「原爆の日」の平和宣言に9条の精神を見る
1945年8月6日午前15分、ヒロシマに「絶対悪」が姿をあらわし、人類は滅びの淵に至ったことを自覚した。
私は、その広島の爆心地付近の小学校に入学した。1950年4月のこと。幟町小学校、牛田小学校、三篠小学校と市内の学校を転々とした。原爆ドームにはいりこみ、その瓦礫の中で遊んだ記憶がある。町の人は、原爆をピカと呼んだ。なぜか、ピカドンという言葉の記憶はない。土地の記憶から、広島の原爆被害の悲惨さには生々しく迫るものを感じる。
本日、68回目の原爆の日に、平和記念公園で平和祈念式典が挙行された。平和を願う被爆者の声を代弁した松井一実広島市長の「平和宣言」には核廃絶の熱情ほとばしるものがあった。また、憲法改悪と集団的自衛権の容認を目論む安倍晋三首相は、いかにも気の乗らない風に式辞を読み上げた。心ならずも、安倍も原爆の日には広島に来て、「非核3原則堅持」「原爆症認定に全力」と言わねばならない。そうさせるだけの世論の大きさと力関係を大切にしたい。
松井市長の「宣言」を聞いて、次のくだりに考えさせられた。
「世界の為政者の皆さん、いつまで、疑心暗鬼に陥っているのですか。威嚇によって国の安全を守り続けることができると思っているのですか。広島を訪れ、被爆者の思いに接し、過去にとらわれず人類の未来を見据えて、信頼と対話に基づく安全保障体制への転換を決断すべきではないですか。ヒロシマは、日本国憲法が掲げる崇高な平和主義を体現する地であると同時に、人類の進むべき道を示す地でもあります。」
この言葉が、安倍晋三にどう響いたろうか。ルース米大使は、どう受け止めただろうか。
ここで対比されているのは、「威嚇によって国の安全を守り続ける方法」と、「信頼と対話に基づく安全保障」とである。威嚇によって国の安全を確保するとは、武力による抑止論の効果としての平和と安全を確保しようとする考え方である。「相手国は危険でいつ攻撃してくるか分からない」「だから、攻撃には直ちに反撃できるだけの十分な態勢を整えておくことが平和を守る手段である」ことになる。当然に、相手国も同様のことを考える。安心できるためには、相手国を上回る武力を整えるしか手段がない。だから、武力は相互に拡大し続けることになる。ときに、「攻撃こそ最大の防御」とか、「先制的自衛権の行使」という、凄まじい発想に飛躍する。明らかな挑発が、思いがけない事態を生むことになりかねない。
松井市長宣言は、被爆者の心、ヒロシマの心を「信頼と対話に基づく安全保障」という平和憲法の思想としてとらえている。武力行使の威嚇によってではなく、「信頼と対話に基づいて」平和を築き、核廃絶に至る道を切りひらこうというのだ。これこそ、憲法9条の精神ではないか。安倍は、さぞかし耳が痛かったことだろう。
安倍晋三の「式辞」を聞いて、次のくだりに考えさせられた。
「犠牲と言うべくして、あまりに夥(おびただ)しい犠牲でありました。しかし、戦後の日本を築いた先人たちは、広島に斃(たお)れた人々を忘れてはならじと、心に深く刻めばこそ、我々に、平和と、繁栄の、祖国を作り、与えてくれたのです。」
「亡くなった人のお蔭で、戦後の繁栄がある」。この論法は、靖国参拝と同じだ。安倍は、原爆による死者の霊を「我々に、平和と繁栄の祖国を作り、与えてくれた人々の魂」として、「御霊」と呼んだ。しかし、「英霊」という言葉は、靖国に独占されたものとして、民間戦没者の霊は「英霊」にはなれない。原爆による戦没者は単なる「御霊」で、靖国に祀られる軍人の霊だけが特別に英雄・英傑・英邁・英姿の「英」を冠した「すぐれた霊」とされる。言うまでもなく、皇軍の将兵の戦死者だからだ。天皇への忠誠を誉めて死者を「英」霊というのだ。
安倍の脳裏に、霊爾簿に登載される靖国の祭神と、原爆慰霊碑下の奉安箱に納められる原爆死没者名簿登載の戦没者との差別の意識がなかったかを聞いてみたい。
その名簿登載者数は、28万6818人になったと報じられている。合掌。
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『イザベラ・バードの日本旅』
毎日毎日暑い。そしてひどく雨が降る。135年前、イザベラが東北、蝦夷を旅したのは、ちょうど今頃。なぜ彼女は、むしむし暑く、ビシャビシャ雨の降る、泥濘のなかを泥だらけになって旅したのだろう。通訳の伊藤は文句ばかり言って、足を引っ張る。食べるものは米と黒豆と卵と豆腐ぐらい。宿屋についても不潔で、蚤と蚊に攻められ、穴を開けてのぞく人が群がって障子は押し倒される。こんなふうにプライバシーはないけれど、安全については、「私は1200マイルにわたって旅をしたが、まったく安全で心配もなかった。世界中で日本ほど、婦人が危険にも不作法な目にもあわず、まったく安全に旅行できる国はないと信じている」と言っている。
都市のまわりは人力車で、あとは徒歩か馬が移動手段。その馬も、馬勒やはみは付けない小さくて貧弱な雌馬。荷物運搬用で、乗馬には適さない。蹄鉄をつけず、草鞋を履かせるので、すぐに歩けなくなる。道中、何度も振り落とされ、噛みつかれて苦労している。
しかし、街道に張り巡らされた駅逓の制度には感心している。「日本には陸地運送会社がある。本店が東京に、各地の町村に支店がある。旅行者や商品を一定の値段で駄馬や人夫によって運送する仕事をやり、正式に受領証をくれる。農家から馬を借りて、その取引で適度に利益を上げるが、旅行者が難儀をしたり、遅延をしたり、法外な値段を吹っかけられたりすることがなくてすむ。」
理不尽なところのない合理性と安全性がイザベラの不満をはるかに凌駕したのだろう。彼女に対して畏敬の念を覚えて遠巻きにしながら、さりげなく日本人がしめす親切心がイザベラを魅了したのかもしれない。
「ヨーロッパの国々や我がイギリスでも、外国の服装をした女性のひとり旅は、実際の危害を受けるまではゆかなくとも、無礼や侮辱の仕打ちにあったり、お金をゆすり取られるのであるが、ここでは一度も失礼な目にあったこともなければ、真に過当な料金を取られた例もない。群衆に取り囲まれても、失礼なことをされることはない。馬子は、私が雨に濡れたり、びっくり驚くようなことのないように絶えず気を遣い、革帯や結んでいない品物が旅の終わるまで無事であるように、細心の注意を払う。旅が終わると、心づけを欲しがってうろうろしていたり、仕事を放り出して酒を飲んだり、雑談をしたりすることもなく、彼らはただちに馬から荷物を下ろし、駅馬係から伝票をもらって家へ帰るのである。」
彼女を困らせた駄馬に対しても、日本人は「馬に荷物をのせすぎたり、虐待するのを見たことがない。馬は蹴られることも、打たれることもない。荒々しい声でおどされることもない。馬が死ぬと、立派に葬られ、その墓の上には墓石がおかれる。」
イザベラが見て取った、日本人の穏やかさや優しさや細やかさが彼女の興味をかき立て、旅を続けさせたのだろう。風景や自然ではなく、人間が面白かったのだと思う。
「人も馬も道行きつかれ死ににけり旅寝かさなるほどのかそけさ」
「道に死ぬる馬は仏となりにけり。行きとどまらむ旅ならなくに」(釈超空)
道の辻つじに馬頭観音や野仏が祀られる、鄙びた田舎を旅することは、イザベラならでも現代日本人の憧れるところかもしれない。しかし、できることなら、その旅は春か秋にしたいものだ。
(2013年8月6日)