永六輔に続いて、大橋巨泉が亡くなった。その前には野坂昭如、小澤昭一、水木しげる、菅原文太、米倉斎加年、愛川欽也、あるいは松谷みよ子…。みんな、当然の如く、平和や戦後民主主義を大切にし、真っ当な積極的発言をしてきた人たち。直接に反権力や護憲を口にしないときにも、そのような雰囲気が滲み出る人たちであり、それが大衆からの支持を得ていた。この世代が去って行くことが実に淋しい。淋しいだけでなく、この世代の終焉とともに、日本の社会が戦争の恐怖や平和・民主主義の貴重さを忘却していくことにならないだろうか。
永六輔は、「九条の会」ができたあと、半分これにあやかり、半分は対抗して、「ひとり九九条の会」を名乗っていた。憲法というものを真剣に考え、よく分かっている人だった。
「憲法議論でいうとね。第9条ばかりに目がいきがちだけど、条文の最後のほうの第99条には、憲法をまとめるように、『天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ』とあるんですよ。この大事な99条にまで議論が及ばない」(「現代」05年8月号)
「(自民党改憲草案が)国民に義務を課すなんてちゃんちゃらおかしいですよ。憲法は国民を守るためのルール。それなのに99条を変えると言い出すなんて、政治家が憲法を勉強してこなかった証しです」(毎日新聞13年5月23日付夕刊)
「僕は憲法はこれでいいと思うんです。条文を書き連ねるんじゃなくて、この言葉の中に全部盛り込まれていると思う。戦争の問題、貧困の問題、教育・福祉の問題。僕は戦争が終わって、最初に選挙する時、興奮したし感動もしました。その感情がいまは無くなってしまった。だからもう一度元に戻して、『二度と飢えた子供の顔は見たくない』という、たった一行、世界でいちばん短い憲法にしたらどうかと思うんです」(「創」13年9・10月号)
大橋巨泉は、かねがね、こう言っていた。
「僕は、ポピュリズムの権化のような安倍首相をまったく信用しない」「彼にとって、経済はムードをあおる手段に過ぎず、本当にやりたいのは憲法改正であり、日本を『戦争ができる国』に変えることでしょう。法衣の下に鎧を隠しているような男の言動にだまされてはいけません」「マトモな批判さえ許さない戦前みたいな“空気”を今の日本に感じる」(「日刊ゲンダイ」14年5月)
そして、絶筆となった「週刊現代」7月9日号掲載の連載コラム「今週の遺言」最終回で、参院選を意識して読者に次のように「最後の遺言」を残している。
「今のボクにはこれ以上の体力も気力もありません。だが今も恐ろしい事や情けない事、恥知らずな事が連日報道されている。書きたい事や言いたい事は山ほどあるのだが、許して下さい。しかしこのままでは死んでも死にきれないので、最後の遺言として一つだけは書いておきたい。安倍晋三の野望は恐ろしいものです。選挙民をナメている安倍晋三に一泡吹かせて下さい。7月の参院選挙、野党に投票して下さい。最後のお願いです」
野坂昭如は、死の直前に「安倍政権は戦前にそっくり」「国民よ、騙されるな」と言ったそうだ。
「戦争で多くの命を失った。飢えに泣いた。大きな犠牲の上に、今の日本がある。二度と日本が戦争をしないよう、そのためにどう生きていくかを問題とする。これこそが死者に対しての礼儀だろう。そして、戦後に生まれ、今を生きる者にも責任はある。繁栄の世を築いたのは戦後がむしゃらに働いた先人たちである。その恩恵を享受した自分たちは後世に何をのこすのか」「どんな戦争も自衛のため、といって始まる。そして苦しむのは、世間一般の人々なのだ。騙されるな。このままでは70年前の犠牲者たちへ、顔向け出来ない」(引用はリテラから)
この世代の呼びかけに答えたい。アベ政治を終わらせ、多少なりともまともな政権を誕生させたい。憲法を大切にし、これを生かす政治を獲得したい。その第一歩として、都知事選の護憲派勝利を目指したい。
(2016年7月21日)
小池百合子の「病み上がり」発言が波紋を呼んでいる。
鳥越俊太郎をさして、「病み上がりの人を連れてきてどうするんだ」という街頭演説。これは、明らかに「失言」である。冷静に考えれば言うべきではなかったこと、言ってはならないことを、うっかりと場の勢いで口にしてしまったということだ。
実は、練りに練ったタテマエとしての発言ではなく、失言にこそホンネがあらわれる。隠している人間性が露呈する。もうすこしはっきり言えば、本性が見えるのだ。
私自身が肺がんの病歴をもっており、背に7寸の手術痕を持つ身なので、小池発言には過敏とならざるを得ない。小池百合子という人物の本性は、政敵を「病み上がり」と表現することが有効な攻撃材料になると心底で思っていること、それを口に出すことをはばからないということから見て取れる。決定的に優しさに欠ける。病者に対するいたわりのこころがない。これは、社会的弱者一般に対する姿勢に通じるものであろう。
実は、失言にはもう一つの側面がある。失言を咎められたときに、どう対応するかである。ごまかすか、居直るか、あるいは率直に非を認めて謝罪するか。この点でも、人間性がはかられる。本性が現れるのだ。
昨日(7月19日)のフジテレビ・番組でのやり取りを下記のとおり、日刊スポーツが報道している。
鳥越氏が小池氏にかみ付いた。
鳥越氏 小池さんは街頭演説の中で、「病み上がりの人を連れてきてどうするんだ」と言われましたか。
小池氏 言ってないですね。
鳥越氏 ここに証拠がある。日本テレビのニュース番組でテロップが入っている(テレビ番組の画像のコピーを見せる)。
小池氏 でも、今、お元気になられてるじゃないですか。
鳥越氏 こういうことをおっしゃったかどうか聞きたいんですよ。
小池氏 記憶にないですよ。
鳥越氏 まあ、実際にはテロップに出てますからね。
小池氏 それは失礼しました。
鳥越氏 これはガン・サバイバーに対する大変な差別ですよ。偏見ですよ。
小池氏 もし言っていたならば、失礼なことを申しあげました。
鳥越氏 失礼で済まされますか。僕に対する問題じゃない。ガン・サバイバーは何十万、何百万といるんですよ。そういう人たちに「1回がんになったら、あなたはもう何もできないんだ」と決めつけるのは…。
小池氏 いや、そこまでは言ってないですよ。それを決めつけているのは鳥越さんでしょ。これが選挙なんですよ、坂上さん。
司会の坂上忍 急に僕に振られましたね。
鳥越氏 病み上がりというレッテルを人にはって、差別をする。ガン・サバイバーは何もできないというイメージを与える。
小池氏 そこまで広げて言っておりません。大変お気遣いをしているわけです、鳥越さんに対して。
鳥越氏 え?
小池氏 これから長い(選挙戦の期間)がありますから。逆に言えば、そこの部分しかご質問はないんですか。(以下略)
以上の発言経過が、見事なまでの不誠実きわまる対応の典型パターンとなっている。
まずは、発言自体を否定する。
次に、「記憶にない」と言い逃れを試みる。
証拠を突きつけられると「もし言っていたならば」という条件をつけて、「失礼」の程度でかわそうとする。
発言の悪質さを指摘されると、記憶にないはずの発言の真意を取り繕う。
さらには、自分の失言の指摘自体を不当とし攻撃する。
以上の討論で、小池百合子は「病み上がり」発言に対する反省は絶対にするものか、という姿勢を見せた。二度、その本性を見せつけたことになる。
それにしても、小池の「これが選挙なんですよ、坂上さん。」は、意味深で、小池の政治観選挙観を表すものではないだろうか。「これが選挙」という発言には、社会的な道義や良識からは許容されない発言も、選挙ならば、あるいは政治ならば許される、というダブルスタンダードの論理を読み取らざるを得ない。「坂上さん」は有権者の代表と解してよい。小池は有権者に、こう語りかけたように思われる。
「なんであれ相手の弱点を攻めあうのが、政治であり選挙なのだ。相手候補がガンの病歴あれば、これを攻撃材料とするのは当然ではないか」
あるいは、
「この程度の失言攻撃にオタオタすることなく嘲笑してみせるのが、選挙戦というものではないか。それができなくては政治家ではない」
小池百合子の本性を見据えるとともに、今後はこの候補者の発言を、選挙特有のダブルスタンダードではないかと警戒しなくてはならない。
(2016年7月20日)
本日、服務事故再発防止研修受講を強制されている都立高校教員Yさんに代わって、弁護士の澤藤から、東京都教員研修センターにご意見と要望を申しあげる。
私が申しあげたいことは、何よりも東京都教育行政の異常ということだ。本日の再発防止研修は、今年(2016年)3月の卒業式での国歌斉唱時の不起立を理由とする懲戒処分(戒告処分)にともなうものだ。全教職員に対する卒業式での起立・斉唱を強制する職務命令が異常であり、その違反への懲戒処分が異常であり、さらに服務事故再発防止研修の強制が異常なのだ。この異常に慣れてしまって、異常を異常と感じない感覚もも、これまた異常といわざるを得ない。
戦後の教育は戦前教育の反省から出発した。戦前の、天皇の権威を道具として、国家主義や軍国主義のイデオロギーを注入する教育が否定され、教育が公権力の統制から自由でなくてはならない、という原則が確認された。個人の尊厳は国家に優越する価値であって、国家によって侵害されてはならないという、18世紀市民社会の常識としての個人主義・自由主義が、ようやく20世紀中葉になって我が国の憲法が採用されるところとなり、1947年教育基本法が、教育の国家統制からの自由を宣言した。
こうして、生き生きとした戦後民主主義教育が発展した。その中心をなすものは、子どもの人格の尊重であり、これに寄り添う教師の専門職としての自由の尊重である。憲法と教育基本法がもっとも深い関心を寄せ、あってはならないとするものが、国家の教育支配であり、教育現場への権力の介入である。
国旗国歌こそは権力を担う国家の象徴として、その教育現場での取り扱い如何は、教育が国家からの自由を勝ち得ているか否かのバロメーターであると言わなければならない。
かつて、都立高校は「都立の自由」を誇りにした。誇るべき「自由」の場には国旗も国歌も存在しなかった。国旗国歌あるいは「日の丸・君が代」という国家象徴の存在を許容することは、「都立の自由」にとっての恥辱以外のなにものでもなかったのだ。
事情が変わってくるのは、1989年学習指導要領の国旗国歌条項改定からだ。1999年国旗国歌法制定によってさらに事態はおかしくなった。都立高校にも広く国旗国歌が跋扈する事態となった。それでもさすがに強制はなかった。校長や副校長が、式の参列者に「起立・斉唱は強制されるものではない」という、「内心の自由の告知」も行われた。教育現場にいささかの良心の存在が許容されていたと言えよう。
この教育現場の良心を抹殺したのが、2003年石原慎太郎都政2期目のことである。悪名高い10・23通達が国旗国歌への敬意表明を強制し、違反者には容赦ない懲戒処分を濫発した。この異常事態をもたらしたのは、極右の政治家石原慎太郎と、その腹心として東京都の教育委員となった米長邦雄(棋士)、鳥海巌(丸紅出身)、内舘牧子(脚本家)、横山洋吉(都官僚)らの異常な教育委員人事である。
処分は当初から累積加重が予定され、教員の思想や良心を徹底して弾圧するものとして仕組まれていた。多くの教員が、やむを得ず強制に服しているが、明らかに教育の場に面従腹背の異常な事態が継続しているのだ。
さらに、「服務事故再発防止研修」の異常が強調されなければならない。面従腹背を潔しとせず、自己の教員としての良心の命ずるところに従った尊敬すべき教員に、いったい何を反省せよというのか。
思い起こしていただきたい。10・23通達の異常は、異常な都知事の異常な人事がもたらしたものだ。今、この異常を糺すべく都知事選が行われている。その有力候補者の中の一人が、「人権・平和・憲法を守る東京を」という公約を掲げている。この候補者は「憲法を生かした『平和都市』東京を実現します。」と訴えている。かなり高い確率で、この候補者の当選が見込まれる。憲法の光の当たらない暗い都政と教育行政に、明るい光が射し込もうとしている。異常事態是正の希望が湧きつつある。
状況が劇的に変化しうる事態に、相変わらずの今日の異常な研修なのである。運用に宜しきを得るよう、こころしていただきたい。
異常はいつまでもは続かない。いずれ、知事も教育委員も教育長も変わる。センターの職員諸君に申しあげたい。現在の教育委員会に過度の忠誠を示すリスクについて、よくお考えいただきたい。そして、本日研修を受けるYさんに、敬意をもって接していただくようお願いする。
(2016年7月19日)
**************************************************************************
「服務事故再発防止研修」に抗議する声明
本日(7月19日)、東京都教育委員会(都教委)は、3月の卒業式での「君が代」斉唱時の不起立を理由として懲戒処分(戒告処分)を受けた都立高校教員に対する「服務事故再発防止研修」を強行した。
この「研修」は、自己の「思想・良心」や、教師としての「教育的信念」に基づく行為故に不当にも処分された教職員に対して、セクハラや体罰などと同様の「服務事故者」というレッテルを貼り、精神的・物理的圧迫により、執拗に追い詰め「思想転向」を迫るものである。私たちは、このような憲法に保障された「思想・良心の自由」と「教育の自由」を踏みにじる「再発防止研修」の強行に満身の怒りを込めて抗議するものである。
都教委は、「服務事故再発防止研修」と称して2012年度より、センター研修2回(各210分)と長期にわたる所属校研修を被処分者(受講者)に課している。しかも該当者(受講者)は、既に、4月5日に卒業式処分を理由にした「再発防止研修」を都教職員研修センターで受講させられており、今回で2回目となる。またこの期間に、所属校研修と称して、月1回の所属校への指導主事訪問による研修の受講も強制させられている。
これは、「繰り返し同一内容の研修を受けさせ、自己の非を認めさせようとするなど、公務員個人の内心の自由に踏み込み、著しい精神的苦痛を与える程度に至るものであれば、そのような研修や研修命令は合理的に許容される範囲を超えるものとして違憲違法の問題を生じる可能性があるといわなければならない」と判示した東京地裁民事19部決定(2004年7月23日)に反することは明らかである。
また、教育環境の悪化を危惧して、「自由で闊達な教育が実施されていくことが切に望まれるところであり・・そのための具体的な方策と努力が真摯かつ速やかに尽くされていく必要がある」という最高裁判決の補足意見(櫻井龍子裁判官 2012年1月16日最高裁判決)、「謙抑的な対応が教育現場における状況の改善に資するものというべき」と述べ、教育行政による硬直的な処分に対して反省と改善を求めている補足意見(2013年9月6日最高裁判決 鬼丸かおる裁判官)などの司法の判断に背く許されない行為である。
受講対象者は、東京「君が代」裁判第四次訴訟原告であり、都人事委員会の処分取消請求事件の請求人でもある。係争中の事案について「服務事故」と決めつけ、命令で「研修」を課すことは、「研修」という名を借りた実質的な二重の処分行為であり、被処分者に対する「懲罰」「イジメ(精神的・物理的脅迫)」にほかならない。
更に重大なのは、教員を本来の職場である学校から引きはがし、「不要不急」の研修を課し、午前中の学校での勤務、特に授業や生徒への指導を不可能とすることによって、生徒の授業を受ける権利を侵害し、かつ「教諭は児童の教育をつかさどる」とする学校教育法や「教員は、授業に支障のない限り…勤務場所を離れて研修を行うことが出来る」とする教育公務員特例法に明白に反していることである。
このように都教委が、教育活動よりも違憲・違法な研修を優先していることは教育条件の整備に責任を持つ教育委員会として断じて許されるものではなく、教育行政に対する都民の期待に背くものである。
私たちは、決して都教委の「懲罰・弾圧」に屈しない。東京の異常な教育行政を告発し続け、生徒が主人公の学校を取り戻すため、広範な人々と手を携えて、自由で民主的な教育を守り抜く決意である。「日の丸・君が代」強制を断じて許さず、「再発防止研修」強行に抗議し、不当処分撤回まで闘い抜くものである。
2016年7月19日
「日の丸・君が代」不当処分撤回を求める被処分者の会
東京「君が代」裁判原告団
本日は、都内共産党支持者のうちの3割の方、そして民進党支持の2割の皆さんにお願いしたい。来たるべき都知事選に、この割合の方が小池百合子候補支持を表明しているという。それは大きな間違いだ。小池百合子が何者であるかを見きわめて、その誤解にもとづく支持を撤回し、是非とも鳥越俊太郎候補に支持を変更していただきたい。
2016年都知事選の様相はまだ混沌としている。基礎票の配分という王道の思考パターンでは、鳥越有利が明らかだ。参院選東京選挙区の保守系(自・公・維・こ)各候補の合計得票数も、これに対する4野党系(民・共・社・生等)の得票合計もほぼ280万票で拮抗している。これを基礎票と考えれば、保守が割れて野党が統一候補を擁立しているのだから、鳥越俊太郎悠々当選ということになる。それが千載一遇のチャンスという根拠。
しかし、そううまくは行かない。明らかに鳥越候補は出遅れた。事前の根回し活動も、知名度アップ作戦もまったくできなかった。公約の作成さえ必ずしも十分ではない。これに対して、先出しジャンケン作戦に成功した小池百合子が、今のところ先攻のメリットを十分に生かしている模様。自公や基礎自治体の組織に乗った増田寛也ではなく、小池が鳥越の対抗馬として有力という報道がなされている。
産経世論調査の報道に至っては、「民進党支持層の約2割、共産党支持層の約3割が小池氏を支持していた。」という。野党支持者に小池百合子への幻想ないし誤解があるのだ。あらためて、小池百合子Who?である。小池について、何者であるかを明らかにしなければならない。
私も、これまで小池百合子という政治家に注目したことはなかった。変わり身の早い「渡り鳥」政治家の典型という程度の認識。自民党政権で重用される女性政治家の常として保守的性向の強い人だとは思っていたが、どうもその程度ではなさそうだ。
小池は、今話題の超保守団体「日本会議・国会議員懇談会」の副会長である。会長が、平沼赳夫、会長代理が額賀福志郎、そして副会長が6名、石破茂・小池百合子・菅義偉・中谷元・古屋圭司・山崎正昭という面々。
そして、下記は7月9日付「日刊ゲンダイ」の記事。8日の外国人特派員協会での会見の報道だ。
「“シャンシャン会見”で終わろうとしていた時、ジャーナリストの江川紹子氏の質問が空気を一変させた。
『ヘイトスピーチ対策法が成立した。自治体の首長としてどう取り組むのか。小池さんは野党時代の2010年、ヘイトスピーチをやってきた“在特会”関連の講演をされていますが、事実ですか』
小池氏は一瞬表情をこわばらせたが、キッパリとこう言った。
『対策法にのっとってやるべきことはしっかりやっていきます。いろいろな講演に出ていますが、在特会がどういうものか存じ上げませんし、主催された団体と在特会の関係も知らない。したがって在特会の講演をしたという認識はありません』
当時、講演会の案内には〈演題:「日本と地球の護りかた」講師:「小池百合子衆議院議員」主催:「そよ風」協賛:「在日特権を許さない市民の会 女性部」〉とハッキリ書いてある。“潔さ”をウリにするオンナにゴマカシは似合わない。」
2010年に小池が在特会女性部の講演をしていたことは初めて知ったが、私も「在特会の講演をしたという認識はありません」はゴマカシだと思う。
「在日特権を許さない市民の会」(在特会)が「排外主義を掲げ執拗な糾弾活動を展開する右派系グループ」として知られるきっかけになったのは、2009年6月の徳島県教組業務妨害事件と、同年12月の京都朝鮮学校襲撃事件である。その後両事件とも逮捕、起訴を経て実行犯の有罪が確定している。民事の損害賠償請求訴訟も高額の認容判決が確定済み。2010年段階では、既に在特会はおぞましい排外主義団体として著名な存在だった。そのような団体と知らずに講演を引き受けたとは考え難い。もし、本当に認識がなかったというのなら、その迂闊さは政治家失格といわざるを得ない。
韓国人学校敷地貸し出し方針を白紙撤回するという、小池の迅速な対応は在特会の講演を引き受ける姿勢にいかにも親和的である。
「韓国人学校を増設するため、東京都が新宿区にある約6千平方メートルの都有地を韓国政府に貸し出す方針を固めたことに、批判が相次いでいる問題で、舛添要一知事は(3月)25日、報道陣の取材に対し『(見直す考えは)全然ありません』と計画を撤回しない考えを示した。」(産経)というのが、前知事の態度だった。
政府とは違う、ソウルとの首都間友好外交の理念にもとづくものだ。この点は、国際政治学者としての舛添の信念であったろう。小池はこれを簡単に覆すという。小池は、舛添よりもはるかに保守的な立場にあり排外的なのだ。
この人のホームページを開いてみた。「小池百合子が目指す『日本』」というページがいきなり出てくる。「小池百合子の政治活動において、一貫して訴え続けているものであり、政策実現のため、あらゆる可能性に挑戦する。」と勇ましい。
柱は7本立てられている。大方は、無難なものだが、いくつか見逃せない。
7本目の柱が「憲法改正」である。どんな憲法改正をたくらんでいるか。「小池百合子の政策」として並んでいる、右翼お定まりのフレーズの数々から明確になっている。以下はその抜粋。
「守る!家族の絆、主権・領土、日本の心と伝統」
「変える!憲法、歪んだ戦後教育」
「NSC(国家安全保障会議)創設で総合安全保障確立」
「拉致、領土問題など、主権死守と憲法改正」
さすが、日本会議所属議員ではないか。
そのほか、見逃せないのが、4本目の柱として掲げられている「教育改革と多様な文化の創造」。
ここに、「文化・伝統を重んじる、教育制度・教育行政への転換を図る」との一文があってギョッとさせられる。この人は、「変える!憲法、歪んだ戦後教育」なのだから、戦後の民主教育・平和教育は歪んでいるという認識のようだ。だから、憲法とともに「戦後教育」も変えなければならないという立場。
小池は、憲法問題については、「憲法問題は自民党で議論されている流れでよい」と明言している。「自民党で議論されている流れ」とは、自民党改憲草案(2012年4月27日)のこと。「日本固有の歴史・文化・伝統」が強調されているが、その内実は、前文冒頭の「天皇を戴く国」ということに尽きる。「文化・伝統を重んじる、教育制度・教育行政」とは、戦前回帰のベクトルと考えざるをえない。人類の叡智が「人類普遍の原理」とした方向性は見えてこない。
都内共産党支持者3割の諸君、そして民進党支持の2割の諸君、あなた方は、「自民党に迫害されて孤立無援で闘っているけなげな女性」などという、小池自作自演のイメージ操作に欺されてはいないか。あなたが、小池に投ずる票は、「憲法改正」賛成票になってしまう。目を見開いていただきたい。こんな右翼政治家に、貴重な票が投じられるか。もう一度、じっくりと考えていただくようお願い申しあげる。
(2016年7月18日)
皆さま、日本民主法律家協会第55回定時総会にご参集いただきありがとうございます。恒例の懇親会の冒頭、乾杯の発声の前に若干のお話しをさせていただきます。
参院選の結果が出た直後、そして都知事選が始まった時点での総会となりました。右往左往の状況ですが、本日の総会の討議と広渡清吾さんの記念講演「安倍政権へのオルタナティブー個人の尊厳を擁護する政治の実現を目指す」とで、何が起こっているのか、何をなすべきか、整理ができてきたのではないかと思います。
この間、「アベ政治を許さない」「立憲主義・民主主義・平和を守れ」という大きな市民の声が巻きおこり、学者も弁護士もそれなりの役割を果たしてきました。とりわけ昨年(2015年)9月「戦争法案」強行採決の直後に立ち上げられた、「戦争法廃止を求める市民連合」の役割には大きなものがありました。日本民主法律家協会も改憲問題対策法律家6団体の中核にあって、野党共闘の成立に力を尽くしてきました。
もっとも、参院選の結果は、重大なものとして受け止めなければなりません。衆院だけでなく、参院でも憲法改正発議に必要な3分の2の議席を改憲派に与えることとなってしまった。このことは率直に衝撃と言わざるを得ません。
かつては、国会の中に日本社会党を中心に堅固な「3分の1の壁」が築かれていました。憲法改正発議などは許さない。そんな国会情勢は、今や忘却のかなたの古きよき時代の語りぐさ。
改憲問題だけを思うと、こんなふうに愚痴が出ます。
ながらへばまたこの頃やしのばれむ 憂しと見し世ぞ今は恋しき
あの頃だって、政権に文句を言いたいことはうんとあった。でも、今にして思えば随分とマシな保守政権だったではないか。アベ政権のような、ごりごりの改憲姿勢や好戦性はもっていなかった。情勢はどんどんひどくなっていく。もしや、もう少し経って今日を振り返ると「あの頃はまだマシだった」なんて思うことにならないだろうか。
一昔前には、保守政治家の典型だった小澤一郎が、今や護憲勢力の一員なのですから、いつの間にか政治の重心が大きく右にぶれてしまったのでしょう。ここ数年そのように思い続けていましたが、ようやく希望の灯を見るに至りました。それが、市民の後押しによる4野党共闘です。これこそが、パンドラが開けた箱に残っていた希望というべきもの。
この共闘のでき方について広渡さんに詳しく語っていただきましたが、会場からの質問に対する回答の中での、次のご指摘が印象に残りました。
「安倍政権を追い詰めた市民と野党の共同運動は、九条の解釈においては『専守防衛論』でまとまってのものでした。ここで幅広い勢力の意見の統一ができたものです。しかし、私は、この運動に結集した人びとの多くが『自衛隊違憲論』であったと思っています。むしろ、『自衛隊違憲論』派が運動の中心にいて、この人たちの確信を持った運動あればこそ、そのまわりに『専守防衛論』派の人びとの広がりができたものと言うべきだと思います」
意見の違いはあっても、闘う相手を見きわめて、共闘によって味方を大きくする努力の枠組みができてきたことを心強く思います。この枠組みは、参院選地方区の東北6県では、5勝1敗の大成功を収めました。象徴的に特別の意味をもつ沖縄と福島では、いずれも現職大臣を落としての勝利を勝ち取っています。
これが希望の灯。この希望の灯を絶やしてはならないと思います。いま、この灯は都知事選に受け継がれました。鳥越候補支援の声は急速に拡がりつつあります。本日の特別アピールのタイトル「市民と野党の共闘を支援し、改憲勢力3分の2の危機を乗り切り、東京都知事選での勝利で日本を変えよう」は、今日の総会に集まった人たちの気持ちを的確に反映するものとなっています。
このアピールは、参院選を「市民と野党の共闘」の第1回のチャレンジとしています。もちろん第2回目が「33年ぶりの都知事選での野党統一候補」を生みだした都知事選。さらに、3回目総選挙に続けなければなりません。小選挙区の選挙で、立憲派と壊憲派の一騎打ちが実現すれば、日本が変わるチャンスです。
そのような展望を見据えて、日民協は改憲阻止を標榜する法律家団体として、可能な限りその役割を果たしていくことの決意をかためましょう。それでは、ご唱和をお願いします。
日本国憲法と民主々義と、そして日民協の発展のために、カンパーイ!
(2016年7月17日)
Blog「みずき」の東本高志さんから、ブログで私を名指した問題提起を受けた。昨日(7月15日)のことだ。野党共闘のあり方についての醍醐聰さんのご指摘をもっともであるとし、私のブログでのこの点についての応接を、「重要な問題提起をスルー」して、いかにも「もの足りない弁明」とされる。ご指摘は下記のとおりだ。
澤藤さん。「告示日が迫る中、大詰めの段階で鳥越氏が野党統一候補者となったことも理解できる。しかし、それで、胸をなでおろし、あとは鳥越氏勝利のために頑張ろう、では都民不在である。それでは、判官びいきではなく、『知名度頼み、政策不在の候補者選び』という宇都宮氏の批判に一理がある。(略)こうした都民に向ける政策、公約が告示日の前日になっても不在のまま、4党の合意で候補者だけが決まるというのは異常である」という醍醐聰さん(東大名誉教授)の指摘も私は同様に重要な問題提起だろうと思います。「4党の合意で候補者だけが決まるというのは異常である」という醍醐さんの指摘は本来の野党共闘はどうあるべきかという根底的な問題提起です。この重要な問題提起をスルーして「4野党が責任もって推薦しているのだ」というだけではこれもいかにも「もの足りない」弁明というべきです。醍醐さんの指摘に本格的に応じてみよう、という気はありませんか?(東本高志 2016/07/15)
私は、Blog「みずき」には関心をもって目を通しているつもりだが、昨日(7月15日)はまったく気付かなかった。今日(16日)、日民協の総会と懇親会を終えて夜帰宅し、パソコンを開いてはじめて気が付いた。私のブログの拙文に、こんなに関心をもっていただいたことをまことにありがたいと思う。
常々、醍醐さんが言っている。「議論が足りない」「意見の異なる人との真摯な議論が必要なのにできていない」「リベラル側の議論の意欲も説得の能力も不十分だ」と。幾分かは、私に言われているように思う。せっかくの東本さんからの議論をうながすご質問。しかも、醍醐さんの指摘を引用してのものだ。「本格的に」はともかく、応じなければならない。
私の「弁明」をまとめれば、次のようになろうか。
(1) 不十分だが緊急避難としてこの際やむを得ない
(2) それでも候補者選定の最低限情報は提供できている
(3) 公約の細目は追完される
(4) 候補者選定の枠組みを作ったのは市民だという大義がある
私は革新陣営の共闘を願う立場で一貫してきた。政党が、自らの理念や政策を大切にして他党と支持を競い合うのが本来の姿であるが、政策が近似する友党との共闘が大義となって、個別政党の共闘拒否がエゴとなる局面がある。保革で一議席を争う首長選挙がその典型であろうし、喫緊の重要課題についての共闘の成否が革新陣営全体あるいは野党全体の死活に関わる問題という局面では、国政選挙でも共闘が大義となるだろう。
私の革新共闘の原イメージは、70年代初頭の革新自治体を誕生させた運動だった。社・共の両政党を当時は強力だった総評が間に立って結びつける。そのような共闘のお膳立てを文化人が準備した。東京・大阪・京都・福岡・愛知などに、そのような形での革新知事が誕生して、国政にも大きなインパクトを与えた。今でも、美濃部革新都政のレガシーには大きなものがある。とりわけ、福祉や公害対策の分野において。
しかし、60年安保闘争後の高揚した雰囲気の中から生まれた革新自治体運動はやがてしぼんだ。共闘の主役だった社会党はその座を降り、労働運動はかつての力を失った。革新共闘そのものが困難な時代となった。東京都知事選挙にもその影は深く、極右の知事に対抗すべき革新統一もならない事態が続いた。
石原の中央政界転身による2012年都知事選での革新共闘は、市民運動が主導して、各政党が候補者を個別に支持する形のものであった。「この指止まれ方式」と言われた。政党は、候補者の出馬宣言に賛同を表明する形で共闘に参加し、けっして政党間の事前の政策協定あっての共闘ではなかった。それでも、これまでにない共闘が成立したことを大いに評価すべきものといえよう。具体的な政策は、選対に参加した学者を中心に立派なものができあがった。共闘参加者全体に違和感のないものとしてである。このとき、政策作りに候補者本人はほとんど関与していないが、それでよい。選挙は陣営としてするもので、候補者も政策に縛られるのだから。
要するに、「市民運動+共産・社民」の範囲を「革新共闘」として、ようやくにして成立に漕ぎつけた。共闘の要は、候補者であった。特定の政党や勢力に偏らない人物が名乗りを上げたからこそ、共闘の枠組みができた。それでも、選挙結果は記録的な大敗を喫した。候補者の魅力に欠けていたこと、選挙実務ができていないことが最大の要因であったろう。
14年都知事選においては、革新側(ないしは野党側)は分裂選挙となった。およそ最初から勝てる見込みある選挙ではなかった。結果は、分裂した両候補の票を合計しても、自公の候補に届かなかった。革新の側は、本気で勝つためには、共闘の幅は拡げなくてはならないこと、分裂選挙してはならないことを学んだ。候補者の選定は、この教訓から出発しなければならない。
16年都知事選は、様相を異にする。これまでと違って、政党間の共闘合意が先行したのだ。しかも、民進・生活を含む4野党共闘の枠組みである。この枠組みで推すことのできる候補者がどうしても必要だったのだ。前回・前々回の候補者では、4野党共闘の枠組みにふさわしからぬことは自明のことであった。候補者個人は、3回目の立候補ともなれば都政の細目に詳しくはなるだろうが、それはさしたる重要事ではない。市民が後押ししてようやくにして作り上げた4野党共闘である。これを生かす候補者の選定が大義なのだ。共闘参加のすべての政党が推せる候補者でなくてはならない。当然のこととして共闘の最大政党である民進の意向も無視し得ない。今回の参院選東京選挙区での民進票は170万なのだ。
せっかくの4野党共闘による知事選の枠組みが人選で難航しているときに、告示間際となって鳥越候補が出現した。政策は共闘成立に必要な大綱でよい。私は、出馬会見で彼が語った第3項目は、実質的に「ストップ・アベ暴走」であったと思う。あるいは、「首都東京から改憲阻止のうねりを」というもの。語られた中身は、改憲阻止であり、戦争法廃止である。歴史を学んだ者として、アベ政権の歴史修正主義を許せないという趣旨の発言もあった。都政に憲法を生かすとの政策と受け止めることができる。これだけでも十分ではないか。もちろん、今回知事選の争点となる知事としての金の使い方、透明性の確保についても語られている。
果たして、細目の公約がなく都民不在であるか。もちろん、時間的余裕があってきちんとした公約を掲げての立候補が望ましい。今回の経緯では不十分であることは明らかだが、「都民不在」とまでいう指摘は当たらないものと思う。
その理由の一つは、候補者の経歴がよく知られていることにある。候補者の政治的スタンスと人間性の判断は十分に可能であろう。出馬会見はそれを裏書きする誠実なものであった。都知事としての資質と覚悟を窺うに十分なものであった。
また、4野党共闘の枠組みは広く知られているところである。立憲主義の回復であり、民主主義と平和の確立であり、戦争法の廃止であり、改憲阻止である。4野党と市民が納得して、この枠組みに乗せられる人であることが都民に示されたのだ。「候補者+4党+支持する市民」がこれから練り上げる具体的な都政の政策をしっかりと見ていこうと思う。それでも、けっして遅すぎることにはならない。
事前の政策協定ができればそれに越したことはないが、ようやくにして成立した4党共闘の枠組みである。これを強く望みつくったのは市民である。これに乗る魅力的な候補者が見つかったのだ。現実に革新の側(反自公の側)が勝てるチャンスなのだ。既に多くの市民団体が鳥越支持の声を上げている。各勝手連も動き出している。政策は、おいおい素晴らしいものが体系化されるだろう。もとより理想的な展開ではないが、今回はやむを得ない。判断材料としての最低限の情報提供はなされており、さらに十分なものが追加されるはずである。傍観者的に都民不在と言わずに、4党枠組みを望んだ市民の一人としてこの知事選に関わっていきたいと思う。
(2016年7月16日・17日加筆)
国旗国歌への敬意強制には服しがたいとして懲戒処分を受け、処分に伴う服務事故再発防止研修の受講を強制されたTさんが、本日これからこの研修センターで不本意な研修を受講する。十分にはものを言える立場にないTさんに代わって、研修センター総務課長に代理人弁護士として抗議と要請の意見を申しあげる。
本日私が申しあげることは、憲法の理念や教育の本質というような、高邁なことではない。極めて卑近で分かり易い都教委のやり口の不条理と不真面目さだ。この不条理から、都教委の体質やホンネが滲み出てよく見えてくる。
本日のTさんの「研修」は、あなた方都教委と研修センターが4月に決めたスケジュールでは、「所属校研修」の2回目ということになっている。所属校研修が所属校で行われず、どうしてTさんに限って、わざわざこのセンターにまで呼び出して行われなければならないのか。もちろん説明もなされていないし、合理的な理由はおよそ考えがたい。
強いて憶測せずとも、本人に可能な限りの大きな負担を与えたいとの、懲罰的な動機が明らかという以外にはない。分かりやすく言えば、都教委の思想統制に従おうとしない教員への報復であり、イジメ・イヤガラセだけを理由とするセンター呼出の「所属校」研修と考えざるをえない。イジメ・イヤガラセによる心理的な負担によって、Tさんに圧力をかけ、その思想・良心を攻撃し、思想や良心を放擲するように仕向けているのだ。
問題は深く大きい。都教委が教員にイジメ・イヤガラセをしているにとどまらず、明らかに、子どもたちの教育を受ける権利を侵害してもいるではないか。
Tさんは、不本意ではあっても、再発防止研修受講を拒否してはいない。授業に差し支えないように配慮して欲しいと真摯に申し入れているではないか。あなた方、教育委員会・教育庁・教育センターは、敢然とこれを無視した。ほんの少しの配慮で、時間と場所を少々ずらすだけのことで、授業に差し支えのない研修は可能なのだ。Tさんの授業が終わったあとの研修設定で何の不都合もない。容易に、子どもたちの授業を受ける権利を確保できるのだ。それなのに、教育委員会・教育庁・教育センターは子どもの教育を受ける権利に何の配慮もしようともしなかった。
今日も、Tさんは、授業からひき剥がされて、まるで授業への妨害を狙った如くのこの時間帯に、このセンターでの服務事故再発防止研修の受講を強制されているのだ。前回6月15日の研修の際には、Tさんがセンターへ呼び出されたために、予定されていた校外活動に半数の生徒が参加できない事態が生じている。
教育に情熱を持ち、子どものためを思い、教育に専念しようとしている教員が、教育委員会から教育活動を妨害されているのだ。真面目な教員が、不まじめきわまる教育委員会に、再発防止研修を強制されている。不都合千万、まったくアベコベではないか。研修の必要も合理性もないどころか、教育活動を妨害する研修の弊害が明白となっている。
それにしても、授業を妨害し、子どもの教育を受ける権利を一顧だにすることのない教育行政とは、いったい何なのだ。教育行政が教育内容に介入することが許されるかなどという高尚な議論をしているのではない。教育行政が、教育を妨害しているこの実態を多くの人に知ってもらわねばならない。
このことは、かつてF教員に対する「授業に出ていたのに処分」事件でも問題となり、都教委は一審で完敗して、控訴もできなかったではないか。
本日の文書による申入れ書の中に、2004年7月の「研修命令執行停止申立事件」における東京地裁決定の説示が引用されている。
「繰り返し同一内容の研修を受けさせ、自己の非を認めさせようとするなど、公務員個人の内心の自由に踏み込み、著しい精神的苦痛を与える程度に至るものであれば、そのような研修や研修命令は合理的に許容される範囲を超えるものとして違憲違法の問題を生じる可能性がある」というものだ。
ここで研修の受講強制が違憲違法となるメルクマールとされているのは、「繰り返し同一内容の研修を受けさせること」、「自己の非を認めさせようとすること」、そして「執拗」である。
Tさんに対する研修がこのまま続くのであれば、この違憲・違法の要件は充足しつつあると警告しなければならない。
Tさんは、誰よりも子どもの教育に情熱をもった立派な教員である。研修センターの職員諸君には、本日の研修において、Tさんに敬意をもって接していただくよう特に要請申しあげる。
(2016年7月15日)
本日(7月14日)告示の都知事選がスタートした。投票日は7月31日、猛暑のさなかの文字通り熱い選挙戦である。
今回都知事選は、リベラル勢力にとっては千載一遇のチャンスである。この絶好のチャンスを逃してはならない。これまで、革新統一といえば「社共+市民運動」が最大幅だった。2012年選挙でも、2014年選挙でも、ようやく実現した「社共+市民」の枠組み。しかし、結果は惨敗に終わった。200万票を取らねば勝負にならないところ、この枠組みでは100万票に届かない。これでは勝てないことが手痛い教訓として身に沁みた。3度同じ愚を犯すわけにはいかない。
今回は、幅広く4野党共闘でのリベラル派統一候補の推挙が実現した。昨年の戦争法反対運動の盛り上がりの中で、デモに参加した市民の声として湧き起こった「野党は共闘」というスローガンが、参院選にも、そしてこのたびの都知事選にも結実しているのだ。
しかも、これまでの選挙とはまったく違って、リベラル派が候補者を統一し、保守の側が分裂しているのだ。まさに天の時は我が方にある。傍観者で終わることなく、この歴史的な闘いに何らかの方法で参加しようではないか。都民でなくても、選挙への協力は可能なのだから。
選挙の性格のとらえ方を統一する必要はない。私は、この都知事選を「ストップ・アベ暴走選挙」と命名したい。そして、「ストップ・アベ暴走都政」を実現させたい。美濃部革新都政第2期の選挙が、「ストップ・ザ・サトウ」選挙であった例に倣ってのことだ。ベトナム反戦の時代の空気を都知事選に持ち込んでの成功例。この選挙で美濃部は361万票を得て、保守派候補(秦野章)にダブルスコアで圧勝している。一昨日(7月12日)の鳥越俊太郎出馬会見は、意識的に改憲問題や国政批判を都知事選のテーマに持ち込むものであった。
この会見を報じた朝日の見出しは、「鳥越氏『時代の流れ、元に戻す力に』 都知事選立候補」というもの。今の時代がおかしいのだ、元の流れに戻さなければならない。そのような思いを日本の首都の選挙で訴えて広く共感を得たい。これが、朝日の理解した鳥越出馬の真意。
記事本文での当該部分の会見発言の引用は次のようになっている。
「『あえて付けくわえるなら』としたうえで、立候補を決めた理由を『参院選の結果で、憲法改正が射程に入っていることがわかった。日本の時代の流れが変わり始めた。東京都の問題でもある。国全体がそういう方向にかじを切り始めている。元に戻す力になれば。それを東京から発信したい』と語った。
読売も、朝日とよく似た見出しとなった。「鳥越氏、都知事選出馬表明『流れ元に戻す力に』」というもの。記事本文は、次のとおり。
鳥越氏は12日午後、都内のホテルで記者会見を開き、「残りの人生を『東京都を住んで良し、働いて良し、環境良し』とすることにささげたい」と語った。出馬理由については「参院選の結果を見て、平和の時代の流れが変わり始めたと感じた。国全体がかじを切る中、流れを元に戻す力になりたいと思った」と説明した。
毎日の見出しは、「野党統一鳥越氏が出馬」と無骨だが、次のように会見の内容を紹介している。これが、一番よく、鳥越の気持ちを伝えているのではないか。
「私は昭和15年、1940年の生まれです。防空壕にいたこともよく記憶しています。戦争を知る最後の世代、戦後の第1期生として、平和と民主主義の教育の中で育ってきました。憲法改正が射程に入ってきているというのが参院選の中で分かりました。『それは国政の問題で東京都政とは関係ないだろう』という方もいると思いますが、日本の首都だから大いに関係があると思う。戦争を知る世代の端くれとして、都民にそういうことも訴えて、参院選と違う結果が出るとうれしいというのが私の気持ちです。」
国政と都政が無関係なはずはない。都政は国政を補強もすれば減殺もする。また、都知事選を、多くの都民が国政に感じている危ない時代の空気を批判する機会と位置づけて悪かろうはずがない。時代の危うさとは、アベ政治の暴走にほかならない。アベ政治の暴走の中身には二つの軸がある。一つは新自由主義の経済政策であり、もう一つは軍事大国化の政治路線だ。
新自由主義の経済政策が格差と貧困をもたらし、雇用の形にも福祉の切り捨てにも、教育や保育や介護にも、都民の生活に大きく影響していることは論を待たない。経済や福祉・労働等々に関する都政は、アベ政治を批判するものとならざるを得ない。
軍事大国化とは、戦後民主主義の否定であり、集団的自衛権行使容認であり、立憲主義の否定であり、さらには9条改憲の政治路線である。鳥越は、これに抗する姿勢を明確にしている。自分を「戦争を知る最後の世代であり、戦後の第1期生として、平和と民主主義の教育の中で育ってきました」として、「憲法改正が射程に入ってきている」この恐るべき時代を看過し得ないとしているのだ。
都政は、軍事大国化路線と無関係ではない。政府に協力してこれを補強もすれば、政権に抵抗して平和を志向することもできる。鳥越会見では、横田基地へのオスプレイ導入の阻止、米軍管理下の「横田管制」の正常化。政権の意向から独立した各国首都間の友好交流が平和に大きな意味を持つなどの発言があった。首都の原発ノー政策は核軍縮と関わるものとなる。
さらに、民主主義を大切にする真っ当な教育行政は、反アベ政治の色彩を持たざるを得ない。第1次アベ政権は教育基本法の「改正」に手を付けた。第2次では、教育委員会制度の骨抜きもした。鳥越都政はこれに対抗して、地教行法が想定する真っ当な教育委員を選任して、荒廃した東京都の公教育を改善することができる。教科書採択も、現場の教員の声を反映したものにすることができる。これだけでも、アベ政治に対する大きな打撃になる。
今回の都知事選挙を、「前知事の責任追及合戦」に終始し、「新都知事のクリーン度」を競い合うだけのものとするのではもの足りない。行政の公開や監視のシステム作りという技術的なテーマは、4野党のスタッフにまかせて上手に作ってもらえばよい。
都知事は、憲法の精神を都政に活かす基本姿勢さえしっかりしておればよい。その基本姿勢さえあれば、細かい政策は、ブレーンなりスタッフなりが補ってくれる。4野党が責任もって推薦しているのだ。そのあたりの人的な援助には4野党が知恵をしぼらなければならない。
(2016年7月14日)
弁護士会には、インフォーマルな組織として「会派」というものがある。俗にいう「派閥」である。弁護士会長を目指す者は、この会派の活動を積み上げなければならない。最大の単位会である東京弁護士会には、老舗の「法曹親和会」と「法友会」との二大会派があり、「派閥の弊害解消」を目指した第3のグループとして、今や立派な派閥となった「期成会」がある。
私は、期成会に所属している。かつては、期成会から選挙に出て常議員(議決機関のメンバー)にもなり、会内選挙政策の立案にも携わった。今も、期成会への所属意識はもっており、その政策にほぼ共鳴している。
その期成会が、一昨日(7月11日)「東京弁護士会における叙勲受章会員のお祝い会についての意見書」を発表し、同時に東京弁護士会長に提出した。
東京弁護士会が5月31日付で、会内の諸団体に「会として叙勲受章会員のお祝い会を行うことの是非」についての意見照会をした。これに対する期成会の意見具申がこの意見書である。
私は、この意見の作成に関わっていない。まったく知らなかったが、すばらしい内容となっている。下記のURLでご覧いただけるが、全文を貼り付けるので是非お読みいただきたい。
http://kiseikai.jp/pdf/20160711151800.pdf
2016(平成28)年7月11日付意見書
東京弁護士会会長小林元治殿
東京弁護士会期成会代表幹事 千葉肇
2016(平成28)年5月31日付の意見照会(東弁28意照第7号?2)につき、期成会として次のとおり意見を述べる。
意見の趣旨
東京弁護士会として叙勲受章会員のお祝い会は開催するべきでない。
意見の理由
1 叙勲制度については,東京弁護土会内に多様な意見があり,叙勲受章者のみを対象にしたお祝い会を開催するのは不適当である。
そもそも叙勲制度については,肯定的意見の外に叙勲制度そのものを否定する考え方,現行叙勲制度に疑問を有する考え方,その運用(いわゆる官優先など)に批判的な考え方など,多様な意見が存している。
例えば,一般的な憲法教科書といわれている野中俊彦ら「憲法??」(第5版)では,「栄典の授与は,伝続的に恩赦と並んで君主の特権と考えられできた。」,「位階及び褒章は勅令で,勲章は太政官布告で定められていたことなどから日本国憲法との適合性に疑義かあり,その授与を原則的に停止して,法律による新制度の制定を考えた。しかし栄典法案がなかなか成立しなかったので,政府は法律の制定を待たずに停止していた戦前の制度を復活させて活用する道を選んだ」(上出「憲法?」129・30頁),「法律を制定しないで、戦前の制度に依拠して栄典授与を復活した現行の慣行には,問題かある。」(上出?204頁)とされている。
そして,東京弁護士会(以下,「当会」という)を含む弁護士会には,叙勲辞退者が比較的多数存することを考えても,他の団体等以上に多様な意見が存しているといえる。そのような状況のなかで,東京弁護士会として,叙勲を受章する旨の意思を示した会員のみを対象としたお祝い会を開催するのは不適当である。
2 弁護士は,在野法曹という立場から諸活動を行っているのであり,国家(天皇)が与える勲章に追随して,弁護士会がお祝いをすることは,在野法曹としての矜持にそぐわないというべきである。
現在,多くの弁護士は,在野法曹として,一般市民の目線で,誠実・積極的に事件処理を行うことにより,基本的人権擁護・社会正義実現に寄与している。
また,公害・労働・消費者事件など様々な先進的な分野で献身的努力をすることによって,従来の国の制度に対し,新たな弱者保護の判例・法制度を作り出してきた。このような在野法曹としての立場は,弁護士の原点であり矜持というべきである。
これに対し,叙勲制度は,国家が表彰するに値すると評価した方に与えられるものであり,在野たる弁護士会が,これに追随してお祝いまでする必要は存しない。
3 表彰されるべき会員は多くいるのであり,あえて叙勲受章者を祝おうとするのは不公平・不適当といえる。
上述のとおり,弁護士は,多様な分野で諸活動を行っているのであり,その活動を表彰されるべき会員は多数にわたる。ところが,現状の叙勲制度は,日弁連正副会長・理事など限定された役職者等を対象にしたものであり,表彰されるべき者としては限定的といえる。もちろんこれらの方々が多大な努力をしたことには敬意を表するものであるが,あえて叙勲受章者を祝おうとするのは不公平・不適当といえる。現在でも当会は,弁護士登録何十周年という形でお祝いをし,前年度当会理事者に感謝状を差し上げているといった,当会独自のお祝いをしているのであり,それで充分といえる。
4 当会は,叙勲対象者の推薦をしているものではなく,お祝い会をする必要もない。
現在の叙勲対象者の決定シムテムは,日弁連の依頼により,当会が,慣行に基づく対象候補者に受章の意思確認を行い,叙勲を受章する旨の意思を示した会員を報告するというものに過ぎない。従って,当会が独自に推薦するというものではないのであり,会としてお祝い会を開催する必要もない。
5 叙勲辞退者が少なからずいる中で,お祝い会をするのは相当でない。
上記のとおり,叙勲制度に対しては多様な意見があり,当会においても,叙勲受章の候補者推薦について辞退する会員が少なからずいるという状況がある。辞退者は自己の信念をもって辞退するものと考えられるが,このような状況下で,受章者を会として祝うことは,辞退者の意向・信念を軽視することにつながり,相当でない。
6 まとめ
期成会としては,個々の会員が叙勲を受章するか否かにつき,意見を有するものでない。そして,叙勲対象者の方々が先輩会員として,弁護士会の信頼構築のために多大な努力をされたことに敬意を表するものである。
但し,上記のとおり,多様な意見があり,少なからず辞退者もいること等からして,在野法曹団体である弁護士会として独自にお祝いをすることには反対する。 以上
**************************************************************************
もちろん、私の私的意見ならこのように品良くはならない。しかし、全員加盟の弁護士会に対する意見書として、この内容に異論のあろうはずはない。
ここで言われているのは、叙勲を「祝う」ことについての、二重の意味での否定的見解である。
ひとつは、国家の制度としての叙勲がもつそれ自体の問題点。位階・褒賞・叙勲などの栄典は、君主の特権として付与されるものであり、日本では天皇制がその権力保持の手段として使われたという指摘である。天皇が、天皇への忠誠者として功労あった者に、厳密な序列と等級を付して位階や勲章を与えた。臣民は、奴隷の心情をもって天皇からの栄典を名誉として感謝する。位階も勲章も奴隷操縦法の一手段なのだ。戦前、これを栄誉としてありがたがった一群のあったことは天皇制教育の偉大な「成果」にほかならない。
時に墓地を歩いて、墓石に位階と勲章の等級が刻みつけられているのを見ることがある。それだけでしかなかった人物の、それだけでしかなかった人生。哀れを禁じ得ない。さらに哀れむべきは、戦後に至ってなお、天皇の名による叙勲に喜々とする一群の人びと。
期成会意見書は、叙勲を受ける人を愚かとも哀れともいわず「(受勲者の)多大な努力に敬意を表する」とさすがに品がよい。しかし、憲法の教科書を引用して、「日本国憲法との適合性に疑義かある」と指摘する。
つまりは、天皇制を支えたシステムの残滓を無批判に受容することについて、受容者限りで喜ぶことには介入しないが、周囲がこれに巻き込まれたり、持ち上げたりすべきではないという意見表明なのだ。
そしてもう一つは、弁護士という在野の存在が叙勲を祝うという特殊な問題の指摘である。弱者の側に立ってその人権の擁護に徹してこその弁護士ではないか。そのような観点とはまったく異なる、天皇からの叙勲。そんなものをありがたがって、それで弁護士か。それが在野に徹したあり方か。そんな弁護士会でよいのか、という問題提起なのだ。
さすがに期成会の意見書はそのような品の悪さのない文章になっているが、ツボははずしていない。
あらためて、弁護士の使命や在野性について考えさせられる。在野に徹し、弱者の人権擁護を使命とする立場から、強者であり多数派の象徴である天皇からの叙勲に祝意を表してはならないとする組織もある。まさしく弁護士会がそれに当たる。おそらくは、報道機関も大学も同様であり、宗教団体も似た立場にあるだろう。弁護士会が、「天皇からの叙勲、おめでとうございます」などと言っては世も末なのだ。
期成会がんばれ。東京弁護士会もがんばれ。
(2016年7月13日)
本郷三丁目交差点をご通行中の皆さま、ご近所の皆さま。こちらは地元の「本郷・湯島九条の会」です。私たちは、憲法を守ろう、憲法を大切しよう、とりわけ平和を守ろう。絶対に戦争は繰り返してはいけない。アベ自民党政権の危険な暴走を食い止めなければならない。そういう思いから、訴えを続けています。
あなたが政治に関心をもたなくても、政治の方はけっしてあなたに無関心ではいない。あなたが平和と戦争の問題に無関心でも、戦争は必ずあなたを追いかけてきます。けっして見逃がしてはくれません。少しの時間、お耳を貸してください。
一昨日の7月10日が第24回参院選投開票で、既にご存じのとおりの開票結果となりました。今回選挙の最大の焦点は、紛れもなく憲法改正問題でした。より正確には、アベ政治が投げ捨てた立憲主義の政治を取り戻すことができるか否か。憲法を大切にし、政治も行政も憲法に従って行うという当たり前の大原則を、きちんと政権に守らせる勢力の議席を増やすことができるか。あるいは、憲法をないがしろにして、あわよくば明文改憲を実現したいという勢力の議席を増やしてしまうか。
一方に憲法を護ろうという野党4党と市民運動のグループがあり、もう一方に改憲を掲げるアベ自民党とこれに擦り寄る公明・維新・こころの合計4党があります。この「立憲4党+市民」と「壊憲4党」の憲法をめぐる争いでした。おそらくは、この構図がこれからしばらく続くものと思います。
「壊憲4党」の側は徹底して争点を隠し、争点を外し、はぐらしました。それでもなお、客観的にこの選挙は改憲をめぐる選挙であり、選挙結果は壊憲4党に参院の3分の2の議席を与えるものとなりました。これは恐るべき事態と言わねばなりません。
改憲発議の権利は、今やアベ自民とこれに擦り寄る勢力の手中にあることを自覚しなければなりません。到底安閑としておられる状況ではない。憲法は明らかにこれまでとは違った危機のレベルにある、危険水域に達していることを心しなければならないと思います。
では、国民の多くが憲法改正を望んでいるのか。いえ、けっしてそんなことはありません。参院選投票時に何社かのメディアが出口調査をしていますが、その出口調査では有権者の憲法改正についての意見を聞いています。共同通信の調査も、時事通信もNHKも、いずれも「憲法改正の必要がある」という意見は少数なのです。「改憲の必要はない」という意見が多数です。これを9条改憲の是非に絞って意見を聞けば、さらに改憲賛成は少なくなります。「安倍政権下での9条改憲」の是非を聞けば、さらに改憲反対派が改憲賛成派を圧倒するはず。
ですから、明らかに、国民の憲法意識と国会の政党議席分布にはねじれが生じています。大きな隔たりがあると言わなければなりません。にもかかわらず、改憲勢力は今改憲の発議の内容とタイミングを決する権限を手に入れてしまったのです。
今回選挙のこのねじれを生じた原因は、ひとつは改憲派の徹底した争点隠しですが、それだけでなく選挙区制のマジックの問題もあります。改憲派と野党との得票数は、けっして、獲得議席ほどには差は大きくありません。
たとえば、立憲4党は、今回選挙で32ある一人区のすべてで統一候補を立てて改憲派候補と一騎打ちの闘いをしました。その結果、11の選挙区で勝利しました。
青森・岩手・山形・福島・宮城・新潟・長野・山梨・三重・大分そして沖縄です。
他の県は敗れたとはいえ、前回は31の一人区で、自民党は29勝したのですから、これと比較して共闘の成果は大きかったといわねばなりません。それだけでなく、この一人区一騎打ちの票数合計は2000万票でした。その2000万票が、立憲派に900万票、自公の壊憲派に1100万票と振り分けられました。議席だけを見ると11対21ですが、得票数では9対11の僅差。実力差はこんなものというべきなのです。
それでも、議席を争った選挙での負けは負け。長く続いた平和が危うい事態と言わざるを得ません。既に日本は、1954年以来、憲法9条2項の戦力不保持の定めに反して、自衛隊という軍事組織を持つ国になってきています。しかし、長い間、自衛隊は専守防衛のための最小限の実力組織だから戦力に当たらない、だから自衛隊は違憲の存在ではない、と言い続けてきました。
ところが、一昨年(2014年)7月1日アベ政権は、閣議決定で専守防衛路線を投げ捨てました。個別的自衛権だけでなく、集団的自衛権の行使を容認して、憲法上の問題はない、と憲法の解釈を変えたのです。憲法が邪魔なら憲法を変えたい。しかし、改憲手続きのハードルが高いから憲法解釈を変えてしまえというのが、アベ政権のやり方なのです。こうして、集団的自衛権の行使を容認して、自衛隊が海外で戦争をすることができるという戦争法を強行成立させました。
自国が攻撃されてもいないのに、一定の条件があれば海外に派兵された自衛隊が、世界中のどこででも戦争ができるという内容の法律ですから、「戦争法」。日本は、自衛のためでなくても戦争ができる国になってしまいました。この戦争法を廃止することが、喫緊のおおきな政治課題となっています。
今、このように憲法がないがしろにされているこのときにこそ、全力を上げて憲法を守れ、立憲主義を守れ、憲法の内実である、平和と人権と民主主義を守れ、と一層大きく声を上げなければならない事態ではないでしょうか。
本当に、今、声を上げなければ大変なことになりかねません。でも、声を上げれば、もう少しで国会の議席配分を逆転することも可能なのです。このことを訴えて、宣伝活動を終わります。ご静聴ありがとうございました。
(2016年7月12日)