本郷三丁目交差点をご通行中の皆さま、ご近所の皆さま。こちらは地元「本郷・湯島九条の会」の定例の訴えです。しばらくお耳を貸してください。
私たちは、憲法を守ろう、憲法を大切しよう、とりわけ平和を守ろう。絶対に戦争を繰り返してはならない。安倍政権の危険な暴走を食い止めなければならない。そういう思いから、訴えを続けています。
一昨年(2014年)の7月に、安倍内閣はそれまで、集団的自衛権行使は違憲としていた憲法解釈を大きく変えて、一定の制約は設けながらも、集団的自衛権行使を容認する憲法解釈変更の閣議決定をしました。戦後保守政治が自制してきた一線を越える歴史的暴挙と言わなければなりません。内閣法制局長官の首をすげ替えることまでしての荒療治でした。
そして、多くの国民の反対の声を押し切って、昨年(2015年)9月19日、集団的自衛権行使容認を内容とする戦争法を成立させました。これで、自衛隊は、自衛のための実力という域を超えて、他国の要請によって海外で戦争のできる戦力に変質を遂げています。
「安倍内閣は憲法に縛られない」「不都合な憲法条文は、内閣の方で解釈を変えてしまえ」という傲慢な安倍内閣の姿勢が、大きな批判の的になりました。立憲主義を理解せず、憲法をないがしろにする非立憲内閣、ビリケン内閣ではないか、という批判です。
「憲法9条は非軍事の平和主義を定めている」というオーソドックスな憲法理解をする革新勢力だけでなく、「自衛の場合には軍事的な手段も容認される」という専守防衛論の保守派も一緒になって、安倍内閣の危険な暴走に歯止めをかけようとしたのです。
そのため、安倍政権は戦争法を成立させはしましたが、大きな抵抗に遭って、必ずしも思うがままの立法や運用ができる状況ではありません。政権も、あらためて憲法9条の歯止めの効果を認識せざるを得なくなったのです。安倍内閣は、今や解釈改憲の限界を認識して、明文改憲を実行しなければならない。そのように考えています。
安倍内閣の目指すところは、9条改憲です。2012年の自民党改憲草案のとおりに、9条を改正して堂々の国防軍をもちたいのです。しかし、国民世論が憲法の改正を望んでいないことは明らかです。とりわけ、国民の中には、平和を大切にし憲法9条を変えてはならないという強い願いがあります。だから、安倍内閣も容易に改憲には踏み切れません。
そこで安倍内閣は何をたくらんでいるか。改憲策動を隠しながら、国会内で圧倒的な改憲派の議席を掠めとること、これが安倍政権の基本方針です。
選挙の度に、「改憲は争点ではない」、「今回選挙はアベノミクス選挙だ」などといいながら、選挙が終われば「改憲派が各院の3分の2を占めるに至った」「これが主権者国民の意思だ」と言っているのです。これを繰り返せば、圧倒的多数の改憲派議席を獲得することができる。そうすれば、強引にでも憲法改正の発議ができる。あたかも、改憲が民意だと強弁することさえ不可能ではない。
ですから、今、憲法の命運にとって死活的に大切なのは、3分の1の改憲反対派の議席を確保し守り抜くことです。その貴重な議席を積み上げる国政選挙での勝利が日本の明日の平和を守り抜くことになります。
選挙に勝つには、改憲反対勢力の共闘しかありません。とりわけ、衆議院議員総選挙で295の議席を占める小選挙区選挙での野党共闘の成否が重要です。憲法を守ろう、立憲主義を守ろう、戦争法を廃止しよう、という野党勢力と市民の連携で、改憲・壊憲・非立憲の安倍政権を支える与党に勝たなければなりません。各野党個別の闘いでは個別撃破されてしまうことは灯を見るより明らかです。
本日、その大切な選挙が始まりました。お隣豊島区と練馬区からなる衆院東京10区の補選が告示され、鈴木庸介候補が立候補の届け出をしました。この人、「期待の大型新人」と言われています。何しろ身長190cmの大型。民進党の公認ではありますが、共産・生活・社民の3党が推す、野党共同候補でもあります。10月23日の投開票の結果が注目されます。同時に行われる、福岡6区も同様。改憲派陣営は割れ、改憲阻止派が統一候補を擁立している図式です。
鈴木候補は、こう言っています。
「政治の道を志したきっかけは、内戦が終わった直後に訪れたルワンダ国内で見た無数の頭がい骨。私のこぶしぐらいの子どもの頭を見た時、『この子はどんな恐しい思いを、悲しい思いをしたんだろう』と思うと慟哭を抑えることができなかった」「本当に戦争の恐ろしさ知る人間になりたいとの思いから、アフガニスタン、ボスニア、パレスチナを回った」「今、日本の立憲主義は脅かされている。憲法を軽んじる政治家によって、われわれ日本が積み重ねてきた政治・平和が危機に陥っている」「決してこの国を戦争の惨禍に巻き込んではいけない。私たちのちょっとした選択が、一歩間違えれば戦争になってしまう」
この志を貫いてほしいものと思います。
今や、基本的な政治状況は改憲の是非をめぐる対立構造となっています。安倍政治が投げ捨てた立憲主義の政治を取り戻すことができるか否か。憲法を大切にし、政治も行政も憲法に従って行うという当たり前の大原則を、きちんと政権に守らせる勢力の議席を増やすことができるか。それとも、憲法をないがしろにして、あわよくば明文改憲を実現したいという勢力の議席を増やしてしまうか。
一方に憲法を護ろうという野党4党と市民運動のグループがあり、もう一方に改憲を掲げるアベ自民党とこれに擦り寄る公明・維新のグループがあります。この「立憲4党+市民」と「壊憲派」の憲法をめぐる争い。おそらくは、この構図がこれからしばらく続くものと思います。
今、このように憲法がないがしろにされているこのときにこそ、全力を上げて憲法を守れ、立憲主義を守れ、憲法の内実である、平和と人権と民主主義を守れ、と一層大きく声を上げなければならない事態ではないでしょうか。
本当に、今、声を上げなければ大変なことになりかねません。でも、声を上げれば、もう少しで国会の議席配分を逆転することも可能なのです。このことを訴えて、宣伝活動を終わります。ご静聴ありがとうございました。
(2016年10月11日)
DHCスラップ訴訟の勝訴確定に関して、たくさんの方からお祝いメールをいただいた。そのなかには建設的な提言も真摯な問題提起もある。そんな一通である下記のメールでの問に、自分なりに答えてみたい。
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澤藤さん
第80弾のブログで、「『DHCスラップ訴訟を許さないシリーズ』は、まだ続くとあって、その意気軒高ぶりをうれしく思いました。
そこで、澤藤さんに一つ質問してみたいことがあります。
第80弾の最後に、今回の訴訟がもつ4つの意味があげられています。
1.言論の自由にたいする不当な攻撃である。
2.攻撃された言論は、「政治とカネ」にかんする政治的言論である。
3.また、消費者目線の規制緩和批判である。
4.言論萎縮をねらうスラップである。
この相互に関連する4点は、これまでの弁論と報告集会のなかで、たえず確認されてきたことです。
ところで今日、「言論の自由」「表現の自由」は、きわめて錯綜した状況にあるのではないでしょうか。DHC吉田は、澤藤さんのブログを名誉棄損だとして訴えたわけですし、在特会までが自分たちの「言論の自由」を主張しています。ツイッターでの誹謗中傷は日常茶飯事ですし、ヘイトスピーチをめぐる立法や論争もあります。辺野古埋立てにかんする福岡高裁那覇支部の判決もありました。
こうした状況のなかで、人々は、ともすると、強い者の言論が結局は正義としてまかり通ると思いがちです。そんななかで、澤藤さん、言論の正義とは何でしょう?
そして、憲法が保障する「表現の自由」という権利(法権利)は、この正義とどう関係しているのでしょう?
澤藤さんは、一方で、表現の自由の保障は無害な言論を対象とはしていない、と述べています。それが対象とするのは危険な言論、誰かに害を与えかねない言論です。他方で、言論が実際の力関係のなかに置かれていることも認めていらっしゃる。
公権力、経済力、影響力をもつ者は強者であり、それらをもたない民は弱者であって、力関係によって結びつけられている弱者から強者への批判の言論こそが、自由を保障されねばならない(なぜなら、それはいつも脅かされているからだ)。
したがって、言論の正義とは、踏みつけにされている者の正義、口を塞がれ、言わずにはおれない者の正義ということになるのでしょうか?
2012年都知事選での大河さんの随行員解任事件から、澤藤さんの運営委員解任事件を経て、DHCスラップに至るまで、僕たちは、同じ事件、同じテーマに出会い続けてきたような気がします。
僕がいまだにその答えを正確に見つけることができないでいる、言論の正義とは何か?澤藤さんは、どうお考えですか?
読者D・K
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拙いブログを、丁寧にお読みいただいていることに感謝いたします。
D・Kさんは、「言論の正義とは何か」という形で問を発しています。「人々は、ともすると、強い者の言論が結局は正義としてまかり通ると思いがちです。そんななかで、言論の正義とは何でしょう?」
D・Kさんのいう「言論の正義」には、言論内容には正義と非正義があって、その分類には客観的な基準があるはずだ、という前提がおかれているのだと思います。けっして、すべての言論が「表現の自由」の名の下に、内容の如何を問わず平等に尊重されるべきなどとはいえない。その主張に基本的に賛意を表します。
「誰のどのような言論も自由」と言ってしまうと、DHC吉田にも、在特会にもネトウヨ・ツイッターでの誹謗中傷も、「言論の自由」があって許容されるということになります。しかし、DHC・吉田の言論とは批判者を恫喝して黙らせようというスラップ、在特会の言論とは露骨な民族差別のヘイトスピーチ、そして匿名性に隠れてのネトウヨ・ツイッターでの薄汚い誹謗中傷。彼らのそんな言論に「言論の自由」を語る資格はなく、正義などカケラもないではないか、というご指摘と思います。
そして、辺野古埋立てにかんする福岡高裁那覇支部の判決も、その内容はけっして「正義」として尊重すべきものではない。アベ政権の壊憲論・壊憲論も同様だと思います。
これらの言論がなべて「言論の自由」として相対化されて同じ土俵に乗ってしまうと、あろうことか、結局は「強い者」「権威ある者」の言論が「正義」を乗っ取ってしまうことになってはいまいか。そのことに対するD・Kさんの苛立ちがあるのだと思います。
そのD・Kさんの思いが、「憲法が保障する『表現の自由』という権利(法権利)は、この正義とどう関係しているのでしょう?」という問になっています。多分、「表現の自由などというものは、この現実社会の中で美しい見掛けだけのもの。内実のない嘘っぱちではないのか」「あれもこれも自由と許容してしまうと、行き着くところは、声の大きな強者の言論が正義となってしまう現実があるではないか」という批判が込められているように思われます。
さらに問われているのは、「言論の自由という美名をもってしても正当化されない非正義の言論」というカテゴリーがあることを確認して、いったい言論の正義と非正義を分かつ基準はどこにあるのか、どう分類すべきかということ。
おそらく、そのご指摘は、「言論の自由の正義」を越えて、「正義とは何か」という根本的な問いかけなのだと思われます。
2012年と14年の都知事選において宇都宮陣営がしでかしたことの非正義ぶりについては、既に私のブログ(「宇都宮君立候補をおやめなさい」シリーズ)で徹底して論及しましたから繰り返しません。確認しておくべきは、ここにも小さな部分社会の中での小さな権力者たち(宇都宮健児・上原公子・熊谷伸一郎ら)に、あれこれの名目では糊塗し得ない非正義の言動があったということです。
正義と非正義を分けるものは何か。いくつかの試論が可能かと思います。私は、この社会におけるすべての個人がその尊厳を平等に尊重されるべきことを公理とし、この公理を出発点としてすべての立論を組み立てたいと思っています。個人の尊厳を尊重するとは、生命・身体の安全、精神活動の自由、経済生活における豊かさを増進することを意味します。その個人の尊厳の平等を実現する方向のベクトルをもつ言動は正義、不平等化の方向のベクトルをもつものは不正義、と言ってよいのでないでしょうか。
私のこの物差しは、まず差別を助長する一切の言動を不正義と弾劾するものです。優生思想、民族差別、男女差別、血筋や家柄による差別、障がい者差別、経済格差の助長…。ヘイトスピーチも、その反対に特定の血筋や家柄をありがたがる言動も正義ではありません。
また、当然に人権を侵害する言論も不正義となります。DHC・吉田のスラップは、言論の自由という個人の精神的活動の人権を侵害する言動として、また多くの人の消費生活上の利益を侵害する言動として、また多くの市民の権利擁護の合理的なシステムとしての民事訴訟制度を悪用する言動として、非正義であるというべきでしょう。
問題が大きすぎて回答は雑駁に過ぎますが、せっかくのご指摘また考えてみたいと思います。いったい何が社会的な正義か。法の正義はどうとらえるべきか。そもそも、正義という用語での問題の建て方が有効なのか。正義の言葉で本当は何を語っているのか…。
(2016年10月10日)
DHCスラップ訴訟の「勝訴確定おめでとうメール」の中には、「さあ、反撃ですね」「損害賠償請求はいつ出しますか」「次はS63年判例への挑戦ですね」などというものが少なくない。私は、DHC・吉田への反撃を期待されているのだ。もしかしたら、挑発されているのかも知れない。
スラップ訴訟の被告は、訴訟に勝って原告の請求を斥けただけでは被害を回復できたことにはならない。恫喝目的の高額提訴自体が被告に精神的苦痛をもたらす。応訴には弁護士費用もかかり、手間暇を要することになる。本来の業務にも差し支えが生じる。これらの損害を回復するためには、スラップを提起した原告やその補助者(たとえば代理人弁護士)に損害賠償請求訴訟の提起が必要なのだ。
「反撃」とは、この損害賠償請求訴訟の提起をさしている。そして、「S63年判例」とは、提訴が違法となる要件についてのリーディングケースとされている1988(昭和63)年1月26日最高裁(第三小法廷)判決を指している。
違法な行為(あるいは過失)によって他人に損害を与えれば、その損害を賠償しなければならない。はたして、スラップの訴訟提起が違法といえるのか。スラップは形のうえでは民事上の訴権の行使としてなされる。敗訴となる訴の提起がみな違法となるわけではないのは当然のこと。DHC・吉田側は憲法32条(裁判を受ける権利)を援用して「勝訴・敗訴の結果にかかわらず、提訴自体が違法となることはない」と防戦することになる。しかし、言論封殺目的でのスラップが許されてよかろうはずはない。
このことについてのリーディングケースとされている最判(最高裁判決)が「63年判例」である。注意すべきは、これがスラップについての事案ではないことだ。スラップについては「63年判例」を修正して考えなければならない。
このことについての検討を、DHCスラップ訴訟の被告弁護団で活躍した小園恵介弁護士が、「法学セミナー10月号」のスラップ訴訟特集に「昭和63年判例の再検討」と題して寄稿している。
私は、この「法学セミナー10月号」を多くの人に購読してお読みいただきたいと願っている。これで3度目となるが、宣伝させていただく。定価は税込1512円(本体価格 1400円)、お申し込みは下記URLから。
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63年判例の事案の内容は以下のとおりである。
本件には、先行する前訴がある。
前訴は、原告Yが被告Xに対してした損害賠償請求。土地売買に際して測量を行ったXの測量結果に誤りがあったためYに損害が生じたとするもの。結果は原告Yの敗訴となった。
その訴訟に続いて攻守ところを変え、今度は原告Xが被告Yを提訴した。Yの前訴提起が不法行為に当たるとして損害賠償を求めるという事案。
最高裁は、概ね次のとおり判示して、Xの請求を棄却した。(小園論文を引用)
「民事訴訟を提起した者が敗訴の確定判決を受けた場合において、右訴えの提起が相手方に対する違法な行為といえるのは、(?)当該訴訟において提訴者の主張した権利又は法律関係(以下「権利等」という。)が事実的、法律的根拠を欠くものであるうえ、(?)提訴者が、そのことを知りながら又は通常人であれば容易にそのことを知りえたといえるのにあえて訴えを提起したなど、訴えの提起が裁判制度の趣旨目的に照らして著しく相当性を欠くと認められるときに限られるものと解するのが相当である。けだし、訴えを提起する際に、提訴者において、自己の主張しようとする権利等の事実的、法律的根拠につき、高度の調査、検討が要請されるものと解するならば、裁判制度の自由な利用が著しく阻害される結果となり妥当でないからである。」
つまり、こう言うわけだ。
提訴者には憲法32条の後ろ盾がある。だから、軽々には提訴自体を違法とはいえない。しかし、提訴が「訴えの提起が裁判制度の趣旨目的に照らして著しく相当性を欠くと認められるとき」には違法となる。もっとも、違法はその場合に限られる。
具体的には、次の2要件があれば、違法となる。
?(客観要件)当該訴訟において提訴者の主張した権利等が事実的、法律的根拠を欠くこと
?(主観要件)提訴者が、そのことを知りながら提訴した、または通常人であれば容易にそのことを知りえたといえるのにあえて訴えを提起したこと
この要件は高いハードルではあるが、ラクダが針の穴を通るほどに難しいものではない。この2要件を使う形で、スラップ訴訟でもいくつかの反訴認容判決が出ている。私が、筆頭代理人を務めた「武富士の闇」スラップ訴訟判決(4被告による反訴で各120万円、計480万円の認容)がその典型であろう。なお、この事件の顛末についても、被告とされた新里宏二弁護士が「法学セミナー10月号」の特集に寄稿している。
しかし、留意すべきは、「63年判例」がスラップに関するものではないことである。違法を問われる提訴が、表現の自由を攻撃するものである場合には、「63年判例」は修正を余儀なくされるはず。なぜなら、「正当な表現活動を、裁判制度を利用して抑圧しようとすることは、まさに『訴えの提起が裁判制度の趣旨目的に照らして著しく相当性を欠く』ものにほかならない」からだ。これが小園論文のエキスである。
これを敷衍して、小園論文は次のようにも述べられている。
「スラップ訴訟の対象とされるような批判的言論は、その多くが公共的な問題を社会に訴えかけるものであり、まさに国民の意思決定を支える礎といえる。批判的言論には、特に手厚い保障が与えられなければならない。したがって、スラップ訴訟のように批判的言論を対象とした訴訟の提起の違法性を検討するに当たっては、原告側の裁判を受ける権利と被告側の応訴負担だけで利益調整をしたのでは足りない。天秤の被告側に、表現の自由の保障という考慮要素が乗せられなければならないのである。」
まったくそのとおりではないか。
ラクダが針の穴を通るほどではないにしても、この要件は相当に高いハードルではある。ことスラップの場合に限っては、もっとこのハードルを下げなければならない。それが、憲法21条を死活的に重要な基本権とする憲法が要求するところなのだ。この基本的な考えに基づいて、小園論文は、「63年判例」枠組みについての具体的な修正案を複数例提示して興味深い。
違法な提訴の責任主体を訴訟代理人弁護士まで含めることは、スラップ訴訟に大きな抑制効果をもつものとなるが、小園論文はその場合に必要な共同不法行為論にまでは言及していない。
なお、小園論文はスラップ提訴の損害論に及んでおり、これも興味深い。
前述の「武富士の闇」スラップ訴訟反訴の認容額は反訴原告一人が120万円だった。内訳は、100万円の慰謝料と20万円の弁護士費用である。これは、少額に過ぎる。とりわけ、問題にすべきは弁護士費用の額である。
20万円の弁護士費用額は、反訴の認容額を基準とする金額とした場合には妥当だろうが、違法提訴への応訴のための弁護士費用としては全く不十分である。
小園論文は、「原告の設定した請求額によって被告の弁護士費用が決まるのであるから、原告の請求額を基準として弁護士会の旧報酬会規により算出される金額を、被告の(応訴に必要な弁護士費用として)損害と認定すべきである」という。これも、まったくそのとおりだ。
その上で、算定の具体例を挙げている。
「請求額が2000万円なら、『327万円+消費税』である」と。
請求額6000万円の場合の算定はないが、計算してみると747万円である。消費税込みだと800万円を越す。これが、認容さるべき弁護士費用なのだ。
私がDHC・吉田を提訴するとなれば、慰謝料よりも、彼が設定した高額請求訴訟の応訴弁護士費用の損害額が大きくなる。こうすることが定着すれば、スラップの提起は安易にできなくなるだろう。とりわけ過大な高額請求事案は減るに違いない。
(2016年10月9日)
DHCスラップ訴訟の勝訴確定に関して、たくさんの方からお祝いメールをいただいた。そのなかには、「DHC・吉田嘉明のごときスラップ常習者の濫訴を、どうしたら防止できるか」と問題提起をされる方が少なくない。カネに飽かしての言論萎縮を目的とした濫訴をどうしたら防止できるかという問である。
これに対する回答は容易ではない。社会的制裁、現行の名誉毀損訴訟実務の枠組み変更、スラップ防止の立法策、各分野での研究者への問題提起等々の多様なアプローチが考えられるが、体験者の実感からは、「スラップに成功体験をさせてはならない」努力の積み重ねがスラップ対策の基本であると思う。
スラップに成功体験をさせないとは、まずはスラップ原告に勝訴させてはならないことだ。それだけではなく、スラップが目的とする言論萎縮を成功させてもならない。さらに、スラップに対する制裁を考えなければならない。法的にはスラップの提訴自体を不法行為とする損害賠償請求があり、社会的にはスラップを批判する言論が巻きおこり、スラップ提起者の社会的イメージに傷がつかなければならない。原告が企業であれば、ブランドイメージのダメージとならねばならない。
とりあえず、訴訟の帰趨に問題を絞れば、名誉毀損訴訟における現行の訴訟実務の枠組みをどうにかしなければならない。現行の訴訟の枠組みでは、スラップを提起された被告の負担はあまりに重い。これが憲法21条を持つ国の訴訟実務かと、嘆かずにはおられない。
この過重な負担をなくして被告を早期に訴訟から解放させること、つまりは原告を敗訴させてスラップの効果を減殺することが、スラップ提起を抑止する何よりの効果を発揮する。そのための名誉毀損訴訟における判断枠組みの変更が求められている。目標とすべきは、古くからアメリカの訴訟実務に定着している「現実的悪意の法理」を我が国の訴訟実務にも取り入れることだ。
この法理は、公人・私人二分論を前提として、公人(公的立場にある人物、公務員や政治家に限らない)に関する名誉毀損の言論が違法となるのは、論者に「現実的悪意」(actual malice=当該言論が虚偽であることについての悪意又は重過失)あることを要するというもの。そのベースには、表現の自由を民主主義の根幹をなす優越的な価値とする認識がある。
公人・私人二分論は、判決文に明示されるかどうかはともかく、日本の法律実務においても既に説得力をもつものとなっている。DHCスラップ訴訟においても、吉田嘉明の公的立場を強調して主張している。
私とて、憲法21条万能論を主張するものではない。心ない言論に傷つけられる、弱い立場の人権には十分な保護が必要だと思う。公人と私人との分類は、強者と弱者にオーバーラップする。公人(≒強者)には、「言論には対抗言論で」という自力救済を求め原則として法的救済を否定する。対抗言論を期待し得ない私人(≒弱者)には法的救済を認める。この二分論が、説得力のあるものだと思う。
現行の違法性阻却3要件(公共性、公益目的、真実(相当)性)を被告に負担させるという被告に過重な訴訟実務は、原告が公人(あるいは公的人物)である場合には顧慮無用というべきなのだ。
DHCスラップ訴訟に例をとれば、被告は原告吉田嘉明が公的人物であること、あるいは指摘された名誉毀損言論が公共の事項にかかるものであることを立証すればよいことになる。そうすれば、原告吉田嘉明側が、被告に「現実的悪意」(actual malice=当該言論が虚偽であることについての論者の悪意または重過失)あることを立証しない限り請求棄却となる。平易に表現すれば、私が私のブログの表現を虚偽であると認識していたか、虚偽と認識ないことに重過失がない限り、間違った言論であっても私の言論は保護されるのだ。公的立場にある吉田は、仮に間違った言論に対しても、訴訟で勝つことはできない。
スラップで原告となるのは公人(公的立場にある人物)なのだから、この枠組みの採用はスラップ対策として極めて有効となる。これで不都合ということはない。公人(≒強者)は対抗言論をもって自分の正当性を明らかに出来るのだから。また、二分論は私人(≒弱者)の「報道被害」救済についても配慮しているのだから、採用されやすいのだと思う。
なお、日本評論社の「法学セミナー」2016年10月号の特集「スラップ訴訟」が問題意識をよくとらえた特集になっている。
「日本においてようやく認知され始めたスラップの定義、実態、弊害を整理して紹介し、アメリカの反スラップ法を参考に日本における抑止・救済策を整理し、今後の議論を展望する。」という惹句。是非ご一読を。
https://www.nippyo.co.jp/shop/magazines/latest/2.html
(2016年10月8日)
下記は、「DHCスラップ訴訟」の上告受理申立書に添付された吉田嘉明作成の「見解」である。スラップ訴訟に関する彼の考え方が述べられたもの。その全文をご紹介し、これに反論しておきたい。
スラップ訴訟云々に関して
共同通信の斉藤友彦氏や朝日新聞の干葉雄高氏より、小生とDHCが提訴している澤藤被告がブログや記者会見でスラップ訴訟云々と主張している件に関して見解を伺いたいとのことなので、取材に応じる代わりに本紙面で私の見解を述べることにいたします。
そもそも私が渡辺元議員を支援したのは当時官僚改革に最も真摯に取り組んでいた彼の姿を見て陰から支えてあげたいと思ったからであり、それ以外の何もありません。私は官僚改革こそが日本再生の必須の課題であると今も思っています。澤藤被告が「吉田嘉明が自分の儲けのために、尻尾を振ってくる矜持のない政治家を金で買った」とか「大金持ちが更なる利潤を追求するために、行政の規制緩和を求めて政治家に金を出した」とか、その他諸々の悪口雑言をインターネットに並べ立て小生を悪罵していたために提訴したわけですが、そのどこがスラップ訴訟なのでしょうか。事実無根の、全く根拠のない嘘でたらめを、しかも悪意を持って世間に広言されたら誰もが怒りに震えるのは当然のことでしょう。渡辺氏のことを矜持のない政治家だと贅言していますが、無名の弁護士が売名のために騒ぎまくっている行為こそが矜持のない醜態だといえるのではないでしょうか。渡辺氏は検察の最終判断ですべてが不起訴となり、一連の騒動はすべて終了しました。今は浪人中ですが依然として国が必要とする類い稀な政治家であることに変わりはありません。それを虚名の三百代言ごときに矜持がないなどとは言われたくはありません。格が違います。「行政の規制緩和を求めて政治家に金を出した」などと妄言していますが、小生がただの一度でも当時の渡辺議員に行政への橋渡しを依頼したことがあるのか、直接渡辺氏なり、厚労省の担当官に尋ねてみればわかることです。澤藤被告は訴訟の書面やブログで、この裁判は、裁判の勝敗よりも相手を萎縮させ、言論を封じることを目的としたスラップ訴訟であり、訴権を乱用していると主張しています。
渡辺騒動の後、澤藤被告始め数十名の反日の徒より、小生および会社に対する事実無根の誹膀中傷をインターネットに書き散らかされました。当社の顧問弁護士等とともに、どのケースなら確実に勝訴の見込みがあるかを慎重に熟慮検討した上で、特に悪辣な十件ほどを選んで提訴したものです。専門の顧問弁護士が確実に勝てると思って行ったことです。やみくもに誰もかもともと提訴したわけではありません。それに提訴後、澤藤被告の言論を封じたどころか、彼は連日のごとく悪口雑言をブログに書きまくっているではありませんか。全く萎縮などしていません。
そもそもスラップ訴訟の意味すら分かっていません。拡大解釈も甚だしい。SLAPP とはStrategic Lawsuit Against Public Participationの略で「社会参加を邪魔するための戦略的訴訟」ということですが、今回の訴訟のどこが被告の社会参加を邪魔しているのか、どこが戦略的なのか笑ってしまいます。
名誉棄損の裁判を起こすのは驚くほどの金銭を要し、普通の人はお金のことを考えただけで身を引いてしまいます。泣き寝入りをしている人がほとんどです。メディアはスラップ訴訟を云々するより、むしろ、善良な人たちの泣き寝入りをいいことに嘘、悪口の言いたい放題が許されている現状こそ問題にすべきです。インターネットの醜さはどうでしょうか。人間生活を完全に壊しています。朝日新聞は何十年にもわたって嘘を書き続け、世界に向かって日本及び日本人を貶めたことをお忘れでしょうか。共同通信も最近では朝日に劣らず反日メディアなのではと危惧され始めています。どこの国の人かわからないような似非日本人が跳梁跋扈している世の中、そして嘘、悪口の言いたい放題が許されている世の中には私は断固反対します。嘘つきは信用できません。
平成28年2月21日
株式会社DHC 代表取締役会長・CEO吉田嘉明
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スラップ訴訟云々に関して
共同通信の斉藤友彦氏や朝日新聞の干葉雄高氏より、小生とDHCが提訴している澤藤被告がブログや記者会見でスラップ訴訟云々と主張している件に関して見解を伺いたいとのことなので、取材に応じる代わりに本紙面で私の見解を述べることにいたします。
私(澤藤)は、吉田嘉明とDHCの私に対する高額損害賠償請求訴訟を典型的なスラップ訴訟と位置づけ、この訴訟に「DHCスラップ訴訟」と固有名詞を冠した。DHCスラップ訴訟は、当初は市民運動や心あるジャーナリストだけの注目するところだったが、ようやく共同通信や朝日新聞が取材するようになった。法学セミナーの10月号にも特集となった。その他にも、寄稿や講演の依頼が少なくない。今や、DHCとスラップ、スラップとDHCは、切っても切れない仲となった。スラップには薄汚いイメージがつきまとう。当然にその薄汚いイメージはDHC・吉田のイメージとして拭いがたく定着している。このことは、自らスラップを提起したDHC・吉田の自業自得であり、身から出た錆というべきものなのだ。
そもそも私が渡辺元議員を支援したのは当時官僚改革に最も真摯に取り組んでいた彼の姿を見て陰から支えてあげたいと思ったからであり、それ以外の何もありません。
政治家の支え方にはいろいろある。労力を提供すること、知恵を貸すこと、人脈を紹介すること…。カネを出すこともそのひとつだが、カネを出す場合には、政治資金規正法に則った透明性が要求される。もちろん、金額の上限もある。政治がカネの力で壟断されてはならないからだ。
吉田は、渡辺を「陰から支えて」「巨額のカネを提供した」のだ。「政治家を陰から支えるための巨額のカネ」を、日本語では「裏金」という。本来政治資金の動きは透明でなくてはならない。この透明性を欠いた「裏金」には、薄汚い思惑が秘められていることが常識である。私のブログは、DHC・吉田の薄汚い思惑について、合理的で常識的な推認にもとづく意見ないし論評として記事にした。判決はこれを表現の自由の範疇にあるものと認めた。当然のことだ。
私は官僚改革こそが日本再生の必須の課題であると今も思っています。澤藤被告が「吉田嘉明が自分の儲けのために、尻尾を振ってくる矜持のない政治家を金で買った」とか「大金持ちが更なる利潤を追求するために、行政の規制緩和を求めて政治家に金を出した」とか、その他諸々の悪口雑言をインターネットに並べ立て小生を悪罵していたために提訴したわけですが、そのどこがスラップ訴訟なのでしょうか。事実無根の、全く根拠のない嘘でたらめを、しかも悪意を持って世間に広言されたら誰もが怒りに震えるのは当然のことでしょう。
「吉田嘉明が自分の儲けのために、尻尾を振ってくる矜持のない政治家を金で買った」とか「大金持ちが更なる利潤を追求するために、行政の規制緩和を求めて政治家に金を出した」は、合理的で常識的な推論なのだ。「事実無根の、全く根拠のない嘘でたらめ」ではない。私のブログの記事は、もっぱら吉田が週刊新潮に自ら書いたとされる「手記」を根拠にし、これに基づいてのものである。その標題を確認しておこう。「借金8億円を裏金にして隠した『みんなの党』代表への実名告発」「さらば器量なき政治家『渡辺喜美』代議士」「DHC吉田嘉明会長独占手記」というのだ。
吉田は、自らの手記の内容を事実無根と言うのだろうか。その手記の中には、自らが経営する事業に対する厚労省の行政規制に不満が述べられ、「厚労省の規制チェックは…特別煩わしく、何やかやと縛りをかけて来ます」と言い、「私から見れば、厚労省に限らず、官僚たちが手を出すほど、日本の産業はおかしくなっている」「霞ヶ関、官僚機構の打破こそが今の日本に求められている政治家」と語られている。一般常識を持つ人ならば、誰もが、吉田の裏金提供の意図を、規制緩和による利潤拡大と推認するだろう。私はこのことを厳しく表現した。けっして、「事実無根」でも、「全く根拠のない嘘でたらめ」でもない。仮に吉田が、怒りに震えたにしても、自らの行為と、週刊誌に手記を発表した己の不明を恥じるべきで、私を怨む筋合いではない。
「どこがスラップ訴訟なのでしょうか」に答えよう。
まずは、私の言論は客観的に違法性のない真っ当な言論である。言論の自由の保障が与えられることが明々白々な言論にほかならない。この私の言論を違法として提訴すること自体が、自らを批判する言論を嫌忌し、これを恫喝して萎縮せしめようというスラップにほかならない。
主観的には違法と考えていたという言い訳は通じない。その言い訳は、言論の自由を尊重しない体質を露呈しているだけである。
何よりも、高額請求がスラップの性格をよく反映している。本件で損害賠償が認められる余地はさらさらないと言うべきだが、法や判例に疎い者が原告になって、勝訴の見通しを誤認したとしても、100万円以上の慰謝料請求はリアリテイを欠く。当初2000万円、さらには6000万円の法外な請求額は、言論萎縮を狙った恫喝目的訴訟以外のなにものでもない。
さらに、DHC・吉田には前科がある。争議中の労組ホームページの記事を、会社に対する名誉毀損だとして5000万円を請求して全面敗訴(東京地裁・2005年11月1日判決)の前科である。これも、典型的なスラップ。
また、私を含め、類似案件としてほぼ同時に10件の提訴をしていることも、その批判言論嫌忌の体質を物語っている。ここまで来れば、スラップ常連と言って差し支えない。
吉田嘉明が自分を批判する言論を気に食わないとすれば、本来は言論をもって反論すればよいことなのだ。対抗言論の発信力あるものは言論による反批判をすればよい。敢えて、高額請求訴訟におよぶのは、恫喝の意図を推認させるものである。
渡辺氏のことを矜持のない政治家だと贅言していますが、無名の弁護士が売名のために騒ぎまくっている行為こそが矜持のない醜態だといえるのではないでしょうか。
「贅言」は日本語の使い方の間違い。「売名のために騒ぎまくっている無名の弁護士」「虚名の三百代言ごとき」とはいずれも私のことを指すようだ、これは明らかに侮辱に当たる。しかも、違法性を阻却する文脈にない。3年の時効期間経過までに折あれば問題にしたいが、今のところは勝者の余裕をもって寛容の大度を見せておこう。
「行政の規制緩和を求めて政治家に金を出した」などと妄言していますが、小生がただの一度でも当時の渡辺議員に行政への橋渡しを依頼したことがあるのか、直接渡辺氏なり、厚労省の担当官に尋ねてみればわかることです。
こうなると、相手にするのも愚かしい、驚かざるを得ないレベル。子どもの喧嘩の類の論法。私が、繰りかえし「合理的推論」と言っている意味がお分かりでないよう。「あなたは涜職に関する罪を犯しましたか」と尋ねてみて、いったい何がわかると言うのだろうか。
澤藤被告は訴訟の書面やブログで、この裁判は、裁判の勝敗よりも相手を萎縮させ、言論を封じることを目的としたスラップ訴訟であり、訴権を乱用していると主張しています。渡辺騒動の後、澤藤被告始め数十名の反日の徒より、小生および会社に対する事実無根の誹膀中傷をインターネットに書き散らかされました。
「渡辺騒動」で吉田嘉明を批判したのは、私だけでなく、「数十名の反日の徒」だったという。私が特異な意見を発信したのではなく、吉田が認識しただけでも「数十名」あった批判者の内の一人に過ぎなかったということではないか。
なお、この文書の中に「反日」が複数回出てくる。私や朝日・共同に対する悪口として、である。これは特定の立場の人びとだけが使う言葉。吉田嘉明はそういう立場なのかと思わせる。
当社の顧問弁護士等とともに、どのケースなら確実に勝訴の見込みがあるかを慎重に熟慮検討した上で、特に悪辣な十件ほどを選んで提訴したものです。専門の顧問弁護士が確実に勝てると思って行ったことです。やみくもに誰も彼もと提訴したわけではありません。
こんなことはなんの言い訳にもならない。代理人の不見識や能力不足あるいは過誤は、対外的には依頼者本人が引き受けなければならない。しかも、名誉毀損とされた私のブログの掲載日(2014年4月8日)から、提訴(4月16日)までの期間がわずか8日である。到底慎重で真摯な検討がなされたとは考えられない。ともかくも早期提訴による萎縮効果を狙ったものと考えざるをえない。
それに提訴後、澤藤被告の言論を封じたどころか、彼は連日のごとく悪口雑言をブログに書きまくっているではありませんか。全く萎縮などしていません。
これは、私に対する褒め言葉として承っておこう。当てが外れたのだ。自分の物差しで人をはかって、見損なったということだ。DHCが同時期に起こした10件のスラップ訴訟で、私以外は萎縮させた。10件の被告以外の多くの人に、DHC・吉田を批判すると面倒になる、と思わせたではないか。それが、スラップの狙いであり効果なのだ。
そもそもスラップ訴訟の意味すら分かっていません。拡大解釈も甚だしい。SLAPP とはStrategic Lawsuit Against Public Participationの略で「社会参加を邪魔するための戦略的訴訟」ということですが、今回の訴訟のどこが被告の社会参加を邪魔しているのか、どこが戦略的なのか笑ってしまいます。
こちらこそ嗤ってしまう。誰からこんなことを吹き込まれたのだろうか。DHC・吉田は、10件の高額請求訴訟(最低2000万円、最高2億円)の提訴をもって、民主々義社会の土台をなす自由な言論という Public Participationを害したのだ。被害に遭遇したのは、被告になった者にとどまらない。被告以外にも威嚇効果が及んでいる。民主々義に実害が及んでいることを知らねばならない。
名誉棄損の裁判を起こすのは驚くほどの金銭を要し、普通の人はお金のことを考えただけで身を引いてしまいます。泣き寝入りをしている人がほとんどです。メディアはスラップ訴訟を云々するより、むしろ、善良な人たちの泣き寝入りをいいことに嘘、悪口の言いたい放題が許されている現状こそ問題にすべきです。
「名誉棄損の裁判を起こすのは驚くほどの金銭を要し、普通の人はお金のことを考えただけで身を引いてしまいます。」には、いうべき言葉を見つけがたい。開いた口が塞がらないとでも言うべきだろうか。
また、「泣き寝入りをしている人がほとんどです」以下には、意図的なすりかえがある。匿名に身を隠したネトウヨの暴力的な名誉毀損記事に人権を侵害されている善良な人びとは数多い。不用意なメディアの誤報に怒りながらも泣き寝入りを強いられている人も少なくない。しかし、DHC・吉田が、このような人びととことさらに自分を同じ立場に見せようというのは、卑怯きわまる。まったく立場が違うのだ。
人の名誉を傷つける言論の許容度を考えるに際しては、誰を対象とする言論であるかで、二分することを要する。この社会の一握りの強者と、それ以外の市井の市民とである。強者とは、権力や権威をもつ者あるいは企業や財界など経済的な強者をさす。この強者に対しては、批判の言論が最大限に許容されなければならない。一方、市井の市民にはその人格権としての名誉やプライバシーの保護が尊重されなければならない。
吉田嘉明は、経済的強者であり、健康に関わる消費材生産の大企業主であり、何よりも自分の眼鏡にかなった政治家に巨額のカネを提供して政治に関わろうとした人物である。批判を甘受すべき立場にあることを自覚しなければならないのだ。
インターネットの醜さはどうでしょうか。人間生活を完全に壊しています。
文頭に「ネトウヨの」と付ければ、まったく同感。
朝日新聞は何十年にもわたって嘘を書き続け、世界に向かって日本及び日本人を貶めたことをお忘れでしょうか。共同通信も最近では朝日に劣らず反日メディアなのではと危惧され始めています。どこの国の人かわからないような似非日本人が跳梁跋扈している世の中、そして嘘、悪口の言いたい放題が許されている世の中には私は断固反対します。嘘つきは信用できません。
突然に朝日と共同通信攻撃。文脈混乱で論理も混乱だが、吉田嘉明の思想的立場だけは、しっかりとよく分かる。
以上のとおり、吉田嘉明の「弁明」はまったく無力なもので、スラップ訴訟の表現の自由に対する侵害は到底看過し得ないのだ。
(2016年10月7日)
私自身が被告とされたDHCスラップ訴訟。吉田嘉明とDHCは、私のブログ記事を名誉毀損として、勝ち目のないスラップ訴訟を提起した。一審(東京地裁)、二審(東京高裁)と敗訴を重ねて常識的にはこれで終わりのはずが、いやがらせの上告受理申立におよんだ。ラクダが針の穴を通るほどに困難だということを知りながらのこと。
10月4日(一昨日)付で、最高裁第三小法廷は、DHCと吉田嘉明両名による上告受理申立に対する不受理を決定し、その旨を通知した。所詮ラクダが針の穴を通ることはできなかったということだ。
決定書は、以下のとおりの無味乾燥な定型文書。これが全文である。不受理の理由は、「三くだり半」にもおよばない、わずかに42字。
吉田嘉明は「名誉毀損の裁判を起こすのは驚くほどの金銭を要し、普通の人はお金のことを考えただけで身を引いてしまいます」と述べている。「普通の人」には到底できない、「驚くほどの金銭」として、41万2000円の印紙を貼り、「山田昭ほか」の弁護士に弁護士費用を支払って、最高裁に勝ち目のない上告受理の申立をしたのだ。その「驚くほどの金銭」をかけた結果として、彼が手にしたものがこの一枚の不受理決定である。
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事件の表示 平成28年(受)第834号
決定日平成28年10月4日
裁判所最高裁判所第三小法廷
裁判長裁判官 山崎敏充
裁判官 岡部喜代子
裁判官 大谷剛彦
裁判官 大橋正春
裁判官 木内道祥
当事者目録
申立人 吉田嘉明
申立人 株式会社ディーエイチシー
同代表者代表取締役 吉田嘉明
上記両名訴訟代理人弁護士 山田昭ほか
相手方 澤藤統一郎
同訴訟代理人弁護士 光前幸一ほか
原判決の表示 東京高等裁判所平成27年(ネ)第5147号(平成28年1月28日判決)
裁判官全員一致の意見で,次のとおり決定。
第1 主文
1 本件を上告審として受理しない。
2 申立費用は申立人らの負担とする。
第2 理由
本件申立ての理由によれば,本件は,民訴法318条1項により受理すべきものとは認められない。
平成28年10月4日
最高裁判所第三小法廷
裁判所書記官 千石靖之?
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☆この不受理決定で、吉田嘉明とDHCの敗訴が確定し、私(澤藤)の勝訴が確定した。光前幸一弁護士を筆頭とする136名の弁護団の皆さま、一審以来法廷に駆けつけていただきご支援をいただいた多くの皆さまに感謝いたします。
とりわけ、法廷後の集会で、貴重な講演や報告をいただいた、右崎正博、田島泰彦、内藤光博の各教授。北健一、三宅勝久、烏賀陽弘道の各ジャーナリストの皆さま。そして、労働組合ネットワークユニオン東京DHC分会の皆さま。さらに、山口広、茨木茂、今瞭美、新里宏二さんら、スラップ訴訟体験先輩弁護士の皆さまの具体的なご支援とご協力に厚く御礼申しあげます。
☆10月4日は、私にとっての「勝訴記念日」となりましたが、「勝利」したのは私ばかりではありません。この社会に不可欠な表現の自由にとっての勝利の日でもあります。
私の言論は、その内容において政治とカネをテーマとする典型的な政治的言論であり、強者の横暴を批判する言論であり、消費者の利益を擁護する言論であり、社会的規制を無用とする乱暴な行政規制緩和論を批判する言論であり、かつ民事訴訟を強者の横暴のために濫用してはならないとする言論にほかなりません。憲法21条は、まさしく私の言論を擁護しなければなりません。
私の5本のブログの中に、原告(DHC・吉田)は16個所の「名誉毀損」個所があると指摘しました。一審判決はこう言っています。「原告指摘の16個所の内の15個所の記事は、確かに原告の社会的評価を低下せしめ名誉を毀損している」「しかし、その記事のすべては、真実とされる事実を前提とし、その前提とする事実との論理的関連性があると認められる意見ないし論評である」「しかも、その意見ないし論評は、公共の利害に関する事実にかかるもので、もっぱら公益を目的としたものである」「したがって、原告の名誉を毀損するが違法性を阻却する」と。
表現の自由とは、誰をも傷つけない言論の保障ではありません。無害な言論なら保障の意味はない。私のブログの表現は、確かにDHC・吉田を攻撃して打撃を与えてはいますが、その言論も憲法21条が保障するところだということなのです。公権力を持つもの、公権力に関わろうとする者、社会的な影響力を持つ強者が市民の側からの批判の言論を甘受すべきは当然のことなのです。
とりわけ吉田嘉明は、厚生行政・消費者行政の規制に服する大企業経営者としての立場にありながら、国の規制への不服を述べつつ、規制緩和推進派の政治家に8億円もの裏金を提供していたのです。そのことに対する批判が封じ込められてよいはずはありません。
☆以下に経過の概要を振り返ってみたい。
なお、詳細は下記URLを開いてご覧いただきたい。「DHCスラップ訴訟」を許さないシリーズ、第1弾?第80弾+関連のいくつかをお読みいただける。
https://article9.jp/wordpress/?cat=12
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☆DHCスラップ訴訟の概要
株式会社DHCと吉田嘉明(DHC会長)の両名が、当ブログでの私の吉田嘉明批判の記事を気に入らぬとして、私(澤藤)を被告とする2000万円の損害賠償請求の裁判を起こした。不当な提訴に怒った私が、この提訴を許されざる「スラップ訴訟」として、提訴自体が違法・不当とブログでの弾劾を開始した。要するに、「黙れ」と言われた私が「黙るものか」と反撃したのだ。
そうしたら、2000万円の請求額が、3倍の6000万円に増額された。「『黙るものか』とは怪しからん」というわけだ。なんという無茶苦茶な輩。なんという無茶苦茶な提訴。
強者の恫喝に萎縮して黙ることは、言論の自由を放棄し、消費者の利益を損なうこと。まして私は弁護士である。市民の権利を擁護する任務を持つ私が、DHC・吉田の恫喝に屈することはできない。
☆DHCスラップ訴訟の経過
2014年3月31日 違法とされたブログ(1)
「DHC・渡辺喜美」事件の本質的批判
2014年4月2日 違法とされたブログ(2)
「DHC8億円事件」大旦那と幇間 蜜月と破綻
2014年4月8日 違法とされたブログ(3)
政治資金の動きはガラス張りでなければならない
同年4月16日 原告ら東京地裁に提訴
(DHCは同時期に10件の同種提訴、請求額最低2000万、最高額2億)
5月16日 訴状送達(2000万円の損害賠償請求+謝罪要求)
6月11日 第1回期日(被告欠席・答弁書擬制陳述)
7月11日 進行協議(第1回期日の持ち方について協議)
7月13日 ブログに、「『DHCスラップ訴訟』を許さない」シリーズ開始
第1弾「いけません 口封じ目的の濫訴」
14日 第2弾「万国のブロガー団結せよ」
15日 第3弾「言っちゃった カネで政治を買ってると」
16日 第4弾「弁護士が被告になって」
以下2016年9月14日の第79弾まで(予定は100弾)
8月29日 原告 請求の拡張(200万→6000万円に増額)
新たに下記の2ブログ記事が名誉毀損だとされる。
7月13日の「第1弾」ー違法とされたブログ(4)
「いけません 口封じ目的の濫訴」
8月8日「第15弾」ー違法とされたブログ(5)
「政治とカネ」その監視と批判は主権者の任務
2015年7月1日 第8回(実質第7回)弁論 結審
2015年9月2日 請求棄却判決言い渡し 被告(澤藤)全面勝訴
2015年12月24日 控訴審第1回口頭弁論 同日結審
2016年 1月28日 控訴審判決言い渡し 控訴棄却(澤藤)全面勝訴
2016年 2月10日 上告受理申立
2016年 4月 5日 上告受理申立書提出
2016年 4月28日 上告受理申立事件第三小法廷に係属
2016年10月 4日 上告受理申立に不受理決定 確定
この間、「『DHCスラップ訴訟』を許さない」シリーズを書き続けて、
本日が第80弾。もちろん、この先も続けます。ご期待ください。
☆DHCスラップ訴訟が持つ意味
1 私の言論の自由に対する、DHC・吉田の不当な攻撃である。(憲法21条論)
2 攻撃された私の言論が「政治とカネ」という政治的言論である。
3 攻撃された私の言論が、消費者目線の規制緩和批判である。(消費者問題の側面)
4 言論萎縮を狙っての、訴権濫用による典型的な「スラップ訴訟」である。
以上
(2016年10月6日)
いま、大西隆なる人物を注視しなければならない。吉川弘之、黒川清、金澤一郎、広渡清吾に続いての学術会議現職会長。歴代の会長とは様相を異にし、政権や防衛省の意向を汲もうという人物。日本の科学・学術の研究のあり方を大きく軍事技術重視の方向に舵を切ろうというこの危険な人物が学術会議の会長の任にある。
ウィキペディア(抜粋)は彼の経歴をこう紹介している。
「東京大学工学部卒業、大学院博士課程修了(都市工学専攻)。長岡技術科学大学助手、助教授、アジア工科大学院助教授、東京大学工学部助教授、教授を経て、2011年10月日本学術会議会長に就任。2014年4月豊橋技術科学大学学長に就任。
常に強いリーダーシップを発揮し、大学の軍事研究を積極的に推進。豊橋科学技術大学では、防衛省が研究費を支給する「安全保障技術研究推進制度」による研究費資金を獲得。有毒ガスを吸着するシートの開発に取り組んでいる。また、2016年4月の日本学術会議総会では「大学などの研究者が、自衛の目的にかなう基礎的な研究開発することは許容されるべきだ」とする考えを示し、戦後、日本学術会議では軍事目的のための研究を否定する声明を発表してきたが、その基本姿勢を転換する可能性を示唆した。」
「日本学術会議」は、日本学術会議法にもとづく公法人である。法は前文を持ち、「日本学術会議は、科学が文化国家の基礎であるという確信に立って、科学者の総意の下に、わが国の平和的復興、人類社会の福祉に貢献し、世界の学界と提携して学術の進歩に寄与することを使命とし、ここに設立される」と宣言している。平和の二文字がまぶしい。
その学術会議は、1950年4月の総会で、科学者が戦争に協力した戦前の反省に立って法の目的を具現すべく、「戦争を目的とする科学の研究には絶対従わない決意の表明(声明)」を総会で決議している。その決意のみずみずしさが今読む者の胸を打つ。「科学者としての節操」の言葉が輝いている。
戦争を目的とする科学の研究には絶対従わない決意の表明(声明)
日本学術会議は,1949年1月,その創立にあたって,これまで日本の科学者がとりきたった態度について強く反省するとともに科学文化国家,世界平和の礎たらしめょうとする固い決意を内外に表明した。
われわれは,文化国家の建設者として,はたまた世界平和の使徒として,再び戦争の惨禍が到来せざるよう切望するとともに,さきの声明を実現し,科学者としての節操を守るためにも,戦争を目的とする科学の研究には,今後絶対に従わないというわれわれの固い決意を表明する。
昭和25年4月28日 日本学術会議第6回総会
学術会議は、さらに重ねて67年の総会でも下記の声明を出している。今こそ、読んで噛みしめるべき内容。
軍事目的のための科学研究を行わない声明
われわれ科学者は、真理の探究をもって自らの使命とし、その成果が人類の福祉増進のため役立つことを強く願望している。しかし、現在は、科学者自身の意図の如何に拘らず科学の成果が戦争に役立たされる危険性を常に内蔵している。その故に科学者は自らの研究を遂行するに当って、絶えずこのことについて戒心することが要請される。
今やわれわれを取りまぐ情勢は極めてきびしい。科学以外の力にょって、科学の正しい発展が阻害される危険性が常にわれわれの周辺に存在する。近時、米国陸軍極東研究開発局よりの半導体国際会議やその他の個別研究者に対する研究費の援助等の諸問題を契機として、われわれはこの点に深く思いを致し、決意を新らたにしなければならない情勢に直面している。既に日本学術会議は、上記国際会議後援の責任を痛感して、会長声明を行った。
ここにわれわれは、改めて、日本学術会議発足以来の精神を振り返って、真理の探究のために行われる科学研究の成果が平和のために奉仕すべきことを常に念頭におき、戦争を目的とする科学の研究は絶対にこれを行わないという決意を声明する。
昭和42年10月20日第49回総会
以上の理念が、長く日本の科学者の倫理と節操のスタンダードとされ、これに則って大学や公的研究機関の研究者は軍事研究とは一線を画してきた。当然のことながら、日本国憲法の平和主義と琴瑟相和するもの。ところが、いま、この科学者のスタンダードに揺るぎが生じている。言うまでもなく、平和憲法への攻撃と軌を一にするものである。
大西隆は、学術会議に「安全保障と学術に関する検討委員会」を設け、軍事研究を認めない従来の姿勢の見直しを検討している。もちろん、背後に政権や防衛省の強い意向があってのことである。
政権は、軍事技術の研究進展の成果によって防衛力を強化したい。あわよくば、防衛力だけでなく攻撃力までも。軍事研究とその応用は、経済活性化の手段としても期待されるところ。憲法9条大嫌いのアベ政権である。この要求に大西隆らが呼応しているのだ。
とはいうものの、露骨な軍事研究容認は抵抗が強い。そこで持ち出されているのが、「デュアルユース」という概念。民生用にも軍事用にも利用することができる技術の研究ならよいだろうという口実。なに、「薄皮一枚の民生用途を被せた軍事技術の研究」にほかならない。
問題は深刻な研究費不足であるという。政権や防衛省が紐をつけた軍事研究には、予算がつく。アベ政権の平和崩しは、ここでもかくも露骨なのだ。
さらに大きな問題は、大西が「1950年、67年の声明の時代とは環境条件が異なって専守防衛が国是となっているのだから、自衛のための軍事研究は許容されるべき」と発言していることだ。
「デュアルユース」とは、技術研究を「民生用」と「軍事用」に分類し、「軍事用研究」も「民生」に役立つ範囲でなら許容されるというもの。ところが、「軍事用研究」の中に「専守防衛技術」というカテゴリを作ると、「専守防衛のための軍事技術は国是として許容されるのだから、民生に役立つかどうかを検討するまでもない」となる。結局は限りなく、許容される軍事技術の研究分野を広げることになる。
戦争法反対運動では、非武装平和(ないしは、非軍事平和)派と、専守防衛(個別的自衛権容認)派とが共闘して、限定的集団的自衛権容認派と闘った。いま、現前に見えてきたものは、専守防衛(個別的自衛権容認)是認を口実とする軍事技術研究容認である。
飽くまで、日本国憲法は、非武装平和(ないしは、非軍事平和)を原則としていることを確認しなければならない。
もう一度噛みしめたい。吉田茂が制憲議会で述べた、日本国憲法の平和主義の理念を。
「戦争抛棄に関する憲法草案の条項に於きまして、国家正当防衛権による戦争は正当なりとせらるるようであるが、私は斯くの如きことを認むることが有害であると思うのであります。近年の戦争は多くは国家防衛権の名に於て行われたることは顕著なる事実であります。故に正当防衛権を認むることが偶々戦争を誘発する所以であると思うのであります。」
(2016年10月5日)
国際ボート連盟の会長が、ロランというフランス人だという。国際ボート連盟なる組織がいかなるものか、その会長がいかなる人物かはまったく知らなかったし、本来なんの関心もない。それが、突然に東京までやって来て出過ぎた発言で物議を醸している。
この人、フルネームがジャンクリストフ・ロランだそうだ。えっ? 本当か。ロマン・ロランのジャンクリストフといえば、我々の世代には「青春のバイブル」だった。この名前の印象は良過ぎ、それに比してこの人物の言動の印象が悪過ぎ。相対的に、小池側を応援したくなるのが少しシャクなほど。
2020年東京五輪の競技施設建設予算がべらぼうな額となり、遅きに失したとは言え、小池都知事が見直しに着手した。そのなかに、ボート競技会場となる「海の森水上競技場」の建設中止がある。昨日(10月3日)ロランは、これにクレームをつけたのだ。彼が言わんとしたは「東京から遠い宮城県なんかに移されてはがっかりだ。東京に連盟とアスリートの気に入るような最高の施設を作れよ。カネのことはオレは知らん。あんたの方でなんとかしろ」ということだ。ロマン・ロランも驚くだろう。ジャンクリストフなら絶対に言わないセリフ。知性なき乱暴者ロランだからこそ、こんなことを口にできるのだ。
学生時代にボートをやったという人は少なくない。あのロランと同類に見られるかと、さぞ肩身が狭いことだろう。それだけではない。アスリート全体に肩身の狭い思いをしてもらわねばならない。アスリートが何様だ。そう言葉を発するのに、ちょうどよいきっかけではないか。これから、遠慮なくものを言おうではないか。
報じられているところでは、ロランの言葉は、次のとおりである。
「我々は14年から日本全国の候補を調査、検討し、その中で色んな要素を考慮した。知事が懸念しているコストや、アスリートファースト、レガシーも。(海の森は)IOC、都、組織委員会という全てのステークスホルダーと分析して出した結論」。
「色んな要素」とは、コスト、アスリートファースト、レガシーの3点。
「すべてのステークスホルダー」とは、IOC、都、組織委員会の3組織。
おそらくは、これがアスリート団体のトップ層の粗雑で思い上がった頭の中なのだ。こんな連中をのさばらせてはならない。
彼らの頭からは納税者がすっぽりと抜けている。ステークスホルダーとして納税者を意識していないし、施設のコストやレガシーを決めるのは納税者だという当たり前のことを理解していない。あたかも、IOCや競技連盟や組織委員会がなんでも決めることができると思い込んでいる如くではないか。まるで駄々っ子だ。
都民も国民も、ロランが語る思い上がった「アスリートファースト」に怒らねばならない。フトコロに手を突っ込んで「アスリートの気に入るようにもっとカネを出せ」と言われているのだから。
アスリートがなんぼのものか。アスリートとはいったい何様なのだ。納税者を差し置いて、IOCファーストや競技連盟ファーストや組織委員会ファーストはありえない。そして、「アスリートファースト」を美しい響きの言葉にしてはならない。うさんくささを嗅ぎ取らねばならない。理の当然としての「納税者ファースト」の姿勢を貫かねばならない。
プロ野球と比較してみよう。ここではお客様ファーストとならざるを得ない。球場に足を運ぶか、テレビ観戦をする観客に支えられて球界が存立している。しかし、実はプロ野球でなら、機構ファーストでも、選手ファーストでもいっこうに差し支えない。公費が投入されていないからだ。それでも、お客様ファーストでなくては興業として成り立たない。
五輪は、今や薄汚い商業主義の象徴と化している。にもかかわらず、多額の公費が投入されている不条理がある。それはさておき、公費が投入されている以上は、納税者ファースト以外にはあり得ない。それが、民主々義国家の常道である。
無頼のロランに対峙した小池は、経費削減の観点を強調し、「宮城県の知事も(開催に前向きな)意思を示している。もともと復興オリンピックを標榜していた」と述べ、東日本大震災の被災県で開催を検討する意義に理解を求めた、という。その姿勢を後退させてはならない。
ところで、「オリンピック・アジェンダ2020?20+20の提言」というものを2014 年11月のIOC総会が採択している。ここに見られるのは、オリンピックが持続できるかという危機感である。オリンピックの招致合戦や設備の建設に無駄なカネがかかりすぎることや、時に垣間見える汚い裏舞台への批判に耐えられなくなることへの対応策が必要になっているのだ。ローマの五輪招致辞退が、このことを象徴している。
IOCの傲りが納税者ファーストをおろそかにしてきた。そのことのツケが、オリンピック持続可能性のための具体的提言となっている。ロランの言は、明らかにこれに反している。ロラン一人の思惑か、ウワサされるような結託者がいるのかは分からない。少なくとも、ロランの言はIOCのタテマエに照らしてさえ、なんの説得力もない。せっかくのロランの言。これを「オリンピックは納税者ファーストで」の世論に切り替えるきっかけにしようではないか。
(2016年10月4日)
9月28日、小池百合子新都知事が就任後初めての都議会本会議で所信を表明した。その演説は、都民の関心に応えて移転予定の豊洲市場の盛り土問題から始まった。盛り土されているはずの主要各棟の地下に、巨大空間が拡がっていることが明らかになっていることの責任問題である。
豊洲市場の移転に関する一連の流れにおいては、都政は都民の信頼を失ったと言わざるを得ません。「聞いていなかった」「知らなかった」と歴代の当事者たちがテレビカメラに答える姿に、多くの都民は嘆息をもらしたことでありましょう。
そう知事は、話を切り出している。「聞いていなかった」「知らなかった」と都民を嘆息させている「歴代の当事者」の筆頭は、「伏魔殿の主」石原慎太郎である。
この失った信頼を回復するためには、想像を超える時間と努力が必要であります。責任の所在を明らかにする。誰が、いつ、どこで、何を決めたのか。何を隠したのか。原因を探求する義務が、私たちにはあります。
そのとおりだ。きちんと責任を明確にせよ。多くの都民が、「歴代の当事者たち」に対する新知事の厳格な責任追及姿勢に期待している。新しい知事は手が汚れていない。その手がきれいなうちなら、伏魔殿の闇に光を当てて大掃除をしてくれるだろう、という期待である。きっと、雑魚だけではなく伏魔殿のヌシをあぶり出し、網にかけてくれるだろう、という期待である。
なお、都民の関心のひとつは、食の安全安心を実現すべきことであり、もう一つは現実に生じ始めている都の財政上の負担増に対する填補である。都の財政に穴を開けた者には、しっかりと穴埋めを求めなければならない。具体的には、このバカバカしい事態を招いた責任者の特定と、その責任者に対する都からの損害賠償の請求である。頭を下げたら済むという問題ではない。
ところが、9月30日の小池都知事の調査結果の発表は、いまいち迫力に欠ける。どこまでやる気があるの? と首を傾げざるを得ない。
「いつ、誰が、盛り土をしないことを決めたのか」――東京都が行った「自己検証」は結局、最後まで犯人を特定できなかった(日刊ゲンダイの表現)。知事は、「地下空間を設けることと、盛り土をしないことについて、段階的に固まっていったと考えられる。いつ、誰がということはピンポイントで指し示すことがなかなか難しい。流れの中で、空気の中で進んでいった」と言うのだ。
また、知事は、都議会・都民への説明責任が果たされてこなかった原因として「ガバナンスの欠如」「意思決定プロセスの不備」「連携不足」などを上げた、とも報じられている。
仮にそのとおりなら、これはすべからく都政の最高責任者である都知事の責任である。当時の知事石原慎太郎が、法的責任をとらねばならない。都に対する損害賠償の責めを負わねばならないのだ。
もちろん、人は、不可能であったことについては責任を問われない。考えにくいが、当時都知事として要求される十分な能力と注意力を発揮しても、この結果を回避できなかったという特別の事情があれば、石原の責任は阻却される。そのような事情がもしかしてあるとすれば、石原は公開の場で弁明し立証しなければなない。その弁明に成功しない限り、これから市場の移転が遅延することによって都が負担せざるを得ない公金の支出分を、個人として負担しなければならない。仮に豊洲移転が白紙撤回ともなれば、ムダになった公金支出分のすべてを賠償しなければなない。
再度日「刊ゲンダイ」から引用する。
「都庁役人は、このまま〈真相〉を闇に葬るつもりだ。どんなに「内部調査」を続けても真相は永遠に分からない。当時、知事だった石原慎太郎氏も逃げ切るつもりだ。もはや、真相を解明するには、都議会に関係者を「参考人」として招致し、さらに「百条委員会」を設置するしかないのではないか。」「すでに都議会共産党は、慎太郎氏など12人の参考人招致を要求しているが、都庁役人と都議会自民党は、絶対に参考人招致を阻止するつもりだ。」「都庁役人と都議会自民党が参考人招致を嫌がっているのは、盛り土だけでなく、豊洲市場の“談合”や“巨額利権”に飛び火する恐れがあるからです。ケガ人が続出しかねない。しかも、慎太郎氏は参考人として呼ばれたら、何を言い出すか分からない。何が何でも阻止するつもりです」(都政関係者)
この「都政関係者」が誰かは知らないが、いかにもありそうで頷ける話。私は、現知事を支持する立場にはないが、ここで徹底追及の姿勢を貫いていただきたい。手綱を緩めたら都民の批判が現知事に向かう世論の沸騰が予想される。
過ぐる大戦の戦争責任を考えねばならない。「誰がということはピンポイントで指し示すことがなかなか難しい。流れの中で、空気の中で戦争は進んでいった」のだ。そして、310万の自国の民と、2000万人という近隣被侵略諸国の民の犠牲を出した。自らの責任の自覚について問われた戦争の最高責任者は、「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりませんから、そういう問題についてはお答えが出来かねます」と言ってのけた。一億総無責任体制だった。
無責任な戦争責任体制は、戦後の原発開発に受け継がれた。無責任体制の中で、トイレのないマンションが54基も建設されたのだ。いまもって、「ピンポイントで指し示すことがなかなか難しい。流れの中で、空気の中で原発建設は進んでいった」のだ。責任の所在明確でないままに。
豊洲の問題は、戦争準備や原発建設の伝統であるこの国の無責任体質をあらためて浮かびあがらせた。「そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりません」という言葉は、今再び慎太郎の口から「私は建築のイロハを知らないので、(地下の工法を)思いつくはずがない。素人だから他人任せにしてきた」と発せられているではないか。
知事とは、最高責任者である。一軍の将なのだ。兵の責任を語るのは見苦しい。将として敗戦の責任をとらねばならない。今の時代だ。腹を切る必要はない。無責任体制の実態を明らかにして、あとは金で済む問題。それも、今有している財産の範囲でのこと。そのときこの知事が大嫌いだった日本国憲法が身を守ってくれる。けっして、生存権を否定するような財産の剥奪はしないのだ。
(2016年10月3日)
久々に澄みきった青空が心地よい秋の日曜日に、爽やかならぬワタクシ・アベの登場でお目汚しをお許しください。ワタクシの今国会冒頭の所信表明演説が「北朝鮮現象」と評判が悪いのですが、釈明させていただきたいのです。
問題の個所は、ワタクシが意識して声を張り上げた次のくだりです。
「我が国の領土、領海、領空は、断固として守り抜く。強い決意を持って守り抜くことを、お誓い申し上げます。現場では、夜を徹して、そして、今この瞬間も、海上保安庁、警察、自衛隊の諸君が、任務に当たっています。極度の緊張感に耐えながら、強い責任感と誇りを持って、任務を全うする。その彼らに対し、今この場所から、心からの敬意を表そうではありませんか。」
わたしは、「今この場所から、自衛隊員らに、心からの敬意を表そうではありませんか。」と演説したに過ぎず、けっしてワタクシから我が党の議員にスタンディングオベーションを求めたものではありません。もっとも、事前に最前列の我が党の若手議員諸君には内々「起立・拍手」の指示をしていたのは報道されたとおりですが、けっして全議員に指示もお願いもしていたわけではありません。前列が立てば、順次附和雷同が連鎖するだろうと、計算づくのことだったからです。
君が代の「起立・斉唱」だって同じことでしょう。誰かが起立することは、周りの人に同じ行動を促す圧力になる。着席したままでは国家に意識的な反発をもっていると見なされかねない。順次起立の附和雷同現象が生じるものなのです。みんなが起立して一人不起立は、これはもう非国民。処分の対象としても大きな世論の非難はおきないのです。それとおんなじ雪崩現象を計算し期待したということです。
できれば、公明や維新あたりには同調圧力が及ぶことを期待したのですが、そこまでは実現しなかった。その点ややものたりず残念ではありますが、さすが我が党の議員。ほぼすべての諸君の領土・領海・領空を守る兵隊さんたちへの鳴り止まぬ「起立・拍手」。これこそが戦後レジームを脱却した戦前回帰への大きな第一歩。そして、ようやくにして我が党の議員だけでも国防国家という価値観を共有する北朝鮮の域に近づいてくれたかと、感慨一入というところでございます。
このとき、ワタクシの念頭にあったのは、あの「兵隊さんよありがたう」の歌詞とメロデイでした。念のため、歌詞を掲載しておきましょう。
肩を並べて兄さんと
今日も学校へ行けるのは
兵隊さんのおかげです
お国のために
お国のために戦った
兵隊さんのおかげです
夕べ楽しい御飯どき
家内そろって語るのも
兵隊さんのおかげです
お国のために
お国のために傷ついた
兵隊さんのおかげです
淋しいけれど母様と
今日もまどかに眠るのも
兵隊さんのおかげです
お国のために
お国のために戦死した
兵隊さんのおかげです
明日から支那の友達と
仲良く暮してゆけるのも
兵隊さんのおかげです
お国のために
お国のために尽くされた
兵隊さんのおかげです
兵隊さんよありがとう
兵隊さんよありがとう
ワタクシがいう「海上保安庁、警察、自衛隊の諸君」とは、この歌の「兵隊さん」にほかならないのです。
この歌は、日中戦争開始翌年の1938(昭和13)年10月、大阪朝日、東京朝日による「皇軍将士に感謝の歌」の懸賞募集の佳作一席に選ばれたのがこの歌だそうです。ちなみに、一等に選ばれたのは「父よあなたは強かった」だとか(ウィキペディア)。当時は、朝日新聞も国家や政府・軍部に全面協力の立派なことをしていたわけです。
国民生活に奉仕する人びとはたくさんいることでしょう。障がい者や老人の介護に専念している多くの人にではなく、危険な消火活動に当たっている消防士にでもなく、「兵隊さん」には特別に感謝しなくてはいけないのです。平和を守るためには、国際間の格差や不平等や貧困をなくし医療や教育の普及をする活動が不可欠と言えば言えることでしょう。でも、そういう取り組みに地道に努力している人たちに感謝することはないのです。飽くまでも感謝の先は「兵隊さん」でなくてはならないのです。
国の平和と安全を守るためには、武力を手段とする道と、武力によらない道とがあります。日本国憲法を素直に読めば、「武力による平和」「武力による安全保障」という道を明示的に放棄し、武力によらない平和、武力によらない安全保障という道を選択しています。ワタクシ・アベはこの憲法を天敵としています。この憲法を壊して、戦前同様に富国強兵をスローガンとする国防国家を作りたい。そのためには、何よりも、国民の中に根強くある「戦争は悪だ」という惰弱な厭戦意識や戦争アレルギーを払拭して、まずは「兵隊さんよありがとう」精神を涵養しなければならないのです。
ワタクシが言及した「任務の現場」の中には、もちろんのこと辺野古や?江もはいります。ここでは、国家的大局観を見失って、地方的な利益に固執する一部の人びとの激しい抵抗を排除するために、「海上保安庁、警察、自衛隊の諸君」が体を張ってがんばっています。
まさしく、我が国の領土・領海・領空を守るための、辺野古大新基地であり、?江ヘリパッドの建設ではありませんか。それを「沖縄地上戦の悲惨な体験から絶対に基地は作らせない」と妨害するのは、非国民ともいうべき不逞の輩以外の何者でもありません。そんなオジイやオバアの抵抗を排除するために、今日、今も、「兵隊さんたち」が極度の緊張感に耐えながら、強い責任感と誇りを持って、ごぼう抜きの任務を全うしているのです。
その沖縄の彼ら「兵隊さん」に対し、今この国会のこの場所から、自民党議員諸君だけでも一丸となって、心からの敬意を表そうではありませんか、と申しあげたのです。
えっ? 弁明になっていない? なぜそう言われるのか理由が理解できない。反日の非国民諸君には、ワタクシ・アベの言葉が通じないということなのでしょう。
(2016年10月2日)