主文(略)
4 理由の骨子
(1)再雇用制度等の意義やその運用実態等からすると、再雇用職員等の採用候補者選考に申込みをした原告らが、再雇用職員等として採用されることを期待するのは合理性があるというべきであって、当該期待は一定の法的保護に値すると認めるのが相当であり、採用候補者選考の合否等の判断に当たっての都教委の裁量権は広範なものではあっても一定の制限を受け、不合格等の判断が客観的合理性や社会的相当性を著しく欠く場合には、裁量権の範囲の逸脱又はその濫用として違法と評価され、原告らが有する期特権を侵害するものとしてその損害を賠償すべき責任を生じさせる。
(2)原告らに対する不合格等は、他の具体的な事情を考慮することなく、本件職務命令に違反したとの事実のみをもって重大な非違行為に当たり勤務成績が良好であるとの要件を欠くとの判断により行われたものであるが、このような判断は、本件職務命令に違反する行為の非違性を不当に重く扱う一方で、原告らの従前の勤務成績を判定する際に考慮されるべき多種多様な要素、原告らが教職員として長年培った知識や技能、経験、学校教育に対する意欲等を全く考慮しないものであるから、定年退職者の生活保障並びに教職を長く経験してきた者の知識及び経験等の活用という再雇用制度、非常勤教員制度等の趣旨にも反し、また、平成15年10月に教育長から国旗掲揚・国歌斉唱に関する通達が発出される以前の再雇用制度等の運用実態とも大きく異なるものであり、法的保護の対象となる原告らの合理的な期待を、大きく侵害するものと評価するのが相当である。
したがって、本件不合格等に係る都教委の判断は、客観的合理性及び社会的相当性を欠くものであり、裁量権の範囲の逸脱又はその濫用に当たる。
よって、都教委は、その裁量権の範囲を逸脱し、又はこれを濫用して、再雇用職員等として採用されることに対する原告らの合理的な期待を違法に侵害したと認めるのが相当であるから、他の争点について検討するまでもなく、都教委の設置者である被告は、国家賠償法に基づき、期特権を侵害したことによる損害を賠償すべき法的責任がある。
(3)再雇用職員等の運用実態、雇用期間等を考慮すると、原告らが再雇用職員等に採用されて1年間稼働した場合に得られる報酬額の範囲内に限り、都教委の裁量権の範囲の逸脱又はその濫用による原告らの期待権侵害と相当因果関係にある損害と認めるのが相当である。
東京都(教育委員会)を被告とする、一連の「日の丸・君が代」強制拒否訴訟は、一定の歯止めとなる判決を得ながらも所期の成果をあげるまでには至っていない。最高裁での違憲判決を求めて、法廷闘争はまだまだ先が長い。
弁護団は知恵を絞って、新しい主張を開拓して裁判所を説得したいものと努力をしているが、一方、これまで積み上げてきた基本となる教育の本質論や、憲法を頂点とする教育法体系の理念や、その立法事実の主張にも手を抜いてはならないと思う。天皇制教育を清算して戦後に確立した現行教育法体系は、「戦後レジーム」(戦後民主主義体制)の象徴というべき存在として、訴訟を離れても、今その確認と評価とは、ことのほか重要なテーマとなっている。
具体的には、教育の本質とは何か。教育条理は法にどう反映しているか、法の解釈にどう活かされるべきか。また、戦前のレジームを象徴する天皇制教育とはいかなる考え方で、いかなる実態をもち、国の命運にいかなる結果をもたらしたのか。戦後教育改革とは、戦前教育のどこをどう反省し、どのように根本転換して、戦後教育法システムを作り上げたのか。さらにそのことが、新憲法の理念とどう関わっているのか。
本日(5月22日)が、東京「君が代」裁判第4次(処分取消)訴訟の第5回口頭弁論期日である。ここで陳述される原告準備書面(4)が、以上の問題意識に触れる主張を盛り込んだものとなっている。この訴訟を担当している限り、歴史修正主義に毒されることはありえない。
準備書面は目次だけで6ページに及ぶ大部なものだが、そのごく一部を紹介しておきたい。以下、教育基本法制定の経過と基本理念、そして完成した教育基本法の普遍性、真理性についての要約である。
※戦前教育への反省と戦後教育改革の基本理念
教育基本法は、戦後教育改革の結実点である。その立案にあたったのが、「教育刷新委員会(南原繁委員長)」であった。同委員会は内閣に直接建議を行う機関として位置づけられ、重要な役割を果たした。その委員会審議の冒頭に、吉田茂首相の代理として、幣原喜重郎国務大臣(前首相)が次のように挨拶している。
「今回の敗戦を招いた原因は、煎じつめますならば、要するに教育の誤りに因るものと申さなければなりませぬ。従来の形式的な教育、帝国主義、極端な愛国主義の形式というものは、将来の日本を負担する若い人、これを養成する所以ではありませぬ・・・・我々は、過去の誤った理念を一擲し、真理と人格と平和とを尊重すべき教育を、教育本来の面目を、発揮しなければならぬと考えます。」
ここには、戦前の教育に対する深い反省が表れている。戦前教育の誤りをもって戦争の原因と認め、天皇制教育を一擲して「真理と人格と平和とを尊重すべき教育」を教育本来の面目としている。この短い言葉に、戦後教育改革の理念が凝縮されている。
※憲法改正論議における「教育根本法」構想
憲法改正審議の中で、憲法中に教育関係の一章を設けて、教育の自主性・教育の自由・教育の独立性など、新しい民主主義教育の理念を明らかにすべきことが、大島多蔵(新光倶楽部)らの議員から提案された。
これに対し、田中耕太郎文相(後の最高裁長官)は、「教育根本法というべきものの構想をねっている」ことを明らかにし、さらに次のように発言している。
「教育権の独立と云うようなこと、詰り教育が或は行政なり、詰り官僚的の干渉なり或は政党政府の干渉と云うものから独立しなければならないと云う精神は、これは法令の何処かに現したいと云うことは、当局と致しまして念願して居る所でありまして、これは計画致して居りまする教育根本法に、若し法律的のテクニックとして許しますならば、考慮してみたい」
と述べ、教育にかかる憲法的条項を、新たに制定する「教育根本法」にゆずる方針を明らかにした。
※教育刷新委員会における教育基本法構想
1946年9月20日、教育刷新委員会の第3回総会にて、田中耕太郎文相は、教育基本法の全体構想を掲げ、同委員会の審議を求めた。
この中で、田中文相は、
「文部省なり地方の行政官庁なりが終戦まで執って居った態度は我々の考から言ってはなはだ遠いものでありまして、文部省にしろ、あるいは地方の行政官庁にしろ、教育界に対して外部から加えられるべき障碍を排除するという点に意味があるのであります」
と、教育の独立を主張し、さらに、
「要するに学校行政はどういう風にしてやって行かなければならないものであるかということ、あるいは学問の自由、教育の自主性を強調しなければならないということ、・・・・・・そういう建前をもって教育の目的遂行に必要な色々の条件の整備確立をやって行かなければならぬ」
と、47年教育基本法10条の「条件整備」の考え方、すなわち、教育行政の主眼は教育に関する施設・設備・予算等の確保に置かれるべきであり、教育内容についての官僚的な統制は排除され、学問の自由・教育の自主性が尊重されなければならないといった考え方を既に明らかにしていた。
※高橋誠一郎文相の教育基本法案上程理由説明
「民主的で平和的な国家再建の基礎を確立いたしまするがために、さきに憲法の画期的な改正が行われたのでありまして、これによりまして、ひとまず民主主義、平和主義の政治的、法律的な基礎が作られたのであります。しかしながらこの基礎の上に立って、真に民主的で文化的な国家の建設を完成いたしまするとともに、世界の平和に寄与いたしますこと、すなわち立派な内容を充実させますることは、国民の今後の不断の努力にまたねばなりません。そしてこのことは、一にかかって教育の力にあると申しましても、あえて過言ではないと考えるのであります。かくの如き目的の達成のためには、この際教育の根本的刷新を断行いたしまするとともにその普及徹底を期することが何より肝要であります。
…さらに新憲法に定められておりまする諸条文の精神を一層敷衍具体化いたしまして、教育上の諸原則を明示いたす必要を認めたのであります。」
「この法案は、教育の理念を宣言する意味で、教育宣言であるとも見られましょうし、また今後制定せらるべき各種の教育上の諸法令の準則を規定するという意味におきまして、実質的には、教育に関する根本法たる性格をもつものであると申し上げ得るかと存じます。従って本法案には、普通の法律には異例でありますところの前文を附した次第であります。」
教育基本法は、教育勅語に代わる教育理念を示すいわば教育宣言であると同時に、その他の教育法を導く、「教育法の中の根本法即ち、教育憲法」(田中二郎)だといってよい。前文の文言が、そして文相の提案理由が示しているように、教育基本法は、なによりも教育が日本国憲法の精神に則り、その理想の実現を担うものであるべきこと、そのために教育の目的をさらに具体的に明示して、新しい日本の教育の基本を定め、教育実践と教育行政のあり方を方向づけるためのものであった。
※教育行政の理念
以上のような教育の目的を実現するためには、教育行政は、時の政治的権力から自律し、教育独自の価値と論理を尊重する教育行政の仕組みがつくられることがとりわけ重要であった。その理念は「教権の独立」として表現された。
文部省(田中二郎・辻田力)の『教育基本法の解説』(1947年)も、戦前の中央集権的教育行政制度をつぎのようにとらえていた。同解説は、
「(戦前の)精神及び制度は、教育行政が教育内容の面にまで立ち入った干渉をなすことを可能にし、遂には時代の政治力に服して、極端な国家主義的又は軍事的イデオロギーによる教育・思想・学問の統制さえ容易に行われるに至らしめた制度であった。更に、地方教育行政は、一般内務行政の一部として、教育に関して十分な経験と理解のない内務系統の官吏によって指導せられてきた」
「このような教育行政が行われるところに、はつらつたる生命をもつ、自由自主的な教育が生れることは極めて困難であった」
と述べて、教育基本法10条を根幹とする教育行政の新たな転換の意味が、教育の自主性・自律性の尊重にあることを強調した。戦後教育行政の理念は、戦前の中央集権的官僚統制主義の反省に立って、教育行政の任務を条件整備に限定し、教育内容への介入をさけて、政治に対する教育の自律性を確保し、さらに地方の実情に応じた個性的教育を創り出すことを援助することにおかれたのである。
※教育基本法理念の普遍性
新憲法と教育基本法は、教育のあり方についての戦前的思惟への反省に立って、教育を国民の義務ではなく権利として規定するとともに、平和と民主主義を根本に据え、真理と正義を希求する人間の育成を新しい教育の目標とし、人間の尊厳に基づく個性の発現をめざすものとなった。
また、国家と教育の関係も大きく変わり、教育においても学問の自由が尊重され、真理と真実こそが教えられねばならないこと、そして、このような教育の目的を実現させるためには、教育は「不当な支配」に服することなく、「国民に対して直接に責任を負う」べきものとしてとらえられ、教育の自主性と自律性が尊重されて、教師は不断の研修を通して子どもの学習権の充足につとめ、国民の信頼に応えるために努力すること、そして、教育行政は、教育の目的が達せられるための条件を整備することにその任務を限定すべきことが定められた。
こうして、戦後教育改革は、教育勅語を中軸とする教育のあり方(帝国憲法・教育勅語体制)から、憲法・教育基本法を中心とする教育のあり方(憲法・教育基本法体制)へと大きく転換した。
教育の依拠すべき根本のものが教育勅語から教育基本法に代わったということは、教育目的が天皇制イデオロギーの注入による国民形成から、真理と正義を希求する人間の育成へと変わったということにとどまらず、それまで勅語が占めていた次元そのものを否定して、いわば教育の全構造をかえるということを意味した。
教育刷新委員会の委員長として教育基本法制定作業の中心に位置していた南原繁は、成立した教育基本法についてこう語っている。
「新しく定められた教育理念に、いささかの誤りもない。今後、いかなる反動の嵐の時代が訪れようとも、何人も教育基本法の精神を根本的に書き換えることはできないであろう。なぜならば、それは真理であり、これを否定するのは歴史の流れをせき止めようとするに等しい」
この南原の言のとおり、憲法26条(教育を受ける権利)、同13条(それを支える生徒の人間としての尊厳)、そして23条(学問の自由→生徒の権利を十全に発揮させるための教員の独立)という、高次の規範に揺るぎがない以上、2006年教育基本法改正を経てなお、教育基本法の基本理念に変更はないと見るべきである。
(2015年5月22日)
東京「君が代」裁判弁護団の澤藤です。本日、服務事故再発防止研修受講の業務命令を受け、不本意ながらもこれから研修を受けるためこのセンターに入構する教員を代理して、センターの総務課長と職員の皆様に抗議と要請を申しあげます。
まず、総務課長を通じて、都教委に対して厳重に抗議します。本日の研修は、まったく必要のないものです。いや、本日予定されている研修はけっしてあってはならないものと強く指摘せざるを得ません。あなた方は、違憲違法なことを強行しようとしているのです。
本来、この教員は今日これから、授業を担当しているはずなのです。その教員を教室から引き剥がし、子どもたちの教育を受ける権利を侵害しているのが、あなた方のしていることです。あなた方の違法な行為の被害者は、誰よりも子どもたちなのです。
さらに、言うまでもなく教員自身が被害者です。「日の丸・君が代」斉唱時に起立をしなかったというだけのことで、教員は減給10分の1を1か月という懲戒処分を受けました。それに加えての本日の研修です。本日は9時から12時半まで210分にわたって行われます。しかも、本日だけでは終わりません。もう一日同じ時間の研修が待っています。さらに、その後は校内研修も繰り返されます。あたかも、「懲戒処分だけでは不十分。もっと厳しい制裁が必要だ」「日の丸・君が代あるいは国旗国歌に敬意を表するよう思想を改造せよ」と言わんばかりの理不尽ではありませんか。
本日研修受講を命じられている教員は、教育の本質と教員としての職責を真摯に考え抜いた結果、自己の良心と信念に従った行動を選択したのです。このように良心と信念に基づく行動に対して、いったいどのように「反省」をせよと言うのでしょうか。信念にもとづく行為に対して「再発防止」を迫るということは、思想や良心を捨てよと強制することにほかなりません。日の丸・君が代への強制に服しない者への公権力による処分自体が思想・良心を侵害する公権力の発動として許されることではありませんが、これに加えて再発防止研修に名を借りた転向強要はあってはならない違法行為といわざるを得ません。
研修が必要なのは、日の丸・君が代の強制に屈しなかった教員ではありません。むしろ、あなた方、東京都教育委員の諸君と教育庁の幹部職員にこそ、研修が必要と言わざるを得ません。あなた方こそ、教育の本質を学ばなければならない。憲法や教育基本法についての研修を受けなければならない。戦前の教育のどこがどう間違い、どのように反省して今日の教育の法体系やシステムができているのか。憲法や教育基本法は、教育や教員についてどのように定めているのか。しっかりと十分な理解ができるまで研修を繰り返して、違憲・違法な教育行政の再発防止に努めていただきたい。
そうすれば、10・23通達自体の違憲・違法・不当性に思い至るはず。石原知事の意向を受け、知事のお友だちを集めた教育委員たちが、10・23通達を出したのは、2003年のことでした。あれから12年経って、知事は代わりました。当時の教育委員は全員居なくなりました。都議会の構成もあらたまっています。この体制を推し進めた教育長も交替して、10・23通達体制の泥にまみれていない外部からの新教育長の着任と聞いています。明らかに都庁の空気は変化しているはず。教育行政も変化して当然なのです。
現知事は、ことのほかオリンピックに熱心ですが、世界の人々が集まるここ東京が、思想や信仰を弾圧するということでよいのか。10・23通達体制は、不自然で無理があり、いつまでもは維持できるはずがないのです。どこかで、問題を解決しなければなりません。
一連の最高裁の判決からも、最高裁の裁判官たちが、東京都の教育が不正常で、なんとか改善しなければならないと嘆いていることを読み取れます。しかも、その改善は権力側のイニシャチブで行わねばならないことも記されています。
ようやく、10・23通達について抜本的な解決ができる萌しが見えているこの時期、再発防止研修の名で新たなトラブルを起こす愚は避けていただきたい。
そのような観点から、本日の研修を担当する研修センターの職員の皆様に要請を申しあげたい。
日の丸・君が代強制と、強制に屈しない個人への制裁として本日これから強行されようとしている服務事故再発防止研修とは、キリシタン弾圧や特高警察の思想弾圧と同じ質の問題を持つ行為です。おそらく皆様には、内心忸怩たる思いがあることでしょう。キリシタン弾圧や特高警察になぞらえられるようなことを進んでやりたいとは思っているはずはないとおもいます。だが、仕事だから仕方がない。上司の命令だから仕方がない。組織の中にいる以上は仕方がない。「仕方がない」ものと割り切り、あるいはあきらめているのだろうと思います。
しかし、お考えいただきたい。本日の研修受講命令を受けている教員は、「仕方がない」とは割り切らなかった。あきらめもしなかった。教員としての良心や、生徒に対する責任を真剣に考えたときに、安穏に職務命令に従うという選択ができなかった。
懲戒処分が待ち受け、人事評価にマイナス点がつき、昇給延伸も確実で、賞与も減額され、服務事故再発防止研修の嫌がらせが待ち受け、あるいは、任地の希望がかなえられないことも、定年後の再任用が拒絶されるだろうことも、すべてを承知しながら、それでも日の丸・君が代への敬意表明の強制に屈することをしなかった。彼は多大な不利益を覚悟して、自分の良心に忠実な行動を選択したのです。
本日の研修命令受講者は、形式的には、非行を犯して懲戒処分を受けた地方公務員とされています。しかし、実は自分の思想と教員としての良心を大切なものとして守り抜いた尊敬すべき人、立派な教員ではありませんか。そのことを肝に銘じていただきたい。
あなたがた研修センター職員の良心に期待したい。その尊敬すべき研修受講者に対して、心して研修受講者の人格を尊重し、敬意をもって接していただくよう要請いたします。
(2015年5月13日)
「俳人・9条の会 新緑の集い」にお招きを受けて、報告した。テーマは、9条ではなく「『思想の自由』と『表現の自由』の今ー権力と社会的圧力に抗して」というもの。準備の過程で、なるほどこのテーマであれば私こそ語るにふさわしい、と考えるようになった。
「日の丸・君が代」強制と靖国問題とで思想・良心・信仰の自由の問題に触れ、DHCスラップ訴訟で表現の自由を語った。いずれも、私自身が関わる問題である。聞いてもらわずにはおられない。
精神生活の基礎を形づくるものとして、思想は自由である。人が人であるために、自分が自分であるために、憲法によって保障される以前から、思想は本来的に自由なのだ。
思想のほとばしりである言論も本来的に自由でなくてはならない。表現の自由を侵害するものは、公権力と社会的圧力である。公権力は法的強制をもって言論を封じ、社会多数派はその同調圧力で個人の言論を封じる。
フォーマルには、社会的多数者の意思が権力の意思となり、国や自治体が言論を規制する。インフォーマルには、社会的多数派の圧力が、個人の言論を萎縮させ、非権力的に言論を抑制する。
個人の言論が、多数者の意思によって圧迫を受けてはならない。表現の自由とは、本来的に少数者の権利であって、多くの人にとって不愉快で耳障りな表現こそが権利として保障されなければならない。民主々義社会では、多数派が権力を構成するのだから、社会的な圧力は容易に公権力による規制に転化する。だからこそ、権力が憎む表現、多数が眉をしかめる表現の自由が権利として守られねばならない。
社会的な言論抑圧のレベルでは、
多数派の意思→圧力→少数派の萎縮→多数派の増長→圧力の強化→さらなる萎縮
という負のスパイラルを警戒しなければならない。言論の萎縮は、さらなる圧力をもたらし、さらなる後退を余儀なくさせる。
社会的多数派の耳に心地よくない言論とは、政権に対する批判、与党勢力に対する批判、天皇や皇族の言動に対する批判、「日の丸・君が代」強制への批判、ナショナリズムへの批判、最高裁の判決に対する批判、ノーベル賞の権威などに対する批判等々の言論である。このような権力や権威に対する批判の言論の自由が保障されなければならない。
そして、ダブルスタンダードなく、反体制内権力や革新内部の多数派にも批判が必要だ。たとえば、選挙をカネで歪める動きについて、保守派だけを批判するのは片手落ち、革新陣営の選挙違反にも遠慮のない批判の言論が保障されなければならない。それなくしては緊張感を欠くこととなり、革新陣営の腐敗が免れないことになる。いかなる組織にも、運動にも、下から上への批判が不可欠なのだ。
このようなときであればこそ、表現者は萎縮してはならない。自主規制して言論を躊躇してはならない。社会的圧力に抗して、遠慮することなく、いうべきことをはっきりと言わねばならない。でないと、今日の言論の保障は、明日には期待できなくなるかも知れないのだから。
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懇親会にまでご招待いただきありがとうございます。本席では、天皇の発言が話題となっていますので、この点についてもう少しお話しさせてください。
私は、本来人間は平等だという常識的な考えもっていますから、天皇という貴種が存在するなどとは思いもよりません。天皇を特別な存在とし、血筋故に貴いとか、文化的伝統を受け継いだ尊敬すべき人格だとかという虚構を一切認めません。
「象徴天皇は憲法的存在だから認めてもよいのではないか」という議論は当然になり立ちます。制度としては天皇の存在を認めざるを得ません。しかし、天皇が象徴であることから、天皇をこのように処遇すべきだという、法的な効果は何もないのです。「象徴」とは、権限や権能を持たないことを意味するだけの用語に過ぎません。天皇の存在を可能な限り希薄なものとして扱うこと、最終的にはフェイドアウトに至らしめること、それが国民主権原理の憲法に最も整合的な正しい理解だと私は思っています。
「象徴天皇は、存在しても特に害はないのではないか」というご意見もあろうかと思います。しかし、私は違う意見です。今なお、象徴天皇は危険な存在だと思うのです。その危険は、国民の天皇への親近感があればあるほど、増せば増すほどなのです。国民に慕われる天皇であればこそ、為政者にとって利用価値は高まろうというものです。
先ほど、高屋窓秋という俳人のご紹介の中で、嫌いなものは「奴隷制」というお話しがありました。奴隷制とは、人を肉体的に隷属させるだけでなく、精神的な独立を奪い、その人の人格的主体性まで抹殺してしまいます。
奴隷根性という嫌な言葉があります。奴隷が、奴隷主に精神的に服従してしまった状態を指します。客観的には人権を蹂躙され過酷な収奪をされているにかかわらず、ほんの少しのご主人の思いやりや温情に感動するのです。「なんとご慈悲深いご主人様」というわけです。奴隷同士が、お互いに、「自分のご主人様の方が立派」と張り合ったりもすることになります。
旧憲法下の、天皇と臣民は、よく似た関係にありました。天皇は、臣民を忠良なる赤子として憐れみ、臣民は慈悲深い天皇をいただく幸せを教え込まれたのです。これを「臣民根性」と言いましょう。明治維新以来、70年余にわたって刷り込まれた臣民根性は、主権者となったはずの日本国民からまだ抜けきっていないと判断せざるを得ません。
天皇制とは、日本国民を個人として自立させない枷として作用してきました。臣民根性の完全な払拭なくして、日本国民は主権者意識を獲得できない。天皇制の呪縛を断ち切ってはじめて、個人の主体性を回復できる、私はそう考えています。
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本日の私の報告の中で、「権力を信頼することは権力を腐敗させること、権力には猜疑の目をもっての批判が不可欠だ。それあってこそ、健全な権力を維持することができる」「この理は、たとえ民主勢力が政権を取っても、あるいはいかなる民主的な政府が成立したとしても変わらない」というくだりがあった。
これに対して、「本当に民主的な政府にも、批判が必要なのか」という質問があって、時間切れとなった。一応、追加して触れておきたい。
完全に「民主的な政府」となどというものはありえない。より民主的な政府を目ざさなければならない。また、いかなる権力も、権力が成立した瞬間から腐敗の進行を始める。従って、ある政府を、より民主的にするためにも、腐敗を防止するためにも、民衆の忌憚のない批判が絶対に必要なのだ。選挙は大きな国民の政府への批判の機会であるが、これだけに限られない。日常的な批判の言論が実質的に保障されなければならない。
国民の批判を実質的に保障するとは、権力運用の透明性が確保されていなければならず、権力が批判に寛容でこれを受容し生かす制度を完備していなければならない。
そこまでしても権力が腐敗を免れれることができるか、おそらくは無理だろう。そのときには、政権交代の受け皿が用意されていなければならない。こうしたサイクルで、民主主義は命永らえていくのではないだろうか。
(2015年4月26日)