8月6日の広島で ― 核廃絶を願う人々と、核の傘に固執する為政者と。
1945年8月6日午前8時15分、広島上空で原子爆弾が爆発したそのとき以来、核廃絶こそが人類が取り組むべき最大の課題となった。愚かなことだが、人類は自らを滅ぼす能力を身につけたのだ。以来73年間、その能力を封じ込めることが、人類最大の課題としてあり続け、事態は今も変わらない。
冷戦のさなかに、核廃絶どころか核軍拡競争が続けられて、原爆は水爆となり、また多様な戦術核が開発された。核爆弾の運搬手段は飛躍的に性能を向上させ、人類は核戦争による絶滅の恐怖とともに生存してきた。73年間、人類は、首をすくめ息を潜めた「萎縮した小さな平和」の空間で生き延びてきた。そして今なお、核兵器による相互威嚇の均衡の上にかろうじて、生存を続けている。
すべての武力が有害で無意味であるが、核兵器こそは絶対悪である。今日、8月6日はそのことを確認すべき日にほかならない。
本日(8月6日)、広島市で開かれた平和記念式典で、子ども代表が「平和への誓い」読み上げた。その中に次の言葉があった。
人間は、美しいものをつくることができます。
人々を助け、笑顔にすることができます。
しかし、恐ろしいものをつくってしまうのも人間です。
ほんとうにそのとおりだと思う。美しいものをつくり、人々を助け、人々の笑顔があふれる社会を作りたい。それなのに、どうして人間は、人を傷つけ、人々を嘆き悲しませる武器を作り、軍隊を作り、戦争をするのだろうか。この上なく恐ろしい、核兵器まで作って、これをなくすることができないのだろうか。
苦しみや憎しみを乗り越え、平和な未来をつくろうと懸命に生きてきた広島の人々。
その平和への思いをつないでいく私たち。
平和をつくることは、難しいことではありません。
私たちは無力ではないのです。
平和への思いを折り鶴に込めて、世界の人々へ届けます。
73年前の事実を、被爆者の思いを、
私たちが学んで心に感じたことを、伝える伝承者になります。
若いあなた方が救いだ。あなた方が希望の灯だ。被爆のむごさと被爆者の切実な思いの伝承者。核のない世を願う人類の願いを実現する運動の先頭に広島の人々がいることが心強い。今日の式典で「平和への誓い」を読み上げたお二人のうちの一人は、広島市立牛田小の6年生だという。牛田小学校は私の母校だ。私が一年生として入学したのが爆心地に近い牛田小学校で、担任の女性の先生はお顔にケロイドのある方だった。「平和への誓い」が、ことのほか心に沁みた。
松井市長の「平和宣言」は、事前に伝えられたとおりのもの。
世界は「自国第一主義」が台頭し東西冷戦期の緊張関係が再現しかねない状況と懸念を示した上で、「核抑止や核の傘という考え方は世界の安全を保障するには極めて不安定で危険極まりないもの」と指摘。昨年(2017年)7月に国連で採択された核兵器禁止条約の発効に向け、日本政府に対し、憲法が掲げる平和主義を体現するため、国際社会で対話と協調を進める役割を果たすよう求めたが、一方で日本が条約に参加していないことについては昨年に続き直接批判はしなかった。今年(2018年)6月に史上初めて実現した米朝首脳会談を念頭に「朝鮮半島の緊張緩和が対話によって平和裏に進む」ことに期待を寄せたほか、国際NGO「核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)」が昨年ノーベル平和賞を受賞したことを受け、被爆者の思いが世界に広まりつつあるとの認識を示した。
以下の言葉は、説得力があり、心に迫るものがあった。
世界にいまだ1万4千発を超える核兵器がある中、意図的であれ偶発的であれ、核兵器が炸裂したあの日の広島の姿を再現させ、人々を苦難に陥れる可能性が高まっています。
被爆者の訴えは、核兵器の恐ろしさを熟知し、それを手にしたいという誘惑を断ち切るための警鐘です。年々被爆者の数が減少する中、その声に耳を傾けることが一層重要になっています。20歳だった被爆者は「核兵器が使われたなら、生あるもの全てが死滅し、美しい地球は廃墟と化すでしょう。世界の指導者は被爆地に集い、その惨状に触れ、核兵器廃絶に向かう道筋だけでもつけてもらいたい。核廃絶ができるような万物の霊長たる人間であってほしい」と訴え、命を大切にし、地球の破局を避けるため、為政者に対し「理性」と洞察力を持って核兵器廃絶に向かうよう求めています。
日本政府には、核兵器禁止条約の発効に向けた流れの中で、日本国憲法が掲げる崇高な平和主義を体現するためにも、国際社会が核兵器のない世界の実現に向けた対話と協調を進めるよう、その役割を果たしていただきたい。また、平均年齢が82歳を超えた被爆者をはじめ、放射線の影響により心身に苦しみを抱える多くの人々の苦悩に寄り添い、その支援策を充実するとともに、「黒い雨降雨地域」を拡大するよう強く求めます。
9条改憲をたくらむアベ晋三の耳に、松井市長の平和宣言はどう聞こえたのだろうか。とりわけ、「日本国憲法が掲げる崇高な平和主義を体現するために」というくだり。
例年のとおり、式場外から「アベやめろ」「アベ返れ」コールが聞こえる中での、総理大臣挨拶であったようだ。感動のない、歓迎されざる「棒読みの式辞」。だが、首相も衆院議長も、この式典には出席せざるを得ないのだ。
その首相の挨拶は、朝鮮半島での新たな情勢の展開についても、国連で採択された核兵器禁止条約についても、一切触れるところがなかった。式典後行われた広島被爆者7団体との面談の席でも、被爆者側の「核兵器禁止条約批准要望」を「条約とは考え方、アプローチを異にしている。参加しない考えに変わりない」と不参加を明言した。
この席で広島県被団協の坪井直理事長は「原爆は人間の悪知恵が作ったもの。われわれが核兵器をなくすような力を発揮しなきゃいけない」と訴え、首相は「(核兵器廃絶という)ゴールは共有しているが、核保有国の参加が必要だ。橋渡し役を通じ、国際社会をリードしたい」と述べたている。
首相の言葉は白々しい。核廃絶というゴールに向けての姿勢が見えないではないか。「橋渡し役」という言葉が空しい。非核保有国でありながら、核保有国の走狗になっているとしか感じられない。言い募れば、詭弁にしか聞こえない。戦争法案審議以来からモリ・カケ問題での国会答弁を通じて、この人の言うことには真実味が欠けるという確信が形成されている。端的に言えばこの人は「嘘つき」と思われてしかるべきなのだ。不徳の致すところというほかはない。
(2018年8月6日)