澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

論争・靖国神社公式参拝の是非

公式参拝を「不当ではない」、あるいは「違法ではない」という推進派の論理は、類型化している。各パターンへの反論を整理してみたい。

(1) 「当たり前のことをしているだけだ」論
「英霊に尊崇の念を表するのは当たり前のこと」だろうか。死者に哀悼の念を表するのは当然の心情の発露だが、「英霊に尊崇の念を表する」のはけっして当たり前のことではない。英霊とは、皇軍将兵の戦没者の美称である。天皇への忠誠を尽くしての死が褒むべきものとされている。英霊ということばを発した瞬間に、天皇が唱導した聖戦として戦争が美化され、戦争への批判を許さないものとする。死を悼む心情へ付け入った戦争美化の手口である。英霊への尊崇の念を表するという公式参拝は、実は戦争の侵略性否定の試みである。

「自国のために命を落とした人に祈りをささげるのは日本人として当然のこと」であろうか。一般国民が、靖国神社以外の場所で、自分の流儀で同胞の死を悼むことは、それこそ自然の情の発露として何の問題もあろうはずがない。しかし、「国を代表する立ち場にある者」が、「靖国神社という天皇制国家と緊密に結びついた特定宗教施設」で、「祈りを捧げる」ことは、問題だらけである。英霊ということばを使わなくても、靖国神社という特殊な意味づけをされた場での、公的資格を持った者の、祈りは、現在の国家が、過去の戦争やその戦争による将兵の死に、靖国神社流の特定の意味づけをすることを意味する。その靖国流の意味づけは、政治的な批判の対象ともなり、政教分離原則に違反するものでもある。

「靖国神社を参拝し、国家、国民のために殉じた幾百万の尊い英霊に感謝を捧げることが、首相としての当然の責務である」。この言には、戦争への反省がない。国家の代表として、誤った国策によって国民に多大の辛苦をもたらしたことに対する謝罪がない。近隣諸国の民衆に対する加害責任の自覚も謝罪の気持も表れていない。戦前とまったく同じ「靖国史観」に固執している靖国神社への公式参拝は、他国から、「日本は侵略戦争をしたことを認めようとせず、何の反省もしていない」と非難されて当然である。「(国民のために殉じた幾百万の尊い英霊に感謝を捧げることは、)日本人が日本の伝統・文化に根ざした価値観を守り、日本人としての心を大切に伝え続けることにつながります」などと、余計なことを述べるのは、火に油を注ぐもの。

(2) 「個人の心の自由の問題だ」論
天皇や首相の場合はともかく、閣僚や国会議員の場合には、純粋に個人としての参拝はありうる。その場合は「個人の心の自由」の問題と認めざるを得ない。誰しも私人としての信仰の自由をもっているのだから。しかし、問題になるのは、これ見よがしに肩書をちらつかせ、マスコミへの露出を狙ってなお、「私人の行為」と言い抜けようとする場合に限られる。その参拝が純粋に私的なものかの厳格な見極めが重要である。記帳の肩書に公的資格を書き込めば私人の参拝とは言えない。公用車を使う参拝も、公費から玉串料を出す場合もである。ことさらにマスコミに肩書を露出する場合も問題で、軽々に私的行為と認めることはできない。

(3) 「どこの国だって同じことをやっている」論
どこの国も戦争犠牲者を追悼していると言うのなら、多分そのとおりだろう。しかし、そのことは靖国公式参拝を合理化する根拠にはならない。せいぜいが、「全国戦没者追悼式」の挙行を合理化するに足りる程度。
靖国神社は、近代日本が発明した特殊な軍事的宗教施設である。おそらくは近代以降の世界に類例を見ない。論者は、「どこの国だって」と言わずに、「同じことをしている国」を特定しなければならない。靖国神社の特徴は、戦前は軍の管轄する宗教施設として軍国主義の主柱をなしていたこと、戦後は一宗教法人となりながら戦前の史観を維持し続けていること、今なお戦没者の魂を独占して国家と関わりをもっていること、旧勢力と緊密に結びついて戦争を正当化していること、である。このような類似の例が他国にあろうはずはない

安倍晋三首相は靖国神社を米国のアーリントン国立墓地と同じだと言ったが、アーリントン国立墓地と靖国神社とは、その性格がまったく違う。なによりも、アーリントンは死者の魂を独占していない。遺族の選択に従って、望む者のみを埋葬する。埋葬に伴う宗教儀礼の方式は遺族の自由である。死者を神とすることによって戦死を名誉なものとし、戦争を正当化しようとする観念を持たない。これが、普通の国の在り方だろう。靖国神社の好戦的性格が特殊であり異常なのだ。このことは、ひととき遊就館を一回りすれば明瞭なことである。

(4) 「内政干渉を許すな」論
「戦没者をどのように追悼するかは純粋に国内問題だ。近隣諸国が靖国神社公式参拝を批判するのは不当な内政干渉だ」という論調が高まっている。被侵略国の民衆の批判に耳を傾けようというのではなく、声高にこれを排斥しようとしている。危険な徴候と憂えざるを得ない。

かつての被侵略国が、日本に対して侵略戦争を真摯に反省しているか、再びの脅威になることはないかに関心をもたざるを得ないことは当然のこととしてよく分かる。我が国は、近隣諸国に再びアジアの脅威になることがないことを態度で示し続けなければならない立場にある。近隣諸国にとっては、靖国神社公式参拝は、日本の反省と平和への姿勢が本物かどうかを確認する試金石である。しかも、靖国神社には後年に至って秘密裡にA級戦犯が合祀されたという経過さえある。靖国神社公式参拝とは、現在の国家代表が、神として祀られている過去の戦争指導者に額ずくという側面をもっているのだ。

近隣諸国の公式参拝批判を内政干渉と排斥しては、「日本の軍国主義復活」と指弾されかねず、我が国の国際協調主義の底の浅さを露呈するだけのこととなろう。

(5) 「靖国神社は宗教施設ではない」論
憲法の政教分離原則をすり抜けるために、「靖国神社は、宗教法人となってはいるが、憲法上の宗教ではない」「靖国参拝は、儀礼や習俗であって宗教性をもたない」という、暴論が散見される。

旧憲法28条は、「日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス」とされた。しかし、この条文で保障された「信教ノ自由」が、クリスチャンや仏教徒の靖国神社参拝強制を拒む根拠とはならなかった。そのための憲法解釈技術として、「神社は宗教に非ず」とされたからである。靖国神社参拝は「信教ノ自由」に属することではなく、「臣民タルノ義務」に属するものとされた。今、再びの靖国神社非宗教論も、公式参拝非宗教活動論も、馬鹿げた旧天皇制時代のこじつけ論法の再生に過ぎない。

なお、自民党の日本国憲法改正草案は、公式参拝に道を開くことを意識しての憲法20条3項改正案となっている。

(6) 「平和を祈念しているのに文句があるか」論
「靖国神社公式参拝を、軍国主義復活や歴史修正主義の顕れと短絡して理解することは、大きな誤りである。その反対に、国のために命を失った人とご遺族を慰めて、平和の尊さを確認し再び戦争をしない決意を披瀝するもの」。だから問題ない、という論法がある。

しかし、靖国神社が軍国神社であることは、いまさらどうにも動かしがたい事実である。歴史的に軍国主義の精神的主柱であり、国家神道の軍国主義的側面を担っていたというだけでなく、現在なお、戦争美化の靖国史観を持ち続けている。そこは、平和を語るにふさわしい場ではない。平和を誓うのにふさわしい機会ではない。国の代表が内外すべての戦争犠牲者に責任を認めて謝罪し、平和を語り、不再戦を誓うにふさわしい場所は、まずは国会である。あるいは国民的大集会でもよかろう。けっして靖国神社ではない。

靖国参拝は、軍国主義の鼓吹としか理解されない。平和を祈念しているとの強弁は通じないことを知るべきである。

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  ヒョウの「八紘」
ぼくはヒョウの「八紘」。なぜこんな名前をつけられたのか、たぶん予想がつくでしょう。そのとおり「戦争」です。1942年5月に中国の武漢に近い前線から、上野動物園に送られてきたんです。その1年前の春、まだ乳離れもしていないときに、日本の兵隊さんに捕まったんです。お母さんのいないときに、拉致されました。でも、捕まえた兵隊さんだけでなく、たくさんの兵隊さんが、僕を大変可愛がって育ててくれました。殺伐とした兵隊暮らしのなかで、僕は部隊のマスコットになったんです。名前は部隊の番号の8をとって、「ハチ」とつけてくれました。僕を捕まえた成岡さんとはずっと一緒に寝ていたぐらい仲良しでした。

でもそんな平和は続きませんでした。戦争ですもの。部隊は転戦しなければならなくなって、ぼくは遠い日本の上野動物園に送られてきたんです。
そこでは僕の名前は「ハチ」じゃなくて、厳めしい「八紘」になりました。中国で兵隊さんと一緒に戦ったヒョウだと宣伝されて、たくさんの人が僕を見に来ました。でも、いくらたくさんの人で賑やかでも、僕は寂しかったのです。

それから1年後の1943年8月に僕は死んで剥製にされました。毒の餌を食べさせられて殺されたのです。わけがわかりません、あんまりです。
それを知った成岡さんはとっても悲しんでくれました。幸い成岡さんは戦争が終わって日本に帰ってくることができました。そして、あちこち奔走して、僕を探し出して、引き取ってくれたのです。「あのまんま、洞窟の巣穴の中においたままにしておけばよかった、ごめんよ」と涙を流してくれました。

僕が死んでから70年もたちました。剥製の姿となった僕は、今高知子ども科学図書館にいます。夏休みでたくさんの子どもが来て賑やかです。なぜ僕がここにいるのか、事情を知ると子どもたちはみんな、気の毒でたまらないといってくれます。ぼくはひとりでも多くの子どもたちに、「戦争」の話をしようと思っています。
(2013年8月18日)

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Published in 日曜日, 8月 18th, 2013, at 23:50, and filed under 未分類.

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