お国のために子どもを産むなどマッピラご免だ。
「口は禍の元」という言葉には違和感がある。禍の源は、腹の底に潜んでいるものであって、口に責任転嫁してはならない。普段はこれを口の門から出ぬよう注意をしているのだが、時にこれがうっかり外に出る。このうっかり出た言葉を、「失言」と言うのは不正確。実はそれこそ腹の底に潜めていたホンネなのだ。
3日前のこと。菅義偉官房長官は、「『直撃LIVE グッディ!』(フジテレビ)に出演し、歌手の福山雅治さんと俳優の吹石一恵さんの結婚について、『本当、良かったですよね。結婚を機に、やはりママさんたちが、一緒に子供を産みたいとか、そういう形で国家に貢献してくれればいいなと思っています。たくさん産んでください』と発言した」。そう、報じられている。第1次安倍政権で、柳沢伯夫厚生労働相(当時)が、女性を「産む機械」に例えた発言で批判を受けた。あれと同根のホンネ。
そのホンネが、「違和感を感じる」「政治家の口にすることではない」などと批判され叩かれている。叩いている世論の健全さが好もしい。違和感の根源は、「子どもを産むことが、すなわち国家に貢献すること」という認識にある。菅の腹の底に潜んでいる、「国民は国家のために子どもを産むことこそ」「国家のために子どもがいる」というホンネが批判されているのだ。
ことは憲法の根本的な理解に関わる。国家のための個人か。個人のための国家か。いうまでもない。個人のために国家がある。個人が集まって協議して国家を作るのだ。国家が必要だから、あった方が便利だから、国家を作る。国家が個人に先んじて存在するわけではない。どんな国家が使い勝手がよく、どんな国家が国民にとって安全で安心か、その設計は個人が集まって知恵を絞るこになる。不具合が見つかれば作り直す。もう要らないとなったら、国家などなくしてもよいのだ。
「子どもを産むことは国家に貢献するから価値がある」とは逆さまの発想。けっして、「子どもは国家のために産むものではない」のだ。すべての子どもは、この世に生まれるだけでこの上ない価値がある。しかし、国家は個人に役に立つことによってはじめて、その限りおいてその存在に価値が認められる。
半世紀ほどの昔、ジョン・F・ケネディという政治家がいた。彼は国民に、「国があなたのために何をしてくれるのかを問うのではなく、あなたが国のために何を成すことができるのかを問うて欲しい。」と呼びかけた。国民の自尊心をくすぐる狙いの発言として有効ではあったが、その論理は完全な権力者の発想であって、民主主義者の言葉ではない。
国旗国歌強制の問題もまったく同じだ。「国旗国歌=国家」であるから、個人は国旗国歌の前で、実は国家と対峙している。国旗国歌への敬意表明の行為の強制は、国家への忠誠の強制と同じこと。個人の僕に過ぎないはずの国家が、個人を凌駕し優越して、国民個人を僕とする下克上が起きることになる。これを背理であり、倒錯だと言うのだ。
「国家のために子どもを産め」のホンネも、「国旗に正対して起立し、国歌を斉唱せよ」の強制も、同じことなのだ。
国家のために子どもを産み、国家のために子どもを育て、その子は国家のためにはたらき、国家のために戦って、国家のために死ぬ。これが、20世紀の前半まで、日本国民に押しつけられた国民の道徳だった。しかも、その国家の中心に天皇が据えられ、「命を捨てよ君のため」と、忠死が強制された。
「お国のために子供を産め」という菅らのホンネには、あの天皇制が臣民に押しつけた尊大さを思い出させるものがある。だから、世論は本能的に警戒の反応を示したのだ。「誰の子どもも殺させない」と、名言を喝破したママの会の母親は、愛する子を国家に取られて戦場に送り込まれる恐怖を感得したからこそ、戦争法反対の行動に起ち上がったのだ。政権はそのことをちっとも学んでいないのだ。子どもの貧困を深刻化し子育ての条件の整備も怠ってきたこの政権が、「国家のために産めよ増やせよ」とは、いったい何ごとか。
「お国のために」「国家のために」というスローガンに欺されてはならない。
(2015年10月2日・連続915回)