澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

「さざ波発言」がもたらした、官邸への大波。

(2021年5月11日)
 本日も、茅渟の海が波立っている。「大阪、死亡者過去最多55人」「大阪の新規感染者数974人」という速報。波立っているのは大阪湾ばかりではない。全国津々浦々の波が高い。コロナ死者数は1万人を超えた。失業者も、倒産件数も、自殺者も夥しい数に及んでいる。人々の不安も並大抵なものではない。「医療崩壊」「ワクチン敗戦」などという言葉に背筋が寒くなる。明らかに、日本の社会全体が大波に曝されている。

 この深刻な事態を「この程度の『さざ波』。これで五輪中止とかいうと笑笑」とツイッターに投稿した信じがたい人物がいる。コロナ禍を話題にして、「笑笑」という言葉を発する神経が理解しがたい。ところが、政権におもねって、この発言の肩を持つ一群の人々がいるという。人の痛みの分からない、心のない人々というほかはない。

 心ない人の存在は社会に絶えない。世の中に無数にある心ない発言の全てに対応することはできない。しかし、このツィートを発した人物が内閣官房参与となれば、看過することができない。しかも、首相の側近にあって、「経済・財政政策」を担当しているというのだから、なおさらのこと。

 こんな心ない、こんな理解し難い神経の持ち主が、政府の「経済・財政政策」に関与する立場にあるのだ。いや、こんな人物が政策立案に関わっているからこその、国民に冷たい心ない政府の政策ではないのか。

 この男、?橋洋一。そのツィートの内容には、いくつもの問題がある。まず、その姿勢の不真面目さである。コロナ禍に苦しむ多くの人々の心の痛みに思いを致すことのできない、決定的な人間性の欠陥を指摘せざるを得ない。言うまでもないが、政治や行政に携わる資格はない。

 さらにこのツィートの、政権による失政糊塗の意図を見なければならない。つとに指摘されてきた、医療を市場原理に放置した失敗、PCR検査態勢の遅れ、ワクチン敗戦の責任、非科学的な経済優先策。その結果として医療崩壊を招いた安倍・菅政権の失政に全く無反省であるだけでなく、失政による国民の被害を過小評価して、「笑笑」でごまかそうという意図が透けて見える。

 いま、急速に東京オリパラの開催中止を求める世論が大きくなりつつある。高橋はこれにブレーキを掛けたかったのだ。しかし、結果は反対になった。政権のコロナ対策に対する真剣さの不足の原因が、「これで五輪中止とか笑笑」という本音にあることが明瞭になったのだから。やっぱり、五輪こそがコロナ対策のガンなのだ。

 菅が、またしても「高橋洋一は私とは別人格」と言っても通用しない。こんな人物を見込んで、官邸の「経済・財政政策」担当参与においているのだ。菅は果たして「コロナはさざ波程度」「五輪中止とは笑笑」と言った人物を用い続けるつもりだろうか。

 高橋のツィートは、英・米・独・仏・伊・カナダ・インドと日本の新規感染者数の推移のグラフを示してのものだった。そのツイートの内容は真実と言えるものだろうか。新規感染者数の推移だけを見ることに合理性があるだろうか。また、その見方は正確だろうか。コロナ禍の被害実態を世界に比較して、本当に「日本はこの程度の『さざ波』」と評しうるだろうか。

 いまや反対論が優勢である。5月9日のTBS「サンデーモーニング」で、ある医師がこう語っている。「大阪では毎日1000人以上の感染者が出て、40?50人の方が亡くなり、入院・治療を受けられる方はわずか10%なんですね。残りの人たちは検査も治療もろくに受けられないような状況で放置されているような状況が続いていて、その状況が全国に広がろうとしている」「諸外国と比べて、大阪だけの死亡者は場合によってはインド、アメリカ、イギリス、ヨーロッパよりも多いような状況なんです。非常に深刻で悲惨な状況です

 高橋は、本日(11日)ツイッター上で釈明した。「世界の中で日本の状況を客観的に分析するのがモットーなので、それに支障が出るような価値観を含む用語は使わないようにします」。主観的な表現のあったことは認めたわけだが、問題のツィートを撤回せず、謝罪もしていない。

 このような人物を経済政策の助言者として任命した菅義偉の責任を問わねばならないが、このような発言後もなお高橋を罷免せずに任用し続ける責任は、さらに厳しく問われなければならない。

 菅内閣の支持率は着実に減り続けている。この高橋の「さざ波発言」は、さらに支持率を下げる恰好の材料となった。このさざ波、大波となって内閣に大きな被害をもたらすに違いない。

「改憲手続き法・改正法案」は、小手先の修正を施してもなお欠陥法案である。

(2021年5月10日)
 今国会は、徹頭徹尾コロナ対策国会に終始するものと思っていたら、コロナ騒ぎのドサクサに紛れて、火事場泥棒さながらに改憲手続法案が動き出し暴走している。これが採決強行ではなく、「与野党合意」で成立しかねない情勢なのだから情けない。
 本日改憲問題対策法律家6団体連絡会が、「『日本国憲法の改正手続に関する法律の一部を改正する法律案』の衆議院憲法審査会における採決に強く抗議し廃案を求める」声明を発表した。
 https://jdla.jp/shiryou/seimei/210510.html

 この内容は従前の主張に齟齬もブレもないもの。何がどのように問題となっているのか、少し噛み砕いて説明して、ご理解をいただきたい。

☆現在審議の対象となっているのは、「日本国憲法の改正手続に関する法律の一部を改正する法案」である。この原法の略称をメディアは「国民投票法」と呼ぶことが多いが、「改憲手続き法」と呼称することが自然でもあり、内容を正確に表してもいる。

☆その「改憲手続き法」は2007年に衆法(衆議院議員提出法律案)として成立しており、今問題となっているのはその改正法案である。

☆なぜ与党議員が改正法案を提出したのか。2016年に公職選挙法が改正され、その改正公選法との対比で、「改憲手続き法」の欠陥があまりに際だったものになって、07年法のままでは国民投票は実行できないという認識が一般化したからである。

☆そこで与党議員から、「公選法並び」に揃えるための下記7項目の改正提案がなされた。これが、従前審議対象となってきた「7項目改正案」である。
 ?名簿の閲覧
 ?在外名簿の登録
 ?期日前投票
 ?共通投票所
 ?洋上投票
 ?繰延投票
 ?投票所への同伴

☆この「7項目改正案」は、2018年6月通常国会に、自・公・維の議員提案で国会提出されたもの。が、以後8国会に渡って審議がストップしたままとなってきた。その最大の要因は、「安倍晋三が総理にいるうちの改憲には絶対反対」という野党の結束であった。
 
☆その安倍晋三という障害物が退任して、これまで審議の進行に飽くまで反対で足並みを揃えていた野党の一部が妥協して、「7項目改正案」に「付則」を付加する「修正案」を提案した。「付則」の内容は、「改正法施行後3年を目途に、広告規制、資金規制、インターネット規制などの検討と措置を講ずる」というもの。

☆こうして、与野党で対立していた「7項目改正案」への対案として、立憲民主党からの「修正案」が提案され、これに自・公が賛成した。維新は「7項目改正案」に固執して「修正案」を拒否している。

☆「修正案」は、5月6日衆議院憲法審査会において賛成多数で可決。明日(5月11日)衆院本会議で採決される予定と報じられている。

 改憲問題対策法律家6団体連絡会は、これまで7項目改正案に対して重大な問題点があると指摘して採決に反対してきたが、審査会で可決された修正案もまた、欠陥法案であると指摘し、明文改憲への途を開くだけの修正案の廃案を求めている。

その主たる理由は以下のとおりである。

(1) 憲法改正国民投票(憲法96条)は、主権者国民の憲法改正権の具体的行使であり、最高法規としての憲法の正当性を確保する重要な手続であることから、「修正案」にも通底する、公選法「並び」でよいとする乱暴な議論は憲法上許されない。

(2) 7項目の中には、国民投票環境の後退を招く項目があり、さらに、このままでは国民投票ができない国民が出るなど、違憲の疑いのある欠陥法であって、「修正案」によっても是正されていない。

(3) そもそも改憲手続法は、2007年5月第1次安倍政権当時の強行採決による成立当時から数多くの未解決問題を先送りとされたまま10数年を経たものである。とりわけ国民投票運動の運動資金の規制がなく、CM規制が不十分で、最低投票率の定めがないなど、国民投票の結果の公正を担保しないという致命的な問題点がある。
 「修正案」も、けっしてこれらの「国民投票を金で買う」などの根本的欠陥を解決するものではない。この欠陥法案を急ぎ成立させる必要性も正当性も存在しない。

これ以上の東京オリパラ「ぼったくり」被害はごめんだ。政府は、直ちに「損切り」せよ。

(2021年5月9日)
 ワシントンポストが、東京オリンピック中止を促す記事を掲載したとして、話題になっている。執筆したのはサリー・ジェンキンスという、その道では著名なスポーツジャーナリストだという。世間が注目したのは、IOC会長トーマス・バッハを「ぼったくり男爵」と揶揄し、主権国家日本が恐れ入る必要はないとしたその姿勢にある。

何より「ぼったくり男爵」という訳語のインパクトが強烈で素晴らしい。なるほど、確かにあの連中は「国際ぼったくり一味」である。それだけではなく、国内にもこれに与しての「おこぼれ・ぼったくりグループ」が存在し、国際・国内のぼったくり屋たちから二重にぼったくられる国民の怒りに火を付けたのだ。

 その話題の記事の全訳を、クーリエ・ジャポン (COURRiER Japon・講談社発行のオンライン誌)が掲載している。やや長文だが、面白いし説得力がある。ぜひご一読を。
 https://courrier.jp/news/archives/244435/

ワシントンポスト記事のタイトルは、「日本政府は損切りし、IOCには『略奪するつもりならよそでやれ』と言うべきだ」というもの。日本政府に「損切り」(ロスカット・loss cut)を勧めている。これは面白い。

 「損切り」(ロスカット)は相場用語である。損の拡大を防ぐために、手仕舞いして現状の損を確定させることをいう。損を取りもどさねばと、損切りの機を失すると大損をすることになる。相場の格言では「見切り千両」と言い、また、「損切り万両」とも言う。

ワシントンポスト記事は、これまでのオリパラ準備のための資金投入を「投資」に見立て、「利益の回収」にこだわってこのままオリパラを継続すれば際限なく出費が嵩んで、結局は「大損」することになる。それよりは、オリパラ中止という「損切り」を断行して現状の損を固定し、以後の出費を抑える方が結局は大きな得になると忠告をしているのだ。

 しかし、損切りは心理的になかなか難しい。博打打ちは、「もう一勝負、次ぎこそ挽回」とのめり込んで身を滅ぼす。博打打ち同様、太平洋戦争の責任者だった昭和天皇(裕仁)も、敗戦必至の事態となりながら国体の護持にこだわって、「もう一度戦果を挙げてから」と固執して傷口を広げ、この誤りによって国を破滅寸前にまで追い込み、国民に塗炭の苦しみを余儀なくさせた。

 以下は1945年2月14日、いわゆる「近衛上奏文」提示時のやり取りである。早期戦争終結を縷々上奏する近衛と、裕仁の最後の会話。
(裕仁)もう一度戦果を挙げてからでないと中々話は難しいと思ふ。
(近衛)そう云う戦果が挙がれば誠に結構と思はれますが、そう云う時期が御座いませうか。之も近き将来ならざるべからず。半年、一年先では役に立つまいと思ひます。

 相場を張っている張本人は裕仁である。近衛は、事態を客観的に見れば挽回不可能なのだから損切りせよと勧めているのだ。しかし、博打を打っている本人が、話を聞こうとしない。「もう一勝負をして挽回してからでないと」と結局耳を貸さなかった。このあと、全国の主要都市が焼夷弾に焼かれ、沖縄の凄惨な地上戦での犠牲を出し、あまつさえ広島・長崎の悲劇をもたらした。この誤った指導者の判断による犠牲はあまりにも大きい。

ワシントンポスト記事の「損切り」に関わる部分は下記のとおりである。

日本の指導者たちがすべきなのは損切り、しかもいますぐの損切りである。

 残り11週間のいま、この取引の残りの部分からきっぱり手を引くべきなのだ。オリンピックの費用は非合理的に膨れ上がるのが常だ。

 世界的なパンデミックの最中に国際的メガイベントを開催するのは非合理的な決定なのである。損を取り戻そうとして損の上塗りをするのも同じくらい非合理的である。

 いまのこの段階で夏季五輪の決行を考える人がいるとしたら、その主要な動機は「お金」である。たしかに日本は五輪開催のためにすでに約250億ドルを投じてきた。だが、国外から来る1万5000人をバブル方式で外部との接触を遮断するとしたら、その追加費用はどれくらいになるのだろうか。

加えて毎日の検査実施などの一連の規程もある。警備も実施しなければならず、輸送や大会運営に関連する巨額費用も出てくる。大きな災害が発生してしまったときのコストはどうするのか。」

「国際オリンピック委員会(IOC)のフォン・ボッタクリ男爵と金ぴかイカサマ師たち」によるボッタクリの被害者は、私たち日本国民である。このまま座して事態の推移を看過すれば、損失は膨らむばかり。早急の損切りが是非とも必要なのだ。ふくらむ損失とは経済的なものばかりではない。医療の崩壊がもたらす国民の生命と健康の損失が必至ではないか。

 記者サリー・ジェンキンスはこう言っている。「中止はつらい。だが、それが弊風を正すことにもなるのである。」 

損切りをもっての東京オリパラ中止に躊躇してはならない。痛恨の裕仁よる終戦遅延の罪や、原発再稼働の過ちを繰り返してはならない。そして果敢に辺野古新基地建設の中止もしなければならない。これをにに「損切り」して、国家プロジェクトの撤回ができる日本となれば素晴らしいことではないか。

「オリパラ中止」を、英断にも聖断にもしてはならない。

(2021年5月8日)
 本日の新規コロナ感染確認者数が全国で7249人と報道された。東京・大阪がいずれも1000人を越し、愛知・兵庫・福岡が500人台、北海道が400人である。しかも全国にまんべんなく蔓延している。重症者も増えている。医療態勢は逼迫という域を超え、一部では崩壊の現実があると報じられている。深刻な恐るべき事態というほかはない。

 何よりも国民の生命を第一に対策を考えなければならない。いま、コロナ感染対策への最大の障碍物として誰の目にも明らかなものが東京オリパラである。その開催へ向けた準備こそが、コロナ禍を深刻化させ、医療態勢を脆弱化させる。いまだに、オリパラ開催強行にこだわる政府や東京都の神経は異常というしかない。

 国民の反オリパラ感情は急速に高まりつつある。早晩爆発することにもなろう。その前に、野党はこぞって「コロナ対策優先。オリパラ中止」を政策の対決点として押し出すべきである。東京都議選を目前にした今、東京都の医療態勢の整備と並んで、「オリパラ中止」を分かり安い争点とすべきである。

 いったい何のための東京オリパラなのか。「アンダーコントロール」という招致の真っ赤なウソ。復興五輪とは名ばかりの際限なく国費や都費を食い物とする、儲けのタネとしてのオリパラに過ぎないではないか。そして、菅政権や小池都政の政治宣伝の場としてのパフォーマンス。

 昨日アップした「世相いろはカルタ」。出来の良いものとは思わないが、「あなた何様? 五輪様」「憎まれバッハ 世にはばかる」というフレーズが、自分では多少気に入っている。オリパラは崇高でアンタッチャブル、という思い込みが少しでもなかっただろうか。オリパラなら仕方がない。オリンピックだから許される。オリパラとは、いったい何様だ? と問い直さねばならない。

 「天皇は批判しがたい」という社会の空気が厳然として存在する。これは、社会が天皇の権威を認める愚かで馬鹿々々しい風潮というだけのものではない。統治者にとって、極めて有効で便利な社会統御の手段なのだ。天皇の権威が蔓延している社会とは、統治をする者にはまことに御しやすい好都合なものなのだ。それ故に、天皇の権威は再生産されて存続する。
 
 オリンピックも、これに似ている。これまでIOCも、その会長も、日本国民からは批判しにくい権威と映ってはいなかっただろうか。アスリート・ファーストが当然でオリンピック選手は批判のしにくい対象となってはいないだろうか。

 オリンピック憲章は良くできた立派なものだが、現実のオリンピックはまた別物である。オリンピックの実態は、商業主義の極みではないか。ナショナリズム鼓舞のアリーナではないか。目立ちたがり屋政治家たちによるパフォーマンスの舞台ではないか。その成功のためとする国民統合の道具立てではないか。

 竹田恆和という当時のJOC会長が東京オリンピック招致のための「贈賄疑惑」で会長職を下りた。その男のおかげで、JOCという組織の権威は疾うになくなった。そして今、ようやくIOCとその会長の権威が崩れつつある。

 ワシントン・ポストがバッハを「開催国を食い物にする、ぼったくり男爵」と揶揄して、大会中止を促したことが、日本国内では好意的に紹介されている。そう、こんな人物に恐れ入る必要はないのだ。

 5月17日とされていたバッハ来日予定が見送りになった。なぜ日本に来ないのか。来れば抗議の対象になることが目に見えているから、来ようにも来れないのだ。「バッハが来日できるかどうかは開催可否の一つの目印」だが、「訪日すれば、あの態度でまた日本国民の批判をかうだろう」というのが大方の見方。誰が見ても、この訪日見送りは「東京オリパラ中止の第一歩」なのだ。

 11日から予定されていた福岡県内の聖火リレーは中止が発表された。聖火リレーなどやってる場合ではないということだ。IOCが参加する選手らに米製薬大手ファイザー社からワクチンを無償提供すると発表したが、「五輪優先」との批判が高まっている。着実に国民世論はオリパラ中止に動いている。

 政権は、機を見てオリパラ中止を宣言することになるだろう。小池百合子がオリパラ断念を宣言するのではないかという憶測の記事も散見される。場合によっては、その中止宣言が「英断」ともてはやされるかも知れない。あの「遅れた聖断」のごとくにである。もしかしたら、その決断の「成果」を掲げて解散総選挙もあり得ないではない。総選挙はともかく都議選には影響必至だろう。

 これを防止するには、オリパラ中止を、英断でも果断でもない「追い込まれ判断」「遅きに失した方向転換」に可視化しなければならない。全野党の要求が政権を追い詰めたという構図を作るということである。野党も市民も、今こそオリパラ中止の声を高く上げねばならない。

世相いろはカルタ

(2021年5月7日)
 連休巣ごもりの徒然に、世相の48文字。やや甘口ではあるが。

い 犬も呆れたアベマスク
ろ 論よりPCR
は 花よりワクチン
に 憎まれバッハ 世にはばかる
ほ 星の数ほどスキャンダル
へ 別人格だよ息子とは
と 東京に来ないでくださいオリパラも
ち 血塗られた軍事政権
り 良心は政治家に邪魔
ぬ 濡れ手に粟の政党助成金
る 累卵の危うさ抑止の均衡
を 老いては退位のわがまま
わ 笑う門にとぶ飛沫
か 可愛い子にはオンライン授業
よ 吉村はイソジンと雨合羽
た 他山の石はミャンマーに
れ 礼も過ぎれば贈賄
そ 忖度ゴマすり出世の要諦
つ つまらぬ国会与党の質疑
ね 念には念の買収作戦
な 泣き面に医療崩壊
ら 埒の明かない拉致問題
む 無理無体香港ウィグルチベットも
う 嘘つきは総理の始まり
ゐ 井の中のスガ 民心を知らず
の 呪われ続きの東京五輪
お 尾身の忖度
く 臭いカネに蓋
や 靖国の宮司は不敬で職を辞し
ま 祀られて迷惑顔の戦没者
け 消された30秒 異論の排除
ふ 故郷は過疎化進行今やなし
こ コロナそっくりのエンブレム
え NHKの右顧左眄
て 出たがり屋の百合子さん
あ あなた何様 五輪様
さ 三戦三敗 菅の不人気
き 聞く耳もたない任命拒否
ゆ 油断大敵クラスター
め 目上のパワハラ
み 身を捨てて残した赤木ファイル
し 死んだふりして解散総選挙
ゑ 縁は金づる
ひ 貧困は政治の責任
も モリカケ桜未解決
せ 聖火もコロナに勝てぬ
す スガはアベと同根同罪
京 京の夢大坂の悪夢

ミャンマーの事態を他山の石に

(2021年5月6日)
 ミャンマーで国軍のクーデターが起きたのが2月1日のこと。あれから3か月余が経過した。クーデターに抗議する民衆の抵抗に胸が熱くもなるが、既に路上で虐殺された人が750人を超えるという。この深刻な事態に胸が痛んでならない。

 この事件は軍事組織の危険性を示して余りある。軍隊とは、いかなる命令にも逡巡することなく服従して行動することを組織原則とする。命令一下、同胞をも標的に発砲するのが軍隊であり兵なのだ。

 国民大多数の抗議と批判に晒されながら、国軍は民衆を弾圧し続けている。まさしくその本質を露呈しているのだ。日本の国民は、これを他山の石としなければならない。軍隊とはかくも恐るべき存在である。躊躇なく民衆に銃を向ける。そして、現実に発砲し大量殺人者となる。

 そのミャンマー国軍が日本人ジャーナリストを逮捕し、「虚偽ニュース」流布の罪で起訴したことが大きな話題となっている。このことも、もう一つの他山の石である。自民党の改憲草案の中に、緊急事態条項が含まれている。国家の緊急時には、国会を停止して行政権が人権を制限しうるとする。その極限が軍司令官に立法・行政・司法の三権を委ねる戒厳令である。今、ミャンマーで、自民党改憲草案が想定した事態が現実に進行しているのだ。

 今の日本では、不十分ながらも「報道の自由」が保障されている。万全ではないにせよ、国民は知る権利の恩恵を享受している。しかし、それはけっして所与のものでも万古不易のものでもない。不断の努力なければ、「報道の自由」も「表現の自由」も、知る権利の享受も危ういのだ。ミャンマーの現状のごとく、いともたやすく蹂躙されてしまう。

 元日経の記者だったジャーナリストの北角裕樹さんは、ヤンゴン市内の自宅で4月18日に逮捕された。その後外部との連絡が絶たれていたが、同月23日に刑務所に収監されていることを日本大使館が確認した。しかし、被疑事実も罪名も弁護人が選任されたか、接見が可能であったかも一切不明である。

 そして、北角さんは5月3日に起訴になったと報道された。皮肉なことに、5月3日は国連が定めた「世界報道自由デー」である。逮捕されたジャーナリストは北角さんばかりではない。現在約50人が拘禁中だという。

 このジャーナリスト諸氏は、貴重な国際社会の目であり耳である。この人たちの勇敢な取材活動のおかげで世界はミャンマーで起こっている出来事を知ることができる。だからこそ、国軍はジャーナリストを目の仇にするのだ。

 起訴罪名は、「虚偽のニュース流布の罪」と「入国管理法違反罪」であるという。いずれも、具体的な公訴事実は明らかにされていない。「虚偽ニュース流布」の罪は、2月1日のクーデター後に刑法を改正して新設されたもので、最高刑は禁錮3年だという。

  北角さんは、国軍に対する批判的な姿勢で取材し報道をしていたという。当然に国軍にとっては好ましからぬ存在と映る。起訴罪名の「虚偽のニュース流布の罪」における「虚偽」とは、国軍にとっての不都合な「真実」をいうものであろう。

 これから裁判が正式に開かれるというが期日は未定だという。弁護人は付くのだろうか、通訳はどうだろうか。傍聴はできるのだろうか。人権保障のために、刑事訴訟の諸原則が守られねばならない。しかし、クーデターも戒厳令も、人権弾圧の手段である。ミャンマーの事態を見つめ、日本国憲法「改正」という企みの恐ろしさを教訓としてくみとろう。

「日本国憲法の改正手続に関する法律の一部を改正する法律案」の採決に反対し、改憲手続法抜本改正の慎重審議を求める声明(明日の採決強行を危惧して再掲)

(2021年5月5日)
 明日(5月6日)に予定されている衆院憲法審査会が風雲急を告げる事態だという。もしかしたら、これまでの与野党の合意を反故にして、改憲手続法(国民投票法)の採決が強行されるかも知れない。

 疑問だらけの「改憲手続き法」改正案。国民の関心がコロナ対応に集中している間隙を縫って、火事場泥棒さながらの採決強行。自公だけではなく維新がこれに協力をして貸しを作ろうという算段。いま、いたずらに不要不急の課題に注力すべきではない。ましてや憲法に関わる審議を拙速に進行することは許されない。4月20日付の法律家6団体共同の声明を再掲して、この火急の事態に、法案の問題点を指摘しておきたい。

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改憲問題対策法律家6団体連絡会      
社会文化法律センター 共同代表理事 宮里邦雄 
自由法曹団 団長 吉田健一          
青年法律家協会弁護士学者合同部会 議長 上野格
日本国際法律家協会 会長 大熊政一      
日本反核法律家協会 会長 大久保賢一     
日本民主法律家協会 理事長 新倉修      

はじめに
 4月15日、衆議院憲法審査会において、「日本国憲法の改正手続きに関する法律の一部を改正する法律案」(いわゆる公選法並びの7項目改正案)(以下「7項目改正案」という。)の審議が行われた。7項目改正案は、2016年に累次にわたり改正された公職選挙法(名簿の閲覧、在外名簿の登録、共通投票所、期日前投票、洋上投票、繰延投票、投票所への同伴)の7項目にそろえて改憲手続法を改正するという法案である。

 与党議員らは、審議は尽くされたなどとして、速やかな採決を求めている。これに対し、立憲民主党、共産党の委員からは、7項目改正案は、期日前投票時間の短縮や、繰延投票期日の告示期限が5日前から2日前までに短縮されているなど投票環境を後退させるものが含まれていること、憲法改正国民投票は、国民が国の根本規範を決める憲法制定権力の行使であり、本当に公選法並びでいいのかという基本的な問題があること、7項目改正案は、たとえば、洋上投票、在外投票、共通投票所、郵便投票の問題など、国民に投票の機会を十分に保障するという点で問題があり、また、CM規制、資金の上限規制、最低投票率の問題など、憲法改正国民投票の公正を保障する議論がなされていないのであるから、審議は不十分であり、採決には程遠いという意見が相次いだ。

改憲問題対策法律家6団体連絡会は、以下の理由により、7項目改正案の採決には強く反対する。

1. 憲法改正国民投票(憲法96条)は、国民の憲法改正権の具体的行使であり、最高法規としての憲法の正当性を確保する重要な手段である。参政権(憲法15条1項)の行使である選挙の投票と同列に扱えば済む、公選法「並び」でよいとするような乱暴な議論は憲法上許されない。

2016年の公職選挙法の改正は、選挙を専門とする委員会で審議され、「憲法改正国民投票の投票環境はどうあるべきか」との観点での議論は全くなされていない。
そもそも、憲法96条の憲法改正国民投票は、国民の憲法改正権の具体的行使であり、最高法規としての憲法の正当性を確保する重要な手段である。狭義の参政権である選挙の投票(憲法15条1項)とすべて同列に扱えば足りるとする議論は性質上許されない。ことは国の根本規範である憲法改正にかかわる問題であり、「公選法並び」などという本質を見誤った議論で法案採決を急ぐことは、国民から付託された憲法審査会の任務を懈怠し、その権威を自ら汚すものというべきである。

2. 7項目改正案には、国民投票環境の後退を招き、また、そのままでは国民投票ができない国民が出るなどの欠陥がある
 法案提出者によれば、7項目改正案の目的は、2016年の公選法の改正法と並べることで「投票環境向上のための法整備」を行うこととされる。しかし、7項目改正案の審議は始まったばかりであり、7項目の内容には以下に例をあげるとおり、投票環境の後退を招き、あるいは国民投票の機会が保障されない国民が出てくるなどの重大な問題がある。
 憲法改正国民投票は、上記の性質上、できる限り多くの国民に投票の機会が保障されなければならないし、投票環境の後退を招くことは許されない。
(1) 法案自体が、投票環境を後退させる
 繰延投票の告示期日の短縮や、期日前投票の弾力的運用は、それ自体、投票環境を後退させるものである。「投票環境向上のための法整備」という立法目的にも明確に違反する。
(2) 投票できない国民が出てくる
 洋上投票制度や在外投票制度は、並びの改正によって投票機会の一部については向上 が図られるものの、結局、このままでは国民投票ができない国民が出てくるため、国民 投票は実施できない。一定の国民について国民投票の機会を保障しないままの法案は、 憲法違反の疑いすらある。この不備を修正しないままで 7 項目改正案を急ぎ成立させる 必要性も合理性もないことは明らかである。
(3) 公選法の改正時には、予期できなかった事情や、公選法改選時の附則や附帯決議で必要な措置の検討などが課されている事項で投票環境の後退のおそれがある。例えば「共通投票所」の設置は、「投票所の集約合理化」=削減をもたらしているという実態がある。「共通投票所」を設けたことによって本当に「投票環境が向上」したのか、「利便性が向上」したのか、総括が必要である。また、在外投票についても、在 外投票人名簿の登録率は減少している(2009年は9.54%に対して2019年は7.14%)ことを踏まえれば、その原因を解明した上で、その対策を施した改正が必要である。

 また、2016年改正後、「投票環境研究会」は郵便投票の対象者を現行の要介護5から要介護3の者に拡大することを提起している。「利便性の向上」というのであれば、主権者である国民の意思が広く適切に国民投票に反映されることが必要であり、とりわけ新型コロナの感染が拡大する中「郵便投票制度」の拡充は投票機会を保障するうえで喫緊の課題の一つである。
 以上の事項については、事情変更により新たな改正や見直しの検討が必要であり、2016年の公選法改正並びの改正を行うだけでは、「投票環境の向上」にはならないか、むしろ後退させる危険性がある。これらの問題を無視して7項目改正案を成立させることは、国会議員としての怠慢以外の何ものでもない。

3. 憲法改正国民投票の結果の公正を担保する議論がなされていない
日本弁護士連合会は、2009年11月18日付け「憲法改正手続法の見直しを求める意見書」において、

?投票方式及び発議方式、

?公務員・教育者に対する運動規制、

?組織的多数人買収・利害誘導罪の設置、

?国民に対する情報提供(広報協議会・公費によるテレビ、ラジオ、新聞の利用・有料意見広告放送のあり方)、

?発議後国民投票までの期間、

?最低投票率と「過半数」、

?国民投票無効訴訟、

?国会法の改正部分

という8項目の見直しを求めている。とりわけ、(?)ラジオ・テレビと並びインターネットの有料広告の問題は、国民投票の公正を担保するうえで議論を避けては通れない本質的な問題である。また、(?)運動の主体についても、企業(外国企業を含む)や外国政府などが、費用の規制もなく完全に自由に国民投票運動ができるとする法制に問題がないか、金で改憲を買う問題がないかについての議論が必須である。

 7項目改正案は、以上のような国民投票の公正を担保し、投票結果に正しく国民の意思が反映されるための措置については全く考慮されていない欠陥改正法案である。結果の公正が保障されない国民投票法のもとで、国民投票は実施できない以上、7項目改正案を急いで成立させる必要性も合理性も全くないことは明らかである。

4. 憲法審査会における審査の在り方
 憲法審査会(前身の調査会も含めて)の審議は、政局を離れ、与野党の立場を越えて合意(コンセンサス)に基づき進めるというのがこれまでの慣例である。憲法審査会では、多数派による強行採決は許されない。また、国民の意思とかけ離れて議論することも、もとより許されないはずである。

 2017年5月に、当時の安倍首相が2020年までに改憲を成し遂げると宣言し、2018年3月に、自民党4項目の改憲案(素案)を取りまとめ、その後2018年6月に、公選法並びの7項目改正案与党らが提出している。同法案が、安倍改憲のために急ぎ間に合わせで作られたものであることは、経過から明らかである。7項目改正案を成立させることは、自民党改憲案が憲法審査会に提示される道を開く環境を整えるだけである。

 今、国民は憲法改正議論を必要と考えていない。7項目改正案を急ぎ成立させることは、国民の意思ではない。

以上

最高裁を国民からの批判禁制の聖域にしてはならない。

(2021年5月4日)
 憲法記念日にちなんで、朝日新聞が興味ある世論調査を行った。最高裁判例に納得できるか否かを問うものである。端的に言えば、最高最判例批判の世論を問うている。「最高裁はこれでいいのか」を主権者国民に問いかけているのだ。

 寡聞にして、私はこのような問題意識をもった世論調査の前例を知らない。なんとなく世の空気には、最高裁批判を憚るところがあるのではないだろうか。あるいは、最高裁批判を許せばこの世の秩序が治まらないという遠慮がある。そんな思いを拭えない。

 しかし主権者国民が、立法・行政に意見を述べるだけではなく、大いに司法にも批判があってしかるべきなのだ。国民からの厳しい批判あってこそ、最高裁も姿勢を正す。判例も進歩する。最高裁を批判禁制の聖域にしてはならない。

 最高裁判例の批判に、研究者だの、法律家だのという資格は不要である。何よりも、最高裁の判例で救済を拒否される市井の人々が声を挙げねばならない。もとより、朝日の世論調査にそのようなコメントはないが、明らかにそう呼びかけるものと理解すべきであろう。朝日の見識に敬意を表したい。

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 朝日新聞社の全国世論調査(郵送)は、憲法を巡って最高裁判所で議論された五つの事柄について、最高裁の結論を納得できるか否かを4択で聞いている。調査対象者は3000、有効回答者は2175(回収率73%)という堂々の規模である。その結果は以下のとおり。

(1) 「公立校の式典で起立して君が代を歌わなかった教師を教育委員会が処分してよい」
 「あまり」と「まったく」を合わせた「納得できない」は65%

(2) 「テレビを設置している人はNHKの受信料を支払わなければならない」
 「あまり」と「まったく」を合わせた「納得できない」は64%

(3) 「日本に住んで納税の義務を果たしている外国人に地方選挙の投票権は与えられていない」
 「あまり」と「まったく」を合わせた「納得できない」は63%

(4) 「衆議院選挙の一票の価値が都会では地方の2分の1程度でも憲法違反ではない」
 「あまり」と「まったく」を合わせた「納得できない」は50%

(5) 「結婚した夫婦が同じ名字を名乗ることは当然だ」
 「大いに」と「ある程度」を合わせた「納得できる」が56%

 もちろん、私は、上記(1) に最大の関心をもつ立場にある。4択の内容は、以下のとおりである。
 
(1) 「公立校の式典で起立して君が代を歌わなかった教師を教育委員会が処分してよい」
  「大いに納得できる」    10%
  「ある程度納得できる」   21% (納得できる計31%)
  「あまり納得できない」   35%
  「まったく納得できない」  30% (納得できない計65%)

 この結果、実は私にとってやや意外である。私は、漠然とであるが、「納得できる派」がもっと多いという印象をもっていた。「公務員である以上は、不服でも職務命令に従え」「教師が率先垂範して国に反抗してはならない」「日本人なら、日の丸・君が代に敬意を表明するのが当然」「教師が、子供の門出の式を自分の思想宣伝の場にするのか」「大人の常識を弁えよ」…等々の俗論と対峙している内に、世の中の多数が都教委の方針支持のように誤解してしまったのだ。

 しかし、視点を変えれば、今や世は多様性の時代ではないか。どこまで本気かは分からぬながらも、堅固な保守派の東京都知事までが「ダイバーシティ」なんて、カタカナ語を口にしている。個性の尊重こそ大切なのだ、性別や人種・民族・宗教、LBGTにも寛容が叫ばれる時代。ならば、自分が自分であるための根底にある思想の多様性の尊重も世の潮流となり、それが調査結果に表れているのではないのか。

 もちろん、思想・良心の自由の保障は、世論の如何にかかわらない。むしろ、少数者の思想や良心こそが擁護されねばならない。それこそが、最高裁の任務である。その任務に違背して、学校行事における教師への日の丸・君が代強制を合憲とする最高裁の判断に、これだけの世論が納得できないとしているのだ。最高裁よ、ぜひとも考え直していただきたい。

日本国憲法は常に政権から疎まれ、「改正」の危機を繰り返してきた。現在も、事情は変わらない。

(2021年5月3日)
 本日は憲法記念日。もちろん、政府も与党もなんの祝意も表さない。政権も保守陣営も、憲法には敵意を剥き出しにしている。それでも日本の民衆が、権力に憎まれる日本国憲法を無傷のままの守り抜いて74年目の憲法施行の記念日を迎えているのだ。これは、高く評価すべきことではないか。

 日本国憲法は、第90帝国議会の貴衆両院で審議され圧倒的多数で可決された。その衆議院は、戦後の衆議院議員選挙法の改正によって女性参政権を実現し、真の意味での普通選挙によって構成されている。日本国憲法は不十分ながらも、民主的な手続によって制定されたものである。もっともこのとき、日本国民の直接投票による憲法の採択はされていない。しかし、この74年間で、日本国民は政権に抗い続けてこの憲法を自らの血肉としてきたというべきだろう。

 日本国憲法には成立以来いくつもの「改正」の危機があった。その最近のものが、安倍晋三による改憲策動である。安倍以前の保守政権がどれもまともというわけではないが、保守の政権にも「右翼の連中と一緒くたにされるのは迷惑」という矜持があった。安倍政権には、その矜持がなかった。神社本庁や、靖国派とか日本会議派、ヘイトをもっぱらとする右翼連中とも気脈を通じての復古的・好戦的改憲路線を突っ走った。

 改憲勢力から見れば、明らかに「こんな、なりふり構わず右翼と一体となった総理・総裁の存在は、改憲実現に千載一遇のチャンス」であったろう。その千載一遇のチャンスが実を結ぶことのないまま安倍は退陣した。「幸い」にして、安倍は清廉潔白で尊敬される政治家ではなかった。嘘とごまかしの政治手法をもっぱらにし、政治の私物化を指弾される汚れた政治家であった。そのことが、日本国憲法にとっては好運であったと言えようか。国会の議席の上では、改憲発議可能ではあったが、安倍は改憲に手を着けることができないまま、政権の座を去った。

 安倍後継を自任する菅は、改憲にさしたる熱意をもっていない。今、憲法は、安倍後の相対的に安泰の時期に入ったはず…なのだが、実は必ずしも安閑ともしておられない。いや、見ようによっては逼迫した事態とも言えるのだ。

 理由はいくつかあるが、分かり安いのは安倍晋三が退いたことである。安倍の人物像、安倍の政治姿勢、安倍の政治手法、安倍の辻褄の合わない言動、安倍を取り巻く人脈等々は、心ある多くの国民に、「安倍は危険だ」「安倍は信用しがたい」「安倍が総理・総裁でいる間の改憲には賛成できない」「安倍改憲には反対」との警戒の声が高かった。その安倍がいなくなったのだ。改憲反対の大きな理由が一つ減ったのだ。落ちついて改憲派の言い分にも耳を傾けてみよう、という雰囲気がなんとなくあるのではないか。

 さらに、コロナの蔓延、中国の台頭などの新状況である。憲法制定時とは国を取り巻く状況が大きく変化している。ならば、なんとなく憲法も変えたほうがよくはないか。コロナ対策も中国への対処もできることなら何でもやってもらいたい。憲法改正も少しは役立つのでは、というムードがある。いずれも、はっきりはしないがそんな空気が蔓延しているのだ。

 4月29日の毎日朝刊の次の見出しが、眼に突き刺さった。「国民投票法改正案、自民・公明が5月6日採決、11日衆院通過へ」というのだ。これまで、国民世論が動きを封じていた、憲法審査会での改憲手続き法(国民投票法とも)審議が動き出した。このコロナ禍の中で、もっとも不要不急な議事といってよいだろう。毎日の記事を要約する。

「自民・公明両党は憲法改正手続きに関する国民投票法改正案を5月6日に衆院憲法審査会で採決し、11日に衆院を通過させる方針を固めた。複数の与党幹部が明らかにした。改正案は2018年に提出されて以来、9国会目となる。

 改正案は、憲法改正国民投票の手続きを公職選挙法に合わせるのが目的で、駅や商業施設などへの共通投票所の設置や投票所に同伴可能な子どもの範囲の拡大など7項目が盛り込まれている。

 与党はこれまでに4回質疑されたことから「審議は尽くされた」と判断。6月16日までの会期と参院での審議日数を踏まえ、5月6日に審査会で採決し、11日の衆院本会議で通過させることを決めた。

 野党側は、CM規制や外国人寄付規制が盛り込まれていない改正案は不十分として、3年をめどに法整備するよう付則に盛り込む修正案を提出する方針。立憲の枝野幸男代表は28日、「改正案は明らかに欠陥法だ」と述べ、与党側の対応を求める考えを示した。」

 その後に、関連した共同の配信記事がある。「国民投票法修正、結論出ず 自公協議、6日採決は流動的」(4月30日 20時24分)

 「憲法改正手続きに関する国民投票法改正案を巡り、自民、公明両党幹部は30日、立憲民主党が求める修正の是非を国会内で協議したが、結論に至らなかった。立民は、政党スポットCMの法規制を改正案の付則に明記すれば採決に応じるとしている。自公両党は5月6日の衆院憲法審査会で採決する構えは譲らないものの、情勢は流動的だ」

 自公が「運動方法を公職選挙法並みとする改正案」を提案し、立民が「政党スポットCMの法規制」を条件に採決に応じようと逆提案した局面。現状では、自公は立民の提案を受諾するのは難しいという報道。本来、憲法改正国民投票運動が公職選挙法の選挙運動並みでよいという発想から問われなければならないが、5月6日の衆院憲法審査会、どうなることか予断を許さない。憲法の危機、今もなお繰り返され、進行中なのだ。

 東京オリパラ開会決行は取り返しのつかない事態を招く。さりとて、中止をしても政権への打撃は深刻である。

(2021年5月2日)
 河豚は喰いたし命は惜しし。フグはその美味ゆえに喰いたくてたまらんものだが、万が一にもその毒に中ったら元も子もない。さて、東京オリパラである。政権としては予定のとおりに開会に向けて突っ走りたいのだが、失敗すれば政権の命取りとなる。そのことを考えて中止に舵を切るべきか。そこが問題だ。菅義偉、悩まざるを得ない。

 オリパラは、無事に開会できればこれに越したことはない。御用メディアがいくつもの感動物語を作ってくれる。国民の大半がこれに夢中になるのは目に見えている。ナショナリズムは高揚し景気回復のきっかけにもなる。たちまちにして、政権の失政は忘れ去られ、菅は世界が注目する檜舞台でスポットライトを浴びることになる。これこそが、おそらくは唯一の政権浮揚の切り札。オリパラ成功を足がかりに長期政権だって夢でなくなる。だから、オリパラはこの上ない美味で、「河豚は喰いたし」なのだ。喉から手が出るほどに、予定どおりの東京オリパラを開会したい。

 しかし、政権も「命は惜しい」のだ。開会して失敗すれば確実に菅義偉政権の終焉となるだろう。失敗とは、全世界注視の中で東京オリパラが新型コロナのクラスター発生の舞台となることだ。どこかの国から持ち込まれたウィルスが、東京オリパラの密な環境で、いくつもの、そして幾種類ものクラスターを生じ、競技を続けることはできなくなる。選手だけでなく、役員やメディアや外交官などにも感染が拡大して医療の提供が困難となる。感染が拡大して日本国内のみならず、さらに世界規模の再感染をもたらす。東京オリパラに起因する大混乱の幕開けである。現状、その蓋然性はきわめて高い。

 累計総額2兆円とも3兆とも言われる出費の無駄遣いが非難される。巨額を投じて結局はコロナの感染蔓延に手を貸したのかとの指弾も覚悟しなければならない。政権の責任というよりは、保守政治総体の在り方が根底から問われることにもなろう。国民の生命や健康を犠牲にしてのオリパラ強行は、いったいいかなる政治理念による選択なのか、という糾問に答えねばならない。実のところ、政策選択の基準は政権の延命にしかないのだから、真正面から問われれば、回答に窮するしかない。

 では、危険水域に突入する手前で方針変更して、早めに東京オリパラ中止の方向に舵を切るか。実はこれも難しい。一つは、オリパラ成功があまりの美味に見えるので、後ろ髪引かれる思いを捨てきれない。大勢のオリパラ推進勢力の中には、今さらやめられるかという気分も横溢している。確かに、これまで言ってきたこととの整合性を保ちながら方針の転換を図ることは困難なのだ。

 それだけではない。今東京オリパラ中止と決断するにしても、その中止の実行に伴う実務手続は厖大になる上に、中止に伴う新たな出費の負担も軽くない。そして、これまでに支出した巨額の準備資金を無駄にしたという非難は免れない。真面目くさって聖火リレーなんてやらかしたことも裏目に出る。留意すべきは、一日一日、中止の決断が遅れれば遅れるほど、中止に伴う傷も深くなる。

 東京オリパラは呪われた大会などという非科学的な人々の印象が形成され、その印象が、菅義偉政権の印象に重なる。言わば、政権が「風評被害」をもろに被ることになるのだ。政権浮揚の切り札は失われ、衆院の解散時期の好機をつかめないままに、ずるずると追い込まれ解散とならざるを得ない。

 となれば、東京オリパラ強行に進むも地獄退くも地獄の現状である。中止の決断をするも地獄、決断先送りの遅延もまた地獄、菅義偉政権の無間地獄なのだ。

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