澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

今の世に啄木あらば勇躍し共産党に投票するならん―総選挙の争点(その5)

本日は、村岡到さんからのお誘いで、討論会と忘年会に出席させていただきました。

討論会は、村岡さんの近著「貧者の一答?どうしたら政治は良くなるか」のタイトルをそのままテーマにするものでしたが、これがたいへん充実して面白かった。結論が決まっている予定調和討論はまことに味気ないもの。肩書による権威をもつ者がいない場での、誰もが正解をもたない自由な意見交換なればこその面白さでした。

村岡さんご自身の発言にもあったように、「予想外の盛会」。多くの人が、憲法の危機、平和の危機、日本経済の危機を語って、今回の総選挙の重要性を強調しました。何としても安倍政権を倒さねばならない。その熱気が今日の盛会となったと思います。

ところで、この著書のなかで、村岡さんは書名の解説に触れて「私は『貧者の味方』ではなく、貧者の一員であり、その立場から生きる意味を考え、主張する」と述べています。これは力強い宣言。存在が意識を規定する以上、この世の矛盾の根源を撞く発言と行動は「貧者の味方」ではなく、「貧者」自身から発せられることになるのは理の当然。

思い起こすのは、私と同郷の歌人・石川啄木のこと。没後10年(1922年)にして彼の故郷渋民に「柳青める」の歌碑が初めて建立されたとき寄進者の刻名はなく、ただ「無名青年の徒之を建つ」と刻まれていました。これは彼が「主義者」として知られていたからです。

「主義者」としての彼は、自らを「貧者」ととらえていました。そのような歌のいくつかがあります。

  わが抱く思想はすべて 金なきに因するごとし 秋の風吹く
  はたらけど はたらけど猶わが生活楽にならざり ぢっと手を見る
  友よさは 乞食の卑しさ厭ふなかれ 餓ゑたる時は我も爾りき

以下は、そのような彼であればこその歌のいくつか。
  平手もて吹雪にぬれし顔を拭く 友共産を主義とせりけり
  赤紙の表紙手擦れし国禁の書を 行李の底にさがす日
  「労働者」「革命」などといふ言葉を 聞きおぼえたる五歳の子かな
  友も妻もかなしと思ふらし 病みても猶革命のこと口に絶たねば
  地図の上朝鮮国に黒々と墨を塗りつつ 秋風を聴く
  時代閉塞の現状をいかにせむ 秋に入りてことにかく思ふかな

青年啄木が自らを貧者の一員としそれ故に社会の矛盾に憤っていたことが、いたいほど伝わってきます。決して高みから「貧者の味方」を気取る目線ではなく、自らがもがき苦しんでいることを率直に表現しているところが啄木の魅力なのでしょう。

この世の矛盾とは、結局は貧困の存在に行き着くのではないでしょうか。富の分配における不平等をいかに克服するかが究極の政治の使命。現在の社会が、富の偏在を産み出しその不平等を肯定する基本構造をもっているとき、まさしく「貧者の一答」はこの不平等をいかに克服するかの視点をもたざるを得ません。

それこそが、「わが抱く思想はすべて金なきに因する」必然だと思うのです。青年石川啄木が長生きをしていたら、村岡さんより先に「貧者の一答」を著したかも知れません。

今回の総選挙でも、貧者が「金なきに因し」て、「はたらけどはたらけど猶楽にならない生活」を変えるために、貧者の味方を標榜している革新政党に投票すべきが当然の理。その「貧者の一票」が政治を動かすことにならねばなりません。

投票者がこの社会の基本構造のどこに位置するかによって、合理的な政治的選択は決まって来るのではないでしょうか。今の世に啄木がありせば、躊躇なく共産党に投票することでしょう。

もちろん、その対極にある大企業経営者・大金持ち・大資産家は、自民党に投票するのが「正解」。しかし、圧倒的多数の「サラリーマン・工場労働者・公務員・自由業者・自営業者・農漁民・中小企業者」は、貧者の側と利害をともにするはず。

問われているのは、貧困・格差を産み出し拡大再生産する自公政権の経済政策にアクセルを踏むのかブレーキをかけるのか。税制、雇用、賃金、医療、教育、社会福祉等々の各課題で、不平等をなくす方向を目指すのか否か。

きっと、「主義者」啄木も、「ヒューマニスト」賢治も、強く「安倍ノー」というでしょう。そして、貧者として、あるいは貧者に寄り添おうとする姿勢から、共産党への投票を選択するに違いない。村岡さんの著書と発言からも、本日はそんなことを考えました。
(2014年12月7日)

Comments are closed.

澤藤統一郎の憲法日記 © 2014. Theme Squared created by Rodrigo Ghedin.