「大阪都構想・住民投票」ーいったい何が問われたのか
大阪市民を二分した「都構想・住民投票」の狂騒は、いったいなんだったのだろうか。問われたものは、大阪都構想の当否でも大阪市の解体の是非でもなかったようだ。実は、民主主義の質が問われたのではなかろうか。
通常の政治課題では強者と弱者との対立構造が分かり易い。権力対民衆、資本対労働、事業者対生活者、中央対地方。あるいは、富者と困窮者、社会的多数派と少数派、人種・民族的な対立、地域間格差、産業間の力量差、大企業対中小企業等々、対立者間の力関係の格差が紛争の中に明瞭となる。
基本的には、現行の経済構造とこれに照応した政治的秩序を擁護しようとする体制派と、現行秩序を不満とする革新派のせめぎ合い、という図式を描くことができよう。しかし、大阪都構想をめぐる政治的な抗争はこの図式とは異なっているように見える。私は、現体制には大いに不満な「革新派」の一員をもって任じてはいるが、「都構想の実現によって大阪の現状を変革しよう」という立論には与しない。
常識的には、「体制擁護の自民党」と「反体制の共産党」の二極を軸として、いくつかの政党がバラエティをもって並立する。この二極を基軸として、政治課題全般がせめぎ合う。ところが、今回、市民を真っ二つにしたテーマで、自・共が共闘しているのだ。
この共闘現象を「反ファシズム統一戦線」になぞらえて説明してよいのか。実のところ、よくは分からない。橋下的なポピュリズムが不気味で警戒すべきものであることは明らかだが、ファシズムないしはその萌芽と規定できるほどのものであるかは分からない。分からないながらも、指摘できることはいくつかある。
大阪都構想なるものは、実は新自由主義的構造改革にきわめて親和的である。というよりは、財界が求めてやまない道州制実現の橋頭堡として位置づけられたものである。その意味では、中央資本にも政権にも都構想は歓迎すべき政策なのだ。道州制とは、道洲に福祉や教育などの金のかかる住民サービスを押しつけて、国の荷物を軽くしようとするもの。当然に各道州間で大きな住民サービスの格差が生じるが、中央資本にとっての負担軽減策として断然有利になることは明らかなのだ。
村井宮城県知事と橋下大阪市長とは「道州制推進知事・指定都市市長連合」の共同代表を務めている。「道州制に向けて歩みを進めているリーダーを失った。道州制(実現)への影響は間違いなく出る」という村井知事のコメントが産経に紹介されている。
また、橋下の地域振興政策の目玉がカジノ(IR)誘致構想であったことは周知の事実。そのような意味では、大阪都構想をめぐっては、「資本(ないしは中央資本)の利益」対「地域コミュニティの利益」の対立構造があったことは疑いがない。だから、都構想支持派には意識的な新自由主義推進派が含まれている。自民党支持層の4割が、賛成派にまわったのも頷けるところ。また、維新・橋下の「日の丸・君が代」強制や、労働組合への嫌悪の徹底ぶりは、右翼勢力からのシンパシーも得たことだろう。
とはいえ、大阪都構想賛成派の市民は、新自由主義派や右翼ばかりではない。大阪の現状に不満を募らせた多くの人々が、これが大阪発展の青写真と煽られ、その展望に賭けてみようという気持にさせられたのだ。ベルサイユ体制に鬱屈していたドイツ国民がナチスの煽動に乗って、ヒトラーを支持した構図と似ていなくもない。昭和初期の不況に喘いだ日本国民が「満蒙は日本の生命線」というフレーズに心動かされた歴史を思い出させもする。
さて、問題はここからである。一人ひとりが責任ある政治主体として維新から示された「青写真」や「展望」をじっくり見据えて自分の頭で判断しようとするか、それとも、人気者が香具師の口上さながらに語りかける政治宣伝にお任せするか、そのどちらをとるかなのだ。生活の困窮や鬱屈の原因を突きつめて考えるか、考えるのは面倒だからさしあたりの「既得権者攻撃」に不満のはけ口を提供するポピュリストに喝采を送るか、という選択でもある。
前者を本来的な民主主義、後者を擬似的民主主義と言ってよいだろう。あるいは、理性にもとづく下からの民主主義と、感性に訴えかける上からの煽動による民主主義。成熟度の高い民主主義と、未成熟な民主主義。正常に機能している民主主義と、形骸だけの民主主義。独裁を拒否する民主主義と、独裁に根拠を与える民主義。本物の民主主と偽物の民主主義、などとも言えるだろう。
今回の狂騒が意味あるものであったとすれば、民主主義の質について考える素材が提供されたということであったと思う。
なお、個人的に興味を惹かれたことを一点。自民党大阪府連は果敢に橋下都構想を攻撃した。そのホームページでは、自民も維新もともに道州制賛成であることを前提に、道州制とは矛盾するものとして都構想を非難している。党中央とはねじれた判断である。ここには、体制派内部の中央と地方(ないし地域)とのねじれを読み取ることができるだろう。
なお、自民党中央と地方自民党とは、相当に主張も肌合いも異なるのではないか。地方の票が積み重なって中央を形作るが、実は中央の方針を貫徹していては、地方では票にならない。自民党とは、そのあたりを柔軟に対応する術を心得てこれまではうまくやって来た。しかし、沖縄でも大阪でも、党中央と地方組織との矛盾が覆いがたいものとなった。TPPでも、復興でも、農業再生でも、漁業振興でも、あるいは原発再稼働でも同様だ。その他福祉でも教育でも、多くのテーマで自民党の中央は地方党活動家の意識と乖離せざるを得ないというべきなのだ。
保守陣営の中での「地方の反乱」の芽は確かに育まれている。はからずも、今回沖縄だけでなく大阪においても、自・共の共闘までもが可能であることが教えられた。このことも、きわめて意義の深い教訓である。
(2015年5月20日)