「良いナショナリズム」など存在しない
本日(8月11日)の東京新聞社説が、ナショナリズムを論じている。
標題が「ナショナリズムを超えて」であり、結論が『「ナショナリズムよりヒューマニズム」「海洋資源の共同開発、共同利益」。この二つが中韓両国との関係打開へのキーワードに思えますが、いかがでしょうか。』というものなのだから、穏当で常識的な内容ではある。しかし、『「良いナショナリズム」と「悪いナショナリズム」があります』という一節に合点がいかない。かねてから、中日新聞社の姿勢には敬意をもっていただけに、一言せねばならない。
問題の箇所は、全体の論旨とは無関係な次の文章である。
『ナショナリズムには「良いナショナリズム」と「悪いナショナリズム」があります。オリンピックのような国際試合で自国選手を懸命に応援し、国旗掲揚や「君が代」斉唱で身が引き締まるのは「良いナショナリズム」です。だが相手国への反感から過激デモや破壊活動に走るのは「悪いナショナリズム」です。』
果たしてそうだろうか。こんなにあっさりと「良いナショナリズム」の存在を肯定して良いのだろうか。オリンピックのような国際試合で自国選手を懸命に応援し、国旗掲揚や「君が代」斉唱で身が引き締まるのは、本当に「良いナショナリズム」なのだろうか。
社会主義や共産主義が理念であるのに対して、資本主義は現実である。同じような意味で、インターナショナリズムは理念であるが、ナショナリズムは現実である。良くも悪くも、社会的政治的パワーとして実在する。ときに暴走し、暴発もする。煽動者にとって好都合の火種であり、燃料である。
ナショナリズムの厳密な定義は困難でもあり不要でもある。「国民を単位とする共同体的帰属意識」程度の認識でよい。現実の国民は、階級対立や、経済格差や、政治的思想的諸グループ間の亀裂を抱えている。深刻な地域間紛争もあり、文化的差別もある。各世代や性差の軋轢もある。ナショナリズムは、そのすべてを覆い隠す役割を果たす。典型的には経済格差の下層で呻吟する階層に、擬似的なアイデンティティを付与することによって、国民内部の諸矛盾を糊塗する。
ナショナリズムの対語の一つはインターナショナリズムである。感性によっては、インターナショナリズムは生まれないし育たない。理性的な他国民との交流と、意識的なナショナリズム克服の努力によって初めて、インターナショナリズムの存在が可能となる。相互理解のために、経済的発展や文化交流の進展のために、なによりも平和の構築のために、インターナショナリズムが価値をもつことは自明ではないか。翻って、ナショナリズムにいったいどのような価値があろうか。
もう一つのナショナリズムの対語はインディビジュアリズムである。国民一人ひとりの自立と個人の尊厳の自覚とが、それ自体価値を有することは自明である。ナショナリズムはその価値の対立物でしかない。
ナショナリズムに特有の被覆を剥ぎ落とし、インディビジュアリズムを純化し徹底することが、ナショナリズムを克服してインターナショナリズムを獲得する道程にほかならない。
ナショナリズムは、容易に排外主義となり侵略主義に転化する。他への攻撃を正当化し、攻撃の意欲を鼓舞する役割を果たす。これは、本質的作用と言って過言ではない。歴史的に「侵略のナショナリズム」があり、これに対抗する「抵抗のナショナリズム」もまた存在する。侵略が「悪」であることが自明である以上、悪への抵抗として有効に機能する側のナショナリズムを肯定的に評価するにやぶさかではないが、ナショナリズム自体に価値があるのではなく、ある局面では「善」の機能を発揮しうると見るべきだろう。
しかし、「オリンピックのような国際試合で自国選手を懸命に応援」することに、いったいどのような評価すべき価値があるというのだろうか。現実には多くの国民が自国選手を応援している。それがナショナリズムの作用である。だからといって、「それがよいこと」と評されるべきものでも、奨励されるべきものでもない。むしろ、危険性を孕むものとして警戒されなければならない。
試合をするのはあくまで選手個人でありチームである。自国選手と他国の選手、どちらを応援してもよいし、スポーツなどつまらんことと無視してもよい。「自国選手を懸命に応援する」のが正しくよいこと、などと押しつけてはいけない。マスメディアがナショナリズムを煽ってはならない。選手やチームと自分を同化して、選手が勝てば自分が勝利したような幻想に酔うことができるのが、この種のカラクリ。さらに、チームを通した国家と自分との共同幻想を生み出すことで、扇動的な為政者には格好この上ない仕掛けと映る。
『国旗掲揚や「君が代」斉唱で身が引き締まるのは「良いナショナリズム」』というのには唖然とするしかない。掲載紙が産経ではなく東京新聞であることを、改めて確認せねばならない。ここに、ナショナリズムの危険の本質が表れている。
もっとも、オリンピックでの国旗掲揚や「君が代」斉唱は当然のことであり推奨さるべきこととする考えは、おそらく圧倒的な社会的多数派のものであろう。しかし、多数派に対して少数者がいる。言うまでもなく、歴史認識や政治信条における理由から、また信仰上の理由から、あるいは日本という国家そのものや天皇制への批判から、日の丸・君が代の拒絶者は、少数ではあっても、確実に存在する。私もその一人だ。
閉じられた空間における多数派のナショナリズム発露としての示威の行為は、少数者に対する強力な同調要求圧力になる。「国旗掲揚や「君が代」斉唱に和するのは当然のことではないか」「どうして社会人として当然の態度を取らないのだ」「国際人としての常識にもとづいた行動をすべきだろう」「君の空気を読めない姿勢が全体の和を乱す」と。
問題は、このような社会的同調圧力を容認するのかどうかにある。かつて、「八紘一宇」「一億一心火の玉」とのスローガンが叫ばれた時代には、社会的同調圧力に応じない少数者は、非国民とされ、敵国のスパイとされた。人権とは、思想良心の自由とは、少数者に保障されなくてはならない。社会的多数派には不愉快であっても、国旗掲揚や「君が代」斉唱を強要することは許されない。これは、人権感覚の「キホンのキ」である。
オリンピックをダシにした日の丸・君が代強制許容の論調には我慢をしかねる。国際競技は、純粋に個人対個人、チーム対チームの競技の場とすべきであって、ナショナリズム昂揚の場とすべきではない。
私は、「良いナショナリズム」はないと思う。ナショナリズムが「比較的無害な作用」にとどまる場合や、ときには「侵略のナショナリズムに対峙する、抵抗のナショナリズム」として作用する場合があることは認めても、である。
右翼的立場を標榜するディアは格別、新聞倫理綱領の遵守を方針とする社の新聞が、『国旗掲揚や「君が代」斉唱で身が引き締まる』などと、社会の多数派と国家権力におもねった俗流記事を書くべきではない。このような記事の集積が権力に利用され、日の丸・君が代強制という思想良心の弾圧に手を貸していることこそを自覚すべきである。
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『外国人の見た、明治の子どもの幸せ』
夏休みになって、子どもたちの元気な声が聞こえる。
明治期に来日した外国人には、日本人はよほど子どもを可愛がると思われたようだ。1878(明治10)年、イザベラ・バードは日光で、「これほど自分の子どもを可愛がる人々を見たことがない。子どもを抱いたり背負ったり、歩くときは手を取り、子どもの遊戯をじっと見ていたり、参加したり、いつも新しい玩具をくれてやり、遠足や祭りに連れて行き、子どもがいないといつもつまらなそうである。他人の子どもに対しても、適度に愛情をもって世話をしてやる。父も母も、自分の子に誇りをもっている。見て非常におもしろいのは、早朝、12,3人の男たちが、低い塀の下に集まって腰を下ろしているが、みな自分の腕の中に2歳にもならない子どもを抱いて、かわいがったり、一緒に遊んだり、自分の子どもの体格と知恵をみせびらかしていることである。」と感心している。これは都会だけでなく、田舎の碇ヶ関でも同じだ。
英国の母親は子どもを脅したり、騙したりして服従させるが、日本の親は穏やかで、子どもは親のいうことをよく聞き、菓子を与えても、親の許しを得てからでなければ受け取らない。子どもたちだけで、遊びを工夫して、仲良く遊ぶ。水車を作ったり、たこ揚げをしたり、竹馬をしたり、「いろはがるた」で遊ぶ。晩になると、学課のおさらいをする声が町中に聞こえる。
カブトムシに糸をつけて、荷物を引っ張らせる遊びをしているのをみて、こう言っている。「英国であつたら、われがちに掴みあう子どもたちの間にあって、このような荷物を運んでいる虫の運命がどうなるかよくお分かりでしょう。日本では、たくさんの子どもたちは、じっと動かず興味深げに虫の働きを見ている。『触らないでくれ』などと懇願する必要もない。」
イザベラとほぼ同じ時期に来日した、アメリカ人生物学者の「御雇外国人」モースも同じことを言っている。「外国人が異口同音に指摘することがある。それは日本が子どもたちの天国だということだ。・・赤ん坊のときは始終、母親か誰かの背中に乗っている。罰もなく、咎めもなく、叱られることもなく、ガミガミ小言をいわれることもない。日本の子どもが受ける寵愛と特典を考えると、確かに彼らは甘やかされて駄目になってしまいそうに思えるが、とんでもない。日本の子どもほど両親を敬愛し、老人を尊敬するものは世界中どこを探してもいない。」「子どもたちのニコニコ顔から察すると、朝から晩まで幸福であるらしい。彼らは朝早く学校に行くか、家にいて親を助けて家内の仕事をするか、父親とともに何らかの商売をしたり、店番をしたりする。彼らは満足げに幸せそうに働く。私はすねている子どもや体罰を見たことがない。」
さて、今の世。夏休みに元気な声を出している子どもたちは、150年前の子とくらべて幸せだろうか。塾や習い事に追い立てられてはいないか。学校では、いじめや体罰が横行してはいないだろうか。
また、子どもの幸せは実は大人の幸せでもある。私たちの社会は、150年前にくらべてどれだけ幸せになっているだろうか。
(2013年8月11日)