世界の隅々に「JE SUIS CHARLIE(私はシャルリー)」の声を響かせよう
1月7日仏週刊紙「シャルリーエブド」に対するテロには、大きな衝撃を受けた。こんなことがあってはならない。こんなことの連鎖を許してはならない。
「事件当日の7日に、各地で計10万人規模の抗議集会が開かれたことは強い怒りの表れ」(読売)であろう。世界中に抗議と連帯の声が拡がっている。合い言葉は、「JE SUIS CHARLIE(私はシャルリー)」である。私も声を上げよう。「私もシャルリーだ」と。「シャルリー」は、言論の自由を擁護しようとする決意の象徴である。けっして反イスラムではない。
「シャルリーエブドは反権力、社会風刺が売り物で、ローマ法王やオランド大統領をやゆするような風刺画も掲載している。2012年にイスラム教の預言者ムハンマドの風刺画を掲載した時には、話題性を狙った商業主義との批判も受けたが、一貫して言論の自由を主張し」てきた(毎日)という。そして、たびたびの攻撃にも、萎縮することなく、自己規制をしないという姿勢を貫いてきた。
その気骨あるメディアが攻撃を受けたのだ。こんなときに、したり顔で「やられた側にも問題があった」などと言ってはならない。言論を標的にしたテロに対する徹底的な批判が必要だ。
言論に対する野蛮で卑劣な攻撃は日本でもあとを絶たない。朝日新聞阪神支局襲撃事件は「赤報隊」を名乗る右翼の犯行として印象が深い。リベラルな朝日の記者が狙われたのだ。亡くなった小尻知博記者(当時29)は、盛岡支局の勤務経験があるということだった。私も会っていたかも知れない。そして、今日、文春や西岡力を被告として提訴した植村隆さんは、もと朝日で小尻記者と同期であったという。その植村さんも、家族まで巻き添えにされてネットで右翼からの攻撃にさらされている。勤務先の北星学園も脅迫や業務妨害の犯罪行為の標的にされている。
右翼は暴力に親和性が濃厚だ。山口二矢、前野光保、野村秋介、そして三島由紀夫…。石原慎太郎が、テロ容認発言を繰り返していたことも記憶に新しい。こんなことを言っていることを思い出そう。
「こんな軽率浅はかな政治家はそのうち天誅が下るのではないかと密かに思っていたら、果たせるかなああしたことにあいなった」「何やってんですか。田中均というやつ、今度、爆弾を仕掛けられて、当ったり前の話だ」「爆弾を仕掛けることはいいか悪いかといったら悪いに決まっている。だけど、彼がそういう目に遭う当然のいきさつがあるんじゃないですか」「世の中にテロはなくなるかって言ったらあるじゃないですか。人間って、そういうものを最後に持ってる」「どんなやつか知りませんけども、昔ならそんな人間は殺されてますな。愛国の士もいましたから」
「愛国テロ容認」どころではない。「憂国テロ称賛」の姿勢なのだ。このような思想や感性を一掃しなければならない。
今回のシャルリー社襲撃事件を、石原慎太郎流に「天誅」「当ったり前の話」「そういう目に遭う当然のいきさつがあるんじゃないですか」「敬神の士の行為」などと言ってはならない。石原流を離れても、「やられた方にも問題があるのでは」「犯人側の気持ちも分からないでもない」「殉教者の行為ではないか」「一身を捨てた犠牲」などと美化してはならない。
イスラム観、イスラム過激派が肥大化する構造についての認識、南北格差の責任…。それらが大きな問題ではあるが、ここはひとまず置いて、「民主主義社会を擁護するために、言論に対するテロは絶対に容認できない」と叫ばなければならない。「私もシャルリーだ」と唱和しよう。この声を世界の隅々に響き渡らせよう。
(2015年1月9日)