本日(6月10日)の各紙朝刊が、「集団的自衛権:『限定容認』で20日にも閣議決定へ」「閣議決定骨子判明」と報じている。これまでの「与党で一致することが極めて重要。時間を要することもあるだろう」という首相の構えからは、急旋回の方針転向。安倍政権は、どうしてこんなにも焦っているのだろうか。集団的自衛権行使容認問題では、無理に無理を重ねて、国民の不信と保守陣営の軋みや亀裂を招いている。まったく余裕が感じられない。
それでも、強行しなければならないとする判断は、「やれるとしたら今しかない」「議席数も支持率も、今が最大瞬間風速の時」「この機を逃せば、永遠に憲法解釈変更は不可能」との認識に基づくものであろう。
おそらくは、政権中枢には、「現在の政権与党の議席占有率は小選挙区のマジックで掠めとったもの」「国民の支持の実態は、議席数の見かけとは大きく離れている」「第1次安倍政権も、政治問題を前面に出して支持を失いみっともなく崩壊した」「現政権が順調なのは経済が好調なうち」という意識が強いものと思われる。
この点を、本日の朝日は、「首相が閣議決定を急ぐのは、今年後半にかけて景気回復が鈍化し、高い内閣支持率を維持してきた政権の勢いがそがれる事態を懸念しているためだ。安倍政権の命運がかかる経済政策では、政府が今月まとめる新たな成長戦略と『骨太の方針』に対する市場の反応が見極めにくい。首相は今年末に消費税率10%への引き上げの判断も迫られる。」と解説している。
毎日の報道では、「集団的自衛権の行使容認など安全保障法制整備のため、政府が今国会中を目指す閣議決定の原案が9日、判明した」とし、その内容を「集団的自衛権は『自国の存立を全うするために認められる必要最小限度の武力行使』に含まれるとの考え方を表明。その上で『集団的自衛権を行使するための法整備について今後検討する』と明記する。行使は認められないとしてきた現行憲法解釈を事実上変更し、日本の武力行使を個別的自衛権に限ってきた長年の憲法9条解釈を根本から転換する内容だ」と報じている。
また、その時期については、「閣議決定は20日にも行う案が政府内で浮上しており、政府高官は『調整局面に入ってきた』と述べ、公明党の理解は得られるとの期待を示した」「安倍晋三首相は今国会中の20日にも閣議決定する構え」としている。明らかに、与党協議が進展しないことに業を煮やした政権が、公明党に期限を切って最後通牒を突きつけたのだ。このまま20日閣議決定するとなったら、公明党から閣議に参加している太田昭宏国土交通大臣は窮地に陥ることになる。
公明党が、「平和の党」としての立党の精神を守り抜けるか、それとも政権の「下駄の雪」でしかなかったことになるのか。公明党の正念場でもある。
一方、読売は相変わらずの安倍政権提灯持ち役。従来型保守のイメージではとらえられない極端な論調で、「集団的自衛権『容認』閣議決定へ調整を急げ」という社説を掲げている。
さすがに、冒頭の一文は、「日本の安全保障を左右する問題だけに、徹底した議論は必要だ」となっている。そのとおり、徹底した議論を尽くすべきで、押し付けや恫喝をすべきではない。また、「徹底した議論」の透明性確保が重要で、密室での取引で収めてはならない。これまで公表されている議論の経過を追えば、「必要な徹底した議論」がなされていないことは明瞭ではないか。
にもかかわらず、これに続く文章が「一方で政府・与党は、時期が来れば、きちんと結論を出す責任がある」という。今、問題は、今会期内の閣議決定が必要かという文脈。到底、議論を尽くしての「きちんとした結論を出す』時期が到来しているとは考えがたい。それこそ、「無責任」と言わざるを得ない。
読売社説の意味のある見解は次の部分だけ。
「必要最小限の集団的自衛権に限って行使を認める『限定容認論』は、過度に抑制的だった従来の見解とも一定の整合性が取れる、現実的な解釈変更と言える」
微妙な表現である。限定容認論は、集団的自衛権の行使を違憲としてきた従来の政府解釈との「一定の整合性が取れる」というのだ。「一定の」という言葉の選択を微妙と言わざるを得ない。もちろん、「従前の解釈と整合」しているとは言えない。「従前の解釈と違う」とはなおさら言えない。そこで「かろうじて」「ギリギリ」「何とか」「曲がりなりにも」「どうにかこうにか」などとは言わず、「一定の」整合で収めたのだ。
あらためて、5月15日の、集団的自衛権に関する安倍記者会見の一節を記しておきたい。
「我が国の安全に重大な影響を及ぼす可能性があるとき、限定的に集団的自衛権を行使することは許されるとの考え方です。憲法前文、そして、憲法13条の趣旨を踏まえれば、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために、必要な自衛の措置を取ることは禁じられていない。そのための、必要最小限度の武力の行使は許容される。こうした従来の政府の基本的な立場を踏まえた考え方です」
さすがに、読売もこの安倍の牽強付会には付いてはいけなかったということだ。
(2014年6月10日)
本日(6月9日)沖縄タイムス(デジタル版)が、興味深いアンケート結果を発表している。同社と福島民報社の「両県首長アンケート」という共同企画。「調査は、沖縄県内の全41市町村、福島県内の全59市町村の計100人の首長が対象。沖縄県の宮古島市長、福島県の相馬市長を除く、98人から6月初めまでに回答を得た」とのこと。
米軍基地を押し付けられている沖縄と、原発災害に喘いでいる福島、それぞれがお互いの問題をどう見ているか。福島が沖縄を見る目と沖縄が福島を見る目、そして両者が自分の問題を見つめる視点との大きな落差。全国民が、わがこととしてこの結果を考えなければならない。このアンケートを企画した両紙に敬意を表したい。
沖縄タイムスの見出しはこうだ。『「辺野古反対」沖縄53%、福島9% 両県首長アンケート』。沖縄にとって愕然たるこの落差。沖縄のもどかしさが伝わってくる。
記事を抜粋して紹介する。
「沖縄タイムス社と福島民報社は合同で、沖縄・福島両県の全市町村長を対象に、国の安全保障政策やエネルギー政策などに関するアンケートを実施した。米軍普天間飛行場の名護市辺野古移設について、沖縄県内で過半数の21人(53%)が「進めるべきではない」と回答したのに対し、福島県内では5人(9%)にとどまった。一方、原発を「重要なベースロード電源」と位置付けた国のエネルギー基本計画については、両県ともに「評価しない」が最も多く、沖縄で19人(48%)、福島で38人(66%)に上った。
東京電力福島第1原発事故を受け、脱原発を求める傾向が沖縄、福島両県で広がる一方、普天間問題については両県で意識のギャップが浮き彫りになった。」
対比が明瞭になるよう、整理してみよう。
(1) 普天間飛行場の辺野古移設について、
「進めるべきではない」 沖縄 53% 福島 9%
「どちらとも言えない」 沖縄 30% 福島 72%
「無回答」 沖縄 13% 福島 5%
「進めるべき」 沖縄 5% 福島 14%
(2) エネルギー基本計画について
「評価しない」 沖縄 48% 福島 66%
「どちらとも言えない」 沖縄 38% 福島 31%
「評価する」 沖縄 0% 福島 3%
「無回答」 沖縄 15% 福島
このブログを書いている時点では、福島民報側の記事は出ていない。おそらくは、沖縄タイムスとは違った見出しになり、原発・エネルギー問題についての「意識のギャップ」が語られることになるだろう。
キーワードは「意識のギャップ」。同じアンケートを、東京や大阪でやったらどのような結果になるだろうか。おそらくは、「自分の地域の問題ではない」という、当事者地域との「意識のギャップ」があからさまに出ることになるのではないか。
基地も原発も日本全体の問題である。しかし、当事者地域とその他の地域。問題を押し付けられた「地方」と、その犠牲の上に繁栄している「中央」。その落差を埋めなければならない。その作業は、まずは「意識のギャップ」存在の確認が第一歩となる。
(2014年6月9日)
数ある古川柳の中で、誰もが知る句の筆頭として挙げるべきは、
役人の子はにぎにぎをよく覚え
ではないだろうか。
明和2年(1765)年発行の「誹風柳多留(初編)」所載第78句。原典は宝暦9(1759)年の句会の作として刷られたもの。賄賂請託政治として語られる田沼意次の時代は、宝暦から明和・安永を経て天明期(1760年代?80年代)とされる。
世相を映した句であったが、古典となるべき普遍性をもっていた。「柳多留」の第2編には、
役人の骨っぽいのは猪牙にのせ
というのもある。猪牙(ちょき)とは、吉原通いの川舟のこと。金と接待、これが、富者の官僚・政治家懐柔の常套手段であった。
今も、政治がカネで動かされていることは、庶民感覚の常識。5月30日の仲畑川柳欄に次の一句がある。
「言う事が変わった カネが動いたな」
秀逸句として採用されていないのが残念だが、これは新しい古典となりうる。
ところで、田沼の時代ではなく今の世。政治を金で買おうというのは大企業の本能である。その本能を隠すか顕すか。経団連会長の交代とともに、この本能が露わになろうとしている。
6月3日に就任した榊原定征新会長(東レ)は、「政治と経済は車の両輪だ。政治との連携を強め、『強い日本』の実現に向けて協力していく」と述べた。本音を翻訳すれば、「政治の力で商売の基盤を整備してもらわねばならない。そのために政権には相応の協力を惜しまない」ということだ。具体的には、経団連を窓口にする企業献金あっせんを再開しようと言うのだ。政治とカネにまつわる大問題。この点についての中央各紙の社説が出揃った。
まずは、「重厚長大に偏らぬ経団連に」という、6月4日の日経社説。
「榊原会長は政治献金への関与を再開するかどうかを検討するとしている。関与するなら政策の評価基準や献金額への反映の仕方の透明化が欠かせない。昨年、4年ぶりに復活させた政策評価では自公政権の経済政策を高く評価した理由が曖昧だった。説明責任を果たさなければ企業不信を買う。」
世論の反感が企業不信に発展することを憂慮して、「政治献金は上手にやるように」というアドバイスである。財界紙としては、当然の姿勢。
これと対照的なのが、「経団連新体制 問われている存在意義」という、同日の東京新聞社説が歯切れ良い。
「かつての財界の力の源泉は資金支援、スポンサー役だった。(経団連は)ゼネコン汚職や政権交代などを機に政治献金のあっせんをやめ、それに伴って発言力が低下したのである。しかし、だからといって政治献金のあっせん復活を検討するというのは安易に過ぎる。
すでに政党助成金があり、国民の負担で政治活動を支えているのである。安倍晋三首相は、大胆な金融緩和などを批判した米倉弘昌前経団連会長と距離を置き、経団連は一層影響力が低下したが、そんな仕打ちができたのも政党助成金があるからである。
安倍首相は産業競争力会議で、楽天の三木谷浩史会長兼社長や経済同友会の長谷川閑史代表幹事らを重用している。今さら政治献金ですり寄ったところで『カネで政策を買うのか』といった批判を招くだけである。」
産経は、6月5日に「榊原経団連 官民一体で改革の推進を」という「主張」を掲載した。
「政治との関係では、企業に政治献金を促す組織的関与の再開を検討している点に注目したい。
企業も社会的存在として一定の献金が認められるのは当然だが、政界で政治資金の透明化への新たな取り組みがない中、単に政党の資金繰りを助けるのでは無責任だろう。受け取る側に厳しく注文もつける総合的判断を求めたい。」
同紙は、政治的には右派のスタンスを固めているが、企業の政治への介入の問題については、この程度のことしか言えないのだ。
読売は、同日「榊原経団連発足 政権との関係改善進めたい」とする社説を出した。
「政治献金への関与から手を引いた経団連は、以前より政界に対する発言力が弱まっている。昨年には、傘下企業が政治献金先を決める目安となる『政策評価』を4年ぶりに再開したが、与党だけを評価し、政策分野ごとに評点をつけるランク付けも見送った。企業が献金先を判断する指標としては不十分だろう。
企業がルールを守ったクリーンな献金を通じて、政治に参加する意義は依然として大きい。
企業献金のよき判断材料となるよう、経団連は政策評価の充実を図るべきだ。」
完全に企業寄り。どうして、これで部数を維持することができるのだろうか。不思議でならない。ジャイアンツファンは、社説などどうでもよいのだろうか。
本日(6月8日)朝日が書いた。「経団連と献金―「やめる」決意はどこへ」というタイトル。政治献金問題に特化したもので、実に歯切れがよい。
「経団連の会長に就いた榊原定征氏(東レ会長)は、企業が出す政治献金に経団連が再び関与するか、検討中だという。
やめた方がいい。『政策をカネで買うのか』という批判を招くだけだ。
『政治献金では物事は動かない。国民に訴えかけないと、政策を実現できない』『丁寧に国民に説明しなければ、経団連への支持は得られない』
これは一昨年末、経団連の事務総長(当時)が、朝日新聞に語った『決意表明』だ。安倍政権の発足が確実視されていたころのことである。
安倍政権は成長戦略として企業を支援する改革案を次々に打ち出している。それを後押ししつつ、ぎくしゃくした政権との関係も改善したい。そんな思いからの『変心』だろう。
ただ、政権が掲げ、経団連も求める改革案には強い反対がある。なぜか。国民の声に耳をすませ、自らを省みてほしい。」
「経団連は非自民連立政権が誕生した93年、会員企業に献金額を割り振る『あっせん方式』の廃止を決めた。04年に『口も出すがカネも出す』として、自民・民主両党への政策評価とともに会員企業に再び献金を促し始めたが、民主党政権が誕生した翌年の10年、中止した。
政権交代のたびに右往左往してきた過去を見ても、政党にすり寄る発想は捨てた方がよい。」
そして、本日の毎日社説「経団連の献金 再開は時代に逆行する」。これが真打ち。東京・朝日と並んで論旨明快と言うだけでなく、説得力がある。
「経団連は政治改革を逆行させるつもりなのか。新会長に就任した榊原定征東レ会長が「政治との連携強化」を打ち出し、政治献金のあっせん再開を検討すると明言した。
経団連の地盤沈下が言われて久しい。新体制は存在感を高めるために国政への影響力を強めたいのだろう。しかし、巨額の企業献金を束ねて影響力を強めれば民主的な政策決定をゆがめ、『政治とカネ』にまつわる国民の不信を増幅しかねない。献金あっせんは再開すべきでない。
経団連は1950年代から、主に自民党への献金総額を決め、会員の企業や業界団体に割り振るあっせんを行ってきた。多いときには総額100億円規模に達した。しかし93年に自民党が下野し、ゼネコン汚職などで政財界の癒着批判も高まったことからあっせん廃止を決めた。
2004年には各党に対する政策評価を始め、会員企業に献金の目安として示すことで献金への関与を再開したものの、民主党に政権が移った後の10年にはこれも中止した。
ところが自民党が参院選で圧勝した後の昨秋に政府・与党の政策評価を再開した。そして今度は、あっせんそのものの再開を視野に入れる。
安倍晋三首相はアベノミクスの一環として、労働規制の緩和や法人税の減税など大企業の利益につながる政策を検討している。あっせん再開を検討するのは、資金面から政権を支援し、そうした政策を充実させる狙いがあるからだろう。
経済成長に役立つ政策を提言することは経団連の大切な役割だ。しかし、巨額の献金で利益誘導を図るようでは国民本位であるべき政策決定をゆがめる。
企業献金はそうした危険性をはらむために廃止すべきものである。政治改革の一環として95年に導入された政党交付金は企業献金全廃を前提にした代償措置だったはずだ。そして毎年、交付金として300億円以上の税金がつぎ込まれている。あっせん再開は企業献金が大手を振ってまかり通ることにつながり、時代に逆行すると言わざるを得ない。」
「榊原会長が政治との連携強化を打ち出すこと自体は理解できる。しかし、献金のあっせん再開は短絡的であり、副作用が大きすぎる。」
上記東京・朝日の「『政策をカネで買うのか』という批判を招くだけ」。毎日の「巨額の献金で利益誘導を図るようでは国民本位であるべき政策決定をゆがめる」が本質を衝いている。
政治献金と「にぎにぎ」、本質において変わるところはない。今も昔も、「にぎにぎ」した政治家・官僚は、「にこにこ」し「ぺこぺこ」する。しばらくして、庶民は「言う事が変わった カネが動いたな」と嘆ずることになる。
川柳は庶民のつぶやき。名作川柳は庶民の不満である。川柳子に名作のネタが豊富というのは、庶民が不幸な時代なのだ。経団連の政治献金あっせん再開は辞めていただきたい。
(2014年06月08日)
本日の毎日川柳欄に「倍にして半額にするいい加減」(田介)という句。
高い値札を付けておいて「半額セール」とする悪徳商法の典型手口。実は、政権与党の常套手段でもある。
5月15日、鳴り物入りで安保法制懇の報告書が公表された。首相の私的諮問機関の報告とは、自作自演と言うことだ。その自作報告書が、「憲法9条の解釈において、集団的自衛権行使を容認することに不都合はない」と報告した。その部分を抜粋すれば、以下のとおり。
『政府のこれまでの見解である、「(自衛のための)措置は、必要最小限度の範囲にとどまるべき」という解釈に立ったとしても、その「必要最小限度」の中に個別的自衛権は含まれるが集団的自衛権は含まれないとしてきた政府の憲法解釈は、「必要最小限度」について抽象的な法理だけで形式的に線を引こうとした点で適当ではない。事実として、今日の日本の安全が個別的自衛権の行使だけで確保されるとは考え難い。したがって、「必要最小限度」の中に集団的自衛権の行使も含まれると解釈して、集団的自衛権の行使を認めるべきである。』
これが「高い値札」。国民にこの値札を見せておいて、安倍首相はこれを値切ってみせる。「半額商法」の手口。その口上は、以下のとおり。
「今回の報告書では、2つの、異なる考え方を示していただきました。
ひとつは、個別的か、集団的かを問わず、自衛のための武力の行使は、禁じられていない。また、国連の集団安全保障措置への参加といった、国際法上合法な活動には、憲法上の制約はないとするものです。
しかしこれは、これまでの政府の憲法解釈とは、論理的に整合しない。私は、憲法がこうした活動のすべてを許しているとは考えません。
したがって、この考え方―いわゆる、芦田修正論は、政府として採用できません。自衛隊が武力行使を目的として湾岸戦争やイラク戦争での戦闘に参加するようなことは、これからも決してありません。」
以上が値切って見せた部分。そして、半値で売りつけようというのが、以下の商品。
「もう一つの考え方は、我が国の安全に重大な影響を及ぼす可能性があるとき、限定的に集団的自衛権を行使することは許されるとの考え方です。
憲法前文、そして、憲法13条の趣旨を踏まえれば、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために、必要な自衛の措置を取ることは禁じられていない。そのための、必要最小限度の武力の行使は許容される。こうした従来の政府の基本的な立場を踏まえた考え方です。政府としては、この考え方について、今後さらに研究を進めていきたいと思います。…政府としての検討を進めるとともに、与党協議に入りたいと思います」
こうして、「安全保障法制整備に関する与党協議」が進行している。その第2回会合(5月27日)で、政府が対応の必要があると考える「3分野・15事例」が示された。その内容は以下のとおり。(朝日などから)
《グレーゾーン事態》【武力攻撃に至らない侵害への対処(3事例)】
事例1:離島等における不法行為への対処
事例2:公海上での民間船舶への不法行為への対応
事例3:弾道ミサイル発射警戒時の米艦防護
《集団安全保障》【国連PKOを含む国際協力等(4事例)】
事例4:侵略行為に対抗するための国際協力としての支援
事例5:駆けつけ警護
事例6:任務遂行のための武器使用
事例7:領域国の同意に基づく邦人救出
《集団的自衛権》【「武力の行使」に当たり得る活動(8事例)】
事例8:邦人輸送中の米輸送艦の防護
事例9:武力攻撃を受けている米艦の防護
事例10:強制的な停船検査
事例11:米国に向け我が国上空を横切る弾道ミサイル迎撃
事例12:弾道ミサイル発射警戒時の米艦防護
事例13:米本土が武力攻撃を受け、我が国近隣で作戦を行う時の米艦防護
事例14:国際的な機雷掃海活動への参加
事例15:民間船舶の国際共同護衛
「倍にして半額にするいい加減」は、与党協議でも繰り返されている。
第3回協議(6月3日)に、「事例4:侵略行為に対抗するための国際協力としての支援」の具体的解釈内容を政府が提示した。
これまで他国の戦闘と一体化となる支援活動はできないとする解釈が確立しており、その歯止めとして、自衛隊は「戦闘地域」には行かないという原則があった。テロ特措法でも、イラク特措法でも、この原則あればこそかろうじて違憲ではないと解釈されてきたのだ。
ところが、政府提案は「戦闘地域」には行かないという歯止めをなくそうとした。持ち出されたのは以下の「4条件」。なんと、この4条件の全部がそろっている場合にだけ、自衛隊派兵は違憲となる。そのうちの一つでも欠けていれば、自衛隊を戦地に派兵して他国部隊の支援を認める、というもの。
(1)支援部隊が戦闘中
(2)提供物品を直接戦闘に使用
(3)支援場所が「戦闘現場」
(4)支援が戦闘と密接に関係
つまり、戦闘中のA国の部隊に対して、その戦闘現場に、戦闘と密接に関係する仕方で、A国が直接戦闘に使用する物品を提供するような支援は、さすがにいけない。しかし、このうち一つでも欠けていれば、ゴーサインというわけだ。支援先部隊が現に戦闘中でさえなければよし。支援物資が、直接戦闘に使用されるものでなければ結構。支援場所が「戦闘現場」でさえなければ何でもあり、というわけだ。
かりに、戦闘中のA国部隊の戦闘現場に、直接戦闘に使用する武器・弾薬を補給することも、「この支援は戦闘と密接に関係していない」と強弁すれば「支援OK」ということにもなる。
これは評判が悪かった。マスコミにも野党にも、一斉に叩かれた。さすがに公明党も拒絶せざるを得ないという姿勢を見せた。そしたらどうだ。たった3日で撤回されたのだ。6月6日の第4回協議での席のこと。「4条件」は撤回され、新たな「三つの基準」が提示された。
(1)戦闘が行われている現場では支援しない
(2)後に戦闘が行われている現場になったときは撤退する
(3)ただし、人道的な捜索救助活動は例外とする
これだけでは分かりにくいが、「戦闘現場」とは「現に戦闘が行われている場所」を指し、「戦闘地域」は「現に戦闘が行われてはいないが、将来行われるおそれがある場所」を広く指す。「非戦闘地域」と区別されてこれまでは支援活動が禁じられてきた。「非戦闘地域」とは「現に戦闘が行われていない」ことに加え、「将来にわたって戦闘が行われない」場所であるとされてきたから、現に戦闘が行われていなくても、将来にわたって戦闘がおこなれないとは言えない場所は「戦闘地域」として自衛隊を派遣しての支援活動は禁じられている。
だから、「戦闘現場」での支援行為はしないという意味は、従来禁じられてきた「戦闘地域」への自衛隊派遣は認めるということ。そして、人道的活動なら戦闘中の現場でも可能にするということも、これまでは禁じられてきた内容。
つまり、6月3日の「4条件」が「倍にした値札」。6日の「三つの基準」の再提示が「半額セール」。悪徳商法を駆使しているのが安倍政権で、面食らっている消費者が公明党。
新基準も、政権から見れば、従来解釈よりも数歩の前進となっている。ということは、支援活動中の自衛隊が戦闘に巻き込まれる危険が、従来よりも格段に大きくなるということ。
自衛隊の物資輸送や医療支援は、銃弾が飛び交う戦闘の現場でさえなければ、戦闘地域内でもOKとなる。政府側からの説明で、「基準に反しなければ、武器・弾薬の提供も可能」との見解が示されたという。戦闘中の現場での民間人や負傷兵の救出を想定した「人道的な捜索救助活動」は、自衛隊員が犠牲となる危険性が大きい。
「公明党がんばれ」と言いたくなる場面だが、すでにグレーゾーン分野の2事例((1)武装集団による離島占拠、(2)公海上での民間船舶への不法行為)において、与党合意が成立し、法改正をせず「事前の閣議決定で自衛隊出動の可否を首相に一任する運用見直し」で対処する方針が了承されたと報じられている。
公明党は、今は政権から強引に商品を売り付けられている消費者の立ち場だが、与党合意が成立すれば、今度は野党にこれを押し売りする立場に回ることになる。
当然のことながら、公明党も必死になって世論を見ている。自民に恩を売って政権与党の中に居続けることのメリットと世論批判に晒されるデメリット、その両者を比較している。公明党の態度を決めるのも、安倍政権のゴリ押しの成否を決めるのも、実は国民の声の内容次第、大きさ次第。この間の目まぐるしい動きに、よく目を凝らそう。安倍政権の悪徳商法的手口に欺されてはならない。何が危険なのかをよく見極め、臆せず意見を発信しよう。手遅れにならぬ内に。
(2014年6月7日)
韓国KBS理事会が、キル・ファニョン社長の解任を決定した。日本に置き換えれば、NHKの経営委員会が、籾井勝人会長の解任を決議したことに相当する。政権との癒着を批判した世論と、解任を求めてストライキ決行までした労組の輝かしい勝利。一連の経過から、ジャーナリズムのあるべき姿と、理念を守るための運動の在り方を学びたいと思う。この経過を通じて、韓国KBSは政治権力から独立した報道機関としての評価を勝ち得た。国民からの信頼は貴重な財産となるだろう。
それに比べて…である。わが国では「政府が右といえば、左とは言えない」と象徴的な迷言を吐いた人物が公共放送のトップに居座ったまま。政権から独立した報道機関としての信頼は地に落ち、泥に汚れたままである。
隣国の公共放送経営体トップが、政権との癒着を指摘されて解任に至ったニュースを、同様の立ち場で、同様の問題を抱えるNHKがどう報道するか、関心津々たるところ。
NHKオンラインは、本日早朝(6月6日4時10分)のNHKニュースウェブ欄に、「韓国KBS 理事会が社長解任決める」という記事を掲載した。その全文は、以下のとおり。
「韓国の公共放送KBSは、『社長が政府の立場に配慮して報道内容に不当に介入した』などとして報道局の幹部や記者らが職務を放棄する異例の事態が続いていることから、理事会が社長の解任を決め、混乱はようやく収拾に向かう見通しとなりました。
韓国の公共放送KBSでは、先に、旅客船沈没事故について不適切な発言をしたと伝えられた報道局長をキル・ファニョン社長が更迭し、これに対して報道局の幹部や記者らが「社長は政府の立場に配慮して報道内容に不当に介入し、報道の独立性を侵した」などと反発して職務を放棄し、労働組合もストライキを続けています。
こうしたなかKBSで5日、理事会が開かれ、キル社長の解任を求める決議案が賛成多数で可決され、KBSの社長の任命権を持つパク・クネ大統領もこれを受け入れるとみられます。
KBSは、ニュースの時間が大幅に短縮されているほか、4日行われた統一地方選挙では、当選が決まった候補を取材する記者がいないなどといった異例の事態が続いていました。
これで、混乱はようやく収拾に向かう見通しとなりましたが、かたくなに辞任を拒否してきたキル社長だけでなく、視聴者を無視してストライキを続けたなどとしてKBS全体に厳しい目が向けられており、信頼回復には時間がかかりそうです。」
呆れた報道姿勢と言わねばならない。NHKは、問題を「混乱」としかとらえられないのだ。だから、社長辞任を「混乱の収拾」としか表現できない。「視聴者を無視してストライキを続けたなどとしてKBS全体に厳しい目が向けられており」と根拠を挙げずに労組を誹謗し、「(KBS全体の)信頼回復には時間がかかりそうです」と、世論を「混乱への批判者」と決めつけて結んでいる。
傍観者を決めこみ、ジャーナリズムの政治権力からの独立を重視する観点を意識的に否定した姿勢とも言えよう。これでは、「NHKに向けられた厳しい良識の目からの批判は避けられず」「国民からの信頼回復には時間がかかりそうです。」と言わざるを得ない。
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受信料支払い凍結運動にご参加を
具体的な受信料支払い凍結の手続については、下記のURLに詳細です。是非とも参照の上、民主主義擁護のための運動にご参加ください。
http://kgcomshky.cocolog-nifty.com/blog/2014/05/nhk-933f.html
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支払い凍結と並んで、NHK籾井会長、百田・長谷川両経営委員の辞任・罷免を求める署名運動も継続中です。こちらにもご協力をお願いします。
運動の趣旨と具体的な手続については、下記URLからどうぞ
http://kgcomshky.cocolog-nifty.com/blog/2014/02/post-3030-1.html
http://chn.ge/1eySG24
*******************************************************************
NHKに対する「安倍首相お友だち人事」への抗議を
☆抗議先は以下のとおり
※郵便の場合
〒150-8001(住所記入不要)NHK放送センター ハートプラザ行
※電話の場合 0570?066?066(NHKふれあいセンター)
※ファクスの場合 03?5453?4000
※メールの場合 下記URLに送信書式のフォーマット
http://www.nhk.or.jp/css/goiken/mail.html
☆抗議内容の大綱は
*籾井勝人会長は即刻辞任せよ。
*経営委員会は、籾井勝人会長を罷免せよ。
*百田尚樹・長谷川三千子両経営委員は即時辞任せよ。
*経営委員会は、百田尚樹・長谷川三千子両経営委員に辞任勧告せよ。
こちらもよろしくお願いします。
(2014年6月6日)
本日は書籍の紹介である。私はこの岩波新書の一冊に、思い入れが強い。教えられることが多くて読み返しているというだけではない。30代後半から40歳になった当時の思い出と結びついたものとして大切にしている。私は、この書が私のために書かれたものと信じているのだ。
私が盛岡に在住して岩手靖国訴訟に取り組んだときに最初に繙いた靖国関係書籍は、村上重良の新書3部作「国家神道」「慰霊と招魂」「天皇の祭祀」であった。著述の論旨は明快で、説得力に富む。法廷ではこの著者の証言を得たい、そう願って「政教分離を監視する会」の西川重則さんの紹介で実現した。
同時に箕面忠魂碑訴訟での大江志乃夫さんの証言の評判を伝え聞いて、どなたか依頼の伝手がないかと思っていたら、これも西川重則さんが了解を取ってくれた。西川さんというのは、不思議な力をもった方。
1983年の夏、一審盛岡地裁で集中的な証人尋問。両証人とも尋問は私が担当した。打ち合わせのために、私は東京の村上宅にも、茨城県勝田市の大江宅にも何度かお邪魔した。村上証言は、「慰霊と招魂」の内容を基礎に証言のストーリーを組み立てたが、大江証言には、拠るべき適切な「台本」が当時なかった。
大江さんとの打ち合わせの冒頭に、「限られた時間での証言だけでは不十分だと思うので、実は、陳述書をつくっている」とのお話しがあった。「途中までできている」とのことで拝見した。当時出回り始めたばかりの「ワープロ」で作成されたものだが、その浩瀚さに驚いた。
分厚い陳述書の完成稿が法廷に提出されて、証言とその後の主張の種本となり、その陳述書が体裁を整えて岩波新書「靖国神社」となった。その間の経緯は、同書のあとがきに書き込まれている。この書が、「私のために書かれたもの」と思い込んでいる理由である。
その後も大江さんご夫妻には、度々盛岡に足を運んでいただき、岩手靖国訴訟と地元の政教分離運動へのご支援をいただいた。陸軍軍人(大江一二三大佐)の家庭に生まれ、自らも陸士にはいった大江さんの、旧軍に関するお話しは貴重であるだけでなく、実におもしろかった。
大江「靖国神社」を通じて、歴史家大江志乃夫から学んだことをいくつか書き留めておかねばならないが、その最大のものは、近代天皇制の権威の由来である。
同書に次の記載がある。
「世界史的な一般論としていえば、絶対君主による封建国家の統一事業は、おおむね最大最強の封建領主が他の封建領主を打倒することによって達成される。日本の場合、明治維新の変革による新しい統一国家樹立のための権力の中心が、なぜ、たとえば徳川将軍家ではなく、天皇でなければならなかったのか、あるいは天皇でありえたのか。
所領700万石の徳川将軍家にくらべれば、天皇家はせいぜい10万石の小大名程度にすぎなかった。しかも、徳川将軍家自身が絶対君主の地位につくことをめざしていたのに対抗して、その天皇家が、なぜ新統一国家の権力の中心の地位につくことができたのか。天皇を絶対君主制的特質を特った権力の座に押しだしたものは何か。
天皇家は権力を掌握するに必要な固有の物理的な力をいっさい特っていなかった。徳川時代の天皇は、軍事力はもちろん、儀礼的で形式的な叙位・叙任権などを除いては、政治的権限もいっさい特っていなかった。民衆の大部分は、将軍や殿様の存在については知っていても、天皇の存在については知らなかった。天皇は、新統一国家の権力者になるために必要な経済的・軍事的・政治的・社会的基盤のすべてを特っていなかった。
日本をめぐる内外の情勢は切迫し、国家統一は緊急の課題となっていた。当時の日本における最大の政治的・軍事的権力者であった徳川将軍家を単独で打倒して国家の統一者となることができる力を持った大名はいなかった。幕藩体制を廃止して新統一国家を建設する事業は、徳川幕府自身が武力を行使して諸藩を廃止するか、有力諸藩が連合して幕府を打倒するか、いずれかの道によるしかなかった。この対抗関係が成立するための有力諸藩の連合には、連合の象徴が必要であった。その象徴とされたのが、天皇であった。このことは、幕末のいわゆる勤王の志士たちが、天皇を「玉」と呼んでいたことからも知られる。
天皇はなぜ「玉」=倒幕諸藩の連合の象徴となることができたのか。最大の権力者であった幕府が持っていないもの、すなわちイデオロギー的および宗数的権威を持っていたからである。とくに、天皇は、幕府の政治的支配をささえてきた儒教イデオロギーの名分論において論理的に優越した地位を持つとともに、幕府の民衆支配の思想的手段とされてきた仏教に対抗することができる宗数的地位を保持していた。儒数的名分論は幕藩体制の支配身分である武士階級にたいして有効なイデオロギー的手段であったし、仏教に対抗することができる宗数的地位は民衆にたいして有効であった。」
非常に分かりやすい。「勤王の志士」たちが、天皇を崇敬していたわけではない。もっと冷徹に「玉」としての天皇について徹底的な利用を企図し、現実に利用し尽くしたのだ。そのためのイデオロギーとして、武士に対しては儒教的名分論が、民衆に対しては神道が有効だった。
こうして、天子としての宗教的権威を基底に、政治的には統治権の総覧者である天皇は、軍事的には大元帥ともなった。この三層構造としての天皇理解は、あの夏以来揺らぐことはない。
再び、同書から引用する。
「政治的権力者を表現する意味での天皇は、宗数的権威としての「天子」であることによってのみ天皇でありうる。しかし「天子」が天皇となるためには、権力をささえる物理的手段の独占的所有者つまり軍事力の独占者でなければならなかった。こうして夫皇の軍事的側面をしめすもうひとつの名称、大元帥が必要となる。天子は、大元帥であることによって天皇でありうる。」
こうして、三位一体としての「天子」と「大元帥」と「天皇」が成立する。この構造を理解することが、戦後の日本国憲法体制を理解することに不可欠なのだ。天皇という構造のどの部分が廃棄され、どの部分が残ったのか。不徹底な「革命」は、天皇を象徴として残存した。しかし、その象徴を再び宗教的権威をもった「天子」にしてはならない。その歯止めが、政教分離である。
今はなき、大江志乃夫さんを偲びつつ、遺された書物を精いっぱい生かしたいと思う。とりわけ、私のために書いていただいた「靖国神社」を。
(2014年6月5日)
「すえこざさ」をご存じの方がいたら、よほどの植物マニア。学名だから、本来は「スエコザサ」と書くべきなのだろう。植物学者が新種に妻の名を冠する例がある。シーボルトの「オタクサ」が有名だが、牧野富太郎もこの特権を行使した。仙台で発見した新種の「笹」に、妻・寿衛子の名を冠して、「寿衛子笹(すえこざさ)」としたのだ。
『「すえこざさ」の衝撃』とは、「法と民主主義」5月号巻末「風」欄の、穂積匡史エッセイのタイトル。牧野富太郎の行為を衝撃というのではない。「つくる会」系教科書の「すえこざさ」の命名をめぐる物語の引用のしかたが「衝撃」なのだ。達意の文章であり、読みやすくおもしろい。なによりも、若手弁護士のセンスのよさが光っている。部分の引用では惜しいので、全文を引用させていただく。
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いわゆる「つくる会」系教科書で有名な育鵬社が、「十三歳からの道徳教科書」(道徳教育をすすめる有識者の会・編)を発行している。帯には「これがパイロット版道徳教科書だ!」「新しい道徳のスタンダード」などの文字が躍る。内容は、道徳教材として三七の逸話が収録されており、そのなかの一つが、「異性についての正しい理解を深め」るための教材「すえこざさ」である。あらすじは次のとおり。
後に著名な植物学者となる牧野富太郎は、幼いころから草花が大好きで、二六歳で寿衛(すえ)と結婚した後も、植物研究に没頭していた。寿衛が出産をした三日後、富太郎の借金をとり立てに、高利貸が家まで来ることになった。富太郎は産後の寿衛をいたわり、「今日は、私が話して帰ってもらうから、お前はやすんでいなさい」と寿衛に言う。しかし、実際に高利貸が家にやって来ると、寿衛は起き上がり、大きな声を出そうとする借金取りをなだめすかして帰らせる。そして、寿衛が富太郎の部屋をそっと窺うと、富太郎は借金取りのことなど忘れて、一心に本を読んでいた。寿衛は、「よかった」と思う。寿衛は、「どうしたら夫に安心して研究をつづけてもらえるか」と、そればかりを考えつづけていたのだ。ところが富太郎六六歳のとき、寿衛が病に伏す。「もうむずかしい」と医者に告げられると、富太郎は寿衛の枕元で「こんど発見した新しい笹の種類に、お前の名をつけることにしよう」と言う。こうして「すえこざさ」が生まれた。
さて、教科書は、このストーリーで「異性についての正しい理解を深める」というが、「正しい理解」とは何か。
一心に本を読む富太郎を見て、寿衛が「よかった」と思うシーンがある。この「よかった」を墨塗りにして、生徒に考えさせたとしよう。「夫は言うこととすることが違う。ひどい。」と生徒が感じたら、それは道徳的に「正しくない」ことなのだろうか。
寿衛のように「どうしたら夫に安心して研究をつづけてもらえるか」と思うのとは違って、「どうしたら家事や育児を分担してもらえるだろうか」と生徒が考えたとしたら、それは「異性についての誤った理解」なのだろうか。
あるいはまた、寿衛が女性研究者で、富太郎が「主夫」だったとしても、この教材は掲載されたであろうか。
自民党改憲草案は、「家族は、互いに助け合わなければならない」「教育が国の未来を切り拓く上で欠くことのできないもの」と規定し、安倍「教育再生」は教科書検定強化と道徳教科化を推し進める。そうやって教化される家族の模範が「すえこざさ」であると、「有識者」が臆面もなく吐露してしまうあたりに、安倍「教育再生」の浅薄さと病理の深さを見る。そういえば、この原稿が掲載されたころには既に、別の「有識者」たちが憲法を変えずに憲法を変えろという無茶苦茶な報告をしているのだろうか。
ところで、現実の日本社会で女性が置かれた立場は寿衛よりさらに過酷かもしれない。家事・育児・介護を引き受けながら、さらに非正規労働者として低賃金で働かされる上、出生率目標まで課されるのだから。支離滅裂な安倍「女性活用」政策である。
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いかがだろうか。なるほど、「法と民主主義」とはおもしろそうだ、と思っていただけたろうか。同誌5月号(通算488号)は、5月26日に世に出た。まだ、もぎたての新鮮さである。できるだけ、みずみずしい内に講読いただけたらありがたい。
その内容紹介は、下記のURLを。
http://www.jdla.jp/houmin/
定価は1000円、ご注文は下記のフォームへ。
http://www.jdla.jp/kankou/itiran.html#houmin
もし私に声をかけていただけたら、著者紹介扱いで800円でお頒かちできる。
「特集?」が、『安倍政権の「教育再生」政策を総点検する─「戦後レジームからの脱却」に抗して』という直球勝負の内容。巻頭の堀尾輝久「安倍政権の教育政策─その全体像と私たちの課題」から、川村肇「戦後教育改革の内容とその後の変遷」、村上祐介「安倍政権の教育改革プランの全体像」、俵義文「教科書問題の最近の動向と竹富町への『是正要求』」村山裕「安倍政権の教育政策・競争と選別の思想」、小畑雅子『安倍「教育再生」は、子どもと教育に何をもたらすか』、齋藤安史「大学における教育・研究体制への影響」中村雅子「国立市教育委員の経験から」と並べば、教育問題に関心のある方には講読意欲を持っていただけるものと思う。
安倍政権の教育政策と切り結ぶためには、その全体像を正確に把握することが不可欠である。本特集はそのための第一歩にふさわしいものと確信し、活用を期待したい。
「特集?」が、教育に関連して、「少年の心に寄り添う審判とは─第4次少年法『改正』批判」という座談会。出席者は、佐々木光明/佐藤香代/井上博道/佐藤むつみ(司会)の諸氏。
その他の執筆陣の名を挙げておこう。原発被害と核廃絶についての時評を埼玉の重鎮宮沢洋夫弁護士、裁判員問題について五十嵐双葉弁護士、メディアウオッチにについて丸山重威元関東学院大学教授、袴田再審決定について秋山賢三弁護士、書評に浦田賢治早稲田大学名誉教授等々。
ぜひ、ご購読を。
(2014年6月4日)
昨日(6月2日)、全国の憲法研究者ら16名が、渡辺喜美・みんなの党元代表をを政治資金規正法違反・公職選挙法違反で刑事告発し、告発状を東京地検特捜部に送付した。その代理人となった弁護士は24名。私もその一人に名を連ねている。
告発状の全文とマスコミ報道については、下記「上脇博之 ある憲法研究者の情報発信の場」のブログを参照されたい。
http://blog.livedoor.jp/nihonkokukenpou/archives/51774337.html
http://blog.livedoor.jp/nihonkokukenpou/archives/51774454.html
告発状は26頁に及ぶ。いくつかの場合分けをしているので、やや複雑で読み通すのには多少の根気が必要である。
主たる告発事実は、被告発人がDHCの吉田会長から2012年に借入れた5億円のうち、みんなの党の選挙活動・政治活動と支出が報告されたものを除いた2億5000万円についてのもの。これが、政治活動資金として借入れたものであれば、被告発人には政治資金規正法上の政治資金収支報告書に「借入金」としての記載義務があるのに、これを怠った虚偽記載罪または不記載罪が成立する。また、選挙運動資金としての借入であれば、公職選挙法上の選挙運動収支報告義務の対象となるのに、これを怠った不記載罪が成立する、というもの。
もう一つの告発事実は、2010年以降の合計8億円の借入の内、計9000万円(被告発人の支出5500万円、被告発人の妻の支出3500万円)につき「支出」における虚偽記載罪・不記載罪(政治資金規正法違反)または届出前の支出禁止違反の罪(政治資金規正法違反)の事実があるというもの。
報道されているとおり、2010年に授受あった3億円については借用書が作成されているが、2012年の5億円については借用書がない。それでも、告発状が「本件5億円は『みんなの党』の政治活動(選挙運動活動を含む)のために吉田会長から被告発人渡辺喜美が借りたものである」としているのは、手堅く立件を求める立ち場からにほかならない。
みんなの党は2009年2月に設立されている。以後、被告発人渡辺が集めた金は8億円だけではない。
たとえば、次の事実もある。
「2009年春、被告発人渡辺喜美は夫人とともに吉田会長の自宅を訪問し、夫人は『いよいよ新党を立ち上げますが、お金がなくて困っています。地元の栃木に不動産があるので買っていただけないでしょうか。会長、助けてください』と言ったので、吉田会長は、同年6月26日、言い値の1億8458万円でその物件(「渡辺美智雄経営センター」名義)を購入したが、そのカネが新党立ち上げにどのように活用されたのかについては全く不明のままである。」
「被告発人渡辺喜美は、2010年には、Aから3月26日に5000万円を借入し、その全額を3日後の同月29日に「みんなの党」に貸付けているし、6月18日にはAから4000万円を、Bから2本の4000万円を、それぞれ借入し、それらの合計額1億2000万円を3日後の同月21日に「みんなの党」に貸付けている。そして、6月30日に吉田会長から3億円を借入れた後、7月13日、Aに9000万円を、Bに8000万円を返済し、12月29日吉田会長に8000万円を返済している。」(みんなの党調査チーム報告書)
告発状にも明記されているとおり、現行の政治資金規正法の立法の趣旨は「隠密裡に政治資金が授受されることを禁止して、もって政治活動の公明と公正を期そうとするものである」。また、「政治資金規正法は、全体としては、政治家個人への不明朗な資金提供を全面的に禁止し、政党中心の政治資金の調達及び政治資金の流れの一掃の透明化をめざすもの」でもある。
今回の事態は、億単位の金が政治資金として隠密裡に授受されている実態を明らかにした。政治活動の公明と公正は、地に落ちていると言わねばならない。政党中心の政治資金の調達及び政治資金の流れの一掃の透明化のために、捜査当局には徹底した事実の究明を期待したい。わが国の民主主義の健全な発展のために。いや、再生のために。
(2014年6月3日)
先週の金曜日(5月30日)、名古屋高裁(筏津順子裁判長)が言い渡した判決が注目されている。タクシー会社・名古屋エムケイが原告になって、国(国土交通大臣)を相手にした行政訴訟でのもの。判決文が手に入らないので隔靴掻痒の感があるものの、原告は運輸行政における規制の不合理を主張し、一審に続いて控訴審判決も規制を違法と認めたという。
争われた「規制」の内容は、中部運輸局が2009年に公示した、「名古屋市を中心とする交通圏で運行するタクシーについて、運転手は1回の乗務の走行距離の上限を270キロメートルまでと制限する」という乗務距離制限。「名古屋高裁判決は、一審名古屋地裁判決に続き、運転手の走行距離制限を違法とした。」と報じられている。
行政訴訟の主要なアクターは、私人と国(行政機関)である。私人が国による規制を不当として争うのだから、一般論として私人の勝訴は国民の自由の範囲を拡大することになる。しかし、この二大アクターの争いに、影響を受けるステークホルダー(利害関係者)の存在を忘れてはならない。真に誰と誰の間のどのような利益が衝突し調整が求められているのかを見極めなければならない。
本件の場合、規制はタクシー会社に対するものではあるが、本件規制は、消費者(タクシー利用者)と労働者(タクシー会社勤務者)の利益を擁護するためのものとしてなされている。会社の利益(利潤の獲得を目的とする企業経営)に優越する、消費者の利益(乗客の安全)・労働者の利益(過酷な労働からの保護)に支えられた規制でなければならない。規制の目的や手段の妥当性が裏付けられなければ、規制権限の逸脱または濫用として、違法とされる。
タクシーやバスの運転者に過酷な労働を容認するようでは、労働者の利益に反するだけでなく、事故につながり一般乗客の安全を害することになる。乗務時間や距離の規制が一般論として不合理と言うことはできない。にもかかわらず、なぜ、規制は違法とされたのか。
一審判決時のやや詳細な報道では、「『旅客自動車運送事業運輸規則』は、各地の運輸局が実情に応じて距離を制限できると定めている。タクシー業界は02年の道路運送法改正で新規参入が自由化されて競争が激化し、労働環境の悪化も指摘された。これを受け、09年前後に1日の走行距離に制限を設ける地域が相次いだ。(名古屋地裁の)福井裁判長は、『当時の名古屋市周辺地域は不況でタクシーの需要が減っており、無理な運転をしてまで走行距離を伸ばす傾向はなかった』と述べ、国が制限を設ける必要はなかったと判断した。原告側は公示の取り消しも求めたが、公示は行政訴訟法で取り消し請求の対象となる行政処分とは異なるとして、この部分の請求は却下した」という。
結局、判決は「タクシー運転手の一日当たりの乗務距離を国が制限したことの目的には合理性がない」「安全や過労防止のため既に労働時間が制限されており、あらためて規制する合理性がない」として、当該の規制を裁量権の濫用で違法にあたると判断した。報道によれば、乗務距離制限をめぐっての高裁判決はこれが初めてとのこと。
言うまでもなく、タクシー会社には営業の自由(憲法22条)がある。利潤の追求を目的に企業を経営する自由である。原告・エムケイから見れば、自らがもっている憲法上の営業の自由を、行政が不当に制約していることになる。企業の経営の自由を制約する規制は少なければ少ない方がよい。望むべくは、まったく無いに越したことはない。
しかし、国の立ち場からすれば、乗務距離制限は決して企業活動の制約そのものを目的としたものではなく、消費者や労働者の利益を目的としたものとして合理性があり、当然に規制は許容されるとの主張になる。タクシー業界の過当競争の防止策は、結局のところ共倒れを防止して企業の利益にもつながるという主張にもなる。
双方の主張のどちらに軍配を上げるべきか。憲法上の権利の制約は、いかなる場合に許容されるのか。その基本的な枠組みとして、学説においては、二重の基準論が説かれている。二重の基準とは、精神的自由に対する規制の在り方と、経済的な自由に対する規制の在り方とで、許容基準の厳格さが異なるというもの。元々は、アメリカ合衆国の連邦最高裁が採用してきた考え方。
精神的自由権(表現の自由・信仰の自由など)の規制の許容可否については厳格な基準をもって判断し、経済的自由権(所有権・企業経営の自由)の規制においては立法や行政の裁量を尊重して緩やかな基準をもって、目的・手段などの合理性を審査する、というもの。
要するに、「精神的自由権」と「経済的自由権」に、制約の可否に関して寛厳の差を設けようということ。その理論的根拠は、「経済的自由を規制する立法の場合は、民主政の過程が正常に機能している限り、それによって不当な規制を除去ないし是正することが可能であり、それがまた適当でもあるので、裁判所は立法府の裁量を広く認め、無干渉の政策を採ることも許される。これに対して、精神的自由の制限又は政治的に支配的な多数者による少数者の権利の無視もしくは侵害をもたらす立法の場合には、それによって民主政の過程そのものが傷つけられているため、政治過程による適切な改廃を期待することは不可能ないし著しく困難であり、裁判所が積極的に介入して民主政の過程の正常な運営の回復を図らなければ、人権の保障を実現することはできなくなる。」(芦部信喜)などと説かれる。なお、立法による規制の説明は、行政による規制にもあてはまる。
精神的自由権が、経済的自由権に比べて優越的な権利と理解されていると言って差し支えないだろう。ところが、このような一般論と、現実の判例は正反対なのだ。精神的自由権に対する制約の合憲性は厳格に判断しなければならないところ、現実にはそのような判決は極めて乏しい。反対に、緩やかな判断がなされるはずの経済的自由権について、規制を違憲違法とした判決が目につく。今回の名古屋高裁判決もそのような一事例に加えられることになる。
エムケイの青木信明社長は判決後に記者会見し、「規制緩和に逆行する政策がタクシー業界を衰退させている。高裁の判断は本当にありがたい」と話したという。個別企業の立場としては、「高裁の判断は本当にありがたい」は本音だろう。しかし、「規制緩和に逆行する政策がタクシー業界を衰退させている」は、当たらないと思う。
行政による規制は企業にとって望ましからぬものではあっても、消費者の利益、労働者の利益、地域住民の利益、環境の保護、公正な競争環境の形成等々の観点からの合理性ある規制には服さざるをえない。企業は社会と調和し、社会が許容する在り方でしか活動を継続できないのだ。もとより不必要で有害な規制は拒否できるが、規制一般を「既得権益の保護のためのもの」と決めつけることはできない。規制緩和の要求は、実は企業のエゴの発露でもありうる。
安易に、「規制は悪。規制緩和こそが善」などと言わずに、規制の目的や手段における、必要性・合理性を具体的に吟味しなくてはならない。そうでないと、飽くなき利潤追求のために徹底した規制の緩和や解除を要求して、労働者の利益や消費者の利益を顧みない勢力に乗じられることになりかねない。誰だって、過労運転による事故に泣く目には会いたくないのだから。
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受信料支払い凍結運動にご参加を
具体的な受信料支払い凍結の手続については、下記のURLに詳細です。是非とも参照の上、民主主義擁護のための運動にご参加ください。
http://kgcomshky.cocolog-nifty.com/blog/2014/05/nhk-933f.html
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支払い凍結と並んで、NHK籾井会長、百田・長谷川両経営委員の辞任・罷免を求める署名運動も継続中です。こちらにもご協力をお願いします。
運動の趣旨と具体的な手続については、下記URLからどうぞ
http://kgcomshky.cocolog-nifty.com/blog/2014/02/post-3030-1.html
http://chn.ge/1eySG24
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NHKに対する「安倍首相お友だち人事」への抗議を
☆抗議先は以下のとおり
※郵便の場合
〒150-8001(住所記入不要)NHK放送センター ハートプラザ行
※電話の場合 0570?066?066(NHKふれあいセンター)
※ファクスの場合 03?5453?4000
※メールの場合 下記URLに送信書式のフォーマット
http://www.nhk.or.jp/css/goiken/mail.html
☆抗議内容の大綱は
*籾井勝人会長は即刻辞任せよ。
*経営委員会は、籾井勝人会長を罷免せよ。
*百田尚樹・長谷川三千子両経営委員は即時辞任せよ。
*経営委員会は、百田尚樹・長谷川三千子両経営委員に辞任勧告せよ。
こちらもよろしくお願いします。
(2014年6月2日)
三笠宮の長男故高円宮次女と、出雲大社宮司長男との婚約が発表された。皇室と出雲国造家の結婚。これが、「両性の合意のみ」で成立したとすれば、ご同慶の至りである。
皇室の祖先神と出雲大社の祭神とは、「天つ神・国つ神」の関係にある。征服者である天皇の祖先神が高天原なる「天つ神」。その神を祀っているのが伊勢神宮。被征服者として、天つ神に地上の国を譲ったのが「国つ神」たる出雲の神。世俗的な理解では、善神としての「天つ神」と、抵抗勢力としての「国つ神」。出雲なる国つ神の「国」は、譲られたものであろうか、それとも略奪されたものであろうか。いずれにしても記紀神話の成立は、出雲に対する伊勢の勝利を物語っている。
しかし、出雲は滅びたわけではない。出雲大社の祭神としての須佐之男・大国主の信仰は、大社とともに生き延び、本居宣長の「顕幽」説に至る。顕界(うつし世)の王が天皇であり、幽冥界(かくれ世)の王が大国主だというもの。さらに、平田篤胤は、大国主を善神とし、死者の魂を審判し、その現世での功罪に応じて褒賞懲罰を課す神としている。この大国主命の幽冥界主宰神説が、復古神道の基本的な教義だとされる。
明治維新は、神々の争いでもあった。神道と仏教が争い、神道各派も正統を巡って争った。かつて、地上の勢力間の争いが神々の争いとして神話に仮託され語り継がれた如くにである。出雲は官弊大社への列格を不服とし、伊勢と同等の格式を当然として、官社のうえに列すべく要求した。その運動の旗手は、復古神道の教義を携えた、第80代出雲国造千家尊福である。
原武史の「出雲という思想」(原武史・講談社学術選書)は私の愛読書。読み応えがあるだけでなく、読みやすくすこぶるおもしろい。原の現代語訳では、尊福は教部省宛て請願書でこう言っている。
「オホクニヌシが幽冥の大権を握り、この国土に祭っている霊魂や、幽冥界に帰ってきた人の霊魂を統括なさるのは、天皇が顕界の政治を行って万民を統治なさるのと違わない」「このようにオホクニヌシが幽冥の大権をお取りになるからには、神の霊魂も人の霊魂も、みなオホクニヌシが統治なさるわけであるから、すべての神社を統括するのもまた出雲大社であるべきなのは、議論するまでもないことである。」
さらに尊福の筆は激しくなり、密かに書かれたという「神道要章」には、次の文章があるという。
「大地の支配者であられるオホクニヌシのおかげによらなければ、天つ神の高い徳を受けることができないゆえんを明らかにして、天つ神を崇敬するにしても、まず大地の恩が大切であることを謹んで感謝しなければならない」
原は「このようにして尊福は、わかかりやすい言葉で、信徒に対してアマテラスよりもオホクニヌシをまず第一に尊敬しなければならないことを主張した」と解説している。
尊福の言は、表向き「顕幽」同格のごとくではあるが、幽冥界の王こそが真の王であり、顕界の天皇を凌ぐものとの気概を感じさせる。伊勢派は、尊福の説を危険思想として、「皇位を軽んずるもの」「わが国体を乱るもの」「国体上に大関係ありて、民権家の説に類似す」と攻撃した。「出雲の神は、かつて天孫系のため圧迫されて譲国したので、その数千年来の宿怨を霽らすために、今度出雲が立ったのである。それならばこそ出雲系の直系が、皇室を凌ぐような議論も出て、その点で千家を暗殺せんとする騒ぎもあった」と当時の雰囲気を知る人の回顧録も残されているという。
尊福の説は大いに振るって伊勢派を追い詰めたが、時あたかも自由民権運動の勃興期。天皇制の拠って立つ教説の正統性批判の強大化を恐れた中央政府は、1881(明治14)年に、勅裁によって「祭神論争」の決着をつける。ここに、出雲は伊勢に2度目の敗北を喫した。原の言葉を借りれば、「『伊勢』による『出雲』の抹殺」である。
さらに、原の理解によれば、大国主信仰は大本に受け継がれ出口王仁三郎によって民衆信仰として復活する。しかし、2度にわたる天皇制政府の大本弾圧によって、この教義も息の根が止められることになる。出雲の3度目の敗北である。原は、この事態を「『伊勢』による『出雲』の2度目の抹殺」とする。
このたびの「伊勢」と「出雲」との婚約は、一見有史以来の「数千年来の宿怨」を抱えた因縁を乗り越えたもの如くであるが、実はそうではない。今、両家はモンタギューとキャピュレットの関係になく、婚約者どおしはロミオとジュリエットの悲劇性とは無縁である。その遠因は、「祭神論争」のあとの千家尊福の「転向」にある。彼は、かつての「顕幽」論の内容を変えて国体の尊厳を説くに至り、明治政府に忠誠を誓って政治家へと転身した。伊藤博文の推挙によって「元老院」の議官となり、貴族院議員、埼玉県知事、静岡県知事、そして東京府知事にもなり、司法大臣まで経験している。この尊福の時代に、「伊勢」と「出雲」との蜜月の関係が形成された。
祭神論争は、国家神道・国体思想の形成史において重要な意味をもっているとされる。このとき、明治政府は、天皇の権威を相対化するすべての神々を一掃する姿勢を明瞭にしたのだ。「出雲の抹殺」は、その象徴的なできごとであった。
「国体論議の主な源泉としては、二つあります。一つが平田派国学ですが、もう一つは後期水戸学です。この二つが合流して近代日本の国体概念の歴史的背景になったと見ていいと思います」(原が引用する丸山眞男)と言われる。しかし、平田派の流れを汲む千家尊福の教説も、天皇制を支える教説の純化のために切り捨てられたのだ。
今回の婚約発表は、祭神論争勅裁から130年を経てのもの。既に、両家因縁の歴史は風化していると言うべきなのだろうか。
(2014年6月1日)