澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

まやかしの「復興五輪」はいらない。東北復興の実現を。

(2021年3月11日)
あの日から10回目の3月11日。岩手を故郷とする私にとっては心痛む日。この日は、この世に神のないことをあらためて確認すべき日となった。もし神ありとせば、冷酷な神、無慈悲な神、気まぐれな神、人に対する配慮のカケラもない神、なくもがなの神でしかない。

あの大惨事を「天罰」と言ってのけた恐るべき政治家がいた。その名を石原慎太郎という。冷酷な男、無慈悲な右翼、気まぐれな愚物、人に対する配慮のカケラもない都知事、なくもがなの存在でしかない。

私は、彼のこの一言に心底怒った。これは失言ではない、彼の本性の暴露なのだ。その視点から石原慎太郎糾弾のブログを書いた。その記事をまとめたものが、「3・11から4年。『石原慎太郎天罰発言』批判のアーカイブ」である。
https://article9.jp/wordpress/?p=4563

私は、「この一言で石原慎太郎の政治生命は終わった」と思った。が、そうはならなかった。この明らかな政治家失格人間がその後も細々ながらも命脈を保っている。一部にもせよ、こんな政治家を支持する都民がいるからなのだ。

また私は、被災した東北の復興を心から願った。震災・津波だけでなく原発事故被害。天災と人災の複合被害からの回復は現実には困難だった。それでもの復興の努力に水を差したのが、東京五輪である。しかも、東北復興が東京五輪招致のダシに使われた。「復興五輪」のネーミングが虚しく、腹立たしい。これを主導した人物の名を安倍晋三という。

私は安倍晋三にも復興五輪にも腹を立てたが、安倍晋三も復興五輪も、しぶとくその後相当期間にわたって生き延びた。こんな政治家、こんな五輪を支持する国民がいたからなのだ。

世界を欺して東京五輪を誘致した張本人・安倍晋三が昨夏ようやく首相の座を下り、「復興五輪」もなくなったようだ。

安倍政権の継承者である菅義偉は、本日の「東日本大震災10周年追悼式」での式辞で、「復興五輪」に言及しなかった。昨年の3月11日には、安倍は「追悼の言葉」の中で、こう言ったという。

「復興五輪と言うべき本年のオリンピック・パラリンピックなどの機会を通じて、復興しつつある被災地の姿を実感していただきたい」

また、本日、加藤官房長官は会見で、なぜ「復興五輪」という言葉がなくなったかについてこう答えたという。(朝日.com)

「これは毎年の言葉を、なども踏まえつつ、作成されているものと承知をしておりまして、政府として、今後も、えー、しているものであり、ですね……」と5秒近く沈黙。「まさにそれに尽きるということであります」と続け、理由を説明することはなかった。

「復興五輪」に代わっての流行りが、「人類が新型コロナウイルスに打ち勝った証しとしての完全な形での東京五輪」なのだが、「人類が新型コロナウイルスに打ち負かされた証しとしての東京五輪中止」となりそうな雲行きではないか。

毎日新聞の世論調査の結果は、「五輪開催『復興の後押しにならない』61% 被災3県・世論調査」と報道されている。

被災3県の調査で、「復興五輪」を掲げた東京オリンピック・パラリンピックの開催が「復興の後押しにはならない」と答えた人が61%に達し、「後押しになる」の24%を大きく上回った。「わからない」は14%だった。大会組織委員会は3月25日に福島県内で聖火リレーをスタートさせるなど、東京五輪を復興のシンボルとする方針を打ち出してきたが、被災地でその効果が否定的に見られている現状が浮かんだ。開催理念や復興への効果を疑問視する声は根強くある。

東京五輪はなくてもいっこうにかまわない。しかし、東北復興はなくてはならない。東北復興をダシにした東京五輪などもってのほか。東京五輪の経費を全てコロナ対策と東北復興にまわしていただきたい。そして、いつの日か語りたい。

国民が東京五輪という愚策の誘惑に打ち克った理性の証しとして実現した東北復興、と。

王毅外相の記者会見の記録 ー 中国は、虐げられた人民の味方であろうとする姿勢を捨てたのか。

(2021年3月10日)
中国の全人代の様子について胸ふたがれる気持で報道に目を凝らしている。中国のかくまで強権的な政治姿勢がにわかに信じがたい。取材記者の思い込みが過ぎて、報道が不正確なのではないかとの思いを捨てきれない。

ところに、中国語に堪能で中国政治の内情に詳しい友人が、中国・王毅外相の3月7日記者会見の全文を送ってくれた。「翻訳は『小牛』(翻訳ソフト)に働いてもらいました。」ということだが、正確なものだと思う。

翻訳の和文は、A4・26頁にも及ぶ長大なものだが、そのうち、香港・台湾・ミャンマーに関する記者の質問に対する回答だけを引用して紹介する。

感想を一言に集約すれば、「この体制は恐ろしい」というしかない。冒頭の王毅コメントの中に、「われわれは歴史の流れに順応し、新型国際関係の構築を積極的に推進し、平和、発展、公平、正義、民主、自由という全人類共通の価値を発揚し、各国と手を携えて人類運命共同体を構築していく」とある。 しかし、香港・台湾・ミャンマーに関する質疑応答を読む限り、「全人類共通の価値を発揚し」が何とも虚しい。

香港中評社記者
 国際社会は全人代が香港特区の選挙制度の改善について決定を下すことに高い関心を寄せており、一部の国政府は中国側の関連行動が「一国二制度」に違反し、香港の民主的発展を損なうと批判しているが、中国側はこれについてどのようにコメントするのか。

王毅
 まず強調したいのは、香港特区の選挙制度を充実させ、「愛国者による香港統治」を実行に移すことは、「一国二制度」事業を推進し、香港の長期安定を保つための実際の必要であるだけでなく、憲法が全人代に与えた権力と責任でもあり、完全に合憲合法であり、正当かつ合理的であるということである。
 世界に目を向ければ、どの国でも祖国に忠誠を尽くすことは、公職者や公職に立候補する人が守らなければならない基本的な政治倫理だ。香港でも同じです。香港は中国の特別行政区であり、中華人民共和国の一部である。国を愛さなければ、港を愛することはできない。香港愛と愛国は完全に一致している。
 香港は植民地支配時代に民主主義を持っていませんでした。復帰24年来、中央政府ほど香港民主の発展に関心を持ち、香港の繁栄と安定を望んでいる人はいない。香港は乱から治へと変化し、各方面の利益に完全に合致し、香港住民の各種権利と外国投資家の合法的利益を守るためにより堅固な保障を提供する。われわれには引き続き「一国二制度」、「香港人による香港管理」、高度な自治を堅持する決意があり、香港の明日をますます良くする自信もある。

古代ギリシャの市民は、他民族をバルバロイ《訳のわからない言葉を話す者という意》と呼んだという。強大なペルシャは恐るべき国であり民族だが、「理念も言葉も通じない、訳のわからない人々》であったろう。王毅外相の強弁を聞かされると、古代ギリシャ人の気持ちがよく分かる。

フェニックステレビ記者
われわれはこれまでトランプ米政権が米台交際制限を解除したことに注目している。台湾問題における中米の危機勃発を世界最高の潜在的衝突とするシンクタンクもある。中国側はアメリカの対台湾政策をどのように見ていますか。

王毅
 台湾問題については、次の3点を強調したいと思います
まず、世界には中国は一つしかなく、台湾は中国領土の不可分の一部である。これは歴史的・法理的事実であり、国際社会の普遍的共通認識でもある。
 第二に、海峡両岸は必ず統一しなければならず、必然的に統一しなければならない。これは大勢の赴くところであり、中華民族の集団意志であり、変えることはできないし、変えることもできない。国家主権と領土保全を守る中国政府の決意は揺るぎなく、われわれにはいかなる形の「台湾独立」分裂行為をも挫折させる能力がある。
 第三に、一つの中国原則は中米関係の政治的基礎であり、越えてはならないレッドラインである。中国政府は台湾問題で妥協の余地はなく、譲歩の余地もない。われわれは米国の新政府が台湾問題の高い敏感性を十分に認識し、一つの中国の原則と中米の三つの共同コミュニケを確実に厳守し、前回政府の「線を越える」、「火遊び」の危険なやり方を徹底的に改め、台湾にかかわる問題を慎重かつ適切に処理するよう促す。

この回答は分かり易い。要するに、問答無用というのだ。問題解決には力だけが有用であり、自分たちにはその力がある、というアピール。そして、中台問題などは存在しない。あるのは、中米問題だけだ。アメリカよ、心せよ、というわけだ。

澎湃新聞記者
中国はかつて、ミャンマーの現在の情勢はミャンマーの内政であると表明した。現在、ミャンマー軍が政権を接収して国の非常事態を宣言してから1ヶ月余りが経ちましたが、中国側の立場は変わっているのでしょうか。また、中国側はASEAN諸国とともにミャンマーの緊張緩和のために建設的な役割を果たす用意があると表明していますが、中国側は次の段階でこの問題についてどのような措置をとるのでしょうか。

王毅
 ミャンマー情勢について、私は中国側の3つの主張を提起したい。
 第一に、平和と安定は国の発展の前提である。ミャンマーの各方面が冷静自制を保ち、ミャンマー人民の根本的利益から出発し、対話と協議を通じて、憲法と法律の枠組みの下で矛盾と意見の相違を解決することを堅持し、国内民主のモデルチェンジのプロセスを引き続き推進することを希望する。当面の急務は新たな流血衝突の発生を防ぎ、情勢の緩和と冷え込みを早急に実現することである。
 第二に、ミャンマーはASEANの大家族の構成員であり、中国側はASEANが内政不干渉と協議一致の原則を堅持し、「ASEAN方式」でその中から仲裁し、共通認識を求めることを支持する。中国側もミャンマーの主権と人民の意思を尊重した上で、各方面と接触・意思疎通し、緊張緩和のために建設的な役割を果たすことを願っている。
 第三に、ミャンマーと中国は山水が連なる「胞波」兄弟であり、苦楽を共にする運命共同体である。中国の対ミャンマー友好政策は全ミャンマー人民に向けられている。中国側は民盟を含むミャンマー各党各派と長期にわたる友好交流を持っており、対中友好も終始ミャンマー各界の共通認識である。ミャンマー情勢がどのように変化しても、中国が中国とミャンマー関係を推進する決意は揺るがず、中国が中国とミャンマーの友好協力を促進する方向も変わらない。

「胞波」「民盟」など理解できない用語もあるが、文意はつかめる。明らかなのは、民主的に成立した政府を武力で転覆した国軍の軍事クーデターに対する批判がないことだ。民政を支持して国軍の横暴に抗議する人民の切実な叫びに耳を傾けようとはしないのだ。

中国共産党は、世界の虐げられた人民の味方であろうとする姿勢を捨てたのだろうか。それでなお、共産党を名乗り続けているのはなぜなのだろうか。残念なことだが、中国が「平和、発展、公平、正義、民主、自由という全人類共通の価値」を尊重しているようには、とうてい見えない。

本郷三丁目の街角で ー 憲法9条の理念を訴える。

(2021年3月9日)
皆さま、明日が3月10日です。あの東京大空襲の日。76年前の3月10日、東京下町は252機のB29による空襲で一面の火の海となりました。一夜にして10万の人々が殺戮され、100万人が焼け出されたのです。私たちは、ヒロシマ・ナガサキの原爆投下とならぶ東京大空襲の被害を忘れることができません。また、けっして忘れてはならないと思います。

この日の未明、わずか3時間の間にB29の大編隊は低高度から1665トンに及ぶ大量の焼夷弾を投下しました。折からの強風に煽られた火は、たちまち大火災となって、東京の半分を焼き尽くしたのです。

この日、空襲が始まるまで空襲警報は鳴りませんでした。防空法という法律が、人々を逃げずに現場で消火にあたれと足を止めて被害を広げました。何よりも、首都の防空態勢は無力でした。グアム・サイパン・テニアンの各基地から飛び立った機の、長距離爆撃を防ぐ手立ては日本にはなかったのです。

1945年3月、首都を焼かれ100万の被災者を出して、日本の敗戦は誰の目にも明らかとなりました。それでも、この国は戦争をやめようとはしませんでした。今では知られているとおり、政権が国体の護持にこだわってのことです。国民の命よりも、天皇制の存続が大事と本気になって考えていたからなのです。

国民の戦争犠牲は、東京大空襲被害のあともとどまることなく、日本の都市のほとんどが焼け野原となり、沖縄戦、ヒロシマ・ナガサキの悲劇と続きます。敗戦は8月となりましたが、国民は文字通り、塗炭の苦しみにあえいだのです。

でも、戦争の被害は日本国内だけのものではありませんでした。日本が仕掛けた戦争でしたから、主たる戦場となったのはアジア・太平洋の各地でした。そこでは、戦闘員でない一般市民が、天皇の軍隊によって理不尽な殺戮の対象となりました。

たとえば、重慶大空襲。1938年末から1941年にかけて、日本軍は当時中国蔣介石政権の臨時首都とされた重慶市に無差別爆撃をくり返し多くの人々を殺傷しました。中国側の資料によると、その爆撃回数は218次に及び、死傷者2万6千人、焼失家屋1万7千戸の被害を出しています。戦争末期に、日本はそれ以上の規模での報復を受けたことになります。

日本国憲法は戦争の惨禍を再び繰り返してはならないという日本国民の切実な願いを結実したものとして生まれました。その第9条は、再び戦争をしないという不戦の誓いを条文にしたものです。

戦争の惨禍は、加害によるものと、被害としてのものと両者があります。日本は近隣諸国の人々に筆舌に尽くせない、甚大な被害を与えました。その死者の数だけでも2000万人を下らないと考えられています。そして、自国民の被害も310万人に上っています。

二度と愚かな戦争を繰り返してはなりません。平和憲法を守り9条を守り、この9条を活かして崩れぬ平和を守り抜こうではありませんか。近隣の諸国を敵視し、あるいは威嚇するのではなく、お互いに敬意をもって接し友好を深め、民間交流も活発化して、国際紛争は誠実で真摯な外交交渉によって解決すべきです。それが、日本国憲法の示すところです。

以上で、「本郷湯島9条の会」からの今月の訴えを終わります。耳をお貸しくださりありがとうございました。

「婦人」という言葉の生成・発展・衰退と、その必然。

(2021年3月8日)
本日は「国際女性デー」。森喜朗という功労者のおかげで社会の関心が高い。ところで、かつては「国際婦人デー」と言っていたはず。いったいいつころから、「女性デー」となったのだろうか。「婦人」から「女性」へ。その変化は、何を物語るのだろうか。

ネットを検索していたら、たまたま広井多鶴子(実践女子大学教授)の《「婦人」と「女性」?ことばの歴史社会学?》という論文に出会った。これが、すてきに面白い。いろんなことを教えてくれる。
http://hiroitz.sakura.ne.jp/resources/%E8%AB%96%E6%96%87/woman.pdf

この論文を読んでなるほどと思う。「婦人」という言葉の使われ方は、時代の社会意識を映してきたのだ。納得できる内容だし、何よりも「ことばの歴史社会学」というタイトルがピッタリではないか。

以下に、A4・8枚のこの論文の一部を引用させていただき、「婦人」という語彙の生成・発展・衰退の経過を追ってみたい。やや荒い整理とはなることはお許しいただきたい。

明治以前、「女性」の一般呼称としての語彙は、「女」であった。「長幼の序、男女の別」が道徳の基本とされ、「女三界に家なし」「三従の教え」を女性の処世訓と教え込まれ、「男尊女卑」を疑うべくもない身分制秩序の時代。その中では、「男」に対する「女」は、差別にまみれた社会意識を表現する言葉でしかなかった。

近代以後、自我に目覚めた女性を語る文脈で「婦人」が登場する。1885年に初めて「婦人」をタイトルとする書籍が登場したという。この時代を、広井論文はこう説明している。

「一婦一夫制や男女同権、女子教育の振興を主張した明治初期の啓蒙思想家の言論では、女よりも女子や婦人が好まれたものと考えられる。それは、言論・評論の場が公共空間として形成されていくにつれて、女ということばの持つ日常性や蔑視、さらには性的な意味合いが忌避されたからではないだろうか。」

こうして、「婦人」は、主として運動の用語として市民権を獲得してゆく。

「木下尚江『社会主義と婦人』(1903 年)、平民社同人『革命婦人』(1905年)、堺利彦『婦人問題』(1907年)、山川菊栄『婦人の勝利』(1919年)のように、社会主義関係の著書が好んで婦人を用いるようになる。」「平民社の西川文子らによる『真新婦人会』(1913年)、平塚らいてうの『新婦人協会』(1920 年)、市川房枝らの『婦人参政権獲得期成同盟』(1924年)といった社会改良を目指す婦人団体も結成される」

一方、『帝国婦人協会』、『愛国婦人会』『国防婦人会』『愛国婦人会』『大日本婦人会』など体制的な女性団体名も「婦人」を冠した。「女性の団体は運動や思想の内容を問わず、その多くが婦人を名乗ったのであり、こうして婦人は、婦人団体や婦人運動の用語ともなったのである。」

しかし、「婦人」は廃れて「女性」にその地位を譲ることになる。この点について、広井論文は、「婦人」の持つ言葉としてのイメージの限界を以下のように明晰に指摘する。

婦人はまた、男-女、男子-女子という対義語を持たず、妻という原義を払拭しえないために、女や女子という言葉以上に、女としての特殊性や独自性を強調することばである。戦前、婦人記者、婦人運動、婦人参政権といったことばが次々に作られていったが、女性の社会的な活動を意味するこれらの言葉ですら、結婚や家庭、妻、母、主婦といったイメージを拭い去れなかった。婦人は外で活躍しつつも、常にどこか家庭に拘束されている存在なのである。おそらく、婦人の持つこうした限界ゆえに、新たに「女性」という言葉が普及したのだろう。

「おわりに」として、広井教授はこう語っている。なるほど、なるほどと頷くしかない。

 婦人は、結婚や家庭での女性の新たな役割と尊厳を模索した明治啓蒙思想の中で使われ始め、そうした言論や運動の中で広がっていった新しいことばであった。既婚女性を意味した婦人は、娘を意味した女や女子よりも、結婚生活における女性の地位を高め、女性に対する社会的・公的敬意を得るための用語としてふさわしいものだったにちがいない。1880 年代から1920年代は、婦人ということばが最も精彩を放ち、その力を発揮した時期であった。

 しかし、婦人はまた、ようやく獲得した社会的・公的な敬意と裏腹に、女性を家庭や結婚に拘束し、よき妻、よき母たることを女性に求めることばでもあった。だからこそ言論や運動の用語として、さらには行政の用語として広く普及することになるのだが、そのことが逆に、婦人ということばの一般性・普遍性を喪失させることにもなった。一方、より客観的・普遍的な女性-男性ということばが創出され、1930年代になると、女性の代表的な呼称は、婦人から女性に移っていく。

 戦後、経済成長とともに専業主婦が一般化する中で、婦人は『婦人画報』や『婦人公論』の読者層が示すように、中流階層の主婦をイメージさせる言葉として生き延びる。だが、このことは、婦人が女性の一般呼称としても、また言論や批判の言葉としても、すでにその力を減じていたことを意味する。…そして、性別役割分業自体を批判する1970年代の女性解放運動では、もはや婦人を名乗ることはなかったのである。

言葉は社会的存在である。社会が言葉の意味とイメージを作る。旧時代の「女」の意味は、「差別に甘んじる性」であったろう。これを克服すべきとする社会意識の形成の中で、「女」は嫌われ「婦人」が用いられた。しかし「婦人」は、女性の権利獲得運動が進展して、性別役割分業自体を否定すると、たちまち限界を露呈する。新たに形成された社会意識は、良妻賢母型女性像と離れがたいイメージの「婦人」を嫌って「女性」を選択することになる。

運動が社会意識を変え、変えられた社会意識による取捨選択によって、言葉が変遷していくのだ。「国際婦人デー」って、いつころまで言っていただろうか。そりゃ大昔のことなのだ。

東京オリンピック憲章(最新改訂版) ー 政権浮揚と国威発揚と金儲けとを求めて

(2021年3月6日)

 東京2021オリンピズムの根本原則

1 東京オリンピズムは、政権浮揚と国威発揚とカネのすべてのレベルを、かつ高め、かつバランスよく結合させることを目指す、我が国の国民精神総動員とスポーツの政治利用の哲学である。スポーツを、政治と経済とに融合させ、より巧妙な民衆支配の方法と、より大きな儲け方とを創造し探求するものでもある。東京オリンピズムを成功に導く民衆の生き方は、政治的、経済的、社会的に、伝統的秩序と権威に従順で支配者の提示する倫理規範を尊重し、東京五輪主催者の提供するスポーツ観戦に没我し感動することが望まれる。

2 東京オリンピズムの直接の目的は、時の菅義偉政権と小池百合子都政の数々の不祥事を国民・都民の眼から覆い隠し忘却させることで政治的安定をもたらすとともに、この社会の基本的な支配構造である資本主義の欠陥を民衆の熱狂をもって糊塗することで、現体制の尊厳の保持と市場原理の調和のとれた発展に、スポーツを役立てることである。

3 東京オリンピック・ムーブメントは、オリンピズムの政治的かつ経済的な価値に鼓舞された国家と資本とによる協調の取れた組織的、普遍的、恒久的活動である。その活動を推し進める領袖は「とにかく開催」「7月に開幕しないと信じる理由は何もない。だからプランBはない」「ワクチンが間に合わなくともオリンピックの開催は可能」と述べて中止や再延期の可能性を否定する、野蛮・無謀・無責任のトーマス・バッハである。その領袖の下での周到な準備活動は5大陸にまたがるが、東京の偉大な競技大会に世界中の選手が集まるとき、頂点に達する。そのシンボルは、「カネ」と「不正」と「権力」と「環境破壊」と「反知性」の、5つの結び合う輪である。

4 スポーツイベントを経済的な利潤獲得手段とすることは、侵してはならない神聖な権利の1つである。また、政治的な国民統合の手段とし、あるいは対外的な国威発揚手段として利用することも同様である。
すべての個人は、権力機構としての組織委員会のいかなる種類の差別も甘受して、東京オリンピックの成功のために心身ともに動員されなければならない。そのためには、盲目的従順、権威主義的心情、自己犠牲の精神とともに忖度と迎合の姿勢が求められる。

5 東京オリンピック・ムーブメントは、その成功のために、大和魂と必勝の精神を最大限動員する。とりわけ、権力と金力には卑屈となり、長幼の序と男女の別を弁え、国民一丸となって竹槍を持ち、早朝宮城に向かって遙拝し、「鬼畜コロナには決して負けない!」「東京オリンピックは必ず開催するぞ!」「中止も再延期も考えない!」「無観客もないぞー!」「天佑は我にあり!」と唱和する。断じて行えば鬼神もこれを避く。大和魂は、コロナに打ち克って、五族協和・八紘一宇の東京オリンピック開催に道を拓く。

そのとき必ずや妙なる鐘が鳴り、人類が新型コロナに打ち克った証しとしての東京オリパラが成就する。

「NHK経営委員会よ。森下俊三よ。公的機関としての自覚はあるのか」

(2021年3月6日)
本日(3月6日)の毎日新聞夕刊の第5面(放送欄)に、「問われる公的機関の自覚」の大きな横見出し。「公的機関」とはNHKのこと。「NHKよ。汝に公的機関としての自覚はあるのか」と、問うているのだ。
https://mainichi.jp/articles/20210306/dde/018/040/006000c

もっとも、自覚を問われているのは、けっしてNHK全体ではない。その最高意思決定機関である経営委員会であり、なかんずく経営委員長の森下俊三である。もっとも、この人に公的機関幹部たるの自覚を求めることは無意味といわざるを得ない。既に経営委員としての資質を欠落していることが明らかなのだから、速やかに辞職してもらわねばならない。

毎日記事の見出しは、「NHKかんぽ報道問題 審議委が議事録全面開示再び答申 元委員・宍戸常寿教授に聞く」と続いている。新事実の報道はないが、問題点を上手にまとめている。読者は、「元委員・宍戸常寿教授」と一緒に、怒らざるを得ない。NHKとは、経営委員会とは、そして森下俊三とは、なんて酷いんだ、と。その酷さは、政権の酷さに直結している。

私なりに、経過と問題点を噛み砕いて説明してみよう。まず、何があったか。

◇ NHKは2018年4月の「クローズアップ現代+」で、かんぽ生命保険の不正販売を報道した。これは、スクープであっただけでなく大規模な消費者被害摘発報道としてNHKの制作現場の能力と意気込みを示した優れた番組であった。NHKの健在を示す表彰ものと言ってよい。

◇ ところが、これに加害者側の日本郵政グループが噛みついた。7月に、「クローズアップ現代+」が続編の放送を予告し、情報を募るネット動画を投稿したところ、「悪役その1」が登場した。元総務次官で日本郵政筆頭副社長の鈴木康雄。NHK経営委員会に、番組続編報道予告の削除を要求した。

◇ このような外部からの理不尽な攻撃から、番組制作現場を守るのが、NHK本部や経営委員会の役割である。とりわけ、放送法上NHKは、「予算、事業計画を総務大臣に提出しなければならず、総務大臣はこれに意見を付し、内閣を経て国会に提出し、その承認を受けなければならない」。NHKは総務省には弱い立場にある。だからこそ、元総務次官や郵政グループの圧力に屈してはならない。

◇ しかし、「悪役その1」に同調したNHK経営委員会は10月の会合で、当時の上田良一会長を厳重注意とした。この議事をリードしたのが、森下俊三経営委員長代行(当時)、「悪役その2」の登場である。上田会長は事実上の謝罪文を郵政側へ届けさせた。厳重注意を行った経営委会合で委員複数が番組を批判したことも明らかになり、放送法が禁じる委員の番組介入が疑われている。

◇ こうして、番組続編の放送は無期延期となり、情報を募るネット動画は削除された。立派な番組を作った現場は、悪役の2人とその取り巻きによって、一時的にせよ、押し潰された。いったい、どんな議論によって「石流れ、木の葉沈む」理不尽な結論に至ったのか。誰がどんな発言をしたのか。議事録を見たい。議事録を見せろ。

◇ 放送法41条は、経営委員会の会義議事録の作成と公開を義務付けている。ところが、経営委員会は議事の要約は出しても議事録は出さない。そこで、毎日新聞社が、NHK自身の定めによる情報公開制度に基づいてこの議事録を請求した。NHK本部や経営委員会が公開を拒否した場合、NHKが設置する第三者機関「NHK情報公開・個人情報保護審議委員会」(以下、「審議委」という)がその当否を判断する。審議委は2020年5月、経営委議事録を全面開示すべきだとする答申を出した。

◇ それでも、経営委員会はこれに従わない。そこで審議委の元委員でもある宍戸常寿・東京大大学院教授(憲法・情報法)らが2回目の情報公開請求をした。これに対して、この2月改めて再度の全面開示答申が出た。これが、経営委員会が挙げてきた公開できない理由を全て否定した立派な内容。これについて、毎日新聞が宍戸教授から、要点を聞いているのが、以下の本日夕刊の記事。

◆ 宍戸教授の今回の答申についての総括的な感想は、「前回の答申の後、経営委が挙げた『開示できない理由』を全て否定し、かなり踏み込んだ内容だ。審議委の強い思いを感じる」

◆ 答申が特に問題視したのは、前回の全面公開答申に対し経営委が要約した文書しか開示しなかったこと。今回の答申では「要約された文書は開示の求めの対象文書との同一性を失ったもの」として、「制度の対象となる機関自らが手を加えることは制度上予定されておらず、対象文書の改ざんというそしりを受けかねない」と経営委を厳しく批判した。宍戸教授は「そもそも情報公開制度は、対象文書をありのままに見せることが大前提。答申では、不開示の理由があったとしても、対象文書の全部または一部を黒塗りにし、不開示部分が分かるように回答するものだとも述べている。情報公開について一から教えてくれている、教科書のような答申だ」と話す。

◆ 放送法41条の存在にもかかわらず、経営委は内規を根拠に議事録全体の公開を拒んできた。しかし、今回の答申では「当該組織体が非公表としたことだけで(議事録が)当然不開示になるということではない」と指摘。「視聴者から開示請求があった場合は、その都度、情報公開の可否について当審議委員会の審議に付される必要がある」と強調した。宍戸教授は、この記述に注目。「経営委が『非公開にしたい』と思うものを、いくらでも非公開にできるわけではないと言っている。審議委の存在も含め、NHK全体の情報公開制度やガバナンスが成り立つことを強調した」と指摘する。

◆ また答申では、当時委員長代行だった森下氏ら複数の経営委員が放送法違反の番組介入が疑われる発言をし、会長を厳重注意していたことなどが国会やメディアで取り上げられ、「NHKの公共性、透明性、経営委の議事の経過などに疑念が呈されている」ことにも言及。受信料で運営される公共放送として「視聴者に対する十分な説明責任が求められている」とも述べた。宍戸教授は「これでも審議委の答申を無視するならば、開示しない理由を国民に説明する責任がある。経営委の公的機関としての自覚が問われている」と話す。

市民運動としての第3次の情報公開請求の取り組みが準備中である。仮に、それでも情報公開に応じないようなら、提訴の工夫があってしかるべきである。経営委員会・森下俊三、なにゆえにかくも頑なであるのか、NHKと総務省の闇は果てしなく深い。

「コロナだから、やむなく中止」という消極論ではなく、「五輪への本質的批判」としての積極的中止論を。

(2021年3月5日)
昨日(3月4日)の当ブログを読み返してみた。最終行が「声を上げよう。『東京オリパラは、早急に中止せよ』『政府も自治体もコロナ対策に専念せよ』」と結論を述べている。これが、なんとなく物足りない。

読みようによっては、「東京オリパラ自体は本来素晴らしい意義をもったイベントなのだが、今コロナ禍という特別の事態では、国民の健康保持や公衆衛生を優先せざるを得ない。残念だが、オリパラは開催中止として、コロナ禍対応に注力しなければならない」と意味をとられかねない。もちろん、これは誤読・誤解である。

オリパラ中止へ多くの人の賛同を得るには、以上の文脈でもよいのだろうが、そのように受け取られるのは、私の本意ではない。私は、コロナ禍なくとも、東京オリパラの開催自体に積極的に反対である。「アスリートにはリスペクトを惜しまないし、その無念さには同情するが、今の事態でのオリンピックはコロナ蔓延に拍車をかけることになる」「世論調査で、多くの人がコロナ禍を理由に東京オリパラ開催は無理だと言っている」、だから開催反対という及び腰の消極的反対論では不十分だと思う。国家・国民を総動員しようというこのイベントの本質に切り込んで、積極的反対論を展開しなければならないと思う。

以下は、最近の当ブログの記事。「五輪ファシズム」をキーワードに、積極的オリンピック反対論を展開し、「東京五輪を中止せよ」「北京冬季五輪も中止を」と声をあげている。こちらが私の本意。

鵜飼哲「五輪ファシズム」論に賛同の拍手を送る(2021年2月14日)
article9.jp/wordpress/?p=16323

聖火リレーは「五輪ファシズム」の象徴(2021年2月17日)
https://article9.jp/wordpress/?p=16341

政治的な国民精神総動員システムとしてのオリパラを「五輪ファシズム」と呼ぶとすれば、経済面で大資本の収奪を可能とするオリパラの機能を「祝賀資本主義」と呼ぶ。「惨事便乗型資本主義」からの着想で生まれたという「祝賀資本主義」。『週刊金曜日』2月26日号の特集「五輪はオワコン」の中の一編。鈴木直文「オリンピックに経済効果なし」が、この点を、短く、読み易く、手際よくまとめている。

鈴木直文論稿は、積極・消極の東京五輪中止論の区別を意識してこう言っている。「今回の東京大会は、あまりにもお粗末で醜悪な舞台裏の状況がかなり溢れ出てきていますが、それでもまだオリンピックそのものの構造的問題への批判というよりは、新型コロナウイルス感染拡大への懸念から中止、または最延期するべきであるという意見が多いようです。」

「オリンピックそのものの構造的問題への批判」として、鈴木が論じるのが、「祝賀資本主義」である。下記が核心部分である。

「際限なく膨張した開催費用の用のほとんどは税金です。納税者は長年にわたり多大な負担を強いられるが、大企業とIOCはその利益を独占するのです。
 米国の政治社会学者ジュールズ・ボイコフはこの原理を「祝賀資本主義」と呼び、これが、20世紀後半以降のオリンピックの歴史を通じて肥大してきたと言っています。招致をめぐる政治的意思決定の舞台裏が大衆の目にふれることはなく、表では官民が一体となったプロモーションでお祭り気分を盛り上げる。そして、大衆が世界的なスポーツの祭典に酔っているうちに、実はさまざまな形で公共の資産が民間の大企業へと移転される構造がっくられます。」

政治的には「五輪ファシズム」、経済的には「祝賀資本主義」。これこそが、五輪に対する構造的批判と言えよう。

なお、週刊金曜日2月26日号特集「五輪はオワコン」に掲載された下記4本の論稿は、いずれも積極的反対論を展開しており、教わることが多い。

本間龍(インタビュー) 「五輪は『負けてやめられなくなったパチンコ』」「莫大な税金の無駄遣い」「沈黙するメディア」「投資ビジネスの五輪」

鈴木直文 「オリンピックに経済効果なし」「都市経済は成長せず、貧富の差が拡大する」

來田享子 「差別を克服し未来を開くという五輪の意義を知って招致したか」「ジェンダー平等目指す五輪の方針と逆行」「五輪の歴史に汚点残したバッハ会長」

武田砂鉄 「五輪は中止すべき。以上」

武田砂鉄執筆記事の中に、「2013年9月、2020五輪の開催都市が東京に決まった瞬間の安倍晋三氏、森喜朗氏ほか」という、今となっては恥ずかしい限りの例のバンザイの写真が掲載され、みごとなキャプションが添えられている。

 体を痛めている人が
 路肩に倒れている。
 その人に向けて
 「俺たち、これからカラオケに
 行くんで、歌声を聞いて
 元気になってくださいよ」と
 告げる人たち

声を上げよう ー 「東京オリパラは早急に中止せよ」

(2021年3月4日)
私もその一員である自由法曹団は、弁護士だけの任意団体で、広辞苑では「大衆運動と結びつき、労働者・農民・勤労市民の権利の擁護伸張を旗じるしとする。」と解説されている。その東京支部が、2月末に第49回となる総会を開き、下記6本の特別決議を採択した。

?「コロナ禍の下で命とくらしを最優先する政策への抜本的転換を求める決議」
?「敵基地攻撃能力の保有を許さず、明文改憲阻止のだたかいに全力をあげる決議」
?「新型コロナウイルスの流行下において労働者の生活と権利を守る立法及び措置を求める決議」
?「性差別・LGBT問題に全力で取り組む決議」
?「「送還忌避・長期収容の解決に向けた提言」等に反対する決議」
?「東京オリンピック・パラリンピックの開催中止を求める決議」

各決議の表題が、「闘う弁護士」たちの今の関心事を物語っている。コロナ禍がもたらす社会的弱者への皺寄せの事態に、権力や企業と闘わざるを得ないのだ。東京五輪中止問題もその文脈にある。いまや、オリパラどころではない。政府も東京都も、コロナ対策に専念すべきなのだ。決議をご覧いただきたい。
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東京オリンピック・パラリンピックの開催中止を求める決議

 2020年夏に開催予定の東京五輪(オリンピック・パラリンピック)が延期となり、2021年の開催まで5か月となったが、緊急事態宣言が3月7目まで延長され、新型コロナウイルスの感染は未だ収束する見通しはない。東京都内の医療体制は逼迫し、全国各地で体調が急に悪化して自宅などで死亡する例も急増している。
予選を兼ねて3月にドイツで予定していた体操の個人総合のワールドカップが中止になるなど半数以上の競技で出場選手が未だに確定せず、競技会場で活動する約8万人の大会ボランティアから辞退者が相次ぎ、日本医師会は医療提供体制のひっ迫状況が改善されない限り、さらなる外国人患者の受け入れは可能ではないと述べ、国内外からのアスリートだちからも多くの市民が望まない中での大会への参加を疑問視する声が上がっている。もはや東京五輪は、開催が可能であるとの理由を探す方が困難な状況である。共同通信の世論調査では今夏開催の「中止」「再延期」を合わせた反対意見は80.1%と昨年12月の前回調査の同61.2%から激増した。
しかるに国際オリンピック委員会(IOC)のバッハ会長は、予定どおり7月に開催できると述べ、日本オリンピック委員会(JOC)や東京都、政府は「東京大会を開催することにゆるぎない決意を持っている」(山下泰裕JOC会長)、「ウイルスとの戦いに打ち勝つ証しを刻んでいきたい」(小池百合子都知事)、「人類がウイルスに打ち勝った証しとして東京で開催する決意だ」(菅義偉首相)等と科学的根拠のない精神論を強調するのみである。
五輪が平和の祭典とは程遠いビジネスのための大会に堕し、テレビ放映権料やスポンサー収入を得ることが目的となっていることは多くの市民が指摘するところである。経済の活性化を前面に押し出して誘致した東京五輪であるが、多額の税金を投入して今夏に開催する大義はすでに失われた。
自由法曹団東京支部は、今夏の東京オリンピック・パラリンピックの中止を直ちに決定し、東京都の組織力、財政力を新型コロナウイルスの対策に集中することを求める。
2021年2月26日
自由法曹団東京支部第49回定期総会
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また、3月1日同期弁護士有志のメーリングリストに、梓澤和幸君から下記の投稿があった。

23期の皆さん。
コロナ生命危機なのにオリパラやめようの声が呟きの声しかあがらない。
京都新聞、信濃毎日、共同通信、毎日、朝日、東京新聞も少しは言うけれど大きな声はあげずに沈黙。ものすごい圧力で黙らされている。
そこで僕の生きる拠点国分寺市民連合は明日をスタートに

#コロナあぶない
#オリパラやめよう
とTwitterデモを打ち上げます。

皆さん。明日以降反応して下さい。
梓澤和幸
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そして、昨日(3月3日)の英紙タイムズ「東京オリ・パラ 『中止すべき時が来た』」が話題を呼んでいる。

東京オリンピック「中止すべき時が来た」 英紙タイムズがコラム掲載

感染拡大を引き起こす可能性を指摘し、日本はおろか世界へと広がるリスクが大きすぎるとしている。
今夏の東京オリンピック(五輪)・パラリンピック開催について、英紙タイムズは3日、東京支局長の写真と名前入りのコラムを掲載し、「今年の東京五輪を中止すべき時が来た」と報じた。感染拡大を引き起こす可能性を指摘し、日本はおろか世界へと広がるリスクが大きすぎるとしている。
理由として、200を超える国から1万5千人以上の選手や、関係者、審判らに加えて多くの観客が来日することを指摘した。厳しい規制などでリスクを抑え込み、大会を開催できる国があるとすれば「それは日本」と認めつつも、「確証はない」としている。(朝日新聞デジタル)

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そして、本日(3月4日)、政府の方針が「東京五輪の海外客見送りへ」「開催へ安全安心を優先」に変更された旨、大きく報道されている。

政府も東京都も、そして組織委も、海外客受け入れが不可能であることは容認した。だから、現実の進行は、
「海外客受け入れ断念」⇒「国内観客制限」⇒「オリパラ中止」
の手順とならざるを得ないように見える。

しかし、南北アメリカやヨーロッパ各国を見ても、コロナの猖獗はオリンピックどころでない。2020東京五輪の開催不可能はもはや明白ではないか。商業主義や国威発揚、あるいは目立ちたがり関係者の思惑で、コロナのリスクを拡げてはならない。むしろ政府も自治体も民間もスポーツ団体も、早急に「オリパラ中止」を決断して、コロナ対策に専念すべきである。

声を上げよう。「東京オリパラは、早急に中止せよ」「政府も自治体もコロナ対策に専念せよ」

「かいかい 死期」「すぽ お通夜」 ー 超絶短詩による東京五輪の墓碑銘

(2021年3月3日)
なるほど、なるほど。とても面白いし楽しい篠原資明さんの作品。言葉遊びもこの水準にまでなれば、遊戯の域を超えて、文芸か芸術作品と言ってよい。

ところが、なんとももったいないし残念なことに、ネット上にあったその原作は、既に全部削除されている。結局、ここで引用できる作品は、新聞記事から孫引きした下記4作品だけ。篠原さんご自身は、「アートとして思いついたもので、政治的意図はない」「五輪中止時の『墓碑銘』となるように祈りを込めた。良い意味も悪い意味もない」と説明しているという。ならば、篠原さんの作品に、私が私なりの理解を書き込むことに何の問題もなかろう。受け取り方は人それぞれなのだから。

(1) 「かいかい 死期」(開会式)
東京オリンピック開会式のイメージ展開である。コロナ禍のさなかに、世界中からの感染者予備軍を集めての開会式は、確率的に参加者の誰かの死期となる。そうならずとも、暗い死期を予見させる開会式とならざるを得ない。
もしかしたら、ここで死ぬのは、商業主義や国威発揚演出と闘って一敗地にまみれた五輪憲章とその精神なのかも知れない。

(2) 「すぽ お通夜」(スポーツ屋)
「かいかい 死期」に臨んで通夜を営むのは、(スポーツ屋)である。(スポーツ屋)とは、五輪をメシのタネと儲けをたくらむ電通などの企業や、竹田恒泰ら裏金を操作する連中、そして、森喜朗、橋本聖子、丸山珠代らの五輪政治家ばかりではない。権力機構のなかで国威発揚と売名にいそしむ輩、菅義偉や小池百合子らをも含むものというべきだろう。

(3) 「ばっ墓萎凋」(バッハ会長)
言わずと知れた(スポーツ屋)の元締めが、この人物だ。IOCを神聖にして侵すベからざるものとしてはならない。オリンピック精神の死期におけるIOC会長こそは、「罰」「墓」「萎縮」「凋落」のイメージにピッタリではないか。

(4) 「世禍乱なぁ」(聖火ランナー)
今や、東京五輪は風前の灯である。実は単にコロナ禍のためばかりではない。国威発揚や商業主義跋扈のせいだけでもない。オリパラ推進勢力が、この国を形作っている旧い体質とあまりに馴染み、人権や民主主義の感覚とは大きく乖離しているからなのだ。聖火ランナーを辞退せずオリンピックに協力することは、家父長制やら女性差別に加担する、「旧世代人」イメージを背負うリスクを覚悟しなければならない。まっとうな人は、そんなにしてまで走らんなあ。

篠原資明さんは、京大で美学・美術史を教えていた人。今は名誉教授で高松市美術館の館長。この2月、ツイッターの個人用アカウントに「東京オリンピック、なくなりそうな予感。なので墓碑銘など、いまから考えてみませんか」とした上で、みずからが生み出した「超絶短詩」の幾つかを書き込んだ。

「超絶短詩」とは、一つの言葉を二つの音に区切ることで思いがけない意味を持つ表現方法だという。『ウィキペディア(Wikipedia)』に、「超絶短詩は、篠原資明により提唱された史上最短の詩型。ひとつの語句を、擬音語・擬態語を含む広義の間投詞と、別の語句とに分解するという規則による。たとえば、「嵐」なら「あら 詩」、「赤裸々」なら「背 きらら」、「哲学者」なら「鉄が くしゃ」となる。」と解説されている。「おっ都政」(オットセイ)という秀逸もある。

篠原さんは、「メディアからの取材を受けたことで『ことば狩り』と感じ、美術館のスタッフにも迷惑をかけたくないと思ってアカウントを削除した」と話しているという。オリンピック批判はまだ日本社会ではタブーなのだろうか。こんな楽しい言葉遊び作品を削除せざるを得ない、この社会の窮屈さこそが、大きな問題ではないか。

ヨハン・ブレークのワクチン接種拒否を考える

(2021年3月2日)
私はスポーツの世界にはほとんど関心がない。ウサイン・ボルトの名くらいは知っていたが、ヨハン・ブレーク(ジャマイカ)は知らなかった。陸上100メートルの世界記録はボルトの9秒58、ブレークの記録はこれに次ぐ歴代2位の9秒59だという。200メートルでも、世界歴代2位の19秒26をマークしており、ボルト引退後の現役選手としては世界の最高峰に位置している。過去2回のオリンピックに出場して、金2・銀2のメダルを獲得しており、もし、今年東京五輪が開催されるようなことになれば、100・200のメダル有力選手だとか。

そのブレークが、「新型コロナウイルスのワクチンを接種するぐらいなら、むしろ東京五輪を欠場した方がまし」とワクチン拒否を宣言して話題を呼んでいる。これは、興味深い。

ジャマイカの地元紙によると、ブレークは3月27日に「固い決意は変わらない。いかなるワクチンも望まない」と述べ、五輪欠場をいとわない意思を表明した。国際オリンピック委員会(IOC)はこれまで、東京五輪参加者へのワクチン接種を強制はしないものの、推奨する姿勢で、選手団に接種させる方針を示している国もある。(時事)

彼のワクチン拒否の理由は報道では分からない。が、これを拒否する信念の固さは、伝わってくる。オリンピック出場を捨てでも、守るべき大事なものがあるということなのだ。

このブレークの信念は、著名な最高裁判決(1996年3月8日最高裁判決)に表れた高専の剣道実技受講拒否事件事件を思い起こさせる。
神戸市立工業高等専門学校に「エホバの証人」を信仰する生徒がおり、信仰上の理由から体育の剣道実技履修を拒否した。校長は、体育科目は必修であるとし、この生徒を2年連続して原級留置処分としたうえ、退学処分とした。

最高裁は、この退職処分を違法とした。その理由は、次のとおりである。
(ア) 剣道実技の履修が高等専門学校において必須のものとまでは言い難く、体育科目による教育目的の達成は、他の体育種目の履修などの代替的方法によってこれを行うことも可能である(代替的方法の存在)が、神戸高専においては原告および保護者からの代替措置を採って欲しいとの要求も拒否したこと、
(イ) 他方、この学生が剣道実技への参加を拒否する理由は、信仰の核心部分と密接に関連する真摯なものであったこと、
(ウ) 学生は、剣道実技の履修拒否の結果として、原級留置、退学という事態に追い込まれたものであり、その不利益は極めて大きく、本件各処分は、原告においてそれらによる重大な不利益を避けるためには宗教上の教義に反する行動を採ることを余儀なくされるという性質を有するものであったこと、
以上の事情からすると、本件各処分は、社会観念上著しく妥当を欠く処分をしたものとして、裁量権の範囲を超える違法なものである。

生徒が、学校がカリキュラムとして定めた剣道の授業を拒否した。校長には「生徒のワガママ」と映った。ワガママは許されないとして、遂には退学処分にまでした。この生徒の授業拒否を奇矯なものとして、処分もやむを得ないと校長側の肩を持つ意見も少なくはないだろう。「剣道の授業って真剣でやるわけじゃなかろう。竹刀を振り回していりゃいいんだから、授業拒否まですることはあるまい」という意見。

しかし最高裁は、生徒の剣道授業拒否を真摯な信仰の発露と認めた。校長に対して、剣道ではない別の体育メニューを受講させるよう配慮すべきだったと判断したのだ。最高裁も、たまには立派な判決を書く。

ブレークのワクチン拒否にも、社会には多様な意見があるだろう。「ワクチン打たないリスクをよく考えろよ」「副反応の確率は決して高くないよ」「そんなに頑なに拒否するほどのことか」「ワクチンは、自分のためだけのものではない。周りの人のためにも打つべきだ」「オリンピック出場を棒に振ってもワクチン拒絶とは理解し得ない」…。

彼のワクチン拒絶が、信仰上の理由によるものであるか否かは分からない。それでも、彼の精神の核心部分と密接に関連する真摯なものであることは、容易に理解しうる。人生をスポーツへの精進に懸けて来たアスリートが、オリンピック出場をあきらめても、ワクチンを拒絶しているのだ。その確信は、信念と言ってもよいし、思想と言ってもよい。仮に、他人の目には奇矯なものと見えても、尊重されなくてはならない。それが、多様性を尊重するということではないか。

もちろん、「日の丸・君が代」への敬意表明の強制への拒否も同様である。信仰上の信念からでも、歴史観や社会観に起因するものであっても、その姿勢は尊重されるべきで、強制などあってはならない。

澤藤統一郎の憲法日記 © 2021. Theme Squared created by Rodrigo Ghedin.