澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

統一教会の「三位一体」と、反共・改憲・家庭の政治理念。

(2022年8月21日)
 統一教会とは、宗教団体でもあり、政治団体でもあり、反社会的な財産収奪組織でもある。この各側面が三位一体化した存在なのだが、その中心は飽くまで宗教団体性にあると言ってよい。

 この宗教団体が宗教法人として認証を受けるに際して作成した「規則」(会社の定款に相当)には、その目的がこう書かれている。

 規則第3条(目的)「この法人は、天宙の創造神を主神として、聖書原理解説の教義をひろめ、儀式行事を行い、信者を強化育成する為の財務及び業務並びに事業を行う事を目的とする。」

 「天宙」も、「創造神」「主神」「聖書原理」も外部の者にはさっぱり理解不能であるが、「何らかの宗教教義」を広める目的を有していることは分かる。そして、その説くところが「宗教」であることに間違いはなかろう。

 マニュアル化されたシステムを活用して信者を獲得するところがこの組織の活動における始動点である。だから、この信者獲得のための勧誘活動を違法であるとする民事訴訟と判決が決定的に重要なのだ。けっして宗教活動の自由は万能ではない。
 
 教団は、入信させた信者の人格を支配して、多額の献金をさせ布教活動に参加させるだけでない。霊感商法や献金勧誘活動に稼働させて他者から教団への財産収奪の手駒とする。こうして、莫大な経済的利益を上げて財政基盤を築く。この人的・財政的基盤あればこそ、政治的な活動が可能となり、政党活動に影響を及ぼす力量をもつのだ。

 この宗教が特異なのは、「反共」という政治理念・政治行動と密接に結びついていることである。この教会の教祖が、岸信介や笹川良一などの右翼と語らって勝共連合を結成した。今でも、教会の幹部が勝共連合の幹部を兼ねている。そして、注目すべきは、「反共」とならぶもう一つの政治スローガンが、「家庭」であることだ。これは、反ジェンダー、反フェミニズム、反個人主義を意味する。自民党保守派ないしは右翼政治家と相性が良すぎて、切っても切れない関係にあるわけだ。

 勝共連合のホームページを覗いてみると、「反共」「改憲」「家族」というスローガンが躍っている。たとえば、次のように。

 《国際勝共連合の50年の歩みは、内外の共産主義との熾烈な思想戦そのものです。国際勝共連合の提唱者・文鮮明総裁は、常々「共産主義は間違っている」「世界から共産主義者が1人もいなくなるまで勝共の旗を降ろさない」と語ってこられました。国際共産主義(ソ連中心)に勝利宣言をした当連合ですが、なお残存する共産国(中国や北朝鮮など)の解放に向けた言論活動、そして国内おける日本共産党等の共産主義勢力、及び、文化共産主義(家族など伝統基盤破壊)との更なる闘いを継続しています。》

 《日本共産党は資本主義を根底から否定します
 彼らの綱領には、「社会主義・共産主義の社会」を目指すと書かれています。これは資本主義を根底から否定するもので、憲法29条に反しています。彼らの目的は憲法を改正しなければ絶対に果たせません。「憲法守れ」というのは偽りです。》

 《そして何より、彼らは「国家権力そのものが不必要になる社会」を目指しています。つまり、日本という「国家」の存在そのものを否定しているのです。日本共産党は、日本を倒すことを究極的な目的とする政党なのです。》

 《憲法改正をあきらめてはいけない!
 『勝共UNITEと憲法改正?若者たちによる改憲運動?》

 とりわけ、留意すべきは、統一教会ホームページの次の姿勢。
 《今までの宗教は、個人圏を目標としたのであって、家庭圏を目標とした宗教はありませんでした。いかなる宗教も個人救援を唱えていたのであって、そこには家庭救援や氏族救援、また国家救援という言葉はありませんでした。私たち統一教会は、家庭を中心として国家救援、世界救援を主張しているのです。》

 《さあ、『世界平和統一家庭連合』と、一度言ってみてください。その中心は何かというと、家庭です》

 安倍晋三の目から統一教会の政治的側面を眺めれば、「カルト的情熱に支えられた反共・改憲」集団以外のなにものでもない。支援団体としてこの上なくありがたい存在。そして、個人ではなく家族の強調は、安倍と安倍を取り巻く復古主義的右翼の主張そのものである。これが、ジェンダー平等を妨げ、選択的夫婦別姓の実現を阻止し、LGBTに非寛容の潮流を形作っている。正確な規模は分からぬまでも、この反社会的勢力が安倍ないし安倍的なものへの力強い支援勢力なのだ。

オーイ、御用学者諸君。御用言論人諸兄姉よ。何とかしておくれ。

(2022年8月20日)
 キシダだよ。「聞くだけ」が得意技の日本国首相さ。私の耳は、生まれつき指向性が強いんだ。党内派閥から漏れ来るささやき声はよく聞こえるが、庶民の叫びは聞くフリしてるだけ。聞こえてはいるんだが、得意の「聞くだけ」。それでも、安倍晋三よりはずっとマシだろう。

 それにしても問題山積だ。溜息が出るね。世は安倍国葬反対一色じゃないか。それに、統一教会と自民党との癒着糾弾だ。本音を言えば、これ魔女狩りじゃないのか。それを自民党政治本質の表れとされていて反論できないから、困るんだ。加えて、物価高。おさまらないコロナ禍。東京五輪汚職。原水禁問題も、戦没者追悼の式辞も悪評この上ない。全てが裏目だ。

 選挙で勝ったことと、夏季休暇のゴルフは楽しかったな。いつまでも気楽に過ごせたらいいのに、どうしてこんなことになっちゃったんだ。国葬決めたときはうまくやったと思ったが、あれがケチの付き始めだった。統一教会問題が出てきたから、先手を打って「疑惑一掃内閣」への改造人事をやった。ところが、これが却って失敗、火に油を注ぐ結果となってしまった。あ?あ、もっと野党や庶民の声も聞いておけばよかったんだ。

 こういうときは何もかもうまく行かない。野党は、「安倍国葬反対」集会で勢いづき、「臨時国会を開いて審議をすべきだ」なんて鼻息が荒い。山添議員は調子に乗って「(岸田首相の)聞く力はどこにいったのでしょうか。みんなで声を上げて国会を開かせましょう」なんて言ったそうだが、いま国会開いていいことないだろう。ここは慎重に構えなければならない。

 野党議員が、憲法53条に基づいての臨時国会の召集要求があったのは、一昨日(8月18日)だ。立憲・共産・国民・れいわ・有志の会・社民の6党・会派によるもの。衆院議員では126人の連名。参議院では77名。「臨時国会召集は、憲法53条に基づくもので非常に重い」「山積する諸問題に、総理の説明が必要だ」と言われると、その通りなのだから頭が痛い。

 ともかく問題を先送りして、なんとか国葬を終えてしまえば、世の中の空気も変わるだろうと思うのだが、これがうまく行かない。国葬実施の責任者・首相補佐官の森昌文にスキャンダル発覚だ。彼は、各省庁の担当官僚を束ねる「葬儀実行幹事会の主席幹事」というトップの立場。昨日(8月19日)の『NEWSポストセブン』は、この国葬責任者である森が、過去に乱交パーティへ参加していたと報じた。

 かつて、「ノーパンしゃぶしゃぶ」事件が世を騒がせた。大蔵省の監督下にある金融機関が大蔵官僚の接待に、歌舞伎町のいかがわしい店を使っていたのだ。これが1998年のこと。森昌文(当時国交省官僚)の事件は2007年6月のことだという。15年前のこの事件が、今になって大きく報じられることとなった。当時も報道はあったようだが、彼の名前は出なかったという。それが、地中に埋まった地雷のように、今爆発というわけだ。安倍国葬呪われているとしか言いようがない。

 この記事のとおりなら確かにひどい。「森氏は、当時参院議員だった大仁田厚氏主催の乱倫パーティに参加していた。会には複数のAV女優とキャバクラ嬢、コンパニオンなどの女性7人と、森氏、大仁田氏を含む男性3人が参加。大仁田氏がAV女優の一人に『2人を遊ばせてやって』と伝えると、森氏は女性と個室に消えていったと報じられている。その後も、女性陣の服を脱がせようと男性陣で『脱げ! 脱げ! 脱げ!』と煽り立てるなど、乱痴気騒ぎを繰り広げていたという」「森氏は、同誌の直撃に対し、『参加はしましたけど、乱痴気な会合ではない』『なぜ女性が脱いだのか、私が解釈することじゃない』などと話しているとも伝えられた。」

 こんな反響も報じられているのか。 
《こういう人物が日本の総理大臣を補佐してるんだな…。そして国葬の責任者としてふさわしいと、考えられているんだな…》《国の恥でしょ》
《あ?あ今度は破廉恥か 官邸や大臣やまともなのがいない》
《安倍国葬と破廉恥国葬担当者、お似合いの取り合わせでは》

 山積した問題の第一が、安倍晋三の国葬問題に逆風が吹いていることだ。この風、しばらく吹きやみそうにない。もっと強くなれば、私の政権を吹き飛ばしかねない。これは、安倍晋三の不徳の至すところなのか、それとも国葬を決めた私の不徳なのだろうか。

 愚痴を言ってもおられない。頼みは、世論の風向きを変えることだ。だれか、その役を引き受けてくれないだろうか。こんなときに役立つだろうと普段引き立てている御用学者諸君よ、なんとかならないか。常々、寿司を食わせ、会食を共にしてニュースのネタをくれてやっている御用ジャーナリストの諸君、今こそ恩返しのときではないかね。そして、いつも反共と親権力をウリにしている御用評論家の諸兄姉よ、よろしくよろしくお願いしたい。

『DHCスラップ訴訟』紹介 ー 「DHCスラップ訴訟」を許さない・第205弾

(2022年8月19日)
 「『DHCスラップ訴訟』ースラップされた弁護士の反撃そして全面勝利」の発刊以来半月余。私は、この書を多くの人に読んでいただきたいと思っている。

 この本の中にも書いたが、スラップを仕掛けて「黙れ」と言った人物を、私はけっして許さない。この決意は、一面私怨であり、一面公憤でもある。私怨は語るまでもない。「おまえの言論は違法だ」「だから6000万円支払え」と提訴されたのだ。とんでもない手間暇を掛けさせられた。しかも、恫喝すれば黙るだろうと見くびられたことの不愉快さ。怨みが消えるはずもない。この私怨の深さがエネルギーの源泉だ。

 もう一つは公憤だ。私の怒りは憲法の怒りでもある。「表現の自由」という美しい、大切な旗を汚されたことへの憤り。カネを持て余している輩が、カネに擦り寄る連中を手駒にして仕掛けてきた、「DHCスラップ訴訟」。この憲法的価値への挑戦には徹底して反撃しないわけにはいかない。幸い、この公憤の側面に多くの仲間が共感してくれた。

 弁護士が被告にされたスラップである。スラップに対する闘いの典型を作らねばならない。最初は、《スラップに成功体験をさせてはならない》と思った。そして今は、《DHC・吉田嘉明には典型的な失敗体験をさせなければならない》と思うようになっている。

 私は、スラップを仕掛けられて跳ね返した。DHC・吉田嘉明の私に対する6000万円請求訴訟は一審判決で全部棄却され、控訴審で控訴棄却となり、最高裁はDHC・吉田嘉明の上告受理申立を不受理とした。しかし、それでは足りない。

 その後、攻守ところを変えて、今度は私が原告となって、DHC・吉田嘉明を被告とする損害賠償請求訴訟を提起した。これも最高裁までの争いとなったが、165万円の認容判決が確定した。少なくとも、DHC・吉田嘉明のスラップを違法とする判決を獲得し、カネを払わせた。しかし、それでもなお、十分ではない。

 DHC・吉田嘉明に《徹底した失敗体験》をさせるとは、骨身に沁みて、「こんなスラップ訴訟をやるんじゃなかった」「もうこりごりだ。今後2度とスラップはするもんじゃない」と思わせなければならない。そのためには、裁判の経過を多くの人に知ってもらわなければならない。DHC・吉田嘉明とその代理人弁護士がどんなみっともない訴訟をしたのか、裁判所がどう判断したのか。そして、そのことの法的な意味はどんなものなのか。それをこの本に盛り込んだ。この本を普及することが、《わが闘争》の現段階である。

 献本差し上げた方からの暑中見舞い・残暑見舞いの中のこの本の感想が面白い。私と妻のことを知っている人は、口を揃えて「東京高裁松の廊下事件」のくだりが一番面白い、とおっしゃる。それは、そうかも知れない。が、私が最もお読みいただきたいのは別のところである。以下は、その一節の抜き書き。


?それでも逃げた吉田嘉明の卑怯

 2019年4月19日の東京地裁415号法廷。この日は、DHCスラップ「反撃」訴訟の証人尋問の日であった。本来なら、この日が訴訟の山場。緊張感みなぎる法廷になったはず、であった。が、いかんせん盛り上がりに欠けた。傍聴席は満席ではあったが、ピリッとしないままに開廷し尋問が進行し閉廷した。
 何しろ、法廷にいなければならないこの日の主役が不在だった。主役で敵役でもある吉田嘉明には、この日の本人尋問採用決定があり、裁判所から正式の呼出状が送達されている。にもかかわらず吉田は出廷を拒否した。逃げたのだ、敵に後ろを見せて。
 古来、ひとかどの武者が戦場で敵に背中を見せるのは武門末代の恥とされた。矜持をもつ者の美学に反するのだ。一ノ谷の戦場では、劣勢の平家方の若武者平敦盛が、坂東武者熊谷直実から「よき大将軍。卑怯にも敵に背を向けるか! 戻れ、戻れ!」と声をかけられて引き返し、一騎打ちとなる。逃げないから絵になる。物語にもなる。そして、逃げなかったからこそ、敦盛が後世にその名を残すことにもなった。「卑怯者、敵に後ろを見せるのか」と言われながら、吉田嘉明の如くに黙ってとっとと逃げてしまうのでは、白けるばかりである。
 私は、吉田嘉明との法廷での対決を期待もし、闘志を燃やしてもきた。自分から仕掛けた訴訟を、「勝訴の見込みのないスラップだ」と言われて、反論を放棄するとは思わなかった。何度も、卑怯者、逃げるのか、と挑発もした。それでも敵前逃亡した吉田嘉明には、拍子抜けでがっかりし、この日の法廷は面白くなかった。しかし、これで勝訴は間違いないとも思った。
 吉田の尋問を申請したのは、反訴原告(澤藤)側である。吉田でなければ、スラップ提訴の動機は語れない。なぜ、ほかならぬ私を選んで提訴したのか。私の批判が耳に痛いから、これ以上ブログを書くなと脅したのではないか。どうして、言論で闘おうとしなかったのか。どうして短絡的にスラップに飛びついたのか。本当に勝訴の見込みあると考えていたのか。勝訴の見込みの有無について、誰から何を聞かされて、どう判断したのか。もしや、顧問弁護士から、勝訴の見込みがあるとでも吹き込まれたというのか。その経緯を法廷で語れ。スラップにいったい幾ら金をかけたのか。なぜ2000万円の提訴をし、なぜ6000万円に増額したのか、なぜそれ以上の増額はしなかったのか。本人でなくては語りようがないではないか。
 裁判所もそう思ったから、本人尋問採用の決定をし、呼び出した。それでも彼は来なかった。これは、「証明妨害」に当たる。出廷拒否というやり方で、自分に不都合な証拠が裁判所に提出されることを妨害したのだ。
 裁判所がはっきりと「証明妨害」の認定をするかどうかはともかく、これなら吉田が裁判に勝つことは絶対にない。だいたい、この吉田の姿勢は真面目に訴訟をし、勝訴のために努力しようというものではない。考えて見れば、スラップの提訴以来、DHC・吉田嘉明の姿勢は一貫していた。提訴や請求の拡張で、被告を恫喝はするのだが、そのあとに勝訴のための地道な努力をすることはなかった。


DHCスラップ訴訟 スラップされた弁護士の反撃そして全面勝利

著者名:澤藤統一郎
出版社名:日本評論社
発行年月:2022年07月30日

≪内容情報≫
批判封じと威圧のためにDHCから名誉毀損で訴えられた弁護士が表現の自由のために闘い、完全勝訴するまでの経緯を克明に語る。

【目次】
はじめに
第1章 ある日私は被告になった
1 えっ? 私が被告?
2 裁判の準備はひと仕事
3 スラップ批判のブログを開始
4 第一回の法廷で
5 えっ? 六〇〇〇万円を支払えだと?
6 「DHCスラップ訴訟」審理の争点
7 関連スラップでみごとな負けっぷりのDHC
8 DHCスラップ訴訟での勝訴判決
9 消化試合となった控訴審
10 勝算なきDHCの上告受理申立て
【第1章解説】
DHCスラップ訴訟の争点と獲得した判決の評価 光前幸一

第2章 そして私は原告になった
1 今度は「反撃」訴訟……なのだが
2 えっ? また私が被告に?
3 「反撃」訴訟が始まった
4 今度も早かった控訴審の審理
5 感動的な控訴審「秋吉判決」のスラップ違法論
【第2章解説】
DHCスラップ「反撃」訴訟の争点と獲得判決の意義 光前幸一

第3章 DHCスラップ訴訟から見えてきたもの
1 スラップの害悪
2 スラップと「政治とカネ」
3 スラップと消費者問題
4 DHCスラップ関連訴訟一〇件の顛末
5 積み残した課題
6 スラップをなくすために
【第3章解説】
スラップ訴訟の現状と今後 光前幸一

あとがき
資料(主なスラップ事例・参考資料等)

https://nippyo.co.jp/shop/book/8842.html

『DHCスラップ訴訟』読後感集 ー 「DHCスラップ訴訟」を許さない・第204弾

(2022年8月18日)
 「『DHCスラップ訴訟』ースラップされた弁護士の反撃そして全面勝利」の発刊以来2週間余。評判も売れ行きも、まだよく分からない。

 この訴訟遂行にご支援いただいた方々へ献本したところ、その読後の反響がそろそろ届く時期になった。「読み易くて面白い」という評判に気を良くしている。お世辞半分としても、まずまずの手応え。10部まとめての追加注文をいただいた方も、何人かある。まことにありがたいこと。

 メールで届いた感想のいくつかをご紹介させていただく。

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 躍動感のある語り、法廷闘争の位置づけ、光前先生の解説など、実に工夫され充実した闘いを記した著作物で一気に読み終えました。
 酷暑の中にさわやかな風が吹き通っていった感じです。

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 素晴らしい本の贈呈有り難うございます。
 被告として、そして原告として、果敢に闘われたこと、心から敬意を表します。訴訟の代理人ではなく訴訟の当事者として闘われたことに、大変なご苦労をされたことと推察します。
 先生は、そうしたご苦労を微塵もみせず、人権と民主主義の前進をめざして明るくたたかわれたことに、感動すら覚えます。スラップ訴訟、私も先生の心意気に触発され勉強したいと思います。
 ご健康にご留意されながら今後のご活躍を祈念します。

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 一気に読んでしまいました。スラップ訴訟の、被告に与える苦痛、世の中にもたらす害悪、それによって守ろうとする業者の不法な利益が、とてもよく伝わってきました。
 スラップ訴訟に対しては、単に棄却を求めるだけでなく、何らかの反撃がなければスラップはなくならないであろうこともよく分かりました。不買運動、激しく同意します。
 今後の課題として、スラップ訴訟に対する応訴負担についての賠償責任を十分なものとすることもおっしゃるとおりと思います。その意味で、応訴の弁護士費用50万円を認めたことは、とても重要で意味のある判決と思います。
 ネット社会の中で、この本の存在意義はますます増していくものと思います。この本を頂いたことへのささやかなお礼として、広く宣伝したいと思います。

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 訴訟の詳細を十分に理解してはおりませんでしたので、一読者として読み物として楽しませていただきました。
 初めて原告・被告という当事者の立場になられた澤藤先生のお立場で、訴状が届いてから反撃訴訟での勝訴が確定するまでの経過が、とても迫真的に記録されていて、あっという間に読み進みました。
 澤藤先生の文章は、いつも読むのが楽しみでしたが、今回も澤藤先生の表現豊かな文章を楽しませていただいました。
 裁判を、経済力のある者が、表現行為を封じ込める恫喝として利用するというスラップ訴訟に対し、反撃訴訟で、要件の厳しい濫訴の違法性が確実に認められたことは、とても貴重な成果だと認識を新たにしました。
 この書籍の発刊も、今後のこのようなスラップ訴訟の抑止に寄与するものと思っており、書籍作成に尽力された澤藤先生、弁護団の先生に敬意を表します。

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拝見して,スラップ恫喝訴訟との闘いの意義,その方法は何か,それについての実例を通して,光前先生の的確な解説を含めて,教科書とも言うべき著作だと思いました。そして,「自由・民主主義・平和,そして反権力・反権威」を「身体の組成」とする先生の信念にもとづく熱い本で,その訴える力も大きなものでした。権利のための闘争がすべての市民にとって倫理的義務であり,ひいては民主国家の法秩序を守る正義の戦いであるという「権利のための闘争」ということを思い出します。
 この本が広く読まれて,スラップとの闘い,表現の自由,権力者に対する批判が萎縮することのないことを期待するところ大です。

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 不当な圧力に屈せず戦い抜く、というのは言うのは簡単です。
でも実行するのは大変。
 特に攻撃の対象その人は、自分が負けるわけにいかないから本当に大変。
私が被告になったら、闘い切れるかしらと思います。
 6年8カ月の長いあいだ、本当にご苦労さまでした。

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 帯に書かれた「ある日突然に民事訴訟の被告になった」という一言に、“被告になるのはたいてい「突然」なのでは?”と最初は思いました。しかし読み進めると、ほんとうに異常な突然の脅しがあったとことに驚きました。
私がスラップという用語に接するようになったのは、TPP反対運動を通してだったと思います。
 旧モンサントなどの多国籍企業が、自らのすすめる戦略に従わない農家に対してスラップを乱発するというような話でした。
 海外での話だという印象が強かったのですが、いただいた著作を読み、これほど身近に迫っているものかと驚きました。
 「表現の自由」についての考え方は、相手を傷つけることに慎重な若い世代ほど判断に迷うことが多いようにこの間に感じています。この点、「フランス人権宣言第四条の古典的な定義は、この局面では不正確」という指摘は腑に落ちるものがありました。
 さまざまな事件がおこる中で、私は「吉田・渡辺ワイロ事件」のその後については気にも留めずにすごしていました。結果として、これほど巨額のワイロを当事者が公言しスラップまで乱発したにもかかわらず吉田・渡辺が娑婆で過ごしていることに改めて驚きと怒りを感じました。

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 DHCという企業の体質については、私の周辺では、この何年かは、ワイロ事件よりもヘイトクライムの点が話題になっていたように思います。
私自身、食の安全や農業・健康という分野に携わる運動にかかわっていますが、DHCや旧モンサント、武富士などが共通してスラップという形をとることに背筋凍る思いがします。
 いずれも消費者運動にかかわる分野にスラップが向けられるというのは、構造的な問題があるのでしょうか。
 社会運動全体としては「対『政治』」が多く、そこに様々な弾圧が加えられるのでしょうが、こと消費者運動は「対『企業』」であることからスラップの標的になりやすいということになるのかという印象を持ちました。
そういう意味で、本書で示された中身が、非常に身近に感じられました。
 貴重な著作をいただきありがとうございました。
 また折に触れて読み返すことになることかと思います。

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DHCスラップ訴訟 スラップされた弁護士の反撃そして全面勝利

著者名:澤藤統一郎
出版社名:日本評論社
発行年月:2022年07月30日

≪内容情報≫
批判封じと威圧のためにDHCから名誉毀損で訴えられた弁護士が表現の自由のために闘い、完全勝訴するまでの経緯を克明に語る。

【目次】
はじめに
第1章 ある日私は被告になった
1 えっ? 私が被告?
2 裁判の準備はひと仕事
3 スラップ批判のブログを開始
4 第一回の法廷で
5 えっ? 六〇〇〇万円を支払えだと?
6 「DHCスラップ訴訟」審理の争点
7 関連スラップでみごとな負けっぷりのDHC
8 DHCスラップ訴訟での勝訴判決
9 消化試合となった控訴審
10 勝算なきDHCの上告受理申立て
【第1章解説】
DHCスラップ訴訟の争点と獲得した判決の評価 光前幸一

第2章 そして私は原告になった
1 今度は「反撃」訴訟……なのだが
2 えっ? また私が被告に?
3 「反撃」訴訟が始まった
4 今度も早かった控訴審の審理
5 感動的な控訴審「秋吉判決」のスラップ違法論
【第2章解説】
DHCスラップ「反撃」訴訟の争点と獲得判決の意義 光前幸一

第3章 DHCスラップ訴訟から見えてきたもの
1 スラップの害悪
2 スラップと「政治とカネ」
3 スラップと消費者問題
4 DHCスラップ関連訴訟一〇件の顛末
5 積み残した課題
6 スラップをなくすために
【第3章解説】
スラップ訴訟の現状と今後 光前幸一

あとがき
資料(主なスラップ事例・参考資料等)

DHCスラップ訴訟|日本評論社 (nippyo.co.jp)

統一教会と安倍晋三との癒着の実態解明こそが切り込むべき本丸である。

(2022年8月17日)
 風の動きが目まぐるしく変わる。あのとき、今日の風は読めなかった。明日の風はどうなることやら。

 7月8日、安倍晋三が銃撃を受けたとの報は衝撃だった。一瞬のことではあったが、政治的テロの時代到来かという暗澹たる思いを拭えなかった。何よりも、模倣犯や報復テロが続くことを危惧した。ややあって、「悲劇の政治家安倍晋三」という偶像化と参院選への影響を心配した。そのような風が吹いてきたのだ。

 右から左への強い風が吹くなかでの参院選の投票日を迎えた。自民党とりわけ右派にとっての追い風、野党には逆風の厳しい選挙。案の定、与党が圧勝し野党は大きく議席を減らした。余勢を駆って、岸田内閣は安倍国葬を決めた。この風向きに乗じて、さらにこの風を確固たるものにしようとの思惑からである。

 この風は、安倍と安倍政治を美化する方向に吹いていた。安倍の政治路線に国政を引き込み、憲法改正も実現させかねない風となっていた。

 ところが、この風は長く続かなかった。安倍晋三を銃撃した犯人の動機や背景が明らかになるに連れて、風はおさまり吹きやんだ。のみならず、やがて風向きが変わった。今度は、左から右へ。まったく逆方向への返し風。

 安倍銃撃の衝撃に震撼した世論は、容疑者の安倍銃撃の動機報道に再び驚愕することになる。そして、あらためて統一教会というカルトの所業の悪辣さを思い起こし、その統一教会と安倍晋三との癒着の深さを知ることになった。こうして被害者であった安倍を悼む世人の心情は急激に冷めた。むしろ、安倍は、統一教会という反社会的団体と癒着する《反共右翼で権謀の政治家》というイメージを深く刻印されることになる。当然のことながら安倍国葬反対の世論が台頭し、過半を制した。

 思いがけぬ事態に慌てた岸田内閣は、統一教会対策を主眼に内閣改造を前倒した。8月10日注目の中で発足した「統一教会関係者隠し」人事は失敗し政権への逆風は却って強くなった。

 8月12日には、岸田改造内閣の副大臣と政務官計54人の顔ぶれが決まった。統一教会と接点をもっていた者は登用しないという触れ込みだったが、これも完全に期待を裏切り、教団と自民党全体との深刻な癒着関係があらためて国民に印象づけられた。杉田水脈の政務官採用など、今の時期にあり得ない「安倍人脈」への配慮優先が不信感を増幅させた。

 現在、統一教会と自民党議員との関係に向けて、厳しい風が吹いている。これは外堀を埋めている段階。衆院議長細田博之も、国家公安委員長を務めた山谷えり子も、文科大臣を務めた下村博文も、そして萩生田光一も、井上義行も、杉田水脈も、外堀に位置する。その風が、いま本丸に近づきつつある。統一教会と安倍晋三との癒着こそが本丸であり天守閣である。ここに切り込まねばならない。

 ジャーナリズムの諸賢にお願いしたい。これから、本丸を攻めなければならない時期に来ている。そうして初めて、政権が安倍晋三を通じて統一教会をどのように擁護していたのかも、明確にすることができるだろう。既に、安倍晋三は世にない。安倍晋三に近い位置にあった人々も、安倍に対する忖度は不要となつている。徹底して、真相を明らかにしていただきたい。そのことによって、安倍国葬は撤回を余儀なくされ、日本の民主主義は再生することになる。

 なお、統一教会と安倍晋三を結ぶものは、反共という黒い糸である。反共という大義を共通にする統一教会と安倍晋三、この両者のイデオロギーの交流も明るみに出していただきたい。

 是非とも今、この風向きが変わらぬうちに。

「全国戦没者追悼式」での岸田文雄式辞全文解説

(2022年8月16日)
 昨日(8月15日)は終戦記念日だった。「敗戦記念日」と称すべきとの意見もあるが、私は「終戦記念日」でよいとする。敗戦したのは天皇制国家であって、民衆ではないからだ。心ならずも戦禍に巻き込まれ、あるいは洗脳されて戦争に協力した国民の側からは、ようやくの終戦というべきだろう。

 その終戦記念日には、毎年「全国戦没者追悼式」が行われる。このネーミングがはなはだよくない。「全戦争被害者追悼式」とすべきであろう。本来、「戦没者」とは戦陣で倒れた者である。従って、どうしても軍人・軍属の戦死・戦病死者を連想する。靖国に合祀される死者と重なる。

 1963年5月14日の閣議決定「全国戦没者追悼式の実施に関する件」以来、「本式典の戦没者の範囲は、支那事変以降の戦争による死没者(軍人、軍属及び準軍属のほか、外地において非命にたおれた者、内地における戦災死没者等をも含むものとする。)とする」とされてはいるが、どうしても民間戦争被害者の追悼は隅にやられるイメージを免れない。もちろん、「敵」とされた国の犠牲者への配慮は微塵もない。

 昨日の式典での岸田文雄首相式辞全文を紹介して私の感想を述べておきたい。

 「天皇皇后両陛下のご臨席を仰ぎ、戦没者のご遺族、各界代表のご列席を得て、全国戦没者追悼式を、ここに挙行いたします。」

 式辞の冒頭に、遺族を差し置いての「天皇夫婦のご臨席を仰ぎ」は主客の転倒、順序が逆だ。戦没者にも遺族にも失礼極まる態度ではないか。天皇を主権者国民が「仰ぐ」もおかしい。そもそも、国民を死に至らしめた戦犯天皇(の末裔)をこの席に呼んでこようという発想が間違っている。呼ぶなら、謝罪を要求してのことでなければならない。

 「先の大戦では、300万余の同胞の命が失われました。」

 先の大戦で失われた命は、300万余の同胞のものにとどまらない。300万余の同胞によって失われた近隣諸国の民衆の命もある。その数、およそ2000万人。日本の軍隊が外国に侵略して奪った命である。ちょうど、ロシアがウクライナに侵略して、残虐に無辜の人の血を流したごとくに。被害だけを語って、加害を語らないのは不公正ではないか。

 「祖国の行く末を案じ、家族の幸せを願いながら、戦場に斃(たお)れた方々。戦後、遠い異郷の地で亡くなられた方々。広島や長崎での原爆投下、各都市での爆撃、沖縄における地上戦など、戦乱の渦に巻き込まれ犠牲となられた方々。今、すべての御霊(みたま)の御前(おんまえ)にあって、御霊安かれと、心より、お祈り申し上げます。」

 なんと、自然災害の犠牲者に対する追悼文のごとくではないか。戦争は人間が起こしたものであって、その大量の殺人には理非正邪の判断が必要であり、無惨な死の悲劇には責任が伴う。その追及を意識的に避けるがごとき語り口ではないか。この犠牲の責任を明確にせずしては、「御霊安かれ」は実現しない。遺族も安心できようがない。

 「今日、私たちが享受している平和と繁栄は、戦没者の皆様の尊(たっと)い命と、苦難の歴史の上に築かれたものであることを、私たちは片時たりとも忘れません。改めて、衷心より、敬意と感謝の念を捧げます。」

 これは戦没者追悼の常套句だが、警戒が必要だ。この言い回しには巧妙な仕掛けがある。「今日、私たちが享受している平和と繁栄」は、「戦没者が命を懸けて戦った成果」としてあるものではない。「戦没者の皆様の尊(たっと)い命と、苦難の歴史の上に築かれたもの」という式辞は、誇張ではなく嘘である。歴史的事実としては無条件敗戦の事態を迎えて戦没者の死は無に帰した。しかし、生存した者が戦争とはまったく異なる方法で国家を再生し「今日、私たちが享受している平和と繁栄」を作りあげたのだ。戦死者たちが夢想もしなかった、「国体の放擲」「民主主義」「人権」にもとづく平和と繁栄である。

 とすれば、戦死は余りに痛ましい。その死の痛ましさ、無意味さを見つめるところから、戦後の平和と繁栄の本質を考えなければならない。が、決して政府がそう言うことはない。ときの社会と権力者が望むとおりに、命を捨てた者を顕彰しなければ、次ぎに必要なときに、国民を動員することができない。そのために、戦後の政権は戦死を美化し続けた。岸田も同じである。

 「未(いま)だ帰還を果たされていない多くのご遺骨のことも、決して忘れません。一日も早くふるさとにお迎えできるよう、国の責務として全力を尽くしてまいります。」

 それこそ、白々しい嘘だ。沖縄南部の激戦地には、「未だ帰還を果たしていない多くの遺骨」がある。政府は、この遺骨を含む土砂を辺野古新基地の埋立に使おうとしている。まずは、辺野古新基地建設工事の続行をやめよ。

 「戦後、我が国は、一貫して、平和国家として、その歩みを進めてまいりました。歴史の教訓を深く胸に刻み、世界の平和と繁栄に力を尽くしてまいりました。」

 これも不正確だろう。「戦後の保守党・保守政権は、一貫して、日本国憲法を敵視し、大日本帝国憲法への復古を目指してきましたが、国民の間に広範に育った平和を望む声に阻まれて、改憲も戦争も実現せずに今日に至っています」が正しい。

 「戦争の惨禍を二度と繰り返さない。この決然たる誓いをこれからも貫いてまいります。未だ争いが絶えることのない世界にあって、我が国は、積極的平和主義の旗の下、国際社会と力を合わせながら、世界が直面する様々な課題の解決に、全力で取り組んでまいります。今を生きる世代、明日を生きる世代のために、この国の未来を切り拓(ひら)いてまいります。」

 あらあら、ついに出た「積極的平和主義」。これは安倍造語、その正確な意味は「積極的に軍事力を増強し積極的な外国への軍事侵攻も躊躇しない、積極的な軍事活用による平和」ということ。これで切り拓かれる日本の未来はたいへんなものとなる。

 「終わりに、いま一度、戦没者の御霊に平安を、ご遺族の皆様にはご多幸を、心よりお祈りし、式辞といたします。」

 私も終わりに、いま一度、言っておきたい。「戦没者の御霊に平安を、ご遺族の皆様にはご多幸を」は、この国が次の戦没者を作らねばならないときのための準備なのだ。真の意味で戦没者の死を意義あらしめるためには、戦争の悲惨さと非人道性を徹底して明らかにし、天皇を筆頭とする戦争犯罪者の責任を、国民自身の手で明らかにしなければならない。そうして初めて、本当の積極的平和が実現し、「戦没者と遺族の平安」がもたらされることになろう。

兵営で迎えた亡父の8月15日

(2022年8月15日)
 この夏、父盛祐と母光子の遺作を集めて追悼歌集を作った。B6版で88ページ、パンレット程度のものだが、できあがってみると感慨一入である。印刷製本は「株式会社 きかんし」にお願いしたもの。数年前に、兄弟4人で作ることを決め、次弟の明(元・毎日新聞記者)が選句し編集していたが、昨夏突然に没した。そのあとを三弟の盛光が完成させた。明の遺した歌も入れ、編集後記は生前に明が書いた通りのものとなった。

 歌集の題は、「草笛」という。父の冒頭の一首からとった。

  校庭の桜の若き葉をつまみ草笛吹きし少年のころ

 1914年生れの父と15年生れの母の人生には、戦争が大きく関わっている。父の回顧の歌には召集されての兵役の生活を詠んだものが多い。その中から、終戦時の歌を紹介したい。父は、2度目の召集で配属された弘前の聯隊で終戦を迎え、同年9月12日に召集解除・除隊となっている。

  玉音放送畏め受くと兵われら直立不動に姿勢正せり

  玉音はさだかならねどポツダムの宣言受くと宣らしたるらし

  玉音放送終る即ち兵ぬちに湧き立つ号泣嗚咽の声も

  神風が吹くなど言いし妄想はついにあえなく潰え去りたり

  召集にまた徴用に閲したる七有年の意義は何ぞも

  わが前に南に征きし部隊はも沖縄沖に沈みしと聞く

  もし敵が攻めきたりなば詮はなし肉弾のみと隊長は言う

  朝早く刀振る性となりており戦い敗けて日は経たれども

  菊の紋刻せし銃を廃品の如くに捨てて隊を解きたり

  兵われが人を撃つなく斬りもせで戦さ止みしはみ恵みなるよ

  妻と子が日ごと詣でし氏神に無事の帰還を礼申しける

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 なお父は、1941年8月から翌年11月まで、当時の満州国黒河省愛琿(アイグン)守備隊の兵営にあって、その頃の軍隊生活の歌が多い。いくつかを掲載しておきたい。

  新妻と語るいとまもあらなくに大陸指して海渡りゆく

  足音をしのばす如く兵どちが輸送列車に乗せられし夜

  わが軍の機密漏れじと汽車の窓夜昼閉じて指すは北満

  アンペラを敷きたる貨車に揺られつつゆさぶられつつ幾日過ぎけむ

  妻の文開くに惜しく背嚢に秘めて炎熱の行軍に発つ

  一杯の水で顔ふき口すすぎ今日も炎天の演習に発つ

  行軍の小休止にも故郷の家族のことを語り合いにき

  陽炎の原を這いつつ幾百里かなた故郷の空を思えり

  北満の昼は灼熱夜に入ればよろず声なき厳寒の底

  夜深み空襲警報と聞きたるは狼の群の遠吠えなりき

  暁になりて知れりと立哨のまわりに狼の足跡あるを

  朝おそく昇りし陽早やうすづきて演習の野に寒気せまり来

  小休止のうたた寝終えて目ざむれば防寒外套に霜の立ちおり

  対岸のソ連の動きただならず厳戒せよと命をうけたり

  黒竜江(アムール)に氷の張れば危ぶめりソ連の軍が襲いこずやと

  指揮官の過ちありて水死せる屍(かばね)ならべり十余の兵の

  大太鼓叩くが如くとどろかせ黒竜江(アムール)の氷ひび割れにつつ

  一木も無き野に伏すときいぶかしもみんみん蝉の鳴くが聞こゆる

  蝿ほどの蝉を見しかば絵にかけり妻へ宛てたる軍事葉書に

  三味線を持ち込みきたり演芸に津軽ジョンガラ弾く兵のあり

  「休日」と小店に貼れる文字だに美しかりき文字の国にて

  足に合う軍靴さがせばどなられき靴に足を合わせるのだと

  動作にぶく気回らずて古兵からとられしビンタ幾つなりしか

  時過ぎて還らぬ兵あり捜さむと戦友(とも)の出でゆく暗き雪夜に

  黒竜江(アムール)ゆ昇りて大き仲秋の血の色の月を二度仰ぎける

宗教的な熱狂の政治との結びつきは危険である。天皇教もオウムも、そして統一教会においても。

(2022年8月14日)
 統一教会をめぐる一連の議論の中で、「この団体は本当に宗教団体なのか、実は反共を掲げる政治団体に過ぎないのではないか」という疑問が散見される。もちろん、このような団体に「信教の自由」を口にする資格があるのか、という問題意識を伏在させての疑問である。

 しかし、結論から言えば、統一教会(ダミーやフロントも含めて)とは、「宗教団体でもあり、政治団体でもある」と言わざるをえない。もっとも、宗教団体性を認めたところで、刑事的民事的な違法行為が免責されることにはならない。この点での宗教団体の特権はあり得ない。

 問題は別のところにある。宗教団体でもあり同時に政治団体でもある統一教会の、宗教性と政治性の結びつき方がきわめて危険なものと指摘されなければならない。

 宗教的な熱狂は、時として信仰者の理性を麻痺させる。場合によっては圧殺もする。理性を喪失した信者が宗教指導者に心身を捧げ、宗教指導者がその信者を政治的な行動に動員する。場合によっては犯罪行為や軍事行動にまで駆りたてる。このような宗教の俗世への影響は、古今東西を通じて人類が経験してきたことであって、統一教会もその一事例である。

 宗教的熱狂が信者を支配して反社会的行為に駆りたてるその小さな規模の典型を最近はオウム真理教事件で見たところであり、大きな規模としては天皇教という宗教が大日本帝国を支配した成功例から目を背けてはならない。

 明治政府が作りあげた天皇教(=国家神道)は、天皇とその祖先を神とする宗教であり、同時に天皇主権を基礎付ける政治思想でもあった。現人神であり教祖でもあった天皇は、同時に政治的な統治者ともされた。大日本帝国は、日本国民を包括する狂信的宗教団体であり、その狂信に支えられた統治機構でもあり、さらに排外的な軍事的侵略組織でもあった。

 恐るべきは、国民の精神を支配した天皇教の残滓がいまだに十分には払拭されぬまま、今日にも生き残っていることである。その典型を小堀桂一郎という人物の言説に見ることができる。この人、常に「保守の論客」として紹介される、東京大学名誉教授である。

 真面目に読むほどの文章ではないが、一昨日(8月12日)の産経・正論欄の「この夏に思う 終戦詔書の叡慮に応へた安倍氏」という記事を紹介したい。
 この表題における「安倍氏」とは、国葬を予定されている安倍晋三のこと。「叡慮」とは、敗戦の責任をスルーした天皇裕仁の「考え」あるいは「気持」、ないしは「望み」であろうか。その、ばかばかしい敬語表現である。「応へた」は、誤字ではない。これもばかばかしい、旧仮名遣いへのこだわり。結局、「安倍晋三とは、裕仁の期待に応えたアッパレなやつ」というのがタイトル。

 少しだけ抜粋して引用する。洗脳された人間の精神構造の理解に参考となろうからである。なお、このような、もったいぶった虚仮威しの文体は、内容の空虚を繕うためのもの。このようにしか書けない人を哀れと思わねばならない。

 「昭和20年8月14日付で昭和天皇の「終戦の詔書」を奉戴(ほうたい)した事により辛うじて大東亜戦争の停戦を成就し得てから本年で77年を経た。
 この日が近づくと自然に思ひ浮ぶのは、言々句々血を吐く如き悲痛なみことのりを朗読されたあの玉音放送である。承詔必謹の覚悟の下に拝聴した詔書の結びの節をなす<…総力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤(あつ)クシ志操ヲ鞏(かた)クシ誓テ国体ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運ニ遅レサランコトヲ期スヘシ>のお訓(さと)しに対し、我々は胸を張つてお答へできるだらうか、と自問してみる事から戦後史の再検証は始まる」

 「あの詔勅の核心をなす叡慮(えいりょ)に背く事の多い、恥づべき歴史を国民は辿(たど)つて来たのではないか、と慙愧(ざんき)の思ひばかり先立つ一方で、ふと思ひ返すと去る7月8日に何とも次元の低い私怨から発せられた凶弾を受け、不条理極まる死を遂げられた安倍晋三元首相の存在が俄(にわ)かに思念の裡(うち)に甦(よみがえ)つて来た。
 安倍氏は疑ひもなく戦後の我が国に現れた政治家の中で最大の器量と志を有する人だつた。詔書に謂(い)ふ「世界の進運」に大きく寄与する事を通じて国体の精華を発揚する偉業を成し遂げた人である。氏にはまだ自主憲法の制定、皇位継承の制度的安定化といふ必須の大事業が未完のままに残されてをり、この二つを成就するための再登場が期待されてゐたのであるから、その早過ぎた逝去は如何(いか)に惜しんでも惜しみ足りない我が国の運命に関はる悲劇である。」

 以下、小堀の「皇国史観」「排外ナショナリズム」「軍事大国化願望」「反中論」が臆面もなく綴られる。「平成4年には宮沢喜一内閣が、我が天皇・皇后(現上皇・上皇后)両陛下に御訪中を強ひ奉るといふ不敬まで敢(あ)へてした。」などというアナクロニズムまで語られている。

 何しろ、「天皇のお訓(さと)しに対し、我々は胸を張つてお答へできるだらうか、と自問してみる事から戦後史の再検証は始まる」という、嗜虐史観。この人にとっての天皇は、オウム信者にとっての麻原彰晃、統一教会信者にとっての文鮮明と基本的に変わるところのない、聖なる存在であり、絶対者なのだ。

 このような偏狭な天皇教信者の精神構造は、日本国憲法の理念を受容し得ない。そんな人が、統一教会とのズブズブを批判されて窮地に立つ安倍や岸田を援護のつもりの論稿なのだろうが、逆効果が必至。何とも虚しい。

 確認しておこう。宗教的な熱狂は、時として信仰者の理性を麻痺させ、反社会的な行為に走らせる。この危険に敏感でなくてはならない。天皇教においても、オウムにおいても、そして統一教会においても

安倍晋三とは、醜悪な統一教会との癒着政治家の筆頭である。その国葬はあり得ない。

(2022年8月13日)
 産経新聞の「主張」(社説)には、その芬々たる産経らしさが鼻について違和感を覚えることが常である。が、昨日(12日)の「主張」(以下に抜粋)には、産経色が希薄で何とも常識的な内容。読むのに違和感がない。産経さん、いったいどうなっちゃったの?

【主張】政治と旧統一教会 疑惑の教団と一線を画せ – 産経ニュース (sankei.com)

 表題は、「政治と旧統一教会 疑惑の教団と一線を画せ」というもの。「一線を画せ」と注意をうながされているのは、文脈からは政権であり与党である。ふ?ん、産経までそう言うんだ。

 「政府や政治家は、疑念を払拭できない教団とは明確に一線を画すべきである。まっとうな政治活動や政策まで白眼視される状況を深刻に受け止めなければならない。国民の信用、信頼を失えば、政治は前に進めない。

 第2次岸田改造内閣が発足した。岸田文雄首相が旧統一教会との関係の有無を点検するよう指示し、『結果を踏まえて厳正に見直すよう厳命し、了解した者のみを任命した』と述べた陣容である。

 同じ日、都内で会見した旧統一教会はこうした任命基準について『誠に遺憾』と述べた。だが、過去に霊感商法や洗脳による合同結婚式、高額の寄付などで多くの被害者を出した教団と明確に一線を画すべきは当然である。

 複数の新閣僚からも旧統一教会との関係が報告された。国際勝共連合が旧統一教会の関連団体とは知らなかった―との弁明には耳を疑った。事実なら、政治家として不勉強、無知も甚だしい。

 勝共連合は当初、反共を旗印に自民党右派や右翼団体と接触を図った。これは歴史的事実である。目的が近い団体との接近は自然なことだったろうが、表裏一体の教団による霊感商法などの反社会的活動が明らかになった時点で関係を断つべきだった。(以下略)」

 産経らしさといえば、統一教会と自民党との癒着を「反共という目的が近い団体との接近は自然なことだったろう」と、過去のことのようにサラリと軽く流した表現をしている程度のこと。さすがに、下記のようには言わない。あるいは言えない。

 「反共という大義を共通にする統一教会と自民党である。ともに手を携えて当然ではないか。とりわけ自主憲法制定を党是とする自民党の政策を統一教会が積極的に支援していることは、大局的見地から評価を惜しんではならない。統一教会側も会見で『当法人が霊感商法を行ったことは過去も現在もない』と述べていることでもあり、性急に両者の断絶を求めるのは禍根を残すことにならないか」

 産経も、「疑惑の教団と一線を画せ」といわざるを得ない統一教会である。その教団の疑惑を十分に知り尽くしていながら、なお一線を越えて醜悪な癒着の関係を築いた政治家の筆頭が安倍晋三である。いま、何よりも問題にすべきは、そのような醜悪な政治家・安倍晋三の国葬が強行されようとしていることである。

 岸田内閣は、新閣僚人事について、「旧統一教会との関係の有無を点検するよう指示し厳正に見直すよう厳命し」たという。それなら同様に、統一教会と安倍晋三との癒着の関係を徹底調査して、国葬の閣議決定を早急に「見直す」べきがスジではないか

 なお国葬の強行に固執しようということでは、政権の命運は危うい。産経主張の冒頭の一文を噛みしめるべきである。
 「政府は、疑念を払拭できない統一教会とは明確に一線を画すべきである。安倍国葬に固執するあまり、まっとうな政治活動や政策まで白眼視される状況を深刻に受け止めなければならない。国民の信用、信頼を失えば、岸田政権の前途はない」

おかしくないか。「統一教会との関係は見直すが、国葬の方針は見直さない」

(2022年8月12日)
 以下は官邸ホームページからの抜粋。組閣を終えての首相記者会見の一部。岸田はこう述べている。あるいは、こうとしか述べていない。このことを記憶しておかねばならない。

令和4年8月10日 岸田内閣総理大臣記者会見 | 総理の演説・記者会見など | 首相官邸ホームページ (kantei.go.jp)

 いわゆる旧統一教会に関連する問題について申し上げます。
 …信教の自由については憲法上保障がなされているものでもあります。しかし、社会的に問題が指摘されている団体との関係については、国民に疑念を持たれるようなことがないよう十分に注意しなければなりません。
 国民の皆さんの疑念を払拭するため、今回の内閣改造に当たり、私から閣僚に対しては、政治家としての責任において、それぞれ当該団体との関係を点検し、その結果を踏まえて厳正に見直すことを言明し、それを了解した者のみを任命いたしました。
 その上で、2点の指示をいたしました。
 第1に、憲法上の信教の自由は尊重しなければなりませんが、宗教団体も社会の一員として関係法令を遵守しなければならないのは当然のことであり、仮に法令から逸脱する行為があれば、厳正に対処すること。
 第2に、法務大臣始め関係大臣においては、悪質商法などの不法行為の相談、被害者の救済に連携して、万全を尽くすこと。これらを岸田政権として徹底し、国民の皆さんから信頼される行政運営を行ってまいります。

 これに対する記者からの質問時間が限られまことに歯がゆかったが、以下の2記者の質問(抜粋)は、国民の疑問を代表するものであった。

(記者)東京新聞・中日新聞の金杉です。旧統一教会の問題についてお聞きします。首相は、この社会的に問題が指摘されるような団体との関係については十分注意しなければならないと発言されました。(しかし、)自民党は党として組織的関係はないとして各議員任せの対応で、党としての全体調査を行わないようですが、世論調査では政界との関わりについて実態解明の必要があるとの答えが8割に上っています。党総裁として、党として調査し検証し実態を解明する考えはありますか。
 そして、選択的夫婦別姓やLGBTへの対応、改憲の内容など、旧統一教会と自民党の考えが重なるとの指摘もあります旧統一教会が自民党の政策に与えた影響についてどう考えますか。
 また、安倍晋三元首相は、旧統一教会の友好団体の会合にビデオで出演し、韓(ハン)総裁に敬意を表していました。この行動は問題があったと思いますか。

(記者)京都新聞の国貞と申します。安倍元総理の国葬についてお伺いします。各報道機関の世論調査などを見ていますと、反対の声というのが比較的多く、半数を超える人が反対というような世論調査もあります。全額公費負担することへの疑問の声も聞かれるわけです。
 なぜ反対の声が一定程度あるのかということについて、総理はどのようにお考えなのかということを一つ聞きたい。
 そして、もう一つ。近年の首相経験者のように内閣と自民党の合同葬にするとか、別の形での葬儀実施について、もう総理には検討の余地はないのでしょうか。

 ここから先は、官邸ホームページに記載されたものではない。岸田も口にしていない。飽くまで、これが岸田のホンネだろうという私の憶測である。が、決して荒唐無稽なものではない。

(岸田総理)
 まず、自民党と旧統一教会との関係については、御指摘のとおり、組織的関係はないという認識を従来から示させていただいています。組織的関係とは、内実の関係と必ずしも一致するものではありませんから、国民の皆様の目には、ズブズブの癒着とみられてもやむを得ないところです。このままでは、内閣支持率は下がるばかり。何とかしなければなりません。とは言え、諸々の事情があって、これまでお世話になりながら、突然失礼なこともできかねますし、それなりの配慮も欠かせないところです。
 そのような観点から、党所属国会議員に対し、政治家としての責任において、当該団体との関係をそれぞれ点検し、その結果も踏まえて適正に見直す、こういった指示を行ったところであります。つまり、「統一教会との関係を断て」ということではなく、飽くまで「適正に見直す」ようにということです。「適正」とは、党や政権に迷惑がかからぬように工夫せよ、用心せよということ。多分それで、今後も統一教会には選挙の折などに貴重な手助けを得ながら、国民の批判をうまく切り抜けられると考えています。
 そして、統一教会の考え方が自民党の政策に影響を及ぼしたのではないか、こういった指摘でありますが、旧統一教会の政策が不当に自民党の政策に影響を与えたとは認識はしておりません。飽くまで、両者が同じ政治的見解を共有していたということなのです。とりわけ、統一教会は「反共」を掲げる点で、岸信介氏や安倍晋三氏と深い同志的関係にあったのですから、統一教会が一方的に自民党に影響を与えたのではなく、相互に思想も政策も深く共鳴し合ってきたものです。選択的夫婦別姓やLGBTへの対応、改憲内容の一致などは、そのような共鳴関係の所産の一部だとご理解ください。
 そして、安倍元総理がビデオメッセージを送ったということにつきましては、公式なコメントはスルーせざるを得ません。そりゃあ、安倍さんまずいことやったに決まっていますよ。でも、その人の国葬をやろうというのですから、まずいことやったなんて言えるはずはない。その点はご了解を。
 敢えていうなら、このメッセージは、当時の安倍元総理が常々考えておられるところを吐露されたものと理解しております。とうてい、統一教会との関係を断ち切れなどということは無理。でも、今後は国民にの皆様にはできるだけ早く忘れていただくよう、手立てを尽くしたい。それが「見直し」の目的であると認識しております。

(岸田総理)
 安倍元総理の国葬儀については、御指摘のようにいろいろな意見があるということ、これは承知をしております。国費からの支出についても御指摘がありましたが、国葬儀の具体的な規模、あるいは内容については、今、正に検討中であります。こうしたものもしっかりと明らかにしながら、今後様々な機会を通じて丁寧に説明を続けていきたい。これが政府の基本的な方針であります。
 ご質問の第一点は、「国民の中の国葬反対の声が大きくなっている理由をどのようにお考えなのか」ということですが、この質問はスルーです。私は都合の悪い質問は聞こえない振りをしてお答えしないことにしています。これもその一つ。
 だってね、答えようがない。「そりゃ、安倍さんの生前の政治姿勢を冷静に国民が思い出してきたからでしょ」なんて言えますか。「安倍さんが銃撃されて亡くなるというその衝撃に乗じての国葬決定」「安倍さんへの批判はしにくい雰囲気の醒めないうちに国葬をやってしまおう」「国民意識の誘導に成功したはずが、思いもかけぬ統一教会問題が批判材料となっての安倍批判」「その安倍批判が、自民党批判や岸田内閣への批判へのとばっちり」なんて口にできるはずがない。だからスルー。
 そして、「国葬ではない別の形での葬儀の実施は検討の余地がないのか」というご質問。
 「国際社会が様々な形で安倍元総理に対する弔意や敬意を示している、こうした状況を踏まえまして、我が国としても故人に対する敬意と弔意を国全体として表す儀式を催し、これを国の公式行事として開催し、その場に各国代表をお招きする、こうした形式で葬儀を行うことが適切であると判断をしたところであります。」
 えっ? 記者さん、これじゃダメですかね。回答になっていないというお顔ですね。でも、時間がありません。今日はこれまで。
 いつか、またの日の、この次の機会に、きっと、できるだけ、丁寧に、しっかりと、ご納得のいくよう、ご説明をさせていただきます。本当に、かならず、この次の機会かまたはその次の機会に、今日ではなく。

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