参院選最終盤に情勢好転を期待。
(2022年7月7日)
参院選もいよいよ大詰め、最終盤である。メディアの当落予想での一喜一憂はもはや無意味。残る選挙運動日は本日が終わると残り2日のみ。
所用あって午前8時ころ外出したら、本郷三丁目交差点に日本共産党サポーターの若者たちがズラリ。プラスターを並べ、肉声での懸命の政策宣伝。いや、頼もしい。このところ、日を追ってよい雰囲気が盛り上がっているように見える…のだが。
用先の某駅で電車を降りたら、駅前で自民党の宣伝隊にぶつかった。「決断と実行」という幟が数本。そして、屈強な男たちが数名でビラを配っている。そのうちの一人が、ビラを渡そうと寄ってきて「お願いします」という。「自民党、消費税下げるって決断したのかね?」と声を上げると、「えー、自民党は消費税下げるって言ってないですよね」となんとも他人事のような頼りげない返事。「じゃ、年金の増額を実行してくれるのかね?」と聞くと、「それも言っていないですね」。「それじゃ、自民党に票を入れたところで、何の足しにもならないじゃないか」。この運動員氏の人柄はよさそう。なんとなく「それもそうですね」とうなずく風。
もう一人の運動員に声をかけてみた。「自民党は、本気になって憲法9条変えようというの?」。意外な答えだった。「さあ、どうでしょうかね」。明らかに、「オレは知らん」「オレにとってはどうでもよいこと」というニュアンス。時間があれば、「あんた、いったい幾らの時給で働いているの」と話を続けたいところだったが、「よくもまあ、それでどうして自民党を応援できるんだ」という捨てゼリフをもって話はここまで。
共産党は着実に加点しているという実感。一方、自民党は日を追って確実にオウンゴールと思しき発言が目立っている。この党のいい加減さは、末端運動員だけでない。政権中枢に位置する者も相当にひどい。
まずは「野党の人から来る話は何一つ聞かない」という山際大志郎経済再生担当相発言。7月3日、青森県八戸市で自民党候補の応援をした際に、「野党の人から来る話はわれわれ政府は何一つ聞かない。生活を本当に良くしようと思うなら、自民党、与党の政治家を議員にしなくてはいけない」という発言。
おや、岸田内閣の金看板が剥げ落ちた。聞く耳もつことがキャッチフレーズだったはず。「聞く耳」とは、弱い立場にある者の小さき声を聞く姿勢を印象づけた言葉である。強い者のあるいは多数者の大きな声は、誰の耳にもイヤでも聞こえる。その大きな声を聞く耳は誰もがもつものであり、大きな声を聞く耳は、自慢にならない。
山際大志郎という閣僚は、選挙に勝った多数派の大きな声だけを聞く耳をもっており、それ以外の弱い人少数の人の声には聞く耳もたないことを、「野党の人から来る話はわれわれ政府は何一つ聞かない」と表現したのだ。岸田内閣の化けの皮を剥がして見せたこの閣僚の発言の意義は大きい。
そして、麻生太郎の二つの発言。一つは、7月1日の三重県桑名市内での講演で「『政治に関心がないのはけしからん』とえらそうに言う人もいる。しかし政治に関心を持たなくても生きていけるというのは良い国だ」と発言したという。
これ、麻生太郎の民主主義に対する無知をよく表している。為政者さえしっかりしていれば、民の生活は安泰というのだ。有能で慈悲深い為政者にお任せしていれば、民の生活は安寧なよい社会ができる、というわけ。聖帝堯の時代の理想の政治のあり方が「鼓腹撃壌」と表現された。臣民を慈しむ天皇の御代の政治も同じ発想である。民主主義の思想とは根底から異なるのだ。
国民は、「政治に関心を持たなくても生きていける」かも知れない。しかし、それは「良い国」ではない。独裁へ歩みつつある国か、既に独裁国家となった国でしかない。
麻生のもう一つの発言。7月4日千葉・行徳駅前で「子供の時にいじめられた子はどんな子だったのか。弱っちい子がいじめられる。強いやつはいじめられない。国も同じ。戦争が起きなくなる抑止力。自民党がやってきた確固たる自信があります」と胸を張ってみせたという。
麻生のいう「弱っちい子」は、明らかに否定的に語られている。イジメを誘発した現場の常として語られる「いじめられた方にも問題がある」という論調。この世の虐げられた弱者を励ますのではなく、この世の歪んだ冷たい構造を変えようというのでもなく、弱き者の自己責任を論じることで、現状を追認する罪の深い語り口である。
また、「弱っちい国」は、軍事力を増強して強くならない限りは侵略を受けることになるという煽動の理屈。この「失言」は、実は自民党の「ホンネ」なのだ。
だんだんと化けの皮が剥がれてくる自民党。確かに情勢は動いている。あと2日でのさらなる変化を期待したい。