私が被告となっているDHCスラップ訴訟次回口頭弁論期日の日程が明後日になりました。念のため、確認のご連絡です。
11月12日(水)午前10時? 口頭弁論
法廷は東京地裁631号(霞ヶ関の裁判所庁舎6階南側)。
同日10時30分? 報告集会
場所は第一東京弁護士会講堂(弁護士会館12階)
(法廷も集会も、いつもと違いますので、お間違えなく)
今回の法廷では、今後の審理の方向が決まると思われます。方向というのは、証拠調べ手続きに期日の回数を重ねなければならない訴訟になるか。証拠調べは比較的簡単に済ませるものになるか、です。その意味では、重大な期日になるかも知れません。
報告集会では、口頭弁論期日での裁判所の姿勢を踏まえて、今後の進行についての意見交換をしたいと思います。
そして、今回の報告集会では、スラップ訴訟の苦い被害経験と貴重な完全勝利の経験の両者をお持ちのフリージャーナリスト三宅勝久さんに貴重なお話しを伺うことにいたします。
三宅さんは、「週刊金曜日」に書いた記事によって、あの武富士から5500万円のスラップ訴訟を提起されました。しかもその請求金額は、審理の途中から倍の1億1000万円に増額されたのです。この裁判の苦労たるやたいへんなもの。貴重な時間と労力と、そして訴訟にかかる費用の凄まじさ。三宅さんは、財力ある者が金に飽かせて不当訴訟を浴びせることで生じる苦痛の生き証人というべきでしよう。
しかし、幸いにして三宅さんは完全勝訴をします。被告とされた事件の勝訴だけでなく、武富士の提訴を不法行為とする攻守ところを変えた訴訟でも勝訴します。その経過を通じての苦労だけでなく、スラップ訴訟対応のノウハウも、スラップ防止の制度をどう作るべきかご意見も伺いたいところです。期待いたしましょう。
なお、別件のご報告です。
私と同じ弁護士ブロガーで、私と同様にDHC・吉田への8億円拠出をブログで批判して、私と同じ日(本年4月16日)にDHCと吉田から名誉毀損損害賠償請求の提訴を受けた人がいます。提訴の請求金額は2000万円。当初の私に対する請求金額と同額です。その方の係属部は東京地裁民事第30部。そして、その人の場合は、「サクサクと審理を進め、早期に勝訴判決を獲得」という方針で、10月16日に早くも結審しました。結審3か月後の15年1月15日に判決言い渡しが予定となっています。
本件のごときスラップ訴訟で原告の請求が認容されることは、万に一つもあり得ないところですが、問題は勝ち方。ここはきっちりと勝たねばなりません。こだわる勝ち方というのは、名誉毀損のパターンには「事実摘示型」と「論評型」との2類型ががありますが、その「論評型」の典型として勝ちたいのです。
名誉毀損訴訟は、原告の「人格権(名誉権)」と被告の「言論の自由」という、それぞれが有する憲法価値が角逐します。裁判所はどちらかに軍配を上げなければなりません。当然のことながら、名誉権にも言論の内容にも軽重があり、局面ごとにこの両者を調整する視点も変わってきます。「事実摘示型」では、主として原告が「社会に知られたくない事実」を曝露する言論についての裁判所の判断枠組みです。その場合は、原則違法で、(1)当該の言論が公共に係るもので、(2)もっぱら公益をはかる目的でなされ、(3)かつその内容が真実、あるいは表現者が真実であると信じるについて相当の理由がある場合には、違法性が阻却されて、言論の自由が勝つという構造になります。真実性や真実相当性の立証に、被告は汗をかかなければなりません。
これに対して、「論評型」では、言論の自由の側からものを見て、真実性や真実相当性が問題となる余地はなく、「人身攻撃に及ぶなど論評としての域を逸脱」していない限りは違法性がないことになります。政治的言論、しかも「政治とカネ」のテーマについて、縦横に批判の自由が認められないはずがありません。
前回以後の書面の交換は、このような意見の応酬となっています。本件を「公正な論評」の典型事例として、最大限に政治的言論の自由を認める、きっちりした勝訴判決を得たいと思います。是非とも、法廷傍聴と報告集会にお越しください。
(2014年11月10日)
来週の日曜日(16日)が沖縄県知事選・那覇市長選の投票日。安倍政権の「終わりの始まり」を象徴する結果となる様相だ。闘いは勢いのある陣営が味方の数を増やしていく。今回の知事選は、勢いの差が歴然としつつある。
知事も市長も、一地方の権力である。住民の一部に、「勝ち馬に乗り遅れてはならなない」との思惑が働かないはずはない。安倍政権が推す仲井真陣営にくっついていたのでは、実利実益は期待し得ないのだ。公明党の知事選自主投票は、事態をよく物語っている。
共同通信社が7・8両日の知事選世論調査を行い、その結果による情勢が報道されている。「翁長雄志がリードし、仲井真弘多が追う展開」「2割が投票先を決めておらず、情勢が変化する可能性もある」という結論だが、仔細に読めば両候補の勢いに大差あることが示唆されている。
「翁長は共産、社民両党と、沖縄社会大衆党の支持層の9割超を固めた」「無党派層の5割超に浸透。自主投票の公明党支持層からも4割弱の支持を得た」という。これに対して、「仲井真は自民党支持層の5割超を固めたが、公明党支持層は3割、無党派層でも2割弱と浸透し切れていない」「また、自民党支持層の3割弱が翁長氏に流れている」という。
しかも、「最大の争点として、6割超が米軍普天間飛行場の辺野古移設問題と回答。賛否では6割超が『反対』『どちらかといえば反対』と答え、『賛成』『どちらかといえば賛成」は3割だった」との県民意識である。これからの一週間に何が起こるかは分からないが、今のままなら勝負あったというところ。
また、沖縄タイムスが、同日、朝日、琉球朝日放送と合同で情勢調査を実施し、「中盤情勢」を報告している。共同の調査と同様に、「翁長が優位に立ち、仲井真が追っている」という報道。
「翁長は幅広い年代から支持されており、全体の7割を占める無党派層にも浸透している。支援を受けている社民、社大、共産支持者を固め、自主投票の民主も大半が支持している」「仲井真氏は推薦を受けた自民の支持者の約8割を固めた。年代別では20?40代で一定の支持を集めている。無党派層で引き離されている」「 自主投票の公明支持層は、翁長氏と仲井真氏に割れている」
琉球新報社の11月1・2日調査では、宮古だけは、「仲井真、下地が競り合い、翁長が後を追う展開」とされていたが、今回調査ではこのような報道はない。
なお、新報調査の注目すべきは、争点についてのもの。
「知事選で最大の争点となる米軍普天間飛行場の移設問題では、現行計画通り『名護市辺野古へ移設すべきだ』と答えた人の割合が15・1%にとどまった。『国外移設』は28・7%、『沖縄県以外の国内移設』(県外移設)は22・8%、『無条件の閉鎖・撤去』は22・3%で、県内移設反対は73・8%に上る」という報道。これが沖縄の世論なのだ。
もっとも、現地からの発信では、次のような厳しい見方もある。楽観論は禁物のようだ。
「県民との約束を破って辺野古の埋め立てを承認してしまった現知事と、辺野古の基地建設を認めない県民の悲願を達成するために生まれた、初のオール沖縄の候補。当初、この勝負は闘うまでもないと思えた。ところが、先週の地元紙の調査ではその差は10ポイント程度という予想外の結果が出た。翁長候補ならダブルスコアで勝てるはずだという初期の強気な読みは、どうやら楽観論に過ぎたようだ。」(映像作家・三上智恵)
安倍政権の危機感も相当なもの。8日にはテコ入れのために、菅義偉官房長官が沖縄入りしている。9日は小泉進次郎が沖縄入りの予定。菅は、仲井真陣営が開催した経済界の集会で、「安倍政権は基地負担軽減を一つ一つ必ず実現する」と表明。「官房長官が地方選挙の応援に入るのは異例で、仲井真氏にてこ入れする政権の姿勢を鮮明にした」(時事)と報じられている。なお、赤旗によると、菅は8日の仲井真陣営の集会で、翁長候補に触れて、「『オール沖縄』というが、ふたを開けてみると共産党中心の革新候補じゃないか」と発言したという。さすが安倍政権の番頭。今の時代に、反共攻撃はまだ有効とのアタマなのだ。
さて、小泉進次郎は沖縄で何を語るのだろうか。先の見えた安倍一族との心中を望むはずもない、若い世代の保守が沖縄で語る内容に注目したい。
(2014年11月9日)
村上春樹が、「ウェルト文学賞」を受賞し、ベルリンの壁崩壊にちなんだご当地スピーチが話題となっている。私は、そのような文学賞の存在を知らなかった。だから受賞自体に関心はないが、スピーチの内容にはいささかの関心をもった。
作家のスピーチともなれば、毎回目先を変えて気の利いたことを言わなければならない。たいへんなプレッシャーだろうが、今回も概ね好評のようだ。東京新聞は「壁なき世界実現を」とタイトルを付けている。毎日は「壁のない世界 想像してみよう」。朝日は、「今も多くの壁がある」。東京新聞のものを推したい。
各紙が、スピーチの「要旨」を掲載している。英語による講演を共同通信が翻訳したもの。示唆に富むとは思うものの、ものたりなさも大きい。
さわりというべきは、以下の一節。
「壁は人々を分かつもの、一つの価値観と別の価値観を隔てるものの象徴です。壁は私たちを守ることもある。しかし私たちを守るためには、他者を排除しなければならない。それが壁の論理です。壁はやがて、ほかの仕組みの論理を受け入れない固定化したシステムとなります。時には暴力を伴って。ベルリンの壁はその典型でした。」
さて、「一つの価値観と別の価値観」の間にある隔たりを「壁」というのなら、壁はあって当然。むしろ、多数派からの同調圧力にさらされる少数派にとっては厚い壁が必要である。とりわけ、「反日」や「非国民」などの中傷にさらされ、あるいは民族的な差別攻撃から身を守るための強固な壁は不可欠である。村上が論じているのは、「他者を排除しなければならない」という特殊な意味合いを込めた「壁」への非難である。問題とされているのは価値観の隔たりそのものではなく、他者の価値観への非寛容や、価値観の違いに発する暴力の象徴としての「壁」なのだ。
端的に「壁」を、非寛容や暴力に置き換えた方が分かり易く正確な表現となったのではないだろうか。たまたま、「ベルリンの壁崩壊・25周年」にちなんで、気の利いたスピーチとするために「壁」が持ち出されたのだ。
来年、第2次大戦終結70年を意識すれば、こうとも言えるのではないか。
「軍事力は人々を分かつもの、一つの民族と別の民族を隔てるものの象徴です。軍事力は私たちを守ることもある。しかし、私たちを守るためには他者を排除しなければならないということが軍事力の論理です。軍事力はやがて、軍事以外の仕組みの論理を受け入れない固定化したシステムとなります。そして、いつか悲惨な戦争をもたらすことになります。第2次大戦はそのような戦争と悲惨の典型でした」
他者を排除しなければならないとする軍事力の論理を否定することによって、異なる他者との共存と平和を実現する思想がもたらされる。この思想が一国の実定憲法に書き込まれたのが、「日本国憲法9条」であり、その前文に明記されている平和的生存権にほかならない。
同スピーチの次の部分。目くじら立てることではないものの、やや明確性に欠ける。
「世界には民族、宗教、不寛容といった多くの壁があります。小説家にとって、壁は突き破らなければならない障害です。小説を書くとき、現実と非現実、意識と無意識を分ける壁を抜けるのです。反対側にある世界を見て自分たちの側に戻り、作品で描写するのです。人がフィクションを読んで深く感動し、興奮するとき、作者と一緒にその壁を突破したといえます。その感覚を経験することが読書に最も重要だと考えてきました。そういう感覚をもたらすような物語をできるだけたくさん書いて多くの読者と分かち合いたい。」
これも、次のように言い換えることができるだろう。
「現実の世界には、民族、宗教を隔てる不寛容の壁があります。それぞれの価値観や文化を認め合うことによってこの不寛容の壁を突き破らなければ、平和はありません。とりわけ軍事力によって形づくられた壁は平和への危険な障害となります。
この障害を取り除くには、なによりも壁の反対側にある世界を理解して自分たちの側に戻り、反対側の世界の人々も平和を望む同じ生身の人間であることを知ることが大切です。それこそが、「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意」することの基礎ではないでしょうか。
そのような相互理解を妨げるもの。それが、他者排除の論理に基づく軍事力であり、相互不信による軍備増強の競争にほかなりません」
最後は、こうまとめてみよう。
「フィクションとしての平和や相互理解を描くことは、現実の平和を築くことそのものではありません。しかし、ジョン・レノンが歌ったように、誰もが想像する力を持っています。不寛容や軍事力の壁に取り囲まれていても、その壁の向こう側の、より平和で自由な世界の物語を語り続けることができるのです。そのことが大切です。何かが始まる出発点になり得るからです。想像の世界での戦争や平和の体験を出発点とし、人間に対する深い信頼をもたらすような創作をつうじて、さまざまな民族や宗教の人々とともに、日本国憲法の理念に基づく世界の平和を享受することができるようにしたいものです」
(2014年11月8日)
本日(7日)午後2時45分、全国の弁護士有志380名(道外弁護士199名、道内弁護士181名)が、本年5月と7月と2度にわたって行われた氏名不詳者の北星学園大学に対する文書による脅迫行為について、威力業務妨害罪に当たるものとして下記の告発状を札幌地検に提出した。同地検では特別刑事部長が対応して「受領」となった。
同日午後3時から、札幌と東京とで同時に記者会見をしたあと、告発人代表が北星学園と面会し経過を報告して同学園を激励し、不当な社会的圧力によって大学の自治や学問の自由が侵されることのない環境を整備することに協力することを申し入れた。
告発人らは、「基本的人権を擁護し、社会正義を実現することを使命とする」弁護士として卑劣な行為によって大学の自治、学問の自由、言論の自由が損なわれる事態を傍観し得ず、今回の告発に至った。卑劣な犯行は時代の空気が誘発したのではないかとの危惧を払拭できない。捜査機関の厳正な捜査によって、自治や自由を十全に行使できる環境が整うよう期待したい。
私も、告発人共同代表のひとりとして、東京での記者会見に出席した。この問題は根が深い。卑劣な脅迫者やその予備軍に、脅迫の意図は成就しないことを知らしめなければならない。
**************************************************************************
告 発 状
2014年(平成26年)11月7日
札幌地方検察庁 御中
告発人共同代表 弁護士 阪口徳雄(大阪弁護士会)
告発人共同代表 弁護士 中山武敏(第二東京弁護士会)
告発人共同代表 弁護士 澤藤統一郎(東京弁護士会)
告発人共同代表 弁護士 梓澤沢和幸(東京弁護士会)
告発人共同代表 弁護士 郷路征記(札幌弁護士会)
上記代表を含む別紙告発人目録記載の弁護士(380名)
被告発人(1) 氏 名 不 詳
被告発人(2) 氏 名 不 詳
第一 告発の趣旨
住所氏名不詳の各被告発人の下記各行為は、刑法234条(威力業務妨害罪)に該当することが明らかと考えられるので、早急に被告発人らに対する捜査を遂げ厳正な処罰をされたく、告発する。
第二 告発事実
第1 被告発人(1)は、元朝日新聞記者である植村隆氏(以下「植村氏」という)を失職させる目的のもと、2014年(平成26年)5月某日、同人が非常勤講師として勤務する北星学園大学(札幌市厚別区大谷地西2丁目3番1号所在、運営主体は学校法人北星学園・理事長大山綱夫)の田村信一学長あてに、「植村をなぶり殺しにしてやる」「(植村氏を)辞めさせろ。辞めさせなければ、学生を傷めつけてやる」「くぎ入りガスボンベ爆弾を仕掛ける」などの趣旨を記載した文書を郵送し、同月29日、同学長に上記文書を閲読させ、同学長及び同学長から当該文書の内容の伝達を受けた学校法人北星学園大山綱夫理事長らをして、同法人従業員らに警察署等と連携し各種情報収集や情報交換のほか、日常的な巡回と緊急時の対応支援を要請するなどの態勢を構築させ、また、不測の事態に備えて、危機管理コンサルティング会社や弁護士などの外部専門家と連携した危機管理態勢を構築させ、さらに、植村氏の講義実施にあたり警備態勢等を取らせる等の対応を余儀なくさせ、これらに従事した同法人従業員らにおいて通常行うべき同社の業務の遂行を妨げ、もって威力を用いて同法人の業務を妨害した。
第2 被告発人(2)は、上記植村氏を失職させる目的のもと、2014年(平成26年)7月某日、同人が非常勤講師として勤務する札幌市厚別区大谷地西2丁目3番1号所在の北星学園大学(運営主体は学校法人北星学園・理事長大山綱夫)の田村信一学長あてに、「植村をなぶり殺しにしてやる。」「(植村氏を)辞めさせろ。辞めさせなければ、学生を傷めつけてやる」「くぎ入りガスボンベ爆弾を仕掛ける」などの趣旨を記載した文書を郵送し、同月28日、同学長に上記文書を閲読させ、同学長及び同学長から当該文書の内容の伝達を受けた学校法人北星学園大山綱夫理事長らをして、同法人従業員らに警察署等と連携し各種情報収集や情報交換のほか、日常的な巡回と緊急時の対応支援を要請するなどの態勢を構築させ、また、不測の事態に備えて、危機管理コンサルティング会社や弁護士などの外部専門家と連携した危機管理態勢を構築させ、さらに、植村氏の講義実施にあたり警備態勢等を取らせる等の対応を余儀なくさせ、これらに従事した同法人従業員らにおいて通常行うべき同社の業務の遂行を妨げ、もって威力を用いて同法人の業務を妨害した。
第三 告発の事情と告発目的
植村氏は、1991年(平成3年)8月11日付の朝日新聞大阪本社版朝刊で韓国の元慰安婦の証言を他紙に先んじて報じ、同年12月には、この女性からの詳細な聞き書きを報じた。
これに対し、植村氏の妻の母親が韓国の「太平洋戦争犠牲者遺族会」の幹部であることを指摘し、身内を利するため、捏造した事実を含む記事を書いたとする批判が繰り返されてきた。
植村氏への中傷が激しくなる中、朝日新聞は本年8月5日付朝刊の特集においてこの問題に言及し、植村氏の記事の中に「慰安婦」と「女子挺身隊」との誤用があったことを認めた上で、記事に「意図的な事実のねじ曲げなどはありません」「縁戚関係を利用して特別な情報を得たことはありませんでした」と結論づけた。朝日新聞による上記特集紙面の結論の妥当性については、第三者委員会で検証されることが決まっている。
朝日新聞の姿勢や、植村氏の報じた記事の内容に疑義があるとする者においては、言論をもって批判し反論すべきが民主主義社会における当然のルールでありマナーでもある。しかし、インターネットが登場し、容易に誰でも匿名で情報を発信できることになって以来、匿名性に隠れて「言論」の領域から逸脱し、故ない誹謗、中傷が繰り広げられ、刑法上の名誉棄損罪、強要罪、脅迫罪、強要罪などの違法行為となる言説がネット上で飛び交うことさえ見受けられる。時に、ネット空間の一部が、いわば自分たちの気に入らない、または自己の主義主張に反する者に対する公然たる私的制裁行為=リンチの場に化している実態がある。
今回の植村氏の件では、インターネット上で、植村氏の実名を挙げ、憎悪をあおる言葉で個人攻撃が繰り返され、同人の高校生の長女の氏名、写真までさらされる事態となっている。「反日」「売国奴」などと罵倒し、まさしく同人及び家族に対する私的制裁行為=リンチ行為の場と化している。その中では名誉棄損罪、強要罪、脅迫罪などに該当する違法行為も公然と行われている。
このような風潮の中で、集団による私的制裁行為の一端として植村氏が非常勤講師を務める北星学園大学へ上述のような脅迫文が届いたのである。
加えて、2014年(平成26年)9月12日夕方ころには、被告発人らとは別人と考えられる人物が、植村氏を失職させる目的のもと、所在不明の電話器から、北星学園大学の代表電話番号(011?891?2731)に電話をかけ、電話を取った男性警備員に対して、「(植村氏を)まだ雇っているのか。ふざけるな。爆弾を仕掛けるぞ」などと脅し、最近、威力業務妨害罪で逮捕に至った事件も発生している。上記脅迫電話の件については、北海道警察の捜査に敬意を表するものである。
これらの脅迫文や電話での脅迫行為に関しては、大きく報道されて国民的関心事となっている。国民が強い関心を寄せたのは、本件の手段があまりに卑劣であるだけでなく、そのことによって奪われようとしている価値があまりに大きなものだからである。
自らは闇に身を隠し刑事責任も民事責任も免れることを確信しながら、植村氏を社会的に抹殺するという不当な目的を、同氏の言論とは何の関係もない、勤務先であるに過ぎない大学に対して、大学に学ぶ学生を傷つけるという害悪の告知を行うことによって、達成しようとしているのである。卑劣このうえない手段というべきである。
万が一にも、被告発人らの思惑どおり、脅迫や威力妨害の効果として、植村氏の失職が現実のものとなるようなことがあれば、犯罪者の脅迫行為が目論み達成のために有効なものとなる「実績」が作られることになる。このことは、言論の自由や学問の自由という民主主義社会にとって至高の価値が「暴力」に屈して危機に瀕する事態となることを意味している。
意に沿わない記事を書いた元新聞記者の失職を目論み、勤務先に匿名の脅迫文を送付するという被告発人らの違法行為は、言論封じのテロというべき卑劣な行為であり、捜査機関は、特段の努力を傾注して、速やかに被告発人らを特定し、処罰しなければならない。捜査機関がこのような違法状態を放置するようなことがあれば、言論の自由や学問の自由が危険にさらされ、「私的リンチ行為」が公然と横行し、法治国家としての理念も秩序も崩壊しかねない。それは多くの国民、市民が安心して生活できない「私的制裁=リンチ社会」に道を開く危険な事態といわねばならない。
告発人らは、「基本的人権を擁護し、社会正義を実現すること」を使命とする弁護士として事態を傍観し得ず、以上の立場から本件告発を行うものである。
第四 捜査の要請
雑誌やインターネット上において、植村氏並びに家族に対する名誉棄損、侮辱(いずれも親告罪)などの違法行為が堂々とまかり通っている。このような違法行為の放置は、法治国家において断じてあってはならない。
告発人らは、植村氏及び家族らからの告訴の委任を受けている者ではなく、名誉毀損、侮辱について告訴をなす権限はない。しかし、植村氏らの告訴があった場合には、捜査機関においては直ちに捜査に着手し、各犯罪行為者を厳罰に処するよう強く要請する。
また、親告罪ではない強要・脅迫(本件脅迫状によるものを含む)などについては告訴を待つことなく、厳正に捜査をされるよう要請する。
第五 立証方法
1 資料1 インターネット記事
(どうしんウェブ 北海道新聞)
2 資料2 北星学園大学学長名義の文書
「本学学生及び保護者の皆様へ」
3 資料3 毎日新聞
4 資料4 新聞記事
以上
(2014年11月7日)
各紙の報道によれば、先月(10月)27日、福岡県遺族連合会(古賀誠会長)の県戦没者遺族大会において、靖国神社に合祀されているA級戦犯14人を分祀するよう求める決議を採択した。
分祀を求める理由は「天皇皇后両陛下、内閣総理大臣、全ての国民にわだかまりなく靖国神社を参拝していただくため」とのこと。天皇や首相だけでなく一般国民への違和感のない参拝促進には、A級戦犯の分祀が不可欠としているわけだ。
同連合会は2009年に「A級戦犯の扱いは、合祀された1978年以前の『宮司預かり』に戻す」べきとする見解をまとめている。今回初めて「分祀」の要求に踏み込んだということ。また、関連報道では、全国の遺族会で分祀を求める決議が行われたのは初めてだが、複数の県の遺族会でも分祀決議への同調を探る動きがあるという。
古賀会長は、予てからのA級戦犯分祀論者。2002年?2012年には財団法人日本遺族会の会長を務めていた。また、1993年?2006年には遺族会を代表して靖国神社総代(10人)の内の一人でもあった。全国遺族会の重鎮であり、靖国を支える有力者である。福岡の動きの全国への影響力は侮れない。
この動き、実現不可能として無視してはならない。実現の可能性あるものとして大いに警戒を要するものと思う。
ところで、分祀は可能なのか。そもそも分祀とは何か、具体的に何をすることが求められているのか。ことは宗教論争の外皮をまとった政策論争である。宗教的な解釈としては何とでも言える。何とでも言えるとは、ある日前言を翻してもいっこうに差し支えないということだ。
神道では、八百万(やおよろず)の神が存在する。神社に祀ると祭神という。この祭神を数える数詞は「柱」である。複数の祭神をひとつの神社に祀ること、あるいは先の祭神が鎮座する神社に別の祭神を追加して祀ることが合祀である。これは分かり易い。靖国では、臨時大祭における招魂の儀の度に合祀が繰り返され、祭神は2座(皇族2柱で1座、その他おおぜいの全祭神で1座)246万余柱となっている。
分祀の概念は一見明白とは言い難いが、合祀の逆の現象として、ある神社の複数柱の祭神の一部を他の神社に移すことを「分祀」と理解してよいと思う。靖国の祭神246万余柱のうちの「東條英機の命」を筆頭とする14柱を、靖国神社から別の神社に遷座するという儀式を行い、同時に霊璽簿(れいじぼ)から抹消するという手続きになろうかと思われる。
死者の霊魂が招魂という儀式によって靖国の祭神となるとの意味づけは飽くまで観念的なものでしかない。それとまったく同様に、246万柱の靖国神社の祭神の内生前A級戦犯とされた者14柱の霊魂を祭神から外して他の場所に移すという観念的な行為ができないはずはない。
「教義の理論上分祀はできない」などという根拠はありえない。格別に神道の「理論」などあるわけがない。氏子たち、つまりは遺族たちの宗教的な感情に反しない限りは、分祀は可能である。要するに神社と氏子らの考え次第なのだ。
この点、靖国神社自身の現時点での考え方は、次のように「所謂A級戦犯分祀案に対する靖國神社見解」に示されている。
「靖國神社は、246万6千余柱の神霊をお祀り申し上げておりますが、その中から一つの神霊を分霊したとしても元の神霊は存在しています。このような神霊観念は、日本人の伝統信仰に基づくものであって、仏式においても本家・分家の仏壇に祀る位牌と遺骨の納められている墓での供養があることでもご理解願えると存じます。神道における合祀祭はもっとも重儀な神事であり、一旦お祀り申し上げた個々の神霊の全神格をお遷しすることはありえません。」
分霊という言葉で、「一つの神霊を分けても、元の神霊はそのまま存在する」という例は多くある。昔、江戸の町の名物として「伊勢屋稲荷に犬のくそ」といわれたほど、伏見稲荷からの分祠(勧請)をした稲荷神社が氾濫した。もちろんこれで「本社」としての伏見稲荷の祭神や心霊が減ずることにはならない。靖国神社のコメントは、このような事例を念頭において一般化し「一旦お祀り申し上げた個々の神霊の全神格をお遷ししてもゼロとなることはありえません」「これが日本人の伝統信仰に基づく神霊観念」というもの。宗教的信念については争いようがないが、「これ(のみ)が日本人の伝統信仰に基づく神霊観念」と言われると、その部分に限っては反駁の余地がある。伝統に基づく心霊観念上、祭神が削除されることもあるのだ。
私の手許に「神道の基礎知識と基礎問題」(小野祖教著)という書物がある。靖国問題に取り組んだ当時に購入した書物のひとつで800頁を越す大著。そのなかに、「祭神の取扱い」という一節があり、祭神の決定、変更、訂正について、戦前の内務省の解釈を引用して、次のとおり記されている。
「祭神の変更
イ 祭神の一部増加((1)神社合併により、(2)祭神に縁故ある神を増合祀するため)
ロ 祭神の一部削除((1) 考証による誤謬発見により、(2)神社を創設し祭神の一部をそこに分祀するため)」
以上のとおり、ロ(2)に「神社を創設し祭神の一部をそこに分祀するための祭神の一部削除」が明記されているのだ。
A神社に合祀されている甲乙丙3柱の祭神の内、丙1柱について新たなB神社を造営してそちらに遷座して分祀する場合には、A神社については祭神の一部(丙)が削除されて甲乙だけになるということである。「伏見稲荷から末社を勧請しても、宇佐八幡本宮の神霊には何の変化も生じない」という場合とは明らかに異なるのだ。分祀反対派の「神道の教義上、分祀は不可能」を鵜呑みにしてはならない。
ほんとのところは政策論争だから、結局は、神社は氏子の意見に耳を傾けざるを得ない。福岡が真っ先に分祀論に踏み出した、そのインパクトは小さくない。ある日靖国神社が「東條英機の命」以下の14柱を分祀することは不可能ではないとして、分祀を実行する可能性は十分にある。したがって、将来実現可能な選択肢として考えなくてはならない。
実は、分祀の成否自体はさしたる重要事ではない。重要なのは、分祀に引き続いてありうる「天皇・首相・閣僚、そして多くの国民のわだかまりない靖国神社参拝」である。これが実現するとなれば、悪夢というほかはない。
靖国神社の本質はA級戦犯の合祀にあるよりは、264万余柱の兵の合祀にこそある。A級戦犯の合祀以前から靖国問題はあり、A級戦犯の分祀が実行されたとしても靖国問題が解決するわけではない。「分祀に続く靖国公式参拝」を許してはならない。
(2014年11月6日)
11月2日毎日社説「首相の『捏造』発言 冷静さを欠いている」に、胸のすく思いもし、救われた思いもした。節度を弁えての痛烈な批判の冴えに胸のすく思いをし、朝日の孤立を傍観せずジャーナリズムが共通の危機にあるとの見識が示されたことに救われた思いをしたということだ。だが、必ずしも他紙がこれに続いていないことについては危惧を感じざるを得ない。
同社説の冒頭は、「一国の首相の口からこんな発言が軽々しく飛び出すことに驚く。安倍晋三首相が朝日新聞を名指しして、その報道を『捏造だ』と国会の場で断じた。だが、捏造とは事実の誤認ではなく、ありもしない事実を、あるかのようにつくり上げることを指す。果たして今回の報道がそれに当たるかどうか、首相は頭を冷やして考え直した方がいい」
経過は次のようにまとめられている。「首相は先月29日昼、側近議員らと食事した。終了後、出席者の一人が報道陣に対し、首相はその席で政治資金問題に関し「(与野党ともに)『撃ち方やめ』になればいい」と語った、と説明した。これを受け、朝日のみならず毎日、読売、産経、日経など報道各社が、その発言を翌日朝刊で報じた。
ところが首相は30、31両日の国会答弁で朝日の記事だけを指して「私は言っていない。火がないところに火をおこすのは捏造だ」などと批判し続けた。一方、当初、報道陣に首相発言を説明した出席者はその後、「発言者は私だった。私が『これで撃ち方やめですね』と発言し、首相は『そうだね』と同意しただけだ」と修正した。つまり発端は側近らのミスだったということになる」
この事態を、毎日社説は次のように論評する。朝日自身には言いにくいことをズバリ言ってのけた感がある。
「首相はかねて朝日新聞を『敵』だと見なしているようで、今回の記事も『最初に批判ありきだ』と言いたいようだ。『安倍政権を倒すことを社是としていると、かつて朝日の主筆がしゃべったということだ』とも国会で発言している。だが、朝日側はその事実はないと否定しており、首相がどれだけ裏付けを取って語っているかも不明である。あるいは慰安婦報道や東京電力福島第1原発事故の「吉田調書」報道問題で揺れる朝日を、『捏造』との言葉で批判すれば拍手してくれる人が多いと考えているのだろうか」
「従来、批判に耳を傾けるより、相手を攻撃することに力を注ぎがちな首相だ。特に最近は政治とカネの問題が収束せず、いら立っているようでもある。しかし、ムキになって報道批判をしている首相を見ていると、これで内政、外交のさまざまな課題に対し、冷静な判断ができるだろうかと心配になるほどだ」
朝日へのバッシングは、リベラル勢力へのバッシングであり、またジャーナリズムへのバッシングでもある。リベラルも反撃しなければならないが、朝日以外のジャーナリズムも危機感を持って対決しなければならない。毎日が、安倍首相の「朝日捏造」発言を批判した見識には敬意を表せざるを得ない。
さっそく昨日(11月4日)の朝日川柳欄に、「お礼?」の2句が掲載されている。
毎日の社説にメディアの正義感(神奈川県 桑山俊昭)
権力にもの申さねば価値はなし(高知県 中山光晴)
これに、本日の毎日夕刊「熱血! 与良政談」が続いている。これも、実に歯切れがよい。「熱血!」と冠するだけのことはある。印象に残る部分を抜粋する。
「それは、あぜんとする光景だった。先月30日の衆院予算委員会で安倍晋三首相が朝日新聞の記事のみを指して『捏造』と断言した時のことだ。首相は言い終わった後、『してやったり』とでもいうような表情を浮かべ、それにつられて一部の議員からはどっと笑いまで起きた」
「確かに首相の言うように本人に確認すべき話だ。『首相に取材する機会は今、極めて限定されている』というのは言い訳に過ぎないかもしれない。だが、捏造とはありもしない事実を作り上げることだ。側近の説明ミスが発端の事実誤認を軽々しく捏造と呼ぶのはあまりに乱暴だ」「これが捏造となれば、今後批評や論評など一切できなくなる」
「長年、首相が敵視してきた朝日新聞は今、慰安婦報道や『吉田調書』報道などで激しい批判を浴びている。首相は今こそたたく時だと考えているのかもしれない。ただし、ムキになればなるほど、今の首相の余裕のなさを私は感じてしまう」
「言うまでもなく、これは朝日だけの問題ではない。報道の根幹に関わる話である。毎日、朝日以外の各紙がだんまりに近いことも私には不思議でならない」
付言すべきことはない。
(2014年11月5日)
岩手県知事達増拓也殿
県水産行政担当者各位
本日(11月4日)、個人操業の固定式刺し網によるサケ漁の許可を求める三陸沿岸の漁民63名が、県知事に対して許可申請書を提出しました。
申請者たちは、このサケ漁の許可獲得運動を「浜の一揆」と名付けています。第1次申請者38名と併せて、「浜の一揆」参加者は101名となりました。
江戸時代の南部藩は、一揆の規模も回数も群を抜いていることで知られています。藩政が苛酷で無能だったこともありますが、農民・漁民の心意気の高さもあるのではないでしょうか。形は違いますが、幕末の弘化・嘉永の大一揆と同様に、今沿岸漁民が立ち上がっているのです。
沿岸海域の水産資源は、本来沿岸漁民の共有財産です。漁民が、目の前の海で魚を捕るのは当然の権利。ところが、岩手県の漁民は目の前の漁場の豊富なサケをとることを禁止されています。誰も捕れないということではない。大規模な定置網事業者はごっそり捕って、大きな儲けを上げている。現行の水産行政は、定置網事業者の利益独占に奉仕して、この独占の利益を擁護するために一般漁民の権利を剥奪して、小規模な刺し網漁を罰則をもって禁止する実態となっています。101名の申請は、漁民の権利を回復し、生業と生計を維持するための「浜の一揆」なのです。
いうまでもないことですが、「許可の申請」とは、行政に対する陳情や要請ではありません。頭を下げ腰を折ってのお願いではないのです。三陸の漁民が沿岸海域の魚を捕るのは当然の権利。漁民はその権利の行使に着手したのです。県の水産行政が許可を認めなければ、農水大臣への審査請求手続きとなり、それでも許可がなければ、県知事を被告とする不許可処分取消の行政訴訟を提起することになります。そのときには、文字どおり、県の水産行政のあり方が裁かれることになります。
本来沿岸海域での漁業は漁民の権利なのです。もっとも、全漁民に、無秩序な権利行使を認めていたのでは、強い者勝ちとなって、経済的強者の独占を許してしまうことになります。また、乱獲によって資源が枯渇することにもなりかねません。そこで、「調整」が必要になります。弱い立場の漁民の権利を守るため、水産資源の保護のための「調整」です。これが、水産行政の本来の役割ではありませんか。
ですから、漁民の許可申請には、行政は許可を与えるのが原則で、不許可の処分は「そのような許可は強者の独占を許してしまうことになる」「明らかに資源の枯渇を来してしまう」などという、合理的な理由がある場合に限られるのです。
しかも、津波・震災からの復興が遅々として進まない今、ほかならぬこの時期にこそ、零細漁民のサケ漁はどうしても必要といわなければなりません。さけ漁の解禁は地域の復興にもつながります。漁民こそが漁業の主体です。有力者の大規模な定置網漁ばかりを保護するのは本末転倒も甚だしい。
キーワードは「漁業の民主化」です。漁業法がその目的の中に「民主化」という3文字を書き込んでいる意義を改めて確認しなければならないと思います。零細漁民の意見や権利を排斥しての「民主化」はあり得ません。いつまでも、浜の有力者のための漁業行政であってはなりません。
そして、IQ制(漁民単位での漁獲高割当制度)の導入は、資源保護と民主化の課題をともに解決する鍵になることでしょう。IQは、今漁民の側から行政に提案している具体的な「調整」手法です。これも含めて、本日の申請をきっかけに、ぜひとも県の水産行政を漁民の願いや声に真摯に耳を傾けるものとしていただきたい。
**************************************************************************
101人を代理して、知事宛にかなり大部な申請書を提出した。県水産振興課の総括課長・調整課長以下のお歴々に漁民の集会の場まで足を運んでいただいたうえでの受領し。結果はまた、ご報告することとしたい。
ところで私は、この「浜の一揆」は三陸復興における大事件だと思っている。地域経済上の問題でもあり、民主主義の問題でもある。地元メディアが、もっと関心を寄せてしかるべきではないか。
今回も、地元の活動家が、漁民の集会の席に水産行政の責任者が足を運んで書類を受けとるのは「絵になる」構図と、県政記者クラブに事前に知らせていた。しかし、やって来たメディアは、赤旗の一名だけ。感性鈍いんじゃないの、記者諸君。県政記者クラブとは、県の担当者からのリリース情報を県民に伝える「広報官」ではあるまいに。
盛岡に出向いたときには、必ず帰りの汽車では岩手日報をひろげる。隅から隅まで読むのを常としてきた。が、今日は止めた。小さな経済制裁だ。
岩手日報の代わりに、車窓の岩手山を見つめた。昔とまったく変わらない悠然たる山容を。
(2014年11月4日)
1946年11月3日に、日本国憲法は公布された。今日が、68年目の憲法の誕生日となる。その憲法の第100条に、「この憲法は、公布の日から起算して六箇月を経過した日から、これを施行する」との定めがあって、翌47年5月3日が施行の日となった。「憲法記念日」として国民の祝日とされたのはこちらの施行日である。
憲法公布の日として特に11月3日が選ばれたのは、この日が明治節(明治天皇睦仁の生前には天長節)だったから。旧時代の遺物を払拭し切れていない「新憲法」の中途半端さを象徴する日取りの設定である。もっとも、当初は紀元節(2月11日)を憲法施行記念日とすることが吉田内閣の腹案だったようだ。ところが、政権議会が意外に長引いたため、明治節の公布という日取りを選んだとされている。
たまたま、ウィキペディアで、入江俊郎『日本国憲法成立の経緯原稿』の次の抜粋を目にした。
「新憲法は昭和二十一年十一月三日に公布された。 この公布の日については二十一年十月二十九日の閣議でいろいろ論議があつた。公布の日は結局施行の日を確定することになるが、一体何日から新憲法を施行することがよかろうかというので、大体五月一日とすれば十一月一日に公布することになる。併し五月一日はメーデーであつて、新憲法施行をこの日にえらぶことは実際上面白くない。では五月五日はどうか。これは節句の日で、日本人には覚えやすい日であるが、これは男子の節句で女子の節句でないということ、男女平等の新憲法としてはどうか。それとたんごの節句は武のまつりのいみがあるので戦争放棄の新憲法としてはどうであろうか。それでは五月三日ということにして、公布を十一月三日にしたらどうか、公布を十一月三日にするということは、閣議でも吉田総理、幣原国務相、木村法相、一松逓相等は賛成のようであつたが、明治節に公布するということ自体、司令部の思惑はどうかという一抹の不安もないでもなかつた。併し、結局施行日が五月一日も五月五日も適当でないということになれば、五月三日として、公布は自然十一月三日となるということで、ゆく方針がきめられた。
公布の上諭文は十月二十九日の閣議で決定、十月三十一日のひるに吉田総理より上奏御裁可を得た。」
さて、この文書がどれほど真実に近いか、私は検証の能力を持たない。しかし、「公布は自然十一月三日となる」というこの文章の弁解がましさに注目されるべきだろう。実は積極的に11月3日を選んだのだが、その選択は消極的だったと弁明を試みているように思える。入江自身のこの文章によっても、メーデーの日は「実際上面白くない」と意識的にさけられている。5月5日を避ける理由は薄弱である。5月2日、4日、6日は検討もされていない。まさか、4月29日はあるまいが、30日の検討もない。11月3日公布は、4月29日(天長節)や2月11(紀元節)に次ぐ、保守政権のホンネの選択肢だったのではないだろうか。
なお、日本国憲法の制定は、以下の大日本帝国憲法73条の改正手続きを経る形式を借りて行われた。
1項 将来此ノ憲法ノ条項ヲ改正スルノ必要アルトキハ勅命ヲ以テ議案ヲ帝国議会ノ議ニ付スヘシ
2項 此ノ場合ニ於テ両議院ハ各々其ノ総員三分ノ二以上出席スルニ非サレハ議事ヲ開クコトヲ得ス出席議員三分ノ二以上ノ多数ヲ得ルニ非サレハ改正ノ議決ヲ為スコトヲ得ス
要するに、憲法改正の発議権は天皇にのみあり、改正の議決をする議会が成立するためには議員数の3分の2以上の出席を要し、貴衆両院で出席議員の3分の2以上の賛成を要するとされていた。国民投票の制度はないが、普通選挙制度の下ではなかなかの硬性憲法と言ってよい。
50年間、明治憲法は一度の改正を経ることもなかった。最初から天皇制に不都合にはできていなかったからでもあり、そもそも憲法とはフレキシブルなものだからでもある。
この条文に則って、4月17日天皇の詔書の形で、「帝国憲法改正案」が発表され、同日枢密院に諮詢。6月3日枢密院の可決を経て、衆議院上程は6月25日だった。衆院が政府原案を修正可決したのが8月24日。貴族院に回付された修正案は、ここでも追加修正があって、再度衆議院に回付されて、10月8日衆議院で可決成立。しかし、これだけでは手続きは終わらない。再度枢密院への諮詢を経て、ようやく11月3日の公布となった。
天皇の「憲法改正案」発議に対して、貴衆両院(3分の2の特別決議)だけでなく、枢密院を含めた3機関全部が修正同意してようやく成立となったのだ。衆議院も貴族院も、それなりの独自性を発揮している。政権議会の議論は活発だった。議論の質の水準も高かった。しかし、それでも、11月3日の天皇による公布が象徴するとおりの中途半端さは否定し得ない。国民主権と天皇主権との狭間における中途半端である。
この中途半端な「日本国憲法」という存在を、国民主権・人権・平和の方向に解釈を進めて生かすのか、その反対方向へ後退させてしまうのか。天皇の権威を復活し、国家主義や軍国主義の「日本を取り戻す」動きを許すのか、阻止するのか。日々の「憲法の再選択」が国民の課題となっている。11月3日は、そのような課題を再確認すべき日だと思う。
(2014年11月3日)
石原慎太郎が所属している政党は「次世代の党」という(「前世紀の党」ではない)。その党の衆院予算委員会の持ち時間に石原が質問に立った。10月30日のこと。
その質問について、共同は「憲法前文に助詞の使い方の間違いがあるとして、安倍晋三首相に一文字だけの改正を提案した」と伝えている。時事は、「日本国憲法前文の日本語の使い方に不備があると訴え、安倍晋三首相も石原氏の主張に一部同調する場面があった」と。
メディアの注目度が低く、詳細は報じられていないが、次のような内容であったようだ。
「石原氏は前文の『平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼』の部分を例に取り、『助詞の「に」の使い方が明らかに間違いだ。おかしな日本語は日本に厄介な問題をもたらす9条につながっている』とまくし立て、助詞だけでも手直すよう首相に求めた」(時事)
「作家である石原氏は、前文の『平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して』の表現について『明らかに間違いだ』と指摘し、『信義に』を『信義を』に改めるべきだと主張した」(共同)
まったくつまらない話。ネタ切れで、目先を変えてみたということ。メディアの受けをねらったものだろうが、当てが外れたようだ。
思い出すのは、教育勅語についての似たような話題。私が手にした高校時代の国文法の教材に、「教育勅語に動詞の使い方の間違いがあった」と述べられていた。「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」の「一旦緩急あれば(已然形)」は、「一旦緩急あらば(未然形)」の間違いだという。
もちろん、間違いではないとする説もあるようだ。しかし、学生が教えられる意味に勅語を理解し、教えられた国文法に照らせば、明らかに勅語には「一字の間違い」がある。しかも「もっとも大事な部分の大きな間違い」なのだ。私が使ったその教材では、「当時、どの国文の教師も間違いには気付いていたが、畏れ多くも天皇の文書に誤りがあるなどとは指摘できなかった。起草者の元田永孚の権威を失墜することも憚られた」と、当時の社会や学会の権威主義を批判していた。
その印象に深い教材のおかげで、私は古語における動詞の「未然形」と「已然形」との違いを理解し、以後取り違えをすることはなかった。
さて今の世に、仮に憲法の「一文字の間違い」があったとして、いかほどの意味を持つだろうか。憲法は拝跪すべき聖典ではない。文字や文章の一字一句を侵すべからずとする神聖な存在でもない。教育勅語とは違うのだ。
石原には、「一文字の間違いがある」と指摘する表現の自由がある。しかし、石原の指摘する「一文字の間違い」で、憲法の理念についての国民の確信に何の揺るぎも生じるものではない。要するに、とるに足りない些事の指摘でしかない。
それでも、彼が、予算委員会で党の持ち時間をこの些事に費やしたことについて、産経は次のように報じている。
「質問を志願したという石原氏が取り上げたのは憲法の前文。『間違った助詞の一字だけでも変えたい。それがアリの一穴となり、自主憲法の制定につながる』と訴えた」
一文字の間違いがあったとしても、「それがアリの一穴となり、自主憲法の制定につながる」は、思い込みも甚だしい。
しかも、彼が何をもって「間違い」、「不備」というのかは詳報に接していないもののどうしても理解しがたい。まさか、「信頼する」は他動詞だから、格助詞は「を」をもちいるべきだ、などと言っているわけでもあるまい。
私には、「日本国民は、‥平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」が日本語の文章として間違いとの指摘には到底頷く気にはなれない。日本語として不適切とも、醜い文体とも思えない。とりわけ、わけの分からない多くの法律条文の「醜悪な」文体に辟易している身には、この日本国憲法の文章は、例外的に分かり易く、美しいとさえ思える。
石原の指摘のごとく、「諸国民の公正と信義を信頼して」としてもよかろうが、やや意味が変わってくるのではないだろうか。両者を比較しての文意についての感覚的な印象としては、「を」を用いた場合には信頼の対象は「諸国民」の意味合いが強く、「に」を用いた場合には信頼の対象はほかならぬ「公正と信義」となるのではないか。
また、「諸国民の公正と信義『を』信頼して、われらの安全と生存『を』保持しようと決意した」という同じ助詞の重なりを避けようとした修辞上の配慮もあったろう。すくなくとも、「を」が正しくて「に」は間違いと決めつけることはできない。ましてや、「助詞の『に』の使い方が明らかに間違いだ」「おかしな日本語だ」と断定する根拠はあるまい。
こういうときには、まず「日本国語大辞典」だ。格助詞「に」を引いてみるが、膨大に過ぎて手に負えない。結局、広辞苑が手頃だ。格助詞「に」について14通りの用法分類があって、その8番目に「対象を指定する」用法の説明がある。文語の用例がいくつかならび、最後に口語の「赤いの『に』決めた」とある。これだろう。
憲法前文は、信頼の対象を単に「平和を愛する諸国民」とせず、さらに「その公正と信義」と指定(特定)したのだ。決して間違った日本語でも不自然な日本語でもない。
なお、憲法の教科書では「平和を愛する諸国民の公正と信義」は、国連の理念と活動への評価だと説かれる。内容においても間違いはなく、ここをもって「アリの一穴」とすべき理由はない。
本日のブログのタイトルを、「石原慎太郎の『一文字』改憲論に」とした。「石原慎太郎の『一字』改憲論に反駁する」の意味である。これを、「石原慎太郎の『一文字』改憲論を」にしないのは「明らかに間違い」、「日本語として不備」などと指さされる筋合いはなかろう。
(2014年11月2日)
政治資金規正法も公職選挙法も、政治活動や選挙運動にカネが必要なことは所与の前提としている。そのうえで、法は、経済力の格差が票数の差とならぬよう一定の量的な規制をするとともに、カネの流れの透明性を徹底することを主眼としている。それぞれの政治家のカネの流れの実態を公開し、国民の評価や批判を通じて民主的な政治過程が円滑に進展するよう期待している。
政治資金規正法第1条(目的)が、この点を次のように表現している。
「この法律は、‥政治団体及び公職の候補者により行われる政治活動が国民の不断の監視と批判の下に行われるようにするため、‥政治団体に係る政治資金の収支の公開‥の措置を講ずることにより、政治活動の公明と公正を確保し、もつて民主政治の健全な発達に寄与することを目的とする」
政治資金収支報告も選挙運動資金収支報告も公開される。そのほとんどをインターネットで閲覧することができる。収支の報告を通じてカネの面から見た政治家や候補者の活動が有権者の評価・批判を求めているのだ。カネの動きについて「不断の監視と批判」を行うよう、法は主権者国民に期待している。場合によっては「監視と批判」は有権者の責務でもある。
以上のとおり、収支報告書は民主主義の政治過程の基礎を支えているものとして重要な位置を与えられている。「民主政治の健全な発達寄与の基礎資料」として正確に作成されなければならない。だから、その記載に過誤があれば、故意だけでなく、重過失ある場合にも「虚偽記載罪」が成立することとされている。
今問題となっている多くの閣僚の政治資金規正法上の収支報告の過誤について、これをことさらに、「些末なことに過ぎない」「単純なミスではないか」「重箱の隅をほじるような消耗な作業」「訂正すれば済むこと」などとする論調が絶えない。これは意図的に違法な隠蔽に加担しているか、さもなくば「政治資金収支の透明性確保を基礎とした、有権者による監視と批判」という民主主義の基本構造に無理解というしかない。
各紙が「撃ち方止め」の首相発言があったと報じ、安倍首相が予算委員会で、ことさら朝日だけの名を出して、「きょうの朝日新聞ですかね、『撃ち方やめ』と私が言ったと報道が出た。これは捏造です」と言った。これは取り返しのつかない重大な安倍失言として今後の追求対象となるだろう。
本日のブログで言いたいことは、「撃ち方止め」は主権者の立場からは絶対に容認し得ない政治家間の結託であるということ。標的がある限り、徹底して撃ち合ってもらわねばならない。虚偽や杜撰な収支報告は、相手方陣営からの攻撃の恰好の標的になることは当然で、打ち合いの末に撃つべき対象がなくなって、ようやく有権者は報告書を信用することができることになる。そのとき初めて、法が想定している、収支の透明性徹底を通じての有権者の適切な判断、プラス点の評価もマイナス点の批判も可能となる。
ことは保守陣営だけの問題ではない。「革新」を名乗る陣営でも、明らかな収支報告の過誤を「単純な記載ミス」「訂正すれば済むこと」などと糊塗した実例がある。こういう候補者や選対には、保守のダーティさを攻撃する資格がなくなってしまう。心していただきたい。
10月30日、東京地検特捜部が小渕優子議員に関係する政治資金規正法違反容疑で強制捜査に踏み切った。強制捜査の令状における被疑者は元秘書となっているのだろうが、注目されるのは公民権喪失をともなう小渕優子議員の法的責任である。
元秘書氏は、「小渕氏は何も知らない。収支報告書は私が作成した」と説明しているという。議員は「秘書がやったこと」と言い、秘書は「悪いのは私」と言う。古典的な、トカゲの尻尾への責任回避ないし責任限定策である。バリエーションとして、「妻が」「亡妻が」というのもある。美談でも何でもない。「何も知らない」こと自体が、問われているのだ。政治家は自身の政治活動の収支を国民・有権者に開示する責任がある。政治家自身が自らの活動の実態を知らないで、どうしてこれを国民・有権者に知らせることができようか。「知らない」のは、「恥」のレベルではない。違法であり、犯罪にもなるのだと自覚しなければならない。民主主義社会の政治家としての自覚に欠けること甚だしいというほかはない。
江渡聡徳防衛相も、野党からの攻撃に必死の防戦だ。こちらは、「単純な事務的ミス」作戦。同氏の資金管理団体から江渡氏本人への違法な寄付が発覚した問題を巡り、野党の追及が1カ月近く続く異常事態となっている。「江渡氏は『秘書らに支給する人件費として一時的に預かり、現金で渡した』のだと強調する。だが、支給される当の秘書(会計責任者)が「寄付」と勘違いした−−という筋の通りにくい説明に、野党は『作り話だ』と批判している」(毎日)
収支報告書の正確な記載を軽んじてはならない。それは、民主主義を軽んじることと同義なのだから。
(2014年11月1日)