澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

松谷みよ子さんが語った「治安維持法・思想弾圧・国家機密法」

今日3月15日は、民主主義と人権に関心を持つ者にとって忘れてはならない日。思想弾圧に猛威を振るった治安維持法が、本格的に牙をむいた日である。

多喜二の小説「1928年3月15日」で知られるこの日の午前5時、全国の治安警察は一斉に日本共産党員の自宅や、労農党本部、無産青年同盟、無産者新聞社などを家宅捜索し1568名を逮捕、その内484名を起訴した。第1次共産党弾圧である。被逮捕者に対する拷問が苛烈を極めたことはよく知られている。皇軍の戦地での恥ずべき蛮行と並んで、天皇制政府の醜悪な側面を露呈させた恥部といってよい。

悪名高い治安維持法は、男子普通選挙法(衆議院議員選挙法改正法)とセットで、1925年3月に成立し、同年4月22日施行となった。その第1条は、「国体ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ之ニ加入シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス」であった。後に、法「改正」を重ねて刑は死刑を含むものとなる。

「国体ヲ変革シ」とは、天皇制を否定して国民主権原理にもとづく民主主義国家を建設しようという思想と運動を意味している。これが犯罪、しかも死刑に当たるというのだ。

「私有財産制度ヲ否認スル」とは、生産財を社会の共有にすることによって格差や貧困のない社会を目ざそうということ。これも危険思想故に犯罪とされた。天皇制政府が誰と結託していたかを雄弁に物語っている。

治安維持法は、「3.15」「4.16」、そして多喜二を虐殺した。まずは共産党に向いた治安維持法の牙は、社会民主主義者にも、自由主義者にも、平和主義者にも、労働・農民運動家にも、そして宗教者にも生け贄の対象を拡大していった。そのために、民衆は「滅多な口を利いてはならない」と政府を恐れた。その民衆にさらに容赦なく、天皇制政府は思想統制を強め、過酷な弾圧を続けた。

民衆の立場から、その実態を掘り起こす優れた作業がいくつも公にされているが、その一つとして、松谷みよ子の「現代民話考」の一巻、「銃後」に「思想弾圧」がある。

「現代民話考」は、広い分野にわたって全国の民間伝承を採話したもので、全12巻に及ぶ。初版は立風書房だが、今は筑摩文庫で復刻されているようだ。その第6巻(第2期・?)が「銃後 思想弾圧・空襲・沖縄戦・引き上げ」となっている。なお、第2巻(第1期・?)が「軍隊 徴兵検査・新兵のころ」というもの。民衆の伝承が、これほど戦争に関わるものになっているのだ。

以下は、「銃後」の前書きに当たる「銃後考」の抜粋である。戦争の時代を生き抜いた知性と良心が語る言葉である。児童文学者としての優しさに満ちた感性が、強靱な理性に支えられたものであることがよくわかる。

「安維持法の名のもと思想統制が進められ、労組、農民組合などの運動に参加する人びと、自由人、社会思想を持つ人びとが検挙され、凄じい拷問がくりひろげられた。昭和8年、小林多喜二が築地署で特高による拷問で死亡した事件は心ある人びとに大きな衝撃を与えた。そしてこれらの思想弾圧があってこそ、天皇を神とし、大東亜を共栄圈とする思想も、銃後の思想統一もゆるぎないものにつくりあげられていったのである。その意味で今回、第一章を思想弾圧・禁止とした。」

「あの当時、非国民の恪印は死とつながる恐怖であった。日本国民のあるものは、幼い日からの軍国教育によって、ある者はしんそこ日本は神国であると信じ、大東亜共栄圈の理想を共有した。しかし、ある人びと、前述したクリスチャンや、思想的にこの戦争は正しくないと感じ、何等かのかたちで抵抗した人びともいる。‥無垢の愛に地をたたき、狂うほどの悲しみをあらわにした。「息子を返せ! 東条のバカヤロー」「天皇のヤロウー どんなにしたってきかないから!」これらの言葉が官憲に聞えたらどうなるか、当時を生きた人なら誰でもが知っている。また、福島の‥は、貧農の母が髪ふり乱し「おらの息子を連れて行くな」と出征の行列に泣きすがったと伝える。庶民の心のほとばしりを私は大切に思うのである。」

437頁のこの書には、かなり長い「あとがき」がある。松谷みよ子の息遣いが聞こえてくるようだ。「ちょっと気になること」として、「一つの花」事件の顛末が書かれている。「一つの花」とは、小学校の教科書に載った短編小説の題名。作中のおおぜいの見送りのない出征風景が「捏造」として、産経の批判のキャンペーンにさらされたことが「事件」である。

これを松谷は、「『一つの花』における見送りのない出征風景はこのように、見送りのない出征?戦争の悲惨?アカ、という図式をはめられ、新たなる伝説をつくりあげられていく。バカバカしいことながら、笑ってはすまされないことであった。」

としたうえで、こう続けている。
「先日、京都へ行ったとき、国旗掲揚、君が代が教育の場で強制されてきた、となげく声を聞いた。これは他県ではずいぶん前から聞かされたことであった。国旗があがる間、どこにいてもぱっと直立不動の姿勢をとらされるという話も聞いた。また、昭和61年11月10日には、天皇在位60年を奉祝して、二重橋前から銀座、日本橋などに提灯行列、日の丸、天皇陛下万歳のさけびで湧いた。偶然通りかかった知人は、戦時中のシンガポール陥落の提灯行列を思い浮べ、歳月が40年前に逆戻りしたような恐ろしさを覚えたという。この前の戦争が、天皇を現人神と神格化し、平和を希求する思想をアカときめつけて全国民を戦争への道に駈り立てていった、そのことはすでにあきらかである。この道は、いつかきた道、戦後だ戦後だといっているうちに、あたりの風景は戦前に変りつつあるのではないか。そして、風景を塗り変えようとする手と、「一つの花」事件とが無縁のものとは考えられないのである。国家機密法が繰り返し上程されようとしていることとも無縁ではない。

いま、なにかが水面下で不気味にふくれあがりつつある。「一つの花」見送りのない出征事件は、いまから8年前になる。しかし遠い地鳴りのようなこの出来事を、私たちは忘れてはなるまい。一つ、一つの事件、それはごく小さく、とるに足りぬもののように見える。しかし、その小さな出来事が積み重なることによって、私たちの感性はいつしか馴らされ、気がついてみれば戦争への道をふたたび歩いている。そういうことがないとどうしていえようか。「ねえ、あのとき、どうして戦争に反対しなかったの?」子どもたちにそう問われることのないように、私たちは、常にするどく、感性を磨かねばと思う。卵を抱いた母鳥のように。」

松谷みよ子さんは、2月28日に永眠された。あらためて、警世の人を失ったことを悔やまざるを得ない。この書が上梓されたのは1987年4月であった。松谷さんがたびたび言及している国家機密法(自民党側はこれを「スパイ防止法」と呼んだ)は、1985年に国会上程されて廃案となり、87年ころには再提出が懸念されていた。いま、これに替わって特定秘密保護法が成立してしまった。また、産経の役割は相変わらずである。

松谷さんの言をかみしめたい。「小さな出来事の積み重ねに感性を馴らされてはならない」。しかし、今や安倍政権の所為は、「小さな出来事の積み重ね」の域を超えている。今を再びの戦前とし、後世に再びの「治安維持法・思想弾圧」の伝承を語らせる歴史を繰り返してはならない。
(2015年3月15日)

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Published in 日曜日, 3月 15th, 2015, at 17:06, and filed under 人権, 天皇制, 日の丸君が代.

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