澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

9年目の3月11日に、新型インフル特措法の改正に反対する。

昨日が3月10日、東京大空襲によって無辜の非戦闘員10万人が虐殺された日。戦争被害だからとして到底甘受しえない、あまりに巨大で悲惨な体験。それまで多くの国民にとって、戦争とは外地で行われるものであり、危険は出征した男たちが引き受けるはずのものであった。1945年のこの日は、戦争とはすべての国民に否応のない深刻極まる惨禍をもたらすものと思い知らされた日でもある。

戦争は天災ではなく人災である。起こした人がおり責任者がいる。その戦争責任の追及が求められる。中国に対しても米英に対しても、戦争を仕掛けたのは日本の側なのだから、虐殺された10万人の怨みは、戦争をたくらんだ日本の為政者・天皇制政府にも向けられなければならない。最高責任者天皇の責任を追及しなかったことが、歴史的禍根である。

そして、本日が3月11日。2011年の東日本大震災の記憶は生々しい。東北3県の2万余の人が津波でかけがえのない命を失った。天災の被害者には、哀悼の意を捧げるしかない。しかし3・11には、天災にとどまらず戦争と本質を同じくする人災がそれに続いた。福島第1原発の事故による放射線被害である。地震大国日本において原発を国策とし、しかも津波対策を怠った者の責任を不問に付してはならない。今、民事・刑事の訴訟を通じて、この大事故の責任追及が行われている。なお、当時の私の思いは、下記のブログに書き尽くしている。
https://article9.jp/wordpress/?p=4563

あの日から9年経った今、世はコロナウィルス禍に萎縮した事態にある。これも、一面は天災であり、またもう一面は人災でもある。安倍政権のコロナ対策は、納得しうる根拠に欠け、無為無策のうちに感染被害を拡大した。そして、無為無策を非難されるや、一転して根拠を示すことなく、根拠に欠けた過剰な対策をとるようになった。

その理由の一つは桜疑惑に代表される自らの不祥事の糊塗であるが、それにとどまらない。コロナ禍の蔓延を奇貨とした、改憲への国民の誘導を考えているのだ。

泥棒とは、不名誉な人物であり、あるいは行為である。火事場泥棒という言葉の語感は、単なる泥棒の比ではない。なんという忌まわしく、汚い、怪しからん、奴というイメージがある。安倍晋三がやろうとしているのは、その類である。

「火事場」とは、新型コロナウィルスの蔓延の事態をいう。国民が戦々恐々としているというだけではない。現実に多くの人の就業や営業に差し支えが生じて苦しんでいるときに、その事態を自己の野望の実現に利用しようというのだ。

「泥棒」とは、新型インフルエンザ特措法の改正をいう。盗まれようとしているのは、立憲主義にほかならない。憲法は、国民の人権を擁護するために為政者の権力行使を制約する体系として作られている。ところが、国家の緊急事態を口実に、為政者にフリーハンドを与えるという危険極まりない例外の設定が、「緊急事態」。この特措法はその危険を内包している。

安倍晋三は、「緊急事態宣言」をやってみたいのだ。その実績が、次には憲法改正につながるとのではないか魂胆あればこそ。しかし、緊急事態条項は、憲法レベルでも、法律レベルでも、危険極まりない。国政を私物化し、嘘とごまかし、公文書の隠匿改竄を日常とする安倍政権にこんな危険なオモチャを与えてはならない。
(2020年3月11日)

NHKの自主自律の破壊者に成り下がった森下俊三氏の経営委員辞任を要求する

私は、何度もここNHK視聴者部に足を運んで、もの申して来た。決して、個人としての主観的見解を述べに来たのではない。主権者国民の一人として、知る権利を共有する者の代表の一人として意見を述べてきたつもりである。しかし、真摯に耳を傾けてもらったという手応えはない。事態は、どんどん悪化してきている。

私たちの見解の基調はNHKに対する攻撃ではない。あるべき公共放送の主体として、自主自律の姿勢を堅持していただきたいということだ。そのような意気込みをもって番組の制作にあたっているスタッフがおり、よい番組も作られてはいる。ところが、その現場の良心を潰そうというNHKの上層部や、経営委員会がある。私たちは、権力と結託したこのNHK上層部や、経営委員会のありかたを強く批判している。

かつて、NHKは大本営発表の伝声管に過ぎなかった。その負の歴史を徹底して反省し、清算するところから戦後のNHKは再発足した。その理念の根幹には、権力からの干渉を排するジャーナリズム本来の精神がある。権力におもねることのない、自主・自律の精神を貫いてこそ、NHKは国民・視聴者の信頼を得ることが可能となり、そうであってこそ公共放送として存立の意味がある。ところが、今NHKに対する国民の信頼は地に落ちている。公共放送として存立の意味が、危うくなっている。

失われた信頼を回復するためには、国民・視聴者の目に見える形での反省が必要だ。そのために必要不可欠で、しかも最も効果的な具体策が、森下俊三・経営委員会委員長の辞任である。委員長辞任だけでは不十分だ。私たちは、主権者国民を代表する者として、直ちに同氏の経営委員辞任を強く求める。

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2020年3月9日

NHK経営委員長 森下俊三 様
同  経営委員各位

NHKの自主自律の破壊者に成り下がった森下俊三氏の経営委員辞任を要求する

「日本郵政と経営委首脳によるNHK攻撃の構図を考える11. 5 シンポジウム」実行委員会
世話人:小林 緑(国立音楽大学名誉教授・元NHK経営委員)/澤藤統一郎(弁護士)/杉浦ひとみ(弁護士)/醍醐 聰(東京大学名誉教授・「NHKを監視・激励する視聴者コミュニティ」共同代表)/田島泰彦(早稲田大学非常勤講師・元上智大学教授)/皆川 学(元NHKプロデューサー) 

 森下俊三NHK経営委員長はNHKの「かんぽ」関連番組の制作をめぐる私たちの度重なる質問に対し、「個別の番組制作について言及したり、干渉したりした事実はない」と言い続けてきた。しかし、全国紙の取材報道等で、このような回答は虚偽であることが明らかになった。
森下氏をはじめ、複数の経営委員は上田良一会長(当時)の面前で「番組の作り方が問題だ、番組の取材は稚拙で、取材行為がない」などと、激しく非難した。しかも、それは事実に反する非難だった。経営委員が個別の番組の編集に干渉することを禁じた「放送法」第32条を、これほどあからさまに踏みにじるのは前代未聞の行為である。
そもそも、高齢者らを食い物にした悪徳商法の当事者からのクレームを取り継ぎ、彼らの意向にそって番組制作に口出しするのは、NHKの自主自律を経営委員長自らが蹂躙する行為である。
さらに、森下委員長は3月5日の衆議院委員会質疑で、前記のような発言をしたことを認めながら、その時のやり取りを記録した経営委員会議事録の公開を拒否した。公開することによって委員会の業務の遂行に支障が出ると委員会が判断した場合は、議事録を非公開にできるという内規を盾にしたものだった。しかし、こうした対応は内規を放送法の上に置き、放送法が義務付けた情報公開を骨抜きにするものであり、とうてい許されない。

申し入れ

以上から、私たちは、次の3点を森下俊三経営委員長ならびに経営委員会に要求する。

1.複数の経営委員が個別の番組の編集に干渉する発言をしたと言われている2018年10月23日の経営委員会の議事録(議事概要ではなく発言者の氏名、発言の内容を記した議事録)を
全面公開すること。
2.NHKの自主自律、番組編集の自由、NHKの経営を透明なものにするための情報公開の趣旨を定めた「放送法」を理解する意思と能力を持ち合わせていないと判断するほかない森下俊三氏は、経営委員長はもとより、経営委員の職も自ら、直ちに辞すること。
3.経営委員会は上田良一会長(当時)に対する謂れのない厳重注意を直ちに取り消すこと。

以上

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2020年3月9日

NHK監査委員会 御中

森下経営委員長ほか経営委員会のコンプライアンス違反の疑義について厳正な監査と対処を要請します

「日本郵政と経営委首脳によるNHK攻撃の構図を考える11. 5 シンポジウム」実行委員会

世話人:小林 緑(国立音楽大学名誉教授・元NHK経営委員)/澤藤統一郎(弁護士)/杉浦ひとみ(弁護士)/醍醐 聰(東京大学名誉教授・「NHKを監視・激励する視聴者コミュニティ」共同代表)/田島泰彦(早稲田大学非常勤講師・元上智大学教授)/皆川 学(元NHKプロデューサー) 

目下、森下俊三NHK経営委員長ほか数名の経営委員が、NHKの「かんぽ」関連番組をめぐって「放送法」に違反する疑いが濃厚な発言をしていたことが報道や国会で大きく取り上げられています。
私たちもこの問題を重視し、二度にわたって経営委員会に質問書を提出しましたが、その都度、経営委員会からは、「個別の番組制作について言及したり、干渉したりした事実はない」という、誠意のない全面否定の回答が届きました。
ところが、3月5日の国会質疑の場で、森下氏は「放送法」に違反する疑いが濃厚な発言をした事実を認めました。これは私たちへの回答が虚偽であったことを意味します。
また、経営委員会は2018年10月23日開催の経営委員会会合において、上田良一会長(当時。以下、同じ)にガバナンス上の重大な問題があったとして「厳重注意」をしました。
しかし、経営委員会が約1年経ってから公表したその日の会合の「議事概要」には、会長陪席の下、監査委員会から、協会の対応に組織の危機管理上の瑕疵があったとは認められない旨の報告があったと記され、上田会長は、こうした監査委員会の報告も引いて、当初は厳重注意に異議を唱えていた、と伝えられています。私たちは、こうした経過にも重大な関心を持っています。
そこで、私たちは本日、森下経営委員長ならびに経営委員会宛てに改めて同封別紙のような質問書を提出しますが、それとあわせて、貴委員会に対し、以下のような申し入れをいたします。
貴委員会がこの申し入れに応えて、真摯な監査をされ、その結果をNHK内外に公表されることによって、失墜したNHKの信頼回復に尽力くださるよう強く要望します。

申し入れ

1.「放送法」第43条?第46条、「日本放送協会定款」第26条?第28条、「監査委員会規程」第4条第2項の定めにもとづき、NHKのかんぽ報道をめぐる森下経営委員長ほか経営
委員の言動に、法令・定款(注)に違反する点がなかったかどうかを厳正に調査して、その結果を公表すること。
(注) ここでは、「放送法」第4条(放送番組編集に対する法的権限を持たない者の干渉の禁止)、第32条(個別の放送番組の編集その他の協会の業務に対する経営委員の関与の禁止)、第41条(議事録の公表)ならびに「経営委員会委員の服務に関する準則」第2条(服務基準)、第4条(忠実義務)、第5条(信用失墜行為の禁止)

2.経営委員会が上田会長に対して「厳重注意」をした際の委員会の手続きは適正だったか、「厳重注意」は合理的な根拠にもとづくものだったかどうかを監査し、その結果を公表すること。

以上

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各 位

「本郷・湯島九条の会」石井 彰

不思議な空模様のもとでの昼街宣になりました。朝から降っていた雨がわたしたちが街宣をおこなっている間は止んでしまい、終わって暫くするとまた降ってきました。こんなことがあるのですね。

8人の結集で、署名は9筆、チラシは60枚でした。署名していると話がはずみ、どうしてみんな関心をもってくれないのか、選挙に行くといいのにね、といったことを署名をしながらはなしてくれました。こんな方もいました。「わたしたちはがんばります、って、上から目線の言い方は良くないね」といったご婦人がいました。以て瞑すべしです。

カミユの『ペスト』が売れています。新型コロナウイルス感染症に恐怖・不安を抱いているヒトが多くいることの証拠です。安倍政権はあてにできません。いち日も早く「わたしたちの政府」を樹立しなければなりません。

(2020年3月10日)

 

新型コロナウイルス対策のための特措法改正に反対する緊急声明

お集まりの記者の皆様に、二つのことを申しあげます。
一つは、原理的な問題。いったい今、憲法原則に関わるどのような問題が起きようとしているのかということ。そしてもう一つは、ほかならぬ安倍内閣が手がけようとしているからこその危うさです。安倍内閣に、こんな危険なたくらみをさせてはならない。とんでもないことになってしまうということ。

言うまでもないことですが、近代憲法の最重要のテーマは、人権と権力の対抗関係の調整です。すべての個人に備わる人権こそが憲法上の最高価値です。権力の行使には、人権を侵害せぬよう抑制が求められます。権力は強大にならぬよう分立され、その行使には厳重な手続が課されます。主権者は、権力を生み、同時に権力を規制します。これが、近代立憲主義にほかなりません。

しかし、その例外を強調する考え方があります。「国家緊急権」といわれるものです。確かに権力には人権を侵害せぬよう配慮をすべき義務があることは認めざるを得ない。が、それは飽くまで平時の場合の原則であって、国家存亡の緊急時には例外が認められなくてはならない。国家存亡の緊急事態に、国民の人権への配慮などと悠長なことは言っておられない。平時の憲法秩序を一時停止し、権力に対する制約を解除してこれを強化し、人権に対する制約を許容しなければならない、というのです。

《国家がもつ権力》と《国民個人の人権》とが、対抗関係にあるのですから、権力を強化すれば人権が危うくなります。権力を与る者は、国民の人権を危うくする権力を誇示したいという衝動をもちます。国家の緊急事態には、権力は最大限化するとともに、人権の保障は最小限化されることになりますから、権力者にはたいへん魅力的な事態なのです。

今、目の前にあるのは、感染症の蔓延という災害を理由にした、「緊急事態」の発動です。その要件は限りなく曖昧で、その人権制約の効果には恐るべきものがあります。

「信頼は常に専制の親である。自由な政府は、信頼ではなく、猜疑にもとづいて建設せられる。」という民主主義の原点を、再確認しなければなりません。

そして、二つ目。安倍政権が特措法を改正して、新型コロナウィルスの蔓延を適用対象とし、緊急事態宣言を行おうとしていることです。

2012年4月の自民党憲法改正草案に、詳細な緊急事態条項の構想が、条文化されています。民主主義と人権にとって死活的な内容と言って過言ではない代物。おそらく、これが、安倍政権の本音だと思います。国権の最高機関である国会をないがしろにして内閣が制定する政令で法律に代えることができる、人権の制約は顧慮されません。これを、今やろうとしているのではないか。

安倍晋三とは、国政を私物化しようという人物。安倍内閣とは、嘘とごまかし、文書の破棄・改竄を厭わない政権。決して国民に対する説明責任を果たそうとはしません。このような人物、このような政権に、危険な刃物をもたせてはなりません。それは、国民を傷つけることになる。

真に有効な感染症対策をしょうとするなら、なによりも専門知を結集して現状を正確に認識して科学的な検証に耐える対策を建てるとともに、これを国民に十分に説明して、その納得を得ることです。場当たりな素人判断で事態を悪化させ、緊急事態宣言の条件を作ろうなど、もってのほかと言わねばなりません。

そのような視点から、この声明に目をお通しください。

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新型コロナウイルス対策のための特措法改正に反対する緊急声明

新型コロナウイルスの感染拡大が深刻さを増すなか、安倍政権は現行の「新型インフルエンザ等対策特別措置法」(以下「特措法」と略記)の対象に新型コロナウイルス感染症を追加する法改正(ただし、2年間の時限措置とする)を9日からの週内にも成立させようと急いでいる。
しかしながら、特措法には緊急事態に関わる特別な仕組みが用意されており、そこでは、内閣総理大臣の緊急事態宣言のもとで行政権への権力の集中、市民の自由と人権の幅広い制限など、日本国憲法を支える立憲主義の根幹が脅かされかねない危惧がある。
そのような観点から、法律家、法律研究者たる私たちは今回の法改正案にはもちろん、現行特措法の枠内での新型コロナウイルス感染症を理由とする緊急事態宣言の発動にも、反対する。あわせて、喫緊に求められる必要な対策についても提起したい。

1 緊急事態下で脅かされる民主主義と人権
特措法では、緊急事態下での行政権の強化と市民の人権制限は、政府対策本部長である内閣総理大臣が「緊急事態宣言」を発する(特措法32条1項。以下、法律名は省略)ことによって可能となり、実施の期間は2年までとされるものの、1年の延長も認められている(同条2項、3項、4項)。
問題なのは、絶大な法的効果をもたらすにもかかわらず、要件が明確でないことである。条文では新型インフルエンザ等の「全国的かつ急速なまん延により国民生活及び国民経済に甚大な影響を及ぼし、又はそのおそれがあるもの」という抽象的であいまいな要件が示されるだけで、具体的なことは政令に委ねてしまっている。また、緊急事態宣言の発動や解除について、内閣総理大臣はそれを国会に報告するだけでよく(同条1項、5項)、国会の事前はおろか事後の承認も必要とされていない。これでは、国会による行政への民主的チェックは骨抜きになり、政府や内閣総理大臣の専断、独裁に道を開きかねず、民主主義と立憲主義は危うくなってしまう。
緊急事態宣言のもとで、行政権はどこまで強められ、市民の自由と人権はどこまで制限されることになるのか。特措法では、内閣総理大臣が緊急事態を宣言すると、都道府県知事に規制権限が与えられるが、その対象となる事項が広範に列挙されている。例えば、知事は、生活の維持に必要な場合を除きみだりに外出しないことや感染の防止に必要な協力を住民に要請することができる(45条1項)。また、知事は、必要があると認めるときは、学校、社会福祉施設、興行場など多数の者が利用する施設について、その使用を制限し、停止するよう、施設の管理者に要請し、指示することができる。また施設を使用した催物の開催を制限し、停止するよう催物の開催者に要請し、指示することができる(同条2項、3項)。
外出については、自粛の要請にとどまるとはいえ、憲法によって保障された移動の自由(憲法22条1項)を制限するものである。また、多数の者が利用する学校等の施設の使用の制限・停止や施設を使用する催物の開催の制限・停止という規制は、施設や催物が幅広く対象となり、しかも要請にとどまらず指示という形での規制も加え、強制の度合いがさらに強められており、憲法上とりわけ重要な人権として保障される集会の自由や表現の自由(憲法21条1項)が侵害されかねない。
また、特措法の下で、NHKは、他の公共的機関や公益的事業法人とならんで指定公共機関とされ(2条6号など。民放等の他の報道機関も政令で追加される危険がある)、新型インフルエンザ等対策に関し内閣総理大臣の総合調整に服すだけでなく(20条1項)、緊急事態宣言下では、総合調整に基づく措置が実施されない場合でも、内閣総理大臣の必要な指示を受けることとされている(33条1項)。これでは、報道機関に権力からの独立と報道の自由が確保されず、市民も必要で十分な情報を得られず、その知る権利も満たせないことになる。
さらに、知事は、臨時の医療施設開設のため、所有者等の同意を得て、必要な土地、建物等を使用することができるが、一定の場合には同意を得ないで強制的に使用することができる(49条1項、2項)。これも私権の重大な侵害であり、憲法が保障する財産権にも深く関わる措置である(憲法29条)。

2 政府による対策の失敗と緊急事態法制頼りへの疑問
政府は、特措法改正の趣旨を、新型コロナウイルス感染症の「流行を早期に終息させるために、徹底した対策を講じていく必要がある」(改正法案の概要)と説明している。
しかし、求められる有効な対策という点から振りかえれば、中国の感染地域からの人の流れをより早く止め、ダイヤモンドプリンセス号での感染を最小限にとどめ、より広範なウイルス検査の早期実施と実施体制の早期確立が必要であった。にもかかわらず、国内外のメディアからも厳しく批判されてきたように、初期対応の遅れとともに、必要な実施がなされない一方で、専門家会議の議論を踏まえて決定されたはずの「基本方針」にもなかった大規模イベントの開催自粛要請、それにつづく全国の小中高校、特別支援学校に対する一律の休校要請、さらに中国と韓国からの入国制限などが、いずれも専門家の意見を聞かず、十分な準備も十分な根拠の説明もないまま唐突に発動されることによって、混乱に拍車をかけてきた。
本来必要な対策を取らないまま過ごしてきて、この段階に至って緊急事態法制の導入を言い出し、それに頼ることは感染の抑止、拡大防止と具体的にどうつながるのか、大いに疑問である。根拠も薄弱なまま、政府の強権化が進み、市民の自由や人権が制限され、民主主義や立憲主義の体制が脅かされることにならないか、との危惧がぬぐえない。現に、特措法改正を超えて、この際、今回の問題を奇貨として憲法に緊急事態条項を新設しようとする改憲の動きさえ自民党や一部野党のなかにみられることも看過しがたい。

3 特措法改正ではなく真に有効な対策をこそ
今回の特措法改正はあまりにも重大な問題が多く、一週間の内に審議して成立させるなどということは、拙速のそしりをまぬかれない。私たちは、政府に対し今回の法改正の撤回とともに、特措法そのものについても根本的な再検討を求めたい。加えて、次のことを急ぐべきである。すなわち症状が重症化するまでウイルス検査をさせないという誤った政策を転換し、現行感染症法によって十分対応できる検査の拡大、感染状況の正確な把握とその情報公開、感染者に対する迅速確実な治療体制の構築、マスクなどの必要物資の管理と普及である。感染リスクの高い満員通勤電車の解消、テレワークを可能にする国による休業補償、とりわけ中小企業への支援、経済的な打撃を受けている事業者に対するつなぎ融資や不安定雇用の下にある人々や高齢者、障がい者など生活への支援を必要とする人々への手厚いサポートが必要である。そのため緊急にして大胆な財政措置が喫緊である。
強権的な緊急事態宣言の実施は、真実を隠蔽し、政府への建設的な批判の障壁となること必至である。一層の闇を招き寄せてはならない。

2020年3月9日

梓澤和幸 (弁護士)
右崎正博 (獨協大学名誉教授)
宇都宮健児 (弁護士、元日弁連会長)
海渡雄一 (弁護士)
北村 栄 (弁護士)
阪口徳雄 (弁護士)
澤藤統一郎 (弁護士)
田島泰彦 (早稲田大学非常勤講師、元上智大学教授)
水島朝穂 (早稲田大学教授)
森 英樹 (名古屋大学名誉教授)  (*あいうえお順)

(2020年3月9日)

広島地検は、徹底して河井案里選挙の違法を追及せよ。政権への忖度などあってはならない。

自民党河井案里参議院議員の公設秘書ら3人が公職選挙法違反で逮捕されたね。検察もやるときはやるってことじゃない?

さあね。この先を見極めないとなんとも言えないんじゃないかな。

でも、河井案里の選挙運動は安倍首相肝いりだったと報道されているよ。自民党からは1億5000万円も資金がつぎ込まれ、安倍の秘書まで動員されたというじゃない。そこに踏み込んだのだから、広島地検も相当の覚悟のように見えるけど。

自民党現職として同じ選挙区に立候補して落選したのが岸田派の溝手顕正。こちらの陣営も河井案里の派手な選挙活動には驚いたそうだね。溝手には、党から1500万円しか届けられていない。なにせ10倍の資金だから、目立ち過ぎて検察も動かざるを得なかったのかも知れない。

夫の河井克行が選挙を取り仕切ったと言われているでしょ。この人は参院選当時の法務大臣。しかも、安倍・菅の身内の子分みたいな存在。検察も手を着けるのにためらいを感じたはず。そこに手を着けたということは、検察も意地を見せたんじゃないの。

安倍政権は不祥事満載じゃないか。モリ・カケ・サクラ、カジノ、管原・河井。それに入試疑惑もある。これだけあって、手を着けているのは、カジノ疑惑の小物と、この河井案里案件だけじゃないか。とても「検察よくやった」なんていう気にはなれない。

それでも、安倍首相にしてみれば、河井案里選挙違反に関しては、検察が自分の思うままにならないといういらだちがあるんじゃないの。

検察という機構は、時の総理大臣をも、強制捜査して起訴する権限がある。総理に忖度していては公正な職務を全うできない。

それはそうね。モリ・カケ・サクラ、カジノに入試疑惑と数えると、安倍晋三とその直近に、嫌疑がかかってくる事件だものね。

河井案里案件処理の関心のひとつは、逮捕された公設秘書を起訴して、公職選挙法上の「総括責任者」として有罪に持ち込めるか。それができれば、連座制の適用で河井案里の議席は剥奪となる。もう一つは、報道では選挙を取り仕切っていた河井克行を起訴できるかだ。これを有罪にできれば、この議員の衆議院での議席を剥奪できることになる。これは、安倍政権にインパクトが大きい。

黒川検事長の定年延長は、安倍自身が、身の灰色を自覚しての布石ということなのかしら。

そうとしか考えられないというほどの異常なやり口だから、このままだと検察の権威は地に落ちるね。まずは河井案里事件がどうなるかだけれど、これだけでは、とても検察よくやったとは言い難い。

案里の件は、「ウグイス嬢に規定を超える報酬を支払った疑い」とされているけど、自民党内には、「誰でもやっていることで大したことではない、法律の方が現実に合わない」という声もあるようだけど。

まったく嘆かわしい。選挙というものの基本が分かっていない。選挙運動というものは、本来が主権者である有権者国民が行うものであって、無償が大原則だ。車上運動員に、1日15000円の日当支払いを認める法律の方がおかしいんだ。

選挙運動のアルバイトという感覚がおかしいのね。案里の選挙では30000円の領収書は作れないから2枚に分けて、収支報告書には15000円分のものだけ記載していたそうね。これを「河井方式」と呼んでいたそうだけど、案里の選挙運動に関わった全員が違法であることを承知していたんだ。

あなただって、この間の地方選のときには選挙カーに乗ってウグイスやったじゃない。日当はもらわなかったの。

選挙運動に日当なんて文化が違うわね。アルバイトじゃなくて、自分の推薦する候補者の選挙運動をするんだから日当をもらうなんて考えもよらなかった。あのときは、カンパの要請があったから、こちらから支払ってきたわよ。

案里の選挙では、ウグイス嬢への違法日当支払いだけでなく、票のとりまとめの報酬として96万円の支払いがあったとも報道されている。ウグイス嬢への違法日当支払も、票のとりまとめの報酬支払いも、運動員買収となる。カネを支払った者には運動員買収罪、日当名目でも報酬としてでもカネを受けとった者には被買収罪が成立する。カネを配ることは、犯罪者を作ることでもあって罪が深い。表に出ることはすくないが、現実にあることだ。

1億5000万円の選挙資金がいったいどう使われたのか。検察は、その全容を解明して、説明して欲しいね。安倍政権への忖度なしで。

そうしてこそ、政権から独立した検察だ。そして、再度確認しておきたいのは、選挙運動とは無報酬ですべきことだということ。選挙運動の対価として報酬を得れば犯罪となる。このことを肝に銘じなければならない。不当な弾圧などと言って通じることではない。

(2020年3月8日)

都教委よ。なによりも大事なものが「日の丸・君が代」だというのか

いつもながらの安倍晋三「やってる感」演出の印象操作。この度のパフォーマンスは国民生活への影響多大な全国一律休校要請。そのテンヤワンヤの影響が、全国各校の卒業式にも及んでいる。しかし、この期に及んでなお、東京都内での「日の丸・君が代」強制へのこだわりぶりが恐ろしい。

東京都教育委員会は、先月(2月)28日、「新型コロナウイルスに関する都内公立学校における今後の対応」を公表した。

これによると、「1 都立学校の基本方針」を次のように言う。

「先般、都としては、今後、3週間程度を集中対策期間とし、更なる感染防止拡大に向け、時差通学の実施や春季休業期間の前倒しなどに取り組むこととしたところである。
 この度、国が方針を変更し、全国一斉の休校を行うこととしたため、都としても、これを踏まえ、原則として3月2日から春休みまでの間、休校とする。」

まったく自主性に欠けた、情けない中央追随主義。そして、その故に安倍の場当たり方針変更に振り回されるみじめな実態というほかはない。その基本方針のもと、「2 休校に伴う課題への対応」が記されているが、卒業式については以下の2行のみである。

「(2)卒業式
 参列者の制限や時間の短縮により実施」

可及的に感染の機会を低減しようとするなら、授業だけでなく卒業式も取りやめればよい。そうすれば、政権への忖度の姿勢を見せるメリットもある。とは言うものの、教育の役割や児童・生徒の心情に思いをいたせば、卒業式をやめるとまでは言いにくい。それ故の「参列者の制限や時間の短縮による卒業式実施」なのであろう。それはそれで、理解できなくもない。問題はその具体化だ。

「参列者の制限」としては、議員や地域の名誉職を呼ぶのはやめよう。教育委員会事務局からの指導主事など「日の丸・君が代」実施の監視要員も不要だ。「時間の短縮」のためには、まずは君が代斉唱をやめよう。紋切り型の式辞の類も一切不要だ。生徒が学窓の想い出と将来への決意を語り、教員がそれを励ます、生徒と教員を中心とした簡素な集いでよい。3年間の教育の成果を確認する感動的な卒業式は、「参列者の制限と時間の短縮」でより濃密になるだろう。

ところが、現実にはそうなっていない。公表の限りでは、「休業中の卒業式は『31教総務第2347号』に基づいて実施する」とされているが、この通達は見あたらない。

複数の友人からの報告によれば、以下のとおり東京都教育委員会は、「式次第から校歌、卒業生の歌、保護者式辞などを省いても『君が代』斉唱だけはやる」との方針であるという。生徒のための式ではなく、国家のための卒業式の色彩が濃くなっている。本末転倒も甚だしい。

報告その1
卒業式は時間短縮で、保護者、在校生、来賓は感染防止のため出席させないにもかかわらず、式次第に『国歌斉唱』だけはある。校長も、通達があるからどうしようもないと言っている。都民の声として挙げてもらえたら。

報告その2
卒業式の件ですが、私の勤務校では「短縮化」と言いながら、「国歌斉唱」のみ従来通り強行という内容です。何だかんだで「君が代」だけやればいいという教委の目的が浮き彫りになった感じです。
管理職はセンターの担当に「証書の授与だけではよくないのか?」と質問したそうだが、「(国歌斉唱は)必ずやってください」と言われたとのこと。
式の進行概要は以下の通りで、前日の予行は中止です。
? 卆業生入場、?「君が代」斉唱、?証書授与(呼名+代表生徒への授与)、?校長式辞、?卒業生退場

報告その3
以下の内容で、都民の声にメールしました。
————————–
都立高校の卒業式は、新型コロナウイルス対策のために、校歌斉唱や式の歌を省略して実施することになりましたが、君が代の斉唱は行うことになっています。感染防止のために斉唱を取り止めたのなら、君が代の斉唱も取り止めるべきではないでしょうか。卒業生の健康や命より、君が代の方が大事にされるのはどう考えても間違いだと思います。
なぜ君が代斉唱を行わなければならないか、理由を教えてください。説明を求めます。

都民の声の窓口の FAX 03?5388?1233
ハガキ 〒163?8001 東京都庁「都民の声総合窓口」
都民の声課
https://www.metro.tokyo.lg.jp/tosei/iken-sodan/otoiawase/madoguchi/koe/tominnokoe/index.html

(2020年3月7日)

法律家団体9団体による「東京高検検事長黒川弘務氏の違法な任期延長に抗議する法律家団体共同声明」

2020年3月5日

社会文化法律センター      共同代表理事  宮里 邦雄
自由法曹団               団長  吉田 健一
青年法律家協会弁護士学者合同部会    議長  北村  栄
日本国際法律家協会           会長  大熊 政一
日本反核法律家協会           会長  佐々木猛也
日本民主法律家協会          理事長  右崎 正博
明日の自由を守る若手弁護士の会共同代表 神保大地、黒澤いつき
秘密保護法対策弁護団  共同代表 海渡雄一、中谷雄二、南典男
共謀罪対策弁護団  共同代表 徳住堅治,海渡雄一,加藤健次,南典男,平岡秀夫,武井由起子

1 はじめに
2020年1日31日の閣議決定で、2月7日で63歳を迎え検察官を定年退官する予定であった東京高検検事長の黒川弘務氏の任期が半年間延長されることになった。認証官である検事長はもちろん、検察官が定年を超えて勤務を続けた前例はない。
この人事は、黒川氏を、8月14日に65歳で定年退官となる稲田伸夫検事総長の後任に充てる目的といわれている。黒川氏は、かねてから菅官房長官と懇意であり、政権の中枢に腐敗事件の捜査が及ばなくするための人事ではないかとの疑惑が指摘されてきた。
報道によれば、2016年夏、法務・検察の人事当局は次の次の検事総長候補として林真琴法務省刑事局長を法務事務次官に就ける方針だったが、官邸から黒川氏を法務事務次官にするよう強く求められ、押し切られた。官邸は1年後にも林氏を事務次官とする人事を潰し、黒川氏を留任させた、とも報じられており(雑誌「ファクタ」1月号)、今回の事態は、官邸による検察・法務人事への介入の総仕上げといえる。

2 当初の法務大臣の説明
検察庁法22条は、検事総長は65歳、他の検察官は63歳に達した時に退官すると定めている。
ところが森雅子法務大臣は1月31日午前の閣議後の会見で、黒川氏について「検察庁の業務遂行上の必要性に基づき、引き続き勤務させることを決定した」と述べた。その法的な根拠は国家公務員法の81条の3であるとし、「その職員の職務の遂行上の特別の事情からみてその退職により公務の運営に著しい支障が生ずる」場合に該当するとして、定年を延長したとの説明であった。
そして森法務大臣は、2月3日の衆議院予算委員会で、国民民主党渡辺周議員の質問に対し、「検察官は,一般職の国家公務員であり,国家公務員法の勤務延長に関する規定が適用され」るという解釈を示した。

3 検察官に国家公務員法の定年・定年延長制度の適用はない?閣議決定は違法
1947年に制定された国家公務員法にはもともと定年制度がなく、社会情勢の変化の中で、1981年になって初めて定年制(国家公務員法81条の2)及び定年延長制度(同法81条の3)が導入された。しかし、同じ1947年に制定された検察庁法は、検察官は63歳に達した時に定年退官することを当初から規定し(検察庁法22条)、旧裁判所構成法時代には存在した定年延長制度を規定しなかった。
国家公務員法の定年制度は、「他の法律に別段の定めのある場合を除き」適用できると定められている(国家公務員法81条の2)。この「別段の定め」の一つが検察庁法22条である。検察官の定年は検察庁法によるのであって、国家公務員法によるものではない。従って、国家公務員の定年延長制度は、そのまま検察官に適用される関係にはない(検察庁法32条の2参照)。
何よりも、国家公務員一般に定年制がまったくなかった時代に、検察官について定年制が設けられたという事実は、検察官の定年制は国家公務員の定年制とまったく別の趣旨・目的で設けられたことを意味する。検察官の定年制は、検察官が刑事訴訟法上強大な権限を持ち、司法の一翼を担う準司法的地位にあるという、その職務と責任の特殊性に鑑み、検察官の人事に権力が恣意的に介入することを防ぐ趣旨を含むと解される。従って、検察庁法が制定されてから34年後に定められた国家公務員一般の定年延長制度が、検察官に適用されることはあり得ない。
そして、1981年の国家公務員法改正時、政府も検察官について国家公務員法の定年延長の定めは適用されないとする解釈をとっていたことが、当時の政府答弁、政府文書によって明らかになっている。すなわち、2月10日の国会審議では、1981年に政府委員(人事院任用局長)が上記解釈の答弁をしていた事実を山尾志桜里議員が指摘し、2月24日には、この1981年の政府答弁の根拠となる文書(想定問答集)が1981年10月に総理府人事院(当時)によって作成されていたことが、野党共同会派の小西洋之議員の国立公文書館での調査により判明した。

4 安倍首相の「解釈変更」答弁後における法務大臣・人事院の支離滅裂な対応
2月10日、上記山尾議員の指摘を受けた森法務大臣は、1981年の人事院の解釈について、そのような解釈は把握していないと答弁した。しかし、2月12日、人事院の松尾恵美子給与局長は、1981年の人事院の解釈につき「現在まで同じ解釈を続けている」と答弁した。
ところが、翌13日の衆院本会議で安倍首相は、「検察官の勤務(定年)延長に国家公務員法の規定が適用されると解釈することとした」と答弁した。
この安倍首相の答弁後、法務大臣や人事局長は、これと辻褄を合わせるため、以下のとおりの支離滅裂な対応を繰り返したのである。
まず、2月19日の衆院予算委員会で、人事院の松尾恵美子給与局長は、「現在」とは1月22日のことだった、「言い間違えた」と答弁した。2月20日には、森法務大臣は、法務省が法解釈変更の経緯を示した文書について、「部内で必要な決裁を取っている」と答弁したが、同日、上記文書に日付がないことが判明し、翌21日の予算委理事会で法務省と人事院は、日付を証拠づける文書はないことを明らかにした。ところが、法務省は同日深夜、文書に関し「口頭による決裁を経た」と突然発表し、森法務大臣の答弁との整合性を取った。同月25日に森法務大臣は記者会見で、「口頭でも正式な決裁だ」と表明し、同月27日の衆院本会議では法務大臣の虚偽答弁を理由に不信任決議案までが出される事態となった。
これら一連の政府の対応は、1月31日の黒川検事長の定年延長についての閣議決定が、法務省や人事院の正規の決裁も経ないまま長年の法解釈を無視し、官邸の独断で行われたものであったことを白日の下に晒しただけでなく、法務省・人事院が、安倍首相の答弁を取り繕うため支離滅裂な辻褄合わせに狂奔する姿を露呈したものであり、もはや法治主義の崩壊と言うべき事態である。
今からでも、人事院、法務省、内閣法制局、内閣官房の間で、いつどのようなタイムラインで、どのような協議がなされたか、あるいはなされていないのか、国会の場での検討が求められる。

5 検事総長の人格識見こそが検察への政治介入の防波堤である
検察庁は行政機関であり、国家公務員法の規定に基づいて、その最高の長である法務大臣は、検察官に対して指揮命令ができる。しかし、検察庁法14条は、法務大臣の検察官への一般的指揮権は認めているが、具体的事件については、検事総長のみを指揮することができると定めている。
検察の独立性を守るのは最終的には指揮権発動を受ける可能性のある検事総長の識見、人物、独立不羈の精神に帰着する。だからこそ、検察組織は検事総長に清廉で権力に阿(おもね)らない人材を配し、政治権力による検察権に対する不当な介入の防波堤を築こうとしてきた。そして、歴代自民党政権も、検事総長人事は聖域として、前任の検事総長の推薦をそのまま受け容れてきた。これに介入するようなことは厳に慎んできたのである。いま、安倍政権によって、その秩序が壊されようとしている。

6 政府与党、検察庁内からも噴出した異論
2月15日、中谷元・元防衛大臣は、国政報告会の公の発言の中で、「(黒川氏が)検事総長になるのではないかと言われております。私が心配するのは、三権分立、特に司法は正義とか中立とか公正とか、そういうもので成り立っているんですね。行政の長が私的に司法の権限のある人をですね、選んで本当に良いのかなと。一部の私的な感情とかえこひいきとかやってしまうと、本当に行政も動かなくなってしまう。権力の上に立つ者はしっかりと、その使い方を考えていかなくてはならない。」と安倍官邸の人事に苦言を呈した。
2月19日の検察長官会同において、静岡地検の神村昌通検事正は、検察庁法で定められた「指揮権発動」についての条文を読み上げたうえで、「今回の(定年延長)ことで政権と検察の関係に疑いの目が持たれている」「国民からの検察に対する信頼が損なわれる」「検察は不偏不党、公平でなければならない。これまでもそうであったはず」「この人事について、検察庁、国民に丁寧な説明をすべき」との趣旨の意見を述べたと伝えられる。現職検事正による覚悟の発言である。

7 閣議決定の撤回と黒川検事長の辞職を求める
このように、検察と司法の危機は白日の下にさらされ、検察と与党の内部からまで異論が続出する事態となっている。黒川氏が検事総長に任命されても、その職務を全うすることは困難である。この人事が正されなければ、検察行政は麻痺状態に陥ることは避けられない。これは、「常に公正誠実に,熱意を持って職務に取り組まなければならない。」、「権限の行使に際し,いかなる誘引や圧力にも左右されないよう,どのような時にも,厳正公平,不偏不党を旨とすべきである。」という「検察の理念」(2011年制定)を心に刻んで誠実に職務を遂行している検察庁職員に対する冒涜でもあると言わなければならない。
我々は、司法の一翼を担う弁護士及び学者の集団として、内閣に対して、違法な定年延長を認めた閣議決定の撤回を求める。また、黒川氏に対して、当初の定年のとおり退官すべきものであったとして直ちに辞職することを求める。
この問題は、日本の司法と民主主義の根本にかかわる重大事である。もし、内閣と黒川氏がこのような穏当な解決に応じないとすれば、我々は、心ある検察官、与野党の政治家、メディアなどとともに一大国民運動として、検察の独立を含む民主主義を復活させるまで闘いつづける決意を明らかにするものである。

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検察庁法に違反する定年延長をした閣議決定に抗議し、撤回を求める(京都弁護士会)会長声明

安倍内閣は、本年1月31日の閣議決定で、2月7日に迫った黒川弘務東京高等検察庁検事長の定年を半年間延長した。検察官の定年が延長されたのは、1947年に検察庁法が制定されて以降初めてのことである。
政府は、本年通常国会において、検察官には国家公務員法81条の2の定年の規定が適用されないが、同法81条の3による勤務延長の規定は適用されるとして、上記閣議決定は適法である旨答弁した。さらに、本年2月13日の衆議院本会議では、これまでの公権解釈では検察官は定年延長ができないとされてきたことを認めたうえで、法解釈を変更したと主張した。

しかしながら、かかる法解釈が認められる余地は無く、今回の定年延長の閣議決定は検察庁法に違反する。
第一に、検察庁法22条は、「検事総長は、年齢が六十五年に達した時に、その他の検察官は年齢が六十三年に達した時に退官する。」と明記しており、定年による退職の特例を一切設けていない。この点については、1947年の帝国議会貴族院で検察庁法が審議された際、定年の延長制度についても議論になったが、政府が検察官には定年に例外を認める弾力的な制度とはしない旨の答弁を行ったうえで、現在の定年制度が定められ、実際も例外なく運用されてきた。

第二に、定年及び定年延長を導入する国家公務員法改正案が審議された1981年の衆議院内閣委員会でも、人事院事務総局任用局長(当時)が、検察官には国家公務員法の定年及び定年延長の規定は適用されない旨を答弁している。

第三に、本年通常国会における衆議院予算委員会の2月12日審議でも、人事院事務総局給与局長は、上記の答弁をそのまま援用したうえで、「(現在まで)同じ解釈を引き継いでいる」と答弁している。
以上の経過を見れば、特別法たる検察庁法で延長の例外のない定年制度を設け、後に一般法たる国家公務員法の改正で定年年齢や定年延長等の定年制度を設けた際に、検察官にはこれを適用せず、特別法たる検察庁法の定年制度のみを適用することとしたことは明らかである。

検察官は公益の代表者として厳正な刑事手続を執り行う立場にある。内閣が違法な定年延長によって検察の人事に干渉することを許せば、政権からの独立を侵し、その職責を果たすことができるのかについて重大な疑念が生じることとなる。

当会は、三権分立を定める日本国憲法のもとで、法治主義国家として、行政は国会が定めた法律に基づいて行われるべきものであることに照らし、法を蹂躙した今回の閣議決定に断固として抗議し、撤回を求めるものである。

2020年(令和2年)3月5日

京都弁護士会会長  三 野 岳 彦

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私は、日民協・自由法曹団・青法協・国法協・反核法協の会員であって、当然に9団体声明のとおりの意見である。また、京都弁護士会長声明は、弁護士であれば同様の見解をもつことが示されている。

なお、個人的には法曹の一員として、この人事を許しておくことで、「国民からの検察に対する信頼が損なわれる」ことを最も恐れる。世間は、「アベ様のご都合人事」「アベ様の検察」「アベ様の刑事司法」と受け取るだろう。アベの政治の私物化、アベの行政の私物化は、ついに検察・刑事司法の私物化にまで行き着いた、と思われる。検察・刑事司法に対する国民の信頼の喪失は、民主主義社会における死活的重大問題である。

黒川さんは、アベのポチとしての地位に恋々とすると見られることを潔しとしないであろう。民主主義の大義からも、自らのプライドを守るためにも、速やかに辞任するがよかろう。

(2020年3月6日)

加計学園の国籍入試差別を明るみに出した内部告発者を守れ

日本という社会は、アタマからもハラワタからも腐り始めている。この腐敗を見過ごしていると、社会は腐りきって崩壊してしまうことになる。いま、この腐敗を指摘し告発することで、社会崩壊を防止しなければならない。あらためて腐敗告発の重要性を確認するとともに、現場で告発の声を上げる人々の勇気に敬意を表したい。

本日発売の「週刊文春」(3月12日号)に、「韓国人受験生を全員不合格 加計学園獣医学部に『不正入試』疑惑」という記事。そのデジタル版の前振りに、こうある。

「この入試結果はあまりにも酷い。夢を抱いて、受験勉強に励んできた学生さんに対する裏切り行為だと言わざるを得ません」
こう肩を震わせるのは加計学園の幹部職員・武田晶さん(仮名)だ。同学園は、2017年以来、岡山理科大学獣医学部の新設にあたり、加計孝太郎理事長(68)と安倍晋三首相(65)の長年のお友達関係による“忖度”が問題視されてきた。その獣医学部における不正入試疑惑を、職員が証拠文書とともに告発する。

舞台は、例の学校法人加計学園である。アベシンゾーのオトモダチとして、甘い汁を吸った加計孝太郎の事業体。その腐敗のトップの下に、廉潔の士がいたということなのだ。

昨年11月16日、愛媛県今治市の岡山理科大学獣医学部キャンパスで獣医学科の推薦入試が実施された。その韓国人受験生8名全員の面接試験が一律0点となり、不合格となったことが「週刊文春」の取材で分かったという。複数の職員が、証拠となる内部文書とともに事実を明かしている。

この「複数職員」諸氏の正義感にもとづく告発はまことに貴重である。告発者には、何の利益ももたらさず、リスクばかりが大きい行為。口を拭っていれば、表には出ないはずの不正を告発したのは、ひとえに正義感の賜物。社会には立派な人がまだいるのだ。

問題は、「A方式の推薦入試」で起こった。定員21に受験生は69名。そのうち8名が韓国籍だったという。この韓国人受験生8名全員が不合格となった。内部告発がなければ、8名すべての学力が低かったのだろうで済まされるところ。ところが、この8名が8名とも面接試験が0点とされていた。これは、内部告発で始めて明らかとなった事実。それだけで、まことに不自然。首を捻らざるをえない。

A方式の推薦入試は、「学科2科目」と「面接試験」「高校での成績を反映した評点平均値」の4項目で採点される。各項目50点、計200点満点の合計得点で合否が判定される。200点満点のうちの50点を占める「面接試験」での韓国人受験生全員の点数が0点。事実上、50点のハンディを課されての競争となっている。

「これまで面接試験で0点というのはほとんど見たことがありません。公平公正を重んじなくてはいけない入試で、国籍差別が行われている事実に怒りを覚えます」というのが、告発者の言である。

この面接結果について学内で獣医学部の教授陣は「日本語でのコミュニケーションが著しく困難だった」と説明している。だが、前出の武田さんは反論する。
「すべて日本語で記された科目試験で満点に近い優秀な成績を収めた学生もおり、韓国人受験者全員が、日本語に不自由だという説明は不可解極まりないです」

週刊文春が入手した内部文書によれば、「A方式推薦入試」の最低合格点は、200点満点の138点である。韓国籍受験生の得点は、以下のとおり。面接で、30点取っていれば合格というのが5名。40点なら7名となる。
    128点(10点不足)
    120点(18点不足)
    120点(18点不足)
    112点(26点不足)
    112点(26点不足)
     99点(39点不足)
     98点(40点不足)

(なお、韓国籍受験生1名については評価点数がない。科目点数も合計点数も0点ではなく、書き込みがない。それでも、面接試験だけは「0点」と明記されている)

確かに、数学と英語の試験得点が、46点と47点(合計93点)とこれ以上はない好成績の韓国籍受験者も、不合格となっている。

文春は、2月21日に加計学園に書面で事実確認を申し入れたが、1週間後に「担当者から連絡します」と言ったきり回答はなかったという。ますますおかしい。回答不能の事態とみられてもやむを得なかろう。

前川喜平・元文科事務次官は、この件について、〈加計学園の韓国人受験生差別が事実なら、私学助成は打ち切るべきだ。〉〈加計学園の獣医学部の韓国人留学生枠は、国家戦略特区法が定める「国際拠点」という条件を満たす口実だった。同じく国家戦略特区でできた成田の国際医療福祉大学医学部の留学生枠を真似たものだ。加計学園は、形だけの口実すら反古にしたわけだ。〉と発信している。

女性や浪人生を差別していた医学部入試が世論の指弾を受け、私学助成打切りとなったことは記憶に新しい。国籍を理由とする入試差別は、さらに問題が大きい。加計孝太郎なる総理のオトモダチ。よくよく、学ばない人なのだ。

本日(3月5日)の共同記事は、文科省が動いたことを報じている。「文科相、岡山理科大に確認要請 不正入試報道で」という配信記事。

「萩生田光一文部科学相は5日の参院予算委員会で、学校法人加計学園岡山理科大獣医学部(愛媛県今治市)入試で韓国人受験生が不当に扱われたとする週刊文春報道を受け、大学側に事実関係の確認と速やかな回答を求めたと明らかにした。回答について国会に報告する考えも示した。
 萩生田氏は『一般論として、入学者選抜は公正かつ妥当な方法で行うことが求められている。合理的理由なく出身地域、居住地域等の属性を理由に一律で取り扱いの差異を設けることは不適切だ』と述べた。」

おやおや、萩生田光一は落選時代に加計学園に拾われ、同学園が経営する千葉科学大学の客員教授となっていたことで知られる。いま、ケント・ギルバートや上念司が岡山理科大の客員教授になっている。実は、萩生田はそのお仲間なのだ。首相のオトモダチに厳正な対応などできるはずもなかろう。

それにしても、内部告発者に対する報復が心配となる。なんとしても、この人たちを守らねばならない。
(2020年3月5日)

コロナ蔓延を奇貨とする「インフルエンザ特措法」改正に警戒を

「新型インフルエンザ等対策特別措置法」という法律がある。この特措法は、2012年に鳥インフルエンザ禍を機に民主党政権下で制定されたもの。新型コロナへの対応をめぐって、この法律の改正問題が急浮上している。転んでもただでは起きない、安倍晋三流の危険なたくらみである。

この法律は、緊急事態法制の一態様である。首相が「緊急事態」を宣言することで、公権力による人権の制約が容認される。普段は手厚く保護されているはずの人権が、例外的に公権力の行使に道を譲らなければならなくなる。とりわけ、人権擁護のために権力行使に要請される慎重な手続きが省かれる。人権よりは公益の擁護が尊重され、公益擁護のための簡易迅速な公権力の発動が可能とされる。感染症対策のためとして、人権が危うくなる。信頼できない政権下においては、恐るべき事態を招きかねない。

この法律では、政府が国民生活に重大な影響が生じると判断した場合に、首相が「緊急事態」を宣言。すると、都道府県知事が不要不急の外出の自粛、学校や映画館など人が集まる施設の使用制限、イベントの開催自粛などを要請できると定める。さらに、知事は医薬品や食品の売り渡しや保管の命令も可能で、応じない場合は罰則の適用もある。病院が足りない場合、土地や建物を借りて臨時の医療施設を設置。所有者が正当な理由なく同意しない時は強制的に使用もできる。

公権力に強い権限を認めることは、人権保障を脆弱化させることである。人権の制約は常に必要最小限のものでなくてはならないが、この法律にはその配慮が欠けている。その公権力濫用のおそれが、下記の日弁連会長声明に要領よく指摘されている。

〔2012年3月22日 新型インフルエンザ等対策特別措置法案に反対する日弁連会長声明〕

http://hatarakikata.net/modules/data/details.php?bid=2513

現行特措法が、「新型コロナ」に適用あるか否か。政府・自民党はこれまで慎重であった。むしろ、立民や国民などが積極姿勢を見せていた。法文上はどうか。

インフルエンザとは異なるコロナウィルス症を、特措法の適用対象に取り込むためには、法2条の定義規定のうち、感染症法第8条9項に定められている「新感染症(全国的かつ急速なまん延のおそれのあるものに限る。)」に該当すると言わねばならない。

「新感染症」の定義は、「人から人に伝染すると認められる疾病であって、既に知られている感染性の疾病とその病状又は治療の結果が明らかに異なるもので、当該疾病にかかった場合の病状の程度が重篤であり、かつ、当該疾病のまん延により国民の生命及び健康に重大な影響を与えるおそれがあると認められるものをいう。」とされる。

「何が原因か分からないものがあるための『新感染症』という規定だ。今回は新型コロナウイルスだと分かっており『新感染症』ではない」(加藤勝信厚労大臣)というのが、政府説明である。そこで、首相は3月2日の参院予算委員会で、新型コロナウイルス感染拡大に備えた法整備について、既存の新型インフルエンザ等対策特別措置法を改正する方向で検討していることを明らかにした。

現行の特措法は、人権制約のオンパレードであり、政府関係者自身「国民の権利制限に直結する項目をずらっと並べた法律」と指摘している〔3月3日毎日〕とされるが、本法施行後、実際の適用例は存在していないという。その理由の一つとして、当時野党であった自民党自身がこの法律の成立時には、ブレーキ役を果たしていたという事情が関係しているようである。

現行特措法は、民主党、公明党などの賛成多数で可決されたが、共産党は「国民的な議論が不足している」「人権を制限する」との理由で反対し、また、自民党は採決を欠席している。その自民党自身の要望で、成立に際しては、緊急事態宣言を恣意的に行わないことなどを求める付帯決議がついたという。

政権の思惑はこんなところであろう。
使いやすい感染症対策法が必要だ。そこには、「緊急事態宣言」によって人権を制約し、公権力がなんでもできる内容が盛り込まれなければならない。要件はできるだけ曖昧にして、緊急性を根拠に公権力ができる範囲はできるだけ広いものでなくてはならない。そうすれば、国民は「緊急事態」における人権制約に慣れてくれる。感染症蔓延の事態であれば、世論は「緊急事態宣言」における人権制限に違和感をもたないのではないか。これはチャンスだ。この国民の慣れと寛容は、次には、憲法の緊急事態条項新設につながる。

現に、下村博文ら自民党幹部から、コロナウィルスの蔓延にかこつけて『憲法に緊急事態条項を』という改憲議論が発信されている。改憲論議だけでなく、公権力の権限を一層拡大するための「特措法改正」の意図には、厳しく対応しなければならない。

安倍晋三のやることだ真っ当な提案であるはずはない、というにとどまらない。新型コロナウィルスの蔓延を奇貨とする「緊急事態条項」法案の整備は危険極まりない。
(2020年3月4日)

安倍晋三の「政治判断」とは、「無責任な素人判断」ということである。

昨日(3月2日)の参院予算委員会審議。福山哲郎委員の質問に答えて、安倍晋三は、こう言っている。

「学校への臨時休業の要請については直接専門家の意見を伺ったものではありませんが、現在の国内における感染拡大の状況についての専門家の知見によれば、これから1、2週間が急速な拡大に進むか終息できるかの瀬戸際となるとの見解が既に示されており、大人のみならず子供たちへの感染事例も各地で発生し、判断に時間を掛けるいとまがない中において、私の責任において判断をさせていただいた、こういうことでございます。」

要約すれば、「学校への臨時休業の要請については直接専門家の意見を伺ったものではありません。私の責任において判断をさせていただいた」というのだ。これを、彼自身は「政治判断」というが、何のことはない「素人判断」に過ぎないということだ。それも、杜撰極まる無責任なチグハグ判断。

この文脈での「私の責任において判断をさせていただいた」は、極めて傲慢な響きをもつ。この判断に至った具体的な根拠も理由も語られていないからだ。次のような思い上がりが透けて見える。

「専門家は、これから1、2週間が瀬戸際というだけで、具体策には言及していない。あとは、すべて私の政治判断。果たして、全国一斉休校が必要であるのか、どの程度有効な対策であるのか、他にもっと有効な策はないのか。メリットだけでなくデメリットはどの程度のものになるのか。その判断の具体的な根拠も理由も私は語ることができない。全国一斉休校策は、飽くまでど素人である私の感覚的な判断で具体的な裏打ちはなく、理由の説明はできない」

「私の素人判断は、確かに具体的な根拠なく、国民の多くに迷惑をかけるものだ。それでも、最後は良い結果に行き着くものとして受け入れていただきたい。仮に、私の判断が裏目に出たとしても、ほかならぬ私が責任をもつと言っているのだから」

昔、学生時代にこんなことがあった。当時、大学生協運営のトップは学生だった。生協労働者との団体交渉の当事者ともなっていた。私自身は、そのような立場に立ったことはないが、労使双方から団交の成り行きなどのビラを受け取っていた。

何の問題についてであったかは記憶にないが、大学生協トップの学生が、労組の代表者に、「その件については、私が責任をもつ」と発言したのだ。これに、労組側が反発した。「この問題に、あなたが責任を取りようがないではないか。あなたが責任を引き受けることはできない」「軽々に責任をもつなどと言うべきではない」

まことにそのとおりであって、妙に記憶に生々しい。安倍晋三も同様である。自分に責任のとれぬことを発言すべきではない。安倍晋三が引責辞任したところで、あるいは安倍が全財産を抛ったとしても、この混乱の責任を取りようがないではないか。

それにだ。これまで口先だけは責任を認めると言いながら実際に責任を取ったことはなく、丁寧に説明すると言いながらこれを実行したことのない男の言うことではないか。誰が納得できようか。
(2020年3月3日)

安倍晋三は考えた ― 「桜の疑惑を、コロナでかわせ」

常軌を逸した安倍晋三による全国の小・中・高・特別支援校に対する休校要請。そのせいで、本日から全国の家庭も教育現場も大混乱に陥っている。「場当たり」「思いつき」「無責任」「大ブレ」「ちぐはぐ」「やってる感だけ」「支離滅裂」「独りよがり」と、安倍への辛辣な不信・批判が全国に渦巻いている。既に、「安倍ウィルス」「安倍コロナ」という呼称も見える。後に、「悪夢のような安倍の時代」の象徴的事件と振り返られることになるのだろう。問題は、彼が何ゆえこのような愚策を持ち出したのかということである。

「新型コロナウイルス感染症対策専門家会議」の見解発表が2月24日である。ここには、「感染の拡大のスピードを抑制することは可能だと考えられます。そのためには、これから1?2週間が急速な拡大に進むか、収束できるかの瀬戸際となります。」「この1?2週間の動向が、国内で急速に感染が拡大するかどうかの瀬戸際であると考えています。そのため、我々市民がそれぞれできることを実践していかねばなりません。」という文言がある。この表現が後の全国一律休校の根拠とされるが、明らかに大きな無理がある。

この見解の別の個所には、「新型コロナウイルスに感染した人は、ほとんどが無症状ないし軽症であり、既に回復している人もいます。」「これまでに判明している感染経路は、咳やくしゃみなどの飛沫感染と接触感染が主体です。空気感染は起きていないと考えています。ただし、例外的に、至近距離で、相対することにより、咳やくしゃみなどがなくても、感染する可能性が否定できません。」という叙述もあり、全体に相応の事態の緊急性は感じられるものの、慌てふためいた切迫感はない。

https://www.mhlw.go.jp/stf/seisakunitsuite/newpage_00006.html

2月24日専門家会議の見解を受けて、翌25日「新型コロナウイルス感染症対策本部」は「新型コロナウイルス感染症対策の基本方針」を決定した。その内容は、前日の専門家会議の見解に平仄を合わせた落ちついたものだった。

「国民に対する正確で分かりやすい情報提供や呼びかけを行い、冷静な対応を促す」ことを基調として、「イベント等の開催について、現時点で全国一律の自粛要請を行うものではないが、専門家会議からの見解も踏まえ、地域や企業に対して、イベント等を主催する際には、感染拡大防止の観点から、感染の広がり、会場の状況等を踏まえ、開催の必要性を改めて検討するよう要請する。」とされ、国民心理を撹乱するものではない。 とりわけ、「冷静な対応を促す。」という文言を基調に据えたものとの印象が強い。

ところが、翌2月27日の安倍総理名による【イベントの開催に関するお願い】から、おかしくなる。安倍の暴走が始まる。

「政府といたしましては、この1、2週間が感染拡大防止に極めて重要であることを踏まえ、多数の方が集まるような全国的なスポーツ、文化イベント等については、大規模な感染リスクがあることを勘案し、今後2週間は、中止、延期又は規模縮小等の対応を要請することといたします。」というのだ。

いったいどうしたことだ。昨日は「全国一律の自粛要請を行うものではない」といった舌の根も乾かぬわずか一日で、「多数の方が集まるような全国的なスポーツ、文化イベント等については、中止、延期又は規模縮小等の対応を要請」とは。このブレについての説明はどうした。と不信感を募らせていたところへの追い打ち。翌27日には驚天動地の「全国一律休校要請」である。もはや、何をか言わんやである。あきらかに、合理的客観的な根拠を欠く乱暴極まる愚策。

安倍乱心の理由の一つは、数々の説明不可能な疑惑についての世論の追及をそらせることにあるものと考えざるをえない。安倍自身の責任が追及されている「桜を見る会」疑惑が最も大きい。さらに、カジノ汚職、河合杏里事件、菅原一秀疑惑もある。国民の政権批判は厳しく、2月の各社世論調査では、内閣支持率が軒並み急落である。最新の【産経・FNN合同世論調査】(22、23両日実施)では、「1年7カ月ぶり不支持上回る」と報じられた。

「安倍晋三内閣の支持率は、前回調査(1月11、12両日実施)より8.4ポイント減の36.2%で、不支持率は7.8ポイント増の46.7%だった。不支持率が支持率を上回ったのは1年7カ月ぶり」という。

また、同調査では、「首相主催の「桜を見る会」をめぐる安倍首相の説明について「納得していない」との回答は78.2%に上った。ただ、国会は「桜を見る会」と新型肺炎の問題のどちらを優先して審議すべきかを聞いたところ、89.0%が「新型肺炎」と答えた」という。

このあたりに、安倍の取り巻きが目を付けたのではないか。「桜疑惑に付き合っていると政権の命取りになる」「しかし、国民の関心は桜よりコロナだ」。ならば、「桜の疑惑を、コロナでかわせ」という作戦が有効ではないか。

しかも、政権のコロナ対策は、後手後手にまわったと悪評さくさくだった。ダイアモンド・プリンセス号では、対策を誤って船内大量感染をもたらしたと批判された。「今度は、先手先手だ」と前のめりになったことも考えられる。

できるだけ、コロナ問題を大ごとにすることで「やってる感」を演出したい。そうすることで、桜疑惑による支持率低下を挽回することができるのではないか。安倍の考えそうなことではないか。

おそらく、この窮余の一策に安倍が乗ったのだ。もちろん、練られた策ではない。参院の予算委員会質疑では、冒頭からボロボロだ。それでも、国民がひとときなりとも桜疑惑や数々の閣僚の不祥事を脇に置いてくれる効果はあったとほくそ笑んでいるのではないか。そして、桜が咲く頃には、国民は桜疑惑を忘れてくれる。そう思い込んでいるに違いない。こんな、安倍晋三流の悪あがきを許してはならない。
(2020年3月2日)

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