11月7日に特定秘密保護法案が衆議院で審議入りした。その翌日(8日)の各紙は、明確な反対の論調で充実した紙面を構成した。朝・毎・東京の各紙が、一面トップで取り上げ、政治面だけでなく社会面でも、解説記事としても総力をあげている。また、各紙各様に渾身の社説を掲載している。日本のジャーナリズムいまだ健在。ようやくエンジンがかかってきたの感がある。願わくは、廃案までのこの論調とテンションの持続を。もっとも、「読売」だけの読者は、社会に重要な事件が起きていることをまったく知らないで過ごしているのではないか。結局は、大新聞が時の政権の民主々義破壊に手を貸しているということ。その影響や恐るべしである。
「朝日」の8日付社説は、「市民の自由をむしばむ」と標題されたもの。「米軍基地や原子力発電所などにかかわる情報を得ようとだれかと話し合っただけでも一般市民が処罰されかねない。社会全体にそんな不自由や緊張をもたらす危うさをはらんでいる」「その指摘はけっして杞憂ではない。この法案に賛成することはできない」「特定秘密保護法案はまず取り下げる。真っ先に政府がやるべきは、情報公開法や公文書管理法の中身を充実させることだ」と言っている。
「東京」の8日付社説は、タイトルに「廃案」の2文字をいれている。「特定秘密保護法案 議員の良識で廃案へ」というもの。
「秘密に該当しない情報さえ、恣意的に封殺しうるのが、この法案である。行政機関の「長」が「秘密」というワッペンを貼れば、国民から秘匿できるのだ」「何より深刻なのは国会議員さえ処罰し、言論を封じ込めることだ。特定秘密については、国政調査権も及ばない。行政権のみが強くなってしまう。重要な安全保障政策について、議論が不可能になる国会とはいったい何だろう。議員こそ危機感を持ち、与野党を問わず、反対に立つべきだ」「三権分立の原理が働かないうえ、平和主義や基本的人権も侵害されうる。憲法原理を踏み越えた法案である」と、まことに明快。そして、法案への批判の姿勢がまことに手厳しい。
そして、「毎日」である。8日付社説のタイトルは「秘密保護法案を問う 重ねて廃案を求める」というもの。「重ねて」というとおり、毎日は連日以下のとおりの「秘密保護法案を問う」シリーズの社説を掲げて、警鐘を鳴らしている。
11月5日「秘密保護法案を問う 国民の知る権利」
11月6日「秘密保護法案を問う 国の情報公開」
11月7日「秘密保護法案を問う 国政調査権」
シリーズ第4弾となる11月8日の社説は、タイトルに「廃案を求める」と明記した。「この法案は、憲法の基本原理である国民主権や基本的人権を侵害する恐れがある。憲法で国権の最高機関と位置づけられた国会が、「特定秘密」の指定・更新を一手に行う行政をチェックできない。訴追された国民が適正な刑事手続きを受けられない可能性も残る。憲法で保障された「表現の自由」に支えられる国民の「知る権利」も損なわれる」「7日の審議でも根本的な法案への疑問に明快な答弁はなかった。法案には反対だ。重ねて廃案を求める」と明快だ。さらに、「法案概要が公表されたのは9月である。今から議論を始めてこの国会で成立を図ろうとすること自体、土台無理な話だ」という指摘も。まことに真っ当な内容。
そして、毎日は本日(11月10日)シリーズ第5弾の社説を掲出した。「秘密保護法案を問う テロ・スパイ捜査」である。
「そもそも、テロ・スパイ活動防止のために特定秘密の指定が不可欠なのか」と疑問を呈し、「特定秘密を隠れみのに、公安捜査が暴走し、歯止めが利かなくなる恐れはないか。そちらの方が心配だ」「(2010年に流出した)警視庁公安部の国際テロ捜査に関する内部資料には、在日イスラム教徒や捜査協力者約1000人分の名前や住所、顔写真、交友関係などの個人情報も含まれていた。問題なのは、こうして集められた個人情報にテロとは無関係のものが多数含まれていたことだ。国際結婚したり、イスラム教徒だったりしただけでテロリストと結びつけられた例があった」「スパイ活動の防止にも同じことが言えるが、人を監視することによって得られる情報は、国民の人権やプライバシーと衝突する危険性をはらむ」という指摘である。ここには、権力は信頼できない、権力を信頼してはならない、というジャーナリストの本能が語られている。
また、本日の毎日8面の特集記事「特定秘密保護法案 成立したらー市民生活こうなる」に感心した。読者に訴える力がある。
タイトルのとおり、法成立後に起こりうる市民生活への影響を「三つのケース」で考察している。
ケース1 原発の津波対策を調べる住民 「そそのかし」で有罪
ケース2 オスプレイ計画を尋ねる議員 行政が裁量で情報秘匿
ケース3 自衛官が内部告発、米の盗聴 内容の違法性問われず
よくできた想定なので、是非直接にお読みいただきたい。
http://mainichi.jp/shimen/news/m20131110ddm010010003000c.html
日下・青島・臺の「毎日」3記者に敬意を表したい。私たちも、これにならって、この法案が成立したら市民生活にどのような具体的影響が生じるのか、誰もがよく分かるような事例を積み上げていかねばならない。
本日の赤旗には、昨日(9日)札幌弁護士会が主催した秘密保護法に反対する市民集会に550人が参集したという記事が載っている。その集会での寸劇が好評だったとのこと。特定秘密保護法違反(特定秘密漏えいの教唆)で逮捕された記者の弁護活動が、秘密の壁に阻まれて‥という内容。
この危険な法案。何度「危険」を繰り返しても聞く人の耳にははいらない。どのように危険なのか、いったいどんなことが起こるのか。人権に、民主々義に、そして平和に、どのような影響が及ぶことになるのか。法案の内容を正確に押さえたうえで、訴える工夫を凝らしたい。
(2013年11月10日)
本日(11月9日)は、日本民主法律家協会の第44回司法制度研究集会。憲法の理念を正確に反映する司法をいかに構築するか。そのような問題意識で続けてきた集会の今年のテーマは、「徹底批判・『新時代の刑事司法制度』ー冤罪と捜査機関の暴走を防げるのか」というもの。このテーマを取りあげた理由は、実務を担った司法制度委員会が以下のとおりにまとめている。
法制審議会に「新時代の刑事司法制度特別部会」が設けられており、まもなく刑事司法改革についての最終案がとりまとめられる。これに基づく刑事訴訟法改正法案などが、来年の通常国会に提出される予定と言われている。その多岐にわたる内容は、「改革」どころか、被疑者・被告人の人権保障に逆行するだけでなく、犯罪捜査の枠を超えて市民生活を脅かす重大な危険を含んでいる。
そもそも「特別部会」は、2010年に発覚した大阪地検特捜部によるフロッピー改竄事件という重大な検察不祥事と、厚労省事件、布川事件、足利事件、志布志事件などの冤罪事件に対する深刻な反省を踏まえ、「検察の在り方検討会議」をへて、2011年に、取調偏重、供述調書偏重の刑事司法に対する抜本的改革案の法制化をめざすために発足したはずだった。
多くの国民は、「特別部会」の委員に、冤罪被害者である村木厚子厚労省元局長や、映画「それでもボクはやってない」の周防正行監督が入ったこともあって、いよいよ取調べの全面可視化や検察官の手持ち証拠の全面的な開示など、刑事司法を透明化し、冤罪を防止できる法制度が実現するのではないかと期待している。ところが、2013年1月に発表された特別部会の「基本構想」は、特別部会での人権保障強化の意見をほとんど反映していない、国民の期待に完全に逆行するものとなっている。
例えば、被疑者取調べの録音・録画制度については「取調べや捜査の機能等に大きな支障が生じることのないような制度設計を行う必要がある」などとしてその対象範囲を「取調官の裁量に委ねる」案を提示している。事前の全面証拠開示は「被告人に虚偽の弁解を許すことになる」などとして検討課題にもしていない。取調べへの弁護人立会権は「取調べという供述収集手法の在り方を根本的に変質させてその機能を大幅に減退させる」ことを理由に否定している。あからさまに捜査権限の維持を最優先にし、冤罪防止や人権保障の方向で刑事司法改革には著しく消極的な姿勢をみせている。
他方で、通信傍受の拡大、会話傍受の導入、司法取引、自白事件の簡易迅速処理、被告人の証言適格等々、警察・検察権限のさらなる強化と刑事裁判の簡易迅速化のための新たな制度作りを強く打ち出している。通信・会話傍受などは、犯罪捜査の枠を超えて濫用される危険もはらんでいる。
こうした「基本構想」とそれに続く「作業分科会」の中間報告に対しては、刑事法学者95名(9月10日現在)が批判の意見書をとりまとめており、マスコミにも一部批判的論調がみられるが、まだまだその内容が十分に知られていない。第44回司法制度研究集会では、このような法制審における議論の問題点・危険性を徹底的に検証・批判するとともに、真に必要な刑事司法改革とは何かについて、考え、議論する場としたい。
本日の集会の基調報告は、渕野貴生氏(立命館大学教授)による「法制審『新時代の刑事司法制度』を批判し、あるべき刑事司法改革を考える」
問題提起者として、大久保真紀氏(朝日新聞編集委員・元鹿児島総局デスク)「志布志事件における虚偽自白強要の実態」、客野美喜子氏(「なくせ冤罪!市民評議会」代表)「冤罪被害者と市民が要望する刑事司法改革」、泉澤章弁護士「新しい捜査手法の濫用の危険性」
そして、会場からの質疑・討論の発言が充実していた。
詳細は「法と民主主義」12月号の報告に譲るので、是非ご覧いただきたい。
集会の基調報告や各パネラーそして会場発言で印象に残ったことは、近年刑事司法の分野において、「人権よりは治安・秩序」「個人よりは国家・社会」という理念転換の風潮が著しいということ。訴訟における一審裁判官の職権主義、控訴審での事後審としての運用の厳格さ、再審についての明らかな方針転換。そして、立法や法改正の分野でも「法制審・新時代の刑事司法制度」である。底にあるものとしては、政府主導の「司法改革」路線以来一貫した傾向との見方もできるが、近年の変化は見落とせない。
パネラーのお一人から、「所詮権力というものはこういうものと切り捨てるだけでは、適切な改善策につながらない。治安や秩序、あるいは安全安心を求める国民世論の傾向を見なくてはならない」「この傾向への対応が必要ではないか」という発言があった。
そのとおりだと思う。治安・秩序弱体化のデマやプロパガンタの部分とは徹底して切り結び、実体を伴う部分に関してはその原因を解明する努力がが必要である。そのうえで、人権としての被疑者・被告人の権利の大切さを訴えなければならない。
また、「なによりも刑事司法における冤罪の実態や、冤罪の温床となっている取り調べの実態などの諸事実がほとんど国民に知らされていないことが問題で、これを具体的に知ってもらう努力をしなければならない。知ってもらうことによって人の意見は確実に変わる」との発言が説得力あるものだった。
自民党の改憲草案を見よ。「国民のうえに国家があり、国家が天皇を戴いている」という構図が政権与党によって臆面もなく語られるご時世である。国民の人権は、公序公益によっていかようにも切り縮められると公言されている。格差社会の進展がもたらす社会不安を逆手にとって、秩序・治安の強化や天皇の権威を持ちだしてのナショナリズムないしは共同体意識醸成による社会の再統一がはかられようとしているのだ。刑事法分野の「揺り戻し」も、その一分野なのだろう。
たまたま司研集会の会場に近い衆議院憲政記念館で「戦後日本の再出発特別展」を見た。充実した内容でお薦めしたい。期間は月末まで。特別展ではなく、常設展の展示の中に、1942年の翼賛選挙のポスターが目を惹いた。「自由は国を亡ぼす。推薦で行きませう」というもの。個人の尊厳や自由ではない、国家が大事。「天皇が大事。滅私奉公の大政翼賛会推薦候補に投票しましょう」というのだ。安倍政権が世を煽っている思想そのものではないか。この大政翼賛イデオロギーと闘わねばならないのだ。
もうひとつ、司研集会で印象に残ったこと。渕野さんが、会場からの質問に促されるかたちで、「理論と実務の架橋」というテーマで発言された。ひたすら理念を語り続けることが、研究者としての使命だという趣旨のもの。短期的には無力に見えても、必ず実務への影響を及ぼすことに繋がるものとの信念を感じさせられる発言だった。
研究者の問題提起は、実務家が真摯に受けとめなくてはならない。実務家が人権を擁護する活動をするには世論に支えられなければならない。法制審の危険な動きについても、まずは、法律家の任意団体や弁護士会が受けとめ取り上げ発信しなければならない。そして、マスメディアを通じて世論を形成し抵抗する現実の力を作りあげなければならない。
そのような運動の第一歩としての司研集会となったと思う。
(2013年11月9日)
日本国憲法は103ヶ条から成る。9条(戦争の放棄)や13条(個人の尊重)、21条(表現の自由)、あるいは96条(改正手続)のような話題性満載の「花形」条文から、普段は目立たない「地味な」条文まで種々様々。58条2項などは、普段はその存在を忘れられている「地味派条文」の典型だろう。
憲法58条2項(議院規則・懲罰) 両議院は、各々その会議その他の手続及び内部の規律に関する規則を定め、又、院内の秩序をみだした議員を懲罰することができる。但し、議員を除名するには、出席議員の3分の2以上の多数による議決を必要とする。
この規定に基づく除名決議は、過去に衆議院で1回だけという。それも、60年以上前の話。除名に至らない懲罰事例も参議院では前例がないのではないか。衆議院でもここ6年はないようだ。
ところが、はからずも参議院でこの条文を参照しなければならない事態が2件続いている。山本太郎議員と、アントニオ猪木議員についてである。
国会法は、憲法58条2項の「院内の秩序を乱した」に値する議員の行為を「懲罰事犯」と言っているが、何が懲罰事犯にあたるかの明示はない。ただ、その典型例として「正当な理由のない会議欠席」を挙げ、以下のとおり、一定の場合には議長が懲罰委員会に付託することとしている。
国会法124条 議員が正当な理由がなくて召集日から7日以内に召集に応じないため、又は正当な理由がなくて会議又は委員会に欠席したため、若しくは請暇の期限を過ぎたため、議長が、特に招状を発し、その招状を受け取つた日から7日以内に、なお、故なく出席しない者は、議長が、これを懲罰委員会に付する。
参議院規則も同様に、何が懲罰事犯にあたるかの明示はなく、国会法に加えて次の典型例を挙げている。まさしく、院内の秩序を保つための規定である。
参議院規則235条 議長の制止又は発言取消の命に従わない者に対しては、議長は、国会法第116条によりこれを処分する(発言禁止・退場)の外、なお、懲罰事犯として、これを懲罰委員会に付託することができる。
委員長の制止又は発言取消の命に従わない者に対しては、委員長は、第51条によりこれを処分する(発言取り消し・発言禁止・退場)の外、なお、懲罰事犯として、これを議長に報告し処分を求めることができる。
また、懲罰の種類は次のとおり、国会法に定められている。
国会法第122条 懲罰は、左の通りとする。
一 公開議場における戒告
二 公開議場における陳謝
三 一定期間の登院停止
四 除名
懲罰に付すための手続も厳格である。もちろん、懲罰委員会が開催されなければならない。また、参議院規則では戒告の場合にも懲罰委員会が起草し、その報告書と共にこれを議長に提出することとなっている(参議院規則241条)。
さて、本日(11月8日)夕刊には、山本太郎議員に対する参議院の対応が報じられている。
同議員は10月31日に開かれた秋の園遊会で、天皇に手紙を手渡した。これが与野党の一部から「非常識だ」と批判され、岩城光英議運委員長の事情聴取を受けていた。
「毎日」の報道は以下のとおり。
「山崎正昭参院議長は8日、秋の園遊会で天皇陛下に手紙を手渡した山本太郎参院議員(無所属)に対して厳重注意した上で皇室行事への出席を認めないとする処分を伝えた。同日午前の参院議院運営委員会理事会で決定した。自民党は山本氏に対し、皇室行事への出席自粛を求める方針だったが、より厳しい処分となった。」
「朝日」は以下のとおり。
「参院の山崎正昭議長は8日、山本太郎参院議員(無所属)を呼び、園遊会で天皇陛下に手紙を渡した行動について『参院の品位を落とすものだ。参院議員としての自覚を持ち、院の体面を汚さないよう肝に銘じて行動してほしい』と厳重注意し、今後は皇室行事への出席を認めないと伝えた。山崎議長は13日の本会議で山本氏への注意を報告する。」
どうやら、参院議長から山本議員に、「参院の品位を落とす」行為があったとして、「口頭厳重注意」と「皇室行事への出席を認めないとする処分」が通知された模様。いずれにしても、憲法58条2項に定められ、国会法や参院規則で具体化された懲罰ではない。「口頭厳重注意」という懲罰はなく、また定められた懲罰の手続を踏んでいないのだから明白なこと。これ以外のバッシングの手段がなかったということだろう。
しかし、「厳重注意」は、法定の懲罰ではないが、参院議長がその公的な資格においてする同議員の行為への否定的な評価である。謂わば、法定手続を僣脱した「戒告」にほかならない。参院議長に「懲罰ならざる懲罰」を言い渡す権限があるとは到底考えがたい。
権限の根拠として考え得るのは、「国会法第19条 各議院の議長は、その議院の秩序を保持し、議事を整理し、議院の事務を監督し、議院を代表する。」の中の、「議院の秩序を保持する」に付随する権限であろう。しかし、山本議員の行為は、院外でのものであり、「議院の秩序」には何の関係もない。この条文を根拠に、各院の議長が議員の院外の行為に介入できるとする先例としてはならない。
先に見たとおり、憲法58条2項は、「院内の秩序をみだした議員を懲罰することができる」とする。「これ以外の場合には懲罰はできない」との反対解釈が成り立つ。院内の秩序に無関係な山本議員の行為について、議長が「懲罰同様の効果を有する厳重注意」を発する権限があるとする解釈は牽強付会と言わざるをえない。
厳重注意可能という解釈は、参院法制局のアドバイスによるものであろう。おそらくは、このアドバイスは、公務員の懲戒制度のアナロジーとしての発想によるもの。「法定されている公務員の懲戒は、戒告・減給・停職・免職の4種類だけ。しかし、戒告に至らない厳重注意や文書訓告などの、事実上の軽微な処分の発令が慣行化している。議長から議員に対しても同じことがいえるはず」という安易な類推である。選挙によって国民からの権限付託を受けた国会議員と院の議長との関係を、職務上の指揮命令に従うべき義務を負う一般職公務員とその上司との関係と同一視するもので、まことに乱暴な議論というほかはない。議長は、議員の上司ではない。一年生議員もベテランも、議員も議長も国民からの負託を受けている点で同等であって、差異はない。
そもそも、客として園遊会に招かれた国会議員が平穏に天皇に文書を渡すことが、なにゆえに「議院の秩序をみだす行為」たりうるのか、さらには、なにゆえ「参院の品位を落とすもの」であり、「院の体面を汚すもの」となりうるのか、理解を超えた認識である。バッシングの高まりを恐れて、天皇の権威を尊重するポーズをとって見せたというだけのことに過ぎない。
もっとも、山本議員にはこの点に抗議し争う意向はないごとくで、「『陛下に心労をお掛けした。猛省しなければならない』と謝罪の意向を示し『国権の最高機関の一員である自覚を深く持たなければいけないことを再認識した』と語った」と報道されている。この報道を前提としてでのことだが、この発言こそ議員としての不見識を露呈するもの。国民から付託を受けた国会議員たる者、自らの行為についての報告も釈明も謝罪も反省も、すべては国民に向かって行わねばならない。常に、国民に対して語りかけ、国民の声に耳を傾け、国民の理解を得、国民の利益のために行動すべきである。天皇に向けての謝罪と反省があって国民に向けてはなされていないことこそが、議員として猛省すべき点である。また、今回の行動の反省として「国権の最高機関の一員であることの再確認」というのも不適切。国会の最高機関性の在り方が問題なのではなく、国会議員として国民の代表であることの自覚の欠如が問題なのだ。
だがもしも、単なるバッシング以上に、右翼の暴力などによる具体的な危害の恐怖が伏在していたとすれば、問題はより深刻で、同議員には気の毒なことというほかはない。
(2013年11月8日)
谷内正太郎(やち しょうたろう)という元外務官僚が、突然に時の人となった。本日(11月7日)、衆院本会議を通過した国家安全保障会議(日本版NSC)設置法案が参院でも可決されて成立すれば、政府がこの人を国家安全保障局の初代局長に充てる予定と報じられている。「内定」しているとの報道もある。現在は内閣官房参与となっているこの人、内閣法制局長官やNHK経営委員に続く、露骨な安倍身勝手人事(アベノヒイキ)の一環である。
この時の人が、11月4日都内のホテルで開かれたシンポジウムに出席した。もちろん、市民団体の学習会などではない。「国家基本問題研究所」(櫻井よしこ理事長)が「安倍政権発足10か月?集団的自衛権と日本の防衛」をテーマに開催したもの。例の「ある日気がついたらワイマール憲法がナチス憲法に変わっていた。誰も気づかないで変わった。あの手口に学んだらどうかね」という麻生太郎の未曾有の発言が飛び出した、あの舞台なのだ。谷内氏のほか、自民党の佐藤正久前防衛政務官、田久保忠衛杏林大名誉教授なども出席したという。
この舞台で、彼は安倍政権が進める集団的自衛権行使容認に関して、「行使できるように憲法解釈を変更すべきだ」と訴え、「どこの国も集団的自衛権は保有しているし行使できる。実際に行使するかは政治判断、政策の問題だ。『地球の果てまで米国と一緒になって戦争をするのか』という議論があるが、ほとんどナンセンスだ」と述べたと報じられている。さすがに、「アベノヒイキ」に律儀な忠義ぶり。
さすがに、「集団的自衛権の行使を容認しても、地球の果てまで米国と一緒になって戦争をすることができるようにはならない」とウソは言えない。「憲法解釈の変更によって、地球の果てまで米国と一緒になって戦争をすることはできることになるが、当面そのような政策の選択はない」と言っているに過ぎないのだ。
私が注目したのは、これを報じる「毎日」の小さな記事。次のように言っている。
「谷内正太郎内閣官房参与は4日、東京都内で開かれたシンポジウムで、安倍政権が集団的自衛権の行使を容認する判断を来春以降に先送りした理由について『もっと広く国民に説明する必要がある』と述べ、与党の公明党の慎重姿勢に加え、世論調査での支持低迷があったとした。谷内氏は『集団的自衛権に肯定的な世論が多かったが、現実的な政治課題となったら、慎重論が増え、賛成派より反対派が多くなった』と説明。一方で、『個別のケースで質問すると、日本は集団的自衛権を行使した方がいいという回答が増える』と述べ、解釈変更に向けた環境作りとして、世論の理解を得るため努力を尽くしていく考えを強調した。解釈変更を判断する時期については『政権としてはタイミングは決めていないが、安倍晋三首相には強い思い入れがある』と述べるにとどめた。」
世論調査を分析して世論の動向を見きわめて、集団的自衛権の行使容認は現時点で軽々にはできないと判断している。政治家ならぬ官僚ですら、かくも世論の動向に敏感なのだ。彼らとて愚かではない。ひたすらに法案を通すことだけを至上の課題とはしていない。数を恃んでゴリ押しに法案を可決しても、世論のブーイングで内閣が危うくなるのでは、差し引きの計算が合わないこととなる。状況次第では、「集団的自衛権の行使容認の無期限先送り」という判断も十分にありうるということだ。
焦眉の課題となった特定秘密保護法案についても同じこと。NSC法案の衆議院採決では、自・公・民・維・みんなが賛成に回ったが、特定秘密保護法では同じようには行くまい。最新の共同通信の世論調査で、反対が過半数を超えている。反対運動の盛り上がりは急速である。さらに、マスコミ論調が明らかに変化している。世論が、議員や政党の動揺をさそい、国会内の雰囲気も変えつつある。結局は世論の動向次第で、自民党中枢は「ゴリ押ししてでも法案の成立を狙うべきか、それとも無理して大火傷をすることを避けるべきか」の選択をすることになる。議席の数だけで法案の成立が決まるというものではないのだ。
国家機密法を廃案とした1985年当時を思い出す。今回も稀代の悪法を廃案にする展望は開けつつある。
(2013年11月7日)
終戦で廃止になるまで軍国日本を支えた法律のひとつに軍機保護法があった。1899年に公布され、1937年戦争一色となった時代に全面改正され、さらに太平洋戦争突入前夜の1941年にも改正されて、軍部による国民統制の強力な手段の一つとして猛威を振るった。陸海軍大臣が定めた軍事上の秘密の探知、収集、漏泄などを罪とするもので、軍人のみならず一般人も対象となり、言論や出版だけでなく、旅行や写生・撮影までも制限された。最高刑は死刑。ゾルゲや尾崎秀実がこの罪名で刑死した。
軍国主義には、軍機保護の法制が不可欠であり、戦時色の進展にともなってそれにふさわしい厳格な法制度が必要なのだ。いま、安倍内閣が特定秘密保護法の制定に着手していることの意味を考えねばならない。また、万が一にもこの法律が制定されれば、今後の軍国主義の進展とともに、必ずや改悪されていくことになろう。
軍が階級社会であることにふさわしく、軍事秘密にも階級が付けられた。最高秘密が「軍機」、以下「軍極秘」、「極秘」、「秘」、「部外秘」の順。かつて国家機密法反対運動をした当時には、防衛庁(当時)の防衛秘密には、「機密」「極秘」「秘」の3段階があると教えられた。だから、われわれは、1985年に提案側が「スパイ防止法」と呼んだ法案を「国家機密法」と呼んだ。しかし、この区別は今はなく、現在の防衛省の訓令では、「特別防衛秘密」、「防衛秘密」、「秘」の3段階なのだそうだ。
もっとも、軍機保護法の条文に5段階の等級が定められていたわけではない。あくまで、内規での取扱い。特定秘密保護法にも「行政機関の長」が指定する特定秘密に等級はない。内規での等級がどうなるかはともかく、特定秘密保護法が成立すれば一挙に40万件余とされる「特定秘密」が誕生する。その法的性格はいくつかに分類できると思う。
特定秘密とは、以下の実質的要件を満たす情報であって、行政機関の長が指定したものである(法案第3条1項)。
(1) 当該行政機関の所掌事務に係る別表に掲げる事項に関する情報で
(2) 公になっていないもので
(3) その漏えいが我が国の安全保障に著しい支障を与えるおそれがあるため、特に秘匿することが必要であるもの
実質的に以上の(1)?(3)の要件を具備する情報とされ、手続において行政機関の長による特定秘密の指定を経た情報群を仮に「指定秘密」(A群)としておこう。A群に接してA群には含まれない情報群を「非指定秘密」(B群)とする。もちろん、国民誰もB群情報の取扱いに関して刑事責任を科されることはない。A群に限って、情報の漏えいや取得に関して厳罰が用意されている。
ところが、何がA群の範疇に属する秘密であるかはヒミツなのだ。「当該指定に係る特定秘密の取扱いの業務を行わせる職員」または、「特定秘密を保有させられた当該適合事業者」以外には、厳重に秘匿されている。一般国民にはA群とB群との境界はまったく分からない。なにしろ、「何が秘密かはヒミツ」なのが秘密の本質なのだから。
その境界が分からない以上、公権力はA群だけでなくB群に属する情報もできるだけ広範囲に秘匿しようと振る舞うことが可能となる。国民の側から見れば、あらゆる情報へのアクセスに萎縮効果がはたらくことにならざるをえない。
それだけではない。むしろ問題はA群の中にある。
本来国家の情報は国民のものであることが原則。しかし、国家の持つ情報のすべてを国民に公開することの徹底は非現実的といえよう。入札に関する情報や、裁量範囲内での交渉の落としどころに関する情報などを典型として秘密を保持すべき情報があることは否定し得ない。このような実質秘とするに合理性を持っている秘密を仮にA1群としておこう。それ以外の情報は、秘密指定に問題ありということになるが、その範疇を二つに分けて考察することが有益だと思う。当該行政機関の真摯な検討において上記(1)?(3)の要件を厳格に充足しているとして積極的に秘密指定の必要ありとするものと、必ずしも(1)?(3)の要件を充足しているとは言いがたいものについて国民に知られたくない不都合な情報として特定秘密の指定をされた情報群とである。これを、A2群、A3群と名付けておこう。
比喩的に、A1は白、A2はグレイ、A3は黒である。そのA1、A2、A3の各群の境界はまことに不明確である。「何が秘密かはヒミツ」なのだから、検証も困難である。不可能に近い。
最も問題なのは、「その漏えいが我が国の安全保障に著しい支障を与えるおそれがあるため、特に秘匿することが必要である」という文言の解釈である。当然に、この文言は憲法に照らして解釈されなければならない。日本国憲法は、武力に依拠した平和という観念を持たない。また、その9条2項で「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない」と明言している。自衛隊という軍事組織の存在を前提とし、安保条約という武力超大国との軍事同盟の存在を前提とする防衛秘密がどこまで法的保護に値する合法的な秘密でありうるかは、常に微妙な問題を孕んでいる。
しかも、特定秘密指定の実質的要件を充足することが必ずしも十分とは言えないA3群について、これを国民の目に触れることによる批判から逃れるために、特定秘密として指定して隠蔽することが可能であり、そのことを検証する手段がない。これも、「何が秘密かはヒミツ」の効果である。
以上のとおり、国民が主権者として知りたいと望み、政策決定のために知らねばならない情報が、特定秘密の指定によって秘匿される。戦争と平和に関わる、国民にとって最も重要な情報が隠蔽されることになるのだ。国民がアクセスしたい情報が、A情報(指定情報)なのかB情報(非指定情報)なのか、A情報(指定情報)としてA1(白)なのか、A2(グレイ)なのか、A3(黒)なのか。すべては、闇の中である。
これを可能としているのが、「何が秘密かはヒミツ」「秘密の範囲はヒミツ」「我が国の安全保障のために一切お答えできない」というこの法律の本質である。平和主義と民主々義を破壊する天下の悪法といって差し支えない。軍機保護法の再来を許してはならない。
その法案が、明日(11月7日)から衆議院で審議入りするという。心ある国民が、一斉に廃案への声をあげることを期待したい。
(2013年11月6日)
2012年東京都知事選ではリベラル派候補惨敗に終わったが、2013年ニューヨーク市長選では「元左翼活動家」とされるリベラル派市長候補の圧勝確実と報じられている。
各種世論調査によって、本日(11月5日)行われる市長選で当選確実視されているのは、民主党の市政監督官ビル・デブラシオ氏(52)。市政監査官とは耳慣れぬ言葉だが、public advocateの訳語でニューヨーク市では「市長に次ぐナンバー2の地位にあり、市長と同様に選挙で選任される」のだそうだ。
デブラシオ氏は01年にニューヨーク市議に初当選し、10年に市政監督官に就任した。高校時代から反核運動などに取り組み、90年代初頭まで中米ニカラグアの左派サンディニスタ民族解放戦線を募金活動などで支援していたことで知られている(毎日)、とのこと。
これまでの市政が大企業寄りの政策で「富裕層と貧困層の格差が拡大した」との現市長批判や、年収50万ドル(約4900万円)以上の市民に増税して幼児教育を拡充する公約が支持を集める(毎日)。また、病院閉鎖の回避や黒人や中南米人を狙いうちにした警察の捜査手法に制限を加えるなど、富裕層と貧困層という「市の両極」に向き合うと公約している(ロイター)という。10月の連邦政府機関一時閉鎖で「戦犯」視された共和党の不人気も追い風となり、最近の世論調査では、7割近くが「これまでと方向が異なる市政」を望むとの結果と報じられている。
さらに、人口動態もデブラシオ氏を後押ししていると指摘されている。白人比率は90年の43%から10年には33%に減少。一方、この20年間でヒスパニック系が24%から29%に増加、黒人、アジア系を加えると計64%だ。こうした非白人層は民主党支持者が目立ち、デブラシオ氏が「救済」を訴える貧困世帯も多い。
さて、ニューヨークと言えば資本主義世界のメッカ。資本主義と言えば、レーガノミクスや新自由主義を連想する。事実、現ブルームバーグ市長は紛れもない、「世界一の金持ち市長」として知名度を誇る人物。
ウィキペディアによれば、彼は、ハーバード・ビジネス・スクールで経営管理学修士号(MBA)を取得し、その後は証券会社大手のソロモン・ブラザーズに勤務。退社後に通信会社ブルームバーグを設立し、ウォール街の企業へ金融情報端末を販売して巨万の富を築き上げた、世界でも有数の大富豪とのこと。唾棄すべき「金融賭博業界」でアブク銭を掴んだ勝者、薄汚い「アメリカン・ドリーム」の体現者なのだ。
ほかならぬニューヨークでの、「ウォール街の大富豪市長」から「格差是正を掲げる左翼活動家市長」への象徴的大転換。新自由主義に揺れた振り子が方向転換のきっかけにならないか。なんとなく、爽やかで暖かい新しい風が吹き始める、そんな予兆を感じるのだが‥。
(2013年11月5日)
特定秘密とは地雷である。どんな地雷がどこに仕掛けられているかは厳重に秘匿される。それゆえの恐怖の効果によって「敵」の進軍を防ぐことが可能となる。同様に、どこにどのような処罰対象の特定秘密があるかは秘匿される。それゆえの絶大な威嚇効果が、国民の国家情報へのアクセスへの萎縮効果を招くことになる。
地雷を踏んで初めて、地雷が仕掛けられていたことが明らかになる。同様に、逮捕され起訴されて初めて、当該の情報が処罰対象の特定秘密であったことが判明するのだ。
地雷を踏んだ兵士の犠牲によって、個別の地雷の位置と性能は明らかになるが、地雷原の広さは分からない。さらに無数の地雷が存在しているであろうという恐怖が、進軍を防止する効果を高める。同様に、個別の特定秘密漏洩事件の処罰も、その現実化した恐怖が国家権力による国家情報へのアクセス禁止の威嚇効果を高め、国民のあらゆる情報へのアクセスの努力について、さらなる萎縮効果をもたらすことになる。
特定秘密保護法が地雷敷設にたとえられるのは、その危険性と埋設自体の秘匿がもたらす恐怖が近似しているからである。ところが、特定秘密保護法案を提出した政府与党の頭の中は、「自軍の地雷の所在を漏洩したり探知して公表することが利敵行為として処罰の対象となるのは当然ではないか。国家秘密漏洩や教唆も同じこと」というものであろう。実は、それが大間違いなのだ。
本物の地雷の破壊力は「敵軍」に向けられるものだが、特定秘密保護法の危険は自国民の権利に向けられる。自国民に向けられた地雷の付設が許されてよいはずはない。さらに、地雷の敷設は開戦後の戦時下に限られるところ、特定秘密保護法は平時に猛威を発揮する。戦時下特定の限られた局面では、地雷の埋設が合理的な防衛措置となる場合があるかもしれない。しかし、だからといって、平時に猛威を発揮する特定秘密の保護と同列に論じてはならない。戦争は絶対に回避しなければならないし、日本国憲法は一切の戦争を禁じている。
地雷埋設情報と特定秘密。その秘匿の合理性の異同を考えるに際しては、「現実に戦争になった場合には」との前提であってはならない。あくまでも、「万が一にも戦争など起こしてはならない」とする基本視点からの考察でなくてはならない。すべては、戦争を防止する視点からの立論を当然とする。戦時を想定しての地雷敷設が、戦争の想定を許さない平時における法制と「同じこと」であってよいわけわけがない。
さらに、自国の「自衛」のための軍備の増強は、近隣諸国の疑心を招き相手国の「自衛」のための軍備の増強の引き金となる。お互いの「自衛」の軍備増強が、お互い相手国に「自衛力増強」の必要性を語らせることになる。同様に、「安全保障の法整備」の強調も、「防衛秘密保護の立法」も、近隣諸国の疑心を招き相手国の「自衛」のための軍備の増強の要因をつくり出す結果となる。
特定秘密保護法の制定は、平時において国民の知る権利を侵害して民主々義に危険を及ぼすだけでなく、戦争を招き寄せる危険性をも孕むものである。その意味で、法の制定自体が地雷の埋設と同様の危険な行為なのだ。
(2013年11月4日)
1946年11月3日「日本国憲法」が公布された。よく知られているとおり、この日は明治節(明治天皇・睦仁の誕生日)を特に選んでのもの。憲法記念日「5月3日」は、「公布の日から起算して6箇月を経過した日」(憲法100条1項)にあたる日本国憲法の施行期日を、国民の休日としたものである。
67年前の今日、天皇裕仁は、午前8時50分宮中三殿において憲法公布を「皇祖皇宗」に「親告」し、次いで午前11時、国会議事堂貴族院本会議議場において、日本国憲法公布の勅語を読みあげた。その全文は以下のとおり。
「本日、日本國憲法を公布せしめた。
この憲法は、帝國憲法を全面的に改正したものであつて、國家再建の基礎を人類普遍の原理に求め、自由に表明された國民の總意によつて確定されたものである。即ち、日本國民は、みづから進んで戰爭を放棄し、全世界に、正義と秩序とを基調とする永遠の平和が實現することを念願し、常に基本的人權を尊重し、民主主義に基いて國政を運營することを、ここに、明らかに定めたものである。
朕は、國民と共に、全力をあげ、相携へて、この憲法を正しく運用し、節度と責任とを重んじ、自由と平和とを愛する文化國家を建設するやうに努めたいと思ふ。」
これに対する総理大臣吉田茂の「奉答文」が次のとおり。まさしく、「臣・吉田茂」としてのものである。
「まことにこの憲法は,民主主義に基いて国家を再建しやうとする日本国民の意によつて,確定されたものであります。そして,全世界に率先し,戦争を放棄することをその条項に明らかにしたことにつきまして,私どもは,かぎりない誇りと責務とを感ずるものでござゐます。今後私どもは,全力をあげ,相携へて,聖旨に添ひ奉る覚悟でござゐます。」
この日、午後2時より、皇居前で東京都主催による新憲法公布の祝賀会が開催され、天皇夫妻が参加、約10万人の民衆が参集した。翌日の各紙は、「群衆は両陛下の周りに殺到し、帰りの馬車は群衆の中を左右に迂回しつつ二重橋に向かった」と報じている。(以上の時刻などは川島高峯氏による)
こうして公布された日本国憲法には、前文の前に以下のとおりの「上諭」と御名御璽が付せられている。「朕は、日本国民の総意に基いて、新日本建設の礎が、定まるに至つたことを、深くよろこび、枢密顧問の諮詢及び帝国憲法第七十三条による帝国議会の議決を経た帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる。」というもの。
何とも珍妙な光景ではないか。また、何とも形容しがたいパラドックスではないか。徹底した国民主権原理に基づく日本国憲法が、天皇主権の帝国憲法第73条による改正手続として行われたのだ。昨日までは主権者であり、神聖な現人神でさえあった天皇が、「ここにこれを公布せしめる。」と上から目線で国民主権憲法を裁可し、主権者の代表であるはずの内閣総理大臣が「私どもは,全力をあげ,聖旨に添ひ奉る覚悟でござゐます。」と奉答している。そして、民衆は、天皇を糾弾するでもなく、戦争責任を追及するでもなく、天皇の馬車の周囲に蝟集している。
中江兆民の「三酔人経綸問答」に、「世の所謂民権なる者は、自ら二種あり。英仏の民権は恢復的の民権なり。下より進みて之を取りし者なり。世また一種恩賜の民権と称すべき者あり。上より恵みて之を与ふる者なり。」という有名な一文がある。
私の言葉で翻訳すれば、「勝ち取った民権」と、「与えられた民権」の区別である。前者の分量の多寡は人民が随意に定めることができが、後者は与えられた限りのものとならざるを得ない。
日本国憲法の場合は、必ずしも人民が勝ち取った主権とは言いがたいが、旧天皇制権力はその分量の多寡を定める力も権限も持っていなかった。それゆえの、67年前の今日の、天皇と首相と群衆の珍妙な光景だったといえよう。
日本国憲法が、人類普遍の原理に基づいた民主々義憲法として定着するか、それとも日本固有の歴史・伝統・文化にそぐわない借り物として廃棄されることになるか、憲法公布の日には定まってはいなかった。この、混沌とした憲法の運命を確固たるものとしたのは、ひとえに国民の憲法意識と憲法運動とであった。
国民自身が、憲法擁護を我が利益とし、改憲の策動を人権や平和を侵害する危険なものとして意識的に抵抗し続け、憲法を日々選びとってきた歴史が、今日まで一度の改憲も許さない成果を収め、憲法を国民自身のものとして定着させてきたのだ。
今、かつてない規模の改憲策動に直面しているが、憲法擁護の運動の始まりの日である67年前の今日に思いを馳せ、改めて憲法の理念を確認するとともに、これを堅持する決意を固めたいと思う。
(2013年11月3日)
山本太郎議員の天皇への書状交付に対するバッシング事件。私のスタンスは、あくまでも天皇の権威を後生大事とする勢力からのバッシングの危険に警鐘を鳴らすもの。自民党の一部に、「世が世であれば不敬罪」という発言があったことが報道されている。これに、世論が靡くようなことあれば背筋が寒くなる。「世は世でない」ことをしっかりと弁えてもらわねばならない。園遊会や、叙勲や、国体や、被災地訪問や‥、天皇の政治利用は山ほどある。これを不問に付したままの山本バッシングは明らかに理不尽といわねばならない。山本議員辞職勧告決議などあってはならない。
だから、昨日のブログでは「敢えて山本太郎議員を擁護する」一文をものした。しかし、同議員の行動を褒めるべきものとは思っていない。本日は敢えて山本太郎議員に苦言を呈したい。
考えなければならないのは、天皇への働きかけのもつ意味についてである。天皇とは、「この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない」(憲法4条)存在である。もちろん、選挙権も被選挙権も有しない。政治的な表現の自由すら持たない。したがって、天皇その人に何らかの政治的見解に与してもらうべく働きかけることはまったく無意味である。天皇への働きかけによって、天皇が何らかのメッセージを発することを期待するとしたら、それこそ天皇の政治利用そのものである。つまりは、天皇への働きかけは無意味・無駄であるか、有害であるかのどちらかでしかない。
天皇への働きかけによって天皇の意見に影響を与え、その結果として天皇に何らかの言動を行わせようとすることが典型的な天皇の政治利用であろう。これは、天皇の権威や影響力の利用という点で、本来無力であるべき天皇に政治的な力を確認させる危険な行為である。もちろん、この点は政権を有する勢力に対し、より厳格に回避を求めるべきではあるが、国民すべてに自制が求められる。
そもそも、民主々義とは主権者たる国民間の討議による相互説得の政治過程にほかならない。ここに天皇の権威が介入する余地はない。自らの見解を天皇の賛意によって権威付けようという動機の不純さは徹底して批判されなければならない。天皇への接触によって世間の耳目を集めようとのパフォーマンスも、厳格にこれを排斥しなければならない。そうでなくては政権与党に効果的な天皇の政治利用を許す口実を与えることとなってしまうだろう。
保革を問わず、政治家たるものは民衆に向かってものを言わねばならない。民主々義憲法に夾雑している異物としての天皇に向けての発言は、明らかにそのベクトルを間違えている。
私は、山本議員の反原発の姿勢や情熱を評価するにやぶさかではない。しかし、天皇への語りかけのパフォーマンスは、民衆の立場を標榜する政治家としてなすべきことではなく、天皇の権威の利用はセンスが悪いとしか言いようがない。この点の批判の視点は、今回の同議員の行動が社会人として礼を失するとか、穏当さを欠くからというものではない。あくまでも、民主々義の理解が浅薄で、天皇制批判を軽視する姿勢を問題としているのだ。彼に続いて、愚行を重ねる者が出ることがないよう願っている。
(2013年11月2日)
天皇に文書を手渡した山本太郎議員に対するバッシングは、はからずも現代における天皇制の実像を可視化するものとなった。天皇の神聖性を傷つける山本の行為をタブーに触れたとする攻撃は凄まじく、法とは乖離した象徴天皇制の体制維持圧力の危険を露わにしている。改めて、象徴天皇制のもつ本質的な危険性を指摘せざるを得ない。その文脈で、私は敢えて山本太郎を擁護する。
本日(11月1日)自民党の脇雅史参院幹事長は党役員連絡会で「憲法違反は明確だ。二度とこういう事が起こらないように本人が責任をとるべきだ」と要求したと報道されている。ほかにも、下村博文文部科学相は「議員辞職ものだ。これを認めれば、いろんな行事で天皇陛下に手紙を渡すことを認めることになる。政治利用そのもので、田中正造に匹敵する」と批判。公明党の井上義久幹事長は「極めて配慮にかけた行為ではないかと思う」、同党の太田昭宏国土交通相も「国会議員が踏まえるべき良識、常識がある。不適切な行動だ」。古屋圭司国家公安委員長は「国会議員として常軌を逸した行動だ。国民の多くが怒りを込めて思っているのではないか」。新藤義孝総務相は「皇室へのマナーとして極めて違和感を覚える。国会議員ならば、新人とはいえ自覚を持って振る舞ってほしい」。田村憲久厚生労働相は「適切かどうかは常識に照らせばわかる」、稲田朋美行政改革相は「陛下に対しては、常識的な態度で臨むべきだ」と不快感を示した。民主党の松原仁・国会対策委員長までが、「政治利用を意図したもので、許されない」と批判。興味深いのは、日本維新の橋下徹大阪市長。他人のこととなれば、「日本国民であれば、法律に書いていなくても、やってはいけないことは分かる。陛下に対してそういう態度振る舞いはあってはならない。しかも政治家なんだから。信じられない」と遠慮がない。安倍晋三首相も周囲に「あれはないよな」と不快感を示したという。自民党の石破茂幹事長は記者会見で「見過ごしてはならないことだ」と言明。谷垣法相も「天皇陛下を国政に引きずり込むようなことにもなりかねない」と懸念を示した。不快、批判、懸念のオンパレードだ。
各政治家の口から出ているのは、良識・常識・マナー・配慮、不適切などの曖昧模糊とした感情的語彙のみ。論理を語る者がいない。比較的正直なコメントが、「陛下に対してそういう態度振る舞いはあってはならない」という、「天皇ハ神聖ニシテ侵スベカラズ」感覚のホンネ。そして、「天皇の政治利用」あるいは、「天皇を国政に引きずり込むようなことにもなりかねない」とさすがに断定を避けた歯切れの悪い物言い。これも、なぜそうなるのかに切り込んでいない。
ハッキリしておこう。マナーとルールとは、まったくの別物だ。山本の行動をマナー違反と誹るのは、表現の自由に属する。山本も国会議員である以上、批判の言論に曝されることは覚悟しなければならない。しかし、山本の行為をルール違反として制裁を科することには慎重でなくてはならない。「憲法違反は明確だ」という批判には、批判者の責任が生じることを覚悟しなければならない。
山本の行為は、明仁という個人に話しかけ文書を手渡した私的行為であるか、天皇という官署に請願をしたかのどちらかである。どちらであるかは、園遊会という行事の憲法上の位置づけと関わる。
園遊会が私的な行事だとすれば、客として呼ばれた山本が、ホストと会話を交わし私的な文書を手渡したというだけのことに過ぎない。ルール違反の問題は起きようもない。
園遊会が公的な行事だとすれば、山本が会話し文書を手渡した相手は官署としての天皇だったことになる。天皇宛に手渡した文書の内容に、「損害の救済、公務員の罷免、法律、命令又は規則の制定、廃止又は改正その他の事項」に関する要請が含まれているとすれば、天皇に対する請願権の行使となる。憲法16条は、「何人も平穏に請願する権利を有し、何人も、かかる請願をしたためにいかなる差別待遇も受けない。」と明記する。ちなみに、大日本帝国憲法ですら、こう定めていた。「第30条 日本臣民ハ相当ノ敬礼ヲ守リ別ニ定ムル所ノ規程ニ従ヒ請願ヲ為スコトヲ得」。
請願権の行使先に天皇が含まれることは自明であって、請願法はこの旨を明記している。また、山本が平穏に請願権を行使したことに疑問の余地はない。ならば、「何人も、かかる請願をしたためにいかなる差別待遇も受けない」というのがルールである。まさしく、憲法は請願権の行使に対するバッシングがあり得ることを危惧し、請願を封殺することがないよう配慮して差別待遇を禁じているのである。
もっとも、現行請願法3条は、「天皇に対する請願書は、内閣にこれを提出しなければならない」とする。本来は内閣に提出することが筋ではある。しかし、同法第4条は、「請願書が誤つて前条に規定する官公署以外の官公署に提出されたときは、その官公署は、請願者に正当な官公署を指示し、又は正当な官公署にその請願書を送付しなければならない。」と救済規定を置く。あくまで、請願を実効あらしめようという配慮なのだ。
そして、同法第5条は「この法律に適合する請願は、官公署において、これを受理し誠実に処理しなければならない。」と定める。天皇は、請願書を内閣に送付し、内閣においてこれを受理し誠実に処理しなければならない」のである。
要約して言えば、園遊会が私的行事なら私人間における言論の授受に何のルール違反もなく、園遊会が公的行事なら山本の天皇宛の請願権の行使は内閣において誠実に受理し処理しなければならない。請願は平穏になされなければならないが、「畏れ多い」だの、「陛下にたいしてやってはいけない」などと言う情緒的理由による制約は憲法上あり得ない。請願法は、憲法と重複する規定として「第六条 何人も、請願をしたためにいかなる差別待遇も受けない。」と定めている。これに反して、参議院が、憲法と請願法を無視して、山本議員に対する制裁を科すようなことがあってはならない。
再度確認しておきたい。マナーは曖昧なものである。批判者が勝手に「これがマナーだ」と決めつけて、その基準でマナー違反を批判することが可能である。しかし、当然のことながらマナー違反に違反者の権利や資格を剥奪する効果はない。たいして、ルール違反には、何らかの実効的な制裁がともなう。したがって、ルールは一義的に明確なものでなくてはならない。
今のところ、山本に対するルール違反の明確な指摘はない。ただただ、曖昧な感情的批判が積み上げられているだけ。その非理性的な情緒的批判の集積が巨大な社会的圧力となり、マナーとルールの壁をも突き破りかねない。ここに危険な天皇制の本質を見る思いである。山本に対するバッシングの付和雷同を看過してはならない。
(2013年11月1日)