靖国神社公式参拝推進論のホンネ
8月の、「6日・9日・15日」が終わった。終わったけれども、何かが変わったわけではない。もうしばらくの夏の終わりまで、戦争と平和にこだわりたい。本日も靖国問題を。
天皇や、首相・閣僚、自治体首長らの靖国神社公式参拝あるいは玉串料奉納について、推進派から積極的根拠を聴かされる機会はまことに少ない。ほとんどが「反対派がこう述べているが、それはおかしい」の類である。これだけの物議を醸しながら、敢えて公式参拝が必要だという積極理由をホンネではどう考えているのだろうか。
ホンネの第一は、「戦争美化論」である。「侵略戦争糊塗論」と言っても良い。これは靖国神社存立の根拠と緊密に関わる。戦死者を「英霊」と称え神聖な存在として祀ることによって、戦争を美化し、戦争に対する批判を封じ、同時に戦争を起こした国家の責任を回避しようとするものである。ここには、遺族感情や同胞の死に対する国民意識のあからさまな利用が意図されている。公式参拝は、くり返しの戦争美化確認の演出効果を狙ってのものである。
さらに、ホンネを語って最もあからさまなのが、「次の戦争準備論」である。中曽根康弘の「国のために倒れた人に国民が感謝を捧げる場所がなくて、誰が国に命を捧げるか」という、あの名言のとおりである。靖国神社は、「戦没者に国民が感謝を捧げる場所」であり、公式参拝は「国民の代表者が感謝を捧げるセレモニー」と位置づけられる。戦死を意味づけ、英雄視することによって、「次に国に命を捧げる人を得よう」というのだ。英霊の顕彰を通じての英霊再生産が目的なのだ。
そのバリエーションと言ってよいであろう。軍法会議厳罰発言で俄然注目の的となっている石破茂の次のように主張がある。「国家誓約説」とでも名付けようか。
「靖国神社を建立した際の政府の国民に対する約束はいかなる人であっても戦争で散華した人は靖国神社に祀られる。天皇陛下が必ずご親拝下さるという2点であったはず。第1の約束は概ね果たされてはいても、第2については所謂A級戦犯が合祀されて以来、果たされていない状況が続いている」
ここでは、天皇親拝が国家の国民に対する約束であり、その約束の履行として天皇親拜を実現する環境を整備しなければならないとする。この人の頭の中では、親拝を約束したとされる旧憲法時代の国家と、約束の履行をしなければならないとされる現行日本国憲法下の国家とが、切れ目なく連続している。いまだに、天皇親拝を実行しなければならないとする目的は、天皇を利用した戦争へむけての国民統合にあると言わざるを得ない。
以上は、国家の立ち場からのホンネであり、かつ靖国史観のホンネである。遺族感情利用の意図が透けて見えるが、けっして遺族の立場からのホンネではない。改憲して国防軍を創設しようという、自民党の今にこそふさわしいホンネであるが、それだけに今大っぴらに広言することははばかられる類のもの。
ホンネというには不適切だが、最も分かりやすい参拝目的の説明は、「遺族心情論」である。遺族と遺族に連なる人々にとって、社会が戦争や戦死者を忘れ去ること、戦死者の死の意味を否定しさることは耐えがたい精神的苦痛である。戦没者の氏名を霊爾簿に登載し、その一人ひとりを祭神として祀るとされている靖国神社に、国を代表する者が参拝することで、戦死者の霊はいくぶんなりとも慰められようし、遺族の気持ちも慰藉される。そのような遺族の心情に応えることが、天皇や首相らの公式参拝の目的だというものである。
「遺族心情論」に悪乗りした形の「選挙目当て論」ないしは「大衆迎合論」も分かりやすい。遺族会単体での集票力はかつてほどではないが、遺族と遺族を取り巻く人々、あるいは戦争に関わる記憶をもつ多くの人々の数は大きく、保守支持層の相当部分を占める。この層への保守政治家の支持取り付け策として公式参拝推進は格好のテーマである。ぞろぞろと、国会議員が集団参拝する所以である。
私は、「遺族心情論」こそが、靖国問題の核心だと思っている。靖国は確実に、このような遺族やその周囲の心情に支えられている。それあればこそ靖国も靖国派も根無し草ではなく、民衆に支えられている。違憲と言い、外交上かくあるべしと言ってもなかなか通じない。遺族の心情は無下に排斥しがたい点において、反靖国派はたじろがざるを得ない。ここが、靖国派の強みの源泉である。
しかし、ここが切所。感性の上では辛くても苦しくても、逃げることなく理性において遺族の心情に配慮しつつも、これと切り結ばなければならない。戦争を始めたのは国家ではないか、赤紙一枚で国民を戦場に狩り出したのも国家ではないか。「死は鴻毛より軽きと知れ」と国民の命を奪ったのは国家ではないか。そして、国家は、そのまま天皇と置き換えてもよいのだ。天皇を頂点とした国家こそが、かけがえのない国民一人ひとりの戦死に、責任を取らねばならない。その責任に頬被りしての戦死者の利用は許されない。
しかも、あの戦争は、自存自衛のための戦争ではなく侵略戦争であった。被侵略国の民衆が、日本が戦争を反省し再び戦争をしない国家に再生したのかどうかを見つめている。軍国神社靖国と国家の結びつきは、海外から見れば、軍国主義の復活と映るのだ。
靖国神社公式参拝に対しては、政治的な批判と法的な批判が可能であり必要である。政治的批判とは、公式参拝が国内政治や外交の観点から平和や民主々義に反することの批判である。その際のキーワードは、歴史認識となろう。先の戦争を侵略戦争と認めるか否かである。
法的な批判とは、憲法の政教分離原則に違反していることの論証である。憲法原則は、歴史的な反省に立脚してのものであるから、政治的な批判と法的な批判とは究極において一致する。ただし、政治的な批判は、「靖国史観」の体現者としての現在の靖国神社の実態に重きが置かれることになろうが、法的批判においては靖国神社や参拝・玉串料奉納の宗教性が問題であり、その論証は容易であると言えるだろう。
靖国を論じるたびに、心に引っかかりを感じる。靖国思想の最大の犠牲者である戦没者の遺族の心情に切り込まざるを得ないからだ。いわば、戦没者の魂と遺族感情が、靖国神社に人質に取られている状態なのだ。靖国問題の困難さはそこにある。それでもやはり、乗り越えねばならない困難なのだ。
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『兵士たちの戦後史』読後感
吉田裕の同書(岩波書店)は、読者の関心に応えて、多数の文献を手際よく引用して集大成した好著である。同書によれば、第二次大戦敗戦時に日本兵は、本土に436万人、海外に353万人いた。戦後、元兵士、復員兵に対する銃後の国民の冷ややかな蔑視、憎悪は想像を絶するものがあった。
軍神として歓呼の声で送られて、帰ってくればうって変わって、敗残兵、戦犯、やっかいの種という声が投げつけられた。飢えてすさんだ国民は、浮浪者、浮浪児、パンパン(米兵相手の売春婦)と一緒にして、復員兵を鬱憤晴らしの弱い者いじめの対象にした。「軍部」と「国民・天皇」という意識的に設定された2グループの間に、くさびを打ち込もうとするアメリカ軍の対日占領政策が、それを助長しお墨付きを与えた。
「敗戦の祖国はかくも憐れなり、英霊立てど席譲る人もなし」(古庄金治)
と復員兵は嘆いている。
その理由について、中国に7年間の従軍経験のある兵隊作家・伊藤桂一は次のように言っている。「私たち天皇の軍隊は、終戦後、武器なき集団として故国に帰ってきた。迎えてくれたのは、それぞれ近親者だけである。私たちは民族自身のために戦ったのではなかったから、祖国の土を踏んでも、祖国の人たちとまるで他人同士のようにしか接しなかった。前線も銃後も、ともに惨憺たる目にあいながら、互いをいたわり合うことさえしなかったのである。このようなみじめな負け方をした国は、古来歴史上にその例をみないだろう」(「草の海ー戦旅断想」文化出版局)
戦争を挟んでその前後の民衆意識の連続性について、「民衆は天皇・天皇制を存置した上での平和・デモクラシーを求めていた」「アジアに対する優越感、帝国意識も崩壊をまぬかれ、敗戦後も頑強に生き続けた」と、吉見義明は「草の根のファシズム」(東京大学出版会)で述べている。
田中宏巳「復員・引揚げの研究」(新人物往来社)は、南方からの帰還兵は襟章、階級章を剥いで海に投げ込んだが、「中国からの帰還兵には、自分たちは負けていなかったとして、襟章を外そうとしない者が多かった。敗れた軍隊にいた兵士には、襟章、階級章は敗戦、敗北の象徴であったが、一方で決着がつかなかった中国戦線の兵士たちにすれば、日本軍の襟章、階級章はむしろ誇りであったのだろう。」といっている。
こうした意識が敗戦後の国中に複雑に蔓延し、他人を思いやる心を失わせ、空虚な絶望感のただよう社会を作り出した。日本政府からも連合軍からも、意識的に見捨てられた朝鮮人や台湾人の軍人、軍属、従軍慰安婦などの立場を顧慮できるはずもなかった。なまじの経済発展がアジア諸国への優越感を助長した。そして未だに、植民地政策や蔑視の歴史的事実を認識したくない、思い出したくない、忘れたい、できることならなかったことにしようとしている国民意識が確実に存在する。これでは、踏みつけにされた民族や民衆は、たとえ何年たとうとも、屈辱を忘れることができない。
(2013年8月17日)