安倍首相の独裁願望と衆院予算委員会会議録改竄
先日(6月12日)明治大学で行われた「圧殺の海 第2章 『辺野古』」の試写会で、上映前に景山あさ子氏とともに監督を務めた藤本幸久氏の挨拶があった。
彼は、師と仰ぐ土本典昭(水俣のドキュメントで名高い)の「記録なければ事実なし」という言葉を引いて、「辺野古」を撮影した覚悟を語った。「辺野古で起きている事実を余すところなく記録しておかなければ、この伝えなければならない事実がなかったに等しいことになってしまう」といった。「記録なければ事実なし」は、事実を記録することの重さを語った名言というべきだろう。
しかし、ここで言う記録は、飽くまでも事実に忠実な「正確な記録」であることを前提としている。事実と記録は必ずしも一致しない。場合によっては、記録を操作することによって事実とされるものが変えられることもある。
ジョージオーエルの「1984年」の世界では、国民に記録が禁止され真理省だけが記録の権利を独占する。真理省の役人である物語の主人公は、歴史記録の改竄を日常業務としているという設定。「記録の改竄」は、「事実の改竄」であり「歴史の改ざん」なのだ。記録への敬意と尊重は、事実や歴史の真実を尊重する姿勢の反映にほかならない。ご都合主義の歴史修正主義者は、記録の改竄に頓着するところがない。
ご都合主義の歴史修正主義者とは、もちろん、安倍晋三を指してのこと。先月(5月)16日の衆院予算委員会の会議録が訂正されたという。民進党山尾志桜里議員の質問に対する首相答弁の中の、自分を「立法府の長」とした、例の発言である。
「首相は5月16日の予算委で、保育士の処遇改善法案の審議入りを求めた民進党の山尾志桜里政調会長に対し『議会の運営を少し勉強した方がいい。私は立法府の長だ』『立法府と行政府は別の権威だ』などと発言した。その後、政府は『単なる言い間違いであることは明白だ』とする政府答弁書を5月27日の持ち回り閣議で決定した。」(6月10日・毎日)という。これは本来「改竄」というべきものとして見逃せない。
5月19日、東京新聞「こちら特報部」の記事によれば、首相の「立法府の長」発言は、次のようなものであった。
「16日の衆院予算委員会。山尾志桜里議員(民進)が、待機児童や保育士給与問題の積極的な審議を首相に求めた。首相は答弁席に着くなり『ええ、山尾委員はですね、議会の運営ということについて、少し勉強していただいた方がいいと思います』とけん制。
次に『私は立法府、立法府の長であります』と明言したうえ、『国会は国権の最高機関として誇りを持って、行政府とは別の権威として、どのように審議をしていくか各党各会派で議論している』と述べた。」
この文字起こしの一連の文章に、論理の破綻がない。文章の内容は真ではなく偽(誤り)だが、文意の筋は通っている。明らかな表示の錯誤(言い間違え)とは断定しがたい。彼は、本当に、自分を「立法府の長」と思い込んでいたのではないか。あるいは現在もそう思っているのではないのだろうか。少なくとも、意識下にそのような思いがあるに違いない。
「私は、政権与党である自民党の党首だ。自民党は、選挙に大勝して両院ともに最大の議員を擁して立法権を牛耳っている。事実上、私が立法府の長ではないか。」
心理学の用語に、フロイディアン・スリップ(フロイト的失言)というものがある。意識下の本心や願望が失言として表れることをいう。安倍晋三の『私は立法府、立法府の長であります』が失言だったとすれば、フロイディアン・スリップとして、彼の三権分立無視・独裁願望の心理を考察する貴重な手掛かりであり、その議事記録は極めて重要な資料といわねばならない。あるいは、緊急事態における全権の把握を夢みているのかも知れない。
しかも、東京新聞の記事によれば、安倍の「立法府の長」発言は初めてのことではなく、少なくとも、3度目だという。
「首相は先月(4月)18日の衆院TPP(環太平洋連携協定)特別委でも、同じような発言をしている。下地幹郎議員(おおさか維新の会)が、国会議員の歳費を削減し、熊本地震の支援に充ててはどうかと提案、見解を問うた。
首相は『議員歳費は、まさに国会議員の権利にかかわる話でございますから、立法府の長である私はそれについてコメントすることは差し控えたい』と発言。直後、周囲から「行政府、行政府」と指摘され、『あ、行政府ですか。失礼、ちょっと』と言ったが、言い直すことなく、行政府の歳費削減について話した。
実はもう一つ例がある。首相は第一次安倍政権の2007年5月にも、参院憲法調査特別委で『私が立法府の長』と述べ、委員から『あなたは行政府の長』とたしなめられている。」
会議録の大幅な改竄については、昨年(2015年)9月の、参議院安保特別委員会の強行採決時の「聴取不能」という速記録原記載が、大幅に書き換えられたことが記憶に新しい。この点については、ぜひ下記ブログをご覧いただきたい。
「本日速記記念日に『速記録改竄』への抗議」
https://article9.jp/wordpress/?p=5819 (2015年10月28日)
選挙運動収支報告書や選挙運動費用収支報告書の記載は、訂正を許さないものではない。しかし、訂正前の記載がどういうものであったかを必ず正確に確認できるように残して、いつ、どのように訂正されたか、経過が分かるようになっている。だから、訂正によって事実を隠蔽することはできない。
多くの政治家や立候補者が、「訂正すれば問題はない」と頬被りしている現実があるが、実は報告書の訂正という行為は、犯罪を自ら確認する行為なのだ。しかも、たいへん目を引く行為でもある。もちろん虚偽記載罪が、訂正によって治癒されることはない。
国会審議の会議録も、絶対に訂正を許すべきではないとまでは言わないが、少なくとも訂正の前後の対比と経過がよく分かるようにすべきだ。訂正の経過さえよく分かっておれば、後世安倍の答弁集を読むものが呟くだろう。
「このあたりから、相当におかしくなっていたんだ。やっぱり、尋常ではない。」
訂正の経過が分からなければ、「2016年5月までは、なんの問題もなかったようだ」と記録を繙く者に誤解を与えることになる。真実の記録が大切な所以である。
(2016年6月17日)