(2020年11月20日)
さすがはIOC会長、バッハは偉大である。プライベートジェットで日本にコロナの第3波を運んできた。これは、常人のできることではない。そう言いたくなるほどのタイミングでのコロナの拡大。あらためて、オリンピックどころではないコロナの蔓延状況を意識することになった。オリンピック準備の無駄なカネや人手があれば、コロナ対策にまわすべきではないか。世界の感染状況を見渡しても、来夏の東京オリンピックは、無理だろう。早めに断念するしかない。
バッハが、コロナ蔓延の危険を押して東京五輪開催にこだわっているのは、ひとえに経済的理由である。東京オリンピックとは経済利権のイベントであり、巨大な儲けのタネなのだ。もちろん、財界はコロナ蔓延抑制よりは、経済優先である。
バッハは、菅や小池の尻を叩いて、東京オリンピックをやらせようと躍起である。これは、経済の立場から、国家を利用しようという魂胆の表れ。経済の立場とは、財界の立場ということ。
しかし、コロナに怯える生活者の立場は、経済活動よりはまずは、生命と生活の安全・安心を求める。これが、国民の立場。その権利性を明確にすれば、人権の立場にほかならない。人権は、国家に安全を求め、さらには国家に生活の補償を求めることになる。
権力(国家)は、経済(財界)と人権(国民)との間で、揺れ動く。国民に自粛を呼びかけながらも、「go to 何とか」を断乎やろうというのだ。
コロナ蔓延の初期、今年(2020年)3月にインフル特措法が改正されてコロナが同法に取り込まれたときのこと。安倍政権は権力を振るいたいに違いない、そう身構えた。コロナを口実に、国民にも財界にも、権力のなし得ることを誇示するだろうと。しかし、その後の事態は必ずしもそうではない。むしろ、政権は強権を誇るよりは、強権発動に臆病であるように見える。これをどう評価すべきだろうか。
A 権力(国家)と、B 経済(財界)と、C 人権(国民)との三角形ABCは、互いに緊張関係をもって対峙しつつも、依存関係にもある。今のところ、この三角形は正常を保っていると言えるのではないか。
この三角形がいびつに崩れると、肥大したAが、Cを圧迫する。そのとき、BはAの側について、(A+B)がCを圧迫し収奪することになろう。望ましくは、(B+C)が正常な関係を保ちつつ、常にAを警戒し牽制する三角形を維持することである。
こしゃくな
小池が
コロナで
小細工
こじつけの
言葉遊びを
こね回し
(2020年8月3日)
本日の各紙朝刊に、週刊ポスト(8月14・21日合併特大号)の大広告。イヤでも目に飛び込んでくる冒頭タイトルが、白抜きの「今こそ落選運動2020を始めよう」である。落選させようという対象に驚く。なんと、「安倍首相を引きずりおろす『国民の最強手段』がこれだ!」。保守色のイメージが強い小学館の週刊ポストが、安倍首相を引きずり下ろせキャンペーンの大見出しなのだ。
世には、定評というものがある。講談社はリベラルで、小学館は保守というのもその一つ。だから、週刊現代は政権批判に厳しいが、週刊ポストは生温い。いやどうも、この思い込みもあてにならない。あの嫌韓イメージの強い週刊ポストが、かくも果敢に安倍政権攻撃の特集を組もうとは、びっくり仰天というほかはない。そして、仰天のあとには考えさせられる。
週刊ポストの広告は、「落とすべき議員リスト」を挙げる。本文では実名が語られているのだろうが、広告では下記のとおりだ。
・無策でコロナ禍を拡大させた7人
・緊急事態宣言中に私腹を肥やした6人。
・スキャンダルを”なかったこと”にした6人。
・政権交代の邪魔になる野党の7人 ほか
これは、さすがだ。確かに、誰もが、こんな議員は落とすべきだと思うに違いない。読者の共感を獲得しそうではないか。
さらに驚くべきは、「10・25総選挙『289選挙区&比例』完全予測」である。「自民68議席減、野党連合73議席増!」「総理大臣もニッポン政治も変わる!」とのシミュレーションを提示している。
10月25日総選挙の根拠については分からないが、仮に、ここで総選挙となれば、現状286の自民党議席は68減となって、216となる。過半数に必要な233を下回るというのだ。代わって、「野党連合73議席増!」となる。もちろん、アベ晋三は総理の座から追い落とされる。日本の政治は変わらざるを得ない。
もっとも、このシナリオには条件が付いている。野党連合が成立し、各小選挙区に一本化された野党連合候補が擁立されなければならない。これさえできれば、週刊ポストシミュレーションが現実味を帯びてくる。
週刊ポストが、このような特集を組んだことの意味は大きい。30万部超の発行部数をもつ週刊誌の編集者が、世の空気を「反安倍」の風向きと読んだのだ。今や、安倍政権への提灯記事では部数は増えない。「安倍首相を引きずりおろす」という特集記事でこそ、ポストは売れると踏んだのだ。
しかも、もっと具体的に、国民は「コロナ対策での政権の無為無策」に憤っており、「緊急事態宣言中に私腹を肥やした安倍政権に近い議員もいるぞ」「安倍政権下であればこそ、スキャンダルを”なかったこと”にした議員もいる」「政権交代の邪魔になる野党の議員をあぶり出せ」。こんな議員たちを落選させようというアピールが多くの国民を引きつけると判断している。
このポストの特集は話題を呼ぶことになるだろう。その話題が反アベの世の空気を増幅することにもなるだろう。類似の企画を生むことにもなる。安倍指弾の世論は着実に興隆することになるだろう。
この広告を載せた、本日(8月3日)の朝日新聞朝刊が、「内閣支持率30代も低下」という解説記事を掲載している。「安倍内閣の「岩盤支持層」だった30代が、コロナ禍の対応を評価せず、支持離れの兆し」「コロナ対応に不満」という内容。
「今年5月の世論調査では、30代の内閣不支持率は45%で、支持率27%を大きく上回り、全体の支持率を押し下げる要因となった。」というのだ。
また、「本日(8月3日)発表されたJNN(TBS系)の世論調査では、内閣支持率が35.4%、不支持率は62.2%を記録。JNNは2018年10月に調査方法を変更しているとはいえ、第二次安倍政権発足後、支持率最低と不支持率最高を記録したことになる」という。
週刊ポストに先見の明あり、ということのようである。
(2020年8月2日)
梅雨は明けたか、
コロナはまだかいな。
コロナ明けるまで、
気が気でならぬ。
とにもかくにも
国会開いて審議を尽くせ。
一時はおさまっていたかに見えた新型コロナの感染だが、このところ確実に再拡大しつつある。ウイルス感染の拡大は国民一人ひとりの生命・健康と生活、さらには経済活動に関わる。政治は、国民の叡智を結集してコロナに対応しなければならない。そのためにこそ、国家はある。無為無策を決めこんで、傍観していることは許されない。国民の目に見えるところで、知恵を出せ。汗をかけ。
また、主権者から権力を付託された政権がこれを奇貨として暴走することを許してはならない。何をしているのか、国民に全てをさらけ出せ。
そのためには、直ちに国会を開かねばならない。国民の目に見えるように、専門知を結集せよ。確かな根拠に基づく、適切な対応策を策定せよ。その政策の施行の合理性を国民に説明して、協力を求めよ。決して、過剰に国民の人権を制限してはならない。
安倍政権は、自ら臨時国会を招集してしかるべきだが、何を恐れてかやろうとしない。そこで4野党が連合して、「臨時国会召集」要求に至った。一昨日(7月31日)のこと。臨時国会開催要求の理由について、「新型コロナウイルス感染拡大が続くなか、安倍晋三首相が説明責任を果たしておらず、対策の拡充・見直しを図るためには召集が必要」としているという。これは、憲法53条に基づく憲法上の権利の行使である。内閣には、国会召集についての憲法上の義務が生じていることになる。
憲法53条には、こう書いてある。
「内閣は、国会の臨時会の召集を決定することができる。いづれかの議院の総議員の四分の一以上の要求があれば、内閣は、その召集を決定しなければならない。」
要求者となった国会議員の数は131人、衆参各議院の総議員の4分の1以上となっている。とすれば、「内閣は、臨時国会の召集を決定しなければならない」のだ。それ以外の選択の余地はない。
ところが、憲法大嫌いの安倍政権である。軽々に憲法に従いたくはないと、駄々をこねているのだ。実は、これが3度目のこと。
内閣の言う理屈は、こうだ。「憲法53条には、いつまでに内閣が臨時国会の召集を決定しなければならないのか、その期限が明記されていない。だからいつまでに臨時会を招集するかについて内閣は縛られない」という。これを「詭弁」というのはきれいに過ぎる。「屁理屈」というのがふさわしい。
法解釈の常道においては、期限の猶予が付されていない以上は、「直ちにその召集を決定しなければならない」ことになる。手続上どうしても必要な期間を控除してできるだけ早い期間に、ということになる。
要求書の中では、「(政府の)後手後手の対応は事態を収束させるに至らず、感染者は再び急増、深刻な事態を招いている」と指摘しているという。ぐずぐずしているうちに、コロナ禍は爆発的に蔓延して時期を失してしまうことにもなりかねない。遅い国会召集は、召集拒絶に等しい。
大島衆院議長は「国民の負託に応えるために、速やかに要求書を内閣に送付するとともに、与党側にも受け止めを聞く」と応じている。駄々っ子同然のアベ政権だが、是非とも何とかしていただきたい。
ところで、那覇地裁は6月10日、「憲法53条違憲国家賠償請求事件」判決を言い渡し。憲法53条に基づく臨時国会召集は「憲法上明文をもって規定された法的義務」だと判示。召集時期について内閣に認められる「裁量の余地は極めて乏しい」とも指摘している。
当ブログの下記記事も参照されたい。
「憲法53条違憲国家賠償訴訟」那覇地裁判決に見る、安倍内閣の憲法無視の姿勢。
https://article9.jp/wordpress/?p=15092
この判決、朝日新聞の「国会召集『内閣に法的義務』 憲法53条めぐり初判決」という紹介記事以上でも以下でもない。
この訴訟の原告は、衆議院議員の赤嶺政賢・照屋寛徳、参議院議員の伊波洋一・糸数慶子(当時)の4名。国を被告としての国家賠償請求訴訟である。憲法53条後段に基づいて、臨時国会の召集を内閣に要求したのに、安倍内閣は憲法を無視して、この要求に応じなかった。明らかに違憲・違法な内閣の行為による損害(各1万円)について、国家賠償法1条1項に基づいて賠償を求めるという事件である。
判決は、次のとおりに、【争点を整理】した。
争点(1) 内閣による臨時会の召集の決定が憲法53条後段に違反するかの法的判断について,裁判所の司法審査権が及ぶか(本案前の争点)
争点(2) 本件召集要求に基づく内閣の召集決定が,本件召集要求をした個々の国会議員との関係において、国賠法1条1項の適用上,違法と評価されるか。
争点(3) 本件召集が実質的には本件招集要求に基づく臨時会の召集とはいえず,または,本件召集が合理的期間内に行われたものとはいえないとして,憲法53条後段に違反するものといえるか
争点(4) 原告らの損害の有無及びその額
以上の各争点を判決はどう判断したか。
争点(1)の判断においては、被告国の言い分を斥けて、裁判所の司法審査の権限は憲法53条後段違反の有無について及ぶと判断した。被告国は、「そもそもこの件に裁判所の出番はない」「三権分立の在り方から、本件を裁判所が裁くことはできない」と主張したのだが、裁判所の採用するところとはならなかった。
各紙が報道しているとおり、53条後段にもとづく内閣の臨時会招集義務は、「単なる政治的義務にとどまるものではなく、法的義務であると解され、(召集しなければ)違憲と評価される余地はあるといえる」と判決は言う。これは、今後に生かすべき本判決の積極面。
ところが判決は、争点(2)では被告国の言い分を容れた。憲法53条後段は、議員の臨時会召集要求があれば、内閣には招集決定の法的義務が課せられるものではあるが、その義務は召集要求をした個々の国会議員との関係における義務ではない。従って、その義務の不履行が国賠法1条1項の適用上,違法と評価されることにはならない、というのだ。その結果、争点(3)も(4)も、判断の必要がないとされてしまっている。これでよいのだろうか。
結局、この判決は、こう言ったことになる。
内閣の53条後段違反の有無は裁判所の違憲判断の対象とはなる。しかし、仮に内閣の招集遅滞が違憲と判断されたにせよ、それは議員個人の国家賠償の根拠とはならない。だから、憲法違反の有無の判断をするまでもなく、請求を棄却せざるを得ない。それゆえ、「安倍内閣の本件召集が実質的には本件招集要求に基づく臨時会の召集とはいえない」という原告の主張についても、また「本件召集が合理的期間内に行われたものとはいえない」ということも、判断の必要はない。
せっかく、53条後段に違反する内閣の行為(臨時国会招集の不履行)については、司法審査が及ぶとしながら、司法判断を拒否したのだ。理由は、国家賠償の要件としての違法性は認められないから、というものだった。では、いったいどのような訴訟類型を選択すれば、司法判断に到達することになるのか。それが問われることになっているが明確な答はないままである。
権力に憲法を守らせるものは、裁判所ばかりではない。まずは何よりも国民自身である。自分の都合のためであればいつまでも国会を開けておく。都合が悪くなれば国会を閉じ、国民が望んでも、憲法上の招集の義務を課せられても、招集手続をしようとはしない。
こんな、傲慢不遜な「憲法ないがしろ内閣」は、危険極まりない。国民的な批判を集中しなければならない。もう、政権担当能力のない内閣は総辞職せよ。
私も声をあげねばならない。
アベ晋三よ、いいかげんにしろ。
民の声を聞け。
憲法に従へ。
直ちに臨時国会を開会せよ。
さもなくば、早々に退陣せよ。
梅雨は明けたか、
アベ退陣はまだかいな。
アベが辞めるまで、
気が気でならぬ。
とにもかくにも
世論起こしてアベ倒せ。
(2020年7月31日)
「法と民主主義」7月号(№550)の特集は「総点検・安倍政権のコロナ『対策』」である。僭越ながら、私が総論に当たる一文を書いている。だからというわけだけでもないが、だからということもあって、ご購読いただくよう、お願い申しあげます。
以下、特集のリードをご紹介する。
突然に世界を襲った新型コロナウィルス (COVID-19)の蔓延は、それぞれの国と社会に大きな衝撃を与えた。各国とも、否応なく突きつけられたこの現実に全力で対応せざるをえない。同時に、この災厄は、克服しなければならない国家や社会の諸問題を露呈している。それぞれの国や社会の対応能力が試されてもいる。
本誌は、本年5月号に「新型コロナウィルス問題を考える」を特集し、続く6月号の特集を「新型コロナウィルス問題があぶり出したもの」とした。そして、今号は「総点検・安倍政権のコロナ『対策』」である。
唐突に生じた新型コロナ禍がいったいいかなる現象で、社会的にいかなる意味をもち、どのような法的・政治的問題を孕んでいるのか。その関心に応えた特集が、「問題を考える」という表題となった。次いで、感染症蔓延の現実が進行する中で、平常時には必ずしも十分に見えなかったこの社会の諸矛盾がさらけ出された。見えてきたものは、何よりも医療と福祉の脆弱性であり、経済至上主義がもたらした格差・貧困の実態であった。また、コロナ禍による経済活動の自粛は、社会的弱者への苛酷な皺寄せとなった。その実情報告が、「あぶり出したもの」である。
そして、今号の特集は、「総点検・安倍政権のコロナ『対策』」。コロナ禍が生みだした直接の問題点ではなく、安倍政権によってなされた「対策」を検証しようというもの。言うまでもなく、「対策」には括弧を付けねばならない。嘘とごまかしをもっぱらとし、政治と行政を私物化してきた安倍政権である。コロナ禍がこの社会の矛盾点をあぶり出したように、コロナ禍対策が改めてこの政権の体質をあぶり出している。
総点検は、対策の分野別に、[経済][財政][税制][労働][外国人][福祉][ジェンダー][政策手法]などを取りあげる。通底しているものは、一強体制のもと、国民からの信頼を失った政権の末期症状である。この期に及んでなお、相も変わらぬ新自由主義的本質と、オトモダチ偏重の体質である。
破綻寸前の政権による、コロナ対策不手際の実態を明らかにしつつ、憲法の理念から根底的に批判することが本号特集の趣旨である。
問題意識を示す[総論]は、「安倍政権のコロナ対策を素描する」との標題で、編集部の澤藤が執筆した。本来、国はこのような危急の事態に経済的弱者を救済するためにこそ存在する。そのあるべき姿と大きく乖離した安倍政権の在り方を批判するもの。また、この政権の否定的な諸特質がコロナ対策において顕著に露呈し、政権の末期症状を呈していることに言及されている。
[経済]の部門は、浜矩子氏インタビュー。コロナ対策で露わとなったアベノミクスの本質を語り、そもそも経済とは人の幸せのためにあると力説。「Go To トラベル」キャンペーンなどに典型的に見られる景気振興策の実態と問題点。監視社会論やベーシックインカムなどにも触れて切れ味がよい。提唱される「人間の経済学」に耳を傾けたい。
[財政]は熊澤道夫氏に解説願った。コロナ対策の財政出動は、時期に遅れ、生存権保障、事業継続の必要額に届かず、金融では内部留保豊かな大企業ほど有利。そして、一〇兆円の予備費計上が憲法上の財政民主主義を侵しているという。
[税制]は、全ての対策費用の財源に関わる論点。菅隆徳氏の論稿は、「コロナ税」や消費税増税を許さず、財源は大企業、大資産家に応分の負担をもとめ、法人税に所得税並みの超過累進課税を提言している。
[労働問題]は、実務家諸氏には避けて通れない。棗一郎氏の論稿は、コロナショック下の労働者の雇用と労働条件の維持に、安倍政権の政策は適切に対応しているかに焦点を当てて、網羅的に論点が提示されている。新しい事態に生じた労働問題と政権の対応も論じられている。
[福祉]政策は、今がその真価を問われるとき。藤田孝典氏は「コロナ対策とあるべき福祉」では、生存のための権利を保障するための三一の緊急提案が掲載されている。その中には、ジェンダーや外国人政策が詳細である。
[ジェンダー]の問題を明珍美紀氏が指摘している。自粛要請の中でDV被害が深刻化している。にもかかわらず、暴力に対する処罰は生ぬるく、窮地に陥る人々への支援は不十分。それが、「女性活躍を掲げる」この国の実態だという。
[政策手法]は栗原猛氏。まず、安倍政治の通弊を8項目にまとめる。それが、コロナ対策にどう現れているかを論じる。「財政民主主義と説明責任」「『中抜き』『孫抜き』と利権構造」 「経産省、電通、パソナをめぐる ブラックホール」「トップダウン手法と側近政治」と肯かざるをえない。
栗原氏論稿の末尾が、「今一番大事なことは国民一人一人が、不真面目でいい加減な政治に怒りを発することではないか。」と結ばれている。これが、特集の結論でもあろう。
(「法と民主主義」編集委員会)
ホームページは下記のとおり。
https://www.jdla.jp/houmin/index.html
お申し込みは、下記のURLから。
https://www.jdla.jp/houmin/form.html
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「法と民主主義」7月号
特集●総点検・安倍政権のコロナ「対策」
◆特集にあたって … 「法と民主主義」編集委員会
◆安倍政権の新型コロナ対策素描 … 澤藤統一郎
◆インタビュー●コロナ対策で露呈、覆い隠せないタチの悪さ
世のため、人のためを考えないアホノミクス
あらためて「人間の経済学」を … 浜 矩子
◆新型コロナウイルス感染症の財政政策 … 熊澤通夫
◆コロナ禍で問われる税収の空洞化 … 菅 隆徳
◆新型コロナショック下における労働問題に安倍政権の政策は対応できているか
── 労働者の雇用・労働条件は守られているか? … 棗 一郎
◆コロナ禍と外国人労働者を巡る課題と現状 … 板倉由実
◆コロナ対策とあるべき福祉 … 藤田孝典
◆加害者の処罰と支援体制の充実を──国際社会に後れを取る日本 … 明珍美紀
◆グローバル主義の限界と利益誘導政治 … 栗原 猛
◆連続企画●憲法9条実現のために〈31〉
イージス・アショア導入断念と日米の防衛戦略 … 千坂 純
◆司法をめぐる動き〈58〉
・解釈すれども判断せず
──憲法53条訴訟・那覇地裁判決が投げかけたもの … 志田陽子
・5/6月の動き … 司法制度委員会
◆メディアウオッチ2020●《コロナ危機とメディア》
いま改めて問われるジャーナリズム
メディア利用で知事選勝利、 宣伝効果求めコロナ政策迷走 … 丸山重威
◆あなたとランチを〈番外編〉
美魔女は法民に乗って? … 林 敦子さんインタビュー×佐藤むつみ
◆改憲動向レポート〈No.26〉
「憲法改正国民投票」を訴える安倍首相、橋下徹氏、吉村洋文氏 … 飯島滋明
◆時評●辺野古から考える「法の支配」の現在 … 岡田正則
◆ひろば●追悼 鬼追明夫先生
あの「記録映画・日独裁判官物語」は
今なお、司法のあり方を問うています … 高橋利明
(2020年7月27日)
昨日(7月26日)の毎日新聞朝刊に、「中国『不動産王』、共産党党籍剥奪 指導部批判問題視か」の記事。その全文が次のとおり。
「中国共産党北京市西城区規律検査委員会は23日、「不動産王」として知られた任志強氏の党籍を剥奪した。中国各紙の電子版が24日、報じた。理由の一つとして「党の原則に反対する文章を公開で発表した」と指摘されており、新型コロナウイルス対策を巡り習近平指導部を批判したことが問題視された可能性がある。
香港紙などによると、中国国内では新型ウイルスの初期対応に関し、情報隠蔽などを批判する文章がインターネット上で出回り、任氏が友人に送った文章が流出したなどと報じられていた。」
政党の規律は、もとより私的自治の問題。党の判断が最大限尊重されることになる。しかし、中国共産党の党籍剥奪となれば、同列に論じることはできない。党が政権の上位に位置しているからだ。中国共産党員の党籍剥奪は、深刻な政治的社会的制裁となる。
「党の原則に反対する文章を公開で発表した」「新型コロナウイルス対策を巡り習近平指導部を批判した」ことが党籍剥奪の理由とすれば、中国に表現の自由は存在しないにも等しい。
しかも、24日夕刻の毎日新聞デジタルには、以下の記事が付け加えられていた。
「任氏は著名な企業家だったが、3月中旬に行方不明となり、同委員会が4月上旬に規律違反で調査中だと発表。新型コロナ対策を巡る言論統制強化を象徴する事件の一つとみられていた。任氏については収賄や職権乱用なども指摘されており、今後は検察による手続きに入る。」
まず「行方不明」が先行し、次いで「規律違反で調査中」となり、そして「党籍剥奪」となったわけだ。さらに、「今後は検察による刑事手続きに入る」ことになる。任志強は単なるビジネスマンではない。習近平批判で知られた政治家でもある。その舌鋒の鋭さで知られ歯に衣着せぬ発言から「任大砲」(大口叩きの任)とか、最近は「中国のトランプ」とも呼ばれてもいたという。
2016年2月、習近平総書記が、中国中央電視台、人民日報、新華社通信を視察した後、「党・政府が管轄するメディアは宣伝の陣地であり、党を代弁しなければならない」と、党への忠誠を命じたことがある。これに対して任は微博(中国版Twitter)上で「納税者が治めた税金を納税者に対するサービス提供以外に使うな」「人民政府はいつの間に、党政府に変わったのだ? 人民政府が使うカネは党費なのか?」「メディアが人民の利益を代表しなくなる時、人民は隅に捨てられ、忘れ去られる」などと疑問を呈して、以来国営メディアから非難の集中砲火を浴びているとされる。
彼の微博アカウントは3700万人以上のフォロワーを持ち、政権に批判的な内容を発信した。だが、2016年に政府の命令でアカウントは閉鎖されたという。
報道によると、今回党籍剥奪の根拠とされた任の「党の原則に反対する文章を発表」の内容は、中国当局が感染拡大の情報を隠蔽したと指摘したうえで、感染の抑え込みに成功したとして習氏が自らの権力を強めようとしているとの批判だとのこと。党の信用を貶める発言は、「党の原則に反」する規律違反というわけだ。
美根慶樹という元外交官がいる。香港総領事館や中国大使館にも勤務し、『習近平政権の言論統制』(蒼蒼社・2014年5月)という著書のある人。この人が、任志強について、こう語っているのが興味深い。(抜粋の引用元は、下記ブログ)
http://heiwagaikou-kenkyusho.jp/china/2515
中国では、共産党の一党独裁体制に面と向かって歯向かうことはもちろんできないが、可能な限り客観的に見ようとする人たちが、少数ではあるが存在している。具体的には、
?人権派の弁護士や学生などいわゆる民主派、
?政府の経済政策に批判的な学者・研究者、
?一部の新聞記者、
?少数民族の活動家、
?特定のグループに属さず、いわば一匹狼的に活動している人、
などに大別できるだろう。任志強は?のタイプの人物である。任志強は不動産売買で巨万の富を築いた後、もっぱら「微博」〔中国版ツィッター〕を通して共産党の在り方に批判的な発言を続けた。
任志強は多くの支持者を集め、フォロワー数が3700万に達して社会に大きな影響力を持つようになった。当然当局からは要注意人物とみられていたが、蔡霞中共中央党校教授などは、任志強は「意見発表の権利を持つ」、「党規約と党規則は任志強たちの党員の権利を保護している」などと論じて同人を擁護したので2016年春、大論争となった。
…任志強は新型コロナウイルスによる感染問題をきっかけに、ふたたび口を開き、2月23日、米国の華字サイト「中国デジタル時代」に習近平の新型コロナ肺炎対応を批判する文章「化けの皮がはがれても皇帝の座にしがみつく道化」を発表し、中国政府が言論の自由を封じていることが感染対応の阻害になり、深刻な感染爆発を引き起こしたと、批判した。
…北京市規律監査委員会は4月7日、同人に対する調査が行われることになったと発表した。中国の常識では、この調査は決定的なものであり、今後同人が再浮上することはあり得ない。
なるほど、このようにして政権批判勢力が潰されていくのだ。対岸の火事として傍観するのではなく、他山の石としなければならない。
(2020年7月23日)
あ?あ、残念。無念でならない。この無遠慮なコロナ禍さえなければ、今ごろは「東京オリパラ2020」で国中が湧いていたはずじゃないか。明日は開会式で日本中が祝賀ムード。野党だって、メディアだって、政権の悪口は言いにくい雰囲気だったはず。私も、主催国の首相として、歴史に晴れがましい足跡を残すことになったはず。
その晴れがましさ獲得のために、ブエノスアイレスでは、事情の分からないIOC委員に、「フクシマはアンダーコントロール」なんて大嘘ついて手にした東京オリンピック。だって、ほかに、私の功績なんてまったく何にもないんだもの。せめて東京オリンピックと思ったんだが、これがダメ。罰が当たったのかねえ。気が重い。
オリンピック前夜の晴れやかさに代わって、目の前にある現実は、急速なコロナ感染の再拡大。そして、国民世論の反対を敢えて押し切っての「Go Toトラベル」キャンペーン強行の不安。さらに、それ故の野党とメディアの遠慮のない政権批判。天国から地獄に突き落とされた思いだ。ああ、気が滅入る。確かに、政権末期の雰囲気だ。だから、記者会見なんかしたくない。巣ごもりで、不貞腐れているしかないんだ。
何をやってもうまくいかない。やることなすこと、みんな裏目だ。私が口を開けば、言葉のつぶてが飛んでくる。チグハグだ、朝令暮改だ、業界寄りだ、オトモダチ優遇、嘘とゴマカシ、公文書改ざん、政治の私物化、一強の驕り、政権の末期症状だって、批判されまくり。そう言われれば、みんなそのとおりだから、余計にヤになっちゃう。
だから、国会なんて開かないし、開けない。閉会中の委員会審査もあるけれど、出席しない。記者会見もしないんだ。とにかく、しゃべればボロが出るだけ。
私は、人の作った作文をいかにも自分の見解のように読み上げることなら少々得意だ。難しい漢字には、必ずルビを振ってもらっているから大丈夫。でも、それ以上のことは無理。とりわけ、事前通告のない質問は困る。トンチンカンなことを口にしたり、うっかり本音をしゃべったり、碌なことにならない。だから、巣ごもりが一番。もう、1か月以上も記者会見はしていない。
これまでは、「まさに」と「しっかり」「丁寧に」の3語で切り抜けてこられたから、まあ楽な仕事だった。「国民の皆様には、今後ですね、まさに、まさにですよ、この問題については、しっかりと、丁寧に、説明をさせていただきたい」なんて、ごまかしてきたけど、我ながら、もう限界だよね。
この頃は、新しく「専門家の皆様のご賛同をえて」でやってみたけど、ずいぶん早く鮮度が落ちて、使えなくなっちゃった。忖度専門家の化けの皮の剥がれるのが、こんなに早いとは思わなかったんだ。
ところで、今日のコロナ感染者数発表が、東京だけで366人だっていうじゃない。しかも、東京一極から拡散しすでに全国的に感染再爆発が広まりつつあるとも言われているようだ。どうして、コロナって奴は、遠慮がないんだろう。もう少し、政権に忖度したってよかろうに。忖度しない相手は恐い。悪評サクサクの「Go Toトラベル」始まった途端に、この感染拡大だ。非難囂々だろうな。このあとどうなるかが恐い。「私の責任です」と軽く言って済む問題ではなさそうだから、なお恐い。
私にコロナ対策の指揮能力はないし、やる気もない。正直、外へは出たくない。だって、だんだんコロナが身近に迫っている感じがあるし、外に出るには、あのアベノマスクを付けて出なければならないが、実は、あれ、本当にコロナを除ける効果があるのか自信がないんだ。だから、巣ごもり。
だけど、身内の会合は別。私を批判しないヨイショの安心メディアが相手ならどこへでも出て行く。「権力批判こそが、ジャーナリズムの神髄」なんて格好付けている不届き記者が紛れているところでの会見なんてヤなこった。櫻井よしことか、岩田朋子とか、田?史郎や月刊花田、あるいはDHCテレビジョンなど、志を同じくし気心の知れた記者だけなら会見も結構なんだけど。
通常国会が終わってホッとしているところに、記者会見は嫌なんだ。こっちが返答に困る質問をぶつけようというのは、人権問題じゃないのかね。「嫌な質問には答弁を拒否して体面を保つ首相の権利」は、法のどこかに書いていないのかな。書いてなければ、閣議決定で決められないだろうか。これまで、ずいぶんいろんなことを閣議決定で決めてきたからね。
最後の首相記者会見は6月18日だった。あのときに、まさに、まさにですよ、はっきり分かったね。政権に好意的な記者と、敵対的な記者とのくっきりした色分け。忖度派と攻撃派だ。私に忖度しないで、困らせてやろうという無頼な記者たちにサービスする必要なんてあり得ない。「時間がない」「次の日程が詰まっている」を口実に質問なんかさせたくない。少なくとも、重ねての質問で突っ込ませるようなことはさせない。そんなことをさせたら、聞いている国民に、私の無能がさらけ出されてたいへんなことになる。できるなら、会見そのものをやらないに越したことはない。だから、巣ごもり。
それにしても、コロナ感染再拡大の勢いは凄まじい。その中での「Go Toトラベル」強行は、私の所為じゃない。二階と菅の二人が、それぞれの理由で頑張っているんで、私が頑張っていると誤解されたくないんだ。でも、そうも言いにくいから、これも記者会見はやりたくない理由のひとつ。
ものごとがうまく行っているときの記者会見なら、私は好きなんだ。第一波の緊急事態宣言解除のときは、晴れがましく私の手柄みたいに記者会見をやった。まさしく、まさしくですね、あのように、私の支持拡大につながる記者会見ならやりますよ。でも、今は、まったくプラスの材料がない。結局、記者たちの攻撃の矢面に立つだけ。そんな政権の末期症状をさらけ出すような記者会見などできようはずもない。だから巣ごもり。あ?あ。
(2020年7月19日)
こうして眺めますと、不忍池の風情もなかなかのものでございます。あの辯天堂にお祀りされておいでのご本尊さまは、琵琶を持ったお姿で知られる音楽と技芸の神として「辯才天」とも言われ、また、金運上昇のご利益をもった「辯財天」としても信仰されております。
その辯天堂を望む蓮池は、今を盛りの華・華・華・蕾・華・蕾・華という豪華さ。今日は雨もあがってやわらかく陽が射し、極楽もかくやという景色でございます。
さながら、東京の地下深く不気味にひろがっているというコロナ禍地獄の天上に浮かぶ極楽という図のごとくでございます。
なるほど、見直してみれば、東京にもあちらこちらに観光の目玉はございます。しかし、もうすぐ始まる「Go To トラべル」キャンペーンは、「東京都を目的地とする旅行については当面事業の対象外とし、割引支援を行わない」ということでございますな。また「東京都に居住する人の旅行についても、当面事業の対象外とし、割引支援を行わない」という、東京にとってのダブルパンチ。これは、もう、「Go To トラブル」への一直線。恐るべき混乱の幕開けになることが必定といわねばなりません。
「こんな時期にコロナばらまき促進キャンペーンをやってはならない」「コロナ禍終熄後の経済復活のための施策のはず。コロナ禍再拡大の今行うことは危険極まりない」「元来が8月中旬開始を想定されていた。これを前倒しで実施するなどとんでもない」「観光産業だけに優遇措置は不公平」という予てからの批判に、今度は「東京差別」「都民差別」への怨嗟の声が加わっているのでございます。
「1兆7000億円の財源は国民全体が拠出したもの。東京だけを除外することは、都民に対する不当な差別に当たり法の下の平等に反する」「東京だけの除外は、官邸が小池知事の言動を不快とするもので、イヤガラセ以外のなにものでもない」。そう言われれば、ごもっともでございます。
さらには、都民を外す手続の煩雑さ、割引支援適用の有無の線引き、予約取り消しの取り扱い等々、政権にはアタマの痛いことばかり。それでも、あのお人は、今日当たり、また自宅で愛犬とともに、優雅にコーヒーでも口にしておいででございましょうか。
この頃、政権のやることなすこと、全てが裏目でございましょう。いま改めて森友学園事件がクローズアップされていますし、桜を見る会案件の安倍刑事告発も進展しています。アベ政権の手による北方四島返還交渉も拉致問題の解決も、既に絶望。盟友トランプはかつてない批判の矢面に晒されての針のムシロ。誰の目にも、東京五輪はとうてい無理でございますし。
過去・現在・未来の三世にわたっての因果応報なのでございます。善因あれば善果がありますが、アベ政権には悪因あるからこその悪果なのでございましょう。アベ改憲などに固執していればこその支持率低下なのでございます。自業自得とも申します。
所詮彼は、この蓮池の極楽が似合うお人ではございません。これも、因果応報であり、自業自得なのでございます。
(2020年7月15日)
下記は、昨日(7月14日)の朝日の記事(抜粋)。普段はよく見えない、私たちの社会の差別や不合理の構造が、コロナ禍の中で突きつけられた典型例といえるだろう。朝日も、ときによい記事を書く。
それにしても、「コロナ失業」と呼ばれる現実があるのだ。その失業に直面して、「正規」と「非正規」の差別、女性労働者の地位の不安定は、かくも厳しい。「同じ人間とも思えない」とまで叫ばせるこの社会の罪は重い。それでも、負けずに立ち上がる人々に、心からの声援を送りたい。
コロナ失業する非正規の女性「同じ人間とも思われない」
9日、雨が続く夜の銀座で傘を差し、その女性(40代)は拡声機のマイクを握って声を上げた。「雇用調整助成金を活用して派遣社員の雇用を守ってください」「雇い止めを撤回してください」
1人から加盟できる労働組合「総合サポートユニオン」の仲間たち十数人も一緒だ。
目の前のオフィスビルには、女性が登録していた派遣会社が入っている。この日初めてあった同社との団体交渉で、会社側が「ゼロ回答」だったとして抗議に来ていた。
新型コロナウイルスの感染拡大が深刻化した3月下旬。派遣先は、社員を在宅勤務に一斉に切り替えた。一方、派遣社員には「出社がいやなら有給休暇を」と告げた。感染は怖かったが、仕方なく出社を続けた。
感染リスクを減らそうと、4月下旬に有休を3日間とった。その直後、派遣先から労働者派遣契約を中途解除され、派遣会社から6月末での雇い止めを告げられた。理由を聞くと、派遣先のコロナによる売り上げ減少と、「在宅勤務を希望したから」。コロナでわかったことがある、と女性は言う。「派遣社員は、社員と同じ人間だと思われてもない」
「ある日突然、コマのように放置」
千葉県内のシングルマザーの女性(40代)は、葬儀場などで食事を提供する仕出し会社で14年間働いてきた。従業員約60人のうち50人超がパートの女性で、盛りつけや配送、配膳、接客までこなしていた。
コロナで会社は4月末から休業。経営が厳しくなり、「事業継続は厳しいかもしれない」と説明した。正社員の男性数人は、グループ内のほかの会社で仕事を続ける選択肢を示された。だがパートの女性たちは休業手当の支給もなく有休を取るしかなかった。
「なのはなユニオン」に相談し、25人で労組を立ち上げた。女性は取材に対して、「この職場で10年以上働くパートの女性が多く、私たちが切り盛りしてきた。それなのにある日突然、コマのように放置されたり、切られたりする。情けないし、悔しい」と憤った。
新型コロナは、サービス業を中心に非正規の女性たちが多く支える産業を直撃した。
5月の労働力調査では、正社員は前年同月に比べて1万人減だったのに対し、非正規労働者は約61万人減。このうち8割近い約47万人が女性だ。「宿泊業・飲食サービス業」、「生活関連サービス業・娯楽業」は特に大きく就業者が減ったが、減った人のそれぞれ7割や8割が女性だった。
「声を上げれば会社は好き放題できない」
仕出し会社で働いていた女性に今月上旬、電話で近況を聞いた。会社は7月末で閉鎖すると伝えてきたという。組合側はそれまでの間、5月分まで遡及(そきゅう)して平均賃金の10割にあたる休業手当の支給を求め、会社も応じた。有休は労働者側が買い取る形となった。「会社側からここまで引き出せたのは労組を結成したから。みんなで声を上げれば会社は好き放題できないとわかった。今後の仕事にも生かせる経験です」
冒頭の派遣社員の女性は、「私の意見なんて、だれも聞いてくれると思っていなかった」。銀座でシュプレヒコールをあげた夜、「堂々としていて、立派だったよ」と仲間に言われ、はにかんだ。もう黙らない。女性はそう決めている。
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労組・労基署・ハローワーク、最悪の場合が生活保護。これが「コロナ失業」直面の場合の相談先。いざというときの駆け込み避難先の一覧表でもあればよいのだが。
(2020年7月14日)
本郷三丁目の皆様。また、新型コロナ感染者が増えています。たいへん憂鬱な梅雨のさなかですが、少しの間、お耳をお貸しください。
本日は7月14日、フランスの革命記念日に当たります。1789年の今日、蜂起したパリの民衆がバスティーユに押し寄せ政治犯を解放しました。これがフランス大革命の始まりとされています。
この革命でブルボン王朝は倒れ、王の政治に代わる市民の政治が始まりました。新たにできた共和国は、自由と平等を掲げた憲法を制定し、市民自身による政治を始めたのです。
しかし、必ずしも、「自由と平等」とは国民に幸せをもたらしませんでした。新しい憲法が神聖不可侵の権利としたものは、所有権の絶対でした。これは、資本主義経済における資本の活動の野放図な自由を認めるもの。結局は、一握りの持てる者が、持たざる者を搾取する社会となったのです。長時間の低賃金労働が当然のこととされました。女性労働、少年労働はとりわけ苛酷な扱いを受けました。これに抵抗する労働運動が起き、労働運動を支える社会運動や政党が生まれ、これに対する政府の弾圧が生じ、弾圧に対する激しい抵抗が起こり…。こうして、労働者の権利は、少しずつ確かなものになっていったのです。
20世紀に入って、各国の憲法は、社会国家あるいは福祉国家の理念を掲げるようになりました。資本主義経済を前提としながらも、資本の欲しいままの利益擁護を最優先の価値とはせず、国民の福祉を最優先として、これに抵触する場合は資本の利益も制約されることになりました。
国家は何のためにあるか。「朕は国家なり」という王政時代には国家は王の利益のためにありました。市民革命後は、資本の利益のために社会の秩序を擁護する国家が必要となりました。そして今は、国民一人ひとりの利益を護るために国家が必要となっているのです。
そんなことは普段意識しないことですが、コロナ禍のさなか、この危急の事態では、考えざるを得ません。私たちが主権者として、つくって運営しているこの国は、果たして何のためにあるのか。そして、その役割を果たしているのか。
憲法25条は、 「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」と定めています。私たちの国は、国民の暮らしの向上を最も大切なものとし、国民の豊かな生活を実現するためにこそ国はある。そう言ってよいと思います。
資本主義経済社会は、資本の利潤追求の自由を容認することで成り立っています。必然的に格差や貧困を生み出します。この国に生きる多くの人々は、格差や貧困の中に暮らさざるを得ません。
この国の政府は、資本主義経済の市場原理を尊重しつつも、格差や貧困に基づく国民の経済的な苦労を克服し、全ての国民が豊かに暮らせるよう、政治を行わなければなりません。安倍内閣は、その期待に応えているでしょうか。
コロナ禍はこの社会の経済的弱者を直撃しています。この人たちにこそ、支援が必要です。アベノマスクを各所帯に2枚ずつは確かに支給を受けました。特別支給金10万円も受領しました。しかし、焼け石に水、当然に足りません。
平時には必ずしも自明とは気付かされない国家の責務が、国民生活が逼迫して生存権が危うくなっているこの危急の事態に浮かび上がっています。はたして政権は、国家の基本的な責務を全うしているだろうか。
7月14日、革命記念日に、私たちの国は何のために存在し、何をすべきであるのか、そしてなすべきことをしているのかを考えたいと思います。
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「本郷・湯島九条の会」石井 彰
小雨のなか、お疲れさまでした。きょうは6人の方々が参加されコロナ禍での安倍政権、都政の無策を糾弾しました。
コロナ危機を体験している今のわたしたちはこれまで気づかなかった多くのこと知らされている現実を訴えました。とりわけ生活格差です。憲法25条を文字通り実現させることの大切さを語り、2項に書かれている「国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなけばならない」。
まさにこんにちのコロナ禍を国は全力で対処する責務があります。
国家とは何か。権力者ためにあるのか、国民のためにあるのか、この訴えは赤信号で待っている人々に届いているようでした。何人もの方が頷いていました。
「黒川前検事長不起訴、検察許すも、国民許さん」「東京だってゼロメートル地帯、防災対策を」「イージス・アショアの失敗、虫の良すぎる敵基地攻撃準備、憲法違反」といったプラスターを持っていると路ゆく人々が見入っている姿も多く見られました。
途中で電池が切れるというアクシデントもありましたが、戦後75年、2度と戦争させないわたしたちの行動は続きます。
次回8月は11日(火)です。広島・長崎への原爆投下、敗戦と続く月です。
(2020年7月4日)
私は、盛岡の生まれで、故郷岩手の事情は常に気にかかる。このところのコロナ禍では、東京の感染拡大を尻目に唯一「感染者ゼロ」を誇っている。とは言うものの、どうも「感染者ゼロ」の維持は目出度いだけのことではないようだ。
「感染者ゼロ」の重さを知ったのは、富山県での第1号感染者の「村八分」報道に接して以来のこと。この春、京都市内の大学を卒業した女性が、郷里の富山に戻って県内感染の第1号となった。これが3月30日のこと。帰郷直後に友人数名と焼き肉屋での会食の機会があって再感染の機会となったようである。続いて数名の感染者が確認されると、「京都からコロナを持ち込んで富山に広めた」とバッシングされる事態となった。
当人も家族もネットで容易に特定され攻撃された。「村八分になって当然」という、心ないツィッターが今も残っている。真偽は定かでないが、「学生の自宅が石を投げられた」「父親が失職した」「市長に詰問された」「村八分になっている」などの情報が流れた。当人は軽症で間もなく検査では陰性になったが、周囲の人々が怖くなってなかなか退院できないとも報道された。
岩手ではまだ「感染者第1号」が出ていない。重圧は、日に日に増しているようだ。東京から帰省したいと連絡してきた息子に対して、両親から「絶対に帰ってくるな。第1号になったらたいへんなことになる」という返事があったとか、東京ナンバーの車は停めておけないなどという報道が繰り返されている。社会的同調圧力の強大さを物語っている。
この社会的同調圧力は、容易に警察と結びつく。「自粛警察」「マスク警察」「自粛ポリス」「コロナ警察」などの言葉があふれる世となった。身近に、思い当たる出来事がある。
かつて、社会的同調圧力は、君のため国のための、国民精神総動員に最大限利用され、助長された。国策に積極的協力を惜しむ人物には、「非国民」「国賊」という非難が浴びせられた。今なお、自粛せぬ輩には社会的な制裁が課せられる。ときには、警察力の行使を借りることも辞さない。
この心性が、対内的な求心力ともなり、排外主義にもなった。関東大震災の際の朝鮮人虐殺には「自警団」という名の非国民狩りの組織が作られもした。
丸山眞男の「日本の思想」(岩波新書)の中に、「國體における臣民の無限責任」という小見出しで、以下の印象深い記述がある。この「無限責任」は、社会的な責任であり、同調圧力が個人に求める責任である。天皇制とは、社会的同調圧力を介して、人民を支配するという見解と読める。
かつて東大で教鞭をとっていたE・レーデラーは、その著『日本?ヨーロッパ』のなかで在日中に見聞してショックを受けた二つの事件を語っている。一つは大正十一年末に起った難波大助の摂政宮(註・裕仁)狙撃事件(虎ノ門事件)である。彼がショックを受けたのは、この狂熱主義者の行為そのものよりも、むしろ「その後に来るもの」であった。内閣は辞職し、警視総監から道すじの警固に当った警官にいたる一連の「責任者」(とうていその凶行を防止し得る位置にいなかったことを著者は強調している)の系列が懲戒免官となっただけではない。犯人の父はただちに衆議院議員の職を辞し、門前に竹矢来を張って一歩も戸外に出ず、郷里の全村はあげて正月の祝を廃して「喪」に入り、大助の卒業した小学校の校長ならびに彼のクラスを担当した訓導も、こうした不逞の徒をかつて教育した責を負って職を辞したのである。このょうな茫として果しない責任の負い方、それをむしろ当然とする無形の社会的圧力は、このドイツ人教授の眼には全く異様な光景として映ったようである。もう一つ、彼があげているのは(おそらく大震災の時のことであろう)、「御真影」を燃えさかる炎の中から取り出そうとして多くの学校長が命を失ったことである。「進歩的なサークルからはこのょうに危険な御真彩は学校から遠ざけた方がよいという提議が起った。校長を焼死させるょりはむしろ写真を焼いた方がよいというようなことは全く問題にならなかった」とレーデラーは誌している。日本の天皇制はたしかにツァーリズムほど権力行使に無慈悲ではなかったかもしれない。しかし西欧君主制はもとより、正統教会と結合した帝政ロシアにおいても、社会的責任のこのようなあり方は到底考えられなかったであろう。どちらがましかというのではない。ここに伏在する問題は近代日本の「精神」にも「機構」にもけっして無縁でなく、また例外的でもないというのである。
私は丸山に傾倒するものではないが、彼の言う「このょうな茫として果しない責任の負い方、それをむしろ当然とする無形の社会的圧力」「社会的責任のこのようなあり方」「ここに伏在する問題は近代日本の「精神」にも「機構」にもけっして無縁でなく、また例外的でもない」との指摘には、深く頷かざるを得ない。