「戦争法案」への反対は、次の世代への責務だ。
確認しておこう。5月15日政府が国会に提出した新法「国際平和支援法案」と、下記10法の一括改正を内容とする「平和安全法制整備法案」について、当ブログは「戦争法案」と呼ぶ。
・武力攻撃事態法改正案
・重要影響事態法案(周辺事態法を改正)
・PKO協力法改正案
・自衛隊法改正案
・船舶検査法改正案
・米軍等行動円滑化法案
・海上輸送規制法改正案
・捕虜取り扱い法改正案
・特定公共施設利用法改正案
・国家安全保障会議(NSC)設置法改正案
「国際平和」や「平和安全」はまやかしであって、「戦争法案」という呼び名こそがこの法案の本質を表している、そう考える理由を述べておきたい。
私の認識では、憲法9条は1954年自衛隊創設によって「半殺し」の目に遭った。「陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない」はずの日本が、常識的には治安警察力を遙かに超える軍事力をもったのだ。違憲の状態が生じたことは誰の目にも明らかだった。しかし、このとき憲法9条は死ななかった。しぶとく生き延びた。
このときから、自衛隊は、「国に固有の自衛権を行使する実力部隊であって、憲法にいう戦力には当たらない」とされた。自衛隊の発足と当時に、参議院では全会一致で、「自衛隊の海外出動を為さざることに関する決議」が成立してもいる。自衛隊の任務は、専守防衛に徹することとされ、その限度を超えた装備も編成ももたないことが確認されたのだ。
このとき、非武装に徹することによって平和を維持しようとした憲法9条の理念は大きく傷ついたが、「専守防衛」というかたちでは生き残ったと評価することができよう。
その後、「自衛隊を一人前の軍隊にせよ」「そのためには9条改憲を」という外圧は強かった。この「押しつけ改憲」と闘い、せめぎ合って、日本の国民世論は9条を守ってきた。そのため、自衛隊が防衛出動に踏み出せるのは、国土が侵略を受け蹂躙されたときに限られた。だから、自衛隊は、外征や侵略に必要な武器の装備はもてなかった。外国に派遣されたことはあっても、海外での戦闘行為はできなかった。満身創痍の憲法を活用し、9条の旗を押し立てた国民運動とそれを支えた国民世論の成果であったと言えよう。
歴代の保守政権も9条をないがしろにはしてこなかった。「右翼の軍国主義者」が首相に納まるまでは…、のことである。
今までは、自衛隊が武力を行使する局面は、「我が国土における防衛行為」としてのものに限られていた。飽くまでも、必要な限りでの自衛・防衛行為であって、これを戦争とはいわない。しかし、集団的自衛権の行使となれば、まったく話しは違ってくる。他国の戦争の一方当事者に加担して、自らも戦争当事国となるべく買って出て、武力を行使することになる。これは明らかな戦争加担行為にほかならない。
「戦争をしないから9条違反の存在ではない」とされてきた自衛隊に、戦争をさせようという法案だから「戦争法案」。この呼び方が、体を表す名としてふさわしいのだ。かくて、戦争法が成立すれば、これまでしぶとく生き残ってきた「半殺し」状態の9条に、トドメが刺されることになる。
5月14日閣議決定、15日国会に法案を提出。本日(19日)は、衆議院本会議で戦争法案審議のための特別委員会設置が可決された。自民・公明の与党のほかに賛成にまわったのは次世代の党。これで法案の集中審議が可能となった。小さいながらも次世代の党は、与党単独採決と言わせないための「貴重な」役割を演じている。委員は45名。自民28、民主7、維新4、公明4、共産2。委員長に浜田靖一元防衛相、筆頭理事には江渡聡徳前防衛相や長妻昭・民主党代表代行らが就任した、と報じられている。民主と共産に期待するしかない。
子どもの頃を思い出す。父が戦地の苦労を語り、母が銃後の辛酸を口にする。幼い私は、父母の心情をよくは分からないままに、「そんな戦争には反対すれば良かったのに」と言う。母が、「そんなことはとても言えなかった」「言えるような時代ではなかったんだよ」と呟く。父も母も、積極的に戦争に賛成した人ではない。しかし、戦争反対と言った人でもなく、反対と言える時代を作る努力をした人でもなかった。平均的庶民の一人として、応分の責任を持たねばならない世代に属していた。
いま時代は、あの戦争における戦前のターニングポイントあたりにあるのではなかろうか。戦争に反対と今なら言える。が、この言論の自由はいつまでもつか、見通せない。
戦争に反対、戦争を選択肢となし得る国とすることに反対。戦争のための教育に反対、防衛秘密法制に反対。戦争に反対する言論への封殺に反対。声を上げ続けなければならない、と思う。
何よりも、今は「戦争準備の法案に反対」と声を大きくしなければならない。新たな戦後を作らないために。また、次の世代から、「そんな戦争には反対すれば良かったのに」と言われることのないように。
(2015年5月19日)