このところ、安倍晋三のやることなすこと叩かれっぱなし。トランプが大統領を続けておられるのも不思議だが、安倍内閣の支持率がそこそこ保って下がらないのはもっと不思議。この国は、もはや真っ当さを失いつつあるのではないか。
まず、2月13日の毎日新聞社説を紹介しよう。表題が、「首相の自衛官募集発言 事実の歪曲で憲法語るな」。最初の書き出しが良い。「また安倍晋三首相が憲法に関して奇妙なことを言い始めた。自衛官募集に協力しない自治体があるから憲法改正が必要だという論理だ。」
首相は自民党大会の演説で「新規隊員募集に対して都道府県の6割以上が協力を拒否している」と語り、「憲法にしっかりと自衛隊と明記して違憲論争に終止符を打とうではありませんか」と呼びかけた。
「都道府県の6割以上」というのは間違いだ。自衛官募集に使うため18歳など適齢者の名簿提供を求める対象は全国の市区町村だからだ。首相も国会で発言を修正した。…自衛隊は9割の市区町村から個人情報の提供を受けていることになる。首相の言う「協力を拒否」は事実を歪曲している。
首相発言について石破茂元防衛相は「憲法違反なので募集に協力しないと言った自治体は寡聞にして知らない」と語った。自衛隊を憲法に明記したら自治体の協力が進むかのような首相の主張は詭弁に等しい。
首相はこれまでも「憲法学者の7割以上が自衛隊を違憲と言っている」ことを改憲理由に挙げてきた。事実関係のあやふやな根拠を立てて情緒に訴える論法は今回も同じだ。一国の首相が事実をねじ曲げて憲法を語るべきではない。
翌、2月14日の朝日社説(抜粋)もほぼ同旨。
「自衛官募集 改憲の理由にはならぬ」というもの。この見出しは良い。ずばりの問題点指摘となっている。
自衛官募集に自治体の協力が得られないから、憲法9条に自衛隊の明記が必要だ―。今年に入って安倍首相が言い出した改憲の根拠は、事実を歪曲し、論理も破綻している。首相の改憲論の底の浅さを、改めて示したと言うほかない。
首相は先の国会答弁や自民党大会での演説で、9条改正に関連し、自治体の6割以上が自衛官募集への協力を拒否していると強調した。しかし、これは明らかに事実に反する。
首相はまた、災害時に自衛隊が救援活動を行っていることを引き合いに、自治体の「非協力」を非難した。災害派遣を受けるなら募集活動に協力しろと言わんばかりだ。不見識きわまりない。自衛官募集のために改憲をというのは飛躍がありすぎる。
9条は戦後日本の平和主義の根幹をなす。その重みを踏まえた熟慮の跡もなく、事実をねじ曲げる軽々しい改憲論は、いい加減に慎むべきだ。
同日の東京新聞社説も引用しておきたい。タイトルは、「首相自衛隊発言 事実曲げ改憲説くとは」
安倍晋三首相は自民党大会で、党総裁として憲法9条改正に重ねて意欲を示したが、その理由に挙げた自衛官募集を巡る発言は事実誤認だ。いくら党の「悲願」とはいえ、事実を曲げてはならない。……憲法に自衛隊の存在が明記されていないから自治体が隊員募集に協力しない、自衛隊の存在が明記されれば自衛官の募集も円滑に行われる、という論法である。
東京新聞社説は、「違憲を理由に協力を拒む自治体はほぼ存在しないことになる。」「誤った事実に基づいて改憲を主張するようなことが許されていいのか。」「改憲しなければ国民の権利や平穏な暮らしが守れない、という立法事実がないから、理由にならない理由をひねり出しているのではないか。」と述べ、最後はこう結ばれている。「節度ある防衛力を整備するためにも自衛官の確保は課題だが、事実を曲げてまで、悲願の改憲に結び付けるような言動は厳に慎むべきである。」
朝日が言う「今年に入って安倍首相が言い出した改憲の根拠は、事実を歪曲し、論理も破綻している。首相の改憲論の底の浅さを、改めて示したと言うほかない。」がすべてを物語っていると言って良い。
但し、問題は「自治体が自衛隊の隊員募集に協力しているのかいないのか」にあるのではない。憲法とは、国の基本構造の設計図である。改憲とは、とりわけ9条改憲は、安倍晋三の言うがごとき、些細なみみっちい理由で提起されるべき問題ではない。
むしろ、安倍発言が明らかにした問題点は、自衛隊が9割の市区町村から個人情報の提供を受けているという事実である。唖然とせざるを得ない。
本日(2月16日)の赤旗、「自民党の自衛官募集“圧力”」「地方議会抑え込み狙う」「安倍発言を後押し」「沖縄2紙示し」という記事によれば、
自民党文書に添付されていたのは、琉球新報と沖縄タイムスが2015年10月と12月に報じた四つの記事です。琉球新報は同10月に、沖縄市と宜野湾市が、自衛隊の求めに応じて、住民基本台帳から18?27歳未満の約2万4000人分の氏名、生年月日、住所、性別を本人の同意を得ずに提供したと報道。沖縄タイムスは、同12月に両市が市議会で追及をうけ、「市民に不安を与えた」(沖縄市)「配慮不足だった」(宜野湾市)と謝罪したことを報じています。
自分の個人情報を、知らぬ間に自衛隊に流れされたら、これは一大事ではないか。市が謝罪して当然だろう。ところが、これが自民党には面白くない。
自民党が14日に党所属国会議員に配布した文書では、「一部の地方議会においては、左派系会派からの要求に応じて、法令に基づき募集対象者情報の提供を行った行政側が謝罪を行う事態にまで発展しており、看過できない」と強調しているという。
自民党の言ってることは本末転倒だ。自治体が、個人情報を自衛隊に渡していることこそが大問題ではないか。アベ流改憲がなされれば、徴兵名簿ができあがることにもなりかねない。アベの発言は、大きな問題をあぶり出した。
(2019年2月17日)
えらく、待たせられますな。いつものことですがね。
きちんと予約制にしてもらいたいものですね。
でも、毎回、ここで結構知らない人とのお話しが弾んで、楽しいこともあるんですよ。
最近、楽しい話題なんて思い当たらないじゃないですか。
児童虐待だの、イジメ自殺だの、統計偽装だの…。
そうなんですよ。私は去年、定年になったんですが、それまではテレビの国会中継なんて観る暇もなかった。今は、よく観るんですが、政府のいい加減さには、ほとほと呆れて腹が立ちますね。
安倍さんの政治は確かにひどい。でも、安倍さんに限らず、アメリカも中国も、イギリスもみんなひどい。韓国もひどいじゃないですか。
韓国の何がひどいんですか。
韓国の国会の議長が、天皇陛下に謝罪を要求したでしょう。天皇陛下に謝罪を、ですよ。怪しからん話じゃないですか。
天皇への謝罪要求はどうして怪しからんのでしょうか。安倍首相は12日の衆院予算委員会で、「甚だしく不適切な内容を含み、極めて遺憾である旨、厳しく申し入れた。強く抗議するとともに、謝罪と撤回を求めた」と怒って見せています。河野太郎外相も同委員会で、「極めて無礼な発言だ」とは言うのですが、何がどうして無礼で、甚だしく不適切なんでしょうかね。
国会議長の発言の中に、天皇を指して『戦争犯罪の主犯の息子ではないのか』という言葉がありましたね。あれが、日本の国民を刺激したのではないでしょうか。
そう、天皇陛下を「戦争犯罪の主犯」、今上陛下を「戦犯の息子」なんて、日本人なら許せないと思うのが当たり前。
そうでしょうかね。天皇が戦争を始め、天皇の軍隊が近隣諸国に攻め入って人々を殺し、天皇の役人が徴用工を募集し、天皇の軍人が強制力を用いて慰安婦を募集して管理した。天皇が、侵略戦争と植民地支配の最高責任者であることは、ごまかしも言い逃れもできない事実でしょう。その戦争や植民地支配に伴う数々の戦争犯罪について、天皇を「戦争犯罪の主犯」と言って、ちっともおかしくないと思いますが。
東京裁判でも、天皇陛下は裁けなかった。陛下に責任はなかったからですよ。
当時、GHQは天皇を占領統治に使おうとしていました。日本を反共の防波堤にしたいという思惑もあった。だから、かなり無理をして、訴追を避けたのではないのでしょうか。
それでも、少なくとも現在の天皇陛下には何の責任もないはず。その陛下に謝罪要求の根拠はあり得ません。
ここに、新聞記事がありますが、こんな風に報道されていますね。
「文喜相氏は『日本を代表する(安倍)首相から(謝罪の)一言でいい。近く退位されるのだから、天皇がそれを行うことを願う』とし、陛下は『戦争犯罪の主犯の息子ではないのか』と指摘。『そのような人が、高齢の元慰安婦の手を握り本当に申し訳なかったと言えば、これを最後に問題は解決する』と語った」(10日付各紙=共同配信)
朝日新聞は、「文氏は(天皇に関し)『戦争犯罪』という表現は使っておらず、『戦争当時の天皇の息子』と述べたと思う」と共同配信の記事の一部を否定したとしています。
正確に言えば、ストレートな「謝罪要求」ではないのですね。でも、親のしたことを子に謝らせる、という発想に違和感がありますね。
敗戦後の日本国民自らが戦争責任追求をしてこなかったことが諸悪の根源となっているように思います。韓国など被害国の側から見れば、あの被害や屈辱を与えた日本が、本心から謝罪したことはない。だから、問題が片付かないまま、現在に至っている。
今できる解決のための謝罪の仕方として考えられるのは、首相か天皇かのどちらかだろう。安倍首相は、人格的に大いに問題のある人物だから、この人に謝られたところで真摯の謝罪だとは受け取りにくい。ならば、天皇の謝罪を、ということではないでしようか。気持ちはよく分かる。
しかし、安倍さんも、国会で言っていましたよね。「今回の(文・韓国国会議長の)発言に多くの国民が驚きかつ怒りを感じたと思う」と。多くを言う必要はないんじゃないでしょうか。私もそう思いますよ。
実は、それこそが一番深い、根本にある問題ではないでしょうか。あの戦争は、天皇の命令で行われた戦争でした。神である天皇が神国日本を防衛するためとして、臣民に命じて他国を侵略した奇妙な戦争。その敗戦の責任を天皇自らがとろうとはせずに生き延びた。その天皇を日本国民が責任追及することなく、天皇制を残してもいる。ナショナリズムの中心に、常に天皇が位置し続けている。
たしかに、韓国との問題となると、排外的なナショナリズムを感じますね。天皇が絡むと一段とその色が濃くなる。安倍さんや河野さんの立場としては、天皇の神聖を傷つける無礼は許せないと言うわけなのでしょうね。
右翼がそう言うのは度しがたいところですが、政権が右翼と同じことを言ってはならんと思います。
でも、今上陛下は、追悼と鎮魂の旅を続けこられた。戦争を反省する立場でも一貫しておられる。国民からの支持は当然ではありませんか。
ああ、現天皇の追悼と鎮魂は、皇軍の将兵に対する限りですね。けっして、侵略された側、敵とされた側の将兵に対する追悼と鎮魂はない。それから、現天皇が昭和天皇の戦争責任に言及したこともありません。
もちろん天皇(明仁)が、これまで朝鮮の元「慰安婦」にも、元徴用工にも、創氏改名を強制された多くの人々にも、謝罪したことはありません。
では、退位を目前にした天皇が、いま、元「慰安婦」や元徴用工に謝罪すべきだとお考えですか。
わたしは、それは明らかに天皇の政治利用だと思います。象徴天皇とは、存在するだけのもので、機能すべきものではない。役に立ってはいけないと思うのです。
ほう、ずいぶんお堅い。私は、日韓関係改善の役に立つのなら、内閣の責任できちんと謝罪させればよいと思いますがね。
韓国議長の発言は、大きな問題を投げかけています。私たちは、過去の朝鮮侵略の歴史をきちんと想起することで、これを受けとめなければならないと思います。重要なことは、今にして未解決な慰安婦問題や徴用工問題や天皇の責任問題を考えることであって、天皇の謝罪の是非ではないと思うのです。
おや、呼出がありました。お先に失礼。
(2019年2月16日)
舛添要一・前都知事が、昨日(2月14日)夜、自分のブログに興味ある記事を掲載した。「低迷する憲法改正論議」というタイトル。「改憲派」のこの人の目からも、アベ流改憲論議は低迷しているのだ。
書き出しがこうなっている。「憲法改正の先行きが不透明になっている。憲法改正の気運も下火になっている」。「先行き不透明」とは困難に逢着しているということ、「気運下火」とは首相と側近以外のみんながやる気を失っているということ。あらためてそのとおりだと思う。
しかし、この人は飽くまで、自民党の党是である憲法改正実現にこだわる立場。「改憲を実現するには、専門知識の裏付けのある改正案をとりまとめ、野党をも含めた広範な国民的合意が必要」と言う。その上で、「ところが、今の安倍内閣は、その両方とも欠いている」と嘆くのだ。改憲に汗を流そうという「専門家」はいない。野党とのパイプとなる人材もいない。改憲なんかできるはずはない。この人がそう言うのだから、本当にそのとおりなのだろう。
「現在の自民党では、憲法問題に長年関わってきた専門家議員は排除され、専門家ではない首相側近ばかりが登用されている。安倍首相は自らの案で改憲を急ぐあまり、このような側近重視の布陣となったと思うが、それはかえって改憲を頓挫させるように思えてならない。」
舛添ブログは、さらに、具体的人名を挙げてこう言う。
「自民党改憲推進本部人事では、中谷元、船田元両議員は窓際に追いやられ、下村博文議員が本部長に、新藤義孝議員が本部長代理になった。そして衆議院憲法審査会の筆頭幹事も、中谷議員から新藤議員に代わった。さらに、改憲案を最終決定する総務会の会長は、やはり安倍側近の加藤勝信議員である。
下村、新藤、加藤議員は、憲法の専門家ではない。「憲法族」でない議員が主導権を握ると、立憲主義を無視したり、天賦人権論を否定したりする非常識な主張が採用されることになる。
私が起草に関わった自民党憲法改正第一次草案と2012年4月27日に公表された第二次草案とを比べれば、憲法学的に見て、また国際的視点からも、さらには人権擁護の歴史から見ても、後者が拙劣極まりないものであることが分かる。」
誰が見ても、そうなのだ。かつて自民党憲法改正第一次草案を執筆した人の目からも、現行自民党改憲草案は「拙劣極まりないもの」なのだ。この点は強く同意せざるを得ない。
じゃあ、どうすればよいのか。舛添ブログは、「国の根幹である憲法についての議論には、専門知識と謙虚に国民的合意を得る努力が不可欠である。」で結ばれている。
言外に言わんとするところを忖度すれば、こうであろうか。
「安倍さんよ。改憲は、下村、新藤、加藤などの素人連中でできることじゃない。今のままでは改憲は遠のくばかり。いや、場合によっては、失敗してあなたと自民党の命取りもなりかねない。
だいたい、あの素人連中に任せておくと、立憲主義を無視したり、天賦人権論を否定したり、非常識なことばかり。
あっ、そういえば、安倍さん。あなたも、ど素人のお仲間でしたっけ」
(2019年2月15日)
本日(2月14日)が沖縄県民投票の告示日。沖縄全県で24日に投開票が行われる。投票結果について、「賛成または反対の多い方の票数が投票資格者の総数の4分の1に達したときは、知事はその結果を尊重しなければならない」(県民投票条例第10条第2項)と定められており、「その結果を知事が内閣総理大臣(安倍晋三)及びアメリカ合衆国大統領(ドナルド・トランプ)に対し通知する」もの(同条第3項)とされている。
本日、玉城知事が以下のコメントを発表している。
投票日の告示について
本日、辺野古米軍基地建設のための埋立ての賛否を問う県民投票条例第4条第2項の規定に基づき、県民投票の投票日を2月24日・日曜日とすることを告示いたしました。
今回の県民投票は、普天間飛行場の代替施設として国が名護市辺野古に計画している米軍基地建設のための埋立てに対し、県民の意思を的確に反映させることを目的に実施いたします。
投票は、投票用紙の「賛成」の欄、「反対」の欄、又は「どちらでもない」の欄のいずれか一つに「○」の記号を記入する方法で行います。
また、期日前投票も、明日2月15日・金曜日から実施されます。
私自身も、明日早速、期日前投票を行うこととしております。
県民投票は、県民の皆様ご自身の意思を直接示すことができる大変重要な機会です。県民の皆様には、ぜひ、投票所に足を運んでいただき、貴重な一票を投じていただくようお願い申し上げます。
平成31年2月14日
沖縄県知事玉城デニー
そして、本日の地元紙沖縄タイムスの社説を引用(抜粋)しておこう。
[県民投票きょう告示]沖縄の将来像を語ろう
「ようやく」という言葉がふさわしいのかもしれない。名護市辺野古の新基地建設を巡る県民投票が、24日の投開票に向け、14日、告示された。
国が進めている埋め立ての賛否を問うもので、「賛成」「反対」「どちらでもない」の三つの選択肢の中から、いずれかに「○」を記入する。
今さら法的拘束力もない県民投票を実施する必要がどこにあるのか?そんな声は今もある。だが、県民投票を実施する最大の理由は、まさにそこにある。
「他に選択肢がない」という言い方は、政策決定によってもっとも影響を受ける者の声を押しつぶし、上から目線で「これに従え」と命じているのに等しい。実際、選挙で示された民意はずっと無視され続けてきた。
県民投票は、戦後74年にわたる基地優先政策が招いたいびつな現実を問い直す試みでもある。
軟弱地盤の改良工事のため、当初の予定を大幅に上回る工期と建設経費がかかることも明らかになってきた。状況が変わったのだ。
米軍普天間飛行場の一日も早い危険性除去をどう実現すべきか。辺野古の自然環境は果たして保全されるのか。
埋め立ての賛否を考える上で避けて通れないのは、この二つの論点である。
県民投票に法的な拘束力はない。どのような結果になっても計画通り工事を進める、というのが政府の考えである。
しかし、「反対」が多数を占めた場合、玉城知事は辺野古反対を推し進める強力な根拠を得ることになる。
県民投票によって、疑う余地のない形で沖縄の民意が示されれば国内世論に変化が生じるのは確実だ。政府が辺野古での工事を強行しているのは、県民投票を意識している現れでもある。
さて、埋立についての法的問題の経過を確認しておきたい。
公有水面埋立法によれば、海面を埋め立てるには知事の許可または承認を要する。沖縄防衛局の大浦湾埋立を仲井真知事(当時)が承認し、翁長前知事が承認を撤回した。これが、昨年(2018年)8月31日。但し、同知事は8月8日に死去して、知事代行の副知事が撤回の意思表示をしている。
その状態で、沖縄県知事選が行われ、9月30日に「オール沖縄」の玉城デニー候補が圧勝した。
知事選後、アベ政権は沖縄に寄り添う姿勢を捨てた。10月17日には沖縄防衛局が国交大臣に対して承認撤回を理由のないものとして、行政不服審査法に基づく審査請求をし、併せて「(撤回の効力についての)執行停止」を申立てた。同月30日、国交相の執行停止決定がなされ、工事が再開されることになる。12月14日、辺野古沿岸部に土砂が投入され埋め立てが始められた。いま、美ら海が土砂で埋められつつある。
そのような時期における県民投票であるが、沖縄タイムス社説が言うとおりの、事情変更が明らかになっている。「軟弱地盤の改良工事のため、当初の予定を大幅に上回る工期と建設経費がかかる」ことが明らかになってきたのだ。
以前から軟弱地盤問題は知られていたが、予想を遙かに上回るものであることが確認されつつある。「辺野古軟弱地盤 最深90メートル」「杭は7.7万本必要」「砂650万立方メートル」「新基地は不可能」と各紙の見出しが躍っている。
この軟弱地盤、最大の水深90メートル(海面から海底まで30メートル、地中60メートル)に達する、という。土木工学の専門家が、これだけの深さの地盤改良工事は前例がなく、技術的にも極めて困難、これを可能とする地盤改良船は日本にはないという。
この軟弱地盤の改良工事は、護岸部分はサンドコンパクションパイル(SCP)工法(強固に締固めた砂杭を地中に造成して地盤を改良する工法だという)で3万8945本、埋め立て部分はサンドドレーン工法で3万7754本、合わせて7万6699本になるのだという。
地盤改良区域の面積は約65ヘクタール(新基地建設埋立て区域160ヘクタールの約4割)。砂杭に使用する砂の量は東京ドーム5・25杯分にあたる約650万立方メートルに達するという。
当然に、沖縄県の地盤改良工事のための設計変更許可が必要になろう。安倍首相は1月31日の衆院本会議で、軟弱地盤の改良工事のため計画変更の承認を沖縄県に申請すると、政府として初めて言及したという。が、県が許可できるはずはない。
こうして、「辺野古新基地建設は法的にも技術的にも不可能であることが鮮明になりました」(しんぶん赤旗)というのが常識的なものの見方。計画は白紙にするほかなかろう。
このような事態での県民投票である。政権の思惑は、早期に既成事実を積み重ねて県民を諦めさせることだった。しかし、そうはなりそうにもない。投票の結果次第では、辺野古新基地建設を断念させることができそうではないか。運動の成果を期待したい。
(2019年2月14日)
隠蔽 改竄 ニセ統計
忖度 追従 無責任
粗製濫造閣僚に
パワハラ セクハラ 嫌がらせ
デマに ヘイトに 不寛容
百鬼夜行の忌まわしさ
トランプ様にはペコペコで
虎の威借りたる我が首相
近隣諸国に居丈高
いつまで続くハッタリぞ
ウソとゴマカシやり放題
嘘つき首相が一強で
政治の私物化お家芸
それでも続くぞ政権は
メディアのプライド投げ捨てて
首相と飯喰う言論人
首相の広報引き受けて
楽に稼げりゃそれでよし
原発輸出は行き詰まり
アベノミクスも行き止まり
急ぐは原発再稼働
環境汚染もなんのその
辺野古の美ら海埋め立てて
作るぞ米軍新基地を
壊すぞ珊瑚の群落を
移植は得意のウソなのさ
東京五輪はもうすぐだ
ばれなきゃいいが、あのウソが
コントロールもブロックも
口から出まかせ 嘘っぱち
どんどん増えるぞ貯水槽
? 森羅万象司る
もしや私は神様か
私になんでも任せなさい
忖度する者は救われる
庶民に負担の消費税
それで財源こしらえて
企業に減税振る舞って
これが安倍流景気策
消費増税その負担
還元しますと胸を張る
ならば増税しなけゃよい
なるほど、言われりゃそのとおり
いよいよ憲法改正だ
なんと言おうとやり遂げる
一人になってもがんばって
目指すは、一人で過半数
私に協力しない者
災害時には救援なしと覚悟せよ
京童の口ずさみ ほんの少しを漏らすなり
天下一統珍しや 今に生れてアベ流の
政治を見聞くぞ不思議なる
(2019年2月13日)
2019年2月12日
平成30年(行コ)第12号 サケ刺網漁不許可取消請求等控訴事件
?意 見 陳 述 要 旨
仙台高等裁判所第1民事部 御中
控訴人ら訴訟代理人弁護士 澤 藤 大 河
本日陳述の準備書面(3) (4) 及び(5)の3通は、いずれも本件の主たる争点であるサケ刺網漁不許可要件としての「漁業調整の必要」の有無に関して、被控訴人への反論を行うものです。この間の、被控訴人との論争を通じて、本件の法的主張の枠組みと主要な争点が明確になってきたものと考えます。
以下に、4点の主要な争点に限って、要約して口頭で意見を陳述いたします。
☆ まず、漁業法の目的規定である第1条「漁業の民主化」をめぐる論点です。
控訴人らは、漁業法第1条を、あるべき漁業秩序の理念の表現と主張してきました。
これに対して、被控訴人は「漁業の民主化」とは手続的原則に過ぎない、と反論しています。しかし、「民主化」の理念が、形式的手続に留まるものであるはずはありません。「漁業の民主化」を形式的手続的理念のみに押し込めてしまえば、「民主化」は目的理念を喪失した無内容なものとなってしまいます。
漁業法の制定は、戦後の経済民主化の一環として、農地改革とならぶものです。農業における「経済民主化」は、小作人に一定の土地を与えることで、独立農業経営主体を作り出すことを主眼としたものでした。「漁業における民主化」とは、漁民に海面の一区画を付与することに代えて、適切な漁業調整を通じて、独立漁業経営主体の形成を可能とすることにあります。ですから、漁業調整とは、単なる手続的概念ではありません。被控訴人は、「民主化とは、構成員が一人一票など対等な立場で漁業調整機構の運営に参加することの手続的保障」だと言いますが、それでは不十分なのです。実体的に零細漁民の生計の維持が可能となるよう調整の目的をもたねばなりません。本件では、漁業法が定める「民主化」という目的に照らして漁業調整が行われたか、そのことが鋭く問われているのです。
☆ 次いで水協法4条の問題です。最初に、この論争の局面を確認しておきます。
本件における漁業調整は、いったい誰と誰との漁業利害を調整しているのでしようか。「控訴人ら漁民と漁協」の調整ではありません。飽くまで、「控訴人ら漁民と定置網漁業者」との間の調整なのです。乙15によれば、岩手沿岸の定置網は82ケ統を数えます。そのうち漁協経営のものが漁協と個人との共同経営を含めて56ケ統、およそ3分の2に過ぎません。残りの26ケ統、3分の1は漁協の関わりのない定置網事業者なのです。
控訴人ら漁民が、漁協との関わりのない定置網事業者、しかもサケの孵化放流事業とも無縁なこれらの定置網事業者との関係で、その事業者の利益を擁護するために、サケ刺し網漁を禁止とされる正当性はおよそ考えられないところです。
そのことを前提とした上で、控訴人ら全員が所属している漁協の定置網事業との競合の関係をどう考えるべきか。それが問題の局面です。控訴人らは、漁協に自営定置を止めろなどとは言っていません。漁協の定置網漁の漁獲に差し支えるから、組合員である原告ら漁民にはサケ刺し網漁は一切禁止という漁業調整のあり方は、本末転倒で違法だと言っているのです。
水協法4条は、「漁協とは組合員のために直接の奉仕をすることを目的とする存在」と定めています。本来、漁民と競合する事業を行うことは想定されていないのです。二平氏の意見書が指摘するとおり、「漁協が組合員構成員の漁業を直接侵害する場合には、自営事業を行うことは、法的な目的に反する」というほかありません。いかなる法人も、法の目的に反した行為はできません。仮に漁協が漁業を営むための法17条の手続要件が具備されたとしても、4条違反を治癒することはできないのです。結局、サケ固定式刺し網漁許可申請を不許可とにする理由として、漁協の定置網漁に支障を生じるという事情を挙げて、「漁業調整の必要有り」として不許可にすることは違法と言わざるを得ません。
なお、被控訴人は、関連して「県内の定置漁業者は公的資金投入を受けた孵化放流事業の担い手でもあり、投下資本回収の必要がある」と言っています。「県内の定置漁業者が公的資金投入を受けた孵化放流事業の担い手」というのは明らかな間違いですが、孵化放流事業者がサケを優先的に漁獲する権利はありません。公的資金と賦課金とで経営されているのであれば、なおさらのことです。
☆ サケ延縄漁業が、刺し網漁の代替性を有するかについては、詳細に述べたところです。被控訴人には、誠実に追加の資料を提出していただくよう求めます。
この論争で浮かびあがってきた論点があります。どうして、行政は漁民に対して、非効率的な漁法は許可して、効率的な漁法は許可しないのか。漁獲上限がない延縄漁は許可して、10トンを上限とするサケ刺し網漁は許可できないのか、という疑問です。控訴人らは、いずれも年間最大漁獲高10トンを上限とする許可を申請していますから、効率がよいから、取り過ぎて資源枯渇をきたすという不許可の理由は成り立ちえません。
何よりも、行政が漁民に対して、あえて非効率な漁法を強制して、効率的な漁法を禁止することは、合理的な理由を欠くものとして、漁民の憲法上の職業選択の自由を侵害するものと言わざるを得ません。
☆ 最後に、漁協による自営定置の利益還元について述べます。
現在、被控訴人は直接的な還元があるとの主張ではなく、定置網事業の利潤が漁協の運営コストに充当されることで、組合員の負担を減らす間接的な還元がなされていると主張しています。しかし、この「間接的還元」論は倒錯した論理と言わざるを得ません。
漁業者の漁業経営を成り立たせることが最優先事項です。漁協は漁民の生活を成り立たせるためにのみ存在するのです。漁業者の収入から、漁協の会計を支えることがあるべき姿です。ところが、サケ漁を漁民から取りあげ、漁協がサケを獲って、漁協のコストを差し引いたものが、間接的に還元されている、という「論理」は、法の予定していないところで、倒錯と言わざるを得ないのです。
更に根本の問題は、漁協から組合員への「還元」の有無や内容ではなく、「還元」の前提となっている、組合員のサケ漁の権利を剥奪して、漁協が独占している構造の正当性の問題です。なぜ、小型漁船漁業者の自らサケを採る権利を奪うことができるのかということなのです。控訴人らの主張は、これを正常に復して、サケ漁の利益を組合員の手に取り戻そうというものです。しかも、全部の収益を組合から取り戻そうというのではなく、年間10トンの漁獲に限ってのささやかな要求であることを、ご理解ください。
☆ なお、本件許可申請を不許可とする事由として、「漁業調整の必要」と並んで、「サケ資源の維持培養の必要」があります。この点については、控訴人としては基本的には原審での井田齊氏の意見書と証言で立証は十分と考えていることを申し添えます。
(2019年2月12日)
以下は産経の記事。
安倍晋三首相は8日、平成最後の「建国記念の日」を11日に迎えるにあたり「平成のその先の時代に向かって、私たちの子や孫の世代のために、今後も努力を重ね、よりよい未来を切り拓(ひら)いていく」とのメッセージを発表した。
産経よ。「平成最後の」は、無意味・無内容、余りに陳腐。能がないし、聞き飽きた。聞き苦しくもある。いい加減にやめていただきたい。
「平成のその先の時代」もそろそろ陳腐。「これから先の時代」ではない、「平成のその先の時代」。過去のことなら、遡って元号表記ができるのだが、「平成のその先」は元号で言えない辛さが滲み出ている。
「私たちの子や孫の世代のために、今後も努力を重ね、よりよい未来を切り拓いていく」というメッセージは、具体性に欠けるとは言え意味のないものではない。しかし、わざわざ、2月11日という「右翼の聖なる日」を選んで、この男が言うと、格別の意味を感じざるを得ない。言葉とはそういうものだ。
首相は「伝統を守りながら、同時に変化をおそれず、困難な課題に対しても果敢に挑み、乗り越えていく。平成の時代においても私たちはそうした努力を積み重ねてきた」と振り返った。「先人の努力に感謝し、さらなる日本の繁栄を希求する機会となることを切に希望する」とも述べた。
ここで言う「私たち」って誰のこと? アベさん、あなたは「戦前以来一貫した保守の利益誘導政治の伝統を守りながら、同時に新自由主義への変化をおそれず、専守防衛の国是を打ち破る困難な課題に対しても果敢に挑み、辺野古の美ら海を埋め立てて乗り越えようとしている。平成の時代において、私は、そうした国政私物化の努力を積み重ねてきた」というべきでしょう。
ついでに、本日(2月11日)の産経社説に目を通して見よう。何という右翼論調丸出しの、大新聞にあるまじきアナクロニズム。あたかも、新興宗教「平成天皇教」の趣き。いや「天皇宗産経派」であろうか。
《【主張】建国記念の日 国家の存続喜び祝う日に》という表題。
御代(みよ)替わりという特別な年の、建国記念の日を迎えた。
間もなく皇太子殿下が第126代の天皇に即位される。初代神武天皇が即位したとされる日を新暦に直して明治の初めに定められた祝日が、2月11日だった。もとは紀元節といった。
なんという悠久の歴史を持った国に私たちは生きていることか。驚くべき、また感謝すべきことと、改めて感嘆せずにはいられない。
歴代天皇とともに国家として続いてきたわが国の歴史をこそ、この日に思いたい。世界にもまれな国柄を誇りとしたい。建国を記念するとは、わが国の成り立ちをしのび、国家として存続していることを国民がこぞって喜び祝うことであろう。
この日は戦後の長い間、不当に扱われた。…2月11日はGHQに認められなかった。日本が独立を回復してからも、この日はしばらく祝日として復活しなかった。建国神話を皇国史観や戦争と結びつけ、それを祝うことは軍国主義の復活である、などとして反対する勢力が、国内で強くなってしまった。
昭和41年にようやく祝日法が改正され建国記念の日ができたが、怒号ともみ合いの国会だった。建国神話を忌避するような風潮はその後も残った。この祝日に反対する声は残念ながら今でもある。
しかし、このような風潮は大きな間違いである。神話であれ史実であれ、建国の物語はどの国にもあってしかるべきものだ。それは国民を結びつける太い軸となるはずのものである。
その物語を自ら否定することは、自分の国を否定することに等しい。それこそ戦後の自虐史観にほかならない。このような歴史観はいい加減に断ち切りたい。日本の安全保障への脅威が増す中、自分の国を愛せなければ国を守るという意識が高まるはずもない。
祝日法で建国記念の日は「建国をしのび、国を愛する心を養う」とされている。連綿と続く歴史を思い、この素晴らしい国を心の底からいとおしみたい。
何と、愚かな「主張」だろうか。よくぞ素面で、臆面もなく、こんなことが言えたものだ。産経教信者には、日本とは天皇の国ということなのだ。というよりは、そう理解したいのだ。これはまさしく信仰の世界。その信仰においては、建国とは天皇制の成立と同義になる。「建国をしのび」とは、「天皇制の成立に思いを馳せ」ということであり、「国を愛する」とは、天皇に恭順することにほかならない。
「建国をしのび、国を愛する心を養う」べき日に、産経が「国家の存続喜び祝う日に」という社説を掲載するのは、「天皇制の成立に思いを馳せ、天皇に恭順する心を養うべき今日の良き日を、天皇制の存続を喜び祝う日としよう。天皇あればこそのこの素晴らしい国なのだから」という呼びかけである。
日本も日本国も、天皇のものではない。歴史的に日本に住む多くの人々は、天皇を意識せずに暮らしてきた。産経流の天皇崇拝は維新政府が国民統治のために作り出したものではないか。昔から、神武東征という話をおかしいと思っていた。神武(カムヤマトイワレビコ)は、苦労して賊を平らげつつ橿原神宮にまで至る。ナガスネヒコ以下、どうして賊なのか、どうして討たれなければならないのかが分からない。神武こそ、暴虐な侵略者ではないか。
先日の赤旗文化欄に、久保田貢さん(愛知県立大学・教育学)が、「建国記念の日を考える」の論説を寄稿していた。タイトルが、「天皇崇拝と軍国主義動員」「赤紙うんだ元祖フェイク」というもの。建国記念の日を、「元祖フェイク」と言っている。なるほど、そのとおりだ。建国神話をフェイクというのではない。どこの民族ももっている建国神話を19世紀に引っ張り出して20世紀半ばまで、史実として教えたことが、「元祖フェイク」なのだ。もちろん、元祖に続いて「天皇制関連フェイク」が目白押しなのだ。敗戦に至るまで、学校教育は「天皇制関連フェイク」の洪水であった。そのフェイク後遺症から抜けきることのできない、愚かな人もまだいる。たとえば、アベ晋三とか。産経とか。
こんな、産経流の愚かな新興天皇教を再び流行らせてはならない。国をどうとらえ、どう評価するかは、自分で決める。国家に押しつられてたまるものか。ましてや、アベや産経ごときに。
(2019年2月11日)
「3・1独立運動」から間もなく100年。今月下旬、そのゆかりの地を訪れる旅に、私も参加する。現在の日韓関係の軋みの来歴としても、韓国の民主運動の源流としても、100年前のこの事件を把握しておきたい。
本日(2月10日)、日朝協会東京都連が主催する「新春の集い」。その記念講演が、「3・1独立運動は私たちに何を語りかけるか」という表題で、講師は趙景達氏(朝鮮民衆史・千葉大教授)。この講演を聞きいて少なからぬ衝撃を受けた。自分の中の常識が覆された。
今日の企画のポスターに、「朝鮮半島で100年前に起きたこと」「それは、東京・神田で始まった」「苛酷な植民地支配に抗して朝鮮民族は平和な万歳デモで立ち上がった。現代のキャンドルデモのように」とある。これが常識的な理解。
韓国では3月1日は、三一節として祝日に指定されている。本日の集会の主催者挨拶でも触れられたが、現在の大韓民国憲法の前文にも、「3・1運動」が明記されている。その冒頭を引用すれば、以下のとおり。
悠久な歴史と伝統に輝く我々大韓国民は、3・1運動で建立された大韓民国臨時政府の法統と、不義に抗拒した4・19民主理念を継承し、祖国の民主改革と平和的統一の使命に立脚して、正義・人道と同胞愛で民族の団結を強固にし、全ての社会的弊習と不義を打破し、自律と調和を土台に自由民主的基本秩序をより確固にし…、
「3・1運動で建立された大韓民国臨時政府」とは、3・1運動後、中華民国の上海市で結成された朝鮮の独立運動組織である。その中心の活動家として、李承晩・呂運亨・金九らの名が知られている。なお、「不義に抗拒した4・19民主理念」とは、李承晩政権を打倒した1960年の「4・19学生革命」をいう。
その歴史的な「3・1独立宣言書」への署名者は33名。宗教別に選定された代表者として、天道教15名、キリスト教16名、そして仏教から2名。この33名を指して「民族代表」という。
1919年3月1日午後。ソウル市内のタプコル公園(旧名・パゴダ公園)に集まった群衆の前で、「3・1独立宣言書」が読み上げられ、群衆は歓呼をもってこれに応じた。宣言文は、かなりの長文だが、冒頭は以下のとおり。
吾らはここに、我が朝鮮が独立国であり朝鮮人が自由民である事を宣言する。これを以て世界万邦に告げ人類平等の大義を克明にし、これを以て子孫万代に告げ民族自存の正当な権利を永久に所有せしむるとする。
タプコル公園に集まった群衆は、「独立万歳」を称えて、市内をデモ行進し、この熱狂はたちまち全国に伝播する。知識人の唱導する理念に民衆が賛同して運動をともにする美しい構図。そのように見える。そして、非暴力を理念とした「独立万歳」の運動は日本の軍と警察による苛酷な弾圧を招くことになる。
かつて、タプコル公園を訪れたときに、この民族代表33名を代表する人物の像を見た。名前は覚えられなかったが、これが孫秉熙(ソン・ビョンヒ) である。東学を「天道教」と改称した、教団の教主であった人物。即日、警察に逮捕され、懲役3年の刑を宣告されている。
本日の趙景達教授の講演では、この孫秉熙を独立運動のヒーローと見てはならない、と言う。のみならず、民族代表33名は、3・1運動を指導していないともいう。
本日配布のレジメには、思いがけない文章が並ぶ。
・3月1日における民族代表の背信
→独立宣言を行うはずのパゴダ公園に現れずに料理店で祝杯を挙げて自首する。 →学生と民衆を排除
・民族代表をめぐる評価の問題
→野心を秘めた民族代表の僭称
→愚民観と民衆不信に立つ民族代表
・孫秉熙の民衆・国家観
→本来総督府に協力的で韓国併合も仕方ないとしていた
→独立運動を当初から否定し、天道教徒に天皇の臣民になることを説いていた
3・1運動についてのイメージが崩れるが、問題はもっと大きい。
同教授は、「3・1運動の論理」に関して、知識人と民衆とは違うことを強調する。民族代表は知識人の論理の典型だったが、その限界は明らかで、統治者である日本の官憲には恐い物ではなかった。
「知識人に指導される民衆」ではなく、「民衆の運動を自律的なものとしてとらえる視点」が必要。これが本日講演のメインテーマであったと思う。
講演では、3・1運動では、「おずおずした臆病な民衆ナショナリズム」が解放されて、知識人の思惑を越えて猛威を振るった、という。その「民衆ナショナリズム」は1945年8月15日の日本の敗戦で再び燃え上がり、日帝に禁止されていた白服の民衆が万歳を叫んで街頭で乱舞したという。このときには、「おずおずした臆病なナショナリズム」ではなかった。
講演の骨格は、この集会の主催者が期待した、「苛酷な植民地支配に抗して朝鮮民族は平和な万歳デモで立ち上がった。現代のキャンドルデモのように」というものではなかった。さて、100年前の民衆の運動が、今にどう生きているのだろうか。知識人の運動の論理と民衆の論理を分ける考え方は有効なのだろうか。
問題の未整理、未消化のまま、現地を旅することになりそうだ。何か、答が見つかるだろうか。
(2019年2月10日)
春って曙よ! 春とあけぼの、ピッタリじゃん!
そして、首相ってばシンゾーね! ちょっときもいけど、今の日本にピッタリじゃん。
アメリカにはヘイコラしちゃって、韓国にはむやみにイバってさ。いかにも日本人じゃない。みんなの気持ちがよく分かってんのね。
あんまり歴史は知らないくせに、ヘイトに自信を持っちゃって。あれが魅力ね。
それに、沖縄よね。沖縄にヤなもん押しつけておけば、ワタシらラクチンさ。そんな気持、シンゾー、よく分かってんのよ。選挙区沖縄じゃないもん。
それからオリンピックもね! 放射線は完全にブロックしてコントロールしてるナンチャッテさ。ああいう風に、堂々とウソをつけるって、やっぱりただ者じゃないのよね。
国会では、これから丁寧に説明しますって繰り返してさ。イツ説明するのかなと聞き耳立てていると、それについてはこれまで丁寧に説明したところですって。さすがに毛の生えた「シンゾー」。そして分厚い面の皮よね。たいしたもんじゃない。
何よりも、すっごく素敵なのは、国政の私物化ね。仲の良い人には、国有地を只同然でくれてやったり、獣医学部の新設を押し通したり、義理堅いんだもん。みんな、この人と仲良くなりたいと思っちゃうよね。
それに教養をみせないところが、カッコいいもんね。ニッキョーソ、ニッキョーソって騒いでみたり、漢字も良く読めないところでウケをねらったり。結構苦労してるみたい。
すんごいパワーも感じさせてね。アベノミクスって、外れても折れても、次々と何本でも矢が出てくるんだもん。そして、次々と矢が外れて行く内に、格差と貧困が拡がっていく。もう、たまんないわねッ!
でもなんてったって、一番は憲法改正よね。だあれも望んでいないのに、一人でがんばって9条変えようっていうのよね。公明党もついていけないって態度みたいじゃん。これって、素敵なのかな、ダッサイのかな。
森羅万象すべてを担当なんて神ってきてるけど、シンゾーの周りは魑魅魍魎が百鬼夜行。五里霧中で、実のところは四面楚歌じゃん。
秋って夕暮れよ! そろそろシンゾーも夕暮れね。
秋の夕暮れの風情は、何もかもすっごく素敵! だけど、たくさんの人をたぶらかしてきたシンゾーの夕暮れは…。きっとみじめでダサイのッ!。
(2019年2月9日)
弁護士の澤藤と申します。1審原告らの代理人の一人です。「10・23通達」発出以来の15年、この問題に携わってまいりました。本件の当事者や支援者と一緒に、要請を申し上げます。
東京「君が代」裁判4次訴訟は、今、3件に分かれて最高裁に係属しています。原告教員側からの上告事件・上告受理申立事件、そして一審被告都教委の側からの上告受理申立事件です。
懲戒処分を受けた教員が上告理由としているのは、国旗・国歌(日の丸・君が代)強制の憲法違反です。何ゆえ憲法違反か。上告理由書は260ページに及ぶ詳細なものですが、煎じ詰めれば、思想・良心・信仰の自由という憲法に明記されている基本的人権というもの価値が、他の価値に優越していると言うことです。
教員の一人ひとりに、それぞれの思想・良心・信仰の自由が保障されています。各々の思想や良心やあるいは信仰が、国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明を許さないのです。公権力が、敢えてその強制を行うことで、一人ひとりの精神的自由の基底にある、個人の尊厳を傷つけているのです。傷ついた個人の尊厳という憲法価値を救うために、裁判所は国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明強制は違憲だと宣言し、懲戒処分を取り消さなければなりません。
原告教員の側は、個人の尊厳という憲法価値を前面に立て、これを侵害する懲戒処分を取り消せと主張を重ねてきました。一方、都教委側が主張する憲法的価値はと言えば、それは国家です。国旗・国歌(日の丸・君が代)は国家象徴ですから、すべての人に「国旗国歌に敬意を表明せよ」と命じるのは、国家に、個人の尊厳を凌駕する憲法価値を認めなければできないこと。個人の尊厳と、国家と。この両者を比較検討してどちらを優越する価値とすべきでしょうか。
多くを語る必要はありません。個人の尊厳こそが根源的価値です。国家は便宜国民が作ったものに過ぎません。個人の尊厳が傷つけられる場合、公権力が個人に国家への敬意を強制することはできないはずです。
いま、最高裁判例は、「国旗・国歌への敬意表明の強制は、間接的に強制された人の思想・良心の自由を制約する」ことまでは認めています。しかし、その制約は「間接的」でしかないことから、緩やかな必要性・合理性さえあれば、制約を認めうる、と言うのです。私たちは到底納得できません。判例か変更されるまで、私たちは何度でも違憲判断を求める訴訟を繰り返します。
一審原告の上告受理申立理由の中心は、本件不起立行為を対象とする戒告処分も処分権者の裁量権を逸脱濫用した違法のものであって取り消されねばならない、という点です。仮に、本件各懲戒処分が違憲で無効とまでは言えなくても、わずか40秒間静かに坐っていただけのこと懲戒処分とするほどのことではない。実際、式の進行になんの支障も生じてはいないのです。懲戒処分はやり過ぎで、懲戒権の逸脱濫用に当たる、と言うものです。
現に、2011年3月10日東京高裁判決は、処分は違憲との主張こそ退けましたが、懲戒権の逸脱濫用として全戒告処分を取り消しています。是非、この判決を重く受けとめていただきたいのです。
この高裁判決を受けての最高裁判決が2012年1月16日第一小法廷判決です。戒告処分違法の判断を逆転させて、「戒告は裁量権の逸脱濫用には当たらない」としたのです。しかし、さすがの最高裁も、戒告を超えた減給以上の懲戒処分は苛酷に過ぎて裁量権の逸脱濫用に当たり違法、としたのです。
つまり、不起立に対する処分は違憲とは言えない。しかし、懲戒処分が許されるのは戒告処分止まりで、それ以上の重い減給や停職などの懲戒処分は裁量権の逸脱濫用として違法。これが現時点での判例の立場です。
私たちは、多様性尊重のこの時代に、全校生徒と全教職員に対して、国旗・国歌(日の丸・君が代)に敬意表明を強制することはあってはならないことだと考えます。思想や良心、あるいは信仰を曲げても、国旗・国歌(日の丸・君が代)に敬意を表明せよという強制は違憲。少なくとも、起立できなかった教員に対する懲戒処分はすべて処分権の逸脱濫用として取消しとなるべきことを主張しています。最高裁には、是非とも再考願いたいのです。
そして、都教委が教員の一人を相手にして上告受理申立をした事件。その理由が、相手方となった教員が過去3回の不起立・戒告処分があるから、4回目は減給でよいだろう。そして5回目も減給、というのです。
しかし、この教員の思想も良心も一つです。何度起立を命じられようとも、思想・良心が変わらぬ限り、結果は同じこと。処分回数で思想や良心に対する制裁強化が許されるはずはないのです。これを思想を変えるまで処分を重くする、などという企みは転向を強要するものとして、明らかな違法と言わざるを得ません。
実は憲法論と同じように法的価値の衡量が行われています。衡量されている一方の価値は、思想・良心・信仰の自由。その基底に、個人の尊厳があります。衡量されているもう一方の価値は、「学校の規律や秩序の保持等の必要性」であり、違憲論の局面で論じられた価値衡量の問題が、本質を同じくしながら公権力の行使の限界を画する懲戒処分の裁量権逸脱濫用の有無という局面で論じられているのです。
結論は自ずから、明らかです。都教委の上告受理申立はすみやかに不受理とすべきです。いま、都教委の識見が問われています。しかし、問われているのは都教委だけではありません。実は、最高裁もその識見を、ありかたを問われています。憲法が想定する、憲法の番人、人権の砦の役割を果たされるよう、切に要望いたします。
(2019年2月8日)