澤藤統一郎の憲法日記

改憲阻止の立場で10年間毎日書き続け、その後は時折に掲載しています。

放送大学の「表現の自由の抑圧」に抗議するー再び戦争をするための体制作りに加担してはならない

「現在の政権は、日本が再び戦争をするための体制を整えつつある。平和と自国民を守るのが目的というが、ほとんどの戦争はそういう口実で起きる。1931年の満州事変に始まる戦争もそうだった」「表現の自由を抑圧し情報をコントロールすることは、国民から批判する力を奪う有効な手段だった」

簡潔に、ことの本質をズバリとよく言い得ているではないか。まことにそのとおり。心の底から共感する。今後、私は何度でもこの文章を反芻したいと思う。そして、この文章を何度でも当ブログで引用することにする。

本日(10月20日)の毎日新聞社会面トップの記事によれば、放送大学の佐藤康宏客員教授の上述の文章が不適切として、同大学はこの削除を強行した。同教授は、放送大学のこの措置を不当として、客員教授の任期満了を待たずに辞意を表明している。はからずも、「表現の自由を抑圧し情報をコントロール」される立場に立たされたのだ。この事態を「国民から批判する力を奪う」結果にしてはならない。それは、日本が再び戦争をするための体制作りにつながるからだ。同教授の抵抗を精一杯支援したい。

まず、この一文の内容を確認しておこう。
「現在の政権は、日本が再び戦争をするための体制を整えつつある。」
まったく、そのとおりではないか。現政権は、「戦後レジーム」からの脱却を唱えている。戦後レジームとは、憲法9条が象徴する平和の国家体制である。これに対して、戦前の大日本帝国は、徹頭徹尾「戦争をするための体制」であった。日本国憲法はこれを根底から否定して、平和主義に徹した「戦後レジーム」を構築した。その「戦後レジーム」を否定し、「戦後レジームからの脱却」を掲げる政権を「再び戦争をするための体制を整えつつある」と言うことに一点の間違いもない。現政権が憲法9条を目の仇にしていることは誰もが知っている事実である。現に、安倍政権は、戦後の保守本流が違憲としてきた集団的自衛権を強引に解釈変更して「戦争法」を成立させてしまった。

「平和と自国民を守るのが目的というが、ほとんどの戦争はそういう口実で起きる。」
現政権が、「平和と自国民を守るのが目的」と言いつつ一連の9条破壊策動を続けてきたことは周知の事実。掲げたイデオロギーは、戦力増強による抑止力向上こそが「敵の付け入る隙を防いで平和を守る」という抑止論至上主義。そして、軍事力の整備こそが平和に寄与し、自国民を守るのだという、時代遅れの軍拡路線。うかうかとこの論に乗せられると、軍備を増強すればするほど平和になるという倒錯した論理に陥る。平和を守るためには核武装も辞さない。自国民を守るためには開戦も躊躇しない、ということになる。

「1931年の満州事変に始まる戦争もそうだった。」
「五族協和」の、「東洋平和」「東亜新秩序」建設のための戦争。そして、「満蒙は日本の生命線」だったのだから、「暴支膺懲」と「八紘一宇」とは重なり合う関係にあった。

「表現の自由を抑圧し情報をコントロールすることは、国民から批判する力を奪う有効な手段だった。」
台湾出兵・日清・日露・シベリア出兵・15年戦争…。絶え間ない戦争の繰りかえしの歴史には、必ず反戦勢力による反戦運動が伴っていた。信仰から、ヒューマニズムから、国際的な階級的連帯意識から、各種の反戦運動の抵抗が続けられた。戦争政策を推し進めた権力は、『表現の自由を抑圧し情報をコントロールする』ことによって国民から批判の精神を奪った。

佐藤康宏氏が東大の美術史の教授であることが興味深い。ここでは、反戦の檄文や反戦思想の論文の類だけを問題にしているのではない。国民の批判精神を涵養するには、広く美術や文芸を含む多様な表現の自由が確保されなければならない。政府の情報コントロールがあってはならない。権力による表現への統制は、国民に対する精神の統制であり、批判の精神を失わしめるのだ。おそらくは、同教授が最も主張したかったことであろう。

戦争の準備はすべてを抹殺する。人の個性も、個性に溢れた芳醇な芸術も。今、そのような時代にさしかかっていることを感じないか。そのように学生に語りかけているのだ。

報道は次のようなものである。
「今年7月に出された放送大学の単位認定試験問題を巡り、大学側が『現政権への批判が書かれていて不適切』として、試験後に学内サイトで問題を公開する際、該当部分を削除していたことが分かった。この部分は安全保障関連法案を念頭に置いたもので、当時は国会審議中だった。

この問題は、客員教授の佐藤康宏・東京大教授(60)=美術史=が、7月26日に670人が受けた「日本美術史」の1学期単位認定試験に出題した。画家が戦前・戦中に弾圧されたり、逆に戦争に協力したりした歴史を解説した文章から、画家名の誤りを見つける問題だった。」

大学側の削除の理由はこうだ。
「現政権への批判が書かれているが、設問とは関係なく、試験問題として不適切」「現在審議が続いているテーマに自説を述べることは、単位認定試験のあり方として認められない」

佐藤氏は納得していない。
「昨年度から2019年度まで6年間の契約だった客員教授を今年度限りで辞めると大学側に伝えた。佐藤氏は『学生に美術史を自分のこととしてリアルに考えてほしかったので、この文を入れた』と説明した。その上で『大学は面倒を恐れて先回りした。そういう自主規制が一番怖い』と話す。」

毎日の取材に対して、大学側はこうコメントしている。
「学問や表現の自由には十分配慮しなければいけないが、放送大学は一般の大学と違い、放送法を順守する義務がある。試験問題も放送授業と一体のものと考えており、今回は放送法に照らし公平さを欠くと判断して削除した」

このコメント、「平和を守るという口実で戦争がおこされる」というロジックとよく似ていないか。「大学は面倒を恐れて先回りした。そういう自主規制が一番怖い」という批判に応え得ているだろうか。放送大学は、「一般の大学との違い」を強調するのではなく、大学教育を受けようと学窓に集う学生の意欲の等質性をこそ強調すべきではないか。大学と名乗る以上はそれにふさわしい場であろうとの努力を惜しんではならない。大学教育を受けるだけの基礎を持った学生たちである。批判の精神と意欲に欠けるところはあるまい。現政権への批判を学内で圧殺して、大学の名に値する教育と言えるのか。

試されているのは、佐藤教授の側ではない。放送大学こそが、試されているのだ。大学の名に値する研究と教育の場であるのか。学問の自由を有しているのか、学問の自由を制度的に保障する大学の自治を有しているのか。

今、放送大学は、佐藤教授の「表現の自由を抑圧し情報をコントロール」に手を染めた。自ら、「国民から批判する力を奪う有効な手段」を行使しているのだ。政権の思惑を忖度して、大学までが追随し萎縮して振り回される時代に危機意識を感じざるを得ない。放送大学の中から、教員や学生の間から、澎湃たる抗議の声が起こることを期待したい。それこそ、時代と切り結ぶ生きた学問の実践ではないか。
(2015年10月20日・連続第933回)

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