澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

これが「親密な同盟国・アメリカ」の戦争だ?映画「ドローン・オブ・ウォー」の恐怖

久しぶりに映画館に足を運んだ。観たのは「ドローン・オブ・ウォー」。作品としての出来よりは、この戦闘がフィクションではなく事実であることという重みに圧倒された。これが、戦争法で日本と固く結ばれた「同盟国アメリカ」の無法の実態だ。一見をお勧めしたい。

アフガニスタンの「テロリスト」に対する「標的殺害」が、12000キロ離れたアメリカ本土で行われている。現地では、上空遙かにドローン(機種はプレデター)が地上を旋回しつつ標的の監視を続ける。そのドローンに操縦者の姿はなく、操縦桿を握って標的にミサイルを撃ち込むのは、ラスベガス空軍基地の冷房の効いたコンテナのなかの「パイロット」たち。そのアメリカ空軍兵士たちは、眉ひとつ動かすことなく、淡々と指1本で標的殺害の任務を遂行していく。害虫をひねり潰すように。観客の背筋は凍るが、これは近未来空想物語ではなく、現実に現在アメリカ軍が行っていることだという。この作品の映画化にはスポンサーがつかず、アンドリュー・ニコル監督が苦労して自分で資金集めをした。さもありなんという内容だ。興行的な成功を願わざるを得ない。

主人公はもとF-16戦闘機パイロットの空軍少佐。朝、子どもたちを学校に送ったあと自家用車で出勤し、階級章をつけた軍服を着て8時間の戦闘任務に就く。勤務の後には美しい妻の待つマイホームへ帰宅する。

戦闘はモニターとコントローラーで行われ、テレビゲームと寸分変わらない。戦闘につきものの汗と血も飛び散らないし、すざましい爆音もない。巻き上がる爆風は画像の中だけのこと。静かに行われる一方的虐殺である。一瞬のうちに殺された者には何が起こったかわからない。非対称戦闘の極限の図だ。

先日、ドローン攻撃ではないが、アフガニスタン北部のクンドゥスで「国境なき医師団」の病院が空爆され33人もの死者が出たという報道があった。抗議を受け、10月6日アフガン駐留米軍司令官が誤爆を認め、米国防総省長官が犠牲者に深い遺憾の意を表した。治療と安全の場であるはずの病院において、血や肉が飛び散り、轟音が響く阿鼻叫喚の光景が繰りひろげられた。国境なき医師団は「ここは病院だ、攻撃をやめろ」と1時間にわたって連絡をとったが無駄だったと言っている。

映画の中でも、主人公の逡巡を無視し、戦争犯罪ではないかという不安を押しつぶす命令が出される。テロリストとされた標的だけでなく、その家族、攻撃後に救助に集まってきた非戦闘員、女性や子ども、葬列に集まってきた人々までも、容赦なく殺害される。「不都合な攻撃については記録を残すな」という命令さえ頻繁に出される。国境なき医師団の抗議で2015年10月3日のアメリカ軍の殺害攻撃の不当性は世界に広く知られたが、開戦以来人知れず殺害されたその他の民間人犠牲者の数は想像を絶する多数にのぼるようだ。そのなかには、ドローンによる容赦ない攻撃の犠牲者も数多くいるだろう。

良心のかけらが残っていた主人公は、自らが安全な立場で屠殺同然の戦闘をすることに耐えられず、戦地勤務を希望するが叶えられない。そして、徐々にPTSD(心的外傷後ストレス傷害)におちいる。子どもを抱きしめながら、庭でバーベキューパーティをしながら、どこまでも晴れ渡るロスアンジェルスの青空を不安げにみあげる。アフガンの人たちは空爆を恐れて、空が曇ることを願って生きているという。

その後主人公にはお定まりの家庭崩壊がおこる。しかし、主人公が退役してもピンポイント戦闘の空軍志願兵は、いくらでもゲームセンターでスカウトできるという。実戦の経験などいらない。3,4日のゲーム指導で安全に闘う空軍兵士は大量生産できるのだ。少しでも想像力と人間性があり、戦闘に耐えられない者はふるい落とされ、精神異常のサイコパス連中だけが残っていく。

「我々がアメリカをテロリストから守っているのだ」「我々が攻撃をやめても相手がやめるはずはない」「しかし、我々の攻撃がさらなるテロリストをつくり出している」「そのうち自爆テロをしている者や子どもも我々同様ドローンを持つだろう」「お互いに終わりの無い殺しあいを永遠に続けなければならない」という映画の中の会話が不気味だ。アメリカがコンピューター戦争を続ければ、中東のテロリストだけでなく、必要とあらば、ロシアも中国も北朝鮮もドローン戦争に参加するだろう。

インドは、アメリカのドローンをコンピューター操作によってほぼ無傷で捕獲し、その能力を誇示した。インドも、ドローン戦争に参戦することになるかもしれない。核戦争よりずっと殺しのハードルは低いのだから、世界中で「ドローン・オブ・ウォー」が繰りひろげられる時代が来るかも知れない。

戦争法を持つに至った日本である。他国から敵とみなされる事態となれば、見上げた空が晴れていれば、攻撃を覚悟しなければならない不安な日々が待っている。映画「天空の蜂」ほど大仕掛けな脅しなど必要ない。敵国やテロリストのドローン一機と指一本に震え上がらなければならないことになる。恐ろしい現実だ。
(2015年10月12日・連続924回)

小渕優子議員の法的責任ー違憲議員落選運動に関連して考える

昨日(10月9日)、小渕優子議員の元秘書2名に対する政治資金規正法違反(虚偽記載など)被告事件の判決が言い渡された。東京地裁(園原敏彦裁判長)は、被告人・折田謙一郎(群馬県中之条町の前町長)に禁錮2年執行猶予3年(求刑禁錮2年)、被告人加辺守喜(小渕議員の資金管理団体の元会計責任者)に禁錮1年執行猶予3年(求刑禁錮1年)の判決を言い渡した。

「判決によると、両被告は小渕氏の資金管理団体『未来産業研究会』(東京)の2009?13年分の政治資金収支報告書で、未来研から地元・群馬側の政治団体に計約5600万円の寄付があったように装ううその記載をした。また、折田被告は群馬側の政治団体の収支報告書でも、計約2億円のうその記載をするなどした。」(朝日)

同裁判長は「政治資金の収支について、国民の疑惑を回避できさえすればいいとする姿勢が垣間見え、厳しい非難に値する」「政治活動に対する国民の監視と批判の機会をないがしろにする悪質な犯行」と述べたという。私には、この裁判所の「国民の監視と批判の機会」という指摘が、たいへんに心強い。

戦争法案に賛成した違憲議員の落選運動が話題となっている今、改めて政治資金規正法第1条を掲げておきたい。まずは、この条文を熟読玩味しなければならない。

第1条(目的) この法律は、議会制民主政治の下における政党その他の政治団体の機能の重要性及び公職の候補者の責務の重要性にかんがみ、政治団体及び公職の候補者により行われる政治活動が国民の不断の監視と批判の下に行われるようにするため、政治団体の届出、政治団体に係る政治資金の収支の公開並びに政治団体及び公職の候補者に係る政治資金の授受の規正その他の措置を講ずることにより、政治活動の公明と公正を確保し、もつて民主政治の健全な発達に寄与することを目的とする。

法は、「国民の不断の監視」の条件を整える。「不断の監視」の上の批判は、主権者国民がそれぞれになすべきことだ。そのことを法が期待していると言うべきであろう。

ところで、小渕優子の秘書2人は有罪になった。議員自身はどう責任を取るのか。また、国民がその責任をどう追及するか、それこそが問題ではないか。

私は、これまで小渕を「ドリル姫」と呼んできた。「東京地検特捜部が(14年)10月に小渕氏の関係先に家宅捜索に入る以前に、関係先にあったパソコンのハードディスク(HD)が壊されていたことが、関係者への取材で分かった。一部のパソコンのHDは電気ドリルで穴が開けられた状態で見つかった」(毎日)からである。わざわざ、ハードディスク(HD)をドリルで破壊することは通常あり得ない。証拠隠滅の意図からなされたとするのが常識的な考え方。今回、その責任についての報道がないのが気にかかる。

しかし、ドリル姫の呼称は引っ込めてもよい。今後は、尻尾2本を切って生き延びようとしている「トカゲ姫」ではどうだろうか。

本日の各紙の中では、毎日と読売の社説がこの問題に触れている。読み較べて、さすがに毎日の社説に説得力があるが、この問題に限っては読売の姿勢も悪くない。なかなかの迫力。タイトルは、「元秘書2人有罪 小渕氏はいつ説明するのか」と、小渕優子の責任を徹底して追求している。

冒頭の一文が、「議員自らが説明責任を果たしていない中で、元秘書への判決が出た。閣僚を2回も務めた政治家として、みっともないと言うほかない。」というもの。

そう、小渕優子は「みっともない」のだ。分かり易く、言い得て妙である。「小渕氏自身は嫌疑不十分で不起訴となったが、実態を見過ごしてきた責任は極めて重い。」「小渕氏は昨年10月の経産相辞任の際、『説明責任を果たす』と約束した。それから約1年が経過しながら、自らの口で説明していないのは、どうしたことか。」と、読売社説も手厳しい。

読売社説の結論はこうだ。
「政治資金を巡る問題が浮上する度に、『知らなかった』『秘書に任せていた』といった政治家の弁明が繰り返されてきた。その姿勢が、国民の政治不信を増幅させたのは否めない。政治家が自らの政治資金の流れに責任を持つよう、政治資金規正法にも、公職選挙法のような連座制の導入を検討すべきだろう。」

一方、毎日である。タイトルは、「元秘書有罪 小渕氏の重い政治責任」
小渕自身の責任を次のように、まとめている。
「問題の表面化から約1年になる。小渕氏は弁護士ら第三者にまず調査を委ね、自ら説明責任を果たすと約束した。だが、約束はいまだ果たされていない。」
「巨額の簿外支出の使途は何だったのか。報告書に目を通し、秘書たちを指導・監督する政治家としての役割をなぜ放棄してきたのか。」

そして、かなり具体的に問題が小渕だけに留まるものでないことに言及する。
「小渕氏の関係政治団体では、父の故恵三元首相時代から、飲食・交際費の簿外支出が行われ、これを具体的な使途の説明がいらない『事務所費』に紛れ込ませて処理してきたとされる。しかし、国会議員の不適切な事務所費問題が発覚して以後、こうした処理が難しくなり、今回のような関係団体を使ったつじつま合わせが始まったという。」
「他の議員事務所でもこうした処理が行われているとの指摘がある。」
「国会はそうした疑念を呼ばぬよう、でたらめな処理の抜け道をふさぐ方策を考えなくてはならない。」
「1人の政治家が複数の政治団体を持ち、その間で資金移動できる制度が適切なのか。資金移動が必要だとしても、それを公開してチェックできるようにする仕組みが不可欠だ。」
「また、こうした事件のたび、秘書だけが刑事責任を問われ、事件の幕が引かれることでいいのか。」

そして、最後をこう締めくくっている。
「会計責任者の選任・監督に『相当な注意を怠った場合』しか政治家が罰せられない現行法のハードルが高すぎる。少なくとも秘書や会計責任者の有罪が確定すれば、一定期間、政治家本人の公民権を停止して政治の舞台から退場させるべきだろう。」

両社説とも、現行法での小渕の法的責任追求は困難との前提での政治資金規正法改正の提案となっている。具体的には、会計責任者が有罪になっ場合の、当該管理団体代表者となっている議員ないし候補者の公民権を停止する連座制の創設である。大歓迎だ。是非、実現してもらいたい。

しかし、このことは現行法でも可能なのだ。
政治団体(当然に、資金管理団体を含む)の会計責任者に収支報告書に虚偽記載等の犯罪が成立した場合、「代表者が当該政治団体の会計責任者の選任及び監督について相当の注意を怠つたときは、50万円以下の罰金に処する。」(政治資金規正法第25条第2項)と定める。秘書2人が会計責任者として有罪になったのだから、その選任及び監督について相当の注意を怠つたとされれば、代表者・小渕優子の犯罪も成立する。

しかも、この政治団体の責任者の罪は、過失犯(重過失を要せず、軽過失で犯罪が成立する)であるところ、会計責任者の虚偽記載罪が成立した場合には、当然に過失の存在が推定されてしかるべきである。資金管理団体を主宰する政治家が自らの政治資金の正確な収支報告書に責任をもつべき注意義務が存在することは当然だからである。

当該代表者において、特別な措置をとったにもかかわらず会計責任者の虚偽記載を防止できなかったという特殊な事情のない限り、会計責任者の犯罪成立があれば直ちにその選任監督の刑事責任も生じるものと考えてしかるべきべきである。

なお、資金管理団体を主宰する議員・小渕優子が有罪となり罰金刑が確定した場合には、政治資金規正法第28条第1項によって、その裁判確定の日から5年間公職選挙法に規定する選挙権及び被選挙権を失う。その結果、小渕は公職選挙法99条の規定に基づき、衆議院議員としての地位を失うことになる。

以上の措置は、現行法でも可能なのだ。問題は、政治資金規正法25条2項適用のハードルが運用上高くなっているというだけのことである。しかし、毎日社説が言うとおり、「会計責任者の選任・監督に『相当な注意を怠った場合』しか政治家が罰せられない現行法のハードルが高すぎる。」のであれば、政治家無過失でも公民権を失わしめる連座制を創設することが望ましいのは当然のことである。

政治資金規正法をその目的規定に沿うべく厳格に改正して、遷座制導入には大いに賛成するにしても、法改正までは政治家の責任を追及することが困難だと躊躇するようなことがあってはならない。落選運動では、現行法を徹底して活用しよう。
(2015年10月10日・連続923回)

またまたの都教委敗訴。教育委員には厳格な教育的指導が必要だ。ーこんなことで東京の教育本当にイインカイ?

昨日(10月8日)、東京地裁民事19部(清水響裁判長)は、元小学校音楽専科教員Kさんの懲戒処分取消請求訴訟で都教委の懲戒処分を取り消す判決を言い渡した。またまたの都教委敗訴判決。すっかり、敗訴判決が定着した都教委となった。

Kさんは、卒業式における「君が代」斉唱の際のピアノ伴奏を命じられて、信仰上の理由から服することができなかったのだ。このことが、職務命令違反として懲戒処分となったものだが、裁判所はこの懲戒処分を取り消した。はからずも、宮崎緑新教育委員の就任記念祝賀判決としても意義のあるものとなっている。

被処分者の会からの報告では、「今回の判決により、都教委が係わる教育裁判で、都教委は7連敗となりました。司法の目から見ても都教委は『非常識』ということです。なお、都教委中井教育長は『今回の判決は誠に遺憾で、今後、内容を確認し、訴訟対応をとっていく』と控訴の意向を示しています。」とのこと。

本日のブログでは、被処分者の会がいう「都教委の非常識」を解説したい。多少面倒でも、是非ご理解いただきたい。東京都教育委員の6人にも、この拙文をお読みいただけたらありがたい。

中学校の公民授業以来おなじみのとおり、日本国憲法の統治機構は、他の文明諸国同様に三権分立の制度を採用している。権力の集中を防いで国民の人権を擁護するためであることも、ご存じのとおりである。司法は、立法・行政の各部門の行為の合憲性・適法性をチェックする役割を担っている。このことを、憲法81条は「最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である。」と表現している。この条文は「最高裁は」としているが、最高裁に直接提訴はできない。したがって、下級審も憲法判断をする。憲法適合性だけでなく、法律への適合性も。その最終審が最高裁となる。

なんとなく、「裁判所こそは憲法の番人、人権の砦。立法や行政に違憲・違法・不当を行う不心得者があれば、裁判所が是正してくれる。だから法の支配は安泰だ」などという俗信が蔓延しているのではないだろうか。残念ながら、現実の制度運用はそんな国民の期待に応えるものにはなっていない。

合憲と違憲、合法と違法の区別は、くっきり二分されているわけではない。グラデーションのどこで線引きするかは常に微妙な問題だ。しかも、立法にも行政にも、裁量権という「判断権限の余地ないし幅」が広くあるとされている。さらに、司法は自分ならこうするという判断を示すわけではない。立法や行政のやっていることの違法・不当が目に余り、「到底目をつぶって放置してはおけない」と考えるときだけ、口を出して是正するのだ。だから、判決が、立法や行政の行為を違憲・違法と宣告するのは、実はなかなかにないことなのだ。これは、見方によっては司法が機能していないとも言える。司法運用の現実は、立法にも行政にも、この上なく大甘なのである。これで、司法が憲法が期待している役割を果たしていると言えるのか、心配せざるを得ないほどなのだ。

この三権分立における運用の実態を、司法消極主義と言っている。立法や行政に対して司法が謙抑的であるとも表現される。立法府は主権者の選挙によって構成される国権の最高機関(憲法41条)であり、行政府も国会が構成するのだから、間接的に有権者の意思に基づくものである。それに対して、司法は民意を反映した構成とはなっていない。「だから、司法消極主義にはそれなりの正当性の根拠がある」ともされ、「いや、到底憲法が想定する司法の役割を果たしていない。その結果、権力の横暴による人権侵害が放置されているではないか」と批判をされてもいる。私は、実務家の実感として後者の立場にあるが、いまはその当否についての議論は措く。

ともかく、現実の三権分立の制度運用において、司法はきわめて消極的なのだ。裁判所が、行政にものを言って、行政のやることを違憲・違法・裁量権の濫用、などとチェックするなどは滅多にないことなのだ。だから、行政庁が司法から「あなたのやってることは違法」「だから処分は取り消す」とアウトの宣告を受けることは、たいへんに恥ずべきことと受け止めなければならない。教育部門においてはなおさらのことである。都教委の諸君は、この辺の感覚がお分かりでない。もしかしたら、単なる鈍感ではなくて、司法の判断など無視しようという魂胆を秘めているのではないだろうか。

行政は厳格に法に従ってなされなければならない。たった1件でも、裁判所から、「違法」「処分取消」の判決を受けたら、そのことを深刻に反省し、違法を犯したプロセスを検証し、責任を明確にして再発防止の策を講じなければならない。そうしてこそ、再びの敗訴判決の恥を繰り返さぬことが可能となる。それが、都民に奉仕すべき都政の真っ当なありかたである。

ところが、都教委という組織は、真っ当ならざることこの上ない。すでに、いくつもの最高裁判決において違憲判断だけはかろうじてまぬがれたものの、「褒められたやり方ではない」「なんとか教育現場正常化の努力をせよ」「処分の量定は、社会観念上著しく妥当性を欠いて裁量権の範囲を逸脱している」と敗訴していながら、これを深刻に反省した形跡がない。むしろ、判決に抵抗し敵愾心を燃やしているようにさえ見える。だから、下級審の判決で最近7連敗となっているのだ。昨日のKさん事件判決は、その典型というべきだろう。

行政訴訟の類型はいくつかあるが、そのメインは行政処分の取消請求訴訟である。Kさんは、懲戒処分の取消請求訴訟を提起した。その提訴の前に東京都人事委員会に審査請求を申し立て、人事委員会の裁決を経ている。こうしてはじめてめて、行政訴訟を提起する手続的要件を具備したことになる。

都教委がKさんに対してした原処分は、「停職1か月」であった。これは、Kさんが同種の行為により過去4回の懲戒処分を受けていたことを理由としてのもの。「停職1か月」の間は、給与の支給がないだけでなく学校に出て授業をすることができない。

これに対して、人事委員会は、いわゆる「修正裁決」をして「減給10分の1・1月」に処分の量定を落とした。

しかし、Kさんはこの減給の裁決をも不服として、裁判所に取消請求の訴訟を提起した。この場合の請求の内容は、「『人事委員会裁決で修正された都教委の減給処分』を取り消せ」というやや込み入ったものとなるが、裁判所はこれを認め、判決は減給処分を違法として取り消した。

 都教委処分(停職)⇒人事委員会修正裁決(減給)⇒地裁判決(減給も取消)

つまりは、ホップ、ステップ、ジャンプで、Kさんの処分は取り消されたのだ。もちろん、まだ判決は確定してない。が、都教委は自分の間違いを反省すべきなのだ。控訴して争う愚は避けるべきだ。仮に、控訴してもこの判決は確実に上級審で維持されるだろう。その場合の本判決の意味はより大きなものになる。

判決書は全55頁とかなりのボリューム。一見して、丁寧な書きぶりが印象的だ。

Kさんがキリスト者であり、Kさんの所属する日本聖公会が、君が代を「神聖不可侵な天皇の統治する御代が永遠に続き、栄えることを祈願する歌であるとの解釈を示していること」「都教委による「君が代」の強制が思想良心の自由及び信教の自由に反するとして、その即時中止を求める旨の声明文を採択していること」を認定している。

そして、裁量権濫用については、次のように判断している。
「教職員に直接の不利益が及ぶ減給処分は…学校の規律や秩序の保持等の必要性と処分による不利益の内容との権衡の観点から当該処分を選択することの相当性を基礎づける具体的な事情が認められる場合であることを要する」との判断枠組みを前提に、「これまでに懲戒処分を4回受けているが、その態様はいずれも積極的に式典の進行を妨害する内容の非違行為ではない」「本件不伴奏が原告の信仰等に基づくものであり、これにより卒業式の進行上、具体的な支障が生じたとは認められないこと等を考慮すると、…都の裁量権を考慮しても、減給は重すぎる」
したがって、「処分は裁量権の逸脱濫用に当たるとして違法、これを取り消す」との結論となっている。

飽くまで、最高裁判決が許容する枠組みの中でのことではあるが、できるだけ、憲法に忠実に、行政の暴走から人権を擁護しようという姿勢を見て取ることができる。

それにしても、だ。中井敬三教育長のコメントは、困ったものである。
どうして、「今回の判決は誠に遺憾で、内容を確認し訴訟対応をとっていく」としか言えないのだろうか。相変わらずの頑な姿勢。言葉の上だけの強がりかも知れないが、この悪役ぶりはもう痛々しい。

「処分は違法との裁判所のご指摘をいただきました。法に従わねばならない立場にあるものとして、この判決を重大なものとして受け止め真摯に対応いたします」と、このくらいのことがどうして言えないのだろうか。

何度、敗訴を重ねたら、この人たちは「反省」とか「再発防止策」の必要に思い当たるのだろうか。都教委の各教育委員には、都民からの厳しい教育的指導が必要ではないか。

しかしもう彼らは敗訴判決には慣れっこになって、再教育や指導を受け付けない、反省とは無縁の境地に飛んで行ってしまったのだろうか。
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10月17日集会はこの判決で一層盛りあがることになる。是非ご参加をいただきたい。
『学校に自由と人権を!10・17集会』
  子どもたちを戦場に送るな!
  ―「日の丸・君が代」強制反対! 10・23通達撤回!―

 2015年10月17日(土)
  13時開場 13時30分開会 16時30分終了
  豊島区民センター6F文化ホール(池袋駅東口 徒歩5分)
  アクセス地図
   http://www.toshima-mirai.jp/center/a_kumin/
☆資料代 500円
☆集会の主な内容
 講演 「イラクから見る日本?暴力の連鎖の中で考える平和憲法」
    高遠菜穂子さん(イラク支援ボランティア)
 歌のメッセージ 中川五郎さん(フォークシンガー)
 特別報告 「『君が代』訴訟の新しい動きと勝利への展望」 
    澤藤統一郎弁護士(東京「君が代」裁判弁護団副団長)
(2015年10月9日・連続922回)

あゝ河野太郎よ、君を泣く

君、矜持を捨てることなかれ
気骨を失うことなかれ
筆を抑えることなかれ
膝を屈することなかれ

折節正しき言行の
末頼もしき君なれば、
君への期待はまさりしも
よもや安倍の風情にへつらって、
閣僚人事に名を連ね、
魂売るとは思いきや
いかでか理由は知らねども、
ブログを消すとはなさけなや
親の情けはまさりしを
安倍に屈して生きよとて、
五十二までを育てしや

かつては党のあるじにて
正統保守の良心と
令名高き親の名を
嗣いで来たりし君なれば
君 籠絡さるることなかれ
自分を廉く売るなかれ

安倍の自民は
風前の塵と吹き飛ぶときならん
世論の支持の急落は
民意と天意のなせるわざ
君の出番にあらざるぞ
この出陣は情けなや

君は知らじな民の瞋恚
憲法九条は猛虎の尾
安倍と一緒に踏むなかれ

ああ河野太郎よ君を泣く
節を屈することなかれ
脱原発を述べし君
「核のゴミには目をつぶり、
やみくもに再稼働しようというのは無責任」
安倍を批判の舌の根の
乾かぬうちの入閣で、
はや その気骨は挫けたか

若き麒麟と勇ましく
国家秘密法に反対の狼煙を上げし谷垣も
老いては駄馬になりさがる
君 同じ轍を踏むなかれ

安倍のお粗末内閣の
名簿に君の名を見つけ
民のなげきのいたましや
まことの保守はすでになく
右翼の輩がのさばりぬ

安倍を批判の頼もしき
君の言葉が潰えなば
ああまた誰をたのむべき
君 膝を屈することなかれ
(2015年10月8日・連続921回)

「学校に自由と人権を!10・17集会」のご案内

毎年10月に、「10・23通達」に抗議する市民集会が行われる。今年は、「子どもたちを戦場に送るな!?「日の丸・君が代」強制反対! 10・23通達撤回!?」という副題を付しての集会。

集会の日時・場所等は以下のとおり。
 2015年10月17日(土)
  13時開場 13時30分開会 16時30分終了
  豊島区民センター6F文化ホール(池袋駅東口 徒歩5分)
  アクセス地図は
  http://www.toshima-mirai.jp/center/a_kumin/

集会のメインの企画は、高遠菜穂子さん(イラク支援ボランティア)の講演
 「イラクから見る日本?暴力の連鎖の中で考える平和憲法」というもの。
そして、歌のメッセージ 中川五郎さん(フォークシンガー)が花を添える。
私も、東京「君が代」裁判弁護団副団長として特別報告を担当する。
 「『君が代』訴訟の新しい動きと勝利への展望」 澤藤統一郎弁護士

この集会の主催は、以下の「10・23通達関連裁判訴訟団・元訴訟団」14団体を糾合する実行委員会。
「日の丸・君が代」不当処分撤回を求める被処分者の会/「日の丸・君が代」強制反対・再雇用拒否撤回を求める第2次原告団/東京「再雇用拒否」第3次原告団/東京・教育の自由裁判をすすめる会/「日の丸・君が代」強制反対 予防訴訟をひきつぐ会/「君が代」不当処分撤回を求める会(東京教組)/「日の丸・君が代」強制に反対し子どもと教育を守る会(都教組八王子支部)/東京都障害児学校教職員組合/東京都障害児学校労働組合/アイム‘89・東京教育労働者組合/都高教有志被処分者連絡会/「良心・表現の自由を!」声をあげる市民の会/河原井さん根津さんらの「君が代」解雇をさせない会/府中「君が代」処分を考える会

国民の激しい抵抗に遭いながら、戦争法が強行成立とされた直後の今年の集会である。例年にも増して、戦争と「日の丸・君が代」強制、平和とナショナリズム、国際平和をどう構築していくべきか、を切実に考える集会となるはず。「子どもたちを戦場に送るな」というスローガンにリアリティが感じられるではないか。

是非、ご参加をお願いしたい。なお、参加費は資料代として500円。
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私の報告は「訴訟の新しい動き」と「勝利への展望」を語るもの

私は、10・23通達関連の判決の動向を、次のように4期に分けて把握している。
   高揚期⇒受難期⇒回復・安定期⇒再高揚期
いまは、「再高揚期」にあるとして、展望を語ることになる。
レジメの一部を抜粋して掲載しておく。興味のある方は、集会に足をお運びいただきたい。

☆「10・23通達」関連訴訟判決全体の流れ
 1 高揚期
  ※再発防止研修執行停止申立⇒須藤決定(04年7月)研修内容に歯止め
  ※予防訴訟一審判決(難波判決)の全面勝訴(06年9月)
 2 受難期
  ※ピアノ伴奏強制事件の合憲最高裁判決(07年2月)
     ⇒これに続く下級裁判所のヒラメ判決・コピペ判決
  ※「君が代」解雇裁判・一審佐村浩之判決(07年6月)が嚆矢
    取消訴訟一審判決(09年3月)も敗訴。
    難波判決 高裁逆転敗訴(11年1月)まで。
 3 回復・安定期
  ※取り消し訴訟(第1次訴訟)に東京高裁大橋判決(11年3月)
    全原告(162名)について裁量権濫用として違法・処分取消
  ※君が代裁判1次訴訟最高裁判決(12年1月)
    河原井さん・根津さん処分取消訴訟最高裁判決(12年1月)
    君が代裁判2次訴訟最高裁判決(13年9月)
    間接制約論(その積極面と消極面) 累積加重システムの破綻
    原則・減給以上は裁量権濫用として違法取消の定着
 4 再高揚期
  ※いま確実に新しい下級審判決の動向
  ※最高裁判例の枠の中で可能な限り憲法に忠実な判断を。
   10・23通達関連だけでなく、都教委の受難・権威失墜の時代

☆新しい諸判決と、その要因  
   13年12月 「授業をしていたのに処分」福島さん東京地裁勝訴・確定
  14年10月 再任用拒否(杉浦さん)事件 東京高裁勝訴・確定
  14年12月 条件付き採用免職事件 東京地裁勝訴 復職
 (15年1月 東京君が代第3次訴訟地裁判決 減給以上取消)一部確定
  15年 2月 分限免職処分事件 東京地裁執行停止決定
  15年 5月 再雇用拒否第2次訴訟 東京地裁勝訴判決
  15年 5月 根津・河原井さん停職処分取消訴訟 東京高裁逆転勝訴
 ※最高裁判決と補足意見の積極面が生きてきている。
 ※粘り強く闘い続けたことの(一定の)成果というべきではないか。(以下略)
(2015年10月7日・連続920回)

何を今さら、「高校生のデモ参加容認」

昨日(10月5日)、文部科学省は「『高等学校における政治的教養と政治的活動について』(昭和44年文部省初等中等教育局長通達)の見直しに係る関係団体ヒアリング」を実施した。

一部のメディアが「高校生のデモ参加容認」と見出しを打っているが、多くの高校生が、「えっ? いままでデモ参加はいけなかったの?」と怪訝な思いだろう。「文科省が18歳選挙権の実施に向けて、高校生の政治的活動を全面禁止してきた1969年通知を廃止し、新通知案を発表した。」「全面禁止は見直したものの、禁止・制限を強調する内容」「ヒアリングのあと、今月中にも正式に通知することになる」と報じられている。ところが、新通知案の全文を掲載するメディアが見つからない。

総じての「新通知案」に対するメディアの評価は、「校外での政治活動は一定条件下で容認する」「校内では引き続き高校側に抑制的な対応を求める内容」(毎日)という代物。高校生を未成熟な保護対象としてのみ見る基本姿勢に変更はない。「現政権を支持する票は欲しいが、政治的な意見表明は抑制して、秩序に従順な態度を訓育する」ことに必死なのだ。

いつの世にも、政権は批判を嫌う。主権者からの権限委託が政権の正当性の根拠なのだが、政治批判をするような主権者は大嫌い。温和しく批判精神のない、従順な主権者を育てたくてしょうがない、そのホンネが窺える。

69年通達(「高等学校における政治的教養と政治的活動について」(昭和44年文部省初等中等教育局長通達)は、いまよく読んでおくべきだ。政府というもののホンネがよく分かる、政治教育の資料として恰好なものではないか。
http://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/nc/t19691031001/t19691031001.html

「文部省初等中等教育局長通達」として、宛先は「各都道府県教育委員会教育長・各都道府県知事・付属高等学校をおく各国立大学長・各国立高等学校長」となっている。発出の日付は、1969年10月31日。大学紛争影響下の時代、「70年安保」の前年でもあって、「最近、一部の高等学校生徒の間に違法または暴力的な政治的活動に参加したり、授業妨害や学校封鎖などを行なったりする事例が発生しているのは遺憾なことであります」と当時の状況が述べられ、長期的には「このようなことを未然に防止するとともに問題に適切に対処するためには、政治的教養を豊かにする教育のいっそうの改善充実を図る」こと、短期的には「政治的活動に対する学校の適切な指導が必要」と、この通達の動機や趣旨が冒頭に述べられている。

かなりの長文である。「高校生の政治的教養の涵養」について言及しなければならないタテマエと「政治的活動の抑制」のホンネとの結びつけについての苦心の作である。もちろん、ホンネの部分が分厚く語られている。

同通達は「高等学校教育と政治的教養」を教育基本法から説き起こす。
「教育基本法第8条第1項(現行教基法14条1項)に規定する『良識ある公民たるに必要な政治的教養は、教育上これを尊重しなければならない。』ということは、国家・社会の有為な形成者として必要な資質の育成を目的とする学校教育においても、当然要請されていることであり、日本国憲法のもとにおける議会制民主主義を尊重し、推進しようとする国民を育成するにあたつて欠くことのできないものである。」

ここで、「良識ある公民=議会制民主主義の尊重・推進」と矮小化し短絡していることなどは措くとして、国(文科省)も、タテマエとしては高校段階での政治教育を認めざるを得ないことを確認しておく必要がある。

問題は、その政治教育の中身である。ここにホンネが表れる。
「政治的教養の教育は、教育基本法第8条第2項(現行教基法14条2項)で禁止している『特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動』、いわゆる党派教育やその他の政治的活動とは峻別すること。」

「政治的教養教育」と「党派教育・政治活動」との峻別の要求である。おそらく、ここがポイント。教育が、現実の政治を素材とし、生徒の主体性を尊重すれば、「党派教育・政治活動」とレッテルを貼られて非難される。生の素材をことごとく排除し、他人事として授業をすれば、「政治的教養教育」の実践と称賛される。その間に、無限のグラデーションがあることになろう。

同通達は、「高等学校における政治的教養の教育のねらい」を述べている。歯に衣を着せた文章。ホンネの翻訳が必要だ。

「将来、良識ある公民となるため、政治的教養を高めていく自主的な努力が必要なことを自覚させること。」
(将来、従順な被統治者に育つよう、「出る釘は当たれる」「長いものには巻かれろ」と自覚する生徒を育てる)

「日本国憲法のもとでの議会制民主主義についての理解を深め、これを尊重し、推進する意義をじゆうぶん認識させること。」
(直接民主主義的契機の重要性を教えてはならない。選挙の投票日だけが国民が主権者で、そのほかは議員や内閣にお任せしておくのが、議会制民主主義だと叩き込むこと)

「国家・社会の秩序の維持や国民の福祉の増進等のために不可欠な国家や政治の公共的な役割等についてじゆうぶん認識させること。」
(「憲法は権利の体系だ」などと生意気なことは言わせない。大事なのは「秩序の維持」「公共性の尊重」、これが政治教育の核心なのだ)

また、同通達は、「現実の具体的な政治的事象の取り扱いについての留意事項」の項を設けて「特定の政党やその他の政治的団体の政策・主義主張や活動等にかかわる現実の具体的な政治的事象については、特に次のような点に留意する必要がある」と言っている。ここが彼らのホンネのホンネ。ここだけは、全文を掲載しておこう。ホンネ丸見えではないか。

(1) 現実の具体的な政治的事象は、内容が複雑であり、評価の定まつていないものも多く、現実の利害の関連等もあつて国民の中に種々の見解があるので、指導にあたつては、客観的かつ公正な指導資料に基づくとともに、教師の個人的な主義主張を避けて公正な態度で指導するよう留意すること。
 なお、現実の具体的な政治的事象には、教師自身も教材としてじゆうぶん理解し、消化して客観的に取り扱うことに困難なものがあり、ともすれば教師の個人的な見解や主義主張がはいりこむおそれがあるので、慎重に取り扱うこと。
(2) 上述したように現実の具体的な政治的事象については、種々の見解があり、一つの見解が絶対的に正しく、他のものは誤りであると断定することは困難であるばかりでなく、また議会制民主主義のもとにおいては、国民のひとりひとりが種々の政策の中から自ら適当と思うものを選択するところに政治の原理があるので、学校における政治的事象の指導においては、一つの結論をだすよりも結論に至るまでの過程の理解がたいせつであることを生徒に納得させること。
 なお、教師の見解そのものも種々の見解の中の一つであることをじゆうぶん認識して教師の見解が生徒に特定の影響を与えてしまうことのないよう注意すること。
(3) 現実の具体的な政治的事象は、取り扱い上慎重を期さなければならない性格のものであるので、必要がある場合には、校長を中心に学校としての指導方針を確立すること。
(4) 教師は、その言動が生徒の人格形成に与える影響がきわめて大きいことに留意し、学校の内外を問わずその地位を利用して特定の政治的立場に立つて生徒に接することのないよう、また不用意に地位を利用した結果とならないようにすること。
 なお、国立および公立学校の教師については、特に法令でその政治的行為が禁止されている。
(5) 教師は、国立・公立および私立のいずれの学校を問わず、それぞれ個人としての意見をもち立場をとることは自由であるが、教育基本法第六条に規定されているように全体の奉仕者であるので、いやしくも教師としては中立かつ公正な立場で生徒を指導すること。

さらに、同通達は、「生徒の政治的活動が望ましくない理由」を述べている。おそらくは、当局側が生徒や現場教師との「論戦」を想定して、理論付をしたものと思われる。

「生徒は未成年者であり、民事上、刑事上などにおいて成年者と異なつた扱いをされるとともに選挙権等の参政権が与えられていないことなどからも明らかであるように、国家・社会としては未成年者が政治的活動を行なうことを期待していないし、むしろ行なわないよう要請しているともいえること。」

「心身ともに発達の過程にある生徒が政治的活動を行なうことは、じゆうぶんな判断力や社会的経験をもたない時点で特定の政治的な立場の影響を受けることとなり、将来広い視野に立つて判断することが困難となるおそれがある。したがつて教育的立場からは、生徒が特定の政治的影響を受けることのないよう保護する必要があること。」

「生徒が政治的活動を行なうことは、学校が将来国家・社会の有為な形成者として必要な資質を養うために行なつている政治的教養の教育の目的の実現を阻害するおそれがあり、教育上望ましくないこと。」

「生徒の政治的活動は、学校外での活動であつても何らかの形で学校内に持ちこまれ、現実には学校の外と内との区別なく行なわれ、他の生徒に好ましくない影響を与えること。」

「現在一部の生徒が行なつている政治的活動の中には、違法なもの、暴力的なもの、あるいはそのような活動になる可能性の強いものがあり、このような行為は許されないことはいうまでもないが、このような活動に参加することは非理性的な衝動に押し流され不測の事態を招くことにもなりやすいので生徒の心身の安全に危険があること。」

「生徒が政治的活動を行なうことにより、学校や家庭での学習がおろそかになるとともに、それに没頭して勉学への意欲を失なつてしまうおそれがあること。」

これを翻訳すれば、(高校生は子どもじゃないか。そこのところをよく弁えて、おとなしく、役所や校長の言うとおりにお勉強だけをしていればよいのだよ。いま、政治に関心をもつと碌な大人にならないよ)。翻訳するまでもないか。

追い打ちをかけて通達は次のように言う。
「生徒の政治的活動の規制」については、「基本的人権といえども、公共の福祉の観点からの制約が認められるものである」から問題ない。

「教科・科目の授業はいうまでもなく、クラブ活動、生徒会活動等の教科以外の教育活動も学校の教育活動の一環であるから、生徒がその本来の目的を逸脱して、政治的活動の手段としてこれらの場を利用することは許されないことであり、学校が禁止するのは当然であること。なお、学校がこれらの活動を黙認することは、教育基本法第8条第2項(現行14条2項)の趣旨に反することとなる。」

「生徒が学校内に政治的な団体や組織を結成することや、放課後、休日等においても学校の構内で政治的な文書の掲示や配布、集会の開催などの政治的活動を行なうことは、教育上望ましくないばかりでなく、特に、教育の場が政治的に中立であることが要請されていること、他の生徒に与える影響および学校施設の管理の面等から、教育に支障があるので学校がこれを制限、禁止するのは当然であること。」

「放課後、休日等に学校外で行なわれる生徒の政治的活動は、一般人にとつては自由である政治的活動であつても、前述したように生徒が心身ともに発達の過程にあつて、学校の指導のもとに政治的教養の基礎をつちかつている段階であることなどにかんがみ、学校が教育上の観点から望ましくないとして生徒を指導することは当然であること。特に違法なもの、暴力的なものを禁止することはいうまでもないことであるが、そのような活動になるおそれのある政治的活動についても制限、禁止することが必要である。」

この最後がすさまじい。「放課後、休日等に学校外で行なわれる生徒の政治的活動」まで、違法・暴力的でなくても、そのおそれがあれば、「制限、禁止することが必要である」という。無茶苦茶と言うほかはない。さすがにここだけは、18歳選挙権の実施の情勢にふさわしくないと、見直されることになるようだ。それで、「高校生のデモ参加容認」ということになる。

こんな通達が、今どき現実にあることに一驚するしかない。日本ははたして、民主主義国家なのだろうか。欧米諸国から、「価値観を同じくする国」と見てもらえるのだろうか。そして、今回、この通達の全体が、どのように見直されるのだろうか。基本的な理念が見直されるのか否か、しっかりと見極めたい。子どもの権利条約や、国際人権規約など国際水準から見て、日本の民主化度や人権確立の程度が測られ試されている。
(2015年10月6日・連続919回)

(安原みどり著)「花巻が育んだ救世軍の母 山室機恵子の生涯 宮沢賢治に通底する生き方」紹介ー機恵子、賢治、そしてみどりさん。

私の手許に一冊の書物がある。これは、私にとっての特別のものだ。
表題は、「花巻が育んだ救世軍の母 山室機恵子の生涯」。「宮沢賢治に通底する生き方」と副題が付いている。社会事業者であり、キリスト者であった山室機恵子の400頁におよぶ本格的な評伝。著者は、知人の安原みどりさん。

鎌倉市雪ノ下の「銀の鈴社」からの出版で、発行日が2015年9月25日とされているが、そのとき著者は既に亡くなっている。この著の「あとがき」のあとに、異例の「お礼の言葉」という1頁が添えられている。

お礼の言葉は、「『山室機恵子の生涯』を出版することができ、望外の幸せを感じております」と始まっている。多方面の著作への協力者に対して、「皆さまには、言い尽くせない感謝の気持ちでいっぱいです。心よりお礼申しあげます」と結ばれている。「2015年8月」とだけあって、日の特定はない。みどりさんは、8月28日に逝去されている。癌での覚悟の死であったという。毛すじほども取り乱すところのない、「お礼の言葉」を書いたのはいったい何日だったのだろうか。

9月3日の告別式での夫君・安原幸彦さんのご挨拶で、みどりさんがこの著書の最後の校正稿を脱稿したのは逝去の2日前、8月26日であったと知らされた。この評伝の著作に取りかかったのが、死を宣告され覚悟して後のことだという。自分の生きた証しとして、最期に一冊の著書を書き上げた、その壮絶にしてみごとな生き方に感服するしかない。

この著作は評伝であるから、著者は、41歳の若さで帰天した山室機恵子の臨終の場面に触れざるを得ない。その描写はかなりの長文にわたるものであるが、夫・山室軍平(牧師)は後に「私は、今日までいまだかつてあれ程、生死を超越した高貴なる最期をみたことがない」と感嘆していた事実を紹介し、「聖職者として多くの人の最期を看取った軍平に、かく言わしめた機恵子の精神性の高さ」を称賛している。おそらくは、自らの最期もかくあれかしと意識しての執筆であったろうし、それを現実のものとされたのであろう。

安原みどりさんは、私と同郷岩手県の生まれ。賢治の母校である盛岡一高(旧制盛岡中学)を卒業後、賢治の妹・宮沢トシの母校である日本女子大学を卒業している。機恵子を、自己を犠牲にして生涯を弱き者のために捧げ尽くした宗教者として、賢治の生き方に通底するものを見て、世に紹介したいと思い立ったのであろう。実は、賢治と機恵子とは、ともに生家は花巻市豊沢町。宮澤家と、機恵子の実家佐藤家とは、わずか数軒をへだつだけの近所で、親しい間柄だったという。

この書の最後に、5頁余におよぶ参考文献リストが並んでいる。この厖大な資料を渉猟しての労作を簡単には紹介できない。前書きに当たる「はじめに」が、著者自身の要約とも読める内容となっている。ここから抜粋して、この著の紹介としたい。

 日本救世軍の歩みは、そのまま日本の社会福祉の歩みであるといわれる。その「日本救世軍の母」と呼ばれる山室機恵子は、1874(明治7)年12月5日に花巻で生まれた。機恵子の生家のすぐ近所に宮沢賢治の実家がある。機恵子の先祖は南部藩の家老で、機恵子は武士道の精神で育てられ、生家の家風は「世のため身を捨てて尽くす」であった。機恵子はこの使命感を持って明治女学校に進み、桂村正久から洗礼を受けキリスト者になった。
 機恵子が明治女学校を卒業した1895(明治28)年は、くしくもイギリスの救世軍が日本に進出し、山室軍平が救世軍に挺身した年でもある。救世軍は1865年にロンドンのスラム街でウィリアム・ブース夫妻によって創設され、貧民救済の社会事業と、救霊事業(キリスト教伝道)を世界に広めていた。当時の救世軍は「西洋法華」と嘲笑され、迫害を受け、山室軍平はその真価もまだ世に知られない、無名の青年にすぎなかった。
 機恵子は明治女学校出の才媛にふさわしい良縁には目もくれず、「山室となら世のために尽くすという信念を実現できる」と決心し、山室軍平と結婚した。機恵子は花嫁道具を揃える両親に「50歳まで着られる地味な着物を作って下さい。救世軍で着物をこさえるつもりはありませんから」と言い、軍平の収入が7円、家賃3円50銭、11畳半だけの広さしかない伝道所兼自宅の長屋生活に突入した。いわばシンデレラ・ストーリーとは逆の人生を果敢にも選択したのである。
 機恵子は8人の子を生み育てながら、貧民救済・廃娼運動・東北凶作地子女救済・結核療養所設立などの先駆的社会事業のため東奔西走したが、病に倒れ41歳で逝去した。
 機恵子は「私が救世軍に投じた精神は、武士道をもってキリスト教を受け入れ、これをもって世に尽くすことにありました。お金や地位を求める生活を送らなかったことを満足に思っています」「幸福はただ十字架の傍にあります」と遺言して帰天した。
 機恵子の生き方は質素な生活をし、自分を勘定に入れずに、東奔西走し困窮した人のため自分を犠牲にして尽くすもので、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」の詩を彷彿とさせる。賢治が「世界全体が幸福にならないうちは、個人の幸福はありえない」として羅須地人協会を設立し農民と共に生きた精神も、宗教は異なるが機恵子と通底するものがある。
賢治の実弟、宮沢清六は著書『兄のトランク』の中で「若い頃の賢治の思想に強い影響を与えたものに基督教の精神があった。私共のすぐ後には日本救世軍の母とよばれた山室軍平夫人、機恵子が居られた。私の祖父と父が『佐藤庄五郎(機恵子の実父)さんと長女のおきえさんの精神は実に見上げたものだ』と口癖のように言っていたから、若い賢治がこの立派な基督教の実践者たちの思想と行動に影響されない筈はなかったと思われる。そしてその精神が、後年の賢治の作品の奥底に流れていることが首肯されるのである」と書いている。
 宮沢賢治を知らない人はいないが、機恵子没後百年になる現代では、機恵子を知る人はほとんどおらず、故郷岩手ですら知られていない。機恵子は「よいことをする時は、なるべく目立たないようにするのですよ」とこどもに教え、右手の善行を左手にも知らせず天に財を積んだ。
 津田梅子、羽仁もと子、矢島揖子、新渡戸稲造、内村鑑三など、多くの著名人が軍平、機恵子を支援したが、善行を当然の事として黙すキリスト者に代って、関係性を詳らかにするのも意義があることだろう。家庭を持ち働く女性の元祖でもあった機恵子の生涯を顕彰してみたいと思う。

安原みどりさんが、機恵子の生き方のどこに感銘を受け共感し、この書を執筆しようと思い立ったのか、痛いほど伝わってくる。この著作を完成させたみどりさんの感受性と生き方にも学びたいと思う。

また、機恵子が伴侶として山室軍平を選んだことを、自分が安原幸彦さんを選んだことと重ね合わせてもいたのだろう。機恵子も、みどりさんも、自らの意思で幸せな人生を送ったのだと思う。
合掌。
(2015年10月5日・連続第918回)

しばらくは、「強兵」から「富国」へー安倍の独り言

富国・強兵、強兵・富国。
キョウヘイ・フコク、フコク・キョウヘイ。
なんとすばらしいハーモニー。

富国と強兵とは、表と裏、一体にして不二。
強兵のための富国であり、富国のための強兵ではないか。

アベノミクスは、実は民生のための経済政策ではない。
「格差が広がった。貧困が深刻化した」
それでよいのだ。強兵のための富国政策なのだから。
そして、富国のための強兵策が、積極的平和主義。

富国と強兵とが相支え相補いあって、
戦後レジームからの脱却を可能とする。
昔日の強い軍国日本を取り戻すことができる。
それこそ、ワタクシ安倍晋三と仲間たちの目論むところ。

第二次安倍内閣成立当初は、はじめは処女のごとくの喩えそのままの経済政策優先。これがアベノミクスの表向きの姿だ。2015年選挙がない年には戦争法のごり押し。そして、戦争法の無理が一段落した今、また経済政策に逆戻り。新アベノミクスだ。富国から強兵、強兵からまた富国へ。

富国も強兵も、すべてはお国のため。国民はお国のために子を産み、子を育て、子を国家に役立てることになる。当たり前の話ではないか。国の子は、「強兵」に育つか、産業戦士に育てるのか、二つに一つだ。どちらもいやだという、利己的な若者の跋扈には、追々箍をはめていかねばならない。

戦争は必ずしも起きなくてもよい。しかし、戦争ができるような国の秩序はどうしても作っておかねばならない。強兵あっての有利な外交であり、強兵こそ富国の支えではないか。

強兵策の最大のハードルは、私が最も忌むところの日本国憲法だ。憲法9条こそ私の天敵。一刻も早くこの天敵を成敗して、戦争のできる憲法に作り替えたいのだが、急いては事をし損じるの喩え。やむなく、急がば回れの解釈改憲。そして、もっぱら違憲と評判の安保関連2法だ。

戦争ができる国の秩序には、法整備が不可欠だが、しばらくはこれでよかろう。この法律と、特定秘密保護法の組み合わせで、相当のことまではできるようになった。また、いつか、「我が国を取り巻く防衛環境が変わった」という魔法の杖をもう一振りすれば、戦前並の国防保安法や国家総動員法、そして治安維持法の制定も夢じゃない。

今回は、公明党によく働いていただいた。しかし、このように働いてくれる政党は、公明党ばかりではない。いつの世にも、政権与党につながって甘い汁を吸いたい政党や政治家がすり寄って来るものなのだ。それと組んで、もう一押しの強兵策。

しかし、強面ばかりでは民意が離れる。民意を掌握する要諦は、期待を長く引っ張ることだ。今は豊かにならないが、我慢すればそのうちに豊かになれるという幻想を与え続けることなのだ。3本の矢がうまくいかなければ、新しい別の矢を3本放てばよい。それも的に当たらなければ、目先を変えてもう4、5本射てばよい。下手な鉄砲も数の喩え、何本も射ることによって、まぐれでもいくつか当たればよいのだ。いや、当たる可能性があると信じさせればよいだけのこと。

えっ、なに? それは詐欺の手口ではないかだと? 教えていただきたい。政治と詐欺の違いを。政治家と詐欺師の言に、いったいどんな違いがあると言うのか。
(2015年10月4日・連続917回)

「日の丸・君が代」と戦争との結びつきの切実なリアリティ

本日は、第13回の「被処分者の会」定期総会。会の正式名称は、「『日の丸・君が代』不当処分撤回を求める被処分者の会」である。

石原第2期都政下での悪名高い10・23通達の発出が、2003年10月23日。2004年3月と4月の卒業式・入学式以来今日まで、思想・信条や信仰から、あるいは教員としての良心において「日の丸・君が代」強制に服することができないとして懲戒処分を受けた教員は延べ474名。

その処分に承服することはできないとし、処分取消の集団訴訟を主たる目的に「被処分者の会」が結成された。自覚した個人が明確な目標をもって結成した自律的な組織である。その会の毎年1度の定期総会が今年で13回目となった。思えば、これまで既に長い闘いである。しかも道は半ば。まだ先は遠い。

しかし、被処分者の総会は今年も明るい雰囲気であった。総会議案書の中の次の一文が目を惹いた。
「今次総会は、安倍政権が憲法違反の戦争法を強行成立させた直後に、各裁判が新たな裁判を迎える中で行われます。私たちは、『子どもたちを戦場に送らない』決意のもと、憲法を守る闘いと、『日の丸・君が代』強制反対の闘いを一体のものとして闘い抜きます。再雇用二次訴訟の地裁での勝訴、河原井さん・根津さんの停職処分取消と損害賠償を命じた東京高裁の逆転勝訴判決などこの間の各訴訟での私たちの不屈の闘いは、都教委を確実に追い詰めています。」

事務局長報告の中では、次のように語られた。
「都教委のやり方は、あまりに独善的で強引なんです。だから、このところ都教委は裁判に負けつづけています。いまは、1引き分けをはさんで、都教委は裁判に6連敗です。1引分けを0.5に数えれば、6.5連敗です。
  13年12月 「授業をしていたのに処分」福島さん東京地裁勝訴
  14年10月 再任用拒否(杉浦さん)事件 東京高裁勝訴
  14年12月 条件付き採用免職事件 東京地裁勝訴
 (15年1月 東京君が代第3次訴訟 東京地裁判決 減給以上取消)
  15年 2月 分限免職処分事件 東京地裁執行停止決定 
  15年 5月 再雇用拒否第2次訴訟 東京地裁勝訴判決
  15年 5月 根津・河原井さん停職処分取消訴訟 東京高裁逆転勝訴
 
すべてが、『日の丸・君が代』強制関連事件ではありませんし、またすべてが被処分者の会の事件でもありません。しかし、これは私たちが一体となった闘いの粘り強い闘いの成果で、都教委は明らかに追い詰められています。私たちは自信をもって奮闘し続けます」

都教委の訴訟での連敗記録は、大阪と並ぶ恥ずべきものと言わねばならない。東京都の教育行政は明らかに暴走しており、裁判所から警告が発せられ、ブレーキがかけられているのだ。10月中にまた2件の判決が予定されている。都教委の連敗記録はさらに続くことになるだろう。

また、戦争法案反対の集会やデモには、被処分者の会から連日多数が参加したと報告された。多くの人が、日の丸・君が代を戦争の歴史と関連づけて、その強制を受け容れがたいとした。いま、はからずもその認識の先見性が明確化される事態を迎えている。

次のような発言があった。
「10年前には、『日の丸・君が代を戦争と結びつけるなんて、今どき何と大袈裟な』と思われるような雰囲気があった。でもいまや、日の丸・君が代強制と戦争との結びつきは、切実なリアリティをもって実感される時代となった」

闘いには、旗と歌が必要だ。
一揆の押し出しの先頭には、小丸のむしろ旗が掲げられた。
官軍は誰も見たことのない錦の御旗を捧げ持った。
大元帥は、各連隊に連隊旗を親授した。
そして、日の丸と君が代は、皇国の軍国主義と侵略主義の象徴となり、億兆心を一にし戦意を鼓舞する小道具となった。

彼の地ドイツで1935年国旗とされたハーケンクロイツは、45年の敗戦とともに旧時代の象徴とされて、いまに至るもその掲揚が禁止されている。しかし、旧体制を徹底して克服し得なかったここ日本では、「日の丸・君が代」が国旗国歌として生き残っている。

「日の丸・君が代」と戦争との大いなる関わり。これまでは、過去の戦争との歴史的関わりだけを問題にしてきた。これからは、日の丸・君が代と近未来の戦争との関連を現実のものとして問わなければならない。
(2015年10月3日・連続916回)

お国のために子どもを産むなどマッピラご免だ。

「口は禍の元」という言葉には違和感がある。禍の源は、腹の底に潜んでいるものであって、口に責任転嫁してはならない。普段はこれを口の門から出ぬよう注意をしているのだが、時にこれがうっかり外に出る。このうっかり出た言葉を、「失言」と言うのは不正確。実はそれこそ腹の底に潜めていたホンネなのだ。

3日前のこと。菅義偉官房長官は、「『直撃LIVE グッディ!』(フジテレビ)に出演し、歌手の福山雅治さんと俳優の吹石一恵さんの結婚について、『本当、良かったですよね。結婚を機に、やはりママさんたちが、一緒に子供を産みたいとか、そういう形で国家に貢献してくれればいいなと思っています。たくさん産んでください』と発言した」。そう、報じられている。第1次安倍政権で、柳沢伯夫厚生労働相(当時)が、女性を「産む機械」に例えた発言で批判を受けた。あれと同根のホンネ。

そのホンネが、「違和感を感じる」「政治家の口にすることではない」などと批判され叩かれている。叩いている世論の健全さが好もしい。違和感の根源は、「子どもを産むことが、すなわち国家に貢献すること」という認識にある。菅の腹の底に潜んでいる、「国民は国家のために子どもを産むことこそ」「国家のために子どもがいる」というホンネが批判されているのだ。

ことは憲法の根本的な理解に関わる。国家のための個人か。個人のための国家か。いうまでもない。個人のために国家がある。個人が集まって協議して国家を作るのだ。国家が必要だから、あった方が便利だから、国家を作る。国家が個人に先んじて存在するわけではない。どんな国家が使い勝手がよく、どんな国家が国民にとって安全で安心か、その設計は個人が集まって知恵を絞るこになる。不具合が見つかれば作り直す。もう要らないとなったら、国家などなくしてもよいのだ。

「子どもを産むことは国家に貢献するから価値がある」とは逆さまの発想。けっして、「子どもは国家のために産むものではない」のだ。すべての子どもは、この世に生まれるだけでこの上ない価値がある。しかし、国家は個人に役に立つことによってはじめて、その限りおいてその存在に価値が認められる。

半世紀ほどの昔、ジョン・F・ケネディという政治家がいた。彼は国民に、「国があなたのために何をしてくれるのかを問うのではなく、あなたが国のために何を成すことができるのかを問うて欲しい。」と呼びかけた。国民の自尊心をくすぐる狙いの発言として有効ではあったが、その論理は完全な権力者の発想であって、民主主義者の言葉ではない。

国旗国歌強制の問題もまったく同じだ。「国旗国歌=国家」であるから、個人は国旗国歌の前で、実は国家と対峙している。国旗国歌への敬意表明の行為の強制は、国家への忠誠の強制と同じこと。個人の僕に過ぎないはずの国家が、個人を凌駕し優越して、国民個人を僕とする下克上が起きることになる。これを背理であり、倒錯だと言うのだ。

「国家のために子どもを産め」のホンネも、「国旗に正対して起立し、国歌を斉唱せよ」の強制も、同じことなのだ。

国家のために子どもを産み、国家のために子どもを育て、その子は国家のためにはたらき、国家のために戦って、国家のために死ぬ。これが、20世紀の前半まで、日本国民に押しつけられた国民の道徳だった。しかも、その国家の中心に天皇が据えられ、「命を捨てよ君のため」と、忠死が強制された。

「お国のために子供を産め」という菅らのホンネには、あの天皇制が臣民に押しつけた尊大さを思い出させるものがある。だから、世論は本能的に警戒の反応を示したのだ。「誰の子どもも殺させない」と、名言を喝破したママの会の母親は、愛する子を国家に取られて戦場に送り込まれる恐怖を感得したからこそ、戦争法反対の行動に起ち上がったのだ。政権はそのことをちっとも学んでいないのだ。子どもの貧困を深刻化し子育ての条件の整備も怠ってきたこの政権が、「国家のために産めよ増やせよ」とは、いったい何ごとか。

「お国のために」「国家のために」というスローガンに欺されてはならない。
(2015年10月2日・連続915回)

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