(2020年6月20日)
6月17日(水)、「お辞め下さい大村秀章愛知県知事 愛知100万人リコールの会(代表 高須克弥)」なる団体が、《大村秀章愛知県知事不信任議決の請願書》を愛知県議会に提出した。もっとも、団体名は単なる肩書で、請願者は高須克弥個人なのかも知れない。
この請願は、あいちトリエンナーレの企画展「表現の不自由展・その後」の展示内容を不当として、主催者である知事の責任を追及するものである。表現の自由を封殺しようとする危険な行為として傍観してはおられない。
仮に、この請願に基づく知事不信任案が県議会に上程された場合には、地方自治法(178条)の定めによって、議員数の3分の2以上が出席する県議会本会議において4分の3以上の賛成によって不信任が成立する。ハードルは極めて高く事実上不可能というべきであろう。
また、さらに「仮に」を重ねて、不信任議決が成立したときは、知事は10日以内に議会を解散することができ、議員は失職する。その後の選挙を経て初めて招集された議会で再び不信任決議案が提出された場合は、今度は出席議員の過半数の賛成で成立し、知事は失職する。
その請願の全文を読みたいものと思っていたところ、豊橋市の市会議員「長坂なおとのblog」に(書き起こし)を見つけた。謝意を表しつつ引用させていただく。
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大村秀章愛知県知事不信任議決の請願書
愛知県議会議長 様
紹介議員 しまぶくろ朝太郎
【内容】
(1)あいちトリエンナーレ2019表現の不自由点、展示による主催者責任
(2)新コロナ愛知県感染者の広報による個人情報流出管理責任と個人保護の対応
【理由】
1・昭和天皇のお写真をバーナーで焼き下足で踏みつぶす動画を開会時隠されて、再開示の展示責任
1・慰安婦像の展示責任
1・日本軍人、間抜けな日本人と称する展示責任
1・県民・市民・国民の税金(血税)による公営会場の展示会を、独断開催、実行委員会主催名義だが事実上は県市の主催開催であったということは、県市が上記著しく政治的に偏向した展示にお墨付きを与えたことになり、日本を愛する人々を深く傷つけた責任。
展示一時中止後の独断再開と県民・市民・国民(主権在民)多数の反対意見を無視した開催(実行委員会の非開催問題)
1・名古屋市民の負担金未払い結果による、あいちトリエンナーレ会長名での(名古屋市・名古屋市民)を提訴
1・あいちトリエンナーレ2019における全体経費の内、平成31年度愛知県負担金を名古屋市・国は減額をしたが、何故愛知県は減額をしなかったのか。
又、減額に対して愛知県議会では議論をしなかったのか。
以上の理由により、愛知県知事不信任の可決を愛知県議会に求めます。
令和2年6月17日
お辞め下さい大村秀章愛知県知事 愛知100万人リコールの会代表 高須克弥
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なんという粗雑で杜撰な内容。この投げやりな姿勢に一驚を禁じえない。指弾の相手方は、仮にも選挙によって県民の信任を得ている現職知事である。その知事を解職せよという不信任議決請願の重大性認識がまるでない。文字どおり児戯に等しい軽さ。この雑駁な請願書の提出は、県議会の議員に対しても、愛知県民に対しても、失礼極まると評するほかはない。
請願者は、知事に解任に値する理由があることについて、当不当はともかく自分なりの意見を展開する努力を尽くさねばならない。それこそが最低限の礼儀であろう。にもかかわらず、提出された請願書の、なんと雑駁で、いいかげんさであろうか。真っ当な文章を綴ろうという誠意の片鱗すらない。問題の焦点が憲法上の表現の自由に関わるだけに請願者の不誠実さは際立っている。とうてい、真っ当な世界での論議に耐えうるものではない。
しかも、この請願者は、「万が一、全く議員さん達に無視されたら、僕は愛知県議会の議員さん達は大村愛知県知事と同じ考えの方々だと理解します。その時は、県議会議員さんたちも併せてリコールするつもりです」とツイートしている。これも、自分の意見に積極賛同しない者は全て敵という、非論理・非常識を重ねての、幼児性丸出しの発言。まるで駄々っ子ではないか。
請願書の文中から、知事不信任の理由を探せば、「県民・市民・国民の税金(血税)による公営会場の展示会を、独断開催、実行委員会主催名義だが事実上は県市の主催開催であったということは、県市が上記著しく政治的に偏向した展示にお墨付きを与えたことになり、日本を愛する人々を深く傷つけた責任」というところだろうか。
文章の拙さが問題なのではない。天皇批判を政治的偏向と決めつける昔ながらのガラパゴス的心情、「日本を愛する人々を深く傷つける」表現の自由はないとする偏見と独断、県が主催する展示の政治的主張には県がお墨付きを与えたとする無定見な決めつけ。とうてい、真っ当な批判に耐えうる内容ではない。
高須という人の直情の吐露なのだろうが、それだけに危険だという指摘が必要だ。この人は、人権とか自由とか民主主義とかを自分の問題として考えたことはない。常に安全なところにいて、多数派の側あるいは権力の側からの無邪気な発言によって、貴重な少数派の言論を弾圧する尖兵となっている。
表現の自由とは、何よりも少数者の権利である。多数派や時の権力から嫌悪され、不快とされる思想や信条を表明する自由のことである。突き詰めれば、天皇や権力を遠慮なく批判する自由にほかならない。国民の多くを不快にするからとして、裕仁や安倍の批判が許されないとすれば、表現の自由はなきに等しい。
高須は、ツイッターで「日本国憲法の第一条に明記されている国民の象徴である天皇陛下のお写真にバーナーで火をつけ足で踏みにじる行為が日本国憲法で保証(ママ)されているはずがありません。日本の統合の象徴に対する侮辱は日本人全員に対する侮辱です。国民を侮辱する行為を国民の血税を搾取して支援する者は国民の敵。国賊」とも述べている。
高須の煽動の危険性はここによく表れている。天皇批判の表現は国民の敵・国賊という、俗論を超えた極論である。もちろん、このような言論にも表現の自由があるが、看過せずに批判が必要である。この高須の言説は、天皇を聖なる存在とする信仰の表白にほかならない。その天皇神聖の信仰の共有を全ての国民に押し付けようというのが戦前の政府と社会が行った過ちであった。高須は、今の世にこれを繰り返そうというのである。
もちろん、生身の天皇は他の国民と同等に人権主体である。これを傷つけたり脅迫する行為は、他の国民に対する傷害・脅迫と同様に犯罪となる。しかし、言論による天皇や天皇制の批判は最大限許容されなければならない。それが、同調圧力社会において、表現が困難であればこそ、「表現の自由」の保障が意味をもつのである。
天皇を聖なる存在とする信仰とは、聖なる血に対する信仰である。アマテラス・神武以来の聖なる血統という古代政権の愚かな信仰。これこそ、不合理な差別の源泉であり、合理性を追求してきた近代社会が意識的に排除してきたものである。
天皇の血を高貴で神聖なものとする思想は、その対極に卑賤な血という差別を生み出す。聖なる天皇を戴く日本を貴しとして他国を蔑む排外主義をも生み出す。これは、明治政府が作り出した国民総マインドコントロールの残滓なのだ。
最近、「白頭血統」「白頭山の血統」という言葉を聞く機会が多い。国民統合のために、聖なる血への信仰が利用されているのだ。これも、天皇制支配の残滓というほかない悲劇である。高須克弥と金与正、聖なる血統を崇拝するという精神構造において酷似していると指摘せざるを得ない。
聖なる血への信仰は愚かというにとどまらない、政治的に利用されることで危険なのだ。マインドコントロールを解く努力が、国民的課題として求められている。
(2020年6月19日)
国旗・国歌(日の丸・君が代)への敬意表明の強制を違憲違法と主張する、東京「君が代」訴訟の憲法論を見直している。憲法論で、何とか勝ちたいと思うからだ。その見直し作業の中で、短かくまとまった紹介に値する文章をいくつか見つけた。以下はその内の一つ。
教育も、行政も、司法もナショナリズムに惑わされてはならない
ア 本件は、個人と国家との憲法価値の対抗をめぐる憲法訴訟である。
憲法訴訟においては、対抗する複数の憲法価値相互の衡量が行われる。本件において衡量の対象とするものは、端的に「個人」と「国家」の憲法価値である。個人とは自然人としての「人権主体」である。これは分かりやすい。一方国家の方は分かりにくい。「統合された国民の集合体」であり、これが「権力主体」となっている。つまりは、「基本的人権としての個人の尊厳」と、「国家の権力作用」ないしは「統合された国民全体」との各憲法価値の衡量である。
言うまでもなく個人の尊厳は、最も基底的な憲法価値である。他方、国家は与えられた権力を行使して憲法が想定する法的・政治的・社会的な秩序を形成して国民の福利に寄与すべき立場にある。両者ともに、憲法的価値を持つと言ってもよいが、両者の憲法価値としてのレベルは、明らかに異なる。個人の尊厳が究極の目的的価値であるのに対して、国家の権力作用はそれに奉仕すべき手段的価値でしかない。
従って立憲主義国家において、その両者の衡量の帰趨は自ずから明らかである。にもかかわらず、この正確な衡量を妨げ、あるいは狂わせるものがある。それがナショナリズムである。
イ 本件訴えは、「原告らに対して、国旗・国歌への敬意表明を強制しうるか」というシンプルな問に回答を求めている。
強制される敬意表明の対象としての国旗・国歌とは、ともに国家の象徴として、国家と等価の関係にあるものと意味づけられている旗と歌である。
原告らは、国家を象徴するものであるがゆえに、国旗・国歌への敬意表明の強制を受容しがたいとする。自らの精神の核をなす思想・良心・信仰との抵触を理由とするものである。
この局面は、国旗・国歌という国家象徴を介して、国家と個人が対峙している構図である。公権力が、原告らに対して、「個人の思想・良心・信仰の如何に拘わらず、国旗・国歌を介して国家への敬意を表明せよ」と命じている。この構図のもとで、「個人」ないしは「個人の思想・良心・信仰」と、「国家」が対抗関係を形成して、その憲法価値の優劣についての衡量が求められている。
衡量の一方の秤に載せるものは、国旗国歌への敬意表明の強制を受け容れがたいとする個人の思想・良心・信仰の自由という基本的人権としての憲法価値である。もう一つの秤に載せられるものは、国家そのものの憲法価値である。「国民の国家に対する敬意という価値」と言ってもよい。
一方に「国家」を、他方に「個人」をおいた衡量の帰趨は、法的判断のレベルでは、自ずから明らかである。近代立憲主義の大原則においては、個人が前国家的な存在であり、国家が後個人的存在であることは自明の理だからである。
ウ ところが、学校現場の現実はそうなっていない。行政もそのようには考えない。さらには、裁判所も、そのようにシンプルに考察することに躊躇を隠さない。国家と個人との憲法価値の正確な衡量を妨げる要因があるからである。それが強力なナショナリズムの作用にほかならない。
日本国憲法を制定した戦後民主主義は、戦前の排外的ナショナリズムを払拭したはずだった。ところが今、日本の社会には過剰なナショナリズム復興の過程にある。学校現場において、天皇制国家とまったく同じデザイン、まったく同じ歌詞・曲の「国旗・国歌(日の丸・君が代)」への敬意表明が強制されていることがその象徴的なできごとである。
ナショナリズムは政治学的ないしは社会心理学的な概念であるから、その正確な定義があるわけではない。しかし、ナショナリズムは、確実に少なからぬ国民の精神をとらえ、国家への統合に国民の情念を動員するエネルギーを有している。個人と国家との関係を醒めた理性で見つめる人に対して、愛国的な行動に同調を求める強力な圧力の源泉となっている。ナショナリズムは、国家を特別に重要で敬意を表すべき存在であるとし、信仰にも似た尊崇の対象と考える。その結果、国家を象徴する国旗・国歌についても、同様にこれを特別に重大で神聖なものと考えるのみならず、当然にすべての国民がこれに敬意を表明すべきものと考え、国旗国歌に敬意を表することを潔しとしない国民の態度を強く非難する。
エ ナショナリズムに基づく国旗国歌への敬意表明要求は、社会的同調圧力として存在するにとどまらず、多数決原理の下、容易に政治権力に転化する。こうして、政治権力がナショナリズムを鼓吹する悪循環が生じる。石原慎太郎知事の時代に、東京都教育委員会が発した悪名高い10・23通達は、その最悪の事例である。
愛国心とは普遍的な道徳で、国旗国歌の尊重は全ての人に望まれる態度であるという、信仰にも似た社会心理がこの世を覆っている。ナショナリズム鼓吹派は常に多数派で、ナショナリズムに同調しない人々は常に少数派とならざるを得ない。その結果、すべての国民が国旗国歌に敬意を表明すべきことは当然と考える人々が政治的多数派で、不起立不斉唱でこれに抵抗する人々は政治的に少数派となる。国旗国歌への敬意表明の強制は、民主主義の問題として放置をしておく限り、解決することはない。
多数派の社会的同調圧力は多数決原理の介在によって、強制力をもつ公権力の命令に転化する。本件の10・23通達と、同通達にもとづく「起立・斉唱」の職務命令はそのようにして、原告らの人権を侵害している。
オ 本件訴訟は、そのような社会的背景の中で生じ、そのような背景の中で権利回復を求める訴訟である。
言うまでもなく、人権の擁護は、少数派の人権の擁護であることに実質的な意味がある。多数派が思想弾圧を受けることはない以上、思想良心の自由とは常に「権力(=多数派)が憎悪の対象とする少数派の思想の自由」である。
以上のとおり、本件において司法の役割が根底的に問われている。司法がナショナリズムという「権力(=多数派)の意思」に迎合し動揺して、少数者の人権侵害をいささかも容認してはならない。司法は、飽くまで人権の砦としての役割を果たさなくてはならず、無批判に多数決原理に追随してはならない。多数派の少数者に対する同調圧力の不当を看過して、これを容認するようなことがあってはならない。まさしく、司法の存在意義が問われているのだから。
(2020年6月18日)
梅雨の晴れ間が今日で4日目。毎日気になる不忍池の模様。昨日には見あたらなかった蓮の華が、今朝は少なくとも3輪。6月18日を「開華記念日」と名付けよう。
アメリカでは黒人差別抗議デモが高揚し、朝鮮半島も中印国境も穏やかではない。北京でのコロナ蔓延の兆しも報道されている。国内も多事山積で騒然としてるが、この蓮池と周りの紫陽花ばかりは平和そのものである。
さて、昨日(6月17日)201通常国会が閉会となった。今朝の朝日の川柳欄に、「長居は無用と火事場泥棒(東京都 三井正夫)」との投句がある。あるいは、「はやばやと現場立ち去る火事場泥」と詠むべきか。火事場泥になぞらえられた一国の首相は、国会という現場から、早々と逃げたのだ。しかも、「検察庁法改正」という財物を盗み損ねた。会期最終日における内閣委員会での継続審議の提案はなく、結局審議未了で廃案となった。
検察幹部の人事を掌握して、検察庁に官邸支配の手掛かりを得ようとしたアベ晋三の目論見は裏目に出た。却って、世論は検察の官邸からの独立に大きな関心をもつこととなり、検察もこの世論の動向を意識して、官邸からの独立を見せなければならない立場となっている。
それあらぬか、本日(6月18日)の朝日のトップ記事が、「河井前法相・案里氏 逮捕へ」である。毎日もトップの扱いだが、「河井夫妻 きょう強制捜査」と、少し温和しい。東京新聞は社会面だが「河井前法相夫妻、きょう逮捕 検察当局、買収容疑」と、共同配信記事。いずれも、検察からのリークなければ書けない内容で、各紙とも容疑の内容が詳細である。このリーク記事のとおりに、本日河井夫妻の逮捕状請求となり、午後執行された。こちらも、「開華記念日」にふさわしい出来事。
しかし、課題は河井夫妻の逮捕・立件ではなく、その背後の「官邸の犯罪」にどこまで切り込めるかということにあり、検察にそれを暴く意気込みがあるのかが問われている。この点の示唆に富むのが、文春オンラインの「まもなく逮捕へ…河井克行・案里夫妻の“買収問題” 東京地検特捜部は全貌を解明できるか」という記事。概要を紹介したい。
稲田伸夫検事総長の肝煎りで始まった捜査は、黒川弘務の辞任を受け新たに東京高検検事長に就任した林眞琴が、東京地検管轄の事件として本格捜査着手の指揮を執っている。
捜査の焦点は言うまでもなく、昨年7月21日投開票の参院選に向け、自民党が河井夫妻陣営に振り込んだ1億5000万円の“公認料”である。同じ選挙区の溝手顕正に対する公認料の10倍という法外な金額。
広島県選管が参院選挙費用として認めている上限は4726万9500円だから、そもそも“公認料”そのものが上限をはるかに超えていることになり、それ自体の問題もある。一方、河井陣営が選管に提出した収支報告書によれば、参院選の選挙運動費用は2405万円、チラシの作成費用などを含めた支出額を2688万9896円と計上している。
克行は案里が参院選へ立候補を表明した昨年3月以降、95人の広島県議や後援会関係者に2400万円の現金を渡して票の取りまとめを依頼し、当の案里も克行の指示で5人に150万円を配ったとされる。選挙買収に使われたこの2550万円プラスアルファの2600万円の原資が、1億5000万円の法外な“公認料”だと見ていい。それでもまだ、1億円近くの行方が謎である。
参院自民党の広島選挙区は溝手の出馬が決まっており、そこへ2人目の候補として河井案里を割り込ませた。そのための“公認料”である。「ポイントは安倍首相と菅官房長官のどちらが案里を担ぎ出したか。安倍首相側は菅官房長官が子飼いの河井の妻を擁立したんだといい、逆に菅官房長官側は溝手嫌いの安倍首相が判断したんだと互いをけん制している」と自民党関係者は言う。
事件はもはや修復不可能といわれる官邸内の首相対官房長官の確執に飛び火しそうな雲行きだ。仮に黒川が東京高検検事長としてそのまま居座っていればどうなっていたか、とも囁かれる注目の捜査。検察の威信をかけた東京地検特捜部はどこまで全貌を明らかにできるか。
また、従来から「捜査で押収した携帯は『宝の山』。1億5000万円の使途、安倍首相秘書らの選挙中の動向が見えつつある」とも報道されてきた。「安倍首相秘書らの選挙中の動向」こそが、まさしく注目される捜査である。検察が忖度も遠慮もなく、政権に切り込むことができれば、その日を「蓮華満開記念日」としよう。
なお、本日(6月18日)都知事選の告示。なんとも論戦低調で盛り上がりに欠ける選挙戦の始まり。それにつけても、赤旗の選挙記事を見るだに、その大仰な支持候補者紹介にこちらが気恥ずかしくなる。売らんかなの商品の宣伝には誇大誇張が付きものではあるが、過剰に過ぎては白けて逆効果だろう。消費者としての商品の選択にも、選挙における候補者の選択にも、誇大広告に惑わされることのないよう、よくよくお気を付けを。
(2020年6月17日)
アベ晋三で、ごじゃます。「あんな人たち」を除く国民の皆様に、ご挨拶申しあげます。本日、150日間にも及んだ通常国会がようやく終わることになったわけでごじゃます。思えば長い々い針のムシロの150日、晋三の心臓も面の皮も、痛み通しの半年でごじゃました。
まずは、桜を見る会の追及は痛かった、黒川検事長定年延長閣議決定もあんなに問題になるとは予想外、そして束ね法案でごまかそうと画策した検察庁法改正では盛り上がった世論に手痛い黒星。さらには、せっかくのジリ貧挽回のチャンス「国難コロナ」への対策への手痛い失敗。愛犬とのステイホームやら、アベノマスクへの揶揄やら、電通・パソナ中抜き問題やら、何をやっても評判を落とすことばかり。とうとう、我が政権のメッキははげ落ち、馬脚が表れてきたわけでごじゃます。それに加えて、イージスアショア配備中止やら、菅原一秀と河井克行・案里夫妻など、閣僚の公職選挙法違反事件などなど。臭い物が、次から次へ。これが政権の末期症状というものでごじゃましょう。
分けても、河井事件は、私自身の責任に思い当たる節があるだけに、戦々恐々というところなのでごじゃます。政権の守護神を欠いた今、検察がうっかりと刑事訴追に本気にでもなったとしたら、たいへんなことなのでごじゃます。是非とも、河井克行・案里という2本の尻尾を切るだけで、腐ってはいてもアタマの方は温存していただきたいのでごじゃます。
もちろん、最後の最後まで弱気は禁物。いつもの手口で、「国民の皆様には、今後とも丁寧にご説明を申し上げたい」と時間を稼いでおいて、人柄よろしい国民の皆様の健忘症に期待するしか、方策はごじゃません。もちろん、「丁寧にご説明を申し上げたい」というのは、今すぐのことではごじゃません。今のところは、口先だけで、得意の「ワタクシの責任でごじゃます。ご迷惑をおかけしたことをお詫びいたします」てなこと言っておけばよいのでごじゃます。そのうち、多くの方が、お忘れになれば、それで一件落着なのでごじゃます。これまでは、このようにして、大過なかったのでごじゃます。
もしかして、皆様には誤解があるのかも知れませんが、総理大臣の発言とか責任ってその程度の軽いものなのでごじゃます。また、私に責任があることと、私が責任とることは、まったく違うことは当然でごじゃます。もちろん、この「ワタクシの責任」という軽口は、私得意の印象操作ですから、是非とも私の思惑通りに、誤解してくださいますよう、お願いする次第でごじゃます。
こういう事態ですから、「臭い物には蓋」「国会には厚い扉」なのでごじゃます。会期の延長とか、早期に臨時国会招集なんてとんでもないことなのでごじゃます。国会は、政権をつるし上げる場ではない。36計逃ぐるに如かず、余計なことを言わずに、ひたすらダンマリ続けるのが上策なのでごじゃます。そのためには、国民の皆様の健忘症が蔓延し数々の安倍政権不祥事をお忘れいただけるまでの十分な期間、国会を閉じて野党の追及を避けるのが賢明な策。これが何よりの基本姿勢でなくてはならないわけでごじゃます。
そのための、予備費10兆円なのでごじゃます。これだけあれば、国会を開かずとも、国民から怨まれることなく、政権の思惑だけで、財政支出ができるのでごじゃますから、しめたものなのでごじゃます。
もっとも、しばらく国会が開けないということは、憲法改正の審議も進まないということになるわけでごじゃます。ということは、ワタクシが岩盤支持層といたしております、右翼・極右の皆様には申し訳ないことで、そこいらがたいへん気にせざるを得ないところなのではごじゃます。
しかし、今は、改憲どころではごじゃいません。このままでは、安倍政権が断末魔を迎えざるを得ないのでごじゃます。安倍政権の終焉は、憲法改正の希望の断絶でもあります。安倍政権延命のために、つまりは改憲の希望の灯を灯し続けるために、耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍んでいただくほかはないのでごじゃます。
とは言うものの、実はワタクシも心細いのでごじゃます。このところ、やることなすこと裏目です。このままでは、ワタクシには、後世に語るべき何の功績も思い当たらないのでごじゃます。北方領土問題の解決も、拉致被害の救出も、普天間飛行場の撤去も、そして憲法改正も、「やるやる」「必ずやる」と、何度も大見得切って言い続けて、なんにもできていないのでごじゃます。後世からは、「右翼勢力とともに憲法改正を試みたが、国民世論の反発で果たせなかった総理大臣」「任期は長かったが、人気はなかった内閣」「国政私物化を追及され続けながら、かろうじてかわし続けた長期政権」「嘘とごまかしと、文書の隠匿と改ざんで特徴付けられたアベ政権」と記憶されることになりそうなのでごじゃます。
明日にも河井夫妻逮捕とならないかしら。河井夫妻のヘマから、捜査が政権中枢に向かうことにはないだろうか。このところ心配で心配でなりませんし、口を突くのは、愚痴と溜息ばかりなのでごじゃます。あ?あ。
(2020年6月16日)
関東は6月11日に梅雨入り。平年より3日遅れだという。梅雨の晴れ間の早朝には、不忍池をめぐらねばならない。まず目につくのは、咲き誇る盛りの紫陽花。なんとも多種多様、色とりどりが楽しい。
アジサイは、日本の固有種とのこと。語源はいろいろあるようだ。「あづさあい(集真藍)」が転訛したものというのが、万葉かなの表記を根拠にした有力説らしい。ほかにも、「あづ(集まって)咲く」が語源との説も、「厚咲き」が転じたものとの説もあるという。
かつて、「紫(ムラサキ)」とは、「群れて咲く」花のことだと教えられて衝撃を覚えた。どうしてそれまで、気付かなかったのだろう。万葉の昔、関東平野には、「ムラサキ」が群生していたのだ、「ムラサキ」の花は白いが、その根から取れる染料の鮮やかな色を「紫」と名付けたのだ。今は、そのムラサキを目にすることはない。梅雨の季節、紫陽花にこそ「ムラサキ」の名がふさわしい。紫陽花の色をこそ、「紫」と呼ぶべきではないか。
いま、蓮池にはびっしりと蓮の葉が敷き詰められている。蓮の葉群落の、密生・密集・密叢である。蓮の華はまだ咲かない。目を凝らして、昨日(6月15日)一本の茎に小さな固い蕾があるのを見つけた。珍しげに見ていると、…「出たー」。噂の薀蓄おじさんである。「私は、今日は7つのツボミを見つけましたよ」「3日前からツボミが出ていますね」「最初の開花は、あと4?5日でしょう」「昨年よりもずいぶん遅れています」「一昨年は、記録的に早い開花で6月6日でした」と、貴重な情報。親切な薀蓄おじさんに教えられた場所で、15日には合計5個の蕾をメーッケた。そして本日(6月16日)は11個。中には、もうすぐ咲きそうな薄く紅がかった蕾も。
自宅から不忍池に直行するには、赤門から入って鉄門に抜ける、東大キャンパス横断コースが便利なのだが、今このコースがとれない。コロナ自粛以来赤門は、学外者通り抜け禁止となっている。加賀藩上屋敷の時代さながらに通行人は誰何される。遠回りの面倒はこの上ない。生協への買い物にも行けない。いつまで続く、東大自粛。
そういえば、6月15日の山本太郎出馬記者会見の見せ場。記者から、小池百合子の学歴詐称疑惑への感想を聞かれてサラリとかわし、「凄いですねー。カイロ大学の首席卒業だなんて。今度の都知事選立候補は、東大卒が二人(宇都宮と小野)でしょう。私だけが中卒」と笑い飛ばした。さすがに役者である。
私には、「れいわ」も「新選組」も、とても真面目なネーミングとは思えない。しかし、難しい記者の質問を逸らさず真面目に答え、ときには困ってみせる、山本の態度を好もしく思う。宇都宮陣営や野党の批判をせずに、周りの者を陽気に元気づける雰囲気を持っている。
2012年の都知事選。宇都宮陣営のキックオフ集会は、中野ZEROホールで開いた。このとき、山本太郎がゲストとして挨拶している。舞台の上で、彼は持ち前の明るい声で、「宇都宮さん、原発は全部止めなきゃだめですよね。止めましょうね」と語りかけた。そのきっぱりとした物言いが印象的だった。どう返答したらよいのか、さっぱり要領を得ない宇都宮とのコントラストが際立っていた。あれからもう8年に近い。
(2020年6月15日)
政府・与党が10兆円もの予備費を抱いて6月17日に通常国会を閉じようとしている。国会審議での追及を恐れて、ボロ隠しの逃げに徹する姿勢。これを不当として、野党が「逃げるな内閣・自民党!」「国会閉じるな!」と攻勢的に会期延長の可否が論じられている。
そのさなかの6月10日、なんともタイミングよく那覇地裁で「憲法53条違憲国家賠償請求事件」判決言い渡しとなった。仮に、17日閉会となっても、野党議員による臨時国会招集要求の実効性に大きなヒントを与えるものとなっている。
もっとも、この判決は結果原告敗訴である。問題は、判決理由中の判示をどう評価すべきかだが、そう単純ではない。まず、毎日と朝日との見出しが対照的である。
(毎日) 「臨時国会召集せず不利益」賠償訴訟、国会議員ら敗訴 那覇地裁、請求権認めず
(朝日) 国会召集「内閣に法的義務」 憲法53条めぐり初判決
そして(時事)は、言い渡し直後に《臨時国会不召集、原告側敗訴 「内閣は損賠義務負わず」 那覇地裁》と配信したが、その日の内に原告・弁護団の解説を受けて《原告「一歩進んだ結論」 請求棄却も意義強調―憲法53条訴訟》と原告側の評価を伝えている。また毎日も、6月14日の社説では、「国会召集めぐる判決 憲法上の義務明言は重い」と、ニュアンスを変えている。敗訴判決ではあるが、評価すべき面も無視し得ないということなのだ。
この訴訟の原告は、衆議院議員の赤嶺政権・照屋寛徳、参議院議員の伊波洋一・糸数慶子(当時)の4名。国を被告としての国家賠償請求訴訟である。憲法53条後段に基づいて、臨時国会の召集を内閣に要求したのに、安倍内閣は憲法を無視して、この要求に応じなかった。明らかに違憲・違法な内閣の行為による損害(各1万円)の賠償を求めるという事件である。
まず、関係条文としての憲法53条の条文は以下のとおり。
(前段)内閣は、国会の臨時会の召集を決定することができる。
(後段)いづれかの議院の総議員の4分の1以上の要求があれば、内閣は、その召集を決定しなければならない。
この後段の条文に基づいて、各議院における臨時会召集要求と要求に対する安倍内閣の対応の経過は、判決によれば以下のとおり、安倍内閣の憲法無視の威勢をあからさまにするものであった。
【臨時会召集の経緯】
ア 原告赤嶺及び原告照屋は,平成29年6月22日,他の衆議院議員118名とともに連名で,憲法53条後段に基づき、安倍内閣に対して,衆議院議長経由で要求書を提出して,臨時会を召集するよう要求した。原告糸数及び原告伊波は,同日,他の参議院議員70名とともに連名で、憲法53条後段に基づき、安倍内閣に対して,参議院議長経由で要求書を提出して,臨時会を召集するよう要求した。
イ 本件衆議院召集要求を行った衆議院議員の総数は,衆議院議員475名中120名であり,本件参議院召集要求を行った参議院議員の総数は参議院議員242名中72名であり,いずれも憲法53条後段所定の(各)議院の総議員の4分の1以上による召集要求がされている。
本件召集要求の理由は,要旨,《平成29年開催の第193回通常国会において,いわゆる森友学園・加計学園問題について十分な審議が尽くされておらず,国民に広がる政治不信を解消するためには,国会が国民の負託に応え,疑惑の真相解明に取り組むことが不可欠であるという国民に広がる政治不信を解消するため》というものであった。
安倍内閣は,平成29年6月22日,本件召集要求の要求書を受領した。安倍内閣は同年9月22日,臨時会を同月28日に召集することを持ち回り閣議で決定し、同日に衆議院及び参議院を召集した。
しかし、安倍内閣は,本件召集に基づいて開催された臨時会の冒頭において衆議院を解散したため,参議院は同時に閉会となり(憲法54条2項),臨時会において原告らが求めるような実質的な審議は行われなかった。
安倍内閣の憲法無視の姿勢が如実に表れているではないか。以上の経過を前提に、判決が述べている【事案の概要】は、大略以下のとおり。
本件は,国会議員である原告らが,その他の国会議員とともに,平成29年6月22日,内閣に対し,憲法53条後段に基づき,衆議院及び参議院の臨時会の召集を要求したところ,それから98日か経過した同年9月28日まで臨時会が召集されなかったことにつき、内閣は合理的な期間内に臨時会を召集するべき義務があるのにこれを怠ったものであり、その結果,原告らは臨時会において国会議員としての権能を行蜃する機会を奪われたなどと主張して,国家賠償法1条1項に基づき,被告に対し,原告らそれぞれにつき損害金である100万円の一部請求として1万円及びこれに対する臨時会の召集期限といえる同年7月12日の翌日である同月13日から支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を求める事案である。
判決は、次のとおりに、【争点を整理】した。
争点(1) 内閣による臨時会の召集の決定が憲法53条後段に違反するかの法的判断について,裁判所の司法審査権が及ぶか(本案前の争点)
争点(2) 本件召集要求に基づく内閣の召集決定が,本件召集要求をした個々の国会議員との関係において、国賠法1条1項の適用上,違法と評価されるか。
争点(3) 本件召集が実質的には本件招集要求に基づく臨時会の召集とはいえず,または,本件召集が合理的期間内に行われたものとはいえないとして,憲法53条後段に違反するものといえるか
争点(4) 原告らの損害の有無及びその額
裁判所によって設定された以上の各争点を判決はどう判断したか。
争点(1)の判断においては、被告国の言い分を斥けて、裁判所の司法審査の権限は憲法53条後段違反の有無について及ぶと判断した。被告国は、「そもそもこの件に裁判所の出番はない」「三権分立の在り方から、本件を裁判所が裁くことはできない」と主張したのだが、裁判所の採用するところとはならなかった。
各紙が報道しているとおり、53条後段にもとづく内閣の臨時会招集義務は、「単なる政治的義務にとどまるものではなく、法的義務であると解され、(召集しなければ)違憲と評価される余地はあるといえる」と判決は言う。これは、今後に生かすべき本判決の積極面。
ところが判決は、争点(2)では被告国の言い分を容れた。憲法53条後段は、議員の臨時会召集要求があれば、内閣には招集決定の法的義務が課せられるものではあるが、その義務は召集要求をした個々の国会議員との関係における義務ではない。従って、その義務の不履行が国賠法1条1項の適用上,違法と評価されることにはならない、というのだ。その結果、争点(3)も(4)も、判断の必要がないとされてしまっている。これでよいのだろうか。
結局、この判決は、こう言ったことになる。
内閣の53条後段違反の有無は裁判所の違憲判断の対象とはなる。しかし、仮に内閣の招集遅滞が違憲と判断されたにせよ、それは議員個人の国家賠償の根拠とはならない。だから、憲法違反の有無の判断をするまでもなく、請求を棄却せざるを得ない。それゆえ、「安倍内閣の本件召集が実質的には本件招集要求に基づく臨時会の召集とはいえない」という原告の主張についても、また「本件召集が合理的期間内に行われたものとはいえない」ということも、判断の必要はない。
せっかく、53条後段に違反する内閣の行為(臨時国会招集の不履行)については、司法審査が及ぶとしながら、司法判断を拒否したのだ。理由は、国家賠償の要件としての違法性は認められないから、というものだった。では、いったいどのような訴訟類型を選択すれば、司法判断に到達することになるのか。それが問われることになっている。
もちろん、飽くまで国家賠償の追及は重要である。内閣に違憲違法の作為・不作為がある以上、その違法な不作為との因果関係のある損害は賠償すべきだとする主張である。
もう一つは、国家賠償請求以外の方策の追及である。この訴訟の原告が、抗告訴訟(不作為の違法確認や義務付け等)ではなく国家賠償請求を選択したのは、「処分性」論争を避けた結果であると考えられる。抗告訴訟でもなく、国家賠償でもないとすれば、「実質的当事者訴訟」が考えられる。国を被告としての「違法確認訴訟」ができなければ、せっかくの争点(1)の判断は画餅に帰すことになる。
同種訴訟が、岡山と東京に係属しているという。関係者の衆知を集約すべきであろう。
(2020年6月14日)
山口県田布施町職員の内部告発が話題になっている。正確に言えば、職員の内部告発に対する町当局の報復措置が話題となっている。この職員の告発内容は、固定資産税の過剰課税である。町民の利益のための公益通報者が不当な報復を受けているとの報道なのだ。公益通報者保護法の実効性が問われている。
事案の内容は比較的単純である。2年前、税務課に在籍していた男性職員が、固定資産税の徴収ミスを発見。上司に報告したが公表されなかったため、町役場に内部告発をしたという。ところが、徴収ミスの公表は2年も遅れた。公表のないまま、報復が始まった。その年度に役場側が出した男性職員の業務評価は最低の0点とされたという。それだけではなく、男性職員は2年間で3回の異動となり、今年(2020年)4月以降は、役場の建物から40m離れた公民館の一室に一人だけ隔離されているという。
人はその属する組織の上を伺ってヒラメとなり、忖度怠らず組織の論理に忠誠を尽くしておれば無難に世過ぎができる。今や、ヒラメを出世魚というのだそうだ。しかし、組織の論理を超える、高次の義務を意識すると、途端に面倒なことになる。公益通報者保護の制度とは、このような場合の拠り所を示すものである。
忠誠や忠実という言葉には、手垢にまみれた負のイメージがつきまとう。忠義となればなおさらのイヤーな感じ。かつて忠は身分社会の倫理とされ、その対象は主君であった。「君が君たらずといえども、臣は臣たらざるべからず」とは、何とムチャクチャな。近代日本では、臣民の忠の対象は天皇であり国家とされた。忠君愛国・滅私奉公…、支配者にとってこんな好都合な道徳はない。
この忠の身分的感覚は、象徴天皇制とともに戦後も生き残って、現在も払拭されていない。一人の人に幾層にも重なる社会構造のそれぞれが個人に忠誠を求めている。その主たるものは、従業員や公務員にとっての上司であり、また全国民にとっての国家でもある。忠誠や忠実が支配する側にとって好都合な徳目である事情は相変わらずなのだ。押しつけがましい愛社精神やら、愛国心やらには反吐が出る。
しかし、身分の上下や権力関係を捨象して、人が人に対し互いの人格を尊重し合うことや、人が社会に対して誠実に向かい合うべきことに疑問の余地はない。この普遍的な人の誠実義務が、組織の求める
森友案件での文書改ざんを命じられて自責の念から自死に至った赤木俊夫さんは「ぼくの契約相手は国民です」を口癖にしていたという。国民のために誠実であろうとする生来の心情と、所属する組織が要求する忠誠との板挟みとなって、国民への誠実を貫けなかったことの悔恨が死をも招いたのだ。
この社会の幾重もの組織の中で生きていかねばならない人は、組織の求める忠誠と普遍的な誠実さとの間での矛盾に晒され続けている。公益通報者保護は、このような矛盾の解決手段である。内部告発者を擁護することは、個人の誠実さを尊重することであり、個人の尊厳を護ることでもある。そして、さらに社会的な公益をも擁護することになるのだ。
当該職員だけの問題ではない。田布施町だけの問題でもない。日本社会全体の問題として、経過を明らかにし問題点を明確にしたうえ、然るべき救済措置と責任者への相当処分、さらに再発防止措置とその公報が行われねばならない。
(2020年6月13日)
今国会のヤマ場であった検察庁法改正審議大詰めの5月15日。松尾邦弘元検事総長ら検察OBが、法案に反対の意見書を法務大臣宛に提出した。長文のその意見書中の次のくだりが話題となった。
本年2月13日衆院本会議で、安倍晋三首相は「検察官にも国家公務員法の適用があると従来の解釈を変更することにした」旨述べた。これは、本来国会の権限である法律改正の手続きを経ずに内閣による解釈だけで法律の解釈運用を変更したという宣言であって、フランスの絶対王政を確立し君臨したルイ14世の言葉として伝えられる「朕は国家である」との中世の亡霊のような言葉をほうふつとさせるような姿勢であり、近代国家の基本理念である三権分立主義の否定にもつながりかねない危険性を含んでいる。
時代背景は異なるが17世紀の高名な政治思想家ジョン・ロックはその著「統治二論」の中で「法が終わるところ、暴政が始まる」と警告している。心すべき言葉である。
言うまでもないことだが、私は無邪気に検察の正義を信ずる立場にはない。実務の中で、幾度となく検察の横暴にも検察の不作為にも苦い思いを繰り返してきた。しかし、この切所とも言うべき局面で、権力に対峙すべき検察の役割を適切に語って時の総理大臣をたしなめる、この検察OBの言には感動を禁じ得ない。
思いもかけぬ賭けマージャン報道で、時の人黒川弘務・東京高検検事長が辞任したその直後の5月22日衆院厚労委員会で、この「朕は国家」問題が取り上げられた。共産党の宮本徹が、ルイ14世に例えられた安倍晋三に、こう問うた。
【宮本徹】検察庁法の問題については、元検事総長の方々も初めて連名で意見書を出されました。総理もお読みになられましたかね。本会議で総理が検察官にも国家公務員法の適用があると従来の解釈を変更することにしたと述べた、このことについて、法律改正の手続を経ずに内閣による解釈だけで法律の解釈運用を変更したという宣言であって、フランスの絶対王政を確立し君臨したルイ十四世の言葉として伝えられる、朕は国家であるとの中世の亡霊のような言葉をほうふつとさせるような姿勢だと。絶対君主、絶対王政の時代と同じ姿勢だというふうに批判されているんですよ。こういう批判について真摯に耳を傾けるべきじゃありませんか。
さすがに、宮本はことの本質をよくとらえている。
従来一貫して、検察官には国家公務員法の定年制の規定は適用されないと理解されてきた。ところが、今年1月31日回突然に黒川検事長定年延長の閣議決定に及び、これを追及されるや、2月13日衆院本会議で、「検察官にも国家公務員法の定年延長規定を適用する旨、従来の解釈を変更することにした」旨述べたのだ。
この重大な解釈変更は、国権の最高機関であり唯一の立法機関でもある国会をないがしろにして、内閣が恣意的に立法に及んだに等しい。その政権の姿勢が、『朕は国家である』と言った絶対君主の言葉を彷彿とさせると批判されたのだ。
しかし、批判は、知性を欠いた人物には意味をもたない。馬耳は、東風だけではなく、北風も疾風も感じないのだ。批判の文脈を理解する能力のない人物には、なんの痛痒も生じさせない。検察官OBの言葉も、宮本の質問も、アベ晋三には届いていないのだ。
ここでの予想される答弁のパターンは、こうであろうか。
A(真っ当受けとめ型)
委員ご指摘のとおり、法律専門家の皆様からの私に対する厳しいご叱責には、真摯に耳を傾けざるを得ません。近代の法治主義も、立憲主義も、権力分立も、そして人権尊重の法思想も、『朕は国家である』という絶対王政の思想と国家体制を克服するところから、出発しているものと心得ています。その根底のところでの私に対する批判なのですから、深く自省して、再び同様なことがないよう、この戒めを今後の行政府の長としての心構えといたします。
B(受け流し型)
政権の運営には、さまざまな観点からのさまざまなご批判があることは当然であろうと考えているところでございます。いただいた厳しいご指摘を、けっして無視するということではございません。立場によってはそうも見えるものであるのかという、貴重なご指摘として、参考にさせていただきたいと考えているところでございます。
C(反発型)
せっかくのご指摘と批判ですが、的はずれと受け取らざるを得ません。安倍内閣は、法解釈の変更でできることと、その範囲を超えて法改正をしなければならないこととの区別は十分に承知しておるところでございます。1月31日黒川検事長定年延長の閣議決定は法解釈変更のレベルでできること、そして今国会で審議をお願いしております検察庁法改正案は法解釈を超えているものです。検察OBの皆様には、そのあたりの誤解があるようで残念です。これまでの経緯の詳細を虚心に精査していただけば、誤解も曲解も氷解するものと自信をもっております。
これに対するアベの答弁は、以上のパターンのどれでもなかった。次のとおりである。
【安倍晋三】ルイ16世(14世の間違い)と同じとまで言われると、多くの方々がそれは違うのではないかというふうに思われるのではないかと思うわけでございます。私がここに立っているのも、民主的な選挙を経て選ばれた国会議員によって選出をされた、その多数によって選出をされてここに立っているわけでございますから、この根本的なところをよく見ていただかなければならないんだろう、こう思うところでございます。共産党はどのように党首を決められるのか、よく私は承知をしておりませんが、そのようになっている、総理大臣や、また我が党においても、選挙において総裁を選んでいるということでございます。
この答弁はムチャクチャである。噛み合わないとか、論点からずれている、などというレベルではない。およそ、何を聞かれているかの理解がないのだ。このレベルに達すると、無知はこの上ない強みである。
アベは、「検察OBから、ルイ16世と同じとまで言われた」と思い込んでいるようなのだ。もしかしたら、アベは、比喩とか、暗喩とか、隠喩とか、メタファーとか、アナロジーなどという言語技法を知らないのかも知れない。あるいは、「彷彿」の意味が本当に分からないのかも知れない。さぞや、宮本も面食らったであろう。
宮本対アベの遣り取りでは、「募るも、募集も同じことでしょう」という珍問答を思い出さざるを得ない。やむなく、宮本が、アベにこう解説をしている。
【宮本徹】民主国家だからこそ、こういう声を上げて批判されているわけですよ。私たち一人一人は、選挙で選ばれた国民の代表です。立法府は、国権の最高機関なわけですよ。だからこそ、その立法府で定めた法解釈を一方的に捻じ曲げるのは、「朕は国家なり」と同じだ、と批判されているわけですよ。その点を理解されない、受けとめない、大変問題だということを厳しく指摘して、質問を終わります。
アベ晋三、まったくものが分かっていない。自分がものの分からない人物であることもまったく分かっていない。会話が成立しないのだ。困ったことだ。
質問でのルイ14世が、答弁でのルイ16世となっていることが示唆に富んでいる。言うまでもなく、ルイ16世は、フランス革命高揚の中で「国民を裏切った」として断頭台の露と消えた不運な王である。
民主主義国家では、アベ晋三の人権も保障されている。たとえ、彼が国民を裏切った数々の違法が暴かれたとしても、それで「断頭台の露と消える」ことはあり得ない。アベ晋三の嫌いな日本国憲法が、その罪刑法定主義をもってアベ晋三の人権を擁護しているのだ。その好運を噛みしめるべきである。
(2020年6月12日)
今国会(第201通常国会)の予定された会期終了が近づいている。野党は攻勢的に「この非常時に国会を閉じるな」とスローガンを掲げているが、与党側は徹底した逃げの姿勢である。国会での追及に自信を喪失した政権の末期症状。今のままでは17日(水)に閉会となる。
コロナと検察庁法に揺れた今国会、検察庁法改正の頓挫はアベ政権の凋落を象徴する出来事だった。コロナ禍のリアルなデモが成立しにくい不利な状況が、ツィッター・デモという新たな抗議の手法を生みだし、専門家を勇気づけた。
2度に渡る検察OBの連名の意見書の影響力も大きかった。このような、幾重もの政権包囲網の中で黒川検事長賭けマージャン疑惑発覚となって、法案は潰えた。まだ廃案確定とはなっていないが、政権には大きな痛手である。もしかしたら、致命傷になるかもかも知れない。というのは、政権の守護神喪失は今後への影響が大きいと考えられるからだ。当面、その影響は河井克行・案里両議員の刑事訴追の在り方に表れる。
国会会期中の議員に対する強制捜査はやりにくい。6月17日閉会となれば、その直後から昨年参院選での河合案里陣営における選挙違反捜査が本格化する。河井克行・案里両議員の不逮捕特権はなくなるから、その逮捕もあり得ないではない。
メディアは、「検察当局が公選法違反(買収)の疑いで河井克行氏を立件する方針を固めた」と報じている。少なくとも2000万円といわれる現金ばらまきの古典的「買収」の容疑である。これが、この間まで、法務大臣だった人物の容疑なのだ。
地方議員など多くの人が、被買収側として任意の調べを受けており、捜査進展の模様もリークされている。今のところ1億5000万円とされているこの選挙資金の出所は自民党本部であって、この異例の巨額支出に総裁安倍晋三が関わっていないはずはない。
参院広島選挙区で6選を目指した自民現職の溝手顕正は反安倍の急先鋒としてアベ晋三から嫌われ、そのために「安倍晋三が、自分に近い河井克行の妻案里擁立を画策した」とされる。だから金をばらまき、選挙事務の運営には、安倍事務所の秘書4人が投入された。アベ・菅らの党幹部が何度も広島へ応援に入ってもいる。河井夫妻起訴は、アベに対する最大限のダメージとならざるを得ない。
選挙では、案里が当選し溝手は落選という、アベ晋三の思惑通りの結果となったが、派手な金権選挙の付けがまわってきた。捜査と起訴がどこまで及ぶのか。安倍晋三としては、ここでの「官邸の守護神」の働きを期待していたはずだが、思惑がはずれて、今や守護神はない。世論と検察OBに背中を押されて、稲田検事総長は政権にとっての貧乏神となる肚を固めているのやも知れない。
問題は、単にアベ政権にとっての検察の在り方ではない。行政権力から独立して、権力に怯むことなく公正かつ厳正にその任務を遂行する検察本来の在り方が問われている。
(2020年6月11日)
2002年9月の小泉純一郎ピョンヤン電撃訪問は、まことに鮮やかな印象だった。そのときの「ピョンヤン宣言」もバランスのとれた納得できる内容で、「ようやく日朝関係が正常化し、これで戦後は終わる」との感慨が深かった。この会談を準備した田中均という外務官僚の名を知って敬意を深くした。翌月には一部拉致被害者の一時帰国も実現し、国中に祝意が満ちた。この問題も早晩解決に向かう。国民の多くが、当然そう考えた。
しかし、そうはならなかった。日朝国交正常化も、拉致被害の回復も。その原因の主たるものは日本側にある。日本側が、拉致問題に関する日朝間の合意をまず破ったのだ。国内の根深い北朝鮮敵視姿勢によるものである。
ピョンヤン宣言は、「日朝間の不幸な過去を清算し、懸案事項を解決し、…地域の平和と安定に寄与」すべきことを確認している。「懸案事項」とは拉致問題を意味し、以下の表現で解決をはかろうとしている。
「3.双方は、国際法を遵守し、互いの安全を脅かす行動をとらないことを確認した。また、日本国民の生命と安全にかかわる懸案問題については、朝鮮民主主義人民共和国側は、日朝が不正常な関係にある中で生じたこのような遺憾な問題が今後再び生じることがないよう適切な措置をとることを確認した。」
金正日は、日本人拉致の事実を認め、「遺憾なことであり率直におわびしたい。」と述べている。これあって、拉致被害者5人の一時帰国が実現した。一時帰国であったはずの5人について、日本政府は「北朝鮮へ帰す」ことを拒否した。北朝鮮側は「日本政府の約束違反だ」と反発し、信頼関係は切れた。その後の曲折はあったが、事態は動かないままである。
あれから18年。金正日は金正恩に、小泉は安倍晋三に変わった。安倍晋三は、対北朝鮮強硬派を代表する人物としてのイメージを押し出して政権の座に就いたと言ってよいだろう。以来、対北朝鮮強硬論の一点張り。外交の感覚はなく、何の打開策ももたず、何の成果も上げていない。拉致被害問題解決の意思はなく、最大限の政治利用の道具にしていると評されても致し方なかろう。
ピョンヤン宣言中の「双方は、相互の信頼関係に基づき、国交正常化の実現に至る過程においても、日朝間に存在する諸問題に誠意をもって取り組む強い決意を表明した。」を、空しく死文化させて今日に至っている。
展望が閉ざされて先が見えないままに、拉致被害者横田めぐみさんの父、横田滋さんが亡くなられた。改めて、政権の無為無策が問われている。
五味洋治(東京新聞編集委員)によると、横田滋さんは必ずしも、日本政府や、支援団体である「北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会」(救う会)の方針と同じ意見をもっていたわけではなく、違う発言をして周囲からたしなめられることもあったという。注目すべきこととして、「北朝鮮への制裁を緩めるべきだ」という意見をもっていた。
日本政府は、米国と歩調をあわせて北朝鮮への制裁を最大限まで強化した。これについて滋さんは「交渉のためには制裁を緩めるべきだ」と主張し、関係者を当惑させた。
『めぐみへの遺言』(2012年、幻冬舎)に、滋さんの話した言葉が残っている。「裁制制裁といっても全然解決していないし、制裁の強化をと救う会は主張するけれど、金正日が亡くなって(※死去したのは2011年12月)今交渉のチヤンスが巡ってきたんだから、強化するより緩めるべきです。今強化することは、交渉はしたくないという意思表示になるからすべきでない」(194P)。滋さんは、北朝鮮との交渉に、自分なりの見解を持っていた。
しかし、家族会は安倍晋三とその支持勢力に依拠することを方針としている。従って、公式には、次のように安倍政権を擁護する発言しかできない。
横田拓也(めぐみさんの実弟)
「私たち横田家のそばに長い間いた安倍総理には、本当に無念だとおっしゃっていただいています。私たちはこれからも安倍総理とともに解決を図っていきたいと思っています。国会においては、与党・野党の壁無く、もっと時間を割いて、具体的かつ迅速に解決のために行動して欲しいと思います。マスコミの皆さまにおかれましても、イデオロギーに関係なく、この問題を我が事として取り上げてほしいと思います。自分の子どもならどうしなければいけないか、ということを問い続けてほしいと思っています」(9日会見発言)
横田哲也(同)
「一番悪いのは北朝鮮ですが、問題が解決しないことに対して、ジャーナリストやメディアの方の中には、安倍総理は何をやっているんだ、というようなことをおっしゃる方もおられます。安倍総理、安倍政権が問題なのではなく、40年以上何もしてこなかった政治家や、北朝鮮が拉致なんてするはずないでしょと言ってきたメディアがあったから、安倍総理、安倍政権がここまで苦しんでいるんです。安倍総理、安倍政権は動いてくださっています。やっていない方が政権批判をするのは卑怯です。拉致問題に協力して、様々な覚悟で動いてきた方がおっしゃるならまだわかるが、ちょっと的を射ていない発言をするのはやめてほしいと思います。うちの母も、有本のお父さんも、飯塚代表もかなりのお年で健康も芳しくありません。これ以上同じことが起こらぬうちに、政権におかれては具体的な成果を出して欲しい。」(同)
両人の発言は、結果を出せないことに苛立ちながらも、政権に頼るしかないという家族の心情の表れと理解すべきだろう。
なお、横田拓也の「(マスコミは)イデオロギーに関係なく、この問題を我が事として取り上げてほしい」との発言に注目せざるを得ない。家族の目からは、この問題はイデオロギー性を帯びた報道となっている。そのイデオロギーとはなんだろうか。日本のマスコミには、「親北朝鮮イデオロギー」のカケラもあり得ない。とすれば、拉致問題報道は「過剰な反北朝鮮イデオロギー」、ないしは「日本ナショナリズム・イデオロギー」との親和性が強いという認識をもっているということだ。拉致被害救済の運動がそのようなイデオロギー性の高いものと社会に認知されている。そういう自己認識があるのだ。不幸なことと言わざるを得ない。
元家族会(「北朝鮮による拉致被害者家族連絡会」)の副代表で、今は会とは距離を置く蓮池透が、遠慮なく声を上げている。「安倍首相責任を取ってください!」と。私も、その通りだと思う。蓮池に声を合わせたい。
蓮池の6月5日のツイッターはこう言う。
「いつか、この日が来るのは分かっていたし、怖かった。滋さんは、公には政治家に対しても、右派的思想家に対しても決して異論を唱えることのないジェントルな人だった」「世の中はコロナ禍で拉致問題どころではない状況。収束まで動かないのか? 滋さんの心中も不安で一杯だったはず。言うまでもなく、その前に動いておくべきだった。『40年以上救出を先導』とか『再会の願い叶わず』とか言っている場合ではないのだ」
「また『断腸の思い』と繰り返した安倍首相。『申し訳ない』は付け足したが。自分たちの無為無策を棚に上げて、拉致問題が進展しないのは国民の関心が薄れているせいだ、と平気で言う政府」「みなさん、いい加減気付いてください。安倍首相は拉致被害者を救出するなどという気はさらさらないのです。この期に及んで『早期』救出とか言っているではありませんか。今こそ、安倍首相責任を取ってください!と叫ばなくてはなりません」 まったく、その通りではないか。