澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

官房機密費訴訟上告審ー最高裁はブラックボックスに光を当てうるか。

国の財政は国民が納めた税金によって成り立っている。国の機関が国民に税金の使途について報告の義務があり、納税者たる国民はすべての税金の使途について知る権利がある。国民が主権者である以上、あまりに当然のことだ。

ところが、これに例外がある。正確に言えば、例外としてまかり通っている「穴」がある。官房機密費(「内閣官房報償費」とも)がその典型。例年14億6000万円が予算計上され、内閣情報調査室の活動に充てる2億円ほど(これも具体的な使途は明らかにされない)を差し引いた残りの12億円余りが、官房長官の一存で使えるカネとされる。

「使途は自由、領収書は不要、会計検査院もノーチェック」だと言われている。国民への報告義務のないカネ。私的な着服があっても、流用があっても、国民の目からは覆い隠されて窺い知ることができない。検証のしようがない、まさしくブラックボックスの世界。

そんなカネだから、昔から疑心暗鬼の対象となってきた。悪いうわさが絶えない。野党工作費として使われた、首相経験者に中元・歳暮として現ナマが渡されている、世論操作のため御用評論家にばらまかれている、外遊する議員への餞別、飲み食いに使われている…。

ときに、官房長官経験者から、「これでよいのか」と問題提起がなされる。小渕恵三内閣の野中広務、民主党野田佳彦政権の藤村修など。

野中広務がメディアに漏らしたところでは、「官邸の金庫から毎月、首相に1000万円、衆院国対委員長と参院幹事長にそれぞれ500万円、首相経験者には盆暮れに100万円ずつ渡していた」という。「前の官房長官から引き継いだノートに、政治評論家も含め、ここにはこれだけ持って行けと書いてあった。持って行って断られたのは、1人だけ」「国民の税金だから、官房機密費を無くしてもらいたい」などとも。

2009年総選挙で自民党が大敗し、政権交代が決まった直後に、麻生内閣の河村建夫官房長官が2億5000万円の官房機密費を引き出したことが話題となり、告発までされた。もう政権がなくなる時点で、いったい何に使おうと言うことだったのだろうか。謎のままである。

このブラックボックスに光を当てようという試みが、市民団体「政治資金オンブズマン」のメンバーによる大阪地裁への情報公開請求訴訟。10年がかりの、1次?3次までの3件の訴訟で、官房機密費支出に関連する各文書の開示を求めて、いま最後の最高裁判決を迎えようとしている。

問題になっているのは、官房長官を安倍晋三が務めた2005?06年の約11億円と、河村建夫の09年の約2億5千万円、そして菅義偉による13年の約13億6000万円の、各官房機密費支出に関連する3種類の文書開示の是非。

開示請求は、5種類の文書に対して行われたが、「支払決定書」「領収書」の2種類については、3件の大阪高裁判決のすべてで原告側の敗訴となり、これは既に最高裁でも確定している。残る「政策推進費受払簿」「出納管理簿」「報償費支払明細書」の3種類の文書では、高裁の判断が割れた。

1次・2次各訴訟での大阪高裁判決は原告側勝訴となって、その開示が命じられた。一部にせよ、官房機密費の使途を明かすよう求めた訴訟での高裁認容判断は初めてだという。しかし、3次訴訟では原告側敗訴となって、原告側と被告・国側の双方が上告した。

昨年暮れの12月22日に、最高裁で弁論が行われ、上告審判決が1月19日第2小法廷(山本庸幸裁判長)で言い渡される。さて、「ブラックボックス」に一筋の光が差し込むことになるだろうか。

政権を信頼する立場からは、行政を円滑に進めるための「ブラックボックス」は必要だから情報開示の必要はない、となろう。しかし、健全な民主主義とは政権に対する国民の猜疑によって支えられるとする立場からは、財政使途のブラックボックスなどあってはならない、ということになる。

果たして、最高裁は、健全な民主主義擁護の立場に立つことができるだろうか。
(2018年1月11日)

またまた極右教育機関に、「ただ同然の国有地払い下げ」

一昨日(1月8日)の毎日新聞朝刊一面トップが、「山梨の国有地 日本航空学園に格安売却 評価の8分の1 財務省」という大見出しの記事。森友事件とよく似てはいるが、安倍政権との関係や、特定の政治家の介入は記事になっていない。格別に重要な記事とは思わなかった。印象は、「毎日のスクープだから扱いが大きいのだろう」「政権側からすれば、森友への国有地売却が特異な事例ではない、と言い訳に使うのだろうな」という程度。

毎日の視点も、政治との関わりではなかった。財務省(理財局)による国有地管理の杜撰さを問題にする内容だった。

「山梨県内の国有地を地元の学校法人が約50年無断で使い続け、管理する財務省関東財務局が把握しながら放置した末、2016年5月に評価額の8分の1で売却していたことが明らかになった。国は学校法人「森友学園」への国有地売却問題を機に国有財産の処分の適正化に着手したが、ずさんな管理と不透明な取引の実態が改めて浮かんだ」「日本航空学園に売られた土地は評価額の8分の1にまで割り引かれ、値引き幅は森友学園にも匹敵する。同省の幅広い裁量権を背景に、国民共有の財産が第三者のチェックを受けることなく、価格の妥当性を担保されないまま売り払われている実態が明らかになった」

ところが、その日(1月8日)の内に、リテラが追っかけ記事をアップした。これで、問題の風景がガラリと変わった。いつもながらのリテラの嗅覚の鋭さと筆の速さには脱帽するしかない。
http://lite-ra.com/2018/01/post-3725_2.html
リテラの記事のタイトルは、「何から何まで森友そっくり! 国有地疑惑の『日本航空学園』極右教育と安倍政権との関係」というもの。

小見出しに、「愛国心と国家防衛教育を謳う日本航空学園の極右ぶり」「日本航空学園と政治家の関係、安倍首相の盟友が理事、文科政務官が校長」など。これはただごとではない。

リテラの記事の一部を引用させていただく。
「じつはこの日本航空学園と森友学園にはもうひとつ共通点がある。それは、日本航空学園の理事長・梅沢重雄氏がゴリゴリの極右であるという点だ。たとえば、梅沢理事長は「日本文化チャンネル桜」の設立発起人に名を連ね、『日本航空学園アワー』なる番組が放送されていた。
さらに、『南京虐殺はなかった』などと主張する歴史修正本が国際的に問題となった元谷外志雄・アパグループ代表が塾長・最高顧問を務める『勝兵塾』にも、元文科大臣の馳浩議員や元航空幕僚長の田母神俊雄氏らとともに参加。…梅沢理事長はそこで『憲法についてのくだらない議論よりも教育勅語を教えることが必要』『我が国の伝統文化を教えれば10年後にはスムーズに憲法改正ができる』『国体をしっかり守りさえすれば憲法なんてどうでもいい』と話したという。」
「また、日本航空学園では、毎日の朝礼時には『君が代』とともに日の丸を掲揚、17時になると国旗降下をおこなうといい、梅沢理事長は〈この国旗掲揚と国旗降下のときは、学校中、教師も生徒も直立不動の姿勢で国旗に敬礼します。教師が会議中であっても、生徒がクラブ活動中であっても、そのときはいったん中断し、国旗に敬意を表するのです〉と胸を張っている。」「問題の国有地は、日本航空高等学校のキャンパス内だ。」「初代の義三氏による『航空教育を通して愛国の精神を培う』という建学の精神を、3代目の重雄理事長も継承しているというわけだ。」

もっとも、リテラも、米田建三・元内閣府副大臣や赤池誠章議員ら政治家の名前を挙げてはいるが、その廉価払い下げの具体的手口や、安倍政権との関わりを具体的に示し得てはいない。その記事の締め方は、「日本最大の極右団体のイベントにメッセージを寄せ、改憲をぶち上げるという前代未聞の総理大臣。その影響によって、安倍首相と同じ極右思想を掲げる団体は手厚い待遇が受けられる──。これはこの国が全体主義に近づいている証拠なのだろう。昭恵夫人の関与が決定的となっている森友問題と同じように、この日本航空学園への不当な取引にかんしても、背後関係の究明が待たれる。」となっているに過ぎない。

まさしく、背後関係に切り込むジャーナリズムの成果を今後に期待したいが、それにしても、この「学校」の異様さはただごとでない。

ゴリゴリの極右だという理事長・梅沢重雄が、日本航空学園のホームページにやたらに右翼思想を露わにしている。これが、たいへんな代物。安倍晋三の「云々(でんでん)」並みのレベルで、文章の修飾の技術に欠けるから、分かり易い点ではこの上ない。

「教育の淵源」という記事が、最もまとまっているもののようだが、かなり字数が多いので敬遠し、ブログとして31回にわたって連載された「教育勅語」解説を紹介したい。

ゴリゴリ極右・梅沢重雄が教育勅語を論じる基本姿勢は、以下の文章によくあらわれている。100年前の官製道徳を、今の世に語ることが恥だという感覚を欠如しているのだ。

「『教育勅語』は、今では時代遅れの教えであるなどという人がありますが、決してそうではなく、『教育勅語』で明治天皇がさとされた国民の本分は、昔も、今も、そして将来も変らず、永久に受けついて行かなければならない美しい道徳であり、国民の義務である、と仰せられているのであります。」

天皇の臣民などというと、時代遅れのように考える人があるかも知れませんが、日本の国体(くにがら)は万世一系の天皇をいただいていますから、天皇と国家とは一体でありますので、国民が天皇に忠実であることは、国家に対しても忠実な国民であるということです。だから立派な国民となるためには、皇室にも忠実でなければなりません。『教育勅語』は、忠孝の道からはじまって、国民の踏み行わねばならない本分を、いろいろとおさとしになったものでありますから、その教えを実行することが、立派な国民になることであります」

「前にも述べましたが、西洋や中国の歴史は、国民の皇帝に対する「反逆」の連続でありますが、日本の歴史は、このように天皇と、国民とが常に手をつなぎ合ってきた『君民一体』の伝統にかがやいています。戦前の『大日本帝国憲法』では、我が国は『万世一系の天皇が統治する』と定められていましたし、戦後の『日本国憲法』においても、『天皇は国民統合の象徴である』とされているのですから、わたくしたちは永久に天皇を中心とした、立派な国体を護持しなければなりません。

「『我カ臣民』というのは、『わが国民』と同じことで、天皇を中心とした日本の国体においては、君(天皇)と、臣(国民)とが一体であります。『克ク忠ニ』という『克ク』は『能ク』と同じ意味です。また『忠』というのは、天皇と国民が一体である美しい国がらにおいて、国民が天皇につくす道を『忠』というのですが、天皇は国民をわが子としてかわいがられ、また国民は天皇をわが親として尊敬するのですから『我カ臣民克ク忠ニ』というのは、『わが国民は立派に忠義をつくしてくれた』という、明治天皇の慈愛に満ちたお言葉であります。」

「外国の歴史を見ますと、皇帝は国民を苦しめ、国民は皇帝に反逆するという争いの連続でありますが、日本においては、天皇は日本民族の本家本元であり、国民はその分家という、切っても切れない深い血のつながりの中に、うるわしい天皇中心の日本の歴史と伝統があるのであります。

昔から日本国民は、ひとたび天皇の御命令が発せられると、みんなが一つ心になって仲良くとけ合ったり、力を合わせて団結したりして、日本の国を守ってきました。例えば、蒙古が中国を攻め取り、朝鮮半島の高麗国の軍隊をしたがえ、十数万の大軍をもって九州の博多湾に二度まで押し寄せましたが、その時の亀山上皇は、伊勢神宮にお参りになって、『身をもって困難に替えさせ給え』と天照大神の霊前にお祈りになり、また、国民もあらゆる困難に耐えて、敵軍を完全に追い払ってしまったことなどは、そのよい一例といえましょう。」

国民が常に、天皇のもとに一つ心になり、忠孝の道を、わが国の美風として守り、育ててきたのは、他の国々では見られない、日本の美点であることを、お述べになったのであります。
 そして、わたくしたち国民は、『万世一系』の天皇を、国の中心と仰いできたのでありまして、外国の歴史で見るように、国民が血を流して、力ずくで、皇帝の座を奪い取るようなみにくい争いは、二千六百年の長い日本の歴史において、今日までいちどもありません。これはほんとうに、世界に誇ることのできる、日本の美風であります。」

「国民は国に対しては、忠実に義務を守り、また親に対しては、孝行をつくし、国民全体が心を合わせて、美しい日本の伝統を、いつまでも受け継いで行くように心がけねばならないということを、国民に教え守らせるようにすることが、教育の根本でなければならない、と明治天皇はおさとしになっているのです。
ちかごろは、日本国民としての本文を守らず、国に対する責任もわきまえず、子としての親への孝養をつくさず、また、国民同士が互いに争いあっているのは、戦後の教育の根本方針が、間違っているからです。

「『国憲』というのは『国の根本の定め』の意味ですから『憲法』のことであるともいえます。また「国法」というのは、いろいろな「法律や規則」などのことです。
憲法は、国のあり方の根本の原則だけを定めたものでありまして、くわしい規則は、それぞれの法律や規則によって定められております。だからこの一句の意味は『国民は平時においてはもとより国のおきてを尊重し、法律の定めにしたがわなければならない』と、お示しになっているのです。
現在の憲法では、国民の個人の権利が非常に尊重されておりますが、しかし自分の権利を通すために、社会公共の福祉に反してはいけない、とも定められています。つまり他人に迷惑をかけても、自分の権利だけを押し通すのはいけないことなのでありまして、そういう無法者は、日本国民の恥さらしといわなければなりません。

「一旦緩急アレハ? 義勇公ニ奉シ
「一旦」は「ある日」とか「ひとたび」とかいう意味。「緩急」は「重大事変」のことです。だから「一旦緩急アレハ」というのは、前文の「常ニ」という言葉、すなわち「平時」における心得に対し、「もしもひとたび戦争などの非常時になったならば」という意味です。「義勇」というのは「正義と勇気」のこと。「公ニ奉シ」とは「お国のため、社会のために、国民としての義務をつくす」ということです。国民がお国を守ることは当然のことですから、決して「軍国主義」ではありません。
大東亜戦争までは、国民には兵役の義務が憲法で定められていましたから、戦争の時には軍人は勇敢に戦いましたし、また軍人でなくても、国民はみな一致団結して、国のために国民の義務を果たしてまいりました。」
「 以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ
「天壌無窮」という言葉は、天照大神が瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)を「日向の国」におくだしになった時の神勅において、「宝祚の栄えまさんこと天壌と共に窮りなかるべし」と、おおせられたことをいうのであります。
日本は大東亜戦争に失敗して、みじめな目にあいましたが、「万世のために太平を開け」という天皇のお言葉にしたがって、一億国民が努力したために、今日では世界の人々がおどろくほどに立派な経済大国となったのであります。
これからも、われわれ国民は、力を合わせて日本を立派な国にしようではありませんか。」

「『教育勅語』は、戦前・戦後の教育のあり方の変遷のなかで誤解を受けてきました。でも、あらためて現在の私たちの生き方に照らし合わせてみると、人間の生き方の根本に関わる答えが、そこに見えてきます」

で、この「学校」の校訓5か条の最後は次のとおりである。
『敬神崇祖以て伝統を承継し祖国を興隆すべし』

これはもはや教育でも学校でもない。正確には「カルト集団」と呼ぶべきだろう。あるいは、「天皇崇拝精神鍛錬場」だ。いかにも、安倍晋三の気に入りそうな場ではないか。森友同様、このような極右集団に国有地が極めて廉価に払い下げられているというのは、単なる偶然にしては奇っ怪千万。リテラ同様、背後関係の究明を待ちたい。
(2018年1月10日)

1月13日(土)「安倍9条改憲NO! 3000万署名スタート文京集会」で、澤藤大河が講演します。

ご通行中の皆さま、こちらは平和憲法を守ろうという一点で連帯した行動を続けています「本郷・湯島九条の会」です。私は、近所に住む者で、憲法の理念を大切に、人権を擁護する立場で弁護士として仕事をしています。

本日(1月9日)、正午から1時まで、ここ本郷三丁目交差点「かねやす」前で、恒例の訴えをさせていただきますが、本日は、「安倍9条改憲NO! 憲法を生かす全国統一署名」の呼びかけのために、「3000万署名推進 ! 文京アクション」の皆さんと、共同しての行動です。

「安倍9条改憲NO! 憲法を生かす全国統一署名」とは、今、安倍首相が発案した「安倍9条改憲」を許さず、改憲ではなく現行憲法の精神を生かした政治を行っていただきたいという、内閣総理大臣と衆参両院の議長に宛てた請願署名です。私たちは、3000万筆の賛同署名を集めることで、9条改憲のたくらみを阻止できるものと考えています。3000万筆の賛同署名は、それにとどまらず、圧倒的な9条改憲反対の世論をつくりだし、平和を求める今後の運動の土台を築くことになるはずです。

お願いしております署名は、とてもシンプルな2項目です。その第1項が、「憲法第9条を変えないでください」で、第2項は、「憲法の平和・人権・民主主義が生かされる政治を実現してください」というもの。

みなさまご存じのとおり、昨年(2017年)5月3日の憲法記念日に、安倍晋三首相は唐突に、「新たに憲法9条に自衛隊の存在を書きこむ」「2020年に新憲法施行をめざす」と言い始めました。この発言を受けて、9条改憲への動きが急速に強まっています。本来、憲法を守らなければならない立場の首相が、今の憲法は自分の意に沿わないからと、改憲を提案しているのです。しかも、こともあろうに、9条の改憲です。とんでもないことと言わねばなりません。

安倍さんは言います。「今ある9条の1項と2項はそのまま残します。その上で、憲法9条に自衛隊の存在を書きこむのですから、何も現状と変わるところはありません」。しかし、何も変わるところがないのなら、あえて憲法改正など不要なのです。やはり9条は変わることになるのです。自衛隊の性格も、日本の防衛政策も。

憲法第9条2項は、「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」「国の交戦権は、これを認めない」と定めています。私は素直に、自衛隊は陸海空軍を揃えた「戦力」にほかならず、違憲の存在だと考えています。しかし、「自衛隊は「戦力」にあたらず、違憲の存在ではない」と考える人々もいます。いわゆる、「専守防衛派」というべき人たちです。国にも自衛権というものがあるはずだから、万が一、侵略を受けるようなことがある場合に備えて、自衛のための実力組織は必要で、そのような自衛権行使のために徹している実力組織は「戦力」にあたらず違憲ではないというのです。

このような考えの人たちも、9条の存在が、自衛隊の性格や行動や規模に歯止めを掛ける重要な役割を果たしていることを評価して、9条改憲には反対してきました。これまでの改憲反対運動が大きな規模になり得たのは、自衛隊違憲論者と専守防衛論者とがともに「9条改憲反対」で統一した行動を作りあげたからです。

このことが、「軍拡反対」「集団的自衛権行使容認反対」「沖縄米軍基地拡張反対」などの具体的なテーマでの共同行動を可能にしてきたところでもあります。

ところが、「安倍9条改憲」は、あきらかに、これまで積み重ねられてきた「9条改憲反対運動の共闘」に分断を持ち込もうというたくらみにほかなりません。別の言い方をすれば、「自衛隊違憲論者の孤立」を狙った攻勢なのです。

憲法には武装組織の存在を認める規定はありません。「戦力」の保持は明文で禁じられています。9条にも自衛隊を認める規定がないからこそ、自衛隊は「戦力」ではないことの自己証明を宿命づけられています。自衛の範囲を越える武器は持てません。ICBMも空母も、もちろん核兵器も。他国に出兵することもできませんし、「敵」国からの侵略が現実化する以前に防衛出動することもできません。

憲法9条は、戦後70年以上にわたって、日本が海外で戦争をしてこなかった大きな力の源泉です。いま、9条を変えたり、新たな文言を付け加えたりする必要は全くありません。私たちは、日本がふたたび海外で「戦争する国」になるのはゴメンです。

安倍首相を先頭にする、軍事大国化路線、防衛費拡大政策を阻止して、集団的自衛権行使容認の戦争法を廃止することが今の課題です。その課題では、自衛隊違憲論派も、専守防衛派も、手をとりあって共闘することができるのですし、大切なことだと思います。安倍首相の思惑に乗せられて、自衛隊違憲派と、自衛隊容認派が分断させられるようなことがあってはなりません。ともに憲法9条を大切にする立場から、この署名運動に取り組もうというのです。

日本を戦争の出来る国にしないために、3000万人署名に取り組もうという運動が全国の津々浦々に起こりつつあります。

文京区では、今週の土曜日、1月13日13時30分?15時30分に、文京区民センター2A集会室を会場に「安倍9条改憲NO! 3000万署名スタート集会」を開催いたします。

メインの演者として、新進気鋭の地元の弁護士澤藤大河が講演をします。
ぜひご来場ください。
(2018年1月9日)

成人の日、若者に「脱保守化」を勧める

成人式を迎えた若者諸君。成人おめでとう。
君たちは、この社会を構成し運営していくメンバーとしての資格を手に入れた。これからは、この社会の構造や運営のあり方について、大いに意見を述べていただきたい。それによって、社会は変わるのだから。

君たちには多様な可能性が開けている。未来は、君たちのものだ。君たち自身の力で、未来を変えることができる。これから長く君たちが生きていくことになるこの社会をよりよく変えていくのは君たちだ。

若いということはそれだけで素晴らしい。若さとは、理想や純粋の別名でもある。真実や正義を希求し、理想を実現するための行動をいとわない。この社会の虚偽や不正に対する怒りのエネルギーに満ちている、それが若者だ。

この世の不正義、この世の不平等、権力や資本の横暴、人権の侵害、民主主義の形骸化…。平和憲法の蹂躙、核の恐怖、原発再稼働の理不尽、沖縄への圧迫、格差貧困の拡大…。この世の現実は理想にほど遠い。若さとは、この現実を変えて理想に近づけようという変革の意志のことではないか。

ところで、若さとは長い未来に生きることを意味する。社会が今より良くなればその利益は君たちが長く享受することになる。反対に社会が今より悪くなればその不利益は君たちが長く甘受しなければならない。

仮に、憲法が改正されて、自衛隊が国防軍となり、集団的自衛権行使の名の下、世界の至るところでアメリカと共同して開戦するようなことになれば、前線に立つのは君たちだ。周辺諸国と軍備の増強を張り合って抑止力の均衡という恐怖の中で長く生きることになるのは君たちだ。新自由主義という格差と貧困の元凶となる経済政策が続くようなら、一部の例外を除いて君たちの大部分が格差と貧困にあえぐことになる。

自由・平等・連帯・個性の顕現を実現すべく合理的な社会を求めてその仕組みを変えていこうという志向が「革新」の立場。世の中を今程度で良しとして妥協するのが「保守」の立場。現状に満足せず理想を掲げて現実を動かそうとするのが「革新」で、理想は措いて現実を肯定するのが「保守」。

古来、若者は常に革新派だった。純粋に理想を追求するのが若者なのだから。しかし、人は若さを失うとともに、社会のしがらみを抱えることになる。守るべき多くのものが幾重にも桎梏となって、守りの姿勢にはいらざるを得なくなる。その結果、年齢を重ねるに連れて、理想よりも現実、変革よりも現状の維持を選択する心情となる。これが保守化ということだ。

政党は、革新から保守の目盛りの中に点在し、その両極に共産党と自民党がある。これまで、常識的に、共産党の支持者は若者が、自民党の支持者は高齢者が多いと思われてきた。革新的な若者が社会で生きていくうちに保守化して、政権与党を支持するようになる。一昔前までは、世論調査の結果もそう語っていた。

ところがどうだ。昨今は様変わりだという。
昨年10月の総選挙におけるNHKの出口調査が話題となった。私には衝撃だった。自民党に投票した有権者の世代別割合は、20代が50%、30代42%、40代36%、50代34%、60代32%、70代以上が38%だったという。年齢が上がるほど自民党支持者が減っている。つまり、若年層ほど保守的傾向が強く、高年齢層ほど保守支持が弱まるというのだ。常識とは正反対の現実。

もしかしたら戦後の教育は失敗したのだろうか。若者は理想を語ることをやめ、社会を変革していこうという気概を失ったのか。不正義や理不尽を怒るエネルギーを持ち合わせていないのか。ひたすら社会の空気を読み、忖度に長けた成人になっているのだろうか。

「今の程度に就職できることがありがたい。」「無難に働けるなら、それ以上は望まない」「民主党政権時代の混乱よりは、アベ政権の安定が望ましい」というのが若者の言葉だろうか。それが本当のホンネか。願わくは、そのような投票行動は、若者の仮の姿であってほしい。いま流行の「面従腹背」の実行と受けとりたい。

本日成人式に出席の若者諸君。もう、君たちは自分自身の将来のために覚悟を決めねばならない。もう、素直だの忖度だのは不要だ。空気を読むことはやめよう。生涯面従腹背を貫ぬいてもおられまい。現状維持の姿勢から、抜け出そう。もう少しましな、多くの人々にとって居心地の良い、生きるに値する社会をつくるために。
(2018年1月8日)

上野公園に見る「維新政府の不寛容」

日曜日の散歩コースは、いつも上野に。変わり映えせず芸のない話だが、季節季節に趣は大いに異なる。本日(1月7日)、風は冷たいが透きとおるような好天。見るものすべてが光っているような景色。

本郷通りを横切り、赤門から東大キャパンスにはいって鉄門から出る。岩崎邸の石積みを右に見ながら無縁坂を下って不忍池に。このところ池の畔に居着いているカワセミに見とれて、弁天堂から五條神社・上野大仏を経て噴水広場が終点。本日ここは、シャンシャン(香香)祭りの大にぎわい。

踵を返して王仁博士の碑に立ちより、2本のジュウガツザクラの満開を愛でる。その先が彰義隊を顕彰する「戦死之墓」と「上野戦争碑」。そして西郷隆盛像。150年前に闘った敗者と勝者が並んでいる。

意識的に「明治150年」を強調する風潮のなかで、彰義隊碑には特に事件後150年を意識させるものはなにもない。西郷隆盛像の近くには、NHK大河ドラマ「西郷どん」のポスターがあった。まあ、その程度。

ネットを検索すると、いろんなことが書き込まれている。「漢文石碑を読み歩く」というシーズの中に、「上野戦争碑記」として、その成り立ちが詳細に記されている。
http://bon-emma.my.coocan.jp/sekihi/ueno_sensou.html

以下その抜粋。
「明治維新のとき、現在の上野公園の一帯では、幕臣たちが結成した彰義隊と明治政府軍との間で、いわゆる「上野戦争」が行われました。この石碑は、「彰義隊」という名前を発案した人物として知られる阿部弘蔵(弘臧とも)が、上野戦争の経緯を記したもの。上野公園から見て東京国立博物館の裏手、寛永寺の境内に建っています。
? 山崎有信『彰義隊戦史』(1904年)によると、阿部弘蔵は、上野戦争のときには数え年で20歳。いかにも当時の若い侍らしく、和漢の古典を学んだ上に西洋流の兵術も身に付けた、優秀な人材だったようです。わずか20歳なのに彰義隊の命名を任されたということは、文章の才でも一目置かれていたのでしょう。
 碑文の末尾にもあるように、弘蔵がこの文章を書いたのは、1874(明治7)年のこと。しかし、すぐに石碑を建てることはできませんでした。政府の許可が下りなかったのです。後に弘蔵の娘婿、松岡操がまとめた『寛永寺建碑始末』(1912年)では、その理由を「文字ニ不穏ナル点アリトイフヲ以テナリ」と推測しています。
? それから40年近く経った1911(明治44)年、こんどは松岡操たちが中心となって請願し、冒頭と末尾の240字ほどを削るなど文章にも手を加えて、ようやく石碑の建設にこぎ着けることができました。」

碑文の全体は余りに長い。しかし、最も関心を寄せるべきは、「削られた冒頭と末尾の240字ほど」である。その読み下し文と、現代語訳とを引用しておく。

【削除された冒頭部分】
明治の中興、百度、維(これ)新たなり。仁は海内遍く、沢枯骨に及ぶ。凡そ国事に死して功烈顕著なる者は、数百年の久しきを経と雖いえども、皆、封爵を追贈し、之を祀典に列す。又、嘗て譴(とがめ)を朝廷に得る者と雖も、過ちを悔い志を改むれば、則ち才を量りて登用し、復(また)旧罪を問わず。

 明治になって天皇の政治が復興すると、多くの制度が一新された。その仁徳は国中に行き渡り、その恩恵は亡くなった人々にまで施された。国のために命を失い、その功績が大きくはっきりしている者には、数百年前の人であっても、すべて爵位を追贈して、英霊を祀った。また、以前、朝廷から罪を問われた者であっても、その過ちを認めて志を改めれば、才能に応じて登用して、以後は一切、昔の罪を問題にはしていない。

而(しかる)に独り彰義隊以下の戦没する者のみ、一旦、西軍に抗うを以てや、今に至るも藁葬(こうそう)を許されず。孤魂超然として依憑(いひょう)する所無し。嗟呼(ああ)、彼、豈(あに)叛臣賊子に甘んずる者ならんや。亦また各々忠を其の事(つかう)る所に尽くすのみ。世、或いは察せず、徒(ただ)成敗を視みて以て之を議するは、篤論(とくろん)に非あらざるなり。

 ところが、彰義隊に従って戦争で亡くなった者だけは、あのときに新政府軍に抵抗したという理由で、現在になっても簡単な葬儀さえ許されていない。見捨てられた魂はさまよって、きちんと成仏できないでいる。ああ、反逆者として扱われて、彼らが不満を持たないわけはなかろう。彼らだって、自分たちが仕える主君に尽くしただけなのだ。それなのに、世間の人がたいてい、経緯を調べもせず、結果だけを見て評価しているのは、きちんとした議論ではない。

【削除された末尾部分】
余も亦た幸いに残喘(ざんぜん)を保ち、以て今日に至る。而(しか)れども彼の義を執りて事に死する者、今猶なお不祀の鬼と為る、悲しいかな。頃者(ちかごろ)、其の親しく睹(み)る所を追録し、之を石に勒(きざ)み、以て其の霊を慰む。亦た唯だ寃(えん)を天下後世に雪(すす)がんと欲するのみ。

 私もまた、幸いなことに生きながらえることができ、現在に至っている。しかし、大義のために戦って死んだあの者たちの霊が、いまでもきちんと弔われないままなのは、あまりにも悲しい。そこでこのたび、私が自分の眼で見たことを思い出して記録し、それを石に刻むことで、彼らを慰霊することにした。後の時代の人々に対して無実を晴らしておきたい、という一心からのことである。

「唯だ寃を天下後世に雪がんと欲するのみ」に関わる文章は、天皇制政府の許容するところとはならなかった。「死しての後はみな仏。敵も味方もありはせぬ」という日本古来の常識(むしろ、良識)は維新政府の採るところではなかった。官軍と賊軍とは、死して後も未来永劫に峻別され、賊軍が「雪冤」を述べることは許されないのだ。それこそが、150年を経て今なお変わらぬ靖国の思想である。

「明治150年」とは維新賛美であり、すなわち天皇制賛美でもある。天皇への忠誠は国民道徳の基本として刷り込まれ叩き込まれた。その反面、賊軍の死者は天皇への反逆ゆえに、死してなお鞭打たれ続けられねばならないのだ。「彰義隊以下の戦没する者のみ、一旦、西軍に抗うを以てや、今に至るも藁葬(こうそうー粗末な葬儀)を許されず」「彼の義を執りて事に死する者、今猶なお不祀の鬼と為る」と、と嘆かざるを得ないのだ。

なお、1月5日毎日新聞「論点」が、「『明治150年』を考える」だった。
「今年は1868年の明治改元から150年。政府は『明治の精神に学び、日本の強みを再認識する』と記念行事を計画中だ。呼応するように保守層の一部から『明治の日』制定を求める動きも浮上している。近代日本の出発点となったとされる明治維新だが、維新称揚を『復古主義』と警戒する声も…。」というのがリード。そのリードのとおり、論者3人の見解がいずれも明快である。中でも、「寛容性のない国になった」と表題する、作家・原田伊織氏の論が傾聴に値する。その一部を抜粋しておきたい。

「長州出身の元老たちによる明治の『長州藩閥』政治は大正以降も今に至るまで『長州型』政治として日本の政治風土の中で続いている。特徴は、憲法をはじめとする法律よりも、天皇を重視し利用してしまうこと。幕末に長州藩は孝明天皇や幼い明治天皇を担いで攘夷、倒幕の御旗として利用したが、明治以降はまさに『天皇原理主義』となり、国家を破滅に導いた。それ以前の日本には天皇を神聖化した『原理主義』などは存在しなかった。

もう一点は富国強兵、殖産興業の名の下で政治と軍部、軍事産業でもあった財界とが癒着する社会を生み出したことだ。これが私が言う『長州型』政治である。明治50年は寺内正毅、100年は佐藤栄作、そして150年は安倍晋三と、いずれも山口県(長州)出身の首相の下で祝典が営まれるのはただの偶然と思いたいが、戦後の自民党政権は一貫してこの長州型から抜け切れなかった。

最大の問題は歴史の『検証』がほとんど行われなかったことだ。『明治維新至上主義者』である司馬遼太郎氏は敬愛する大学の大先輩ではあるが、『それだけは違いますよ』と言いたい。どれほど無駄な命があの原理主義の名の下に葬られ去ったか。その「過ち」の検証も反省もなく日本は2度目の破滅(敗戦)を迎えたのだが、戦後も検証は行われず、ずるずると今も明確な外交方針すらなく業界との癒着がニュースになる。」

「明治150年」という今年、司馬遼太郎的史観を克服して、明治維新と天皇制維新政府に、批判の視点を持たねばならない。安倍晋三の「長州型」政治と対決しなければならない。維新政府の寛容性の欠如は「恩賜上野公園」の中にもよく見えるのだ。
(2018年1月7日)

植村隆バッシング反撃訴訟支援の今日的な意義

本日(1月6日)は、世田谷・成城ホールでの植村東京訴訟支援企画・「2018新春トークコンサート『忖度を笑う 自由を奏でる』(主催:植村訴訟東京支援チーム)に出かけた。招待券は1枚で、妻の席は当日券でのつもりだったが、400席が文字どおりの満席。暮れにはチケット完売で、電話予約も断わり、「当日券はありません」という事前のアナウンスもされていたそうだ。事情を知らず一時は入場を諦めたが、スタッフの厚意で何とか入れてもらった。

実感として思う。従軍慰安婦問題への世の関心は依然高いのだ。いや歴史修正主義者であるアベの政権のもと、従軍慰安婦問題は戦争の加害責任問題として忘れてはならないという市民の意識が高まっているのではないか。戦争の記憶継承の問題としても、民族差別問題としても、また報道の自由の問題としても、従軍慰安婦問題は今日的な課題として重要性を増している。

考えてもみよ。安倍晋三を筆頭とする右派勢力は、なにゆえにかくも従軍慰安婦問題にこだわるのか。その存在を隠そうとするのか、報道を押さえ込もうとするのか。メディアでも、教育でも、かくも必死に従軍慰安婦問題を封印しようとしているのか。

まずは、過ぐる大戦における皇軍を美化しなければならないからである。神なる天皇が唱導した戦争は聖戦である。大東亜解放の崇高な目的の戦争に、従軍慰安婦の存在はあってはならない恥部なのだ。大義のために決然と起った皇軍は、軍律正しく、人倫を弁えた存在でなくてはならない。だから、南京大虐殺も、万人抗も、捕虜虐待も、人体実験も、生物兵器の使用も、毒ガス戦も、すべては存在しなかったはずのもので、これがあったとするのは非国民や反日勢力の謀略だということになる。女性の人格を否定しさる従軍慰安婦も同様、その存在は当時の国民にとっての常識だったに拘わらず、あってはならないものだから、強引にないことにされようとしているのだ。

このことは、明らかに憲法改正の動きと連動している。9条改憲によって再び戦争のできる国をつくろうとするとき、その戦争のイメージが恥ずべき汚れたものであっては困るのだ。国土と国民と日本の文化を守るための戦争とは、雄々しく、勇ましく、凜々しいものでなければならない。多くの国民が、戦争といえば従軍慰安婦を連想するごとき事態では、戦争準備にも、改憲にも差し支えが生じるのだ。

本日の企画は、トークとコンサート。トークが、政治風刺コントで知られるパフォーマー松元ヒロさんで、これが「忖度を笑う」。そして、ピアニスト崔善愛さんが「自由を奏で」、最後に植村さん本人がマイクを握った。「私は捏造記者ではない」と、経過を説明し、訴訟の意義と進行を熱く語って支援を訴えた。熱気にあふれた集会となり、聴衆の満足度は高かったものと思う。

宣伝文句は、「慰安婦問題でバッシングされている元朝日新聞記者、植村隆さんを支援しようと、風刺コントで知られる松元ヒロと、鍵盤で命を語るピアニスト・崔善愛(チェソンエ)がコラボします。『自粛』や『忖度』がまかりとおる日本の空気を笑い飛ばし、抵抗のピアノに耳を傾けましょう。」というものだが、看板に偽りなしというところ。

ところで、植村隆バッシングに反撃の訴訟は、東京(地裁)訴訟と札幌(地裁)訴訟とがある。東京訴訟の被告は西岡力東京基督教大学教授と株式会社文藝春秋(週刊文春の発行元)に対する名誉棄損損害賠償請求訴訟。次回、第11回口頭弁論が、1月31日(水)午後3時30分に予定されている。

札幌訴訟は、櫻井よしこ、新潮社(週刊新潮)、ワック(月刊Will)、ダイヤモンド社(週刊ダイヤモンド)に対する名誉棄損損害賠償請求訴訟。次回第10回口頭弁論期日が、2月16日(金)午前10時に予定されている。

植村「捏造記者説」の震源が西岡力。その余の櫻井よしこと各右翼メディアが付和雷同組。両訴訟とも、間もなく立証段階にはいる。

植村従軍慰安婦報道問題は、報道の自由の問題であり、朝日新聞問題でもある。朝日の従軍慰安婦報道が右派総連合から徹底してバッシングを受け、担当記者が攻撃の矢面に立たされた。日本の平和勢力、メディアの自由を守ろうという勢力が、総力をあげて植村隆と朝日を守らねばならなかった。しかし、残念ながら、西岡・櫻井・文春などが植村攻撃に狂奔したとき、その自覚が足りなかったように思う。

いま、従軍慰安婦問題は新たな局面に差しかかっている。2015年12月28日の「日韓合意」の破綻が明らかとなり、「最終的不可逆的」な解決などは本質的に不可能なことが明らかとなっている。被害の深刻さに蓋をするのではなく、被害の実態を真摯に見つめ直すこと。世代を超えて、その記憶を継承し続けることの大切さが再確認されつつある。このときに際して、植村バッシング反撃訴訟にも、新たな意味づけがなされてしかるべきである。

本日の集会の最後に司会者が、会場に呼びかけた。
「皆さん、『ぜひとも植村訴訟をご支援ください』とは言いません。ぜひ、ご一緒に闘ってください」
まったく、そのとおりではないか。
(2018年1月6日)

民族差別主義者らの「弁護士懲戒請求の濫用」に歯止めを

昨年(2017年)暮の12月25日、下記の東弁会長談話が公表された。
https://www.toben.or.jp/message/seimei/post-487.html

「当会会員多数に対する懲戒請求についての会長談話」

  東京弁護士会 会長 渕上 玲子

 日本弁護士連合会および当会が意見表明を行ったことについて、特定の団体を介して当会宛に、今般953名の方々から、当会所属弁護士全員の懲戒を求める旨の書面が送付されました。
 これらは、懲戒請求の形で弁護士会の会務活動そのものに対して反対の意見を表明し、批判するものであり、個々の弁護士の非行を問題とするものではありません。弁護士懲戒制度は、個々の弁護士の非行につきこれを糾すものであって、当会は、これらの書面を懲戒請求としては受理しないこととしました。

 弁護士懲戒制度は、国民の基本的人権を擁護し、社会正義を実現することを使命とする弁護士の信頼性を維持するための重要な制度です。すなわち、弁護士は、その使命に基づき、時として国家機関を相手方として訴えを提起するなどの職務を行わなければならないことがあります。このため、弁護士の正当な活動を確保し、市民の基本的人権を守るべく、弁護士会には高度の自治が認められており、弁護士会の懲戒権はその根幹をなすものです。
弁護士会としてはこの懲戒権を適正に行使・運用しなければならないことを改めて確認するとともに、市民の方々には弁護士懲戒制度の趣旨をご理解いただくことをお願いするものです。

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これは、懲戒請求制度の濫用者953名に対する説示ではなく、社会に向けて発信された文字どおりの広報である。措辞穏やかで短いものだが、東京弁護士会の確固たる意志表明であり、理性ある市民への理解を求める訴えかけでもある。

「東京弁護士会会員全員(約8000名)に対する懲戒請求」とは、明らかに制度の趣旨を逸脱した東京弁護士会自体へのいやがらせ。このような申立があることを知らなかったが、私も被懲戒請求者とされていたのだ。いったい誰が、どんなテーマで、何を根拠に、何を狙ってのものだったのか。また、その処理に、いったいどれだけの手間暇と費用を要したのか。この会長談話だけからでは窺えない。もう少し説明あってもよかったのかなとも思う。

思い当たるのは、下記の報道との関連である。

毎日新聞2017年10月12日
「懲戒請求 弁護士会に4万件超 『朝鮮学校無償化』に反発 6月以降全国で」

「朝鮮学校への高校授業料無償化の適用、補助金交付などを求める声明を出した全国の弁護士会に対し、弁護士会長らの懲戒を請求する文書が殺到していることが分かった。毎日新聞の取材では、少なくとも全国の10弁護士会で計約4万8000件を確認。インターネットを通じて文書のひな型が拡散し、大量請求につながったとみられる。

各地の弁護士によると、請求は今年6月以降に一斉に届いた。現時点で、東京約1万1000件▽山口、新潟各約6000件▽愛知約5600件▽京都約5000件▽岐阜約4900件▽茨城約4000件▽和歌山約3600件??などに達している。

請求書では、当時の弁護士会長らを懲戒対象者とし、「違法である朝鮮人学校補助金支給要求声明に賛同し、活動を推進するのは犯罪行為」などと主張している。様式はほぼ同じで、不特定多数の賛同者がネット上のホームページに掲載されたひな型を複製し、各弁護士会に送られた可能性が高い。

請求書に記された「声明」は、2010年に民主党政権が高校無償化を導入した際に各弁護士会が朝鮮学校を含めるよう求めた声明や、自民党政権下の16年に国が都道府県に通知を出して補助金縮小の動きを招いたことに対し、通知撤回や補助金交付を求めた声明を指すとみられる。」

この報道に村岡啓一・白鴎大教授(法曹倫理)のコメントが付されている。
「懲戒請求は弁護士であれば対象となるのは避けられない。ただ、今回は誰でも請求できるルールを逆手に取っている。声明は弁護士会が組織として出しているのだから、反論は弁護士会に行うべきだ。弁護士個人への請求は筋違いで制度の乱用だ」

報道の対象となった懲戒請求がすべて斥けられたあとに、懲りない面々が、「特定の団体を介して」東弁会員全員への懲戒請求を思い立ったのであろう。が、すこぶる失当で迷惑な話。

弁護士の独立性こそは「人権の最後の砦」であって、弁護士自治はその制度的保障である。弁護士は「人権の護り手」としての使命を全うするために、国家や自治体、大企業・財界・資本からも、そして社会の多数派からも独立して、その任務を果たさなくてはならない。弁護士会は、会員弁護士がその使命を全うすべく在野に徹しなければならない。公権力からも、社会的な強者からも、そして多数派世論からも独立した自治を必要とする。

また弁護士会は、弁護士法に基づいて「建議・答申」をすべきものとされている。その内容は、「基本的人権を擁護し、社会正義を実現する」ものでなくてはならない。公権力とこれと一体化した右派の運動が押し進めている「在日に対する民族差別」に、人権を擁護すべき立場にある弁護士会が、批判の意見を述べることは、当然の権限であり責務ですらある。

これに耳を傾けることなく、「違法である朝鮮人学校補助金支給要求声明に(弁護士会が)賛同し、活動を推進するのは犯罪行為」などということは、およそ支離滅裂で没論理の行為である。こんな露骨な差別的言論が横行する事態を憂慮せざるを得ない。

弁護士自治は、人権と民主主義を尊重する社会の防衛装置としてこよなく大切なものであるが、その弁護士自治が市民から遊離した独善に陥ることを警戒しなければならない。また、弁護士は高い倫理を要求されてしかるべきで、市民による弁護士への懲戒請求の制度は使いやすいものでなくてはならない。その立場からは、軽々に弁護士に対する懲戒請求のハードルを高くするようなことをしてはならない。

しかし、信用を生命とする弁護士にとって、懲戒請求を受けるということの打撃は、相当のものである。私は47年間の弁護士生活の中で、自分には無関係だと思っていた懲戒請求を、たった一度受けたことがある。懲戒請求者は訴訟事件の相手方代理人だった下光軍二という一弁の弁護士。下光自身が遺言状作成に立ち会って長男に全財産の集中をはかった筋悪の事件で、私が妹側について遺留分減殺を請求した訴訟。財産の保全のために、仮差押命令や処分禁止の仮処分を3回に渡ってかけたことが、弁護士としての職権を濫用したもので非行にあたるという、およそ信じがたい懲戒理由だった。おそらくは、この弁護士、自分の無能と怠慢を依頼者に言い訳するためにこんな策を弄したのだ。

下光の請求は懲戒委員会まで到達せず、綱紀委員会で懲戒不相当の議決となった。が、綱紀委員会に呼出を受け、仲間から事情を聞かれる屈辱感は忘れられない。スジの通らない懲戒請求ではあっても、弁明のための書面作成の時間も労力も割かなくてはならない。こういう明らかな懲戒請求の濫用には歯止めのために相当の制裁があってしかるべきだと思う。

いま、私はDHCスラップ訴訟に反撃訴訟を提起している。理不尽な懲戒請求と同様、言論萎縮を狙った民事訴訟制度の濫用に対しては歯止めのための制裁があってしかるべきだという考えにもとづいてのもの。最終的には、スラップ防止の法制度が必要だと考えている。

今般の東京弁護士会会員全員に懲戒請求をした953名が同種のことを繰り返すのであれば、刑事的には偽計業務妨害に、民事的には損害賠償請求の対象となり得る。弁護士会は、味方とすべき理性ある市民と、権力と癒着した差別主義者たちとを峻別し、明らかな人権侵害集団による会務への不当な侵害には断固たる措置をとるべきであろう。
(2018年1月5日)

アベシンゾーの「壊憲ことはじめ」

本日(1月4日)は、官庁の仕事始め。首相アベシンゾーは、さっそくの憲法違反ことはじめ。伊勢参拝と参拝後の年頭記者会見での発言と。

首相の伊勢神宮参拝は明らかな違憲行為である。
各メディアが報じるところによれば、安倍晋三首相は本日(1月4日)午後、三重県伊勢市の伊勢神宮を参拝した。どのように肩書記帳をしたか、公用車を使ったか、新幹線や近鉄の乗車料金は公費か私費か。メディアは関心事として報道していない。しかし、随行者を伴った参拝をし、直後に神宮司庁で総理記者会見までしているのだから、公的資格においての参拝であることは明らかで、憲法20条3項に定める政教分離違反と考えるしかない。

政教分離とは、「政」(公権力)と「教」(宗教)との癒着の禁止である。公権力との間に分離の壁を隔てることを要求される「教」とは、形式的には諸々の宗教一般であるが、実質的に日本国憲法が警戒するものは神道施設である。なかんずく、伊勢と靖国にほかならない。

かつて民族信仰として存在していた神社神道が、天皇崇拝の祭儀と結びついて、国家神道となった。正確に言えば、明治政府によって拵え上げられた。国家神道とは、天皇を神の子孫であるとともに現人神として崇敬し、かつ天皇を神の司祭とする「天皇教」をいう。

幕末、「天皇教」は一握りの為政者のイデオロギーに過ぎなかったが、150年前に維新政府ができたとき、臣民意識の教導の有用な道具として徹底して活用された。為政者が創出した信仰だから、為政者自身が信仰心を持っていたわけではない。しかし、天皇を神として崇拝すべきことは、学校と軍隊を通じて臣民に叩き込まれ、人格を支配した。こうすることで、対内的な統合作用を形成するとともに、対外的には選民意識、排外主義の涵養に重要な役割を果たした。

敗戦によって、ようやくにして日本は神の国から普通の国になった。天皇教の信徒であった臣民は解放されて主権者となった。しかし、天皇教の祭神であり教主であった天皇は天皇のまま生き残った。76年もの間、天皇制権力が臣民に叩き込んだ天皇崇敬の念は容易に消えず、再度天皇が神の位置に戻らぬとも限らないと懸念された。

この懸念に歯止めを掛けた装置が日本国憲法の政教分離規定である。従って、公権力が、近づいてはならぬとされるのは、何よりも天皇の神社なのである。その代表格が、アマテラスを祭神とする天津神社の筆頭である伊勢であり、天皇の軍隊の戦死者を祭神とする軍国神社靖国なのだ。

いうまでもなく伊勢は天皇の祖先神を祭神とする神宮として神社群の本宗の位置を占めている。公権力は、他のどんな宗教施設よりも、伊勢と癒着してはならない。本日のアベの伊勢詣では、違憲のことはじめなのである。

歴代首相による新春の参拝は毎年恒例とも報じられているが、漫然と違憲行為が積み重ねられているということに過ぎない。ならぬものはならぬのであり、違憲はあくまで違憲である。

なお、参拝には、野田聖子総務相や林芳正文部科学相、世耕弘成経済産業相らとともに、話題の加藤勝信厚生労働相も随行したという。加藤勝信の厚労相就任は、アベのオトモダチ人事の典型だが、大型消費者被害をもたらしたジャパンライフ事件のフィクサーとして今年のアベ政権の「顔」になるはずの人物である。

そして、2つ目の壊憲行為は伊勢での年頭記者会見における発言の内容である。
官邸のホームページに、本日(1月4日)の「安倍内閣総理大臣年頭記者会見」における発言内容が掲載されている。
https://www.kantei.go.jp/jp/98_abe/statement/2018/0104kaiken.html

まず、【安倍総理冒頭発言】がある。アベ個人ではなく、自民党総裁としての発言ではない。明らかに、総理としての発言。これがかなり長い。

最後の方に、唐突に不思議なパラグラフが出て来る。
「この国の形、理想の姿を示すものは憲法であります。戌年の今年こそ、新しい時代への希望を生み出すような憲法の在るべき姿を国民にしっかりと提示し、憲法改正に向けた国民的な議論を一層深めていく。自由民主党総裁として、私はそのような1年にしたいと考えております。」

取って付けたかのごとき「憲法改正」への言及。ところが、これが「自由民主党総裁として」の発言ということにされてしまう。総理年頭記者会見を改憲宣伝の場にしてはならない。

憲法への言及は「憲法改正に向けた議論を深めていく」というだけ。人権や民主主義や国際平和や、生存権や平等について行政府の長としてしっかり憲法を遵守するという話は出て来ないのだ。

質疑応答は少しも面白くない。切り込むところがない。それでも、アベはこんなことを言っている。

「憲法は、国の未来、理想の姿を語るものであります。国民主権、基本的人権の尊重、平和主義の基本理念は今後も変わることはありません。その上で、時代の変化に応じ、国の形、在り方を考える、議論するのは当然のことだろうと思います。大いに議論すべきだと考えています。
? そこで私は、昨年の5月、それまで停滞していた議論の活性化を図るために一石を投じました。事実、その後、党内での議論は活発になったと思います。具体的な検討は党に全てお任せしたいと考えています。」

心得違いも甚だしい。「時代の変化に応じ国の形、あり方を考える議論をするのは当然のこと」ではない。憲法は、主権者から公権力を預かる者に対する命令なのだから、首相アベは憲法の枠内でしか動いてはならない。それが憲法99条が明示する公務員の憲法尊重擁護義務というものだ。憲法改正の発議を首相がする権限はない。改正論議を呼びかけるのも越権だ。改憲発議は、国民の意向を受けた国会がするものではないか。

首相として、憲法遵守の発言なく、改憲にのみ言及した本日の伊勢での年頭記者会見。新年からアベ発言には憲法を粗略にする驕りが見える。それを許している国民の側に緩みが見える。気をつけよう、アベ改憲と暗い道。気を緩めてはならない。
(2018年1月4日)

歳のはじめに「友愛政治塾」(西川伸一塾長)ご案内

関東の三が日は穏やかに晴れ渡り、この上ない好天に恵まれた。富士は、いつになく白く大きかった。スーパームーンという耳慣れない美称を誇示する満月が冴えわたった。接する人々の表情も穏やかな、まずは平穏な日本のお正月。これで、アベ政権やら9条改憲策動さえなければ、心穏やかに日本の自然や風物を楽しむことができようものを。

そのアベ政権への対抗企画の一つに、私も参加している友愛政治塾というものがある。そのご案内をしたい。

誤解なきように一言。この政治塾、なにか下心あってのものではない。ご参加いただいても、それによって政治家への道が開かれるなどという妖しげなものではない。誰か特定の政治家個人、あるいは特定の政党を支援しようという、真の目的を隠した羊頭狗肉の悪徳商法とも無縁である。権力を恐れず、多数派におもねることもなく、自分の頭でものを考える、そのような自立した主権者としての知性と感性を講師と塾生とで磨きたい。そんな気概の企画であり集いであるものとご理解いただきたい。

以下、そのご紹介と勧誘。
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 2017年、友愛政治塾(西川伸一塾長)は、〈友愛を心に活憲を!〉をモットーに、季刊『フラタニティ』の執筆者を講師に招き、それぞれの専門領域での最新の知識を学ぶ場として開設されました。講師団と塾生によるシンクタンク=知的拠点としても活動し、時には講師団全員の賛同を得たうえで政策的提言を発することもあります。

 2018年・第2期の開講が間近です。今年は、奇数月の第3日曜日午後に講義と受講者全員での質疑討論を行います。昏迷の時代に、揺るぎない自分自身の考え方、ものの見方の基礎を作るために…。多くのみなさまのご参加をお待ちしています。

第2期(2018年)開講日程と担当講師・講義内容
? 1月21日(日)
 西川伸一 明治大学教授???
 最近の裁判官人事の傾向
寺田逸郎最高裁長官は2018年1月8日に定年退官し、大谷直人新長官の下、2018年の最高裁はスタートする。最高裁長官は内閣が指名し天皇が任命する。最高裁判事は内閣が任命する。ただ、内閣が専権的に最高裁裁判官を決めてきたわけではない。最高裁の意向をきいてそれを尊重することで司法の独立が担保されてきた。しかし、安倍政権の長期化に伴いこの慣例が崩されつつある。「アベノ人事」は司法にまで及んでいる。報告ではそれを明らかにしたい。

? 3月18日(日)
 杉浦ひとみ 弁護士
 弁護士の社会的使命とは
弁護士の社会的使命は、個人の救済と正義を実現する社会の仕組みの監視だと思う。子どものいじめ事件や社内でのパワハラ、障害者の差別、家庭内のDVなどいずれも当該個人にとっては人生が変わるような問題である。ひとりの痛み、苦しみを理解しようと努力し、そのために法的手段やそれ以外の持ちうるあらゆる手段を使って、少しでもよかったと思ってもらえるようにすること。もう一つはその個人の集合である社会において、個人を尊重し平等をはかる政治が行われるように、法律の運用の仕方を変えさせ、場合によっては法制度の改正などに取り組むことだと思う。

? 5月20日(日)
 丹羽宇一郎 元駐中国大使
 日本の国是と将来像
混沌、激変する世界情勢は濃霧の中。一寸先さえも見通せない。二人の不良青年の一挙一動に耳目が集まる。『挑発』を続ける狙いは何か。『力と力』の出口はあるのか。第二次大戦以来、戦争の姿、形は軍人対軍人から国民対国民、国対国へと激変した。核兵器とミサイルの出現、電磁波サイバー攻撃は無辜の民と国家の生命そのものに直接かかわる戦いとなろうとしている。
国や国会でさえ、戦争のボタンを押す権限が無くなっていることを自覚しなくてはなるまい。こうした世界の中での日本の立ち位置を考え、日本はどういう国を目指すのか、総合的に考えたい。

? 7月15日(日)
 糸数慶子 参議院議員 沖縄の風
 沖縄に心を寄せる
本土に住む人にとって、琉球処分以後の沖縄の歴史や米軍基地の現状を知ることは、よほど関心がない限り難しいことです。しかし、ここであらためて琉球王国時代から現在に続く歴史の流れのなかで、沖縄県民が辿った琉球処分から米軍占領時代への苦難の道と、日本復帰後も続く米軍基地の過重負担、そこから派生する様々な問題を自分のこととして考えてみてほしいと思います。沖縄の基地負担は、本来であれば、日本国民全体で負担すべきものです。沖縄に心をよせて、日本のあるべき姿を考える機会としていただければ、と思います。

? 9月16日(日)
 澤藤統一郎 弁護士
 学校での「日の丸・君が代」強制の意味
かつての神権天皇制は、全国の教場を国家神道の布教所としました。君が代斉唱から始まる学校儀式において、御真影への最敬礼と教育勅語の奉読がおこなわれました。この宗教儀式で、臣民は天皇を現人神とする信仰を刷り込まれました。
戦後、神道指令と新憲法によって、神権天皇制は崩壊したことになっています。しかし、天皇制は権威主義の象徴として生き残り、御真影と教育勅語は、「日の丸」と「君が代」に形を変えて、学校儀式で強制されています。天皇の代替わりが近い今、教育の場におけるナショナリズムと天皇制の問題を考えたいと思います。

? 11月18日(日)
 孫崎 享 東アジア共同体研究所所長
 日米安全保障関係と平和の確保
日米安全保障関係は、冷戦中は米軍基地を米国が如何に自由に使用するかであったが、冷戦以降、自衛隊を米国戦略に利用することを強く求めるようになっていた。そして、この目的のため、日本の協力者と共に、朝鮮半島、中国との間の緊張を高めることに従事してきた。
歴史的な検証を踏まえつつ、講演時、最も関心を呼んでいる点についての解説を試みたい。なお、日本の安全保障の根本に横たわる問題としては、軍事で平和は確保できない、安全確保は平和的手段においてのみ確保が可能であることの解説を行いたい。

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開講場所:東京都内
☆時間配分 午後1時20分から 講義:90分  質疑討論:70分
☆講師は確定。テーマと開講日は変更の可能性あり。
受講料:通し7000円
単回は無し(途中からは別途割引)
登録受講者が欠席の場合にはその友人が1人出席可能。

受講手続き:事前申込必要→入金
主催:友愛政治塾? Fraternity School of Politics
塾長:西川伸一 (明治大学教授)
事務局:村岡到
住所:〒113-0033? 東京都文京区本郷2-6-11-301
ロゴスの会?? TEL:03-5840-8525
Mail : logos.sya@gmail.com
郵便口座:00180-3-767282

(参考)2017年の講師団 (講義順)
西川伸一  明治大学教授
進藤榮一  筑波大学名誉教授
下斗米伸夫 法政大学教授
松竹伸幸  かもがわ出版編集長
丹羽宇一郎 元駐中国大使
伊波洋一  参議院議員
澤藤統一郎 弁護士
浅野純次  石橋湛山記念財団理事
岡田 充  共同通信客員論説委員
孫崎 享  東アジア共同体研究所所長
村岡 到  『フラタニティ』編集長
以上
(2018年1月3日)

こいつぁは春から縁起がいいわぇ ― 南北に対話の萌し。

韓国・平昌での第23回冬季オリンピック・パラリンピック(平昌五輪)が問題を抱えたまま目前となっている。来月(2月)9日開幕で、25日までの17日間の日程だという。ドーピング問題でのロシア選手団の問題だけでなく、隣国北朝鮮が参加の可否を態度表明しないまま推移して暗い影を落としている。韓国の文在寅大統領は、かねてから「オリンピックの成功が朝鮮半島の平和と安定につながる」と表明してきたが、北朝鮮は態度を保留したままだった。

突然に事態が変わった。北が平昌五輪への参加の意図を表明し、南がこれを歓迎する声明を発表した。これをきっかけに、南北対話の進行までが期待される。

昨日(1月1日)北朝鮮の国営放送「朝鮮中央テレビ」が放映した金正恩朝鮮労働党委員長の「新年の辞」の中で、金正恩は平昌五輪についてこう語ったという。

「新年はわが人民が共和国創建70周年を祝い、南朝鮮(韓国)では冬季オリンピック競技大会が開かれることで、北と南にこのように意義のある年だ」「平昌冬季オリンピックは、民族の地位を誇示する良いきっかけとなり、私たちは大会が成功裡に開催されることを心から願っている」「北朝鮮も代表団の派遣を含めて必要な措置を執る用意がある」

「私たちは民族の尊厳と気概を内外に知らしめるためにも、凍結状態にある北南関係を改善し意味深い今年を民族の歴史に書き加える年に輝かさなければならない
「何より南北間の先鋭的な軍事的緊張状態を緩和し、朝鮮半島の平和的な環境から用意しなければならない」「北と南の情勢を激化させることをこれ以上してはならず、軍事的緊張を緩和し、平和的環境を用意するために共同で努力しなければならない」

明らかに、平昌五輪をきっかけとする南北対話の意図の表明として影響は大きい。ぜひ、実現してもらいたいものと思う。

当然に、「北朝鮮の戦術」という見方は出てくるだろう。「国連安保理決議による制裁の影響が大きく出てくる前に、友好ムードに切り替え、これ以上の制裁を避けるための方策」という読みだ。だからといって、せっかくの対話のチャンスを逃してはならない。オリンピックも役に立つこともある。うまくことが運べば、オリンピックの大手柄だ。

この金正恩のテレビでの呼びかけに応じて、韓国大統領府は、直ちにこれを歓迎する声明を発表した。声明は「韓国大統領府は南北関係の改善と朝鮮半島の平和に関連する事案であれば、時期、場所、形式にこだわらず、北朝鮮と対話に応じる用意があると明らかにしてきた」とし、北朝鮮が提案した選手団派遣に向けた南北間協議に応じる方針を明らかにした、という。

また、韓国大統領府の朴洙賢報道官が、「平昌五輪が『平和五輪』として成功すれば、朝鮮半島と北東アジア、世界の平和に寄与する」と期待感を示したことが報じられている。

文政権からしてみれば、「遅かりし由良之助」「待ちかねた」と言いたいところだろう。幸いなことに間に合いそうなタイミングではないか。「米・韓」対「北」のチキンゲームに終止符を打って、平和の協議への第一歩とならんことを、切に願う。

まだ、十分に成算の見えた話ではないが、明らかに風向きが変わった。
トランプやアベには、思惑外れ。とりわけ、北朝鮮の危険を最大限利用して、9条改憲を目論むアベには面白くない展開。

ようやく訪れたこの風向きの変化に、言いたくもなる。
「こいつぁ春から縁起がいいわぇ」
(2018年1月2日)

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