コートジボアール「エレファンツ」の勝利に祝意を
ワールドカップ・ブラジル大会のCグループ。その初戦で、日本とコートジボワールが対戦した。私はスポーツとしてのサッカーそのものにはほとんど興味がない。しかし、サッカーという競技がもつ社会への影響力には関心をもたざるを得ず、観客の熱狂ぶりや、巨額の金の動き、そしてナショナリズムのあり方などには興味津々である。
なお、私は常に弱者の側に味方したいとする立場。日本チームのFIFAランキングが46位と初めて知って、23位だという格上のコートジボアールに対しての善戦を期待した。結果は、ほぼランキングが示す実力差のとおりの試合となったようだ。
ところで、コートジボアールという国に、ほとんどイメージがない。象牙海岸・宗主国フランスからの独立・政情不安・カカオの産地。その程度が、私の同国に対する知識のすべてといってよい。せっかくのこの機会に、かの国の内情を少しは知りたいと思った。
こんな時、一昔前なら、まずは百科事典を開くことになろう。その上で、図書館か本屋さんに足を運ぶことになったはず。今は、ネットの検索で結構な量の情報が手に入る。手軽でもあり、金もかからない。ウィキペディアの充実ぶりにも感心させられる。以下は、すべて本日ネットの検索で初めて知ったことの受け売り(出典は省略させていただく)。俄然、コートジボアール・チームの勝利に祝意を表明したくなった。
西アフリカに位置するコートジボワールは大西洋に面し、人口は約2500万人。首都はヤムスクロ。日本とほぼ同じ面積の国土に63の民族が暮らしているという。1960年の独立までフランスの植民地だった。かつては、象牙の輸出が盛んで、国名はフランス語で「象牙の海岸」を意味する。当然のことというべきか、公用語はフランス語。世界一のカカオの生産と輸出で知られている。
独立直後は、カカオとコーヒーの輸出や外国企業の誘致で「イボワールの奇跡」と呼ばれる年成長率8%の高度経済成長を達成したという。ところが、80年代には経済が失速した。90年と2002年に内戦があり、2010年末の大統領選の結果をめぐっても内乱が起きた。
政情不安には、多民族間の非融和だけでなく、宗教や貧困の問題が複雑に絡んでいるという。これを統合するものとして、サッカーがあるということだ。コートジボワール代表がW杯に初出場を決めたのは05年。06年のドイツ大会に出場している。このとき、「サッカーは分断された国民を一つにまとめる希望の光」となったとされる。
コートジボワール代表がワールドカップ出場を決めた瞬間、選手たちはピッチ上に座り、内戦のさなかにあった母国に平和を呼びかけた。そのマイクを握ったのが同国のスター選手、ディディエ・ドログバ。今日の試合にも出場した選手。「北も南も、西も中央もない。コートジボワールはひとつです。この豊かな国を、戦争の犠牲にしてはいけない。武器を置いて、心をひとつにしよう!」と語りかけた。彼は、内戦を終えたコートジボワール政府が創設した「対話・真実・和解委員会」のメンバーの一人でもある。
コートジボアールのナショナルチームの愛称を、“エレファンツ”という。いまや国民的ヒーローであるディディエ・ドログバがエレファンツ(代表の愛称)のオレンジ色のシャツに初めて袖を通したのは、奇しくも第一次内乱が始まる数日前の2002年9月だった。つまり彼の代表キャリアは、この国の内乱の歴史とともにあったと解説されている。
内乱は、大別するなら南北に分かれての争いだが、北部を占めるイスラム教徒と、南部に多いキリスト教徒間の争いでもあった。しかしサッカーの代表チームには、イスラム教徒もいればキリスト教徒もいる。トゥーレ兄弟は北部の出身、ドログバやカルーは南部の出だ。彼らが一致団結して戦う姿を国民一人ひとりが自分たちになぞらえて「結束」を思い起こしてほしい、というのが“エレファンツ”の願いだった。
ワールドカップ初出場を決めた2005年の対スーダン戦のスタジアムには、内線で敵対する両陣営も居並び、エレファンツの勝利によって、「この夜国がひとつにまとまった」とされる。エレファンツは5対0で快勝し、翌日の新聞は「5ゴールが、5年間の戦争の悪夢を消し去った」という見出しを打ったという。
エレファンツは、サッカーというスポーツの代表チームという枠を超え、敵対する政権を調和させてしまえるほど、コートジボワールにとっては平和のシンボルであり、国民の夢なのだ、という。
エレファンツがいかに力持ちでも、背負っているものがとてつもなく重い。本日の貴重な1勝によって、少しは肩の荷が軽くなったことであろう。祝意を表するにやぶさかではない。
(2014年6月15日)