澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

敬愛する坂井興一弁護士へ。ご質問にお答えします。

坂井興一弁護士から、ときおりメールをいただく。
坂井さんとは、半世紀に近い付き合い。かつては同じ法律事務所で机を並べた間柄。私より2期上の身近な先輩。弁護士としてのあり方の指導も受け、大きく感化も受けてきた。

坂井さんと言えば思い出す。かつて、旧庁舎時代の東京弁護士会講堂の正面には大きな「日の丸」の額が掲げられていた。私が東弁常議委員会において、この日の丸の掲示を外すべきだと提案をしたときの副会長が坂井さん。奔走して私の提案を上手に実現してくれた。他の理事を説得するその手並みに感服したことがある。

その坂井さんの出身地が、岩手県南の陸前高田。浜の一揆訴訟の原告が多いところ。訴訟には関心を寄せて、たびたびの質問があり、私の方もその質問に回答することで問題点の整理をしてきた。

今回は、当ブログ「沿岸漁民の暮らしと資源を守る政策を― JCFU沿岸漁業フォーラム案内」の記事についてのご質問。
https://article9.jp/wordpress/?p=9102

「頭記のことが伝えられていたので、チョット。
?結局、それ(澤藤大河弁護士の発言)は集会の趣旨に反旗乃至は疑問を呈するものなのか、
 それとも基調講演に注文付けてるだけなのか、どっちなんでしょうか。
?沖取りが漁協(プラス県)の放流事業をチャッカリ横取りしてるというのが漁協側の言い分のようですが、
イ、個別の川と取り位置に密接因果があるのか、或いはフラついてるのを獲っているのか、
ロ、待ち構えているのなら、零細側とは云え、聞こえが悪そうですが。
ハ、仮にフラついているものなら、ケシカランとする漁協側の言い分は再抗弁が必要そうだけど、どうなのか、
 ま、何分にも故郷のことなので、手隙の時にでも、よろしく。ではまた。」

お答えいたします。
問? (澤藤大河弁護士の発言)は集会の趣旨に反旗乃至は疑問を呈するものなのか、それとも基調講演に注文付けてるだけなのか。

回答:澤藤大河の発言は、集会の趣旨に反旗乃至は疑問を呈するものではなく、基調講演に注文付けてるだけのものでもありません。「なによりも漁民の生業の確保が第一義で、漁協も漁連も水産行政も、漁民の生業の利益確保のためにこそある」ことを再確認すべきことを提言したものです。

集会の趣旨は、次のようなものでした。
「家族漁業・小規模漁業を営む沿岸漁業就業者は漁民全体の96%。まさに日本漁業の主人公です。全国津々浦々の漁村の自然と経済を守るこの家族漁業・小規模漁業の繁栄無くしては『地方創生』などありえません。ここでは、沿岸漁民の暮らしと資源、法制度をめぐる問題をとりあげ、日本の漁業政策のあり方をさぐります。」

集会の基調は、「小規模漁業繁栄のためには漁協の力量をつけることが大切」というもの。しかし、「浜の一揆」訴訟では、「漁協の繁栄のために、小規模漁業をぎせいにしてはならない」ことが訴えられています。

「浜の一揆」訴訟は、行政訴訟として県知事を被告とし、県の水産行政のあり方を問うものとなっています。その訴訟での被告岩手県知事側の言い分は、詰まるところ「漁協が経営する定置網漁の漁獲を保護するために、零細漁民のサケ刺し網漁を禁じることに合理性がある」として一歩も引きません。「漁協・定置漁業権」が、零細漁業者の経営を圧迫してもよいというのです。

浜の一揆の原告たちは、けっして漁協や漁業権を敵視しているわけではありません。しかし、漁協の存立や大規模な定置網漁の収益確保を絶対視して、零細漁民の権利を認めないとなれば、漁協にも、大規模定置漁業者にも譲歩を要求せざるを得ません。日本漁業の主人公は小規模漁民にほかなりません。けっして漁協ではないのですから。

キーワードは、「漁協の二面性」です。すべての中間団体に宿命的にあるもの。横暴な大資本や国と向かい合う局面では、漁民を代表する組織としてしっかりと漁協・漁連を擁護しなければなりません。しかし、組合員個人、個別の零細漁民と向かい合う局面では漁協は強者になります。そして、零細漁民の利益と対立するのです。

浜の一揆の原告たちの要求は、「大規模な定置網漁をやめて、漁場も漁獲も自分たちに解放せよ」と言っているわけではありません。「漁協の自営定置も、大規模な業者の定置網も認める。でも、一人について年間10トン、総量にして1000トンの刺し網漁を許可してほしい」と言っているだけなのです。

これに対して、「漁協の定置網漁の漁獲高に影響があり得るから一切許可できない」というのが県の立場。これって、おかしくないですか。ひどい話ではありませんか。不公平ではありませんか。

言うまでもなく、漁協は漁民に奉仕するための組織です。
水産業協同組合法第4条は「組合は、その行う事業によつてその組合員又は会員のために直接の奉仕をすることを目的とする」と規定します。これが、漁協本来の役割なのです。漁民のために直接奉仕するどころか、漁協の自営定置を優先して、漁民のサケ漁禁止の理由とするなど、法の理念に真っ向から反することではありませんか。

9月8日法廷で、被告県側の申請による濱田武士証人も、「漁協は協同組合ですから、一人がみんなのために、みんなが一人のためにという理念の組織です」と言っています。残念ながら、この理念のとおりには漁協は運営されていません。原告漁民の実感は、「一人ひとりの漁民には漁協・漁連のために」が強制され、「漁協漁連は漁民のために何もしていない」のです。

漁民の利益を代表してこその漁協であり、漁民の生業と共存してこその漁業権であることを再確認する必要があります。それが、私たち「浜の一揆」訴訟の基本的な立場であることをご理解ください。

集会では、大河弁護士の報告のあと、「漁協の二面性の指摘は重要」「民主性が徹底してこそ、漁業の力量が発揮できる」と司会がまとめています。

問? 「沖取りが漁協(プラス県)の放流事業をチャッカリ横取りしてるというのが漁協側の言い分のようですが」

回答:その問の発し方にそもそも問題があります。定置網漁の主体が、漁協であろうと株式会社であろうと、サケを独占する権利は誰にもありません。ですから、誰が誰に対しても「チャッカリ横取り」ということはあり得ないのです。但し現状は、一般漁民のサケ漁を禁止して、漁協の定置網漁が「チャッカリ横取り」しているというべき事態であることをご理解いただきたいのです。

三陸沿岸を泳ぐサケは無主物であり、そもそも誰が採るのも自由。これが原則であり、議論の出発点です。憲法22条1項は営業の自由を保障しています。漁民がサケの漁で生計を建てることは憲法上の権利であって、原則自由なのです。

このことは、サケの孵化放流事業があろうとなかろうと、また孵化放流事業主体が誰であろうと、変わりません。孵化場内の卵や稚魚の所有権は、孵化場経営者のものです。しかし、稚魚が河川に放流されるや、無主物になります。この稚魚は、降海し、ひとまずオホーツク海に渡り、さらにベーリング海峡付近で、回遊して北太平洋の自然の恵みを得て成長し、3年魚、4年魚と性的成熟期を迎えて三陸沿岸に帰ってきます。そして、その多くが母川を見つけて産卵のために遡上します。

この北太平洋で育ったサケを、母川の近くで一網打尽にする大規模漁が定置網漁で、場所を決めずに漁師の腕で位置を決めて網を下ろし、小型漁船で獲ろうというのが刺し網漁。

三陸沿岸のサケの漁獲高は最高年に7トン。本件申請時まではほぼ年間2万トン。そのうち、「1000トンだけを刺し網で獲らせていただきたい」というのが、原告らの要求なのです。

ですから、「(刺し網漁者が)待ち構えているのなら、零細側とは云え、聞こえが悪そうですが。」というご懸念は無用なのです。もともと、誰にもサケを獲る権利がある。無制限に獲るとはいわない。せめて、「一人年間10トンまでの許可を」という行政への申請が許可されてしかるべきだと確信しています。

また、孵化放流事業は利益を生みません。インフラ整備事業に似ています。事業コストの大半は、公費の補助金。残りは成魚の漁獲者からの、漁獲量に応じた負担金です。公金による事業の成果が、一部のものだけの利益として享受されてよかろうはずはありません。

もちろん、営業の自由も無制限ではあり得ません。合理性・必要性に支えられた理由があれば、その制約は可能です。このことは、合理性・必要性に支えられた理由がなければ制約できないということでもあります。

具体的には、漁業法65条1項にいう「漁業調整」の必要、あるいは水産資源保護法4条1項の「水産資源の保護培養」。そのどちらかの必要あれば、制約は可能なのですが、県はそのような整理もできていません。「取扱方針」なる内部文書に適合しないから不許可だ。つまり、自分で決めた規則を金科玉条にしているだけ。

最終的には、「漁業調整」とは何だ。その指導理念である漁業の「民主化」とは何だということに尽きるのだと思っています。弱い立場の、零細漁民に配慮することこそが「漁業の民主化」であって、漁協の利益確保のために、漁民の営業を圧迫することは「民主化」への逆行としか考えられません。

「漁協あっての漁民」という主客の転倒は、お国のための滅私奉公と同様の全体主義的発想ではないでしょうか。「漁協も漁連も、海区漁業調整委員会も、そして行政も民主的な手続にしたがって運用されている」「だから、既に民主化は達成されているのであって、一々漁民が文句をいうな」。これが県の立場であり発想というしかありません。

未成熟な民主主義と、人権原理との葛藤の局面です。行政の不備を補う司法の出番だと、坂井さんならご理解いただけるのではないでしょうか。
(2017年9月10日)

「DHCスラップ2次訴訟」で、またもや「幸福な被告」業に逆戻り―「DHCスラップ訴訟」を許さない・第107弾

昨日(9月8日)、盛岡での法廷と報告集会を終えて帰宅すると、待っていたのはDHCからの再度の訴状。3年半ぶり2度目の私宛の特別送達。これで、私は新たな事件の被告となった。
とりあえず、この新件を「DHCスラップ2次訴訟」と命名しておくことにしよう。

新たな提訴は、債務不存在確認請求事件。事件の表示は下記のとおり。
 東京地方裁判所民事第1部C係
 事件番号 平成29年(ワ)第30018号
 債務不存在確認請求事件
 原告 吉田嘉明 外1名
 被告 澤藤統一郎
なお、訴状の日付は本年9月4日。

被告業を脱してしばらく経った。「次は原告業」となる予定だった。不当きわまる吉田嘉明とDHC両者の私に対するスラップの提訴自体が不法行為だ。吉田嘉明とDHCに対する損害賠償請求訴訟を提起して、「リベンジ訴訟」と名付けるつもりだった。その「リベンジ訴訟原告」が私の肩書になるはずだった。ところが、私は再度の被告業となってしまったわけだ。この点は予想外で、やや不本意。

しかし、前回の「DHCスラップ訴訟」で思いもかけない訴状を受けとったときの、何とも名状しがたい不愉快極まりない思いは今回はない。むしろ、新たな訴状を一読してなんとはなしに「笑っちゃった」というところ。

大金持ちを自称するDHCのオーナーのことである。もっと鷹揚な人物かと思い込んでいた。実業家として忙しくもあろう。私からの600万円の請求などは歯牙にもかけず、意識の隅にもないのかと思っていた。が、実はたいへん気にしていたわけだ。これは、望外のこと。600万円の請求を受けて、債務の不存在を確認しないと落ち着けないとは、思いもよらなかった。

私が、吉田嘉明とDHCの両者に、内容証明郵便による損害賠償請求を発信したのが、本年の5月12日。その6か月後には時効中断の効果がなくなって消滅時効が完成する。私も弁護団もそれぞれに多忙である。やるべきことは山のようにある。それでも、いずれ時効完成までには損害賠償請求の提訴をしなければならない。それまであと2か月余。吉田嘉明はその2か月が待ちきれなく、提訴に踏み切ったということなのだ。

細かいことだが、今回DHC側で提訴によって、印紙代と郵券代はDHC側が負担してくれたことになる。基礎的な資料も、甲号証として揃えてくれた。面倒な事務手続を負担してくれたのだから、この点は感謝すべきと言えなくもない。

何よりの感謝は、私の闘志を掻きたててくれたことだ。私は、性格的に「水に落ちた犬」は撃てない。吉田嘉明が敗訴確定で水に落ちた気分状態では、これを撃つことに躊躇せざるを得ない。しかし、仕掛けられた争いだ。遠慮は無用。ことここに至っては、絶対に、後に引けない。

このブログに目を留めた弁護士の皆様にお願いします。
表現の自由を擁護する立場から、訴訟活動支援の志あるかたは、弁護士澤藤統一郎まで、ご連絡をください。本事件は、言論への萎縮を意図した社会的強者のスラップを許さない、社会的意義のある法廷闘争だと考えています。

なお、以下に「DHCスラップ2次訴訟」の訴状をご紹介する。
今後も、訴訟の進展を当ブログでご確認いただきたい。
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訴 状 
 原告 吉田嘉明
 原告 株式会社ディーエイチシー
 原告ら訴訟代理人弁護士 今村憲
 披告 澤藤統一郎

債務不存在確認請求事件
訴訟物の価額 金600万円
貼用印紙額  金3万4000円

  請求の趣旨

1 原告らの被告に対する別紙訴訟目録1記載の訴え提起、同2記載の控訴及び同3記載の上告受理申立てによる損害賠償債務が存在しないことを確認する
2 訴訟費用は被告の負担とする
との判決を求める。

  請求の原因
1 原告らは、被告が、自身のブログ「澤藤統一郎の憲法日記」において、原告らの名誉を毀損する記述をしていたことから、平成26年4月16日、訴訟提起したが、平成27年9月2日、請求が棄却され、控訴も上告も棄却された。

2 平成29年5月12日、被告は、原告らの訴訟は、いわゆるスラップ訴訟であり、不当提訴であるから、不法行為に基づく損害賠償請求として、連帯して600万円の支払いを求める内容証明郵便を送付し、原告らに600万円の債務が存在する旨主張した。

3 これに対し、原告らは、被告主張の損害賠償債務などない旨回答したものの、被告は、自身のブログにおいて、訴訟提起する旨繰り返し主張しているが、未だに訴訟提起しない。

4 なお、前訴第1審判決は、「被告は、本件訴訟について、いわゆるスラップ訴訟であり、訴権を濫用する不適法なものであると主張する。この点、本件訴訟において名誉毀損となるかが問題とされている本件各記述には、断定的かつ強い表現で原告らを批判する部分が含まれており、原告らの社会的評価を低下させる可能性かあることを容易に否定することができない。また、本件各記述が事実を摘示したものか、意見ないし論評を表明したものであるかも一義的に明確ではなく、仮に意見ないし論評の表明であるとしても、何がその前提としている事実であるかを確定し、その重要な部分が真実であるかなどの違法性阻却事由の有無等を判断することは、必ずしも容易ではない。そうすると、本件訴訟が、事実的、法律的根拠を全く欠くにもかかわらず、不当な目的で提訴されたなど、裁判制度の趣旨目的に照らして許容することができないものであるとまで断ずることができず、訴権を濫用した不適法なものということができない。このことは、本件各記述が選挙資金に関わることによって左右されるものではない。
したがって、本件訴訟をスラップ訴訟として却下すべき旨をいう被告の主張は、採用することができない。」と判示している。

5 また、原告らが名誉毀損だと指摘した被告のブログの記述は、違法性阻却事由により判決においては違法ではない旨判示されたものの、同時にその大半の記述が、原告らの社会的評価を低下させるとも判断されており、被告が弁護士でありながらも原告らの名声や信用を一般読者に対して著しく低下させたことは事実であり、このような事実無根の誹謗中傷をネットに書き散らす行為が許容される事態は社会的に問題である。

6 さらに、被告は、第1審の当初に提出した平成26年6月4日付け「事務遮絡」において、「次々回(第2回期日)の日程は、2か月ほど先に指定いただくようお願いいたします。その間に、弁護団の結成と反訴や別訴等の準備をいたします。」などと書き、訴訟係具申も反訴すると言いながら、結局反訴しなかった。

7 加えて、被告は、白身のブログにおいて、性懲りもなく、未だに原告らの提訴がスラップ訴訟である旨主張し続けており、当該ブログを読んだ一般人に、あたかも原告らが金銭債務を負っているかのような印象を与え続けている。

8 よって、原告らは、被告に対し、原告らの被告に対する別紙訴訟目録1記載の訴え提起、同2記載の控訴及び同3記載の上告受理申立てによる損害賠償債務が存在しないことの確認を求める。

 

別紙
1 第一審
原告 吉田嘉明、株式会社ディーエイチシー
披告 澤藤統一郎
裁判所 東京地方裁判所民事第24部
事件番号 平成26年(ワ)第9408号
事件名 損害賠償等請求事件

2 控訴審
控訴人  吉田嘉明、株式会社ディーエイチシー
被控訴人 澤藤統一郎
裁判所 東京高等裁判所第2民事部
事件番号 平成27年(ネ)第5147号
事件名損害賠償等請求控訴事件

3 上告審
申立人 吉田嘉明、株式会社ディーエイチシー
相手方 澤藤統一郎
裁判所 最高裁判所第三小法廷
事件番号平成28年(受)第834号

(2017年9月9日)

「浜の一揆」訴訟―漁協を守るために漁民にはサケを獲らせない?

本日は、盛岡地裁「浜の一揆」訴訟の証人尋問。原告側・被告側それぞれ申請の学者証人の尋問が行われた。

原告側の証人は、サケの生態学については第一人者の井田齊さん。被告側は、漁業経済学者の濱田武士さん。原告側が自然科学者で、被告側が社会科学者。自然科学者が沿岸漁民の側に立ち、社会科学者が県政の側に立つ構図が興味深い。

今日の尋問で証拠調べは終了、次回12月1日(金)が最終弁論期日となる。

何度もお伝えしているとおり、岩手の河川を秋に遡上するサケは三陸沿岸における漁業の主力魚種。「県の魚」に指定されてもいる。ところが、現在三陸沿岸の漁民は、県の水産行政によって、厳格にサケの捕獲を禁じられている。うっかりサケを網にかけると、最高刑懲役6月。漁船や漁具の没収まである。岩手の漁民の多くが、この不合理を不満として、長年県政にサケ捕獲の許可を働きかけてた。とりわけ、3・11被災後はこの不合理を耐えがたいものと感じることとなり、請願や陳情を重ねが、なんの進展も見ることができなかった。

そのため、2014年に3次にわたって、岩手県知事に対してサケの固定式刺し網漁の許可申請をした。これが不許可となるや、所定の手続を経て、岩手県知事を被告とする行政訴訟を盛岡地裁に提起した。2015年11月のこと、その原告数ちょうど100人である。

請求の趣旨は、不許可処分の取消と許可の義務付け。許可の義務付けの内容である、沿岸漁民の要求は、「固定式刺し網によるサケ漁を認めよ」「漁獲高は無制限である必要はない。各漁民について年間10トンを上限とするものでよい」というもの。原告らは、これを「浜の一揆」訴訟と呼んでいる。苛斂誅求の封建領主に対する抵抗運動と同根の闘いとする心意気からである。

三陸沿岸を泳ぐサケは無主物であり、そもそも誰が採るのも自由。これが原則であり、議論の出発点であることは、本日の被告側証人の証言においても確認されたところ。

漁民が生計を維持するために継続的にサケを捕獲しようというのだから、本来憲法22条1項において基本権とされている、営業の自由として保障されなければならない。

この憲法上の権利としての営業の自由も無制限ではあり得ない。合理性・必要性に支えられた理由があれば、その制約は可能となる。その反面、合理性・必要性に支えられた理由がなければ制約はできないということになる。

この合理性・必要性に支えられた理由とは、二つのことに収斂される。
漁業法65条1項は「漁業調整」の必要あれば、また水産資源保護法4条1項は、「水産資源の保護培養」の必要あれば、特定の魚種について特定の漁法による漁を、「知事の許可を受けなければならない」とすることができる、とする。

これを受けた岩手県漁業調整規則は、サケの刺し網漁には知事の許可を要すると定めたうえ、「知事は、『漁業調整』又は『水産資源の保護培養』のため必要があると認める場合は、漁業の許可をしない。」と定めている。

ということは、申請があれば許可が原則で、不許可には、県知事が「漁業調整」または「水産資源の保護培養」の必要性の具体的な事由を提示し根拠を立証しなければならない。

したがって、キーワードは「漁業調整の必要」と「水産資源の保護培養の必要」となる。行政の側がこれあることを挙証できた場合に、不許可処分が適法なものとなり、できなければ不許可処分違法として取り消されなければならない。

本日の原告側証人は、サケの専門家として、孵化放流事業の実態を語って、本件申請を許可しても「水産資源の保護培養」に何の影響もない、と結論した。また、水産学者として、三陸沿岸の自然環境の多様性に即した多様な漁業形態があってしかるべきだという立場から、大規模な漁協の自営定置も零細漁民の刺し網漁も共存することが望ましいとして、定置網漁のサケ漁獲独占を批判した。

本日の被告側証人は、漁協の存立を重要視する立場から、漁協が孵化放流事業を行い、自営定置で漁獲することを不合理とは言えないとして、本件不許可処分を是認した。しかし、「漁業調整の必要」の存在を具体的に述べることには成功しなかった。そして、「漁業調整」の指導理念であるべき漁業法上の「民主化」を援用すれば、漁協存立のために漁民のサケ漁を禁止することは不当ではないか、という立論にむしろ理解を示したように見受けられた。

問題は漁協優先主義が漁民の利益を制約しうるか、という点に絞られてきた感がある。
定置網漁業者の過半は漁協です。被告の主張は、「漁協が自営する定置営業保護のために、漁民個人の固定式刺し網によるサケ漁は禁止しなければならない」ということに尽きるもの。県政は、これを「漁業調整の必要」と言っている。
しかし、「漁業調整の必要」は、漁業法第1条が、この法律は…漁業の民主化を図ることを目的とする」という、法の視点から判断をしなければならない。

弱い立場の、零細漁民の立場に配慮することこそが「漁業の民主化」であって、漁協の利益確保のために、漁民の営業を圧迫することは「民主化」への逆行ではないか。

漁民あっての漁協であって、漁協あっての漁民ではない。主客の転倒は、お国のための滅私奉公と同様の全体主義的発想ではないか。

また、水産業協同組合法第4条は、「組合(漁協)は、その行う事業によつてその組合員又は会員のために直接の奉仕をすることを目的とする。」これが、漁協本来の役割。漁民のために直接奉仕するどころが、漁協の自営定置を優先して、漁民のサケ漁禁止の理由とする、法の理念に真っ向から反することではないか。

訴訟の進行は、本日まですこぶる順調である。11月10日までに原被告双方が最終準備書面を提出し、12月1日が最後の口頭弁論期日となる。勝訴を確実なものとするために、もう一踏ん張りしなければならない。
(2017年9月8日)

大きな声で叫ぼう。「東京五輪を返上しよう!」

毎日新聞の牧太郎という記者の語り口が、何とも魅力的で心地よい。およそ拳を振り上げることなく、肩肘張らず、すこしシャイに、それでいて遠慮なく言いたいことを思う存分言ってのける。その文章の読後に爽快感がある。肺がんの手術を受けてから間もないとのことも、私には同病相憐れむの親近感。

毎週火曜日の夕刊に、「牧太郎の大きな声では言えないが…」を連載していて、これが楽しみ。ところが、ちょうど一月前の8月7日付コラムを見落としていた。これは失態だった。このことをある集会で配られたビラで知った。
久米宏だけではない。おお、牧太郎よ、あなたも。よくぞ言ってくれた。

東京五輪返上の声は、今や小さくない。金がかかり過ぎ。そんな金は被災地の復興に回せ。国威発揚の五輪だ。過剰なナショナリズム鼓吹。猛暑の時期、アスリートに酷。政権や都知事の人気取りに使われている。改憲にまで利用の悪乗りではないか。過剰な商業主義の横行。東京の喧噪が我慢しかねる。愚民政策…。反対理由はいろいろだが、少なくない人々が「東京五輪反対!」「東京五輪返上!」論に賛成している。五輪をダシにした世論操作の胡散臭さへの反発が大きいのだ。

牧太郎の“東京五輪病”を返上!のコラムの書き出しは、おずおずと始まる。
 東京五輪を返上しろ!なんて書いていいのだろうか? 何度もちゅうちょした。毎日新聞社は東京五輪オフィシャルパートナー。いわば、五輪応援団である。
 でも、恐る恐るサンデー毎日のコラム「牧太郎の青い空白い雲」(7月25日発売)に「日本中が熱中症になる“2020年東京五輪”を返上せよ!」と書いてしまった。すると、意外にも、知り合いの多くから「お前の言う通り!」という意見をもらった。返上論は僕だけではないらしい。

そして反対論の幾つかの理由が述べられる。
 その最大の理由は「非常識な酷暑での開催」である。日本の夏は温度も湿度も高い。太陽の熱やアスファルトの照り返し。気温35度、もしかして40度で行われるマラソン、サッカー、ゴルフ……自殺行為ではあるまいか? 沿道の観客もぶっ倒れる。
 サンデー毎日では書かなかったが、日本にとって最悪な季節に開催するのは、アメリカの3大ネットワークの“ゴリ押し”を国際オリンピック委員会(IOC)が認めてからである。メディアの「稼ぎ」のために健康に最悪な条件で行う「スポーツの祭典」なんて理解できない。

 もう一つの理由は「異常なメダル競争」である。日本オリンピック委員会(JOC)は「金メダル数世界3位以内」を目指しているそうだが、オリンピック憲章は「国家がメダル数を競ってはいけない」と定めている。日本人力士を応援するばかりに、白鵬の変化技を「横綱にあるまじきもの」とイチャモンをつける。そんな「屈折したナショナリズム」が心配なのだ。
 「東京五輪のためなら」でヒト、モノ、カネ、コンピューター……すべてが東京に集中している。地方は疲弊する。ポスト五輪は「大不況」……と予見する向きまである。

そして、久米宏同様、今からでも東京五輪返上は遅くないとして、こう言う。
 返上となると、1000億円単位の違約金が発生する。でも、2兆、3兆という巨額の予算と比較すれば、安いものではないか。

さらに、最後に牧太郎の真骨頂。
 東京五輪は安倍晋三首相が「福島の汚染水はアンダーコントロール」と全世界にウソをついて招致した。安倍内閣は「東京五輪のため」という美名の下で、人権を制限する「共謀罪」法を無理やり成立させた。東京五輪を口実に、民主主義が壊されようとしている。
 少なくとも、我々は“東京五輪病”を返上すべきだ!

「1000億円単位の違約金…、安いものではないか。」
牧太郎がそう言えば、私も同感だ。自信を持って1000億など安いものと言える。

「大きな声では言えないが…」などと、おそるおそる語る必要はない。大きな声で叫ぼう。「東京五輪を返上しよう!」「2020年東京五輪は、熨斗をつけてお返しだ!」
(2017年9月7日)

再び研修センター正門前で―「人類の自由獲得」に努力する者から、これを妨害する者たちへ

本日(9月6日)服務事故再発防止研修を命じられているBさんを代理して、弁護士の澤藤から東京都教育委員会とセンター職員の皆様に、2点を訴えます。

第1点は、思想・良心の自由とはいったい何かということです。そのことを通じて、思想・良心の自由の大切さをご理解いただきたい。

すべての国民は人として尊重されなければなりません。しかし、それだけでは足りません。十分ではないのです。すべての国民は、単に人として遇されればよいということにはなりません。それぞれが個性をもった他ならぬ自分として尊重されなければならないのです。他の人とは違ったかけがえのない自分という存在として尊重され、受け容れてもらわねばなりません。

すべての人が、自分が他の人とは区別された自分である証し、つまりはそれぞれの人の個性とは、具体的にはそれぞれの人が他の人とは違って持っている、その人のものの考え方や感じ方、価値感のあり方を意味します。

日本国憲法は、このことを、「すべて国民は個人として尊重される」と原理的に確認し、国民個人の多様な思想および良心について、「これを侵してはならない」と定めているのです。

「これを侵してはならない」。そのように、主権者が公権力に命令をしているのです。ですから、東京都教育委員会は、生徒の多様な思想・良心の自由も、教員の思想・良心の自由も、けっして「これを侵してはならない」のです。

強調すべきは、この侵してはならないという思想・良心とは、公権力が不都合ととする内容であって初めて意味を持つということです。公権力にとって好都合で、現政権を持ち上げ、東京都の方針や東京都教育委員会の政策に迎合する内容の思想・良心については、「侵してはならない」などと命じる必要はなく、なんの意味もありません。

国民の思想・良心は多様です。多様な思想・良心・価値観・倫理観が、公権力に不都合なものも含めて、むしろ公権力に不都合なものであればこそ、尊重されなければなりません。とりわけ、信仰、国家観、歴史観、教師としての教育観などについては、行政は意識してその多様性を尊重して運用されなければなりません。いやしくも、国家や自治体や、もちろん教育委員会が、特定の思想・良心を公的に認定してこれを強制したり、不都合な思想・良心を弾圧することは許されないのです。

東京都教育委員会は、国家主義の立場から、国民は国旗国歌ないし日の丸・君が代に対しては敬意を表すべきであるという考えをもっています。しかし、それは飽くまで多様な考えの一つでしかありません。しかも、日本国憲法の理念よりは大日本帝国憲法に親和性のある相当に偏った立場。こんな考え方を都内のすべての生徒やすべての教職員に押しつけることは本来できないこと、してはならないことなのです。

本日の服務事故再発防止研修において、このような考えに基づいて、Bさんに説得しようとすれば、たちまち新たな違憲違法の問題が生じます。このことが私の訴えの第2点となります。

私たちの国の歴史は、思想・良心あるいは信仰の自由という価値を重視してきませんでした。私たちの国の権力者は、他の国の権力者にも増して、思想や信仰の弾圧を続けてきました。
中でも、江戸時代初期に広範に行われた「踏み絵」と、戦前の治安維持法体制下での天皇制イデオロギー強制が、恐るべきものだったといわねばなりません。いずれも、権力が憎む思想を徹底して弾圧しました。
今東京都教育委員会が行っている日の丸・君が代強制は、幕府の踏み絵や、天皇制警察の思想弾圧と質において変わるものではありません。

そこで、センター職員の皆さん。皆さんに、ご自分の立場をよく見つめていただきたいのです。あなた方の今日の立場は、思想・良心に直接鞭打つものとして、踏み絵を実行した幕府の役人と同じ役回りなのです。特高警察と同じともいわねばなりません。そのことを、十分に自覚していただきたい。

憲法97条には、こう書かれています。
「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果である」と。この「自由獲得の努力」は、今もなお、続けられています。本日研修の対象となっているBさんは、まさしく身を挺して、自由獲得の努力をしているのです。

都教委は明らかに幕府や天皇制権力と同様に、「人類の自由獲得の努力」を妨害する側にいます。そして、センター職員の皆さん。あなた方も客観的には同じ立場なのです。あなた方は、今、この柵の向こう側にいることを恥じなければならない。せめて、その自覚に立って、自由獲得の努力を続けているBさんに敬意をもって接していただくよう、心からお願いいたします。
(2017年9月6日)

「市民平和訴訟」―法廷の花と高額印紙問題と

弁護士として平和への思いを貫いた池田眞規さんが亡くなられたのが、昨年(2016年)11月13日。私は、11月16日の当ブログに「池田眞規さんを悼む」記事を掲載した。
https://article9.jp/wordpress/?p=7705

先輩である眞規さんからは、後輩として教えを受ける立場だったが、ともに戦ったのが[ピースナウ・市民平和訴訟(東京)]の法廷だった。このことは、11月16日ブログに次のとおり書いている。

私が弁護士になって20年目。1991年に湾岸戦争が起きた。日本政府(海部内閣)は、戦地に掃海部隊を派遣し、90億ドル(1兆2000億円)の戦費を支出しようとした。平和的生存権と納税者基本権を根拠に、これを差し止めようと「ピースナウ・市民平和訴訟」と名付けた集団訴訟が実現した。東京では1100人を超える人々が原告となり、88名の弁護団が結成された。私が弁護団事務局長を務め、団長は正式に置かなかったが、明らかに眞規さんが「団長格」だった。

いま、丸山重威さんが、池田眞規さんの評伝を執筆中で、私と接点のあった市民平和訴訟の経過について問合せがあった。丸山さんの関心は2点。1点は「法廷の花」であり、もう1点は「巨額の貼用印紙問題」である。聞かれて思い出せないこともあるが、思い出せる範囲で書き留めておきたい。

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入廷者全員に一輪ずつの法廷の花
市民平和訴訟では、訴訟自体を憲法運動として意識した。
訴訟に参加した市民の憲法意識は、戦争の加害・被害の反省にもとづくものだった。「再び加害者にも被害者にもなってはならない」という理念のうち、加害者にならない権利が強調された。戦費の支出とともに、これを「殺さない権利」とスローガン化した。「戦争という国家の人殺し行為に加担を強制されない権利」「国民が国家に対して人殺しをしてはならないと命じる権利」という意味である。
各回の法廷で、それぞれの原告が、どのように戦争で傷つき、平和を願ってているかを発言する機会をつくり、各回の法廷が原告の確信につながるような進行を工夫した。毎回、東京地裁最大の103号法廷を満席にして、原告の意見陳述は真摯さと迫力にあふれるものとなった。
平和的生存権については浦田賢治氏、納税者基本権については北野弘久氏、「湾岸戦争へのわが国の関わり方は参戦である」ということについて大江志乃夫氏、アジアからの視点で陸培春(ルウ・ペイチュン)氏、被爆者の立場から三宅信雄氏などが証言され、ラムゼー・クラーク氏による現地撮影のビデオ上映も実現した。
敗訴ではあったが、多数の原告がそれぞれに憲法の恒久平和主義に確信を深めたという点では、大きな意義のあった訴訟だと思う。その「成功」は、本気になって勝訴判決を取りに行く真摯さから生まれたのだと思う。けっして、「どうせ勝訴は無理、運動として成功すればよい」という姿勢ではなかった。
その東京地裁での20回の法廷に出廷した原告や弁護団の胸や手に、一輪ずつの花があった。バラ、カーネーション、スイートピー…。
私の記憶では、提訴の日に、横断幕やプラカードをもって地裁の民事受付(14階)までみんなで出かけようという原告団の提案があって、私と加藤朔朗弁護士(故人)が止めた。「裁判所構内には、横断幕もプラカードも持ち込めない」。そのとき、原告の女性の一人から、「じゃ、代わりに花ならいいでしょう」という提案があり、即座にそうしようと衆議一決した。
以後毎回の法廷には、女性原告たちが購入した花が、入廷者に配られた。弁護団も原告団も一本ずつ携えて法廷に入った。私も、バラを胸に挿して、弁論をした。
裁判長は、後に最高裁裁判官となった涌井紀夫判事。大らかに、花には一言の訴訟指揮もなかった。書記官からは、「法廷に、花や葉っぱを残さないようにしてください」とは言われたが。
あのとき、みんなの記憶にあったのは、プラハの春(1968)の際の一枚の有名な写真。ソビエト軍の戦車砲の筒先に、女性がバラの花を挿している図。「大砲ではなくバラを」「戦争ではなく、平和を」という市民の意思の表れ。
法廷の一人ひとりの花々は、平和を求める市民たちの法廷にふさわしい彩りであった。

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「3兆4千億円の印紙を貼れ」問題
提訴後第1回弁論以前に、訴額と印紙問題が大きな話題となった。
訴状には、裁判所を利用する手数料として、訴額に応じて所定の印紙を貼付しなければならない。担当裁判所から弁護団に訴額についての意見照会があった。「印紙額が足りないのではないのか」というのだ。弁護団から、裁判所の意向を打診すると驚くべき回答があった。
裁判所は自らの見解を表明して、本件の係争にかかる経済的利益を差し止め対象の支出金額である1兆2000億円とし、これを訴額として1人あたりの手数料を算出して、 原告の人数を乗ずるという算定をすべきだという。これを計算すると、訴額は(1兆2000億円×571人分)で、なんと685兆円となり、訴状に貼付すべき印紙額は3兆4260億円ということになる。
司法の年間総予算が2500億円の規模であった当時のこと。試算してみたら、10万円の最高額印紙を東京ドームの屋根全面に貼り尽くして、まだ面積が足りない額なのだ。これは格好のマスコミネタとなった。
厳しい世論からの批判を受けて、裁判所は態度を軟化。大幅に譲歩して、267万9000円の印紙の追貼命令を出した。差し止めの訴額については、算定不能の場合に当たるとして一人90万円とし、これに原告数を乗じての計算。弁護団は事前にこれを予測し、予定の対応とした。差し止め請求は、2名だけを残して、その余の原告については取り下げた。2名を除く他の原告は国家賠償請求だけとしたわけだ。これは必要に迫られて編み出した現場の知恵で、「代表訴訟方式」などと呼んだ。
結局、この対応で印紙の追貼納付は、4000円だけでことが収まった。3兆4000億円から4000円に、壮大なダンピングだった。
この件は、その後の司法改革論議の中でも、市民の司法アクセスの問題として話題となっている。
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2015年9月19日に戦争法が国会で成立し、翌16年3月29日施行となった。この日を境に、戦争を政策の選択肢に入れてはならないとする日本から、政権による「存立危機事態」の判断次第で、世界中のどこででも戦争を行うことができる日本に変わった。この戦争法は明らかに平和憲法に違反している。

しかも今、「北朝鮮危機」はアメリカの対北朝鮮開戦があった場合に、わが国も参戦せざるを得ない事態となる。「存立危機事態」とは、「参戦被強制事態」なのだ。

1991年湾岸戦争時のアメリカからの「参戦要請」の経験を思い起こすことは、今意味のあるものと言えよう。それに抵抗した、市民平和訴訟の経験も。
(2017年9月5日)

良心よ、至るところで声をあげよ。自由に羽ばたけ!

「ほっととーく」という、手作り感満載の定期刊行物が毎月郵送されてくる。
「『良心・表現の自由を!』声をあげる市民の会」の会報で、標題の上に「『日の丸・君が代』の強制に反対し、渡辺厚子さんの戒告・減給・停職処分撤回を求める」とスローガンが掲記されている。日の丸・君が代強制に反対する運動の最前線にあり続けている渡辺厚子さん支援の趣旨なのだ。

良心の自由は今は逼塞させられている。その良心を表現する自由も窮屈だ。その良心と表現の自由を市民が支えて、みんなで声をあげよう。その思いが、この「ホットトーク」の中に詰まっている。

B5版の全12ページ。2017年8月27日付の最新号が、通算で第142号。会の発足が2002年12月、会の最初の集会が2003年1月だとのこと。以来、14年8か月、「ほっととーく」の刊行は続いてきたのだ。その息の長い活動に感服するしかない。

しかも、毎号なかなかの充実ぶりだ。日の丸・君が代強制に反対する運動が、実は裾野の広い思想に支えられ、多くの対決点をもっていることを教えている。

今号の主だった記事をご紹介しておきたい。

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企画の案内が盛りだくさん。

まずは、会が主催する「壊憲NO! 戦争NO! 命輝く社会へ! 11・4集会」の案内。メインの講演者は、森川輝紀さん(埼玉大学名誉教授・教育史)、演題は「ナショナリズムと教育ー「教育勅語」「国民道徳」への道ー」。

その企画の趣旨説明はかなりの長文。さわりだけを抜き書きすれば、
「主権が天皇から国民に移って70年たつというのに,今,天皇制国家教育の精神的支柱であった教育勅語が,再び政治主導で教育にはいり込もうとするとは,いったい戦後とは何だったのかと自問する人が少なからずいるのではないでしょうか。」
「長年教育史を研究してこられた森川輝紀さんをお招きし,戦前・戦中そして戦後の教育とナショナリズム,とりわけ「教育勅語」「道徳」についてたっぷりお話を伺うことにいたしました。」
「卒業式での「日の丸・君が代」の強要は、今や3・10、3・11、そして8・15の半旗・黙祷へと拡大されています。災害を利用して、或は戦争被害者を利用して、国家や国家シンボルヘの敬愛と従属をすりこもうとしているのです。」
「安倍政治の柱は教育と安保です。着々と戦争国家化を進め、改憲を粛々と準備しているのです。」「こうした中、森川輝紀さんのお話は、きっと多くの示唆と勇気を与えてくれると思います。誠実な研究者の「知」を共有させていただきましょう。」

11月4日(土)開場13時 開会13時30分
開場は、飯田橋のセントラルプラザ10階 「ボランティアセンター会議室」

次いで、東京「君が代」第4次訴訟の東京地裁判決日が9月15日(金)であることのお知らせと支援の要請。

東京「再雇用拒否」第3次訴訟 最高裁事件の支援の要請。

学校に自由と人権を! 10・22集会のご案内

西元利子「哭する女たち」展(韓国従軍慰安婦絵画)案内

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渡辺さんご本人が、「金子文子忌」の一文を掲載している。
金子文子の91回忌にあたる7月23日、その生き方に惹かれる人々60人ほどが、故地牧丘(山梨県)の歌碑に集い、献花の後研究者からの最新の報告を聞く機会をもったとのこと。例年のことだという。それは知らなかった。

「朴烈大逆事件」は松本清張の昭和史発掘で知られている。瀬戸内晴美も小説の題材にしている。金子文子は朴烈の妻(内縁)で、朴烈とともに大逆罪で死刑判決を受けた女性。わずか23年の凄絶な生涯。

大逆罪の法定刑は死刑のみである。未遂だろうが予備陰謀だろうが死刑。しかも、管轄は大審院の一審のみ。これが天皇制を支えた恐怖の法制である。歴史上大逆罪の起訴は4件ある。幸徳秋水事件以上に、朴烈事件の起訴事実は根も葉もない完全なでっち上げだったとされている。

死刑宣告の直後に、「慈悲深い天皇」の恩赦によって無期懲役に減刑とされ、死刑の執行はなかったが、文子は間もなく監房で死んでいる。縊死(自殺)と公表されたが、当時から怪しまれ、真相の究明は妨害されたまま今日まで闇の中である。

渡辺さんは、こう述べている。
「文子に惹かれる理由は、鋭い感性と純真に煮詰める思想、だろうか。天皇制、ジェンダー、戸籍、国家と個人、朝鮮人と日本人、個人の自立と連帯、教育、格差、権力欲、求める社会。考え抜いた思想がそこにはある。文子は『私は私』と立っていた。」
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俵義文さん(子どもと教科書全国ネット21)の「教育出版小学校道徳教科書問題について」という長文の談話が掲載されている。これも、国旗・国歌(日の丸・君が代)問題に関わる。そして安倍政権の問題点があぶり出されている。

さらに、「一編集者から」という松本昌次さんの連載寄稿。今号は、№31「野党もメデイアも諦めずに」というもの。

「2020年 地方自治体非正規労働者雇用に大変動のおそれ」という、連帯労組板橋区パートからの支援要請もある。

最終ページが高根英博さんのマンガ。「『日の丸・君が代』わたなべーだ」という標題で、8コマの哲学マンガ。内容は、政権批判、天皇制批判、差別批判。これが、連載第128回だ。

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中に、「自由と平和のための京大有志の会」の声明書が転載されている。有名になったもので、私も目を通していたが、その平仮名バージョンは知らなかった。これをご紹介しよう。

  わたしの『やめて』
くにとくにのけんかをせんそうといいます
せんそうは「ぼくがころされないように さきに ころすんだ」
という だれかの いいわけで はじまります
せんそうは ひとごろしの どうぐを うる おみせを もうけさせます
せんそうは はじまると だれにも とめられません
せんそうは はじめるのは かんたんだけど おわるのは むずかしい
せんそうは へいたいさんも おとしよりも こどもも くるしめます
せんそうは てや あしを ちぎり こころも ひきさきます
わたしの こころは わたしのもの
だれかに あやつられたくない
わたしの いのちは わたしのもの
だれかの どうぐに なりたくない
うみが ひろいのは ひとをころす きちを つくるためじやない
そらが たかいのは ひとをころす ひこうきが とぶためじやない
げんこつで ひとを きずつけて えらそうに いばっているよりも
こころを はたらかせて きずつけられた ひとを はげましたい
がっこうで まなぶのは ひとごろしの どうぐを つくるためじやない
がっこうで まなぶのは おかねもうけの ためじやない
がっこうで まなぶのは だれかの いいなりに なるためじやない
じぶんや みんなの いのちを だいじにして
いつも すきなことを かんがえたり おはなししたり したい
でも せんそうは それを じやまするんだ
だから
せんそうを はじめようとする ひとたちに
わたしはおおきなこえで 「やめて」というんだ
  じゆうと へいわの ための きょうだい ゆうしの かい

この市民の運動の充実ぶりが頼もしい。良心を支え、表現の自由を実現する支えになっているではないか。このような市民運動の試みが積み重なって、よりよい社会を作ることになるのだと思う。

なお、会にはささやかながらもホームページがある。URLは下記のとおり。
http://hotmail123.web.fc2.com/
(2017年9月4日)

米・朝の対話以外に打開の策はない

北朝鮮は8月29日早朝、北海道を越え太平洋に落下する射程2700キロの弾道ミサイル発射を強行した。地図上日本を越えるコースは、これが5回目。無通告発射としては2回目となる。そして、本日(9月3日)6回目の核実験を強行した。水爆だという。安倍ならずとも、断じて容認しえない。北朝鮮だけではなく、あらゆる国や勢力の軍事挑発にも、核実験にも断固として抗議しなければならない。

問題は、これにどう対処するかである。「圧力を強める」一辺倒で解決に至らぬことは目に見えている。とりわけ、石油禁輸による経済封鎖には不吉な臭いが漂う。現在の北朝鮮は、戦前の日本とそっくりだ。日本を国際的に孤立させる、ABCD包囲網による対日石油全面禁輸体制は1941年8月に完成した。その直後同年12月には日本は暴発して対米英の宣戦に踏み切った。「座して死を待つことはできない」というのが、開戦の言い分。

8月29日の「Jアラート」なるものも、戦前戦時を想起させる。バケツリレーでの空襲対応、竹槍での本土決戦などと精神構造は変わってないのだ。

8月31日付の赤旗に、丸山重威さんが、「どう考える 北朝鮮ミサイル問題と国民の不安」として寄稿している。取り上げられているのは桐生悠々。

 「1933年(昭和8年)8月、陸軍は民間の防衛意識を涵養するため、「関東防空大演習」を実施した。大規模な空襲があった場合を想定してのことだった。信濃毎日新聞の桐生悠々は「関東防空大演習を嗤う」という論説で「敵機を関東の空に帝都の空に迎え撃つということは、我が軍の敗北そのもの」と書いた。」

桐生ならずとも、Jアラートには嗤わざるを得ない。「不安」を煽るだけの小道具でしかないのだ。

 「ミサイルの時代に、しかも「核」が想定される時代に、ミサイルの撃ち合いが始まれば、勝者も敗者もない。「Jアラート」は、ミサイル攻撃があった場合、という「後ろ向き」の対策だ。日本政府は「圧力と対話」と言いながら、結局は、憲法9条違反の「武力による威嚇」に同調し、協力し、話し合いの道を閉ざしている。
しかし、善悪は別として、北朝鮮は、今のままでは、どう「圧力」をかけても、米国などと同様、核開発とミサイル開発はやめないだろう。」

とすれば、不愉快であろうとも、対話の路線を模索するしかない。米朝2国間対話でも、6カ国協議でも、対話の実現以外に打開策はない。

対立する当事者の一方だけが100%正義で、他方が悪などということはあり得ない。また、相手を全面的な邪悪と決めつけては、真摯な対話も交渉も成立し得ない。日韓併合以来の歴史を繙けば、北朝鮮側には大いに言い分のあることだろう。第二次大戦後の南北の分断と朝鮮戦争の経過に鑑みれば、北朝鮮に米国や国連に対する不信感あることはもっともだ。そして、最近の米韓、米日の合同軍事演習のエスカレートによる挑発も無視し得ない。

憲法前文にある「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」の一文をあらためて確認しなければならない。ベトナム戦争、パナマ戦争、グラナダ侵略、湾岸戦争、アフガン・イラク侵攻等々の戦争を重ねてきた好戦国アメリカをも、「平和を愛する諸国」の一つとして、その公正と信義に信頼する度量が必要である。もちろん、北朝鮮にも同様の姿勢で臨まなくてはならない。

ようやく、アメリカに対して交渉の席に着くよう、国際世論の圧力が増しているように見える。ともかく、戦争を避けるための対話を重ねるしか、平和への道はないのだ。

トランプ政権は「今は対話の時ではない」と繰り返し、安倍政権もこれに追随している。トランプも安倍も、おそらくはホンネのところ、危機を打開しようという意思はない。トランプにしてみれば、北朝鮮危機はアメリカ産の武器を同盟国に売るチャンスだ。軍需産業が活気づけば、雇傭が増えて自分の支持者が納得する。その程度の認識だろう。

安倍も同じ穴のムジナ。北朝鮮危機を煽れば、たやすく防衛予算の増額が実現するだろう。うまくいけば、9条改憲の世論の喚起も期待できる。失政で危うくなった政治生命だが、タカ派の自分にとっては失地回復のチャンスとなりうる。

北朝鮮問題を危機を煽ることによる、防衛予算の増額や9条改憲の策動を警戒しなければならない。「北朝鮮に対抗して日本も核武装を」などは愚の骨頂。この事態を奇貨とする安倍政権の復権も許してはならない。
(2017年9月3日)

兵戈無用 ― 「不殺生戒」は平和憲法理念に通じる

昨日(9月1日)の都立横網町公園での朝鮮人犠牲者追悼式典では、実行委員長宮川泰彦さんの「開式のことば」と、韓国伝統舞踊家・金順子(キム・スンジャ)さんの「鎮魂の舞」が大きな話題となったが、開式のことばの直後には、「鎮魂の読経」が行われている。「日本宗教者平和協議会 浄土真宗本願寺派・僧侶」小山弘泉さんを導師とするもの。

普通、読経はサンスクリットの漢訳をそのまま音読するから、聞いていて意味はさっぱり分からない。「はんにゃはらみた」も、「ぎゃーてー、ぎゃーてー、はらぎゃてー」も、チンプンカンプン。本来が聴衆に聞かせて分からせるための読経ではないのだ。

ところが、小山弘泉さんの読経は、半分以上は日本語だった。聴いていて分かるのだ。大震災とその後の混乱の中で、朝鮮人と中国人と社会主義者や労働運動活動家が殺された経過と背景を語って、再びの悲劇を繰り返してはならないとする内容。これこそが、鎮魂の式典のあり方といえよう。

その読経の中で、「仏説無量寿経」の中のお釈迦様の言葉が紹介された。「兵戈無用(ひょうがむよう)」というのだ。

いうまでもなく、「兵」とは軍のこと、「戈」とは武器のことである。「兵戈無用」とは、軍隊も武器もまったく不要とする非武装平和主義、まさしく憲法9条の思想ではないか。

ネットで検索すると、出典は次の一節であるらしい。
『仏説無量寿経』
「天下和順 日月清明 風雨以時 災厲不起  国豊民安 兵戈無用」

読み下しは、
『仏説無量寿経(ぶっせつ むりょうじゅきょう)』
「天下和順(てんげわじゅん)し 日月清明(にちがつしょうみょう)なり 風雨ときをもってし 災厲(さいれい)起こらず 国豊かに民安くして兵戈(ひょうが)用いることなし」とのこと。

「み仏が歩み行かれるところは、世の中は平和に治まり、 太陽も月も明るく輝き、風もほどよく吹き、雨もほどよく降り、災害や疫病なども起こらず、国は豊かに、民衆は平穏に暮らし、武器をとって争うこともなくなる。」

お釈迦様が、悪を戒め信を勧められるところで語られることばで、その背景には「不殺生」という仏教の根本思想があるという。仏教は五戒を説くが、その筆頭は「不殺生戒(ふせっしょうかい)」である。大量の殺生である戦争は佛教徒の最も忌むべきものであろう。

民族差別、排外主義は、それ自体が殺生の原因となる。そして、戦争の温床となって、さらに大規模な殺生に至るのだ。

「今に生きる私たちは、そのような差別と憎しみを克服して、戦争のない平和な世界、民衆が国境を越えて仲良く豊かに平穏に暮らせる世の中を作ります。そのために、けっして武器をとって争うことをしません。」

小山弘泉さんは、宗教者として、参列者とともに、亡くなられた犠牲者にそう語りかけていたのだと思う。
(2017年9月2日)

女王さま、右耳だけが象の耳

9月1日である。この日を、私は個人的に「国恥の日」と呼ぶことにしている。

通例、外国から受けた恥辱を国民的に記憶して忘れてはならないとするのが「国恥の日」。かつて中華民国は、日本からの二十一箇条要求を承認した5月9日、あるいは柳条湖事件の9月18日を国恥紀念日として国民の団結心に訴えた。また、韓国民は、韓国併合条約発効の8月29日を庚戌国恥日として記憶している。

日本にとっての9月1日は、日本の民衆が、民族差別と排外主義とによって在日の朝鮮人・中国人を集団で大規模に虐殺したことを思い起こすべき日である。自らの民族がした蛮行を恥辱としてこれを記憶し、再びの過ちを繰り返してはならないと誓うべき日。

94年前の関東大震災は、関東一帯に居住する住民に悲惨な犠牲を及ぼした自然災害であった。その犠牲者を追悼するとともに、再びの惨禍をなくす(あるいは軽減する)努力をなすべきは当然のことである。

ところが、別の問題が発生した。震災の直後に、自然災害ではない恐るべき非人道的な人災が生じたのだ。それが、日本人民衆による在日朝鮮人・中国人に対する虐殺である。自然災害による住民の犠牲と、民衆による他民族殺戮の二つは、質を異にするまったく別異の事件である。ことさらにこの両者を混同して論じる欺瞞は許されない。

虐殺には、軍と警察が深く関わっていたことが広く知られている。国の責任を論じるには、軍と警察の行為が重要になる。しかし、私には、自警団という名の民衆が武装して、朝鮮人狩をして、集団で撲殺し刺殺し、縛って川に投げ込むなどの蛮行におよんだことが衝撃である。私たちの父祖が、なぜこんなことを起こしたのか。正確に知り、記憶しなければならない。そのための、「国恥の日」である。

1923年の関東大震災から94年目となる今日(9月1日)、朝鮮人虐殺の犠牲者を追悼する式典が、東京都墨田区の都立横網町公園内の追悼碑の前で営まれた。これまで慣行として都知事から寄せられていた朝鮮人犠牲者に対する追悼文は、今年はなかった。

都知事小池百合子への批判の高まりを反映して、今年の追悼式参加者数は、昨年に倍する500人に上った。

追悼式実行委員長の宮川泰彦さんは、かつて同じ法律事務所で机をならべた私にとっては同僚弁護士。その怒りがよく伝わってくる。

式辞の中で彼は、小池百合子を厳しく批判した。
「都知事が追悼文をとりやめたことは到底容認できない。流言飛語による虐殺で命を奪われた犠牲者、遺族や関係者に寄り添う姿勢が全く見えない」「虐殺の歴史にあえて目を背けている」「都知事にはいま一度立ち止まって、参列者の声、多くの人の声に耳を傾けることを求める」「恐怖と混乱、そして差別意識によって過ちが引き起こされた。忘却は再び悪夢を生む。悲惨な出来事を忘れてはならない」

小池百合子の弁明はこうだ。
「大法要で犠牲となった全ての方々への追悼を行っていきたいという意味から、追悼文を出すことは控えさせてもらった」

これは、集団による他民族虐殺の犠牲を、ことさらに自然災害の犠牲と同列視して、意識的に自然災害死のなかに埋没させる悪質なレトリックと指摘しなければならない。小池百合子は、語り継がなければならない悲惨な行為と犠牲と責任とについて、語り継ぐことをやめたのだ。

小池百合子自身が排外主義的傾向あることは、周知の事実だった。前任の舛添要一は、当時の韓国大統領・朴槿恵との間に「韓国人学校用地としての都有地貸与」の合意を交わしていた。小池百合子は、就任直後にこの合意を白紙に戻して物議を醸している。

各紙の報じるところでは、「犠牲となった全ての方々に対する都慰霊堂大法要での都知事追悼文」(安藤立美副知事代読)に、朝鮮人犠牲者への言及はまったくなかったという。まさしく、小池百合子は、虐殺の歴史を直視することなく、これを自然災害犠牲者の中に埋没させたのだ。その罪は深い。歴史修正主義、排外主義の潮流に身を置くものと、近隣諸国や世界からも厳しい批判を受けざるを得ない。

94年を経てなお、歴史を直視することも、真摯な反省もできない。これをこそ、国恥というべきだあろう。

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むかし むかしのこと
どのくらい昔かというと、
まだ、みんしゅしゅぎという考え方のないほどの大昔

ある国に、すこしかわった女王さまがおりました
女王さまは こくみんが自分をどう見ているか
こくみんのなかでの 自分の人気を
たいそう気にするかたでした

ですから つねづね
「わたしは こくみん みんなの意見を よく聞きます」
「わたしくらい こくみんみんなの声に耳をかたむける 王さまはない」
といっていました

「わたしは耳をすまして たみの声を聞こう」とおっしゃるのですが
すこし変わった聞きかたをするのです

じぶんをほめるたみの声を聞くときには右の耳で聞くのです
じぶんと同じ意見を聞くときも右の耳なのです

じぶんをほめない きびしいたみの声を聞くときには
左の耳で聞きました
じぶんとちがう意見を聞くときも左の耳なのです

たみの声は女王さまにとって心地よいものばかりではありません
するとどうでしょう
だんだんと心地よいことを聞くための女王さまの右の耳だけが大きくなっていったのです
はんたいに 女王さまにとっては心地よくないことを聞く左の耳はだんだんと小さくなっていきました

そして、とうとう女王さまの右の耳は象の耳になりました
うちわよりももっとおおきな よく聞こえる象の耳
左の耳はあるかないかのカエルの耳になりました
小さいだけではなく ほとんど聞こえなくなったのです

こうして女王さまは
「わたしは耳をすまして たみの声を聞こう」とおっしゃるのですが
実のところは、
「じぶんとおなじいけんか、じぶんをほめるいけん」
だけしか聞こえなくなってしまったということです
どんとはれ
(2017年9月1日)

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