嗚呼、英日両国の《臣民根性》
(2022年9月20日)
奴隷は、いかに苛酷に扱われようとも奴隷主に反抗することは許されない。やむなく、奴隷主への抵抗をあきらめ、むしろ迎合の心性を獲得せざるを得ない。これを《奴隷根性》と呼ぶ。悲しい立場ゆえの、悲しい性である。
だが、《奴隷根性》は奴隷主への消極的な無抵抗や迎合にとどまらない。奴隷が奴隷主に積極的に服従するようにもなる。奴隷を酷使して作りあげた奴隷主の富や文化を、奴隷が誇りにさえ思うようにもなる。奴隷が、奴隷主を心から尊敬し愛するという倒錯さえ生じる。《奴隷根性》恐るべしである。
臣民が君主に積極的に服従する精神構造を《臣民根性》と呼ぶ。臣民が、その収奪者であり支配者である君主への忠誠を倫理とし、忠誠を競い合い、誇るのである。《奴隷根性》と同様の倒錯というしかない。君主たる王や皇帝や天皇に支配の実力が備わっていた時代には、《臣民根性》は《奴隷根性》と同義・同種のものであった。これも悲しい性というしかない。
しかし、君主の統治権が剥奪され、人民が主権者になった今になお、遺物・遺風として存在する《臣民根性》は、嗤うべき対象というしかない。その恥ずべき典型が、英国と日本とにあるようだ。
いや、《臣民根性》は単に嗤うべき存在にとどまらない。主権者意識と鋭く対立するものとして、対決し克服すべきものと言わねばならない。にもかかわらず、《臣民根性》は意図的に再生産されて、今日なお肥大化しつつある。
《奴隷根性》と根を同じくする《臣民根性》は、抵抗や自己主張と対極の心根である。権威主義になじむ精神構造であり、不合理な旧秩序を受容し、社会の多数や体制に迎合する心性でもある。《臣民根性》は主権者意識を眠らせ、体制への抵抗の精神とは敵対する。
だからこそ、《臣民根性》は体制派が歓迎する心情であり、全体主義になじむ心情でもある。忌むべき愛国心の基盤ともなり、国家や権力や政党や資本の支配に従順な御しやすい人物を作る。
昨日、ロンドンで行われたという英国女王の国葬。《臣民根性》再生産を意図した大規模イベントというほかはない。直前の報道の見出しが、「英女王国葬、各国要人約500人参列へ」「一般弔問は最長24時間待ち」となっていた。この見出しの二文は、まったく別の意味合いをもっている。
英女王国葬に参列する「各国要人500人」は、《臣民根性》涵養によって受益する支配者の側の階層である。一方、最長24時間も待たされる「一般弔問者」は《臣民根性》を深く植え付けられた憐れむべき被治者なのだ。この一般弔問者が75万人にも及ぶという。日本でも繰り返されたところではあるが、遅れた国の恥ずべき光景というしかない。
安倍国葬には一顧だにしなかったバイデンやマクロンが、女王の国葬に出かけるのは、それぞれの国の《臣民根性》涵養のために、英女王の国葬参加がはるかに効率的で、支配の秩序の確立に有益との思いゆえである。《臣民根性》恐るべしなのだ。